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壺中天・瓢箪仙人 24

天とは、その者の、その事を見ているのではないか。その者の自力努力を見ているのである。それを見て、天命は判断する。
 あり得ないようなことでは無いと思う。

 特に悲運に遭遇したとき、それを天はじっくり検
(み)て観察しているようにも思えるのである。
 その人物が如何なる人物は、その後の処遇の仕方を見ているようにも思える。

 つまり、「悲運に処する道」である。
 普通、人は悲運に遭遇すると、どういう態度を示し、どういう行動をするだろうか。
 分類すると、悲運に陥って自棄を起こす人。あるいは世を果無む人。前途を閉ざしてしまう人。こう言う人は「下の下」だろう。
 自棄にはならぬが、弱々しくその処遇に流れて行く人。こう言う人は「下の上」だろう。
 世を怨み、人間社会を呪い、政治が悪いと豪語し、不平不満を並べ立てるが、ともかくこれに立ち向かい、建て直しに努力する人。こう言う人は「中の下」だろう。
 世の中や政治の所為
(せい)にはしないが、反骨精神旺盛で、意地を張り、歯を食いしばり、汗水垂らして働き、労働の中で自分の生き甲斐を見出す人。こう言う人は「中の上」だろう。
 済んだことは済んだこととしてさらりと流し、聞き分けと諦めが能よく、くよくよせず、極めて楽天的で、心新たに第一歩から出発する人。こう言う人は「上の部」だろう。

 しかし、「上の部」の人にも落し穴がある。
 楽天的に振る舞っていても、これがただの気分であるのなら、まだ殆
(あや)ういと言えよう。危険を孕(はら)んでいる。
 何故なら、不運と言う不幸現象が、二度三度と連続し、繰り返されば場合、同じように楽天的に暢気
(のんき)に構えていられなくなるだろう。また繰り返され、長らく連続すれば「上の部」の人でも多大なダメージを受ける。そのために崩れる。

 筆者は、これまで「上の部」という人に何度かお目に掛かったことがある。しかし、こういう大人物風の人でも、連続した悲運にはダメージを受けるようで、ついに崩れた人も知っている。
 世の中には「上の部」と雖
(いえど)も安楽としていられないのである。その先の修行がいる。それは「上の部」と雖もそこが終着点出ないからだ。

 人間は心に動揺を感じたり、明日に不安を感じたり、言論や文言で脅されたり、更には命を狙われれば、屈する人が実に多いと言うことである。
 特に、自分でなく家族の何れかに危害が及ぶ脅しを受ければ、直ぐに崩れてしまうようである。

 だが、こうした場合は諦めるのではなく、まず自らを顧みて、悲運の中に天意を見出し、謙虚をもって、運命に逆らうのでなく、随順しつつ、勿論自らの努力は必要であるが、わが魂とともに天という「他力」に任せることである。
 魂の自由を得れば、「他力一乗」が働く。これを働かせるか否かは、人間が決めることでなく、天が決めることである。
 どうするから天であり、天は「そこを見ている」といえよう。


●運命の構図

 この日、習志野の有志らと寄り合いがあって、夕刻帰宅したら驚くべきことになっていた。由々しき事態が発生していた。
 何と、塾内に上原小夜子が居たのである。
 「げッー!……」
 《妖怪が……》と言い掛かって思わず口を噤
(つぐ)んだ。
 彼女が教室内で家内と向かい合っていたのである。何とも奇妙な構図であった。この状況が、私には全く分からなかった。
 逸早くこれに気付いたのか、「げッー!とはなんです?」と上原小夜子が切り返した。
 「……………」一瞬の不意打ちを食らっていた。
 「ゲゲゲの鬼太郎ではないんですからね」
 「まさかと思ったからだ……」
 「まさか、あたしを妖怪と言おうとしたんではないですよねェ?」と下眼遣いで覗くように言う。
 「いや違う……」眼のやり場に困り、反らした感じだった。
 「知ってますよ、あたし、前の塾で何て渾名されていたか」
 「さて、何だったかなァ……」恍
(と)けてみせた。
 「先生も、あたしを妖怪と思っているんでしょ」些かきつい眼で睨んだ。
 「何をおっしゃるウサギさん」
 「でもいいんです。今日から毎日、此処に出没しますから……」
 一体、何が起こったのか?……どうなったのか?……という不審を抱きながら、家内に「おい、これはどうなっているんだ?」と叱責するように問い質
(ただ)したのである。

