運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 32

旧明林塾跡に開塾した伝習塾。
 此処では素行問題児や学業不振児を家内が指導していた。塾の外部は白いペンキが塗られ周囲を小綺麗に装っていたが、建物は戦前からのもので老朽化していた。


●家内の呪文

 この頃、家内は小刻みに、小銭をせっせと貯め込んでいるようだった。
 食事の度に、それを臭わせることを言うのであった。
 「チバギンさんとフナシンさん……」
 「ぶつぶつと何を言ってるんだ?」
 「チバギンさんとフナシンさんに“臍繰
(へそ‐く)り”しているのよ」と、嬉々として言うのだった。何か、それを伝えたいふうでもあった。
 私も、さして聞いている風でなかったので、聞き流しながら、「臍繰りと言うのはなァ
、亭主に内緒でするものだ。自分からバラす奴があるか」と言い捨てた後で、「ところで、その“チバギンさんとフナシンさん”とは、いったい何のことだ?」と聞き返した。
 ところが意味が掴めない。何だか呪文のように聴こえたからである。

 「チバギンさんはチバギンさん。フナシンさんはフナシンさん……」
 「何じゃ、その変な言い回しは?……、変な宗教の呪文でも唱えているのか?」
 私は、無意味な綴字
(ていじ)の連続の言い回しが、何かの呪文のように聞こえたのである。
 「だから、チバギンさんはチバギンさん。フナシンさんはフナシンさん、よ」と言うのだった。その意味は自分で謎
(なぞ)解きをして考えろと言うのだった。
 そして、意味が分からぬまま、その日はそれで、敢
(あえ)て突っ込んで訊いてみる気もなかったのである。

 それからまた、何日が経って、食事の時に同じことを言うのであった。
 「チバギンさんとフナシンさんに、少しずつ貯まりはじめたわよ」と言うのだった。
 「だから、チバギンさんとフナシンさんが分からんのだ。呪文
(じゅもん)のような変な言い回しするな」
 私はどうにも、家内の言った“チバギンさんとフナシンさん”の意味が分からなかったのである。また、変な宗教にもで凝っているのか?と思うのだった。
 呪文は、呪術の最要部を成す唱文を強調するものである。

 例えば、密教の「オン・アビラウンケン。オン・アビラウンケン……」などである。
 呪文である。呪詛ともいう。
 呪文は、一定の手続の下
(もと)で唱えることが原則とされる。そして、自然力あるいは神や、人間の行動を積極的に統御し得ると考えられる文節や語句を繰り返すのだった。
 したがって家内の言う、“チバギンさんとフナシンさん”の意味が分からないのだった。あたかも、呪文のように聞こえるからである。

 「だから、言っているじゃないの。チバギンさんとフナシンさん……よ」
 「変な謎々
(なぞなぞ)は止めんか」
 遠回しに悟らせよいとしても解る訳はなかった。
 「チバギンさんとフナシンさんのこと?」と訊
(き)き返すのだった。
 「そうだ」
 「ああ、そのこと?チバギンさん千葉銀行のこと。フナシンさんは船橋信用金庫のこと」
 「何だ、そういうことだったのか……」
 二つの地方銀行に、小金を貯めているらしかった。幾ら貯まったのかは知らないが、少しずつ増えていくのが楽しいらしい。
 小刻みに小金を貯め、日々贅沢もせず、慎みを知る生活の積み重ねは、一攫千金
(いっかく‐せんきん)を夢見て、宝くじを買い漁(あさ)る人間より、明らかに賢明な生き方と言えた。家内は毎日、買い物をした後に残った釣り銭を百円、二百円と《ブタ》の貯金箱に溜め込み、ある程度溜まったところで銀行に持っていってコツコツと預金しているのである。

 家内の口癖は「最低でも20万円は持っていないのね」と言うのだった。
 「なぜだ?」と訊くと、盲腸炎になった時に、最低でも20万円の手術代は懸かるというのだった。
 「お前は盲腸の手術をしているだろう」というと、「あなたの手術代よ」というのだった。果たして私がこれから先、盲腸の手術を受けるような事態が起こるのか。
 苦笑したくもなるが、一方で健気
(けなげ)と思った。

