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壺中天・瓢箪仙人 26

日本中に桜前線が駆け抜けた時期であった。そして関東地方も、一ヵ月後には桜は終わり、習志野公園の桜もすっかり葉桜へと変わっていた。
 今でも当時のことを重ね合わせることがある。私には桜が蹤
(つ)いて廻るようである。
 写真は平成23年4月初旬頃の、よく晴れた日の桜並木の風景。


●葉桜の季節

 若葉が繁り始めた。至る所で青葉の季節となっていた。桜の樹とて例外ではない。
 ちょうど、そうした頃であった。
 3年5月中旬頃、習志野綱武館・道場生の遠藤歩君が、「うちへ、奥さんと一緒に来ませんか」という誘いを受けたことがある。それで家内を連れて、遠藤君宅を訪問したことがあった。

 日本中に桜前線が駆け抜け、それも関東地方では、ほぼ終了する時期であった。習志野の桜もすっかり葉桜に代わり、清々しい爽やかな時期であったことを覚えている。
 当時私は多忙に追われていた。
 別に家内の経営する伝習塾に多忙を強いられるのではなく、人脈造りに苦労していたからである。
 人間は一人では何も出来ない。出来たとしても高が知れている。一人の人間の力だけで事業は成功する訳がない。

 天が働く条件は「他力一乗」である。
 一人の人間の努力する力が、「他力」という他人の力の協力を得て、この条件が揃った時に天は一人の努力する人間を扶
(たす)けようとする。単に単独の我武者羅人間には力の貸しようがない。一人が大勢の協力者を得てその条件が揃ったとき天は動く。そしてそういう協力者を得ることの出来る人間は、単に事業欲が旺盛で、先見に聡く、鋭さではなく、その人個人の「人格」である。
 この「格」が低ければ天は見向きもしないのである。
 もう完全に見放されてしまうのである。野望をぎらつかせていても、それだけで成就する条件が整っているとは言えない。背景には人格がいるのである。人を動かす人望である。

 当時の私は、人望に欠いていた。つまり人としての格が低かった。これでは「他力一乗」は働く訳がなかった。条件は不揃いだったのである。
 その“不揃い”を棚に上げて、肝心なる人格を置き去りにして他人の力に縋ろうとしたことがあった。門前払いも当然だった。
 事業でもそれを運営し、経営していくことはある程度の経営学を学んだだけで、仕事そのものは学ぶことが出来よう。ところが運営や経営において、学び得ないものがある。経営学だけでは不可能なことがある。

 つまり事業を興す一つの資格の中で、絶対に抜けてはならないものがある。それは天才的な手腕や才能でなく、その人に備わる器と、器の品性である。これが悪かったり、条件が満たされてなければ、その事業は失敗に終わる。燃える野心と燃える情熱だけでは、天から見放されてしまうのである。品性欠如は事業者として命取りであった。
 習志野に夜逃げした当時、赤い考えで上京した。その結果、天から見放された結末を見たことがある。
 最初に念頭に置いていた知り合いの国会議員の線は希望薄となり、別ルートから動かねばならなかった。季節の変わり目など眼中になかったのである。その変わり目を見ながら、実は視ていなかったかも知れない。
 当時の私は、老子流の哲学を知らなかった。余裕と言う懐の大きさに欠如していた。
 これは「駆引きを知らない」だけのことではなかったのである。そもそも人間を知らなかった。それが分らないだけに、人格にも欠如していたのであろう。
 そして虚しい日々が過ぎ、もう習志野に来て八ヵ月ほどが過ぎようとしていた。

 習志野に来て八ヵ月。半年以上が過ぎた。
 時が5月中旬であることは知っていたが、自然界がどう変化したか疎
(うと)かったのである。じっくりと観察する暇がなかった。
 そして家内に「習志野の桜もすっかり葉桜になりましたね」と言われて、はじめて、もうそう言う季節に入ったのかと自然の変化に気付くのであった。
 時の流れは早い。まさに「歳月人を俟たず」である。

