運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 29

最初、泉から湧き出た水や、雪解け水はチョロチョロと流れ、小さな小川となって山を下り始める。下るに従い、小さな小川は他の小川を吸収して一本の大きな川となり、方向性を持つようになる。支流化する。しかし、この状態は凡流である。閉門な穏やかな流れである。

 やがて合流が増すに従い本流化していき、早瀬となって大きな河川を造っていく。
 大半は海に流れ出そうが、一方で大きな滝になって豪快にダムのように落水の迫力を持つ大瀑布となる場合もある。

 これが一旦、大瀑布化されると大きなエネルギーを生む。水力学の基本原理であり、そのエネルギーは凄まじく、金融もこの流れによく譬えられる。水力学と流体力学が生み出した今日の金融工学である。

 世界同時金融現象が、この連動の中に一本の奔流として存在を明確にし始めた。それは恐慌自体も連動されたということである。
 そして、烈しさに勢いがつくと、もう人間の手では、これを止めたり阻止出来ないのである。為
(な)すがままとなる。
 流れとは、そうした烈しいものなのである。


●住民パワー

 進龍一の話によると、森川某はかつて此処が病院であったとき、この病院の院長の運転士をしていた。そして、当時院長からは名指しで呼び捨てられていた。
 いつも「おーい、森川某!」呼び捨てで呼ばれ、気が利かなかったり動きが“とろい”と罵倒され、本人はコマネズミのように小さくなってキリキリ舞いして動き回っていたと言う。森川某には、頭から怒鳴られる“罵声恐怖症”というのだあるという。
 恐怖や不安に敏感に反応する神経症の類であろう。

 その森川某が院長死後、暫
(しばら)くして、跡取り娘を、ついに自分の物にしたというのである。
 実際にはどう言う手を使ったか知らないが、そのやり口は容易に想像が付く。そして婚姻して、家も土地も自分名義にしたと言う話だった。
 小心者だが狡猾
(こうかつ)なところがあり、なかなかの曲者でしたたかだった。森川某とは、そういう男だと言うのである。

 そう言えば私にも、森川某の小心で、コソ泥的なところが、嫌な印象を与えるというふうに感じていたのである。そして私と眼を合わすと、正視できず、直に目を背けて逃げるような態度をするのだった。
 懐
(ふところ)の深さなど、感じさせない男であった。

 一方、森川夫人は、とても品のいい人で、良家の子女に見られるような上品な言葉遣いをし、おっとりとした優雅な夫人だった。子供はなく、美人の奥さんだったが、いつの頃からか家内が習志野にきて以来親しくなり、お宅に上がり込んで世間話などをするようになっていた。
 そして、かなりの割合で森川宅に訪ねたり、あるいは森川夫人が昼間、伝習塾に訪ねたりして、親しく会話をして楽しんでいるようだった。旅行などをすると、必ずお土産などを買って来てくれて、「よろしかったらどうぞ」と差し入れをしてくれるのである。
 「これ、隣の奥さんから頂いたのよ」と言って、変わった菓子などを出して、まだ行ったことのない土地のことを連想させてくれるのである。それだけで知らぬ土地でのロマンが疾
()った。
 果たして私は、これまで、何処かの地に家内を連れて行ったことがあったのだろうか。
 籍を入れた当初、平戸と少し前の浅草くらいしか思い当たらない。
 森川夫人には、私たち夫婦どもども親しみを覚えていたようである。
 こうした相互の親しさに、森川某は小心者によくある嫉妬を感じていたのだろう。

 今は銀行に勤めていると言う。
 銀行に勤めているが行員ではなく、地元の地方銀行の頭取か、副頭取は知らないが、こうした重役のお抱え運転士と言うことであった。
 時々伝習塾の前に、黒塗りの3ナンバーの車を止めて玄関前を塞いで邪魔で仕方がなかったが、それはそういう意味だったのである。伝習塾が目障りなのは一目瞭然だった。営業妨害だが、進龍一も又貸ししている関係上、これを強く言えないのである。また、抗議するなども無理であった。弱味があった。突かれれば非は幾らでも浮上するのである。