 これまで何度か恐ろしい目に遭
(あ)っている。
 普通の家庭の主婦であれば、決してこうした怕
(こわ)い目に遭遇することはあり得ない。それが何度も遭っている。
 しかしそれを“おくび”にも出さない。そうした不幸現象に遭遇した怕
(こわ)いことを秘して、少しも口に出さないのである。何事もなかったように過ごして来た素振りを考えれば、傍から見ていて何ともいじらしく、また健気であった。それが可憐であるかのように映った。それだけに私の胸を抉(えぐ)ったのである。
 ほんの一年前くらいは、そういう恐怖は日常茶飯事で、怕いことばかりが連続したこともあった筈だ。

 難儀は承知の上であるから当り前と言えば当り前だが、人間は言葉では認識していても実際に現実化された時、弱音を吐いて逃げ出す者も多いが、それをしかなったことは、何か自身を支える信念があったのだろう。
 それはおそらく私が掲げた壮大な『西郷派大東流馬術構想』であったかも知れない。 
 この構想に夢の一枚噛んだ時から覚悟を決め、波乱万丈の人生を自身で予感し、選択していたに違いない。
 つまり、私が常々言って聴かせていた「幸せへの道標
(みちしるべ)」である。
 それを、ある小説に出て来る「相思相愛の若い夫婦」の話に託してである。
 家内に聴かせていた話は、「一組の相思相愛の若い夫婦が幸せを未来に託して、その夢に迫る話」である。
 話の始まりはこうである。

 一組の相思相愛の若い男女は幸福を夢見て結婚した。しかし彼らは甚だ貧乏であった。貧乏なうえに病気がちであった。その生活は気の毒なくらい惨めで不幸な生活であった。
 ところが、この夫婦は不幸を不幸と捉えず、不幸の中に創意工夫で貧乏の中に楽しみを見出す「何か」を探して健気
(けなげ)に生きていた。良人(おっと)は体調のいい時は力仕事に従事する。また新妻は切り詰め、生活を工夫し、時には自分の美しい髪の毛を売ったりして金の工面をつけた。
 何故ここまでするのか。

 未来の幸福を夢見ているからである。今は苦しいが、未来に希望を見出しているからである。
 こうした今の現実を、果たして無知と貧乏に起因しているのか。
 確かに無知は貧乏の原因であり、貧乏は無知が起因していることが多い。これが人間一般の通則である。
 だが、この通則を破って、世間には無知でありながら何らかの運に恵まれ、富んでいる人も少なくない。
 しかしである。

 これは変則的現象に他ならない。
 変則的現象は長く続かないのである。やがて尽きる時が来る。
 無知でありながら富んでいる人の運は、幸運の女神の気紛れだろう。
 この時期、確かに富める者はより富み、貧しき者はより貧しく、そういう世の中が浮上し始めた。金融経済が齎した一つの現象であった。ちょっとしたことで、当時、土地転がしが盛んであったから、これに便乗した者は、一時期、幸運を掴んだ者もいるようだ。だが、それは束
(つか)の間のバブルだった。
 そうした気紛れから起こった運に縋
(すが)っている富者は、この時を長続きさせようと思えば、富みの死守する代わりに、安楽と享楽を求めようとするかも知れない。浅知恵から出た無知克服の策である。

 幸運は長続きしないのである。
 その結末を知る、相思相愛の若い夫婦は、幸運が一時期継続するこの状態を欺瞞
(ぎまん)と検(み)ていたのである。あるいは好事魔が多しの現象を知っていたのかもしれない。
 それゆえ羨望がなかった。
 人間の一時期のツキを羨んでも仕方のないことであった。
 要は地道である。コツコツと歩むことである。

 この見識は正しかった。
 したがって自分達は不幸の中に在
(あ)って、幸福を目指し、真の幸福に繋がる道を歩いたのである。
 だが、遂に病気がちな不幸は変更することが出来なかった。最後の時が来る。
 そして二人で思うのである。
 「わたしたちは幸福には到達出来なかった。しかし二人して、間違いなく幸福に繋がる道を歩けたことは幸福なことであった」と。
 幸福感を感じるのは、幸福に至って目的達成後にその感覚はあるのではない。問題は幸福に繋がる道を歩むことである。換言すれば「楽しい苦労」と言えるかも知れない。幸福に成るか成らぬかは問題ではないのである。幸福に繋がる道を、いま歩いているという意識こそ、実は幸福なのである。

