運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 34

運命転換が可能な者は、どんなに窮しても現実から眼を背けず、夢の一文字に総てを託し、懐(ふところ)に玉(ぎょく)を抱き、「窮(きゅう)すれば通ず」という理(ことわり)を信じている。
 陰が満れば、陽となる。
 陽が頂点に達すれば、再び陰へと変化をはじめる。月満つれば、則
(すなわ)ち虧(かく)なのだ。
 困窮でも同じである。

 行き詰って困りきると、却
(かえ)って活路が見出される。
 運命とはこのように、実に流動的なのである。固定的な宿命とは違うのである。動き、流れる。ダイナミックにうねる。
 窮すれば通ず……。
 つまり、運命は開け、創造できるものなのである。それには窮して窮して窮しなければならない。


●不可解なる策略

 その夜、家内は戻ってこなかった。方々を捜したが、家内は何処にも見つからなかった。
 家内と最も仲良しだった上原小夜子は、一見半狂乱のようになって消息を心配しているようだった。
 進龍一が道場生を集め、吠えていた直後から見なくなったと言う。そうすると、もう随分、塾を空けたことになる。何かが起こった。そう検
(み)たのである。
 しかし、深刻には考えなかった。私の予見の甘さだろう。
 家内が消えた。確かな事実であった。
 その代わりを、上原小夜子と勅使河原恭子が越後獅子になって、家内の欠員をカバーしてくたのである。二人の迅速は早かったと言うべきだろう。
 しかし私はどうか。
 何もかもが巧く運んでいる時だった。それだけ傍には魔が忍び寄って来たのであろう。
 好事魔が多しと言う。この俚諺
(りげん)は的中していた。見落としていたのである。
 急遽、伝習塾からそんなに離れていない明林塾へと足を運んだ。新たな情報を聴くためである。

 「おい、うちのを見なかったか?」
 私は進龍一の声を懸けたのだった。
 「うちには顔を出しませんよ。奥さん、どうかしたのですか?」
 「また、居なくなった」
 「居なくなった?……」
 「突如消えた」銷沈した聲で言った。
 「最近、不安定でしたか?」
 「そんなことはない、いつものように相変わらずだった。近頃は安定していると言えた」
 「では、何処に行ったのでしょうね?こんな遅い時間まで」
 奴も、私に合わせて不審な顔をした。
 今は夏期講習の只中である。塾は忙しいときだ。早朝から慌ただしくなる。その時に居ない。何かあったと言うべきだろう。家内は放置する人間でない。けじめはつける人間であった。ただ病んだ一面はあるが、塾生を放り出してと言うことは、今まで一回もなかった。
 「もしかすると、あの記事を見たのではあるまいか?……。お前、雑誌放置してきただろう」
 「奥さんは、あの記事の出所を知っているのですか?」
 「薄々は勘付いただろう。俺が叩かれることと、あの忌まわしい造反事件は無関係でない。それくらいは察しがつく。勘のいい女だ。仕掛けたあいつらを相当に恨んでいた。“後足で砂を掛ける”行為を憎んでいた。礼儀知らずも甚だしいと……」
 武術や武道の世界では、度々、“後足で砂を掛ける”という行為が起こる。この世界特有の恥部である。かつての師匠を悪しき態
(ざま)に悪く言うこの世界は、今日に始まったことでない。この世界はまた嫉妬の世界である。かの阿修羅以来の悪癖であろう。
 阿修羅は天上の神に嫉妬した。そのために神に挑んだ。戦い好きである。好戦的な性格をしている。格闘好きに見られる性癖である。
 一見、武の世界は礼儀正しい世界と思い込まれている。ところが、それは表皮のことである。内実は嫉妬で渦巻いている。自分より強い者、優れた者が居ることを赦
(ゆる)さない。そういう者が居ると挑む。感情が先立つ。我慢ならない。憎悪を感じる。ゆえに叩き落とす。練れてない者は、必然的にそこに墜ちる性癖がある。
 武が文の下に位置する理由である。
 悪く言えば“お山の大将”の世界である。墜
(お)ちれば猿山の世界となる。品位があれば救われるが、なければ泥仕合までする。
 その因縁と悪癖を引き摺っていると言えば、実に分り易いだろう。

