運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 36

武門の志とは何であろうか。
 理想に生きることである。理想に、夢を追い掛けることである。
 この理想は決して趣味的なものでない。そういうものを理想に混入しているのではない。何処までも「道」を追求することを理想とし、それを追い掛けることを夢とする。
 夢をとことん追い掛ける。その「追うこと」に人間の倖があるのである。
 しかし、追い掛ける最中に、倖があるかどうか分らない。
 倖と言うのは、老いてからの生き方に掛かるようである。


●解放

 家内はやっとのことで解放された。
 しかし私流に言うと、解放より釈放という感じだった。刑務所然とした病院から保釈という形で身柄を引き取ったものであった。医療費の代金を完済していないので、あくまで保釈なのである。完済してから解放は成立する。要らぬ重荷を抱えたものである。

 「酷い目に遭
(あ)ったな」
 それに家内は、こっくりと頷
(うなず)いただけだった。
 解放後、夫婦して夏の木漏れ日の中を歩いていた。津田沼から大久保へと歩いていた。京成電車の一区間である。
 歩いて帰る途中、小さな公園の木陰でひと休みした。
 そこは鄙
(ひな)びた、平和な田舎の風景のある場所だった。牧歌的とまではいかなかったが、周りには習志野特産のような里芋畑が広がっていた。大きな葉を広げた見渡す限りの芋畑は、実にのどかな牧歌的な風景として私の目に映った。
 またこの当時、こんな美しい都会化されない場所が、習志野にも幾つかあった。夏の太陽を避けるために木漏れ日の下の公園のベンチの下に腰を下ろした。
 真っ青な夏空のどこからか、鴉
(からす)が大きな翼を広げて、円弧を描くように滑空していた。その鴉が円弧の輪を描いて飛び去っていくと、また陽の当たる夏空だけが残った。それは取り残されたような、真っ青な夏空だった。

 私がこれまでの経緯を整理するために、家内に幾つかの質問を投げてみた。
 私の一番知りたかったことは、何故こうした事態が起こったかということだった。何故、入院を強いられるような事態が起こったかということである。
 何故だ?
 まず詰め寄った。是非訊かねばならないことがあったからだ。
 家内は、これまでの呪縛
(じゅうばく)から解かれたように、次のように言うのであった。

 『何か無性に腹が立った。ある衝撃が起因してのことである。
 突き上げるように怒りが起こった。同時に錯乱状態にあった。錯乱は軽挙妄動を引き起こす。じっとしていられないのである。何か行動を起こさねばと、強迫観念が働く。何も考えまいとするのだが、その「衝撃」に対してのあることが支配的になり、絶えず心を占有して頭から離れない考えに陥り、妾動が起こる。
 それが行動となったとき、抑えようとしても制御し難い、不可能な症状が現れてくる。その動きは先ず幻聴から始まる。誰かが突然何かを喋り出す。その喋りは命令的である。その命令に従わねば罰則があるように錯覚し始める。それが訳の分からない妄動である。
 観念に制御されているから、とにかくじっとしていられない。気が急
(せ)かされる。その意識が、恐ろしく支配的になるのである。

 これは精神病患者特有の、鬱
(うつ)から躁(そう)に変化するときの行動である。
 こうして家内は、制御しがたい何かに操られるように、大久保十字路からバスに乗って、JR津田沼駅まで出たというのである。
 バスを降りて辺りを見回した。歩道橋の階段を上り、片一方は津田沼駅の北口、それに対してPARCOがあった。
 午前中であれば確かにPARCO側に陽が当たる。陽の当たるPARCOに吸い込まれるように入って行ったのであろう。その際にも、小さな訳の分からない錯乱が起こっていたに違いない。
 錯乱は、精神病患者に激しい躁鬱を繰り返させ、迷いを生じさせるのである。家内も、此処では大いに困惑したに違いない。

 自分の姿をじろじろと見られる。「世間さまの目」が自分の動きを監視するように見る。そのように錯覚する。
 通り掛りの人は男も女も、自分を疑うような目で見つめる。しかしその疑いも直にとける。何のためらいがなかったように足早に過ぎ去って行く。だが「世間さまの目」だけは異様に粘り着く。