 家内は些か感受性が強い感情家である。それに勘も鋭い。予見的な能力もあった。
 更にずば抜けた能力は、非常に眼がいいことであった。遠くのものを正確に検
(み)て判断する能力があった。
 女短大時代、幼児教育科で学んだ経験があることから、言葉にできない幼児心理を読むのである。また遠くで、誰かが話している会話内容を口の動きから読んでしまうのである。
 感性が豊かであるといえば、最良のように捉えがちだが、感覚反応が優れているだけに、他人の話とか、感動する映像などを見て、刺戟を受け易いタイプの人間であった。
 勿論、皮膚感覚が敏感で体感もいい。それだけに感度もいい。
 かの術で言う「天界の珠
(たま)の転がるような、いい音色を聴く」であろう。
 これは天性のものだろう。
 しかし、善し悪しで諸刃
(もろは)の剣(つるぎ)にもなった。良いこと尽くめではない。
 刺戟を受ける感性が強いのである。感動もし易い。

 この話をしたとき、自身では何かに執念のような意図が窺
(うかが)えた。物語に主人公になったかのような錯覚を抱き、それに見習ったのかも知れない。大いにあるだろう。あるいは私の暗示に掛かったのかも知れない。
 幸福への途上に何かを感じ、貧乏生活を余儀なくされながら、既に幸福路線を歩いているという確信を持っていたように思うのである。

 幸福になるかならぬかは、人間が決めることでない。天が決めることである。あるいは運だろうか。
 しかし、これは人智では決定されないし、人為を用いてもそれを決定付けることは出来ない。人間は幸福に向かって、ただ努力するだけのことである。その方向に向かって励めばいいことである。努力は実らないことがある。むしろ実らないことの方が多いだろう。それを覚悟で、ひらすら努力する。この努力する中に、「努力する他力」があると思うのである。
 それでも幸福に向かって歩いた。幸福に繋がる道を歩いた。
 それに向けて歩いたこと自体が、既に幸福であった。歩んだ行為の中には、既に幸福があった。
 そうした幸福に繋がる話を家内に聴かせたことがあった。それで蹤
(つ)いて来た。
 私の掲げる構想に、一枚噛ませてくれと言った。

 習志野時代は、家内にとっては幸福に繋がる延長上の過程を踏んでいたのであろう。
 それは自分で塾を切り盛りし、集金に執念を掛けて、不払い者はビシビシ取り立てる。それは悪意でない。生き残るためである。必死であったかも知れない。
 進龍一が舌を巻くほど凄まじかった。
 家内が一番生き生きとして、傍
(はた)から見ていて溌溂(はつらつ)とした立居振る舞いが、美しいと感じたものである。その溌溂感の背景には、「いま幸福に至る道の上を歩いている」という感覚を感じていたからであろう。
 その後、伝習塾は家内と《越後獅子・1号》の上原小夜子に加えて、《越後獅子・2号》の勅使河原恭子を含め、「伝習塾三羽鴉」の全盛期を迎えるのである。
 家内の呪文は、その先駆けであったのかも知れない。



●先見

 私は心の片隅には負い目があった。
 生涯のうちで、二人の女に負い目を感じていた。
 一人は最初の女で、もう一人は最後の女で不幸にして添い遂げられなかった。
 またもう一人は、籍を入れただけの今の家内であった。
 なぜ負い目を追う羽目になったか。

 告白すれば複雑である。一口では言えない。
 ただ共通項は、何れも私の子を産んだことである。その間、放浪癖のある私は女巡礼を繰り返して取っ替え引っ替えした。自分で考えても、ご苦労なことであった。煩悩故にだろう。

 最初は長男を産み、最後は末娘と末坊主を産んだ。あるいは産んでくれたと言うべきだろう。更に共通項は勘が働くことも、同じ性質の種に属していただろう。
 ただ異なっている点は、前者の勘は冷徹家のそれだが、後者の勘は感情家のそれであった。双方は感性の次元で異なっていた。
 その違いを更に比較すれば、前者は医科学者としての勘だが、後者は霊能力者としての勘であった。