 「では、あの記事の出所の根拠も知っているのですか?」
 「おそらく、なァ。ああした記事の提供者は直ぐに察しがつく。やつをおいて他にない」
 「あいつも無駄なことをして戦いの火種に火を点
(つ)けましたね。敵を作ってしまった。かつての我が方の資料を持ち出して、それが記事になったことを知っているのですか?」
 「いや、そうではないだろうが、直接持ち込んだことは容易に想像できる。それくらいの推理能力はある。並み以上に勘が働くからな」

 原因はただ一つ。
 私への誹謗中傷記事に狂ったのだ。出所は分っていた。そのために失踪したのなら何とも哀れである。抗議の乗り込んだのかも知れない。考えられることであった。
 これまでの癒し難い傷の上に、更に新たな深手を負ったのであった。
 かつて徒党を組み造反を企て、これだけの傷を負わせながら、更に今度、私を名指しで叩く執拗なシナリオといい、これを仕出かした上で、何食わぬ顔で再び決定打を図る茶番を企んだのである。自己顕示欲に取り憑かれた人間なら、それくらいのことは平気で遣るだろう。
 「だとしたら、いったい奥さんは何処に行ってしまったのでしょうか。まさか、抗議をしに乗り込んだわけではないでしょうね?」
 「そこまでの行動力があるとは思えぬが、完全に否定も出来まい……」
 「すると、あの記事で、また訝
(おか)しくなったということですか?」
 逆風が吹き荒れていた。

 次の朝も戻らなかった。居なくなったことは歴然としていた。いよいよ疾走したという気がした。心因性ショックが大きかったのである。
 また何処からも知らせが入らなかった。それだけに心配は去らない。昨日以来、家内への安否が燻っていたが今日は発火したと言う感じであった。
 そこで警察に行くついでに、明林塾に寄ってみたのである。
 「やはり、奥さん戻ってきませんでしたか?」
 「ああ」
 「警察に『捜索願』を出すべきでしょう」
 「そうすることにしよう……」
 しかし、それは大袈裟ではないかという懸念もある。それだけに些かの躊躇
(ちゅうちょ)があった。
 「奥さんの身の回りのもの、何はなくなっているというものはありませんでしたか?」
 「なくなっているとしたら、買い物時に使う小銭入りの財布くらいかな」
 「着の身着のまま居なくなったと言うことですか?」
 「そうらしい」
 「困りましたね」
 進龍一のその続きの言葉として、何か言いたげで《宗家も苦労が耐えませんね》という言葉を付け加えたかったのであろうが、それは自重したようだ。あの事件以来、度々起こっているからである。

 これも私の宿業
(しゅくごう)だろう。受けて立ち、果たしていかねばならない。
 天は、その人間に大役を与えんとする時、“これでもか、これでもか”とその人を苦しめるのである。この苦痛に見事耐えてみせなければならない。験
(ため)されているのである。
 そして、喩え負け戦と分かっていても、戦わずに引き下がるのは私の主義に反する。それが、わが宿業と言うものだろう。

 風向きは突如として変わるものである。それも思いもよらぬ方向に……。その警戒心が薄かったのかも知れない。
 順風を得ても、いい風ばかりは吹かない。時として逆風となる。変化する。変化の中で逆風が猛烈に吹くことがある。それに長い間曝
(さら)されることがある。
 人生には、必ず火と水の試煉
(しれん)の時が遣って来る。安堵に落ち着けば必ず鍛え直しの風が吹く。猛烈な逆風が突如吹いて来ることがある。
 この風に見舞われると、大半の人は完膚
(かんぷ)なきまでに叩きのめされ、もう二度と立ち上がることが出来なくなる。受任の候補者は“その程度の人”ということになる。見事に耐えてみせなければならない。
 挫折すればどうなるか。
 天は早々と見放す。残忍な一面がある。そこが凄まじいともいえた。あたかもユダヤ教の神ヤハウェの如きである。
 そして見放されたら最後、それ以降は極度の後遺症に見舞われ、精神的外傷
(トラウマ)となって生涯付き回る。あたかも憑衣した霊が死ぬまで悩まし続けるようにである。そして失意のうちに憤懣(ふんまん)やる方ない気持ちを抱いたまま潰えて行く。挫折者は闇の中に埋没する。