 この目で見られていると、何故だか動けなくなる。あるいは動こうとせず、動くに動けず、じっと立つ以外ないという結論に達する。立っていると、いろいろな音が聞こえる。笑い声、通り過ぎて行く靴音、誰かの囁
(ささや)く。そしてこれに混じって、押し殺したような男か女か分からない「あのろくでもない女」という潰れた声がする。
 それは自分が言われているのだと観念する。しかし声の主は分からない。足下からしたようにも思える。もっと深いところから響いたようにも思える。その声を聞いていると、自分が死ぬのかも知れないと、途方もない考えに取り付かれる。あるいは殺されるとも……。
 そうなると半狂乱になる。深層心理の底に「世間様の目」に怯える病巣がある。

 「落ち着かなければ」と思い返す。「パニックに陥ってはならない」と自分を叱咤する。そして、もう一度「落ち着け」と声がする。
 しかしその声に聞き覚えはない。誰なのか分からない。その声には年齢があったのか、性別は男なのか女なのか、既婚者か未婚者か、アクセントや訛
(なま)りがあったのかなどもはっきりしない。声には特徴がないのだ。水面下から、ぶつぶついう声が上がって来ると言う。
 心因性患者特有の心理現象である。また自分の知っている基礎的な知識を反芻
(はんすう)する。自己確認のためである。

 「4の二乗は……16。16の二乗は……256。ルート2は……ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ。ルート3は……フジサンロクノオオムナク。三角形の面積の求め方は……S=1/2×底辺×高さ。円錐の体積は……V =1/3 ×底面積 × 高さ 。三平方の定理は……直角三角形の斜辺の上に立つ正方形の面積は、他の二辺の上に立つ正方形の面積の和に等しい。
 canを置き換えると……be able to。メンデルの法則には、……優性の法則と分離の法則と独立の法則がある。フーコーの振子とは……振動面が地面に対して回転していく、つまり地球は自転している。
 では、4次元のリーマン空間を構成するものはなにか?……」それは分らなかった。思い出せずにはっきりしなかった。相対性理論?の何か……。そんな気がした。しかし分からない。
 分からないが、それでいいと誰かが告げた。もともと分からないのだ。あるいは自分自身の言葉の反響であったかも知れない。
 精神医学では、自問自答が一つ二役で繰り返されることもあると言う。それが永遠に続くとも言う。

 一方で、役にも立たない知識を幾らかでも知っている自分にほっとするのであった。これだけのことを知っていて、自分の名前が分からないわけがないのだ。そのうち思い出す。時間が経てば思い出す。そのうち思い出すに違いない……。そんな安堵を抱くのである。
 こうした幻聴と幻覚に悩まされながら、精神障害者は錯乱すると、こうした空間に閉じ込められてしまうのである。時間の進行するのも分からないのである。
 時間がゆっくりと動いたり、完全に止まってしまうのである。精神病患者は、鬱状態に入ると時間が止り、時間の流れが分からなくなってしまうのである。そして時間の中に孤立するのである。時間の中に隔離されるのである。

 「わたしは狂っているのだろうか?」
 では、此処に居ると言うことは、何処かの精神病院を抜け出し、逃亡の最中なのだろうか?こうした疑問が次々に起こり、それが堂々回りをするのである。この堂々回りは、芝居がかっていないのか?この芝居が終わる頃、自分は完全に狂っているのではなかろうか?そこで全てが終わるのではなかろうか?
 こうなる前は正気だとしても、こうなった今、誰が、以前の自分の正気だったことを証明してくれるのだろうか?……。
 これを悪夢と思う。そして悪夢から、もう醒
(さ)めてほしいの願う。
 しかしそう願えば願うほど、悪夢は深まりを増していった。

 この一連の流れによって、錯乱状態が激しくなり、ついには自分がどこで何をしているか、把握できなくなるのである。現実と幻覚の区別が付かなくなる。そのくせに「世間さまの目」というのは、はっきり意識されているのである。世間様の目が自分に向けられ、その目は常に嗤
(わら)っているのである。冷ややかに嗤っているのである。この嗤いんひ耐えられなくなり、更に狂うのである。当惑に耐えられなくなるのである。

