運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
壺中天・瓢箪仙人 1
壺中天・瓢箪仙人 2
壺中天・瓢箪仙人 3
壺中天・瓢箪仙人 4
壺中天・瓢箪仙人 5
壺中天・瓢箪仙人 6
壺中天・瓢箪仙人 7
壺中天・瓢箪仙人 8
壺中天・瓢箪仙人 9
壺中天・瓢箪仙人 10
壺中天・瓢箪仙人 11
壺中天・瓢箪仙人 12
壺中天・瓢箪仙人 13
壺中天・瓢箪仙人 14
壺中天・瓢箪仙人 15
壺中天・瓢箪仙人 16
壺中天・瓢箪仙人 17
壺中天・瓢箪仙人 18
壺中天・瓢箪仙人 19
壺中天・瓢箪仙人 20
壺中天・瓢箪仙人 21
壺中天・瓢箪仙人 22
壺中天・瓢箪仙人 23
壺中天・瓢箪仙人 24
壺中天・瓢箪仙人 25
壺中天・瓢箪仙人 26
壺中天・瓢箪仙人 27
壺中天・瓢箪仙人 28
壺中天・瓢箪仙人 29
壺中天・瓢箪仙人 30
壺中天・瓢箪仙人 31
壺中天・瓢箪仙人 32
壺中天・瓢箪仙人 33
壺中天・瓢箪仙人 34
壺中天・瓢箪仙人 35
壺中天・瓢箪仙人 36
壺中天・瓢箪仙人 37
壺中天・瓢箪仙人 38
壺中天・瓢箪仙人 39
壺中天・瓢箪仙人 40
壺中天・瓢箪仙人 41
壺中天・瓢箪仙人 42
壺中天・瓢箪仙人 43
壺中天・瓢箪仙人 44
壺中天・瓢箪仙人 45
壺中天・瓢箪仙人 46
壺中天・瓢箪仙人 47
壺中天・瓢箪仙人 48
壺中天・瓢箪仙人 49
壺中天・瓢箪仙人 50
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 壺中天・瓢箪仙人 37
壺中天・瓢箪仙人 37

望郷……。
 それはいやがおうでも、あの頃の幼き日々の懐かしかった時代に引き戻そうとするのである。
 その想い出の、幾歳月の中に人間の深い心が刻み込まれ、都会の雑踏
(ざっとう)の中にも、時として故郷の屋根の形に似た家々が目近に重なり、見えることがあるのである。
 そして心はそれと重なって、あの幼き日々の古巣に帰って行くのである。


●大事論

 心の故郷・平戸……。そして心の中には「われは海の子」の自負がある。
 そういう故郷へ舞い戻って来た。その自負の裏付けは、子供の頃の平戸で育った記憶がそうさせるのであろう。あるいはそれが、脳幹に体験記憶として蓄積されているのかも知れない思うのである。
 その記憶が、また私のとっては、一種の臨死体験であった。
 死ぬかも知れない臨死体験を通じて、九死に一生を得た体験をしているからである。
 そして自負の根本には、泳ぎを覚えた自信が、「われは海の子」の誇りを構築してたのだろう。

 「われは海の子」の誇りと自負とを共有する友が居た。
 朝早くから夜遅くまで、海で真っ黒になるまで二人で“飛ばし込み
(飛び込み)”を遣っていた事があった。
 湾から泳ぎ出て、沖に停泊する船の鎖をよじ登り、船の舳先に立って、そこから「高飛込」
【註】飛込競技で競技用としては、高さが5メートル、7.5メートル、10メートルとあり、固定した飛込台から飛び込む競技である)のようなことを遣るのである。一種の度胸試しである。
 私より一級上には長崎市に従兄が居た。夏休みの間、この従兄は長崎市から平戸に遣って来る。そして二人で朝から晩まで泳ぎに耽ったことを思い出す。母方の曽川姓の従兄である。
 一つ上の年長の少年は、飛び込みが実に上手かった。海の中に吸い込まれるように落下して行くのである。
 私もこの少年に倣
(なら)って、舳先から何度も飛び込んだことがある。

 しかし、沖に停泊しているからと言って、無人船ではない。上階の操舵室には必ず誰かが、見張りとして居る。その誰かに直ぐに見つかってしまうのである。
 「こら!坊主ども、そこで何しとるか!」と、操舵手らしきオヤジから怒鳴られるのである。
 その度に、「やべえ」と漏らしながら、海に飛び込み、別の船を探すのである。二人で、一時期そんなことを毎日のようにしていた。妙に仲良くなり、気心が知れるようになった。
 私はこの少年を「兄ちゃん」と呼んでいた。
 「おまえ、気に入ったぞ」と、彼が言うと、「おれも兄ちゃんが気に入った」と応えるのであった。すっかり気心が知れてしまったのである。
 そして「おれたちは海の子だぜ、われは海の子だ」と言うのであった。
 湾から、沖の船に向かって平泳ぎで泳ぐ際、兄ちゃんは決まって『われは海の子』を歌うのであった。
 私も兄ちゃんの後について、歌ったことを覚えている。
 そして、高校になった頃、彼の兄弟の結婚式に呼ばれたことがあった。高校一年のときだったと憶
(おも)う。
 長崎市には、もう以前から何度も訪れたことがあった。
 初めて長崎に訪れたのは、私が北九州市八幡に戻ってからの小学校四年生のときだった。父とともに長崎の親戚を訪ねた後、原爆記念館に連れて行かれたときが最初である。
 その時に、世にも恐ろしき、原爆犠牲者の蝋人形のレプリカを見たことがあった。