 次の朝が来た。
 眠られない、重苦しい一夜が過ぎ、この日も戻ってこなかった。
 昨日は玄関の引き戸にも鍵を掛けずにしておいた。眠っているうちに帰って来るのではないかと思ったからだ。一縷
(いちる)の望みに縋(すが)って待っていた。
 いつもの明るい声で「ただいま」と、玄関に声が湧かないものかと待っていた。そんなことはあり得ないと知りながらも、そう願うものがあった。しかし遂に戻らなかった。わが人生の終末を思わせた。

 伝習塾の中は深閑としていた。早朝は誰もいない。
 眠っている間は忘れていたが、一度目が覚めると、再び不安が急に襲ってきたのだった。こんな場合、想像は悪い方に傾くのである。
 不測の出来事。それが頭から離れない。
 一夜明けた、そのことがいったい何を意味するか、私には分かっていたのだ。そこまで憶測した私は、胸の鼓動は高鳴った。危険は想像を振り捨てようと首を振った。
 ところが首を振ったくらいでは、その高鳴りは納まらない。
 つらつら考えてみる。
 《おかしい》私は一晩待ったことに、疑問が頭を擡
(もた)げていることに気付いた。
 一晩待ったのは間違いだったかも知れないと思いはじめた。一刻も早い救出が必要だったのではないか。なぜ昨日のうちに、と思う。遅過ぎたのでは?……。
 時を逸した観があった。
 今まで希望的観測に縋
(すが)り、そのうち帰ってくる、と安易な妄想に取り付かれた私の罪は、許され難いものだった。
 《遅かったか……》と安易な考えに取り付かれた。深い陥穽
(かんせい)に落ちていた。そして自責の念に駆(か)られた。判断が遅過ぎた。

 警察に捜索願を出す前に、まず大久保商店街で、家内がよく買い物をする店での情報を集めてみた。
 現在使用している伝習塾は、もともと旧明林塾跡である。大久保商店街のおよそ中間地点にあった。そこで此処から京成大久保駅までのルートで情報集めをした。家内がよく買い物をしていたと思われる商店街の惣菜屋、写真現像所、古着屋、電気店、漬物屋、仕出し弁当屋などを駅に向かって聞いて回った。
 ところが昨日家内を見かけたと言う店主は居なかった。
 ただ逆風に煽られるだけであった。
 あの日以来、心に霧が垂れたようになった。鉛のように重く垂れ込め、一向に霽
(は)れる気配はない。疾走して三日ほどが過ぎていた。

 次に日大や東邦大に向かった方向で順に訊いて回った。喫茶店、文房具店、今川焼、そして習スポールビル前の鶏肉屋などであった。一軒一軒聞いて廻った。
 焼鳥屋の前に来た。
 「婆ちゃん、うちのやつ見なかった?」
 すると表で客の相手をしていた婆さんが、「先生。お宅の奥さん、バス通りの方へ歩いて行ってましたよ」と言うのであった。鶏肉屋の婆さんは近所でもちょっとした有名人であった。
 聞くところによると、しゃきしゃきの江戸子の東京人で気前がよく、今年で御歳八十歳で、家業の食鳥業では、この界隈では歴史のある老舗であり、テレビ局が取材に来るほど有名な店であった。今は息子に社長を譲り、会長に納まっていた。しかし働き者である。いつも店先で客の応対に余念がないのである。働き者で朝が早い。
 普段から息子の食鳥業の社長とも懇意で、上階の焼鳥屋には、ちょくちょく足を運んでいた。それだけの婆さんも、私をよく知っていた。また進龍一も婆さんに保証人になってもらい、銀行から数百万程度の保証人になってもらっていた。それだけ親しい。
 進龍一は余所者
(よそもの)でありながら、この婆さんからは気に入られていた。婆さんから「律儀な男」ということで、多大な信用を得ていた。
 また、この婆さんは習志野では家内とよく気の合う人だった。
 訊き出した追言として、「何だか泣きそうな顔をしていましたよ、声を掛けても返事もしないで……」と言うのである。
 語尾を濁したが「夫婦喧嘩でもしたの?……」と言いたげであった。
 ところが、その程度のものでない。もっと深刻であった。既に、精神に異常を来していたのは間違いない。明らかに心因性ショックが起こったことを窺わせた。