 すると「見て分かるでしょ、二人で勉強しているのです」と、家内は乾いた声で言うのだった。
 「なんだと?」
 「二人でと言ってもマンツーマンですもの」
 「マンツーマンだと?……」
 冗談も休み休みに謂えと言いたかった。
 私は《お前の学力でその秀才が指導できるのか》という疑わしい気持ちで訊き返したつもりだった。
 「もう、上原さんから、今月分のお月謝4万5千円頂いてあります」
 私は筋の通らぬ話に、頑
(かたくな)に拒否反応を示して、
 「しかし、だなァ。入塾など許可した覚えはないぞ!」と、怒声を上げるのだが、既に手遅れだった。
 それに今月分の月謝と言うことも否定するだけの気持ちを喪失させていた。このまま見守るしかない。仕方ないかが正直な気持ちであった。転んだのである。

 そして、私と家内を中を割って「でも、先生。ここの塾は奥さんが塾長なんでしょ?……。
 つまり、わたしは千歳先生から許可を頂いて、今日から塾に通わせていただいているんです。先生が口出しする筋合いはないと思いますが……」と、上原小夜子が薄ら笑いを浮かべて、勝ち誇ったように言うのであった。確かに理屈はそうだ。とんでもないことになったものだ。

 もう裏では、しっかりと口裏が合わされていて、根回しが出来ていて、それはあたかも“割符”並みにしっかりと符合する明確な合わさり方だった。二つに割ったものが、このように符合すれば、もう難癖を付ける余地はない。また、ここまで結託されては、私の出る幕ではなくなり、口出しする筋合いではなくなっていた。それに月謝4万5千円も欲しい。従うしかなかった。
 こうなったことを、進龍一は何と言うだろうか。私を軽蔑するだろうか。
 あるいは「やっぱり宗家は金に転んだのか」と、諸手を挙げて喜ぶだろうか。奴の喜ぶ貌が眼に浮ぶようであった。
 奴は私が転ぶのを楽しみにしているのである。私も奴が転ぶのを、この上もない喜びに感じるからである。
 今日この頃の幸福感は、小人の鬩
(せめ)ぎ合いの中に存在していた。

 私は小人
(しょうじん)である。天下の小人であろう。それに小心と臆病が重なれば、申し分のない小人の上に「大」を付けていいほどの天下の“大小人”である。
 小人は他人の不幸を痛快がる習性がある。
 特に不幸の中でも「転ぶ」とか「躓
(つまず)く」というような咄嗟の顛沛(てんぱい)に対処出来ないこの種の不幸である。アクシデント的な非難や指弾で、たじたじになることにである。
 また、それを見て「好
(い)い気味だ」と思う。普段から憎々しく思っている者にはその嘲りが大きく、それだけで胸のすく思いを感じるのである。こういう者の失敗は、特に嬉しいものである。

 その一方、自分が他人からこの種の嘲笑を受けたり非難されると、自らは気に病むものであり、他人に対して傲慢な態度をとりたがる人間ほど、他人が自分に対して傲慢であることを嫌がるのである。小人の特長と言えよう。
 何でも「転ぶ」ことが嬉しいのである。高が知れた存在だった。
 では一方、奴はどうか。
 似たり寄ったりであろう。双方とも、五十歩百歩の高が知れた存在だった。
 しかし、とは言っても、五十歩百歩の比較すれば、奴は五十歩の小人で、私は百歩劣る小人で、その小人度は私の方が大きかった。
 何しろ、落ちた犬ならぬ“落ちた豚”だった。
 奴は豚に好意する方で、私は落ちた豚として好意に甘える方だったからである。
 相手の好意に甘え、超えてはならぬ一線を超えても、依然として相手の好意が続いているように見える場合がある。しかし、その場合は相手の不快な努力の表現でしかないからである。
 甘えと言うのは、こうした構造の中に「魔」が潜んでいると言えよう。
 だが、小人は「魔」に気付かない。