 私はそれを見て、気も狂わんばかりに震え上がってしまった。全身に恐ろしいほどの、身の毛がよだつほどの戦慄
(せんりつ)が疾ったのである。
 何しろ、ケロイドの悲惨さは、筆舌に尽くし難いものがあったからである。四谷怪談の、お岩さんどころではなかった。私には恐怖だった。怕
(こわ)いを通り越していた。口から心臓が飛び出しそうなくらい怕かった。
 それに親戚にも原爆犠牲者が居た。原爆で死んだ従姉の話を聞いたことがある。
 その従姉の話を、伯母はよくするのであった。
 伯母の話の断片に「サヨちゃんは……、最期は酷かったとよ……」と言うのが、よく出てきた。
 この当時のサヨちゃんは、ミッションスクール系の学校に通う女学生だったのである。そしてその話の断片に「あの日……」と言うのが出てきて、このサヨと言う従姉が、どういう死に方をしたか、話して聴かせてくれることがあった。
 あの日というのは、8月9日午前11時2分に落されたプルトニウム爆弾をいう。
 「顔の綺麗な可愛い娘
(こ)だったけれどね、そりゃあ、最期は惨たらしかったとばい……」と惨事を切り出して、その従姉の最期を聴かせてくれるのである。
 私の親族に、長崎の原爆で死んだ人が何人か居るのである。平戸で遊んだときの少年の姉でもあったのである。私は戦後生まれだから、この従姉のことは知らない。

 従姉が随分と苦しい悲惨な死に方をしたことは分る。伯母にそのように聴かされたからである。可哀想だったと言う。原爆が落されたあの日、上は白のセーラー服の上着に、下はモンペという姿で学校からの帰路にあったと言う。そこで強烈な太陽のような光に襲われたと言う。しかし、従姉は直ぐに死んだ訳ではなかった。一瞬にして、衣服が焼け落ち、また一瞬にして素っ裸になったと言うのである。髪の毛はチリチリに灼
(や)け、そして一瞬にして今まで着ていた衣服が消えたと言う。
 女として、これほどの驚きと屈辱はあるまい。大和撫子
(やまと‐なでしこ)として、日本の女性として、これほどの恥辱はあるまい。原爆は実に卑劣に武器である。
 伯母の話では、従姉は真っ裸だったので、焼け爛
(ただ)れたトタンの下に逃げ込み、そこでしばらく身を隠していたと言う。それから三日ほどして発見されたというが、胸を押さえ、身を屈めるようにして俯せになった姿だったという。あるいは日本女性として純潔を守ったのかも知れない。痛々しくて見る者の涙を誘ったと言う。
 私の血族には、こうした原爆の犠牲者が何人も居たのである。

 私が不可解に思うのは、国政政治の中で「広島・長崎の原爆は正しかった」という大事論を優先した見解を持つ人が多いようだ。
 果たして大事論を盾にした原爆投下は正しかったのか。
 大事を行うために小事を犠牲にし、大の虫を扶
(たす)けて小の虫を葬ったという国際政治上の大事論は正しいのだろうか。
 大事を論じ、小事のために心を弄したくないという政治家がいれば、その人は間違いなく大事についても心を労しない人である。真に大事を重んじる人であれば、自ら好んで小事を疎かにしないからである。むしろ小事を憂い、此処に心を注ぐ筈である。小事を憂えずに、何ゆえ大事が憂えるのだ。
 民主主義における多数の意見だから、それは必ずしもよい意見とは限らない。本来ならばよい意見だから多数が支持するのである。だが、今日に展開されている民主主義デモクラシーは果たしてよい意見が反映されているのか。甚だ疑問である。
 更に大事論を論
(あげつら)えば、戦争に勝った者が正しく、負けた者は正しくないと言う理屈は天地が逆転しても通らないことである。

 毎年、8月6日の広島原爆記念館や、また8月9日の長崎原爆記念館には「ノーモア広島」や「ノーモア長崎」を合い言葉に原爆犠牲者の慰霊祭が開催される。そして、そこで聴こえて来る言葉は「私たちは、あの過去の悲劇を二度と繰り返しません」という反省の声である。
 慰霊碑にも「安らかに眠って下さい、過ちを犯しませんから」と刻まれている。
 悲劇を繰り返さないと言うが、此処で間違ってはならないのは、加害者は広島長崎に原爆を投下したアメリカであり、原爆投下命令を出したのはアメリカ合衆国第33代大統領トルーマンなのである。明らかに大量殺戮を意図してのことであった。
 日本人は反省を求められて反省するのはいい。だが言われるままに何もかも悪かったと思い込むのは、これほどの無反省はないのである。
 反省は、それ自体に自主性があることが大事であり、その限りにおいて反省は成立するのである。その意味で、日本人はまず反省する仕方から反省すべきではないのか。