 家内は「すっかり葉桜になった」と言う。そして、「あのお爺さん、今頃どうしているでしょうか」と言うのであった。
 ふと、桜の樹の下で遭った瓢箪仙人のことを思い出した。あの老人は今頃どうしているだろうか。
 毎年、桜の花の季節が遣って来る頃、あの樹の下に遣って来ると言う。一年を通して、桜の咲く頃だけに遣って来る人なのである。一年にこの季節のみ遣って来るのである。老人はそのように言った。
 思えば懐かしい。ほんの一ヵ月半くらいしか経っていないのに、何故こんなに懐かしく感じるのだろう。
 だが、名前も知らない。住いも知らない。しかしこんなに懐かしい。何故だろう。
 もう遠い過去のように思える。あるいは、自分の未来を夢想して、そう感じるのだろうか。
 無性に会ってみたいと思う。だが、素性も何も知らない以上、叶わぬ事であった。
 今頃どうしているのだろう。
 桜の樹の下で、老人は「夢」の一文字について語って聴かせた。その話が私を感動させた。
 「夢」の一文字の「旗印」を語って聴かせてくれたのである。
 この一文字は世間でよく言う「人生夢の如し」という、感傷的な意味ではないと言った。
 夢の一文字は禅にも通じ、また老荘思想とも一致する「後に何も残さない」という意味だと教えてくれた。

 当時、39歳の小隊長だった若き日の老人は、敵中突破と称した夜襲において白襷隊編成を命令され、夜陰に乗じて突破を試み、のち散々迷路のような炎天下の下を歩き回り、遂に敵中突破を果たした。
 だが、これを実行する上で、歳を食い過ぎたろう老兵部隊は出発時、幹部将校や下士官から「夢」の文字を揶揄され、「年寄りに、夢でもあるまいに」という譏
(そし)りとも、侮蔑ともつかぬ言葉で嘲笑され、嗤(わら)いの渦の中で本隊を出発したと言う。
 嘲笑……。失笑……。爆笑を思わせる冷ややかな嗤い。そして怒涛のような渦・渦・渦……。
 人は、あるとき残酷な牙を剥く。どうして此処まで残酷になれるのだろうかと思う事を平気で行うときがある。
 しかし、その残酷を撥
(は)ね返す力も備えている。不屈の筋金入りになることもある。押されぱなしではない。遣られぱなしではない。必ず逆転する力をもっている。これが不朽不滅の価値観を生む。
 この価値観が、老人の話には在
(あ)った。
 老兵部隊の「夢」の一文字の旗印が却
(かえ)って、普段の懦夫(だふ)を勇者に早変わりさせ、それが一つの信念になったのである。

 だが、世の中を動かすのは旗印でない。それは老人も百も承知していた。むしろ実行力を重んじていたであろう。実行力こそ人を、あるいは世の中を動かす原動力であることは疑う余地もない。本来ならば、旗印など無くても済めば、それにこしたことはない。無いがいいに決まっている。しかし、敢えてそれを掲げた。
 その掲げる事こそ、実行力の始まりではなかったか。それを実践した。
 その実践において、自らが、自分で生きているのではない。生かされている。それを知ったのである。自らの背中に神が貼り付いていることも知った。
 死を前にすると、逃げずに踏み止まり、この状況下で「背水の陣」が敷かれることも知った。そのとき、本当の自分に目覚めたという。自分の尊さ気付かされたという。思わず自分で自分を拝みたくなったという。

 旗印……。
 「夢」の一文字の旗印……。
 本来、旗印など無くていい。無いでいいに決まっている。その意味から言っても、瓢箪部隊が司令所を出発する際、此処に集まった幹部連は旗印の「夢」一文字を見て嗤ったのである。嗤ったのは一応、道理だったのかも知れない。
 ところが、「夢」一文字は嗤われたことで老兵を勇者に変え、更には敵中突破を果たしている。そして誰一人として敵に後ろを見せず、強行軍を続けたのである。
 これこそ、人生における背水の陣であり、自らの怯懦
(きょうだ)なる臆病な魂に策(むち)を打つことが出来たのである。
 人生における戦いでの「背水の陣」に気付かず、傲慢誇示だけを標徴とすれば旗印を軽く見て嗤っていたのかも知れない。
 しかし、それは表皮のことである。
 老人が掲げた、あの「夢」の一文字の旗印も、一時的な感激に駆られて盲目的に誓ったものであるまい。もっと深いのである。
 練って練って練られた結果、「夢」一文字が登場したと検
(み)るべきである。それは時として人生の背水の陣にもなり得たのである。
 私はこのときの事を思うと胸が熱くなる。奮い立つ勇気が湧いて来る。
 それだけに懐かしい。
 しかし、あれは一期一会のことだった。もう桜は、葉桜へと変わっていた。