 私は女の勘という菩薩の掌の上で、近未来を夢想しつつ、暗愚にも踊らされていた孫悟空だったかも知れない。
 一方で遍歴した私の過去には、周囲が言う“大した悪党”を演じた、悪い奴だったかも知れない。そしていつの間にか、「髪結いの亭主」になりかけていた。
 自分で働かず、寄生するだけの悪党である。悪党は気が向かないと働かない。
 悪党が顛落し天下の素浪人となって職を失えば、何の要もなさない。
 習志野時代、これといった仕事もせず、職にも就かず好き放題をして暮らした。この意味では、職を探しつつ働くフリーターより、悪辣
(あくらつ)だったかも知れない。女に養われていると言う負い目があった。
 この当時は妻の稼ぎで暮らしていた。指弾されれば、言い逃れが出来ない。そのようなことを平気でしていた。まさに極楽トンボ然だった。天下の暢気者であった。浪人とは、そういう種属かも知れない。

 最初、最後の女が家に転がり込んで来た時、最初の女医のところに就職を世話した。看護婦として雇って貰うことにした。そしたら女医が言った。そう雇用主が言った。
 「あの娘
(こ)は駄目よ」
 最初、何が駄目か意味が分らなかった。おそらく直感で言ったのだろう。
 転がり込んだ使用人を暫く放置した。
 すると使用人は昼間看護婦をやって、夜はスナックの勤め出した。そこで、監督責任を追及されて女医から喧しく言われた。「確り監督しろ」と言うのである。
 あの娘は駄目……。
 そう言われた当初は意味不明だった。あれから少しは分りかけたが、まだ分らないことがある。病気持ちを指摘したのだろうか。あるいは感情に激怒する一面を感情家と検
(み)たのだろうか。または一緒になっては駄目だと言ったのだろうか。その懸念も大いにある。
 そして、あの忌まわしい事件を機に、遂に狂った。心因性の何かが起こると、狂うことを予期していたのだろうか。現実には心因性ショックでそうなった。

 私には自分の未来に安楽な人生の選択肢が幾つかあったと思うが、安楽な方を選択せずに、何故か数奇なる運命を選び、あたかも虎口に吸い寄せられるようにズルズルと近付き、波瀾の人生を選択してしまったように思う。そして、債権者からの烈しい攻撃を躱
(かわ)しながらの倒産後の夜逃げである。此処でくたばる訳にはいかなかったからである。
 生き残らねばならぬ使命があったからである。
 死して不朽の見込みがあるような、死に場所を探し当てていなかったからである。一矢報いない限り、此処でくたばる訳にはいかない。
 理想と夢と志に生きて、その大業に一歩でも二歩でも近付く可能性に賭けて奮闘する人生を選択していた。
 しかし、それは苦難を伴う生であった。生半可な生でない。苦難の生である。絶体絶命の艱難
(かんなん)に追い込まれる生である。まさに艱難辛苦(しんく)であった。
 それを乗り越えて行かねばならない。諺にある通り、「艱難汝を玉にする」を信じる生であった。老子の言う「受任者」の任を果たさねばならない。

 人間は人生の重要な問題になると、実に孤独である。一人だけ取り残される。置いてきぼりを喰ったような気になり、孤独との格闘が始まる。
 特に私のように、自分の思うことを何でも口にし、したいことをする人間はとかく敵が多く、異端視され易い。危険人物として警戒され、敬遠もされる。最後は誹謗中傷の末、指弾されることも多い。非難と悪罵の中での闘いを余儀なくされ、孤独と怒りの中に封じ込められる。周りに味方が少なければそう言う体制を余儀なくされる。孤立である。
 本来なら称賛されるべき可視世界とは裏腹に、数歩先を行く異端者は異端者以外の何者でもなく、危険な匂いを漂わせている悪党と捉えられてしまうのである。それを覚悟で、信念に徹する意外ない。己を信じて前へ進む。
 こうなると、おうおうにして非難と無理界の渦の中に引き立てられて、烈しい罵声を浴びることになる。

 私個人の真の歴史は、他人が何と云おうと理解できないものであり、その中で理解者が少ないのは悲しいことである。
 ここには自分の愚が招いた悲しみと、自己の無力を意識している無力に怒りが疾るのである。