 私は平戸に向かい途中、長崎市に寄った。
 列車で長崎県に入ると、直ぐに一級上の従兄と、原爆の犠牲になって死んだ悲惨な最期を迎えた顔を見たことにない従姉を想うのである。眼と手と髪を灼かれて、さぞ苦しかったであろう。気の毒に思うのである。
 従姉は死んだとき16歳であったと言うから、いつまで経っても16歳なのである。
 死んだ従姉は国際政治で言う大事論の生贄にされたことは、紛れもない事実であった。生贄にすることを小事の一言で葬っていいのであろうか。

 長崎に寄り、親戚の家を訪問して、次に佐世保に向かう。佐世保から松浦鉄道に乗って平戸口まで行くのである。平戸口駅前の日通には以前、母方の伯父が勤めていたが、もう二十年以上も前のことである。
 大学の頃、度々平戸に遊びに来ていたが、平戸口で松浦線から列車を降りると、よく叔父が「久しぶりやなかか」と声を掛けてくれたことを思い出す。博多方面から来る急行『九十九島号』はいつも到着時間が決まっていたのである。午前は11時頃で午後は佐世保から博多に向けての急行が午後5時頃と決まっていたからである。
 しかし私が四十代の頃、もう平戸はすっかり様変わりし、小学校低学年時代を過ごした平戸は殆ど当時の面影を留めていなかった。フェリーで渡る田平渡しもなくなり、代わって平戸大橋が掛かっていた。今はバスで一気に渡り終えてしまうのである。桟橋での古きよき時代の情緒が失われていた。

 平戸に着くと私は真っ先に向かうところがあった。祖母は入っている老人ホームである。「つくも苑」という。平戸桟橋からタクシーで15分くらいのところにある。
 当時、祖母は八十半ばだったと記憶している。九十四歳まで生きた長寿の人で、ボケもせず、矍鑠
(かくしゃく)とした人だった。私の叔父や父である子は総て死に絶えたが、この血筋で生きているの男は孫の私一人であった。
 平家以来、壇ノ浦での落ち武者の血筋は私一人であった。
 男は総て死に絶えたのである。
 これを想う度に、江戸期の古い伝説を思い出すのである。

 祖母は私が復
(かえ)り際、「小遣いあるか、これ持ってお行き」と言って、必ず千円札を握らせるのである。私を小学生扱いするのが当時の常であった。その約十年後の五十歳を過ぎた頃、再び祖母を訪ねたことがあるが、このときも千円札を握らせてくれた。
 そして祖母に向かって「だいたい婆ちゃんは、おれ幾つと思っているのや」と苦笑したことがあった。
 ボケては居なかったが、私の記憶は小学校低学年のままだったのであろう。
 このとき平戸で一泊し、更に有田経由で親戚の窯元を訪問し、次の嬉野の姉のところに寄って、親戚を一巡して習志野へ還ったことを憶えている。平成3年の夏も終盤だった頃であったろうか。




●悪評、千里を疾る

 世に「晴耕雨読
(せいこう‐うどく)」という言葉がある。
 晴れた日は外に出て畑を耕し、雨の日は家にいて書を読むことをいう。田園に閑居する自適の生活を、このようにいうが、これは現代人にも大事である。あくせくすることを余儀なくされる現代の多忙は、やがて人間性を崩壊させる懸念があるからである。
 現代人にとって、晴れた日の畑を耕すことは「自分の生活の糧
(かて)を得るための仕事」であり、雨の日に本を読むことは、内面を充実させる教養の要素となる。
 したがって、武道家や格闘家も、ただ強ければいいと言うわけにはいかない。強さを維持するためには、維持するだけの経済力もいる。

 この原理を、私は進龍一の膨大な蔵書の中から学んだ。その原則をもである。
 この世には確たる原理原則がある。これを覆すことは絶対に出来ない。いつの世もも同じである。
 世の中が如何に様変わりしようと、原理原則が覆せないのである。それを人間は謙虚に学ばねばならないのである。無視して通れない関門であった。
 そして学びに中に「奇手」が存在するのでは無いかと思うのである。
 奇手とは「妙手」と置き換えてもいい。妙手を用いるには常に鍛錬をしておかねばならない。切羽詰まったときの「切り札」である。その場合、ただ才覚だけでは滅多に捻り出せるものでないからだ。
 不断の修練が必要で、またその習慣性が要ろう。言わば、一種の本態が期せずしてそれを生み出すからである。本態風ともいい、根本・根幹となる妙手である。これを学びの中から得る。

