運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 25

現代人を「齷齪(あくせく)させる」ものは何か。じたばたと、ばたつかせ、現代人を多忙に追いやるものは何か。
 現代人は行楽・レジャーや物事を鑑賞するにも、一層慌ただしくあくせくするようになった。

 そのうえ近年の流行は、驚きでも感嘆でも感動でも、その手の深く物事を鑑賞して心を動かす行為ですら、また単調化される時代であり、感動や感激を一つ挙げても、継続時間が短い。持続時間が極めて短いのである。
 それゆえ余韻
(よいん)も直ぐに消える。長く尾を曳(ひ)かない。急性の時代である。

 あたかも、短命で消える線香花火のようなものである。直ぐに消滅してしまう。感動も、その程度のものになってしまったようだ。
 しかし、目紛しい時代の変遷によっても変える事の無い真理を把握して、毅然と立ち、敢然と立ち向かっている人がいる。
 確かに古いと言われ時代遅れと言われ、面白半分に揶揄されても厳然と立ち、あたかも黄忠
(こうちゅう)のような人がいる。

 黄忠は後漢末期から三国時代の蜀漢にかけての将軍である。劉備軍の勇将として知られる人物である。益州や漢中の攻略等で活躍したことで知られる。常に先駆けて敵の陣地に斬り込み、その勇猛さは蜀軍の中でも鳴り響いていた。またその功績は大きい。
 だが驚くべきは、60歳を過ぎた老将でありながら、弓の名手として知られ、老いるとも、なお勇猛果敢な活躍を見せた。
 斯くありたいものである。

 近代社会は齷齪と動き廻り、効率性と合理性ばかりを追求し、構造下には高度なる分業制があり、分業細分化が発達するにつれ、自体の動きが一層忙
(せわ)しなくなった。
 一つ一つが小さな枠に嵌
(は)まり、人間自体もかつてに比べ、ひと回りも、ふた回りも小さくなり、金銭至上主義の真っ直中で多くは右往左往している。見据える位置が見定まっていない。多忙を強要する時代の特長である。
 しかし、老いてもどっしりと腰を据え、軽佻浮薄に趨
(はし)らないようにしたいものである。


●人生の奇遇

 運命……。
 もう一度この言葉に振り返りたい。
 結果として顕われる現象は成るようにして成る。運命の構図が予
(あらかじ)め、予定説のように最初から描かれていたと思う。
 私が見た、家内と上原小夜子が、あたかも角を突き合わせた、あの光景はまさにそれであり、此処には人間の思惑とは全く無関係で何かが動いているとしか思えなかった。
 そして、自身で《何たる不可解な構図、何たる奇妙で不釣合な組み合わせ》と思うのだった。

 この巡り合わせを、「人生の奇遇」というのだろうか。あるいは最初から必然的に定められたことが、定められた通りに、予定されていたのだろうか。まさに『予定説』の如きであった。
 宇宙開闢
(かいびゃく)の時から、これは計画されていたのであろうか。

 人間は男でも女でも、不思議な縁で巡り会う、そんな人を見つけるために、あくせく生きている。出来るだけ底が深く、出来るだけ懐が大きく、包み込む優しさを感じさせる、包容力のある人間を求めて生きている。いつか顕われるのではないかと期待している。
 しかし50年経っても、60年経っても巡り会えずに死んでいく人がいる。希望的観測は虚しい。あてもなく彷徨う人生の旅は悲しい。
 仮に70年経っても、80年経っても同じだろう。廻
(めぐ)り遭(あ)えずに人生を放浪することもある。そうなると巡り会いや出遭いは期待薄だ。

 しかしそれでも放浪し、漂泊の旅に出る人がいる。人生での出遭いを求めて、一縷
(いちる)の望みに賭けて彷徨う人がいる。
 あるいは、そう言う冒険を冒さず、安全圏にいて消極策を採
(と)る人もいる。保身を図るために沈黙と忍従の中に居て、寔(まこと)に人間と言うものは、自己を甘やかす情熱と言うものには際限がないようである。昔に較べると冒険者は激減した。時代の変化だろうか。
 
 大抵の人は、そのような人生を送るのであって、殆ど自分の、心の理想のカンバスに描いた人とに巡り会えずに死んでいく。
 何事にも押し黙って、そういう連れ無い現実に堪えて行くしかないのである。