 このことから、あるいは大久保バス停から、JR津田沼駅に向かったのではないかと思われた。逆方向は直ぐ先の日大で終点になる。しかし足取りは此処までであった。それから先が分からない。
 津田沼駅まで行ったところで、それから先が捜しようがなかった。それから先の選択肢は、無数にあったからである。だが、そうは言ってはいられない。何らかの心因性病因で精神的ショックが起こり、既に精神に異常を来たしているのは疑う余地がなかった。これ以上、のんびり構えて放置は出来ない。大変なことになったものである。
 夏期講習の最中であった。

 午前中、早朝にやってきた上原小夜子に伝習塾を任せた。
 「今日一日、きみが塾長代行だ」
 彼女は私が何が言いたいか呑み込んでいた。
 「はい、分りました」鶴の一声であった。
 上原には世話になりっぱなしだった。彼女は家内に代わって良く働いてくれた。
 次に明林塾に顔を出した。
 「昨晩まで、ついに奥さんは戻りませんでしたか?」進龍一の言だった。
 これに対し、《本当に何処に行ってしまったのだろう》と、嘆きの相槌を打つのは愚言だったので、それを控えた。言ったところで仕方がない。
 昨日以来、私の脳裡
(のうり)には悪性のガスのようなものが後頭部に溜まっている感じだった。あるいは安酒を飲み宿酔(ふつかよい)で、頭の中を掻(か)き回されているような痛みが疾(はし)っていた。家内の身に不測の事態が起こっているのは明らかだった。確信に近いものを心に刻んだのだった。事態は逼迫(ひっぱく)していた。
 「やはり警察に『捜索願』を出す以外あるまい」
 「困りましたね」
 在
(あ)り来たりの常套句を喋った。これ以上の言葉を喋る以外なかったのだろう。
 とにかく今は、身も心も引き締める必要があった。家内の身に何が起こったかは知らないが、それは突き止めなければならない事柄だった。
 あの二人が画策した某大学合気柔術部造反事件に加えて、今度はマイナー誌の誹謗中傷記事で、精神状態が更に狂ったのは明らかだった。これを思うと悲愴感
(ひそう‐かん)の伴った闘争心が、私の心に沸々と湧(わ)き起こった。
 《重ね重ね、二度も》という、肚
(はら)に据えかねた気持ちだった。

 またもや晒
(さら)し者であった。出る杭は徹底的に叩いて葬る魂胆が見えていた。
 今は眼に見えぬ、仕掛けには人を陥れることで宣伝効果を得るという巧妙な作が仕掛けられていた。人を葬る常套手段で、少しでも『帝王学』を齧
(がじ)った者なら周知の奇手で牽制策や喧伝の手段として、水面下でよく用いる手であった。今日でも企業のトップ間ではよく用いられる手口である。裏の「穢恥(えち)」の部分である。末端にはこれが見えない。
 穢恥とは浄土の反対を想像すれば分ることで穢土を指し、汚穢に塗れた水面下の恥部を言う。
 手段として先ず外堀を埋め、内堀を埋め、遂には本丸までもを攻撃媒体にして徹底的に叩き、その潰す際には大きな宣伝効果が増幅されるような仕掛けであった。手足をもぎ、動けないようにして叩くことによっり、増大する大義名分が得られるからである。その魂胆が見えた。あの男ならそれくらいは仕掛けよう。