 そのためには“まず、他から学び、それを真似る”ことである。
 こうした人生の教訓は、多額の金を払っても買うことは出来ないのである。
 また、どんな武道書にも、どんなスポーツ書にも、人生訓は書いていない。ただの技術解説で終わっているだけである。それ以外に何もない。
 しかし、多くの本が“まず学べ”と書いているのだ。学ぶことにより、人間は進歩する構造になっているのである。強さだけを誇って、学ぶことを知らなければ、所詮、“猿山のお山の大将”にしか過ぎない。こうした具は避けるべきだろう。また、専門バカにも陥るべきでないだろう。専門バカでは、貴重な人生訓が学べないからだ。

 天性の性分として、「三十六計逃げるに如
(しか)ず」は知っていた。早くから知っていたのである。本能的に知っていたのかも知れない。これこそ、兵法上の最上策である。悪運の強さは、こう言うところにも転がっているのである。逃げることを知っていて咄嗟に逃げるのも妙手の類である。愚図愚図(ぐずぐず)しては討ち取られてしまう。
 逃げるべき時には逃げる。行動や決断にまごついてはならない。
 まず逃げて身の安全を図ることが出来てこそ、兵法は成り立つ。困った時、どうにもならなくなった時、追いつめられた時、下手に悪戦苦闘をしてはならない。逃げることだ。恥も外聞もなく逃げることだ。
 しかし、この「逃げること」が理解できない現代人は多い。

 窮地に陥れば、「まず逃げること」なのだ。
 老子はそう教える。これこそ貴重な教訓であった。
 この教訓を再認識し、これまでよりいっそう深いものにしたのだった。
 悪運が強ければ、何らかの策が考え付くからだ。決してギブアップはしないことだ。ネバー・ギブアップの精神で戦うことだ。そうすれが、もしかすると生き残れるかも知れない。だから逃げるのだ。恥も外聞もなく逃げるのだ。
 そして愚は「潔く」とは「玉砕」であろう。
 だが「滅びの美学」に酔っては殆
(あや)うい。未来を誤る。
 その心理に陥れば、もう敗者復活戦には参加できないからである。窮して窮して窮して、ドン底に落ちて、最早これまでという境地に至った時に、「何かが動く」ということを知ったのである。それは諦めの悪い、また往生際の悪い、そういう醜態ではない。

 逃げることで、急に物事の真相や本質が分るようになるのである。時間が稼げ、その足踏みの中に何かを思い立つ。それは、窮して窮して窮してでなければ分らない。ゆえに「三十六計逃げるに如かず」を決め込む。実に妙手である。
 角度を変えて、再び見つめ直すことができるからだ。
 これには行動力がいる。アクションがいる。恥も外聞もなくと言うアクションだ。
 だが、根本は逃げるべき時には逃げて身の安全をはかることが、兵法上の最上策だがらだ。
 転じて、困った時には逃げるのが得策である。そこで城を枕に討ち死にすることはない。
 だから、私は借金で身動き打できなくなると、もう、それ以上無駄な動きはせず、逃げたのだ。
 現代の世では、逃げおおせれば、死なずに済む。命までは取られない。借金如きで命まで取られてはなるものかと思う。
 生きていれば、やがて無い袖も触れるようになる。

 まずは逃げて、その後の善後策を考えることだ。急場の策をひねり出すことだ。
 そのうち、好転するなどと安易に考えないことだ。世の中の敗北者の多くは、“暫く我慢していれば、そのうち事態は好転する”という考えに囚われて、身動きならなくなるのである。希望的観測に縋
(す)がってはならない。これに縋ると腰が重くなる。重い腰を動かせないから、最後は葬られるのである。

 恥も外聞もなく、これが出来なければ、本当の実戦護身術を学んだことにはならない。最低の、ぎりぎりの線から立ち上がらねばならないからである。それは紙一重だ。それだけに汚名を被る覚悟もいる。

 一旦被せられた汚名は生涯付き纏う。
 それをどう克服して行くかが、その人に問われるところである。
 人が人を評論すると言う行為は、つまり評論する側と評論される側の格闘であり、双方の人格や見識などの物の見方である「識見」がそのまま判断力に直結されている。
 その識見が人物評価の「貸借対照表」になっているのである。
 則
(すなわ)ち、他人を評価すると言うことは、自分自身を評価することなのである。

 評価を下す側が対象人物に対し、自分の好悪の情を先ず殺し、私情を抜きにして、客観的なる評価の材料を充分に蒐集し、これを綿密に分析して比較秤量
(ひかく‐ひょうりょう)としながら、評価対象者の実像を言論や文章で伝達しようとしても、所詮(しょせん)はその評者の人生経験の深さ見識の物事の本質を見抜く能力が劣っていれば、評価は歪(いびつ)にねじれ、偏ったものになってしまうのである。

 つまり評価対象者の実像は歪に変形されたまま、それが実
(まこと)しやかに誤情報として巷(ちまた)に流布されてしまうのである。真物(ほんもの)の人間像とは似ても似つかない、そういうものが一人歩きしてしまうのである。
 これは評価者を裏側から検
(み)れば、ある種の「人物論」が出来上がったとしても、その刹那から、それを評した人物の人間としての真の尺度が露呈(ろてい)してしまうことになるのである。