 こう言うのを「三竦
(さん‐すく)み」と言うのだろうか。
 蛞蝓
(なめくじ)は蛇を、蛇は蛙を、蛙は蛞蝓を食うの喩(たと)えで、三者の互いの牽制によって、何れも自由が利かないことである。
 森川某にしてみれば、自分の敷地内に何を止めようと勝手だと思っていたのであろう。
 それに進龍一の話では、森川某は跡取り娘を自分の女して以来、急に鼻息が荒くなったという。森川某の夜郎自大
(やろう‐じだい)は相当なもので、威張りくさり、自分は力量がないくせに幅を利かす態度は目に余るものがあった。
 この森川某は直接私に文句を並び立てる訳ではない。
 必ず奴に言う。そして奴は、私に忠告する。三竦みの構図である。
 そして運命はこのとき、私を習志野所払いへの方向へ動いているようだった。既にこのとき決定されたのだろう。あるいは予定されたのだろうか。

 「宗家、あの時のことを覚えていますか?」
 「なにをだ?」
 「以前、宗家が玄関先で刀を研いでいたことがあったでしょう?」
 「それが?……」
 「その時、うちに森川某が怒鳴り込んで来たのです」
 「何と言って?」
 「間借人が刀を研いでいる、危険だから止めさせて欲しいと言うのです。そして、“あの人は刀を持っているのか?”と訊くのです。そこで私が、宗家は元刀屋をしていて、古物商免許も取得していると言ったら、顔色を変えて、“危険だなあ”と呟いたのです」
 「きっと、それだ!」
 「宗家は近所の危険人物になっています」
 「では、俺が危険人物として、お前だったら駆逐したいか?」
 「いいえ、宗家はわが流のシンボルです。私は最後まで宗家を御神輿
(おみこし)として担ぎますよ」
 「有り難うよ、軍師」
 「いやですね、そういう素っ気ない言い方をしちゃァ」
 「俺はもう、危険人物として悪党のレッテルを貼付けられてしまった。残された運命は叩かれるだけだ。今さら剥がすのは無理だろう……」
 「諦めないで下さい」
 「有り難うよ、無理に労ってもらわなくとも……。こういう拗
(こじ)れたものは時間も掛かるし、解くのが難しい」
 だが私は、《正体をみたり!》と言うような声を上げていた。
 そして、このときに「汐時」を悟ったのかも知れない。
 私の心の中には《ここらが汐時かな》という後退することを考えていた。これについて進退を間違ってはならない。
 退く時には退く。これまで散々しくじったことである。

 やはり森川某は、私を危険人物として追い出しに掛かっているのだろう。先ず間違いない。
 そして、隣近所の住民を動かして追い出しに掛かっているのだろう。その音頭取りをしている疑いも充分にあった。しかし今は暫
(しばら)く忍ぼう。
 この状況を判断すれば、直ぐそこに耐え難い不幸が接近していると捉えていいだろう。
 しかしよく考えれば、世の中に耐え難い不幸などというものが、実際にあるのだろうかと考えたりもする。何故ならば、不幸に直面しても不幸だと感じている限り、現にその不幸に耐えて、同時に不幸を忍んでいるからである。確かに、拗れに拗れアンラッキーだろう。しかし暫くは耐えなければなるまい。追放されても、行き先が今は見当たらないからである。
 ただ覚悟だけは致さねばならない。
 私が習志野から追放される計画は、もう、この時から始まっていたようだ。その覚悟である。
 7月初めのことだった。もうすぐ暑い夏が始まろうとしていた。

 住民票もない他所者
(よそもの)が、勝手に習志野の住み着き、悪ガキを集めた学習塾では、地域住民には歓迎されるはずもなかった。
 伝習塾と言う学習塾は、習志野中のゴミが集まっている……。こうした風評が流されれば、ひと溜
(たま)りもない。
 悪ガキを集めて、守銭奴の如き振る舞いをする私や家内が、地域から快く思われるわけがない。おまけに月謝が一般の塾に比べて高い。これ事態が守銭奴のように思われてしまう。その悪評も立ち始めていた。
 それだけに足許に火が点
(つ)いていた。この火種は、やがて発火するだろう。そして大火事に発展するかも知れなかった。
 起こりうる予測である。その懸念は大いにあるだろう。
 私のこう言う勘は、不思議にもよく当たるのである。家内も同様に感じていたのかも知れない。