 家内は錯乱の連鎖によって、ある衝撃から始まったパニックは益々深まっていったのである。この流れが、今回の「第二の発狂」に克明に傷跡を残していた。
 《重ね重ね、二回も》である。
 二回も繰り返させられれば、脳に刻まれる畸形度は深くなるだろう。益々深刻な状態が懸念され、このことが同時に私の脳裡
(のうり)にも起こっていたのである。
 だが、人生には逃げられないものがある。
 背負って果たしていかなければならないものがある。果たす以外あるまい。私のカルマだった。昔からカルマは荷なって果たしていかねばならないものと相場が決まっているからである。



●厄年の役

 数時間前に遡
(さかのぼ)る。
 解放された当初、京成区間の八千代台から津田沼まで電車で向かった。
 習志野市の福祉事務所に、家内の安否を気遣ってくれた職員に礼を言うためであった。この人は親身になって捜してくれ、各方面に手配や連絡を取ってくれたのである。
 津田沼から夏の陽射しの中を家内とともに歩いた。更に市役所から大久保までも歩いた。
 七月末ともなるとけっこう陽射しが強い。炎天下とは行かないがその中を歩いた。
 途中、休憩を挟みながら歩き続け、距離としては大した距離でなかったが、気付いたらいつしか習志野公園の桜の樹の下のベンチに二人して腰を掛けていた。それがまた不思議でもあった。

 いつしか、かの老人と「何
(いず)れまた」と別れた日のことを思い出す。もうあれはいつのことだっただろうか。そんなに長くはないが、随分と日が経ったような錯覚に陥った。
 これまでを振り返れば、私は我武者羅に孔子流の生き方で人生を爆走して来たように思う。
 ところが、あの老人に出遭って以来、厄年を機点に老荘思想流に変化し始めているのに気付いた。否、方向を転換させたのではなく、意識としては何れにも傾かない中庸である。
 中庸と言えば些
(いささ)か孔子流の響きがあるが、私流に言えば、老子流にも偏らない中心点を維持する「拮抗」である。傾けば、揺り戻すという制御力が働くように心掛け、常に拮抗を保つ意識である。それが無意識の意識になるまで鍛練して行くのである。
 あたかも緊張を無意識の緊張にまで高めて、「隙を作らぬ」という境地まで向上させるのに似ている。

 この変化は、おそらく進龍一の厖大な書籍を読み漁ったことにもよろうが、書物から学んだことと、現実の事象が複合化融合化されて、これまでとは異なる人生が見えて来たと言うべきであろう。
 普通、厄年を転機に変えると言う人は少ないと言う。
 つまり、厄年を世間一般では体調が崩れて警戒すべき登竜門と受け取っているようだが、運命学的に言う厄年は、この年に「役を掴む」ことを厄年と言うらしい。厄年には、本当の役が廻って来て、それを掴む者とそうでない者がいるという。だが前者は圧倒的に小数と言う。

 私はこのとき、曲り形
(なり)にも役を掴むことが出来たと感得するのである。しかし役を掴んだからといって幸運を掴んだ訳でない。清濁併せ呑み、且つ善悪綯い交ぜで掴んでしまうのである。
 この世は善いことより悪いことの方が多い。現象界の特長である。労多く利少なしである。
 そして注目すべきは、役を掴むか否かの天命の下されし「命」は、あたかも『孟子』の受任者に出て来る凄まじい傷
(いた)め付けと抑圧である。心も躰も傷付いてみせなければならないのである。
 天はその傷によって完膚なきまでに受任者を叩きのめし、そのまま後遺症を抱えて潰えるか、起き上がるかをじっと検
(み)ている。その一点を注視しているのである。

 かの伝道者パウロの如き人もいる。この伝道者も天から検られ、験
(ため)された人であろう。
 パウロはキリスト教をローマ帝国に普及するのに、最も功の多かった伝道者であり、もと熱心なユダヤ教徒であり、キリスト教徒の迫害に加わったのであるが、幻視の中で復活したイエス・キリストに接して回心し、生涯を伝道に捧げ、以降、苦難の生涯を送りローマで殉教している。また「異邦人の使徒」ともいわれた。