 ─────そういう仕掛けに至るストーリーを、習志野時代、進龍一の蔵書から読んだことがある。
 それは殷の紂王
(ちゅうおう)を誅(ちゅう)する策として遣われた周公旦の「巧妙術」の一貫が『孟子』(粱恵王篇)の問答によって迂遠的に記されていた。裏の世界の「穢恥」の描写である。
 但し、孟子自身も伝説の多い人であるから詳しいことは解らない。ただ『孟子』には斉
(せい)の宣王(せんおう)との問答の中で次のように記載されている。
 宣王は孟子に問う。
 「殷
(いん)王朝の開祖・湯王は、君(君主)である夏王・桀けつ/夏(か)の最後の帝)を放逐し、周の武王は君たる殷の紂王を征伐したというが、それは歴史上の事実であるか」
 孟子は答えた。
 「まことで御座います。古い書物にはそう書いてあります」
 「では、臣下の身分の者が君を弑
(あや)めることが赦(ゆる)されるのか」
 孟子は待ってましたといわんばかりに、声高らかに胸を張ってこう言った。
 「仁愛を害
(そこ)のう者を賊と呼び、道義を害のう者を残といいます。この残賊(世に害をなす打ちもらされた賊)を侵す悪人は、天子にして天子に非(あら)ず。一個の人間に過ぎません。一個の人間に過ぎない悪人の紂を殺したとて、何の咎(とが)めがありましょう。伝え聞くところによりますと、その伝聞には君である紂王を殺したとは聞いておりません」と答えた。
 『孟子』には紂王を賊として取り上げ「残賊の人は一夫という」とあることから、一人の紂なる人物を誅したことになり、君を弑めたとはなっていないのである。
 「孝」の一文字が持つ忠孝においても、天子が悪人なら討っても構わないということで、これは孝に背く下克上ではなく、天が裁きを下す天誅と言うのである。

 殷の紂王は君
(天子)ではなく、一個人だったとしている。ゆえに殷王朝では紂が最後の王となった。
 紂王は歴史上では暴君として挙げられている。その暴君の理由を妲己を寵愛し、酒池肉林に溺れ、虐政のため民心が離反したからだという。その結果、周の武王に滅ぼされた。紂王は夏の桀王とともに暴君の代表とされる。歴史上ではそうなっている。
 しかし、背後には周公旦が一枚も二枚も噛んでいたことは言うまでもない。
 表から検
(み)れば掛値通りに映るが、裏側から検れば陰の魂胆が泛(うか)び上がってくる。必ずしも表のままの掛値通りではないからだ。周代以来の、孔子が手本とした周公旦の礼楽も、裏ではこのように穢恥に塗れた手段を使ったのである。孔子は周公旦の陰部の実像を見逃した観が大である。

 そもそも周は最初、殷に服属していたが、西伯
(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた国である。周建国には周公旦の策略が見え隠れする。周公旦は文王の子で、兄の武王を助け紂王を抹殺した。この構図だけを見ると、如何にも正義が実行されているように見える。
 そして紂王は暴君と定義付けられてしまったため、歴史の中では天下の大悪人に仕立て上げられている。
 事実、そうであったが、そのように仕組まれたのは、紂王の下に妲己と言う秘密兵器が贈られて来たからである。妲己は絶世の美女であったと言う。

 そして紂王誅殺のためのシナリオは既に、前例があり、夏の最後の帝であった桀の徳の無さを利用した。桀王は徳で統治をすることをしなかった。明君からは逸脱していたと言う。徳に変わって武力で諸侯や民衆を押さえつけた。それだけに諸侯や民衆に憎まれたのである。
 しかし、桀王は中々討てない。
 そこで転覆を企てる側は一計を用いた。
 末喜
(ばっき)という美女を捕らえさせるように企てた。その美女を桀王自らの妃としたのである。桀王は末喜に溺れことになり、政治は殆ど省みなくなった。その一方で途方もない愚行に奔った。如何なる名君も食と色に転ぶと言う現実である。人間骨抜きの手段である。
 かの有名な酒の池に船を浮かべて「肉山脯林
(にくざん‐ほりん)」という肉を山のように盛る豪華な宴会を催し、美食に明け暮れ、そのために国力は衰えていくのである。日夜これを催した。