 一方で、10年も経たず、5年も経たず、あるいは1年未満で、「水魚の交わり」
【註】『三国志蜀志』の諸葛亮伝)を果たす、『三国志』に出てくるような交情の極めて、親密にする者同士も出てくる。その根源には「運」があるのだろう。
 また、出会いと物々交換により、“わらすぼ長者
(「わらしべ長者」とも)”のような、次々に運を引き当てていく現象が連鎖反応で起こるかも知れない。あるいは一回限りであったり、連続して次々に新たな出会いと、物々交換が起こるかも知れない。全く皆無なのか、一回限りなのか、あるいは連鎖反応を起こすのか、それが「運」というものだ。予測不可能である。

 私の眼では信じられないような、“家内と上原小夜子との角を突き合わせるような光景”こそ、天の悪戯というか……、運命の戯
(たわむ)れというか……、何とも質(たち)の悪い冗談のように思えたのである。
 だが交情を得るのも、一つの運に他ならない。気心が合う者同士の親しみだろう。この二人は合うのかも知れない。

 家内と上原小夜子の奇妙な「仲良し構図」を見て、果たして、こんなことがあっていいものだろうかと思うのだった。不可解である。
 人間は、人間が生まれて来るということ自体が、実に宿命的であると言えるのである。運命的でなく、固定されているから宿命的である。
 運命は自分の努力で、その方向をある程度変えられるが、宿命は変えられない。出生した事実は変えられないのである。当然それは宿命的であるから、それ自体が道徳的でなければならない。
 もし、人間が人為で自由に自分の生まれる場所と時代を選ぶことが出来るとすれば、生まれた後に道徳的努力を必要としない天界や天国に出現して生まれて来るだろう。
 しかし人間界では、これが叶わない。
 偶然に映る、必然なる努力の世界に出現する意外なくなる。
 こうなることは全く予測できないからである。そして、ついてないとか、運が悪いとかまでを宿命と捉えれば、もうそれだけで充分に厭世的となる。

 しかし、それにしても……と思うのである。
 家内と上原小夜子の奇妙な構図が分らない。単に相性が引き合っているのだろうか。
 これに不安がない訳でない。むしろ不安定なるが故に、近未来を危惧する懸念は大きい。
 私は新たなる深い絶望を感じなければならなかった。
 世にも奇妙な番狂わせが起こっていたからだ。一体何が動いたのだろうか。何が変化したのだろうか。
 そして人間社会は……、この現象界は……、運命の波動は……と、人間の計り知れない、見え透いた理屈では動いていないことを思い知らされるのであった。そこに人生の奇遇があったように思う。起こるべきして起こった必然であろう。必然的なる因縁であろう。それにしても奇なることだった。

 日の吉凶は、九星気学の早見表にあるのではない。
 その日一日の吉凶は、既にわが裡
(うち)にある。吉凶日が固定されて現れるのではない。
 その日一日の吉凶は陰陽道
(おんみょうどう)でいう、九つの星に五行(ごぎょう)と方位を組み合わせて、それを人の生年に当て嵌め、そこから吉凶を判断するというそう言う大雑把なものでない。そこに吉凶が存在しているのではない。
 今日を悪い日にして厄日にするか、「またとないこの一日」を吉日にするかは、己自身にある。
 己の裡側
(うちがわ)にある。自分の行動律にある。
 したがって、九星気学の吉凶早見表にあるのではない。真に受けるべきではないだろう。

 今日が吉日か厄日であるかは、今日一日をどれだけ精一杯、一生懸命に生きるかにかかっている。
 今日一日を、一生に「二日とない吉日」にするならば、それは本当に吉日であろうし、占いだけに頼ってそれに固執すれば、隙
(すき)を突かれて、その日は「最悪の厄日」となろう。

 人間は、自らの考え方で、その日を厄日にしたり、吉日にしたりしているのである。したがって、今日一日を取り逃がせば、それは生涯のうちで、「最悪の厄日」になるかも知れない。
 その厄日が、後々まで後遺症を残すかも知れない。人間は「こだわる」という症状を起こすのは、この後遺症の結果である。

 今日一日は、「今」の集積である。今の集積が「今日一日」を作り上げる。
 人の一生は、したがって「今日」の連続なのだ。ゆえに「今」を失う人は、「一日」を失う人であり、一日を失う人は、「一生」を失う人である。