 私も厄年を機点に、苦難の生涯を選択したように思う。
 艱難、われに来れの受難は、もとより覚悟の上であった。これから先は安穏とした道ではないだろう。苦難の道だろう。茨で躰の至る所を引っ掻かれるであろう。何しろ狭き門だから、周囲は茨で覆われている。だが『聖書』でも言うではないか。「狭き門よりへ入れ」と。
 これ自体が、また天から験されているという意識を感じたことがある。
 安穏の世界からは程遠い。楽しいことより辛いことの方が多い。辛苦を与えて、更に験すのである。いつ音を上げるか、無言のまま見ているのである。

 その自覚は自分でもある。天から見られている、その視線を感じる。
 何処に居ても、何をしていても、よからぬことも善いことも、天は頭上に居て、私を検ているのである。それは冷ややかな注視の眼である。
 自身で生きているという存在を繰り返している以上、天は存在自体を検ているのである。検て生かすか死なすかを品定めし、生かす因縁であれば生かし、死ぬ因縁であれば死を与え給
(たも)う。そして私は天から見られていた。
 家内と二人して、こうして坐っている姿も天は見ている。二人三脚の同志は、天から見られていた。私はその視線を強く感じたのである。
 今回の家内の失踪を不運と捉えれば確かに不運であろうが、転機には訪れ易い「そこを検る」という、この視線を天の眼と思えば別段深刻の悩むことではない。運・不運も運の動きの中に在るのである。一切は人間現象の中に在る。

 運・不運。
 現象界には運に作用されることが多い。
 ある問答に「太陽と月はどちらが偉大か」と言うものがある。
 「月が偉大だ」と言った者が居た。未開人である。
 未開人は「太陽は明るい昼間だけだ。夜は照ってくれない。そこくると月は暗いよるも照らしてくれる」と言った。
 一方、文明人は「何をバカなことを言うか。太陽があるから総ての生命が育まれるのだ。お前はそんなことも分らないのか」と未開人を口穢く罵った。
 この問答をどう考えるだろうか。
 軍配を上げるとしたら大半の御仁は、文明人は尤
(もっと)もだと思われるだろう。
 しかし私たち現代人は、未開人を嗤
(わら)う前に、人間の価値観や物質への価値観をあらためと問い直す時期が来ているのではあるまいか。
 果たして今日の現代人が、未開人以上のものであるかを謙虚に反省してみる必要があるのではあるまいか。

 俗に、「落ちた犬は討たれる」という。面白半分に叩かれる。木登りをして落ちた豚も同じだろう。
 煽てられた豚は、猿にでもなったつもりで、その気になって木登りをする。それを周囲で見ている。苦笑しながら見ている。登れる訳は無いと決め付けて、落ちれば落ちたで、やんやの拍手喝采をし、嘲笑と面白半分の揶揄が走り抜ける。
 そして、木登り出来ない豚に木登りをさせた企画者や仕掛人には、一切の非難を浴びせることはない。木登り出来ない豚こそ、哀れな不運者だった。嗤われる前提として、豚に木登りさせることを画策がなされたことだ。
 この嗤いは多くの視聴者の支持を得る。大衆の一つの娯楽になっている。マスコミの画策は常にこの一点に置かれている。スポンサーの手前、ここに重点が置かれている。選挙投票と同じである。面白いものは支持率が高い。
 そして何れかに偏る動きを、現代人は自分には自覚症状を感じないまま、その方向に奔っているのではないかという懸念すら浮上してくるのである。デモクラシーも偏り過ぎれば独裁者を生む。

 中庸に戻り、拮抗状態を再点検してみる必要があろう。私は不幸の中で、再点検する幸運に恵まれたのである。
 小国寡民
(かみん)
 老荘的な理想郷形態は、何故か以前から抱き続けた『西郷派大東流馬術構想』に酷似性を見るのである。以前は漠然としたものであったが、此処に来て、ぐーんと明白化して来たのである。
 特にあの日以来、老人に遭ってからは、自身の裡側に急激な変化が起こり、厄年に役を掴んだような気がして来たのである。しかし、それはパウロに似た殉教の役であろう。その路はまた茨の道であった。