 また、殷の湯を呼びつけ、夏台にて牢獄に繋いだ。のち湯は赦されて解放されるが、その後の人生で徳を修め、その結果、諸侯がその下に集まり、ついに桀王が討たれることになる。そのとき桀王は「湯を夏台で殺さなかったばかりにこう言う結末を招いた。何とも悔しい」と言い放ち死んだという。
 殷は夏を滅ぼして樹立した王朝である。また中国最古の王朝であり、「商」とも「商朝」とも呼ばれる。この王朝が出来るに至った経緯は、既に述べた通り、桀王が暴虐な政治を行い、ために人心は夏から離れという。この構図は、そっくりそのまま、今度は殷の紂王誅殺のシナリオとして用いられた。

 妲己と言う秘密兵器を遣い紂王に度を過ぎた享楽の事を「酒池肉林」と呼称される策を採らせ、暴君に仕立てた後、討つのである。
 この研究を周公旦は徹底的に行っている。妲己を赤ん坊の頃から養育し、英才教育を施して秘密兵器に仕立て上げる。その後、殷に送り込むのである。そしてその構図の中で、「夏桀殷紂
(かけつ‐いんちゅう)」と呼ばれる、夏の桀と共に暴君の代名詞を歴史上に設定するのである。壮大な策であった。
 紂王は帝辛
(ていしん)といい、帝辛と桀の最期は酷似している。これは果たして自然発生的に歴史に登場したのだろうか。

 桀紂とも、美女の末喜と妲己に溺れ、また政治を省みず、それぞれの豪華な宴会の「肉山脯林」と「酒池肉林」を催し、諫言をする忠臣を殺害し、次代の王である湯王と文王を幽閉し、名臣の伊尹と太公望を補佐として、それぞれの湯と文を正義の英雄に仕立て上げて滅ぼすという壮大な筋書きを構築したのである。
 かつては、夏王朝は実在しなかったという説が有力であったが、昨今では新たな遺跡発見などのより、また考古学の技術性能も高まり、同時に帝辛の逸話を用いて、壮大な策略とする説も浮上して来ている。

 持論では、これは大いにあり得ることと考える。夏王朝も殷王朝も、崩壊へのストーリーは人為的な謀
(はかりごと)だったと思っている。歴史の上での自然発生的に起こった自然体ではなかったと確信している。
 普通、王朝なども栄枯盛衰は自然の摂理と考えてしまう。
 この観点から検
(み)れば、総て自然の成り行きのように映る。だが既に紀元前から、一つの流脈により人工的に誘導されたとするならば、今日に起こっている種々の社会現象も、多くはある一定の目的を持ち、意図的に図ったものであるとするならば、人類の歴史は自然発生的に起こるのではなく、人工的に造られて来たという理由が成り立つ。

 ある流脈を持った、その流れに即した考えで誘導し、その方向に意図的に流したら、結果はほぼそのように流れるのである。智者が仕組めば、愚者は完全に翻弄され、騙される。あり得ることだ。そして、かの晏嬰は言ったように、世の中を動かすのは愚人であり、賢人ではない。
 愚人に謀を仕込めば、愚人が直ぐに信用しよう。愚人を誘導するのはそんなに難しくない。
 そもそも文武と言う世界は、文を担当するのは一握りの賢人であろうが、消耗品の武の世界は誰に当てたら相応しいか容易に想像がつこう。