 世間の指弾、そして悪評。これを「由々
(ゆゆ)しい事態」と検(み)て“凶”と踏んだのであろう。
 森川某は、あの執念深いベビのような眼から、私を敵対視していたに違いない。
 私の存在自体を忌わしいのだ。目の上の瘤と検
たのだろう。
 既に、おぞましい位置に格付けされているのである。その私が、隣に棲んでいる。このこと事態が気に入らないのだ。
 したがって難癖を付けて、追い出す計画を着々と進めていたのであろう。その裏に森川某の暗躍
(あんやく)があったことは疑いようがなかった。
 しかし、正面切って、面と向かって危険人物には「出て行け」とは言えない。

 そこで小心者は考えた。
 外堀を埋め、城壁を壊し、やがて本丸に迫る策を立てたのである。巧く考えたものである。小心者の策としては、よく練られたものだった。あるいは小心者ゆえに、この策を捻り出したのかも知れない。陰湿な策であった。この策がやがて住民パワーを味方につけて、私への排撃行動に変化して行くのである。

 現代社会は、反戦集団であれ、住民運動であれ、これに同調して面白がる輩
(やから)がおり、何でも呼応して、肥大化の一途を辿る時代である。これは、「個」および「集団」のエゴイズムゆえだ。

 民主主義と言えば体裁がいいが、実は、今日の日本は制度上の構造を検
(み)ると社会主義であり、それを支えているのが官僚主義と言う悪しき実態である。
 私は二十代の頃より、受験産業に携
(たずさ)わってきた。
 そこで見聞きしたことは、今の社会の「競合
(ぎょうごう)」という現実の中で、子供たちは低学齢期から、偏差値神話に象徴される「選別」と言う受験戦争に借り出され、そうした意識が物心付いた時から培養され、あらかも受験戦士のように過酷な戦列の中に組み込まれていた。一方で、受験産業側も自らが傭兵のようなポーズをとり、偏差値神話を囃し立てていた節があった。
 これこそが、本来の人間性を疎外
(そがい)した元凶だったのである。

 私は、こうした弱者を平然と疎外抹殺して、傲岸
(ごうがん)と胸を張る輩(やから)に対し、「せめて一振りの鉄槌(てっつい)でも加えてやる」という憤(いきどお)りで、一太刀を浴びせかけるつもりで、進龍一の呼び掛けに呼応して『伝習塾』を立ち上げたが、その志が果たせないまま潰えようとしていた。
 奴の策に迎合し、一つ老婆心ながらと、一矢報いたい思ったのが、傲岸の輩に鉄槌を浴びせ、固まりつつある階級社会に変革を企てたからである。だが堅固となり、内部機構が固まれば変革は絶望的となる。人々は以降、階級化され、機能化され、家畜化されて行くだろう。
 この時代、私はそう言う日本の未来像を見ていた。
 現に現代人のサラリーマンの多くは、家畜ならぬ「社畜」となっているではないか。
 サラリーマンなら、この事実は否定出来まい。

 住民パワー。
 この正体は、明らかに「住民のエゴ」である。個人主義が齎したものである。そして、住民が、自らの生活防衛のために立ち上がる運動を「住民運動」という。
 住民運動が起こる場合、普通は公害や都市開発等に伴って現れる運動であるが、決してそれだけではない。
 住民のエゴは、自分の土地家屋だけに働くのでなく、その周辺の景観や美的感覚になどに及び、気に入らなければ住民は自分たちの生活空間を守るために敢然として立ち上がるのである。多数決の原理はこうした場合に大きく機能する。

 例えば、近くに知的障害者を収容する養護施設ができるとか、精神病院ができるとか、墓地できるとか、こうした計画が起こったとき美的感覚と景観が損なわれると言う理由で、これらに猛反対するのである。それが住民のエゴの正体である。その適用範囲は半径1km前後にも及ぶ。
 また、その根底に流れているものが「地価が下がる」という金銭に絡むエゴイズムだった。こうした「住民のエゴ」から起こる住民運動は、今では日本全国、至る所に点在する。拝金主義が招いた結果からだった。