 だが、世の多くの人物評価を評論した多くは、多くの場合、自らの私情や利害が絡んでいて、正しく評価できないばかりか、自らを高きに置き、まるで子供の喧嘩、あるいは猿山の“お山の大将”程度のお粗末の評論で終わっている場合が少なくない。
 まさに“因循姑息”と思われるような、こだわりをもってその場凌
(しの)ぎの取り繕いをして誹謗中傷で終わっていることが少なくない。
 現代の世は、小物が大物のように振る舞い、こせこせとし、そのこせこせとしたところで、他人を見下して「月旦」しているというのが実情であり、その評価の尺度は許容範囲が卑小である。まさに品定めが、何ともお粗末である。この世界での底が見えたと言うべきであろう。



●裡側の概念

 習志野に来て約一年となった。昨年の九月に来て、季節はひと回りしていた。秋が訪れていた。月日の経つのは早いものである。
 この地では学ぶことは実に多かった。これまで安易に見過ごして来た、人の世の裏側を見た思いであった。この裏側は、一旦ドン底まで落ちなければその構造は分からないものである。
 人の世の構造を今までは表側や表面だけで見ていた。ところが、人間の最下位の底辺まで落ち、ドン底から眺めれば、その裏側がありありと分るのである。

 人生は実学こそ、最も有効な学問であった。教科書通りの表の知識のみでは裏側まで見えない。裏側を見るには、ドン底に落ちて下から眺めれば、その実態は一目瞭然となる。
 また、裏側を下から眺めるには、私の場合、老子の学が大いに役に立った。これまで知らずに通り過ぎた学であったからだ。
 老子を若い頃、挑戦しようと思って読んでみたが、殆ど意味不明だった。論旨が全く理解できない。乏しい知識では解釈出来ないのである。字面を追っても、難解であった。

 ところが、ドン底に落ち、人生では破綻者として落ちた犬に成り下がり、野良犬同然の生活をしてみて、人間社会を構成する人間と言うものが徐々に見えて来た。人間学と言う人間として学ばねばならない最低限度が見えて来たのである。これまで見逃した最低限度に、人生の分岐点で見せ付けられ、ある意味では幸運なことであった。

 人間は人生に成功することでない。何も人生に成功し、人に羨
(うらや)まれるような幸せを手に入れることでない。大事なことは、成功し、かつ幸福を手に入れることでなく、成功の道、あるいは幸福の道を歩くことであった。
 必ずしも成功することでなく、成功に続く道を歩くことだった。
 また幸福でも幸福を確実に手にすることでなく、幸福に繋がる道を歩くことであった。それを達成するかしないかは運が関与している。運が関与する以上、それから先は人間の関与することでない。運であり、天である。人間に知った事ではない。また人間の責任でもない。
 ただ人間はその軌道の上を歩けばいいのである。道がなければ、自力で、自前で切り拓けばいいのである。人間のか競られる努力はそこまでであり、その後のことは天が決める。

 ある小説に、一組の相思相愛の男女の物語りが出て来る。この男女は幸福を夢見て結婚した。ところが彼らは甚だ貧乏だった。そのうえに病気まで引き摺っての惨めな結婚生活であった。痛ましい不幸を抱えていた。
 しかし彼らはそれでもこう言った。
 「私たちは幸福を夢見て結婚し、幸福には達することが出来なかったが、幸福への道を歩けたことは幸福だった」と。

 問題は幸福に到達出来て目的を果たしたかどうかではない。その定めた目標に対してそれに狙い定めて歩いたことが大事なのである。幸福に達しかそうでないかは、運命が決めることである。天が決めることである。人間側にない。だが幸福に向かって歩いたと言う行為こそが貴いのである。それに向かって努力したことに価値があるのである。則ち、その価値観で判断すれば、貧しくとも目標は幸福であったから、それ自体で幸福なのである。その行為こそが貴かった。
 人間の幸福とは己の外にあるのでなく、己の裡
(うち)にあるのである。

 ところが多くの人は、幸福を己の外に求めて奔走する。始終幸福を己の外に求めている。外ににあるものを探すのではなく、外にそれを作り出すことである。内から外に向かって作り出す努力をすればいい。それだけで、もう幸福のキップを手に入れているのである。その努力する行為の中に幸福はあったのである。

 老子を知らなければ、私は未
(いま)だに幸福を外の世界に追い続けて迷っていたであろう。
 老子や荘子の世界は、人生の折り返し点を過ぎた頃か、それより少し前で知っていれば、自身の身の処し方も変わって来るのである。
 しかし当時は残念なことに、折り返し点に近付きながらもまだ「前進駆け足の歩調」を止めてはいなかったのである。そのために折り返し点で転んだ。挙げ句の果てに夜逃げである。