 若葉の季節。青葉が繁る季節。
 一年の内でも持ったも爽やかな季節である。
 そこで、「うちへ、奥さんと一緒に来ませんか」の遠藤君からの誘われついでに、「では浅草にでも行ってみるか……」となったのである。
 習志野網武館には東京台東区から通って来る道場生が居た。遠藤歩君である。

 遠藤君の家は美容院をしていて、お母さんが『サロン・ド・モナ』という高級美容室を経営していた。
 お母さんのサチさんは、中々やり手の経営者であるらしく、『サロン・ド・モナ』は五階建ての自社ビルの一階の全フロアにあり、二階の全フロアもお母さんが経営するエステティーク・サロンになっていた。この店の一、二階とも大いに繁盛していた。
 ビル全体はモダンな近代風のファッションビルで、お母さんのサチさんが所有していた。

 当時、遠藤君は日大の四年生で、苦学生だった。あるいは苦学生を遣らされていたのかも知れない。
 しかし苦学生と言っても自家は、自社ビルの五階建ての最上階にあり、三階、四階は貸しテナントになっており、大した羽振りで、決して生活が困窮するような経済状態ではなかったが、お母さんの方針で、彼には世の中の厳しさを分からせるために、アルバイトをさせて大学の授業料の一部を負担させ、更に自分の身の回りの用品や衣服、小遣いまで、自前で調達するように命じた厳しい躾
(しつけ)をされた苦学生だった。

 私が彼を見たのは、平成二年の第一回目の夏合宿のときだった。
 最初に彼を見て、この青年はよく眼がキラキラ光っている若者だと思った。実に礼儀正しい青年と思った。気持ちのいい、潔い、爽やかな青年なのである
 この気持ちの良さと、潔さと、爽やかさは、実は、このお母さん仕込みのものであると、この時、分かったのである。そして母子とも、実に清々しい性格をしていたことを覚えている。母親譲りであったのかも知れない。うじうじせずに、きっぱりしているのである。
 それだけに迷いがないのであろう。迷うことをしないのであろう。岐路に立たされて、どのみちを選択するか、母親の背中を見て知っていたのかも知れない。この親しにてこの子という感じであった。掛値無しのそう思うのである。
 特にお母さんは、シャキシャキの江戸っ子だった。
 話す言葉が、まるで江戸落語を聞いているような、そんあシャキシャキ感を感じたのであった。口にする言葉に遠慮がなかった。

 私は、既に『サロン・ド・モナ』の訪問は、この時で四回目であり、BAB出版社のビデオ撮影の度に、髪のカットと鬢
(びん)の白髪を染めるために訪れたことはあった。しかし家内を連れて、ここを訪れたのは初めてであった。
 予
(あらかじ)め遠藤君が、本日、私が家内を連れて行くと言うことを知らせているためか、お母さんもそのことを知っており、美容室のドアを開けて家内と伴に中に入ったとき、開口一番「うわー、若いィ〜」と、お母さんが感嘆の声を上げたのである。
 挨拶より何よりも、開口一番「うわー、若いィ〜」が、挨拶代わりだった。
 この一言に、家内がはにかみ、苦笑した貌を印象的に覚えている。
 最初、私の家内と聞いていたので、もっと老けた、40歳過ぎの女でも想像していたのだろう。

 私と家内は齢が、おおかた十歳近くも離れている。その上、化粧をしないので童顔に見える。ぱっと見は小娘然である。いつも安物のミニスカートを履いて行動しているし、小娘然としながらも悪ガキを叱咤激励しつつ、塾を切り回しているので何故か子供っぽく見える。それで、お母さんから“若い”と形容されたのだろう。
 この、十歳近くも離れている計算は、私が大学生の頃、まだ家内は小学校1、2年生くらいだったということになる。そう計算すると、十歳近くも離れているというのは、随分年が離れていると思うのだった。そのように取られるだろう。

 お母さんは、「最初、先生の娘さんかと思いましたよ」と、感想を述べるのだった。
 勿論それは冗談だろうが、二人があまりにも年の懸け離れているように見えたことが、驚きだったようである。あるいは童顔の家内が、年齢の格差を感じさせ、相当、年が離れていると映ったのだろう。
 それは検
(み)る目によっては、如何わしい不倫中の愛人と映るだろう。