 伝習塾をはじめて、まだ二ヵ月足らずと言うのに、思いもしない異変が起こりはじめていたのである。これによって長期の見通しが断たれたのであった。

 しかし丁度このとき愛知県豊橋市から、八光流柔術師範の松永猛氏が、私の主催するわが流の講習会に来ていたので、私が追われていることを知ると、「もし、行くところがなければ豊橋に来ませんか」という、お誘いを受けたのである。
 そして、平成4年1月3日、私と家内は、また次の新天地の豊橋に向けて移動することになるのである。しかしそれは、これからまだ半年後のことであった。この運命を数奇と位置づけ、波瀾万丈と言えば言えなくもなかった。

 とにかく、開塾した時の塾の出始めはよかった。うまく軌道に乗った。あまりにも順調だった。よいことづくめの好事続きだった。しかし、ここにきて翳
(かげ)りが見え始めた。前途に暗雲が垂れ込めたのだった。
 好事魔多しという。これは本当だ。運命の真理と考えていい。運命と言う流れには、そうした「魔」が隠されているのである。
 そしてこれまで頭脳明晰で立ち回っていた軍師・進龍一は、この頃より苦戦を強いられるようになる。



●塾革命の波

 時代は変わりつつあった。
 確かに変貌
(へんぼう)を始めていた。僅かこの一、二年の間にである。どこもかしこも情報化の波が押し寄せていた。塾とて例外でなかった。
 これまでのように塾経営に関してその経営者は熱血型とか、情熱型と言うタイプの塾長は必要性が失われつつあった。熱列だけでは通用しない時代になって来ていたのである。

 その鉾先に、当時話題となった「スパルタ塾」が、新時代に次々に淘汰されて行った。
 また講師が黒板に向かって字を書きなぐり、熱弁を揮う漫談家のような「芸者」といわれる名物講師を雇った塾も淘汰され始めていた。
 社会ダーウィニズムでは、社会には闘争と優勝劣敗の原理が支配するという考え方がある。適者生存によって、利他主義的倫理も発展するのである。そして適者生存の憂き目にある。
 「芸者」は一時期、マスコミなどに取り上げられ、話題となった名物講師だが、こういう漫談を寄席感覚で塾に聞きに行ったり、予備校に行ったりという受験産業は、既に古いタイプになり始めていた。
 少子化が始まろうとしていたからである。

 これにかわり、木目細やかな、前後左右に目配りの利く、進龍一のような巧みに生徒の心理を汲み取る「駄菓子屋のオヤジ」のような、また「越後獅子の親方」のような、そういう頭が冴えて、気転が利き、見落としをしない人物像が塾長として求められた。
 これが奴に一時期、波の乗る機会を与えていた。そこまではよかった。
 ところが、次世代の形式はこう言うものではなかった。
 もっと「クール型」に、スマートなビジネス展開をする塾長像が求め始められるようになった。

 平成3年7月中旬、夏期講習を控えた時期になると、これまでの学習塾や進学塾というのは、時代遅れになりつつあった。
 商売敵
(しょうばい‐がたき)の多くの塾では、この年を機に混沌を伴って、革命的な変化が起こりはじめていた。これは平成2年1月のバブル崩壊によって顕在化した現象ではない。既にその予兆は以前からあった。社会全体があらゆる意味で、構造的に変革を迫られた過度期であった。

 もう、この時に塾別、予備校別にそれぞれに浮沈が現れ、その前兆が見え始めていたのである。潰れて沈む塾も現れはじめていた。
 しかし、この時代に入ると、進龍一の遣
(や)り方は相変わらず旧態依然とした古いタイプの塾の事業の展開をしていた。改良型の荒手が出て来て、個別指導もこの頃になると、色褪せ始めていたのである。もう翳りが差し始めていたのかも知れない。
 個別指導方式の類似業者が擡頭
(たいとう)し始めた。
 至る所で個別指導の看板が上がり、特に潤沢
(じゅんたく)な資金を持つ塾業界大手の“Y義塾”などは、テレビのコマーシャルで、バンバン宣伝を行い、この塾から、明林塾の生徒が食われはじめていた。
 塾革命とともに、塾の合理化も進んでいたのである。

 また塾は、単に学習指導ができる講師が居ればいいと言うものではなかった。
 特に個別指導の場合、生徒を「診断テスト」で追い回さなければ、単なる自習になってしまう。塾に来て自分の持ち時間まで何一つ質問もせずに、一時間も二時間もニワトリ小屋のようなパーティション
(間仕切り板)の中に座っているだけでは意味がなかった。それでは自習と変わらない。こうした勉強法に、2万円も3万円も月謝を払う親はいなかった。
 個別指導が自習指導と間違われる泣き所だった。