 殷王朝崩壊のために最も尽力を尽くし、その功労者は周公旦であろう。
 もともと紂王は妲己を知る前は政治に精通した明君であったと言う。この明君が何故、暴君に変わってしまったのか。
 これを考えれば、背後に巧妙な仕掛けがあったことに気付こう。
 仕掛けは此処まで大掛かりでなくとも、類似した外濠から埋めて行って、徐々に本丸へと迫り陥落させると言う手は、穢恥では常套手段なのである。
 穢恥が陰謀に紛れているために、人知れず水面下から潜伏して本丸の乗っ取ると言う穢手が遣われる。こうなると奇手ではなく、“穢手”となってしまう。



●不運の連鎖

 悪い時には悪いことが起こる。畳み掛けて来る。
 足を習志野警察署に向けた。
 警察署に着くと、早速、捜索の担当官に会って捜索願を出した。年齢、身長、服装、おおよその体重、身体の特徴などを話したのである。そして緊急の場合、何かあったら進龍一の明林塾に電話をしてもらうように頼んだのである。伝習塾には電話がなかったからだ。それは敷設する金がなかったのではない。当時、電話を引くには住民票が必要だった。
 ところが住民票は習志野にはなかった。家内も私も北九州小倉にあった。したがって電話は引けず、奴の塾の電話を使っていた。
 当時は携帯電話もあるにはあったが、形状はかなり大きな物で、資格を得るための権利金も高く、庶民には高嶺の花であった。
 また用い方は、肩から掛けて鞄のように持ち歩くと言うのが、この時代金持ちの間で、ちらほら所持されていると言う程度のもので、金持ちは専ら自動車電話を使用している時代であった。昨今のように気易く携帯という分けにはいかなかったのである。

 急用の場合は双方の塾の生徒が伝令に疾るのである。
 一旦奴の塾によって、警察署に向かった。何の消息も分らずということだった。
 しかし警察署を出る時、担当官は妙なことを訊いた。
 「居なくなった奥さんは日本人ですか?」と、妙なことを訊いたのである。
 妙なことを訊くなと思いながら、「家内は紛れもなく日本人ですよ」と返答した。

 だがこの時、入れ違いになって、家内は習志野警察署に保護されていたのである。
 後で知ったことだが、居なくなった日から推定すると、この入れ違いはピッタリと符合するのだった。
 この当時の模様を訊くと、家内は大久保十字路から津田沼行きのバスに乗って、JR津田沼駅まで行ったと言う。気が動転して錯乱状態になり、何処をどう歩いたかは知らないが、駅前の歩道橋を歩き、JR駅前のPARCOや京成津田沼駅側のイトウ・ヨウカドウの中にも入り、あるいはバスターミナルでバスを待ち、停まっているバスに一度は乗り、あるいは間違っているのかと思い直し、降りては、また乗ることをしていたそうである。
 精神錯乱者にとって、こうした行動は見覚えのないジャングルの中の探索であったに違いない。そして最初の振り出しであったバスターミナルの戻っていたのである。
 そこでバスの運転手は、家内に問い掛けたのだが答えないので、「挙動のおかしい変な女がいる」と言うことで、警察に110番したのだった。その後、駅前の交番から警官がやってきた。
 警官は日本語で問いかけても、返事しないから、東南アジアからの来日者と見たのかも知れないということだった。警官は最初、日本語が分からないと思ったのだろう。それは東南アジア系の人種と思ったのかも知れない。直に精神障害者と結びつかなかったようだ。まず、ここに行き違いが発生していた。

 警察は容疑者や保護者に関しては、裁判時と同じように人定
(じんてい)質問をする。
 氏名・本籍・住居・職業・生年月日などを尋ねる。この職務質問に、一般市民はスラスラと答えなければならないのである。これは警察官が、警察官職務執行法に基づき、異常な挙動その他の事情から判断し、犯罪に関係があると疑われる人物などを、街頭などで呼びとめて行う質問である。この対象には精神障害者も入るらしい。
 この時、家内は錯乱から、今度は分裂病の鬱
(うつ)状態へとなっていた。警察に保護されたのはいいが、一言も喋らないのである。返事しないのは日本語が分からないと思われたらしい。これがまた、更に間違われる原因を作ったのだった。この時点で、家内を精神障害者と見抜けなかったようだ。措置入院の手続きが遅れたのも、このせいだったかも知れない。
 保護した家内に、警察官の一人が、日本人でないのでは?ということで英語で訊いてみたそうである。すると、それに家内が英語でスラスラと答えたと言うのである。