 「いえ、正真正銘の家内です。愛人ではありません。籍もちゃんと入っています。既に二児の母親です。今年の二月34歳になったばかりです。とっくに、お肌の曲り角を過ぎた、もう結構なオバンですから、お気兼ねなく」というと、「そんなオバンだなんで……ねェ」と、家内に同意を求めて、笑いながら切り返すのだった。
 その言葉の裏には、《そんなに奥さんを貶
(けな)すものではありませんよ》という、無言の叱責の意味が含まれていたようだった。逆に感謝せよと言っているのだろうか。
 おそらく女房卑下に対し、私に釘を刺したのだろう。そういう視線で、私を睨んでいたようである。
 私は知らず知らずのうちに、家内を粗末に扱っていたのだろうか……。
 それを何だか、遠回しに指摘されたような気持ちであった。反省するしかないだろう。
 人前で、わが女房を「愚妻」と言い放つことは易しい。また軽口を叩いて謗ってみせることもある。
 しかし、口が裂けても「才女」とは褒めちぎれないものである。

 遠藤君のお母さんは、さばさばした気持ちのいい人で、まさに江戸っ子だった。あたかも時代劇に出て来る「明神下のシャキシャキの江戸っ子」を彷佛
(ほうふつ)とさせた。また、有能な女性経営者にある、物を言う時に何でもズバリという人だった。決して言い淀んだりはしない。指弾する時は指弾する。遠慮などしない。
 男勝りの、やり手の実業家を思わせた。それだけに気も強いのであろうが、気風のいいところもあった。
 一代で、女の細腕で、五階建ての自社ビルを建てたのだから、相当な実力者だろう。経営手腕も相当なものだろう。しかし、表面にはそれを微塵
(みじん)も出さない人だった。それでいて、人情の機微も分かっているのである。この人も、やはり苦労人としての経歴からだろう。その背景に人望があり、人が集まって来るのだろう。

 そして社交辞令のように、「先生。以前見たときよりも、旋毛
(つむじ)の部分が大分薄くなっていますよ。今のうちにしっかり手入れするか、奥さんから髪の毛を少し貰ったらどうですか?」と、冗談ともつかぬ事をハッキリ言う人だった。
 「えッ?ハゲが進行しているのですか、進行ガンのように……」というと、「まだ、間に合いますよ」と、手遅れでないことのお追従
(ついしょう)笑いをするのだった。
 更に「早期発見、早期お手入れ」と冗談まで飛ばすのである。これで堅苦しい緊張は解かれ、周囲に爆笑を齎すのである。他の来客のご婦人方も爆笑していた。
 そして四度目ともなると、もう、このお母さんとは、すっかり馴
(な)れ合いの、一種の漫才コンビになっていた。平気で冗談を言い合うのである。それくらい、人の心の中(うち)の本音を読み取り、ズケズケ物を云う人だった。
 指摘に対して、決して遠慮などしないのである。
 しかし、一線を越えられないその目安も充分に心得ている。そこがまた礼儀を知る人であった。

 そして、「この特別なシャンプーはどうですか?これは医薬用で、頭皮の毛穴を熱効果で広げて、毛穴部分の汚れをい落とす効果があるんです。ヨーロッパの数ヵ国では、薬事法に基づいて、種々の特許も取っているのですよ。少しお高いけど……」と言うのだった。
 既に商売もしっかりしているのである。
 「幾らですか?」と訊くと「先生ですから、お安くしておきます。半額の3万5千円でどうかしら」とズバリ言うのだった。
 一瞬、《えッ?3万5千円も……するのか……。ううッ……高ァ……》と思いながらも、「考えさせて下さい」と答えたのである。

 すると、私の心を読み取ったのか、「ぼやぼやしていると、手遅れになりますよ。手遅れにならないうちにね」と、忠告することを忘れなかった。なかなかの商売上手だった。
 「手遅れになった場合はどうなります?」
 「そりゃァ、あとは鬘
(かつら)ですよ」
 「えッ?鬘!……」飛び上がらんくらいの相槌であった。
 「つまりズラ!です」
 「ズラ!……」
 ズラ!と云う言葉の衝撃は大きかった。
 「ズラ!は医薬用シャンプーどころのお値段ではありませんからね、一桁違いますよ。それとも諦めてズラになさいますか」
 「ううッ……」
 特に堪えたのはズラという言葉であった。
 ズラはまずい。本当にまずい。稽古中にずれる恐れもある。それで“ズレ”と言わずに「ズラ」と言うのだろうかと思ったりもした。しかし、ズレるのは未だいい。最悪なのはズラと滑り落ちてしまうことなのだ。こちらの方が非常にまずいのである。まだ些かなりとも、わが髪に未練があった。この時、どうしようかと悩んでしまったのである。
 私は小心だった。まだ人間が出来ていないので、禿
(はげ)を恥ずかしいと思う小人(しょうじん)さが残っていた。
 内心、急がなければ……という気持ちがあった。
 ゆえに遠藤君のお母さんは、人をその気にさせてしまう名人だった。
 そうでもなければ、女手一つで、このような五階建ての自社ビルは建つまい。毎回のことだが、商売気があって、凄い人だと思ったのである。