●原理原則を学ぶ

 平成三年の七月の後半、二つの行事がまり構えていた。
 一つはBABの日本武道館小道場で行われる『秘伝』の読者を対象にした講習会であり、もう一つは北九州小倉の尚道館で行われる第二回の夏季合宿セミナーだった。この合宿については、『秘伝』の六月号に広告を載せ、参加者を募集していた。
 この時期、習志野綱武館は北九州の尚道館で行われる8月10日からの第二回の夏季合宿セミナー
(平成3年8月11日〜15日)の準備にかかり、これに参加する道場生外の申込者も続々と集まり始めていた。7月の後半、講習会参加者は約30名強に達していた。

BABの『秘伝』に掲載された「第二回夏期合宿セミナー」の案内広告。

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 講習会費は、四泊五日で七万円だった。売上自体は7月末の時点で210万円を超えていた。
 九州に向けて習志野を出発する際、進龍一は妙なアドバイスを私にするのだった。
 それは、参加者が途中で逃げ出さないために、持参した所持金を全部預かれと言うことだった。所持金を全部預かれば、多くは遠くから来ているので、途中で嫌になって逃げ出そうと思っても、金がないから逃げ出せないと言うのである。
 それを奴は、かつて沖正弘のヨガ道場の断食コースで学んだのだと言う。
 この道場に行くと、所持金を全て道場側が預かってしまい、修行期間を終えるまでは逃げ出せないようになっていると言うのだった。嫌でも、終了期間まで居残るしかないと言うのである。
 私も「なるほど」と思い、これを実行したのだった。
 奴の言によれば、落伍者を一人も出さないと言うのが、合宿の成功に繋がると言うのだった。また、これも功を奏したのであった。奴は合宿に参加できなかったが、やはり軍師であり知将だった。

 結局、合宿セミナーは蓋を開ければ、北は北海道から、南は沖縄までの参加者を合わせて36名が参加したのだった。何とか、合宿セミナーの体裁だけは整えられたのである。
 合宿売上も、250万円強ほどの参加費用が集まり、これまで滞納していた税金類が、何とか払えると言う程度まで漕ぎ着けたのだった。
 8月11日午後五時、尚道館には続々と参加者が集合した。
 この参加者の中で最年長者は、愛知県豊橋市から来た八光流柔術皆伝師範の松永猛氏だった。氏は、初代奥山龍峰師の愛弟子で、日本で三番目の皆伝師範だった。豊橋市で神武館道場を経営され、八光流柔術の指導と治療師として活躍されていた。今年、御年とって68歳だった。後に、習志野を追われたあと、氏の神武館道場に夫婦揃って、お世話になるのである。

行軍中の鱒淵ダムの藤棚で。 福岡県最高峰の福智山山頂で(標高900.8m)

福智山山頂で野山稽古。
 二次元平面の道場内の盤面とは異なる、三次元空間の山稽古。日本には昔から「野試合」というものがあった。これは二次元平面から三次元立体に移した、一ランク上の稽古法であった。

 したがって、道場での稽古上手が、野試合では必ず勝とは限らなかった。
 また三次元戦闘ステージでは左右の袈裟
(けさ)斬りが多くなり、剣道のように正面打ちと言うものが殆どなくなる。これは袈裟斬りが一調子で切り込めるのに対し、正面打ちは二調子で振りかぶり、打つという動作が課せられる為、遅くなるからである。
 更に、こうした足場では、剣道のような、板の間でしか通用しない「右前継ぎ足」という足捌きは無用の長物となり、道場内での稽古とは勝手が違うのである。