 また『論語』に関しては、若い頃から興味を抱いていたから少しばかりは研究していたが、単に字面だけを追ったその程度のレベルだった。それに関わった人物像は研究したことがなかった。『論語』を理解する上では問答に登場する各篇ごとの人物を研究していなければ論語の全体像は掴めないのである。字面だけでは『論語』で論じられる全体的な有機的結合が見出せないのである。
 ただ、孔子門下に原憲なる人物が居たことは知っていた。
 特に、この人物に少なからず惹かれたことはあった。興味を抱いたことは確かである。
 だが、清貧と言うだけを知っているだけで、その人物像の心情まで察したことがなかった。
 更にその後、原憲は孔門を離れ、儒学者として第一線を退く道を選び、なぜ魏に隠棲したか、その動機もよく分らなかった。恐ろしいくらいの貧乏暮らしをしているのである。それはまさに極貧だった。その程度のレベルでしか知らなかった。

 特に不思議に思ったのは原憲の生き態
(ざま)である。
 原憲は孔子門下では「孔門七十子」にランクされている言わば高弟である。
 孔門は三千人と言われていた。その七十子に数えられる人物である。孔門に居残っていればかなりの羽振りで、随分と幅も効かせていたことであろう。
 ところがそれを打ち捨てて、孔門を離れた。儒学者としても第一線から退いた。そして隠棲してしまったのである。
 これまで、この意味が分からなかった。長らく私の謎であった。決して儒学から離れたのではあるまいが、何ゆえ孔門を去ったか、その真意が分らなかった。居残っていれば、相当な羽振りであったであろう。

 人は、一旦か邂逅
(かいこう)を得て、その門戸を叩くものである。門に入門して、道を学ぶものである。
 ところが学ぶ行為も永遠でない。いつかは去る時が来る。習・破・離の時を経て、必ず離れる時期が遣って来る。
 門を去る者は門に入る人間より多いのである。門に残る人間は僅かであり、多くは去って行く。去った先で新たな師匠を見付けるか、あるいは独自の理論を打ち立てて世に打って出るか、または去ったまま過去を総て抹殺してしまうかの、その何れであろう。
 だが原憲はこの何れにも符合しない。
 門を離れた後、そこで展開していたのは単に隠棲的な生き方だけでなく、私の眼からすれば仙人のように映ったのである。
 なぜ隠棲したのか。暫
(しばら)くそれが解らなかった。

 しかし、習志野に来てその意味が理解出来た。なぜ仙人然なる生き方を選んだのか、それが見えて来たのである。
 おそらく、原憲は人生には青年期のような上り坂人生があると同時に、壮年期以降の終盤には下り坂人生もあることを発見したのかも知れない。ここに孔門を離れた大きな理由があったと推測するのである。
 進龍一の蔵書を読み漁っていて、奇
(く)しくも『老子』に行き当たったのである。
 もし、これに出遭わなかったら、私の折り返し点以降の後半の人生はなかったかも知れない。読書が私を救ったのである。
 それはまた、原憲の心情までもが掴めたことであった。
 だが、どの本を探しても、原憲が老子的であったのは何処にも出ていない。一行も述べられていた。
 私は私自身で、これを推測し自覚しただけである。老子を読むと、それが分かるような気がする。また、原憲が孔門から離れて行った心情も察することが出来るのである。

 原憲の極貧的な貧しさは、日本に伝わって有名である。
 その極貧振りは『平家物語』などその他にも原憲の極貧振りは紹介され、極貧でありながら清貧にまで引用されている。『平家物語』は栄枯盛衰が述べられている。人の世の果敢なさを訴えている。一時期、権勢を揮い、奢
(おご)る者も永遠でない。やがて潰えるときが来る。
 栄枯盛衰は世の習いである。
 かつて孔子は原憲が入門した直後、その人柄を見抜いて家宰を遣らせた。日本でいえば家老である。
 この家老職を、原憲に任せていたのである。そして原憲は孔子の思い遣りに見事答えた。

 子貢が孔門に入門したとき、原憲は孔家の家宰であり、孔子は彼の性格を高く評価していた。そして孔子が原憲を家宰にしたのは、彼が余りにも貧しかったからである。孔子は門弟の家柄や身分などを問わず、勉学の意欲さえあれば入門を赦していた。金銭云々にこだわらなかった。
 しかし原憲は恐ろしいくらい貧しかったのである。その一方で家宰を任せるだけの才があった。
 ゆえに孔門寮の家宰として、原憲への俸禄
(ほうろく)は「粟(ぞく)九百」であったという。
 粟九百は月に「米九百斗」といわれる。
 だが原憲は、余りにも過分な俸禄に驚き、家宰職を辞退しようとした。
 一方孔子は、そういう原憲の態度を愛した。この控えめな彼の無欲を讃えたのである。

 辞退しようとする原憲に「気にすることは無い。もし粟
九百で家族を養って、それでも余るようだったら近所の困っている人に施せばいい」といい、これでようやく原憲は家宰職を引き受け、粟九百を収めた。
 これは原憲の脳裡に「遜
(へりくだ)り過ぎる無礼」という礼に適(かな)わぬということを教わっていて、頑(かたくな)に収めない狭量は、また礼ではないと諭されていたからである。
 それにしても原憲の極貧ぶりは、わが国に伝わるほど有名である。
 富豪出身の子貢が入門したとき、孔子は原憲に子貢を預けた。この生まれの違う同士こそ、人生のパートナーとしては適役と検
(み)たのかも知れない。極貧と富豪の組合せである。