 此処で、私は前回の如く、髪のカットと白髪染めをして貰うのだ。
 この店には、私好みの結構、美人の美容師さんがいて、その女性が私の髪を担当するのだった。もう四回ともなると、すっかり私の髪型などの好みを覚えていて、テキパキと遣ってくれた。
 最初、白髪染めから始まり、次に洗髪となり、最後に鮮やかな手さばきで髪を鋏で切ってくれ、もう一度洗髪して、ドライヤーをかけると言う、凝った手順でしてくれるのである。
 そして少しばかり閉口するのは、美容室は散髪屋と異なり、洗髪する際に、前に倒すのではなく、後ろに倒して、後頭部から洗髪に入るので、その辺が違っていて、男の私が女性客に混じって美容室で髪を切るというのが、少しばかり恥ずかしく、照れくさかったのである。

 また家内の方は、この店一番と思われる、評判の男性のカリスマ美容師が担当していて、まるでフラメンコを踊るようなポーズをしたり、闘牛士のように斜めに構え、鮮やかに紙一重で牛を躱
(かわ)すポーズをとりながら、家内の髪をセットしてくれるのである。
 当時流行のパーマネント・ウェーブの、肩までの末広がり髪型にしてもらって、おまけに化粧までしてもらい、少しばかり変わったのであった。

 昨日のことである。
 「あす、台東区の美容院まで髪を切りに行くからな」
 「えッ?台東区。台東区って東京の?」
 「ああ、東京だ」
 「なんで東京まで行くの?習志野にも、理髪店はあるし、美容院も幾らでもあるじゃありませんか」
 「遠藤のお母さんが、そこで美容院をやっているんだ」
 「遠藤さんの……」
 こういう会話をした後、明日の準備に入ったのである。

 昨日、立てた計画は、台東区の遠藤君の美容室に寄って、髪をセットしてもらい、その帰りに浅草の浅草寺
(せんそう‐じ)でも参拝し、境内を見物して帰る予定を立てていた。家内が早朝ビル掃除に出かけ、それから直に京成大久保から電車に乗り、京成船橋で特急に乗り換え、一気に浅草まで出れば良かった。美容室で髪の手入れをしてもらい、帰りに東京の何処かで食事をして帰っても、夕刻の五時から始まる塾には充分に間に合うのである。

 そして、せっかく習志野
(京成大久保駅)から京成電鉄に乗って、台東区の浅草まで行くのだから、雷門でも見て、仲見世でも見て回り、その後、帰路の途につく予定だった。
 それで、二千円ほど持たせて、昨日のうち、スーパー衣類コーナーや古着屋へ走らせ、明日着る服を買ってくるように言っておいたのである。そして、上から下まで揃えた金額が、締めて1,500円也、だった。上から下まで、中国製の、100%純粋な安物衣類である。これだけで充分に事足りた。

 そうした、安物ずくめの衣類を着ている家内を、哀れに思ったのか、美容室からの帰り、遠藤君のお母さんから、高級化粧品と化粧道具一式、それに大層な真珠の髪飾りの2組セットを貰ったのであった。

 私は古物商で、かつて宝石類も扱ったことがあったので、その真珠の髪飾りが、どの程度のもので、どれくらいの値段がするものか、容易に想像が付くのだった。かなりの高価な物だった。粒も太いし、人工ではなく天然物である。それを惜し気もなく、「この髪飾りは、若い人でないと似合いませんからね」ということで貰ったのである。
 おそらく、「若い人でないと似合いませんからね」は、こじつけだろう。あるいは、家内をまだ若いと見たのだろうか。
 遠藤君のお母さんに、何らかの心遣いが窺
(うかが)われたのであった。