 こうなった以上、後は運を天に任せるしかない。これも「魔」の仕業
(しわざ)なのだろうか。
 運命というのは、人間の意志では如何ともし難いようだ。側面には、本人と一緒になって「魔」が行け行けムードで煽るからである。そして、焚
(た)き付ける。
 「毒を食わば皿まで」と。
 この場合は、いったん面倒なことに関わってしまったからには、最後まで関わり合うことだろうか。

 自分の意図した方向へとは、逆に転がるようである。そして、ひと度転がり始めると、もう制御が出来なくなる。
 人間の意志では避けて通れるものではないらしい。
 確かに天が動いているのだ……と思った。
 そういう結論に落ち着くと、上原小夜子は、この塾に来るべきして来たということになる。必然的な結果は最初から用意されているようにも思える。如何にも予定説的だった。あらかじめ予定されていたことだったかも知れない。
 それにしても、なぜ彼女が、家内と角を突き合わせたようになっていることは不明だった。何とも解
(げ)せないことであった。とんだ疫病神を背負い込んだものである。

 そして、時々漏れる二人の話を隣室から、耳を傍立てて聞いていると、その会話の内容は勉強法を指導するといったものでなく、むしろ人生相談のような質疑応答が繰り返されていた。
 「どうしたらよいか?」という内部事情の解決に、当面の案件が題されているのである。
 相談者が塾生で、相談者に回答するのが塾長だった。奇妙な構図である。個人指導というより、勉強を逸脱した、とんでもない方向に向きを変えていた。伝習塾の方針が傾いているようだった。前途多難である。
 しかし、こうした方向に向かって何かが動き出していることは確かで、これも運命の悪戯
(いたず)だったのだろうか。
 相手は恐るべき妖怪の上原小夜子だった。安心するのは禁物である。心を赦
(ゆる)すのは未(ま)だ早い。
 怕
(こわ)いのは、この娘である。ある日突然、妖変するからである。

 突如として夜叉
(やしゃ)の如きに妖怪に変化(へんげ)するのである。あるいは、更に恐ろしい御伽草子(おとぎ‐ぞうし)の『玉藻の草子』にも登場する“白面金毛九尾(はくめん‐こんもう‐きゅうび)”の妖狐(ようこん)に変がするのではないだろうか。
 そのように一時は眺めたことがあった。



●妖変の話

 玉藻前の伝説は、最も早いものでは史書の『神明鏡』の「鳥羽院の条」にも見られる。
 また、能では『殺生石
(せっしょうせき)』に見られる。鳥羽天皇の寵妃玉藻前(老狐の化身)が殺されて石と化したものである。これに触れると災いをなしたが、玄翁(げんのう)和尚がこの地を通りかかり杖で一打すると、二つに割れて中から石の霊が現れ、成仏して消えたという伝説による。
 九尾の妖狐は、悪しき霊的存在だった。
 平安時代末期に鳥羽上皇に仕えた二尾、あるいは九尾の狐が化けたという伝説上の絶世の美女を「玉藻御前
(たまもごぜん)」といった。勿論、伝説上の事である。歴史的事実と、伝説的由来は、確(しっか)りと分類しておく必要があろう。
 しかし……と言いたくなる。

 世のも稀
(まれ)な絶世の美女なのである。
 私の知る限りに知識で論ずれば、最初、玉藻御前は藻女
(みずくめ)と呼ばれ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。美女の誉(ほま)れが高かった。
 十八歳で宮中で仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前
(たまものまえ)と名乗った。また、その美貌と博識から、次第に鳥羽上皇に寵愛され、契りを結ぶこととなる。
 しかしその後、上皇は次第に病に伏せるようになり、朝廷の医師にも原因が分からなかった。
だが陰陽師・安倍泰成
(安倍泰親、安倍晴明とも)が、玉藻前の仕業と見抜くのである。
 安倍が真言を唱えたことで、玉藻前は変身を解かれ、白面金毛九尾の狐の姿で宮中を脱走し、直ぐさま行方を晦
(くら)ませたという。