 子貢は先輩の原憲に「しばらく先輩のお手伝いをさせて下さい」と申し出た。
 原憲は先輩面して少しも威張ることなく、「大いに助かります。こちらこそ宜しくお願い致します」と頭を下げた。
 子貢は内心こう思う。
 「孔先生に信任されている家宰ともなれば、こうも頭が低く、これほどまでに辞がいくいものか」と感動したと言う。少しも威張るところがなかったからだ。
 そして原憲は、「この家は質素を家風としておりますから、あなたもそのようにしてください」と付け加えた。
 子貢は先輩・原憲の最初の出遭いの縁を大事にした。
 孔子死後、原憲は孔門を離れて隠棲
(いんせい)するが、この最初の邂逅(かいこう)をいつまでも忘れなかったのであろう。子貢は後に衛の相として仕えていた。そして原憲の隠棲を耳にする。
 このときに旧情を覚え、懐かしく思ったのだろう。遂に原憲の草庵を訪ねることにした。
 ところが、原憲の極貧ぶりを視て驚くのである。その貧しい態
(さま)は恐ろしいほどであった。極貧と言ってよかった。

 「いやしくも孔子の高弟たりし者が、何と言う態
(ざま)だ」と余りにも原憲の極貧ぶりを嘆くのである。
 ところが、原憲は極貧にあってその態度を崩さない。むしろ毅然としていたのである。
 原憲は、孔子の在
(あ)りし日の毅然とした態度で「恥とは、邦に道あれば穀す。邦に道無きに穀すは恥なり」を思い出し、「見せ掛けの行動で、尊大なる態度で人に学を教授するのか。そういうことは到底、私には出来ない」と指弾するように子貢に批判を浴びせた。
 原憲の凛
(りん)としたところこそ、人間の「格」であろう。そこに人格があろう。毅然こそ、人の格である。
 このように痛烈に指弾されて、子貢は自分の態度を大いに恥じ入り、生涯、己のこの発言を悔やんだと言われる。これも「格」だろう。
 「格」を所有する者と、そうでない者との違いは果たして何処にあるのだろう。その人の生まれだろうか、あるいは「道」を知ることの格差であろうか。
 私は、原憲の貧しくともそれを恥じず、凛したところが好きである。

 「孔門十哲」に数えられた子貢は、原憲が門を離れ、一人隠遁生活を送っていると言うことを聞きつけ、彼に会いたいと思った。そして原憲の草庵を訪ねる運びとなった。
 子貢は豪華な四頭立ての馬車で乗り付けた。このとき彼は衛の相に出世していた。
 原憲の草庵は田舎道の果てにあった。進めば進むほど道幅は狭くなる。もう四頭立ての馬車では通れなくなり、子貢はそこから先歩くことになった。子貢が歩いた先に、粗末なあばら屋があった。
 その前には、原憲は子貢を迎えた。

 その様は、藜
(あかざ)の杖を突き、着古した粗末な衣冠に、破れた履(くつ)からは踵(かかと)が食(は)み出した有様であったという。
 だが、原憲は自らの姿を毛ほども恥じるようすはなく、毅然として胸を張り、昔ながらの謹直な態度で、出迎えの礼を返した。
 子貢は、しかし原憲の姿を見て、思わず恥ずかしくなった。内心は、いやしくも孔子の高弟でありながら、仮に世は避けて隠遁したとは云え、その姿は何だ!……と一喝するつもりだった。
 ところが、原憲は毅然としていた。

 その原憲に対して子貢はこう言う。
 「あなたは何と病んで
(苦しんで)おられるのか」と嘆息して、妙なことを訊いた。この嘆息に、子貢の痛烈な皮肉と責めがあったことは言うまでもない。
 つまり「病んでおられるのか」とは、経済的に不自由を強いられ、生活苦で喘
(あえ)いでいるのかと同義である。
 子貢は原憲にそう訊いている。
 「あなたは病んでいるのか」と訊いたのである。仮に世は避けているとはいえ、こんな態
(ざま)でいいのかと訊いたのである。それは指弾に等しかった。責めたのである。
 それを聴いて原憲は首を振った。依然として凛とした態度を崩さない。
 そして、「財産が無い者を貧しいと言い、道を学びながらそれを行えないことを病む
(苦しむ)という。私は確かに貧しくはあるが、だが、断じて病んでなどいない」と毅然として言い放った。確かに貧しいが、それを苦になどは微塵も思っていないと応えたのである。

 更に言及して「世間の目を気にして行動し、周囲に諂
(へつら)う者を友とし、他人に自分が学があること誇り、ただそのためにあなたは学問をして来たのか。教えることで人から謝礼を取り、そのために人に学問を教え、仁義の心を学問などと偽って、結局、見栄を張って、馬車を立派に飾り立て、見せ掛けの行動で、尊大なる態度で人に学を教授するのか。そういうことは到底、私には出来ない」と、一見指弾するように遣り返し、喝破(かっぱ)した。
 衛の相になった子貢を痛烈に批判したのである。