 特記すべきは、運命は流動的であるが、宿命は固定的である。この両者の違いを取り違えてはなるまい。
 しかし、九星気学や四柱推命は、固定的に論じられている。運命までは変えられないものとしている。
 この占いに固執する限り、運命転換などと言う、自身の運命の創造は出来ないだろう。人生を自分自身で切り開くことは出来まい。
 本来、運命は創造するものである。固定的なものに満足を覚え、それで朽ち果てるような人生を送っては、生まれて来た意味が失われるだろう。
 私たち人間は、飯を食って、糞をして、セックスをするだけの、ただそれだけの存在ではないだろう。動物とは違うからである。

 運命転換が可能な者は、必ず心の中に玉
(ぎょく)を抱き、「窮(きゅう)すれば通ず」という理(ことわり)を信じている。陰が満れば、陽となる。
 陽が頂点に達すれば、再び陰へと変化をはじめる。月満つれば、則
(すなわ)ち虧(かく)なのだ。
 困窮でも同じである。
 行き詰って困りきると、却
(かえ)って活路が見出される。運命とはこのように、実に流動的なのだ。固定的な宿命とは違うのである。ダイナミックに変化するものなのである。

 窮すれば通ず……。
 この言葉の根本には「一寸先は闇」が挙げられるが、『易経』と文句からきた「窮すれば即ち変じ、変ずれば即ち通ず」であり、人間の運命には窮して、窮して、窮して、窮乏の真っ只な化にあってドン底まで落ちれば、もう落ちるところがなく、底辺に至ってしまえばそこから上へ上昇しようとする変化が起こることを暗示している。その変化が生じることによって、今度は顛落とは逆の上昇と言う可逆性が起こるのである。その可逆性が起こった時に、「通じる道が開ける」ということを『易』は暗示しているのである。落ちたからと言って、そこで終わりではないと教えるのである。

 自分がギリギリの立場に立たされ、既に潰えたかと思えた二進
(にっち)も三進(さっち)もいかない時に、必死の思いで人生をまだ諦めず求める気持ちがあれば、「浮かぶ瀬もある」と言うことなのである。
 これを本来の意味で言う「運命を切り拓く」ということであり、本当の「一寸先は闇」は闇と言う暗がりの中に、人智では計り難い「切り拓く」の真意が隠されているのである。
 あたかも「藕糸
(ぐうし)の如し」である。その繋がりに掛かる。その因縁に掛かる。

 運命とは有機的結合の巨大なる生命体の中に隠されているのである。藕糸こそ、則ち「闇」であったのである。
 占って、最悪の卦
(け)が出たとしても、それはそのまま最悪の落ちて終(しま)えるのでなく、終わったかのように思えたその最終定点のドン底に落ちた時点で可逆性が始まるということを暗示しているのである。

 つまり、運命は開け、創造できるものなのである。
 則ち、これが「窮すれば通ず」だったのである。
 人生は運によって左右され、運命の陰陽によって、人間は弄
(もてあそ)ばれる存在だが、それが翻弄(ほんろう)自体が変化の中に在り、九星気学や四柱推命の論理のように固定的なものでないのである。
 その変化はダイナミックに翻弄し、時にはドン底と言う不幸すら、運命は平気で人間の頭上に降り懸らせるものである。これを固定と検
(み)るか、変化と検るか、その人の知識のみならず、見識であり、更には胆識であろう。

 それには、今日、明日、明後日と区切らず、目先の損得に囚
(とら)われないで、出来るだけ長い目で観察することが大事だ。全体像を確認し、知識に留まらず、見識、あるいはこれまでの体験や経験を踏まえての人生観を観察した人生道の修行において得た見識に物を言わせ、真の闇の実体を見据える必要があろう。
 だが、昨今のように情報だけに振り回されていたら、ただ右往左往するばかりで肝心なる全体像は見逃してしまう恐れが大である。大局を識
(しる)ことこそ、「命」を感得することになるのである。

 その「命」は宇宙の本質たる限りなき創造変化の中に置かれ、それは動いて止まざるものなのである。
 「命」は、流動するからこそ、「運命」という。
 “動”を伴うから「運」という。運命は「動」で顕わすのである。
 運命の「運」は、“軍が走る”という文字からなる。軍隊が走るから、それは凄まじい。軍隊が大動をするのである。だからダイナミックなのだ。