 その後、宮中には那須野
(現在の栃木県那須郡周辺)で婦女子が攫(さら)われると言う事件が伝わって来た。
 鳥羽上皇は予
(かね)てからの那須野領主・須藤権守貞信(すどう‐ごん‐の‐かみ‐さだのぶ)の要請に応え、討伐軍を編成させた。
 ところが、九尾の狐の術は凄まじかった。討伐軍は打ち負かされ、多くの戦力を失い、敗退した。
 再び策を練り、今度は、討伐軍は遂に九尾の狐を追い込んだ。今一歩と言うところまで追い込んだ。

 九尾の狐は貞信の夢に、娘の姿で現れ許しを願った。
 しかし貞信は、これを狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出た。そして後に源頼朝の石橋山の挙兵に一族を参加させたことで名高い三浦介義明
(みうら‐の‐すけ‐よしあき)が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、更には房総平氏惣領で家頭首の上総介広常(かずさ‐の‐すけ‐ひろつね)の薙刀(なぎなた)が斬りつけたことで、九尾の狐は息絶えたという。伝説ではそうなっている。

 だが、九尾の狐はその直後、巨大な毒石に変化して、近づく人間や動物等の命を奪ったという。そのため村人は、後にこの毒石を『殺生石
(せっしょうせき)』と名付けた。栃木県那須町の那須湯本温泉付近にある溶岩を指す。
 日光国立公園内の栃木県那須町辺りの溶岩をいう。
 この殺生石は鳥羽上皇の死後も存在し、周囲の村人たちを恐れさせたとある。
 伝説とは云え、日本の平安期当時の危機管理意識が見えて来るのではあるまいか。
 ちょっとやそっとの法力では適
(かな)わなかった。敵ではなかった。

 妖怪変化も霊的生物である。甚振
(いた‐ぶ)られるに従い、抗体を付けたものと思われる。生物は人間を含め、抗原に対する免疫性や過敏性を与え免疫体を構成するのである。
 したがって免疫体を構成すれば抵抗能力が造成され、その恐怖は凄まじく、鎮魂のためにやって来た多くの高僧ですら、その毒気に斃
(たお)れて行ったと言う。この石からは亜硫酸ガス・硫黄・硫化水素などの火山性有毒ガスが噴出されるからである。
 南北朝時代、会津耶麻郡熱塩加納村で、元現寺
(じげんじ)を開いた曹洞宗の玄翁(げんのう)和尚が此処を訪れ、巨大な槌(つち)で殺生石を破壊し、破壊された殺生石は各地へと飛散したと伝えられる。

 玉藻前の経歴は中国古代王朝殷にまで遡
(さかのぼ)るという。
 殷
(いん)の最後の王である紂王(ちゅうおう)の妃の妲己(だっき)の正体は、齢(よわい)千年を経た九尾の狐であったという。紂王の妾(めかけ)であり、冀(き)州領主・蘇護(そご)の娘・寿羊(じゅよう)という娘を食い殺し、その身体を乗っ取って、紂王を惑わせたとされる。
 寿羊は国中から選ばれ、献上された美女のうち、最も絶世と謳われた美女である。紂王はこの美女に魅せられた。虜
(とりこ)になった。
 このとき本物の寿羊は、妖狐に血を吸われて死に、躰は完全に乗っ取られていたのである。此処に憑衣の凄まじさがある。

 やがて紂王と妲己は酒池肉林にふけり、国が傾く要因を作り始まる。もともと紂王は明君として知られ、政
(まつりごと)に優れた政治家だった。ところが美女に魅せられ、此処から国を亡ぼす顛落の坂道をまっしぐらだった。
 亡国……、それはまた色に狂う要因を伴って国が滅ぶ縮図を示す。
 妲己に唆された紂王は、家臣に後宮の美女を与えた。そして連日連夜乱交の宴
(うたげ)を催した。酒池肉林の故事である。色に狂うことは、彼(か)のローマ帝国然(しか)りである。