 そこで自習と違う、自立学習の効果を明確にさせねばならなかった。その証拠を親たちに示さねばならなかった。数値で示すのである。生徒の成績が確実に上がったという痕跡
(こんせき)を示さねばならなかった。その痕跡こそ結果の跡であり、単なる勉強をしているという努力の跡は、問題にされないのである。数値・数字で示すと言う根拠を迫られていた。そして最終結果は志望校にどれだけ多くは合格したかである。
 1990年代初頭、アルゴリズムから得られる数字革命は猛威を揮い始めていた。その最たるものが偏差値であった。データ情報が齎す数字による数値や数字は、現代科学の信仰の根拠になり始めていたのである。

 つまり、生徒が学習した範囲のテストをやり、習得状況を把握しなければならなかった。数字である。これがない限り、成績の上下は示せなかった。
 定められた範囲内の自立学習を遣
(や)らせ、その範囲をテストしなければならないのである。学習状況をチェックしなければならなかった。そのテストの結果を見て、フィード・バックが必要な生徒は前に戻って、もう一度学習をやり直させ、クリアーした生徒は先に進むという、その進行状況の範囲をテストするというものだった。
 この判定を下すのが「診断テスト」だった。そして診断テストで生徒を追いまくると言うところに、この学習法の秘訣があった。

 これは、講師が大声を張り上げて、黒板に向かって授業をする、学校形式の一斉授業とは異なり、それぞれの生徒は、みな違う範囲をそれぞれで計画的に学習する。そのために診断テストを作るのが大変だった。これを一学年分作るだけで、相当な手間と暇が掛かった。一人や二人では駄目だった。
 大手の個別指導塾は何十人という事務スタッフを使って、これを開発する能力があった。更にデータ化出来た。資金力に物を言わせれば、これくらいのことが簡単にできる。

 ところが弱小塾は違う。
 幾ら名物講師を抱えていても、テストは簡単に作れない。この開発に窮してしまうのである。ぼやぼやしていたら教科書や文部省の指導要領が変わってしまう。変われば古いものは時代にそぐわなくなる。
 こうしたところに、今度は大手の学習教材会社が独自の「診断テスト」を開発し、これを個別指導塾相手に営業マンを回らせ、自社の診断テストを買わせるのである。教材各社では、売り込み合戦が始まっていた。

 もう、この時代に入ると、テスト用紙と言う「紙の山」は必要なくなり、そのデータが特殊なコンピュータに入力されているのである。これをデータベースから引き出し、印刷して使うのである。
 但し、多くの業者の診断テストは、プリントできる自社製の特殊なコンピュータを使っており、テストのデータベースをコンピュータごと買わせるのである。そして、これにより生徒に、自分の診断テストをさせるのである。生徒が自分で、現状を把握できてしまうのである。そして成績結果を自身の励みにしたり、頑張りに変えたりするのである。

 この時代を機に、学習塾や進学塾は大きく形態を変えたのだった。塾業界では革命が起こっていた。
 講師の役割は、分からない箇所を教えるだけと言う「解法の水先案内人
(パイロット)」になり、それ以外のことは何もしなくてよくなっていた。
 生徒は自分の学習コマ時間に、時間通り塾に来て、タイム・レコーダーのタイム・カードを押し、自分で立てた学習計画表に従い、時間まで学習し、その後、テストを受けて合格すれば、先へ進み、不合格の場合はフィードバックして、講師は生徒とともに学習計画を立ててやると言う役目に変わっていた。これまでの、講師が一方的に指導する受動的学習ではなく、能動的学習に変わって来ていたのである。
 口を開けていれば、餌を口の中に運んでくれると言う遣り方は、もう時代遅れになっていた。自主性が問われる時代になり、自己責任が問われ始める時代に変わりつつあった。