 ところが世間では、運命と云う言葉が正しく理解されていない。極めて通俗的に誤解され、宿命と、ごちゃ混ぜになっている。多くの一般大衆の想念には、運命を決まりきった「人生の予定コース」と考えている。固定化して、観ている。

 つまり、何年何月何日にどこどこの大学に入学し、何年何月何日にそこを卒業し、何年何月何日にそこそこの企業に就職し、何年何月何日に恋愛をして結婚し、何年何月何日にマイホームを建てる。
 何年何月何日に子供も生まれる。
 更に、その頃の何年何月何日に係長に就任し、管理職候補に選出され、やがて課長に昇進し、何年何月何日に部長となる。

 厄年を何とか越え、五十の折り返し点を超えたところで、過労から病気となり、何年何月何日に恢復
(かいふく)して一応退院し、何年何月何日に両親の何れかが死亡して、親の財産を引き継ぎ、何年何月何日に定年まできっちりと勤め上げ、その後は悠々自適の年金生活者となる。
 八十歳くらいまで、一応世間では長生きと言われる年齢まで達し、それから後は、子供に迷惑をかけないために何処かの老人ホームに入所し、平均寿命を超えた何年何月何日に死亡してこの世を去る、というようなものを運命と思いがちだが、これは運命ではなく、明らかに「宿命」である。

 何年何月何日と「日付け」が固定されている限り、これは流動する運命などではない。これこそが明らかに宿命なのだ。
 宿命の「宿」は“泊まる”という意味である。泊まると言うことは、固定化され、実に機械的である。変化に乏しい。
 ところが、運命は流動的で留まることを知らず、もっとダイナミックなものだ。
 決して機械的な、メカニカルなものではないのである。いつも動いているのだ。
 この動きは、軍が走るほど、凄まじいものなのだ。そしてその凄まじさは、時代が下るごとに烈しくなって行った。

 私自身も、この当時、ダイナミックに変化を早める翻弄される運命の中に在って、何かに弄ばれその波の波動に揺すられていたのである。
 何かが変わりつつある……。そう予感したものである。



●こだわりを捨てる

 人間は一つのことに“こだわる”と、憑
(つ)き物が憑く。憑いて頑(かたくな)になる。迷うが生じる。
 固定観念から、道は一つしか見えなくなるからである。
 しかし高山の山頂の上り、下界を見渡すと頂上に至る登山道は一つでないことが分る。山頂から俗界を見ているうちに、道は一つでないことを悟らされる。幾つも枝分かれしている。
 その枝分かれしたものが寄り集まって、やがて山頂に向かうルートになっていくと、それは麓では各方面に別れていたものが、山頂を中心に集まっていることが分る。
 一つの固定観念に囚
(とら)われるべきでなだろう。
 こだわれば、幻覚に悩まされる。ありもしない幻
(まぼろし)に魅入られることになる。山頂から下界を見ることで、これまでの苦悩は一挙に解決するのである。

 魅入られれば、憑かれる……。
 最後は幻に取り憑かれる。抜き足ならぬ状態となる。そこで悶絶
(もんぜつ)する。
 これは本当である。
 当然そうなれば「敗れる構造」を作り出す。人生に負けた世の「負け組の構図」が浮上する。
 敗れる構造は敵に敗れるだけでなく、自分にも敗れる。そして最後は人生にも敗れる。此処が恐ろしいのだと言った。
 しかし恐ろしさや、怕
(こわ)さを知るのは悪いことではないと言った。もっともっと、怕がれといった。虞(おそ)れを知ることが大事である。畏敬の念が大事なのである。
 虞れを、怕がることを知らない者は、最後の土壇場で敗れるのだ。畏れを知らない者は敗れるのだ。

 現代人は急速に「畏敬の念」を失っている。
 このことがまた、敗れる構造を作り出しているのである。
 人生は甘くないという。簡単にそう言い捨てる者がいる。しかし、一旦こう言い捨てておきながら、言い捨てた本人は実は人生を舐
(な)めているところがあるのである。甘く見ているところがあるのである。