当時、家内の着ていた衣服は上から下まで超安物で、わずか500円程でコーディネートされていた。
 ちなみに、衣服上下で500円、ストッキング100円、腕時計300円、靴500円、傘100円
(途中で雨が降ったのでコンビニで傘を買う)で、締めて1,500円也。
 但し、真珠の髪飾りは美容室でプレゼントされたもの。
 東京台東区の美容室に行った帰りに浅草寺に寄って、帰塾した伝習塾
(旧明林塾の病院跡)前で。午後4時半過ぎ頃。
   (平成3年5月中旬頃。妻・千歳34歳)

 家内の化粧が終わるまで、少しばかり店内で待たされたのであったが、終わって出て来たとき、青いアイ・シャドーが瞼
(まぶた)にくっきり描かれていたので、いつも見る二重瞼の切れ長の眼が、心持ち、『リカちゃん人形』の眼ように大きく見開いたように見え、思わず顔を見た途端「うわー、びっくりした。タヌキのお面!」と発してしまったのである。
 すると「タヌキだなんて、また、そんなことを言って……」と遣
(や)り返すように、いきなり私の背中をパーンと叩(はた)き、「奥さん、結構、可愛いじゃありませんか」と、ちくりと釘を刺されたのである。
 私は、遠藤君のお母さんに頭が上がらないのであった。
 一方、家内は遠藤君のお母さんの援護射撃を得て、しっかりとガードされているのだ。何と詰
(なじ)ろうとも、である。

 私が“タヌキのお面!”と、驚いて言ったのは、家内の化粧をしない、いつもの素顔ばかりを見ていたから、面を被ったように映っただけのことだった。それがまた、艶
(あで)やかだった。この時代に流行したサロン風の化粧だったようだ。
 果たしてこれが、当節はやりの“サロン・ド・モナ風”というのか?……。

 化粧は、当時の流行風になっていて、少しばかり派手と言うか、インパクト重視でケバくなっていたからである。
 この高級美容室には、この界隈のクラブなどに勤める“夜の蝶”といわれる女性も来るのだろうか。夕刻ともなると、そんな女性が押し掛け、髪のセットとともに、化粧もされる来るのでは?と、そんな感じがしたのである。
 家内は、遠藤君のお母さんから肩を抱かれ、横で、はにかんだ風に立っていたが、「タヌキだなんて、……絶対に失礼よねェー」と、家内に相槌
(あいづち)を求めるように言うのだった。
 女同士の連合軍が組まれたのだった。そうなると、私一人が悪役である。

 そして、最後の止
(とど)めとして「もっと奥さん、大事にしなければ駄目ですよ、先生!……」と念を押され、私は思わず誘導尋問に引っ掛かったように、「はい!」と元気よく返事をしていた。
 その瞬間の、この駆け引きが可笑しいと見えて、遠藤君のお母さんも店内に居た5、6人の美容師さんも、女性のお客さんまでもが、声を揃えて笑ったのである。

 私は、家内を大事にしているつもりだが、と思うのだったが、やはり見る人が見れば、苦労窶
(やつ)れしているのかも知れなかった。確かに私は、会社を倒産させて以来「なりふり構わず」というところがあった。
 また、此処まで落ちれば、自分をどう飾り立っても、体制に対した違いはないと思っていた。それは家内もそうだっただろう。不細工であっても、それを一々繕
(つくろ)う必要はなく、ありのままに正直に生きることが、私の一つの美学であった。人前で繕うことは疾(と)っくの昔に投げていた。その勝手な美学を、いつの間にか、家内にも押し付けていたようだ。

 男は、これらの身勝手を、気取った言葉を使って「美学」などと言う。そういう言葉で逃げ切ろうとする。
 美学とは、威勢のいい言葉だ。威勢がいいから、口からスラスラと、安易に感揚げもせず、美学などと云う言葉が洩れるのだろう。それは何の裏付けもない言葉でもあった。
 だが、この美学の周りには、実は催眠術を掛けられたように様々なドグマ
が身辺に渦巻いているのだ。よく見れば、左右前後にも渦巻いているし、上下にも存在するのだ。四方上下がドグマだらけだ。
 したがって、何
(いず)れにも傾かず、中庸(ちゅよう)がいいと言われ、それこそが安全だと信じられているようだ。