 原憲の凛としたところこそ、人間の「格」であろう。そこに人としての高い人格があろう。
 だが、原憲の言は子貢を侮辱したにも等しかった。
 これを聴いて“並みの人間”なら「なにを!」となる筈である。
 しかし、このように逆に痛烈に指弾されて、子貢は自分の態度を大いに恥じ入り、生涯、己のこの発言を悔やんだと言われる。
 これも恥に気付いたのも高い人格であろう。子貢は恥を知っていたからである。

 原憲は、孔子の在
(あ)りし日の毅然とした態度で問うた「恥とは何か」を思い出したに違いない。
 子曰
(しのたまわ)く「恥とは、邦に道あれば穀す。邦に道無きに穀すは恥なり」であろう。
 また原憲にこう言わしめたのは、彼が中途半端な貧乏人ではなかったからだ。根っからの極貧であり、自分では極貧とすら感じても居ないし、貧乏すら気にも止めていない。確かに中途半端な貧乏であれば、もしかすると原憲は音を挙げていたかも知れない。
 ところが極貧である。半端なものでない。
 もう貧乏を恥じる次元でもなく、その域は中途半端な赤貧を通り越して「清貧」の域にある。気高き域に到達している。何を恥じることがあろう。

 ボロを纏っていても構わないし、履
(くつ)が破れ、頭上の冠が貧弱でも構わないのである。もうそんなことは一切関係ないのである。此処まで肚(はら)の据わった極貧の境地に至れば、却(かえ)って気が楽で、まさに悠々自適を楽しんでいるという風雅の趣(おもむき)すらある。
 また、原憲は「困窮が人間を正しく考えさせる」という、一風、風変わりな金や物に縛られない真理を発見していたのかも知れない。
 そして、この毅然とした態度にこそ「天は見ていた」のである。見られて人間が験
(ため)されていたのである。
 つまり天命論である。
 かの『中庸』には「天の命ずる之を性と謂
(い)う」とあり、天によって定められた人の「命」を指すのかも知れない。
 ただ、この「命」を運命的と解するべきで、宿命と混同して宿命的と固定して考えてはなるまい。両者は似ているようで、実は流動体と個体とでは全く違うのである。

 物質的な追求生活に奔走している人は、原憲の風雅さなど分るまい。風雅は一般的な俗世から離れなければ感得出来ないものである。物に追われる俗世とは無縁の次元である。
 思えば、昨今の世の中こそ、かつてないくらい物は満ち足りていて、物質的には一応幸福なのだろう。
 ところが、幸福はそれだけではないと感じている人には、今の世こそ、味気ない空虚に感じるものはないであろう。人の世を世知辛い世界と捉えれば、そのように映るかも知れない。味気なく感じれば厭世にも感じ、悲観的に世の中を観てしまう危険性もある。
 そこで悪が支配し、苦や不快が支配する厭世観からは離れる必要が出て来る。見方を変えることである。見方を変えた先に風雅があり風流があるように感じるのである。

 かつて籍を入れたての頃、家内に「貧乏夫婦」と「極貧原憲」の話をよくしたことがある。そして家内は、二人のこの話に興味津々で耳を傾けたことがあった。それだけに、聴く耳を持っていることは有難かった。
 近年は自己を語り、自己主張をする口を持った人は多いが、人の話に耳を傾けることが少なくなったように思う。多くは一方的であり、聞き上手でない。
 口はあっても耳を持たないのである。人の話に神妙に耳を傾け、清聴することの出来ない精神的不具者が急増したように思う。

 私は妻を娶ったが、夫婦どもども、財産と言う財産は恐ろしいほど何も持たなかった。爾来
(じらい)持たないままである。
 当初も無一文同志が夫婦になった。それゆえ金品に物を言わせて、どちらか一方を金銭や物財で釣るというものでもなかった。貧乏同士が貧しいままに夫婦になった。それも豪勢な結婚式などない、着の身着のままの籍を入れただけの結婚であった。
 私の場合は、せめて持ち合わせたのは金や物でなく、脳裡にあったこの種の貧乏話であった。
 習志野時代も、一仕事終えてこの貧乏話に花を咲かせたことがある。いつの頃からか、「極貧原憲」の話が中心に据えられた。

 物質的幸福を追い求めない生き方があることも教えたのである。
 しかし、隠棲を強要した訳でなかった。そういう生き方もあり、金銭や物財のみが総てではないことを教えた。無から有が生まれる事象も教えた。理想に向かって歩くことの大事があることを考えさせたのである。
 そして最終目標は、わが流を再興させることであった。
 朽ちた貧乏流派を軌道に乗せることであった。そのためには、道場という「函物
(はこもの)」が必要だったのである。先ずはそれに向かって、無から有を生む必要があった。一文無しから、そこへ向かう種金を作ることであった。
 かつては、それに奔走して、結局は事業に失敗し習志野に夜逃げした。




  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法