 それはこだわるからであろう。固執し、こだわっているからであろう。こだわりが、こだわっていれば何とかなるだろうという希望的観測を生むからだ。間違いである。愚人の妄想である。こだわることは、我執を生むのだ。愚かだ。

 昨今は「こだわる」ことが、いいように解釈されている。
 ところが、この考えはおかしい。実に訝しい。
 どうして「拘泥
(こうでい)」することが、いいのであろうか。小事に執着して、融通がきかないこといいのだろうか。
 この意味の理解出来ない者は災難が降り掛かる。こだわることのブームに乗る人間は、もともと種属が我執の塊
(かたまり)だからである。性向や信仰などが極端化することは、つまり低級霊に憑かれていることを意味するのだ。

 「こだわる」とか、「こだわり」をいいことのように宣伝するメディアや、その従者は、つまり「憑かれている」から、それに固執し、自然と口から“拘泥を意味する語句”が洩れるのである。
 これは取り憑かれる構造である。敗れる構造である。近未来に、敗れる暗示がある。
 敗れる構造に、わが身を置きながら、これでいい訳がない。再点検が必要だ。

 一つのものに囚われ、そこに固執し、拘泥することは、自分を見失うことである。自己の探求を怠ることである。ゆえに敗れる。人生にも敗れる。これが敗れる構造なのだ。
 こだわれば、当然その一事に魅入られる。取り憑かれる。
 そうなると自由を失い、雁字搦めにされ、抜け出せないばかりか、身動き一つできなくなるだろう。こいなると、その先きに待ち構えているのは悲劇である。悲劇以外に何も残されていない。それは憑き物が勝るからだ。自身の中にある固定観点が、広い場所を占有してしまうからだ。そのために「一皮むける脱皮」が必要である。それのはこだわらないことである。

 それを示す一節を、かつて進龍一の蔵書の一冊から学んだことがある。
 日本陽明学の祖・中江藤樹に関する書物だった。
 これを読んで大いに役立った。
 中江藤樹によれば、まず武士を“士”と捉えている。
 藤樹のことを著わし『翁問答』によれば、「士とは天子・諸候・卿大夫・士・庶民の五等の身分のうち、卿大夫を助けて様々な役職に就いて、政治上の実務を担当し、道の実現の一翼を担う身分である」としている。
 それゆえ、士道とは、明徳を明らかにし、仁義を行って、天下を泰平するものでなければならないとしている。そこで、武士はそのような身分の者として、身分相応の職分と使命を全うし、まず心掛けねばならないことは、「文武の統一」であるとしている。

 まず、藤樹は猛々しい武士を否定している。
 それは日本でも中国でも同じであるが、「文武」の序列的意識である。文は常に武の上にきて、並べると「文武」となってしまう。“武文”となならない。どうしても文武となる。更に、この当時からあったものと思われるが、藤樹は世間評を次のように挙げている。

 「世間では、気立てが優しくて立ち居振る舞いが優雅である貴族風の階級を“文”といい、猛々
(たけだけ)しくて厳つい勇猛果敢な振る舞いをする者を“武”と言っているが、それは大きな間違いである。愚也と指弾するのである。
 本当の文は、天下国家をよく治め、人間関係を正しくする者のことを言う。
 また武とは、悪逆無道の者が天下の道を妨げる時に、これに制裁を加え、懲罰したり征伐したりして、天下の秩序を回復するために働く者のことを言う。更に、文の道を実現するために、武の道がある。武の道は文の道と同根である」
 以上のように論じ、武と文は同根であることを説いているのである。

 ところが、文の道も、武の道も威力によって実現を維持される限り、文の道と武の道は同根であるが、それは文武の道が統一され、一徳にある条件下にある場合としている。
 これと藤樹は、武なき文は真実の文ではなく、文なき武は真実の武ではない。かくして武は仁道の異名であり、武は義道の異名である、と論じているところに注目したい。

 藤樹の言からすれば、則
(すなわ)ち、士道とは、「文武の道であり、仁義に道であって、これまで戦国時代で考えられてきた乱世の兵法を駆使する、そうした類(たぐい)でない」としていることである。
 時代は進み、世の中は変化しているのだから、その変化に応じて、その時代の武士も変化しなければならないとしているのである。猛々しいばかりが武士の道ではないとしているのである。