 しかし、その安全は不確かなものだ。確証などありはしない。
 何故ならば、人間は苦悩し、迷い、悶
(もだ)え、のたうつ生き物であるからだ。そう簡単に、救われるものでない。絶望の淵(ふち)まで、追い込まれる必要があるのだ。身動きできないほど、土壇場に追い込まれればいいのだ。
 追い込まれたから、私は、のたうち回り、気が付けばド壷に嵌
(はま)っていた。更に周を見渡すと、私だけでなく、家内まで嵌っていた。
 もう少し別の言葉で云い表すならば、家内に対して「申し訳ないことをした」と思うのだった。嵌るのは、私一人であればよかったのだ。
 女の家内には、これは過酷だっただろう。そういう思いがしたのである。

 帰り際
(ぎわ)、遠藤君のお母さんは、ドアの外に出て来て、「奥さん。また先生と一緒にいらっしゃい。いつ、いらしても構いませんよ」と、家内に優しい声で言うのだった。それに家内も小さく頷(うなず)き、微笑をたたえて「はい」と答えるのであった。
 しかし家内は、もう二度と、美容室『サロン・ド・モナ』には足を運ぶことはなかった。この時が、一期一会のことであり、このときが最後だった。もう此処の美容室のスタッフとも貌を合わすこともないだろう。この日が、たった一回限りのことであった。

 そして別れ際に「先生。奥さんを大事にして下さいね」と、念を押すように言うのである。
 更に、「先生。奥さんの名前、ちゃんと呼んでいますか?」と訊
(き)くのだった。
 そう問われて、私はギクリとした。私はいつも家内の名前など呼んだことがない。全くと言っていいほどである、
 大抵は「おんな」であり、あるいは「おーい」だった。
 この比率は、「おんな」が80%、「おーい」が20%である。
 さて、これにどう答えたらよいか躊躇
(ちゅうちょ)したのある。内心《さて困ったぞ》と思うのであった。
 問われて、「あの……、その……」と、口籠
(くち‐ごも)るだけだった。

 「先生。奥さんの名前、ちゃん呼んであげなければ過駄目ですよ」
 「はあ……」私は冷や汗が出る思いだった。
 「その口振りだったら、“おーい”とか、そういう呼び方をしているのでしょ?」
 「いやその……」
 「いつも何と呼んでいるのですか?」
 「呼ぶときはですね……“おんな”です」
 「まあ!……“おんな”って、女のオンナなんですか?」呆
(あき)れたふうだった。
 「はあ……」
 「そんな呼び方、駄目ですよ。ちゃんと名前を呼んであげなきゃ、奥さんのお名前は何と言うんです?」
 「千歳です」
 「では、これから“ちとせ”と呼んであげて下さい。分かりましたね」念を押すことを崩さなかった。
 「はあ……」
 「いいですね?ちゃんと、ですよ」
 こうして最後まで念を押された。
 しかし、私は家内の名前を呼ぶのに、少々戸惑いがあった。つまり、いい年をした40オヤジが、若い恋人のように、お互いの名前を呼びあうような、アメリカ風のそういう愛情表現ができないのである。
 第一、名前を呼ぶなど、“小恥
(こ‐ぱ)ずかし”ことが出来る訳がない。テレが最初に走るのである。それに今更と言う気持ちもある。

 この人は、私が家内を酷使していると検
(み)たのだろうか。
 あるいは、人相を観
(み)ると言うことから、観相学の腕前は玄人はだしだと聞いていたが、家内の人相から、これまでに遭遇した種々の出来事を即座に読み取っていたのあろう。そんな気がしたのである。
 その見識から、家内を、私とともに歩いた波瀾万丈の苦労人と検
(み)たのだろう。どうも、そう思えてならなかった。そう検られたとなると、私は悪者になる以外ない。
 とにかく、「千歳さんを大事にして下さいね」と、敢
(あえ)て念を押したのは、家内の貌からこれまでの人生の何かを読み取っていたに違いない。

 そして、もうあれから20年以上が過ぎた。その家内は平成22年、急病に襲われて、55歳でこの世を去ったのだった。あるいは、もしかしたら20年後の家内の結末を、たった一度のこの一期に、既に予感していたに違いなかった。
 遠藤君のお母さんには、その後、もう一度、彼の結婚式で顔を合わせたのだが、その時も、私の座るテーブルに回って来て、お酌をしてくれ、“奥さま”と言いかけて、「千歳さま、お元気ですか?」と言い改めたのである。ちゃんと家内の名前を覚えてくれていて、気に掛けるように訊
(き)いてくれたのである。
 そして「本日は息子の結婚式に、わざわざおいで下さいまして、有り難うございます」と、お礼を述べたのである。