 後になって、「何で英語で答えた?」と訊くと、意識がぼんやりしていて、誰かが英語で話し掛けているようなので、これには英語で答えなければならないと思ったと言う。そういう風に、誰か知らない、男か女か分からない者が「日本語でなく英語で答えろ」といったと言うのである。これは精神分裂病特有の幻聴だった。この幻聴に惑わされて、英語で答えたと言うのである。高校・短大時代と英会話をやり、普段から英会話をやっていたので、英語の会話はお手の物だった。

 そして、「英語で答えた」ということが起因して、駅前の交番から習志野警察署に送られ、そこで更に、今度はフィリピンなどからやって来て、錦糸町などに屯
(たむろ)している東南アジア系の売春婦と間違われたと言うのであった。
 昨今の東南アジア系の人種は、日本人と殆ど区別が付け難いからである。日本人でも日常会話を英語で話せば、これらの人種と間違ってしまうことがある。

 警察にもこの思い込みがあり、誰かが英語で訊くと英語で答え、肝心な話になると黙ってしまう、こうした一連の態度を、警察は売春組織の売春婦という固定観念を抱いたのである。
 「何処の売春組織か?」と下手な英語で訊かれたので黙っていたら、益々そのように思われ、丸一日尋問されたと言うのだった。見当違いも善いところだった。
 また警察も、精神分裂病患者であるということが直に見抜けなかったし、そう言う事態を想定しての扱い方が所轄の警察署では訓練されていなかった。

 この間、何も食べさせてもらえなかったと言う。あるいは食事を出しても食べなかったかも知れない。何も答えないので長らく放置されたのであろう。これを黙秘権と採ったのだろうか。
 当時の日本の警察の常套手段だった。
 容疑者が質問に答えなくなると、それを長く放置すると言うのは日本の警察の心理戦的な尋問手段である。考えさせる暇を与えるからである。これが約一週間、行方不明然に扱われた理由であった。時間が解決すると言う心理作戦である。しかし、時間の意識を失った者には通用しない。そこに手抜かりがあったと言えよう。

 最初に気付くべきであった。しかし遅過ぎた。
 警察は時間が経つにつれ何処かおかしいと思いはじめたのは、初動捜査と言うか最初の見立てに狂いがあったといえよう。更に第二の間違いを犯している。見立て違いよって「東南アジア系の精神異常者がいる」と言うことで、八千代市の八千代病院に「この異常患者を預かって欲しい」と懇願したと言うことであった。
 換言すれば、習志野はそれだけ当時は、殆ど事件のない平和なところだったのである。
 更に奇妙なことは「警察から懇願された」と言う話は、八千代病院の医師から、耳に蛸ができるほど散々訊かされた。
 照らし合わせると辻褄が合うのである。それだけに警察の不手際があった。
 警察官が精神に障害がある者が街を徘徊
(はいかい)していたら、直に保護しなければならないという警察官規則は、習志野では見事に破られていた。此処では厳守されていないどころではなく、警察官の措置行為すら知らない者が多かったといえよう。平和が齎した平和ボケである。
 安穏とした先入観から保護するどころか、売春組織についての尋問までされたというのである。

 また八千代病院に移された後も、警察が「どうも東南アジア系の売春婦であるらしい」と言ったために、家内は性病検査までされたと言う。一種の不当な人権侵害と侮辱
(ぶじょく)だった。人権は無視されていた。そして、家内に問い掛ける看護婦の下手な英語が、何とも歯痒(は‐がゆ)いと言うのだった。
 面白半分に下手な英語で問われ、この病院でも、警察の固定観念に汚染されて、一週間の間、東南アジアから日本にやってきた売春婦だと思われていたのである。まったく酷い話である。




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