 「俺に蹤
(つ)いて来たことを後悔しているか。貧乏を憎んでいるか」
 かつて家内に以前訊いたことがある。そのときはハッキリとした解答を家内の口からは貰えなかった。そして、いま同じことを訊いた。
 「それじゃァ、好きなことをして暮らせますね」
 好きなことをしているのではない。好きなことをする以外、何もないからである。
 人は、ドン底に落ちれば浮上するために、底でひと時の休養をとる。

 一方で、家内は貧乏生活を上手に切り盛りしていた。
 倒産前も、倒産後も債権者に迫られ、あれほど貧乏が懲
(こ)りている筈の家内であったが、殆ど困った貌を見せなかった。芯が強かった。
 そこで、仰せのままに「好きなことをするか」となったのである。
 浪人暮らしの時に、「働いてみたら」などと迫られると、実に辛いものである。
 ところが肚では思っていても、口に出さないところが救われた。その種の愚痴はこぼさなかった。この辺も変わっていた。
 亭主を口汚く言う恐妻家でないのが、せめてもの慰めであった。
 そこには寔
(まこと)に悪気のない、無邪気な、貧乏に甘んじて、それに不平を言わず、慎ましく生きる清貧のようなものがあった。

 近年は、残念なことに清貧と言う意味が薄れ、これに甘んずる忍耐が欠如しているように思うのである。
 世界中の富みが、現実の格差社会においても平均化する作用が働き、一方で差別に満ちた驕慢
(きょうまん)が起こっていることも、また事実である。庶民が、上流の猿真似を始め出したからである。更に、こうした猿真似を可能にしたのは、庶民の中でも猿真似が出来ることを可能にした戦後特有の自由と平等があるからである。

 しかし、当時も今も、それが確立されたとは言え、かの原憲流の清貧も中々捨て難いと思うのである。侘びや寂びの世界である。そして、つい最近見た、あの異様な瓢箪仙人然とした老人であった。
 この老人に、何故か原憲流の清貧を感じた。
 老荘風の風流を見せ付けられたから、私の中の何かが急激に変化し始めていたのである。惹
(ひ)かれたのである。
 つまり、清貧に安んずることの道徳的価値観は疑う余地もない。安住の安定感がある。極端な贅沢を追い掛けず、日々を慎ましく過ごす。今が足りていることで満足し感謝する。
 「吾、唯、足るを知る」の心境である。貧乏の中にも豊かさを見出す創意工夫の心境である。
 そして他に望むことはない。そういう心境に至ったことは、いったい何に起因しているのか。

 確かそれは……と思うのである。その変化に気付く。この変わりように気付く。いったい何によって変化したか。
 これまで、自分の外側のみを追い求め、自分の裡側
(うちがわ)を復(かえ)り見ることを忘れていたからである。幸せは物質的なものになく、自分の裡側にあったのである。
 そして思えば確かあれは……、あの「壺中の天」の何かに触れ、そこに至る別天地、あるいは仙境を髣髴とさせるからである。
 しかし、これには「但し」と付随するものがある。

 もし、貧することが、怠惰と無能の結果からでないという条件に限りである。無為無策から起こった貧乏でないことである。
 言わば“濁貧”である。清貧はいいが濁貧は怠惰と無能から起こった貧乏であった。
 至る所に人生の別天地がある。壺中の天がある。その仙境を探求してもいい。
 それは文明に逆行することでもないし、またそれを否定することでもない。順応して、肯定しつつもそれに頼らず、俗に棲
(す)み、俗と交わり、それでいて俗に染まらないのである。
 今を生かされてことだけで有難いと思う。
 謙虚な心境に至り、素直に感謝する。思い上がったり、奢
(おご)りのないことを、それだけで誇らしいと胸が張れる。
 原憲流の清貧も充分に理解出来るのである。
 更に「孔門七十子」に数えられた原憲ほどの人間が晩年、孔子の門を離れ、人知れず草深い湖の畔に庵を構え、そこで名誉も学識も求めず、老荘的な後半の人生を送ったか、分るような気がするのである。