 稽古は単に道場内だけの稽古に止まらず、屋外での稽古も行い、また馬術の稽古も行ったのである。期間は四泊五日の日程であったが、福岡県では最高峰の福智山(標高900.8メートル)登山も遣り、一人の落伍者も出さず、また一人の怪我人も出さず、全ての日程行事をこなし、合宿は無事終了したのであった。
 そして福智山は、山頂に向かうルートがそれぞれにあり、わが西郷派の山稽古の修行の場であった。それに滝行も加わったのである。
 それが以降、わが流の山稽古と滝行の定番メニューにもなったのである。
 福智山の山間で猛稽古に励んだ場所であった。わが流の「山稽古」は、これに由来するのである。合宿のメインイベントは福智山登山だったのである。そしてこの山の山麓には滝が流れており、そこでは滝行をする修行の場でもあった。
 山頂に辿り着いた平成3年8月14日の福智山山頂は、既に秋の気配の、秋風が吹いていた。もうすっかり山は秋の様相をたたえていた。


 ─────夏季セミナー合宿も無事終了して再び習志野に帰って来た。
 暫く、塾を離れ道場活動に専念したので、その重荷を再び思い知らされたのである。夏合宿が終わり、それから一ヵ月ほどして、私は家内を習志野に残したまま、9月の半ばに北九州に舞い戻っていた。北九州には8月の夏合宿以来である。
 これは一つの策を練るためであった。
 自分の中の頑
(かたく)な現実主義を、もっと広いビジョンで見詰め直し、世の中の動向とともにその方向を切り替える必要があった。新たな角度から成就させる方法を模索する必要があった。それは打開策としての突破口を開くためであった。そのためには、もう一度、九州の夏を見る必要があった。暑く爛(ただ)れた九州の夏の海を見る必要があった。そんな夏に、不思議な郷愁を感じるのだった。
 九州に夏が残っている時期に、舞い戻ったのだった。北部九州から見る海は、私の生まれ故郷である平戸の海にも繋
(つな)がっていた。

 夏という季節は、人間の記憶の中で鮮やかなものを残す。記憶中枢に鮮明な記憶を作る。
 私は若い頃から、夏の記憶が、この年に至るまで克明に残っている。大学を卒業した年の夏も、鮮やかものが残っている。その翌年もそうだった。長男を生んだ別宅と出会った時も、やはり夏だった。そして昭和55年の夏、私が海の家を開いている頃、当時使用人として走り回っている後の家内と出会ったのも、やはり夏だった。
 私の記憶の中に残る夏は、一生のうちで、文句なしの夏だった。私にとって夏は、素晴らしい季節だった。

 私は「夏」と聞けば、その前途に横たわるものは、新しい冒険の予感がするからであった。人間が、夏という季節を思い返す時、過去の記憶の中には、やはり夏とうい季節が克明に刻み込まれていることが分かるのである。夏は、私にとって文句なしの、自然な風景であったのである。
 夏と海……。
 それは私に、緊密に結びつくのだった。
 映画『老人と海』は、これまで海に生きてきた男が、老衰に対して、精神力で対抗する物語だった。海に生きてきた男たちは、最後の時期を“一つの挑戦”と看做
(みな)して晩年を生きる人たちである。この物語には、老いた一人の老人が出てくる。この老人は漁夫であった。かつては優秀な漁師であったことを想像させるような老人だった。

 そしてこの老漁夫は、巨大な魚を釣り上げる。その巨大魚の獲得に全精力を使い果たすのだ。
 老漁夫は、その巨大魚を陸地近くまで運ぶことに成功するのだが、鱶
(ふか)の群れから守ることはできなかった。巨大魚は鱶から肉の殆どを食いちぎられる。肉は殆ど食いちぎられてなくなり、巨大後の骨と化した残骸だけを海岸に打ち棄(す)てるのである。自分がついに巨大魚を捕らえ、他の漁師仲間に、その大きさを証明することはできなかった。
 しかし、それは老人にとっては、どうでもよかったことであった。そんなことは、大して重要ではなかったのである。老人が問題にしていたことは、大海原に乗り出し、老いても、自らの心のうちには、まだ冒険心だけは失っていないことを、他の漁師仲間に知らしめることであった。心のうちは、熱く燃え滾
(たぎ)り、情熱の源泉はまだ尽きてないことを証明してみせることだった。