 また「色」と「猟奇」は紙一重であり、それは表裏を為
(な)す。
 その証拠に、無実の人々を炮烙
(ほうらく)の刑にかけるなど、暴政を敷いたが、周の武王率いる軍勢により捕らえられ、妲己は処刑が執行された。
 しかしその刹那、妲己の妖術によって処刑人が魅せられ、彼女の首を切ることが出来なかった。このとき太公望が照魔鏡
しょうまきょう/悪魔の本性を映し出すという鏡)を取り出し、妲己にかざし向けると、九尾の狐の正体を現して逃亡するところだった。太公望が宝剣を投げつけると、九尾の躰は三つに飛散したといわれる。九尾は太公望との妖術戦に敗れたのである。
 こうなればハッピーエンドなのだが、それにしても、私が考えるに、分らないことがある。
 それは、では誰が妲己を紂王に差し向けたかと言うことである。

 妲己は、周公旦の手によって乳幼児時代を教育されたと言う。そして、紂王を葬るための秘密兵器でもあった。殷を周の武王に滅ぼす策は、周公旦によって基本構想が練られた。
 そもそも殷は『史記』
(殷本紀)によれば、湯王が夏(か)を滅ぼして始まった王朝である。殷の前の中国最古の王朝である。この夏は、伝説によれば、禹(う)が舜(しゅん)の禅譲(ぜんじょう)を受けて建国した王朝である。紀元前21世紀から16世紀まで約五百年続いた王朝とされている。その後、殷の湯王に滅ぼされたという。そのとき「商」と自称した。そして殷は前16世紀から前1023年まで続いた。
 ところが三十代の王の紂王に至って、周の武王に滅ぼされた。
 紂王は妲己を知る前は名君と言われた王であったと言う。この名君が、妲己によって狂う。国を滅ぼすまでに狂う。これを考えれば、紂王を狂わせた妲己は恐るべき妖怪だったと言えよう。
 だが、ここに疑問が残る。
 妲己は誰によって殷に送られたかと言うことである。
 周は最初、殷に服属していたが、西伯
(文王)の子発(武王)がこれを滅ぼして建てた国である。武王は周王朝の祖で、姓は姫(き)、名は発(はつ)。文王の長子であり、弟周公旦を補佐役とし、太公望を師としで、殷の紂王を討ち天下を統一した。
 また周公は、文王の子であり、名は旦
(たん)。兄の武王を扶(たす)けて紂を討ち、成周(洛邑)を守った。子を魯に封じ、武王の死後は甥の成王、その子康王を補佐して、文武の業績を修めた人物である。
 また、孔子が礼学の手本としたのは周公旦のものであり、後世、周代の礼楽制度の多くはその手に成ると伝えられている。
 これほどの才を持った人物である。それが太公望を軍師として用い、殷の紂王を討つことは容易
(たやす)かろう。
 一方、妲己は淫楽・残忍を極めたといわれる毒婦である。それが承知で殷の紂王の許に送られ紂は妲己を寵愛し、寵妃とした。生まれながらに「毒婦」なる人間がそもそも存在するのだろうか。
 居ないとなれば、人為で作られたと言うことになる。
 妲己の性格と性テクニックは人為によるものであったろう。
 この性テクニック一つ挙げても恐ろしい術である。

 例えば、男には女にない、尻を刺戟されて男根が怒張するという奇妙な性感帯がある。
 尻の周りの性感帯を刺戟されれば、異常を起こし、性腺が狂うのである。また肛門及び肛門の周りには射精神経があり此処を刺戟されて押されれば、意志とは無関係に射精し、精液を迸
(ほとばし)る。そのように持って行く淫術がある。それは神経の一部が傷付けられたり、何らかの人為で痛感を起こさせれば、その行為自体に愛情を感じると言う。
 あるいはこれを愛情と言っていいかどうかは分らないが、動きに丹念さがあれば、それ自体に思い遣りが感じられ、その思い遣りに縋
(すが)ろうとする肉愛が生まれる。世の殆どが知らない淫術である。