 したがって講師は、従来のように学校のように「塾の学校ごっこ」から解放されたのである。
 学校のように、一斉授業をしないからチョークで衣服が汚れると言うこともなく、ただ教室の中央に座し、自分の勤務時間まで、白衣を着て座っていればよかった。そして、たまに質問に来る生徒に解法指導をするだけだった。
 この場合も、答えを教える必要はなく、また、答えまで導き出す解法指導をする必要もなく、「このページをもう一度読み直せ」という、アドバイスだけですんだのである。但し、そのアドバイスが、要点を衝
(つ)いていなければならないことは言うまでもない。
 教科書や参考書を投げてやって、「これを見ろ」では駄目なのである。そのテキストの何ページに何が書いてあり、その解説に従い先へ進むと言う具体的な指針を示さねばならないのである。

 また、講師の責任は、生徒を合格させてやりさえすればよかった。ある意味で、塾学習の合理化だった。ここにきて時代が一変した。
 こうした塾には、黒板もなく、教壇や教卓と言う、講師の三点セットすらなかった。
 したがって、静かさは図書館と同じで、喋り声は一切なく、静寂の中で勉強ができると言う利点があった。最も秀才型の人間が好む学習形態であった。親の方も、こうした学習環境の中で勉強をさせてやりたいと思うのである。時代とともに塾と言う産業形態も変化し始めていた。

 ただ問題は、診断テストの作成に問題があった。これを自力で開発するには、金も時間も掛かるのである。
 そこで塾経営者は、大手教材屋から、コンピュータごと「診断テスト」を買い取るのである。これはコンピュータが1台あればいいというものでなく、最低でも20台以上が必要だった。一人の診断テスト出力の時間待ちの節約が求められていたからである。

 この時代、今日のように瞬時に出力するレーザープリンターは発展途上であり、一気にプリントアウトするこのOA機器は一台二百万円もする高価なもので、当時のプリンターの大半は5〜10万円前後のドットプリンターであった。それだけに遅い。
 150人から200人規模の塾では、最低でも20台というのが最低台数だった。
 この当時、中身のソフトである診断テストとコンピュータを併せた価格が約35万円ほどだった。20台揃えるとして、700万円ほどが掛かる。
 その700万円の捻り出しに進龍一は喘
(あえ)いでいたのである。

 昭和の末期から平成の初頭に懸けて、『信長の野望』という戦国大名を模したゲームがあった。この時代に青少年を過ごした方なら覚えておいでのことだろう。
 私も塾や予備校のコンピュータで、よく遊んだものである。
 このソフトを紹介してくれたのは進龍一だった。

 当時、奴は富士通FM7
(今から思えば玩具然のPCである。当時はこれが一台20万円前後した)の8ピットの比較的遅いコンピュータを、塾の自称コンピュータ室に5、6台置き、実にこの男の感服するところは、塾生の小中生の坊主から使用料百円巻き上げて遊ばせていたことである。つまり「楽しい塾」を演出していたのである。付けどころは実によかった。
 これも“木目の細かい”指導の一貫だったのだろうか。そのために生徒はいつも溢れていた。
 この辺は「塾に入り浸りになる、楽しい塾を演出し、塾生が塾生を呼ぶ構造」を、時代に先駆けて展開していたのかも知れない。当時としては素晴らしいアイディアだった。また素晴らしいアイディアマン的発想があった。

 この当時、年二回、習志野や茨城県美浦に巡回指導をしていたので、その行き帰りに、奴の塾でこのゲームの面白さに嵌まり、北九州に戻ってからは、自らもPC98用のこのソフトを買ってゲームを楽しんだものである。
 しかし、流石に「楽しい塾」は演出できなかった。
 『信長の野望』の面白いのは、ストーリー中に「金米輸送」というのがあり、軍資金や食糧の金米に苦慮している大名や城主に対し、金と米の輸送を企てるのである。そして輸送後、そこの城主は武器を買い、兵を雇うことが出来るのである。城主が金をばらまくことにより兵は強くなり、また喰えるのである。そして家臣の忠誠度も高くなり、大名は一方で俄
(にわか)小金持になるのである。

 この金米輸送を模して、当時北九州の予備校まで電話を懸けて来て、「何とか金米輸送をお願いします」と言うのである。奴が窮した時は金米輸送が“お強請り”の合い言葉になっていた。
 ところが夜逃げした私に、金米輸送をする余力な1円もなかったし、すっかり尾羽打ちを枯らして、無一文の天下の素浪人になっていた。



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