 ヘミングウェーの映画『老人と海』に出てくる老人は、そんな老人であったと思っている。この老人は、大部分の人間が晩年になって無気力になる、そんな人生を拒否し、最後まで勇気と忍耐をもって、「男の証
(あかし)」を貫くことであった。どこまでも“腐っても鯛”だったのである。落ちぶれて尾羽打ちを枯らしたとしても、“腐っても鯛”の自負は持ちたいものである。
 墜ちたとは謂
(い)え、私には、まだ九州の尚道館が残っていた。此処は人手に渡ることがなかった。

 道場活動のいい面ばかりでなく、その裏側からも、この事実をよく観察してきたのである。一見、勇を誇る日の出の勢いの道場も、裏を返せば、個性の出来上がったよからぬ人間の吹き溜まるところであり、内面から劣化する様相を持っているのである。つまり、隙
(すき)を見せたり、下手を打つと、かつての弟子から直に揚げ足を取られるのである。

 これは草創期から発展期にかけての進歩の過程で見ると、進歩の犠牲であるばかりでなく、進歩と思えたものが、実はそのまま悲惨さの代償として、その代価を払い続けなければならないということである。ここが難しいところである。
 多くの武術や武道愛好者は、道場開設に何らかの夢を抱き、代価を払い続けるということをあまり計算していないようであるが、こうした考えでの道場経営は、必ず破綻
(はたん)を招き、その全ての代価の支払いが、霊肉の両方をもって、近未来にそのツケを払わねばならないのである。ここが見逃してはならない点である。

 そして家族がいる場合、家族までもが、その代価のツケを払わされるのである。開設当初は先を見通して、何とかやっていけるような錯覚を抱くが、やがて破綻する時期がやってくる。
 後に私がニュースで知った滋賀県のある空手家は、道場経営の資金繰りに困り、地元の資産家の小学児童の誘拐まで企て、そしてこの空手家父子は、後日、父子ともども逮捕された。
 借金をして、無理に本部道場なるものを開設した。出だしは順調だった。道場開きは華々しかった。開設当初は友人、知人、空手仲間からも、多くの祝儀が集まった。このまま20年、30年の支払いを乗り切れると思い込んでいた。
 ところが読みが狂った。世の中はそんなに甘いものではなかった。やがて不況に襲われた。道場生も売上予測を大幅に下回ってしまったのである。やがて返済金に窮するようになった。

 そこで思い付いたのが地元の資産家の小学生の女子児童を誘拐し、保護者に身代金を要求することだった。しかしそれは直に発覚した。後味の悪いものだった。武道家の名誉を失墜させたものだった。
 警察もそんなに甘くなかった。直に御用となった。借金に窮した挙げ句のとんだ茶番劇だった。
 おそらくこの空手家父子は、『貸借対照表』の読み方すら知らなかったのだろう。お粗末と言う他ない。経営が分からないのに開設したのである。そして父親はきつい取り調べと良心の呵責によって、心労を来たし、ついに服役中に獄中死した。こうなると、無惨なのである。その後、息子だけが単独で刑務所に服役した。

 私は、このニュースを平成10年頃、滋賀県大津に棲んでいる時にテレビのニュースで知った。このニュースは一時、関西方面では、よく知られたニュースとなった。そして他の道場経営者が、様々な解説や注釈をつけた。
 私自身も、それなりの意見を持っていた。
 道場というのは“どんぶり勘定”では成り立たないのである。テクニックを教えて、月謝を得るという考えだけでは、先を見誤る。道場は、最初から採算が取れないということを覚悟して解説するもので、長期の展望がいる。
 道場主は道場を経営していくだけの長期展望と、それに付随する経営能力がいる。道場主は、霞
(かすみ)だけを食っては生きられない。道場主である前に人間であるからだ。
 そして誘拐を働いた空手家父子は、具体性のない空想の中に酔い痴
(し)れ、金と言う生き物を甘く見たのだろう。大雑把な考えで希望的観測に縋り、道場経営と返済していく過程を楽観的に捉えたのだろう。
 世の中には、この空手家父子だけではなく、マイホームを建てたと自負する人の中にも、楽観的に考える人が多くいるのである。人にちやほやされて、有頂天に舞い上がり、いい気になっていると、後でとんでもないしっぺ返しを食らう。
 金は生き物である。金の勉強をしておかねばならない。金銭哲学を学んだ有無で、夢見た将来は天地の隔たりをもつのである。