 この術に掛かれば、世の男どもは「結婚したい」などと珍妙な懇願が起こるとされる。
 そのように誘導されて性の昂
(たかぶ)りを覚えるのである。これは肉の結び目から生じる親密感であり、これが擬似的な愛情に発展する。あるいは憐憫(れんびん)と言うものかも知れない。世に言う「憐憫の情」などは疑似愛情の一つであり、熱病に浮かされたようになる。
 紂王が妲己の毒によって疑似愛情の術に掛り、死ぬまで熱病の浮かされたとしても不思議ではない。これは紂王を滅ぼすことを目的とした寵姫である。

 ただ、こういう淫術は生まれながらに知っているものでなく、習性でない以上、誰かが教えなければ出来る訳がないのである。それを誰が教えたかである。妲己も生まれながらに毒婦ではなかった筈である。
 怨霊も妖怪も、最初は無いものが在るが如くに登場し、これに人為の毒が加われば、毒婦化したり妖怪化するようである。

 さて、九尾の妖狐に話を戻そう。
 九尾は太公望との妖術戦に敗れた。だが、これで息絶えた訳ではなかった。南天に飛び去ったのである。
 天竺
(てんじゅく)の耶竭陀(まがだ)(南インド・マカダ国)の王子、班足太子(はんぞくたいし)の妃の華陽夫人として、再び現れたという。
 やがて王子は悪逆非道な行為が目立つようになり、千人の首を刎
(は)ねるように唆し、暴虐の限りを尽くしたという。また、賢僧といわれる僧侶を千人を「破戒僧」であると決め付け、猛獣の餌食にしたり、これを諌(いさ)める家臣をことごとく斬殺した。

 しかし、名医と謳われた耆婆
(きば)という人物がおり、華陽夫人を魔界の妖怪と見破り、金鳳山中で入手した薬王樹で作った神木の杖で、夫人を打つと、忽(たちま)ち九尾の狐の正体を現し、北の空へ飛び去って行ったという。
 更には、周の第十二代の幽王の妃・褒ジも九尾の狐だったという。褒ジは絶世の美女だったという。だが褒ジは中々笑わない女で、幽王は様々な手立てを使って彼女を笑わそうとした。
 ある日何事もないのに幽王が烽火
(のろし)を上げ、諸侯が集まったという珍事に褒ジは初めて笑ったといわれ、それを機に王は、何事もないのに烽火を上げ、諸侯が烽火をみても出動することが無くなり、後に幽王は殺された。その後、褒ジは逮捕されたが、いつの間にか幾重を晦(くら)ましたと言う。正体は九尾の狐だった。

 その後、この狐は若藻
(わかも)という16、7歳の少女に化けた。
 若藻は玄宗皇帝の娘だという。
 彼女に惑わされた吉備真備
(きびの‐まきび)の計らいにより、阿倍仲麻呂や鑑真和尚らが乗る、第十回目の遣唐使船に若藻は乗船したのである。一種の密航であった。天平四年(753)四月の事である。
 途中、嵐に遭遇したが、無事来日を果たしたのである。
 諸国で人を狂わせた妖狐は、その後、鳥羽上皇に仕えて取り憑いたのは、既に述べた通りである。
 また栃木県那須町の溶岩の殺生石に化けたと言うが、玄翁和尚によって成仏したとされるが、そこはしたたかな妖狐の事である。
 ひょっとしたら近代、南米あたりに渡って、また悪事を働いているのかも知れない。そしてその悪事の霊的波動は以後も日本へと伝搬したことも考えられ、その伝搬の鉾先は16、7歳の少女に化けたとしても不思議ではない。その霊統を継いだ因子を持つ末裔が、今日に居ても訝
(おか)しくないのである。
 このとき奇
(く)しくも、ふと上原小夜子に重ねて想ったことがあった。
 単に私の妄想から起こった戯言
(たわごと)であろうか。
 そして、まさかと首を振る……。



●予測不可能

 運命……。
 更には運命が絡む廻り合わせや出遭い。
 それは難解な代物である。それが起因して動く展開は予測不可能だからだ。人智の及ぶところでない。人智の届かぬ、天にある。

 運命に、確かに転換する意志は働くのであろうが、その転換すること自体、それは天に委
(ゆだ)ねられることである。そうした結果が出るのも、天の思(おぼ)し召しである。
 天は人間に様々な試煉
(しれん)だけを与えるだけではなく、意外な結果を齎(もたら)すものである。大局を見逃す結果を招くからだ。