 その時、家内のことを尋ねたのが、いま考えると、どうしても単なる挨拶代わりの社交辞令とは思えなかったのである。何十年か後の、一人の人間の結末を、既に予測していたとしか思えないのである。おそらく、たった一回限りの、一期一会の中の一コマに、人の生死を見て取ったのだろう。そこで観た家内の観相から将来を見抜き、55歳で潰える人間の運命を直感的に感じたのではないか、と思う節がある。もう既に、このときにその兆候が顕われていたのかも知れない。

 私は思うのだった。
 良人
(おっと)が外で何を遣(や)っているか分からないままに、妻が一生懸命、日常の生活を少しでも良くしようと懸命に戦っている姿を見れば、男の情として「この女を、もっと楽させてやりたかった、もっと大事にすればよかった」と思うものだ。普通の神経の持ち主の男なら、こういう女房の姿を「けなげ」と思うのであろう。
 これを滑稽だとか、惨めだとか思うのは論外である。

 何故ならば、妻は、これまで人から後ろ指を指されて、「気違い」と揶揄
(やゆ)されていたからだ。
 精神科の医師からは、「社会不適合」の烙印を押され、その前途は危ぶまれていたのである。その上、こうした患者を抱える家族は、地獄の苦しみをする。私の苦悩は家内の苦悩であり、家内の苦悩は、また私の苦悩でもあった。

 “気違い”とは、残酷な言葉である。これほど、人間の魂を冒涜
(ぼうとく)した言葉はあるまい。
 その言葉を、背後から、正面から、側面から、名指しでぶつけられたことがあった。何が「差別用語だ」と思う。
 世間では、こうした差別用語を堂々と使い、冷たい目で……、世間さまの目で……、高飛車に、患者も、その家族も投げ付けて嘲
(あざ)笑っているではないか。これこそ取り締まるべき、差別違反の非人道的行為ではないか。

 しかし、その差別用語を投げられた家内は、気にも止めず、けなげにも、私の後ろをピッタリと蹤
(つ)いてくるのだった。それは“迷子犬(まいごいぬ)”が、もう二度と迷子にならず、飼い主から捨てられまいとする必死な姿だった。忠実なる姿で、まさに「忠犬ハチ公」を彷佛(ほうふつ)とさせた。
 そして周囲を見回すと、もう私の前に道はなく、後ろを振り向くと私の後ろに続くのは、たった一人、家内だけが蹤いてくるのだった。それ以外は誰もいなかった。
 これこそ、九星気学上、「最悪」と謂
(い)われた、七赤金星と九紫火星の夫婦だった。
 だが、この組み合わせに「相性が悪い」と云う謂
(いわ)れはない。これは運命屋たちが勝手に捏造(ねつぞう)した、捏語に過ぎなかった。
 だが、運命屋の捏造に限らず、その他の捏造も、甘んじて受けなければならないときがある。
 人生は常に何かを需
(もと)めて画策している。そして、この世は作用と反作用が働く。何かを需めてそれを成就させるためには、自分の何かを犠牲にしなければならない。何かを犠牲にしたり、生贄を提供することが相対界の特長であり、現象界はこの犠牲(いけにえ)の上に成り立っている。
 現象界・相対界では需めた分だけ生贄を必要とするのである。


 ─────習志野の伝習塾に帰ってくると、玄関前には上原小夜子がいた。
 彼女は小雨の中を20分ばかり早く来ていたのか、手持無沙汰
(てもち‐ぶさた)に待っているふうで、「今日は何処に行っていたのですか?いつも早く来ても開いているのに」と言うのだった。
 そして家内の髪型と化粧を見て、アッというような顔をして、「どうしたの、千歳先生。今日は、お化粧なんかして。その上、その髪型……」と、驚いたように訊くのである。
 更に、「でも、千歳先生。とても素敵……」と言って、《こんな家内は初めて見た》と言う素
(そ)振りをして、家内の腕を捕らえて寄り添うのであった。普段着のいつもと違って、今日は少しばかり“お粧(めか)し”しているのが違って見たのだろう。
 この二人は、実によく気が合う仲のように映った。




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