この世の真理は、「捨てていく中」に真理がある。
 現世と言う人間が構成する現象界は、表面上は人間によって運営されているが、その深層部は人智で動かされているものでなく、人智が及ばない、不可視世界の現象で、それが可視世界に反映されている。

 人の心の中にはそういうものを感じさせる何かがある。
 しかし、それは文明と逆行することではない。人間が自然の一員であったこと思い出させてくれるのである。
 自分の裡側から外を覗けば、壺中から見上げる天があった。そこには老荘の世界が広がっていた。

 当時の模様を振り返れば、どうだったかと思う。
 確かに、まだ“お貰い”の傾向も些
(いささ)かあった。何かに頼ろうとしていた。托鉢心理であったかも知れない。貰って歩くことだけを画策していたかも知れない。
 しかし、それだけではなかったように思う。確かに貰うが、貰って乞い歩く中に、与えて歩く姿もあったのではないか。
 昔の托鉢者の心理である。

 喜捨する喜びを古人は与えていたように思う。
 そして、人のことを偉そうには言えないのだが、今日の寄附などで乞い歩く、この種の社会活動家や慈善家が、単に事業化して乞い歩く心でないことを願う限りである。
 当時は今以上に貧しかった。それでも某
(なにがし)かの名目で乞い歩く慈善家が、わが家に一度訪れたことがあった。
 それを無下に追い返すこともなく、家内が某かの金子
(きんす)を包んで手渡していたことがあった。それが奇妙な印象として残っている。感情家の、情にほだされた軽薄な行為であったのだろうか。
 そうとも一概に決め付けられない。喜捨する喜びであったのだろう。

 捨てて行く中での真理が知りたい。当時そう思ったことがある。
 原憲流の清貧に肖
(あやか)っても悪くない。そう思ったことがある。
 更に、原憲の後輩に当たる子貢
しこう/孔門十哲の一人で、魯や斉の宰相を歴任した。更に『貨殖列伝』にその名を連ねるほど商才に恵まれ、孔子門下で最も富んだ)が旧情を覚えて、隠棲(いんせい)する原憲の庵を訪ねた際、余りに酷い極貧ぶり見てを嘆く場面で、「いやしくも孔子の高弟たりし者が、何と言う態(ざま)だ」と詰った発言に対して、毅然と胸を張り「恥とは、邦に道あれば穀す。邦に道無きに穀すは恥なり」と遣り返しつつ、更に「見せ掛けの行動で、尊大なる態度で人に学を教授するのか。そういうことは到底、私には出来ない」と指弾する、このようなの凛(りん)とした生き態(ざま)を全うしてみたいと思うのである。
 そして、原憲から指弾された子貢は、自分の態度を大いに恥じ入り、生涯、己のこの発言を悔やんだと言われる。

 私が勝手に呼称する『瓢箪仙人』なる老人を、何処の誰か、知らない。
 しかし、原憲然とした風貌が感じられ、まさに風流人であった。風流人は名刺交換などの俗世の儀式はしないのである。
 一期一会のことだから、住所も名前も名乗り合う必要もない。俗世の名前などどうでもいい。少なくとも老人はそう思っているだろう。
 現代流に言えば、商業的な顔つなぎや、人脈のための名刺交換不要と言うところだろう。
 老人にしてみれば、自らに名刺交換禁止の掟があったのかも知れない。私はそれに従ったまでで、俗世の為来
(しきた)りなどは、私自身もどうでもよかった。

 私は、老人を尊敬の意味を込めて“ご老人”と呼ぶし、老人も私を若輩者として見下すことなく“ご貴殿”と言う。双方の関係はこれだけで成り立っていた。もう他に望むことはない。それでいいと思う。
 この老人は、「袖振り合うも多生の縁」と言う。同じ舟に乗った「同舟」であった。
 道行く知らぬ人と袖が触れ合うことさえ宿縁によるとし、ちょっとした出来事も総て宿世の因縁によると言うその奇縁を日々の一期にしているようであった。物事は日々新たに何かが新生し、何か姿を消して行く。その中で、奇縁が生まれる。それは不思議な因縁に他ならない。
 その因縁をもって、老人はこのように言ったことがある。