 例えば、先の大戦を考えてみるがいい。
 アメリカが太平洋戦争と称した「大東亜戦争」のことを考えてみるがいい。日本は、あの戦争に無慙
(むざん)に敗れ、多くの犠牲者を出した。根本を見逃したからである。

 この戦争では統計学的に、後から訝
(おか)しな理屈がこじつけられ、「アメリカと戦っても、生産力において負けた戦争である」などと、進歩的文化人の自虐的な意見が述べられた。したがって“無謀な戦争”だったと位置づけられたのでる。
 彼等の論じた歴史史観によれば、日本人は無謀な戦争をするために、多くの犠牲を払ったということになっている。ゆえに歴史学者や軍事評論家の多くは、先の大戦を「無謀」の一言で片付けてしまったのである。それはまた、根本を理解していないことにあった。歴史史観の欠如である。あるいは偏った歴史観であろう。
 物事が自分の先入観と固定観念を交えて考察し判断して行くと、偏愛的な偏った概念に囚われる。それを頑
(かたくな)に思い込んでしまう。全体を検(み)た訳でないのに、総てを知ったように錯覚し、見てきたような講釈師論を絶対正義と思い込んでしまうのである。世の中はこの思い込みによって歴史の捏造が存在しているようである。
 歴史は夜作られるのではない。人間の思い込みによって、おもしろおかしく書き換えられるのである。

 そして、摺り替えが起こった。マスコミを動員しての巧妙な仕掛けが図られた。
 この頃から、日本では一挙に左翼陣営の虚構に加担する輩
(やから)が急増した。それは日本人から正しい歴史認識を奪うために仕掛けられた仕掛けであった。

 当時の国民は戦争体験者として、「日本の大敗北」の立会人になったのである。日本人の戦争恐怖症を煽って、後遺症にまで進行させたのである。一億総懺悔はここに始まる。
 その立会人たちの多くは《戦争の語部
(かたりべ)》として、あたかも地獄絵図を見たかのように語り、「戦争は、もう懲(こ)り懲(ご)りだ。二度とごめんだ。自分達の貴重な体験を次世代に伝えなければ……云々」という思い込みで、使命感を帯びた言辞をする。しかし、この言辞は感情そのものである。冷静の時を分析したものでない。感情家のそれである。

 戦争を、もう懲り懲りだと思うのはいい。戦争は悲惨であると思うのもいい。
 しかし、懲り懲りと悲惨を掛け合わせて、感情一つで、敗戦国日本を「悪」とするのはいかがなものか。
 戦勝国の米英をはじめとする、日本が戦った旧ソ連、中国、オランダ、オーストラリアの軍隊に、悪は存在しなかったのか。そのことも論じられなければ、片手落ちになる。だが、そのことを、多くの歴史学者は見逃している。

 この甚だしきが、進歩的文化人という人種の論だ。その趣旨は、戦争は「悪」である、と断定することだった。日本悪玉論に持ち込み、徹底的に日本を叩くことを目的にしていた。
 先の大戦は誤りだった。それを認めさせねば気が済まない。それ故にファシズムに対する反応は敏感で、一切の軍事を否定して、軍事と言えば眉をしかめ、戦争と言えば、おぞましいと決めつけるのである。
 そして、その感情が強ければ強いほど、感情によって論じられた正義感は、いつのまにか「絶対的正義」に摺り替えられ、マスコミ界を長らく席巻し、君臨してきた。これが進歩的文化人の論であった。この論だけが持て囃された。

 歴史的教訓……。
 それは感情からではなく、理性や知性をもって、その戦争体験は語らられねばならない。その姿勢は、便乗気味の反戦主義者の語り口であってはならない。
 戦争は、なぜ起こったのか?……、そのメカニズムは、どこが源泉だったのか、その論理を明確にしなければならない。極端な例をもって、感情主体の怒りだけを露
(あらわ)にしてはならない。
 こうしたものを全て取り去って「矛を止める軍事観」が現れていなければならないのである。
 それによって、はじめて当時の幾多の犠牲者を出した、戦争での教訓が生きたものになる。おぞましさ一辺倒の感情論で、決して戦争を語ってはならない。