 マイホームを建てたと自負する人の中に、多く目に付くのは「収入の三割近くを貯蓄に当て、有事に備えて複数の保険にも入り、もし、自分が死んだ場合は生命保険でその語の支払いを賄
(まかな)える」と考えている人が多いと言うことだ。それだけで家族は安泰と、高を括っている人は多い。
 ところが、実際にはそうならない。決して大丈夫とは言えないのである。
 そして、自分の資産に関する見方は楽観的で、マイホームもマイカーも大ローンで買ったくせに、自分のものと思っていることである。
 結局、見ているのは、死亡時の保障額だけなのである。経済観念がゼロに近い人ほど、こうした考え方をする。
 本当に経済感覚が発達し、金銭感覚のある人は生命保険の額で、マイホームの残金を保険料で賄おうとはしない。もっと死亡保障の額を縮小し、それで浮いた金で万一の場合の貯蓄に回すことを考えるものである。

 また武術とか武道とかは、道場をローンなどで開設した場合、「好き」という愛好者のレベルでは決して成り立たないのである。
 経済に通じたり、株式や世界動向に敏感であったり、税制や金融の勉強をしておかねば生き残れない。どんぶり勘定と、開設当初の祝儀に有頂天になっては、やがて破綻する時期を迎えねばならないのである。そして私が特記するならば、「道場は道楽の範囲のお荷物」でしかないと言うことだ。
 道場主は、食えてこそ道を説くことができるのである。最悪の状態になっても、それを維持するだけの資金力がいるのである。食えてこそ、礼節と謙譲を知るのである。そのための経営能力は、道場主に課せられた必須科目だった。

 古来より日本では、武芸者とか武術家を「士魂商才」という言葉で云い表してきた。
 武士の精神と、商人の才とを兼備することこそ、腕の立つ武人と賞されてきた。
 その典型たる達人が宮本武蔵だった。武蔵は術技の腕前だけでなく、金銭感覚も優れた武人であった。経済力と言うことを本当に理解していたからである。武人はまた経営にも長けた武略家でもあったのである。武略の才なくして武術家は勤まらない。
 くれぐれも間違ってはならないのは、武術家は単なる個人戦を闘う格闘技選手ではないのである。また武術・武道を愛好する愛好者のレベルでもないのである。経営者であり、また未来を展望した武略家でもあった。そこを武蔵は弁
(わきま)えていた。
 封建時代にあって、武蔵は今日で言うキャピタリズムの資本主義をよく理解していたのである。資本主義の世では、銭のないのは首のないのと同じと言われる所以である。

 試合場だけでなく世の中の金銭の世界で実戦を経験していない者は、何事にも、こてんぱんに負ける。物に対して未練があるからだ。駆け引きを知らない者は、簡単に打ち負かされる。捨てるべきものを、さっさと捨てなければ、それが重荷になる。
 それを克服するためには、図太さがいる。恥も外聞もなく、カメレオンのように変化
(へんげ)してみせる芸当がいる。
 その芸当は無形の資本である、躰であり、頭であり、口である。そして臨機応変に対処する判断力と、最も大事なのは、これを躱
(かわ)すだけの「精神的運動神経」である。精神的運動神経を養っておれば、少々のことではパニックに陥らない。
 そのためには、普段から学ぶことだ。一方、技術の強弱は余り問題にされない。
 何事も学び、受け入れ、真似をし、そのための教養も必要である。武道バカでは何もならない。リングの鬼では何もならない。ワンパターンでは緊急事態に対応できない。窮地を乗り越え、生き残るには哲学がいる。哲学をする場こそ、人生を学ぶ、いい勉強の場なのである。
 いい勉強をしておれば、最悪のパニックに陥ることだけは免れる。

 そうした連想の最中、私の想いは平戸の海に思いを馳せた。透き通るような平戸の海は懐かしかった。そして私は北九州から少しばかり足を伸ばし、平戸へと向かっていた。もう夏も終盤だったのである。


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