 藤樹の論議は、武士をこれまでの武辺の武士と捉えていないところに注目したい。
 孔子の説いた、儒教の説く「君子の道」に則っていなければならないのである。更に発展させて、儒学中興の学問である『朱子学』から脱皮し、王陽明の説いた『陽明学』に辿り着き、“致良知説”の陽明学に準じた「倫理の道」の担い手として、士農工商の四民のうち、上位にくる武士は、農工商の三民の模範とならねばならないとしているのである。

 藤樹の理想は、三民の模範となる武士の立場を、次の三つのランクに分類したのだった。
 「上」にくる武士は、明徳が十分明らかで、名利私欲を求めず、仁義を行う勇気があって、文武を兼ね備えた者をいう、としている。つまり、藤樹が挙げた「上の武士」は、仁義を行う勇気があるとしていることである。
 次に、「中」にくる武士は、明徳は不明瞭で明らかでないが、名利私欲に迷わず、名誉や義理に命をかけ、恥辱意識を持っている者を「中の武士」としているのである。
 更に「下」にくる武士を挙げ、このランクは、上辺だけは義理や人情を大事にするように見せ掛けて、心の裡
(うち)は私利私欲が逞しく、野心をぎらつかせ、立身出世のみを念頭においてこれに専念する者をいうとしている。
 そして以上を総じて、武士の上・中・下の品位と人格を見分けるポイントとして、武士個々人の“徳”と“才”と“功”を挙げている。

 これはあたかも、かのザビエル神父が云った言葉と符合する。
 かつて日本人は、海外の人から敬意を持たれていた。
 イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは言う。
 そして、ザビエル神父は、当時の日本人の「清貧」さについて、驚きと感動の念を表している。
 「日本人にはキリスト教国民のもっていない特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、豪商と同等に人々から尊敬されていることだった。清貧なる貧しさを、少しも恥だと思っている武士はいなかった」と。
 この神父は、武士の清貧を高く評価した。これが当時の武士像の等身大の大きさだった。何の誇張もない。
 ザビエル自身、等身大の武士を見て、背景には毅然
(きぜん)さを失わない凛(りん)としたところを感じたのであろう。



●貧士の客好き

 私は貧しても毅然たる態度を喪
(うしな)わないのが好きである。
 それはまた、「貧士の客好き」であったかも知れない。客人が押し掛けて来ることを好んだのである。
 この貧乏なる故に来客者を好む姿に、中国春秋戦国時代の思想家の中で最も共感を覚えるのは、機知に富んだ荘子である。
 荘子の諧謔
(かいぎゃく)に、ほのぼのとした風情を感じさせるものがある。
 「世間から逃避して、人の嫌がる古塚のほとり、イタチ、ムササビの住処
(すみか)に竹の庵を建てて住んだ隠士でも、他人の跫音(あしおと)が聴こえて来ると飛び上がって喜んだ」とある。
 このときに「空谷
(くうこく)の跫音(きょうおん)」という熟語の語源となった。

 『荘子』
(徐無鬼)にはそれ虚空に逃るる者……、人の足音の跫然(きょうぜん)たるを聞きて喜ぶ」とあり、空谷に聞こえる人の足音あるいは、転じて、寂しく暮らしている時に受ける人の訪れ、また、非常に珍しいことの喩えを「空谷の跫音」という。空谷とは寂しいところを言う。
 私が棲んだボロ病院の跡も、夜になれば一変して寂しい。特に塾が終わり、戸締まりを終え生徒が引き揚げてしまった塾の跡は、まさに「空谷」を」髣髴
(ほうふつ)とさせた。あとは家内と二人だけで静まり返る。午前零時を回れば物音は総て消えてしまう。

 しかし、こう言う貧乏をしている家にも人が訪ねて来る。また訪ねてくれば、夜明かしで酒を呑む。機知を得て、その珍しさに心躍り、血が湧いて、議論を戦わせたりする。私が学生時代から議論をするのが好きだった。北九州に居る頃、道場でも稽古が終わって「誰か酒を買って来い」と命じて鶴の一声で、「討論会」をよく開いたものである。それは度々朝まで白熱したことがあった。懐かしい友に再会したように錯覚するのである。その暫
(しば)しの錯覚に酔うのが好きだった。
 習志野でも不定期にこうした討論を戦わせたことがあった。そして、「酒を呑むなら男と遣れ」であった。しかし金などない。私は極貧だったが、家内がその工面をしてくれた。よく店を知っていたので、珍味集めは名人だった、