 「この社会を生きて行くには、人間界で行われている是非、分別、人の善悪、その行動、業績や成績、経歴一切などに頑固になっては行けません」
 あたかも老壮思想的なことを言った。
 老荘で言う「貌は童顔、心は玄牝」だろうか。
 つまり、「聖人の天下に在るや、歙歙
(きゅうきゅう)たり、天下の為(おさ)むるや渾々(こんこん)たり。百姓(ひゃくせい)は皆その耳目を注ぐも、聖人は皆これを孩(と)ざす」である。
 つまり、聖人が世の中に対する時には、一見小さく縮こまったように映り、あるいは思慮分別を遠ざけてぼんやりとした姿を呈している。だが、世の人々は見聞についていちいち判断と区別を必要として頑迷にこだわるが、聖人は耳目を閉ざして、自分の為の心も閉ざすということだ。
 哲学無用の哲学者である。
 こういう哲学無用の哲学者は古代人に見られた現象である。此処では百姓が古代人の意味であり、百姓は一般人が言うような哲学の勉強などしない。そのために世俗の哲学勉強をしないから、耳や眼から入り込んで来る無用なストレスを感じない。
 太陽と共に起き、太陽と共に寝た。無知無学で平凡な生活に終始する。それ以上望まなかった。
 哲学をするための哲学勉強する暇はなく、その必要も古代人は感じなかった。古代の百姓とは請うした人間だったであろう。
 しかし百姓が農事に対する哲学を持たなかった訳でない、むしろ自然を知る大哲学者であった。彼らは「哲学無用の哲学」を持っていた。古代人では哲学無用の哲人世界を構築していたのである。これが「無の哲学」であった。

 ふと瓢箪仙人を思う。あの老人は哲学無用の大哲学者ではないのか。そう思える節を感じたのである。
 無性に懐かしく、そして今一度、会っていたいと思うのである。

 「あの爺さまに会うにはどうしたらいいだろう」
 家内に訊いてみたのである。
 何しろ家内は私以上に勘が利き、また霊能的な面を持ち合わせている。少しばかり先見の明を持っていた。

 昭和50年初めの頃、NHKの番組で『ルポルタージにほん』というのが放映され、そこに大阪のあるオッサンがテレビに中でがなり立てていた。えげつない内容の話を、えげつない濁声で喚き立てていた。
 「このオッサンなんやねん」そう訊いたことがある。
 すると家内は「会ってみたら」と一言いった。
 そこで私は大阪船場まで、このオッサンに会いに行った。そして学習塾の同形態の指導を受けて塾展開に絶大なるヒントを得て、このオッサンの特異なる金銭哲学を学んだ。鷲野隆之氏である。

 次に、これもテレビで代々木ゼミナールが「大検コースを始めた」というのをテレビで見た。そこで家内に訊いた。
 「同じことを遣ってみたら」と一言いった。
 そこで東京まで出向き、高宮理事長に会いに行った。生憎にも多忙で会うことが出来ず、次長のような責任者から大検、つまり大学入学資格検定の話を聞き、これを北九州で展開することを始めた。
 最初は大検塾の小さな塾であった。ところが評判を得て、地方のテレビにまで取材を受け、これを機に大学予備校まで発展させることが出来た。
 家内の勘である。右を行くか左を行くか、訊けば、どちらに行くかを教えてくれる。家内の勘は寔に重宝した。

 しかし、仕掛けが大掛りになると、夫婦二人三脚での経営は末端に監督不行届を起こし、図体ばかりが大きくなって小回りが利かない体質になっていた。組織力における、組織行動をする人の起用の仕方を知らなかった。これまでの個人商店のそれであった。組織行動をする動きを、個人商店の二人三脚主義では到底賄
(まかな)い切れるものではなかった。その意味では組織経営および組織力という構造自体を理解していなかった。
 結局これが墓穴を掘る羽目になったのである。
 今は何もかも失った。習志野に出て来た時は一文無しだった。
 ところが、天はまだ私を見捨てていなかった。不思議な人に出遭わさせ、そこで不思議な体験をさせるのである。
 「あの爺さまもう一度会ってみたい」
 訊いたら、「では桜の樹の下で俟
(ま)っていたら」というのである。
 そこで、あの日出遭った、桜の樹の下の同じ場所、同じ時刻に習志野公園に向かったのである。


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