 さて、感情論を排して、先の大戦を歴史的に見直すと、本当に先の大戦は、無謀な戦いで、最初から負ける戦いであったのだろうか。ここに大きな疑念が残る。
 もし、日本があの大戦で、負ける戦いを演じたとするならば、朝鮮戦争は……、ベトナム戦争は……どういう位置付けになるのだろうか。

 日本が無謀な戦いをしたというのであれば、その「無謀」な一面において、朝鮮戦争もベトナム戦争も、また否定されるべきであろう。アメリカの圧倒的な工業生産力と国力の差において、圧倒的な格差があるから、これを無意味として、朝鮮人民もベトナム人民も、尻尾を巻いてアメリカの軍門に降
(くだ)るべきではなかったか。戦わずに、アメリカに魂を売ればよかったのである。
 ところが、朝鮮人民もベトナム人民も、指導者の方向性があったとは言え、軍門に降る道を選ばなかった。とことんアメリカに楯を突き通した。そしてこの結果、勝利を得た。アメリカの思い通りにはさせなかった。

 そのうえ「根性」とか、「為
(な)せば成る」などと、運命を否定するような、あるいは努力のみで運命を覆(くつがえ)すような矛盾を口にすることが、未(いま)だに流行している。あるいは気象に恵まれなかったとか、物資に恵まれなかった、更には機会に恵まれなかったと言って、ツキがなかったなどとするのである。果たしてそうか。
 多くの口にする言葉には、機会に恵まれなかったという言が多いようで、これを冷静に考えれば本来は、機会に恵まれなかったのではなく、「機会を求めなかった」というべきであろう。
 果たして、日本は無謀な戦いをしたから、先の大戦を負けたのだろうか。あるいは逆に、根性論とか、為
せば成るの精神主義で戦えば、この戦争は勝てたのだろうか。
 “為せば成る”で言及すれば、これは「負けたと思うまで負けてはいない」と同義である。負けたとギブアップするまで勝負は終わっていないという論があるが、こういう場合は大抵の場合負け惜しみであり、自己欺瞞である。確かに戦いは十中八九勝ちを納めていても、逆転される場合がある。攻め手も、奢り昂れば土俵際で「うっちゃり」を喰わされることがある。人間のすることは、最後まで諦めるべきでないだろう。
 こうした二つの鬩
(せめ)ぎ合いで、先の大戦の戦争論に迫れば、両者は大きく矛盾する。

 しかし、不幸だと観ずるまでは、不幸でないと言うのは真実だろう。決して負け惜しみでもなく、自己欺瞞でもないからだ。
 但し、こうした信念的なものは安易な精神論のみでは危ういであろう。
 それは運命と言う人間に絡む霊的媒体が、ダイナミックにうねるからである。この「うねり」まで否定するのは愚であろう。
 一寸策は闇である事を知らねばならない。

 精神主義が勝利に結びつくと信じる考え方は、「根性」とか、「為せば成る」などと、運命を否定する今時の考え方である。
 一方、努力しても、「根性」とか、「為せば成る」だけで先の大戦に勝たなかったのは、努力して実らないと言う現実を見せつけたことになり、これは運命によるところが大きい。
 ある「うねり」で航行中の船は不意打ちを喰らって転覆することもあるからだ。
 運命の「うねり」を見逃すべきでない。
 このように、運命否定という発言を信じても、実際には運命に流されると言うこともあると言うことだ。

 これにこそ「努力は実らない」という側面が、努力する支柱の裏側に隠されている。
 この事実は認めなければなるまい。
 努力はしても実らないことがあるのである。
 しかし努力することを否定するのでない。努力はしなければならない。その努力することにおいてのみ、天という他力が働くのである。努力する他力である。これを「他力一乗」と言う。
 しかし、これはどう言う結末を招くか予測不可能なのである。
 また、運命はそう言う素顔をしているのかも知れない。あるいは成るようにして成る、運命の構図が予
(あらかじ)め予定説のように描かれていたのだろうか。



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