 貧乏なる家に客が押し掛けても、それが困ったり、厭なものが寄生し始めたと思ったことは一度も思ったことがない。客が来れば嬉しかった。押し掛ける客が朝まで居座っても、それを追い返しはしなかった。好きなだけ居らせた。家内も嫌がるでもなかった。
 習志野に在
(あ)って極貧の浪人生活を送っている時も、私は「貧者の客好き」であった。それに家内もよく付き合った。時には、演歌の一曲も唸ってみせて拍手喝采を貰っていた。客あしらいは巧かった。何もと客の扱いが巧かったのである。
 私も客が来るのは好きだった。荘子で言えば、やはり諧謔であり、個別のユーモアであっただろうか。あるいは奇なる巧みに去なす客捌きであったろうか。
 暫し来客があって、それに道化を演じたことを覚えている。
 それも悪くないと思うのだった。

 また『論語』にある通り「朋
(とも)有り、遠方より来る、また楽しからずや」の教えが好きだった。
 友と言える、その種の人が好きなのは勿論だが、その中でも酒を携え、魚を小脇に抱えて来る人は、なお好きであった。そうなると、尚更、「楽しからずや」になるのである。
 つまり心友である。親友ではない。「心友」である。

 『酔古堂剣掃』に出て来る「貧にして楽しむ」が実践で来たのも、実は家内の御陰であった。「貧士の客好き」によく付き合ってくれたものである。
 『酔古堂剣掃』に出て来る、こう言うのはどうであろうか。

 貧にして客を享(もてな)す能(あた)わず。而(しか)も客を好む。
 老いて世に狗
(したが)う能わず。而も世に維(つなが)がるるを好む。
 窮して書を買う能わず。而も奇書を好む。

 上記は貧士
(日本流に言えば「貧乏侍」というところだろうか)の最下級の身分でありながら、「客好き」と言う意味である。
 貧乏なるが故に「貧士の客好き」を指す。
 私は客好きだから、金もないのに矢鱈
(やたら)客を呼んで、有り金叩(はた)いて酒を呑ませたり、客が深酒して酔い潰れれば、「泊まって行け」を連発して、無理矢理、客を泊まらせるようなことをしていた。
 こうした客の中には、かの有名な古神道の権威もいた。あるいは武術の権威筋の著名な評論家もいた。
 ちなみに、道場生と客の区別は明白で、道場生はあくまで修行者であり、修行者が、師の客にはなり得ないからである。しかし、昨今は勘違いして、“お客さん”を遣る自惚れ人も少なくないようだ。

 以降、家内は呆れて、もう私が何に金を遣おうと一々言うのがバカバカしかったのか、遂には諦めて沈黙をしたのか、忍従をしたのかは分らないが、好き勝手を遣らせてくれたことは有難かった。
 こういう時、家内は少しも厭
(いや)な顔をせず、泊まり客の面倒を看(み)てくれた。飲むと大半はヘベレケになり、腰が立たず、結局寝込んで朝方退散と言うことになるのである。

 昨今は、客を持て成して、客を泊めることを嫌がる妻女が多いと聞くが、家内は私のところに来た時から、来客を少しも嫌がらなかったし、また尚道館では平成2年より夏場の合宿時
(平成4年頃になると家族で北九州に戻るのである。平成元年に建てた尚道館ビルだけは借金の方にとられず生き残っていた)には、道場生や個人教伝の門人を集めて、準備を含めると「大忙しの日が約2週間続く」が、この時も厭な顔一つせず、よく走り回ってくれた。それは下女のような奔馳(ほんち)であった。現在の妻女には真似出来まい。

 しかし、そう言う妻女が居ることも知っている。
 海外の富豪や、日本でも一部の壮士の家に見られるような、その家の妻女がサラリーマンの家とは違う、いい働きぶりをしているのを近年もよく見てきた。
 既に家内は、私のところに来たときから、武門はこういう事を常とすると覚悟をしたのだろう。
 また最初から、こういう家に入れば、それが当り前と思っていたのだろう。
 厭なら出て行く筈だが、出て行かないところをみると、客の来訪は満更でもなかったようだ。



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