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壺中天・瓢箪仙人 22

ボロを纏っていても構わないし、履(くつ)が破れ、頭上の冠が貧弱でも構わない。そんなことは一切関係ない。
 かつて、そう肚
(はら)を括った人物が居た。原憲である。

 原憲は孔門の門下で、一時期、孔子に学んでいた。ところが晩年は孔門を離れ、ある湖の畔で極貧生活を送っていた。恐ろしいほど貧乏であったと言う。

 肚
の据わった極貧の境地に至れば、却(かえ)って気が楽で、まさに悠々自適を楽しんでいるという風雅の趣(おもむき)すらある。
 原憲は風流を楽しんだ人物であったのだろう。
 これは貧しきを知るが故の「豊かさ」であろう。

 豊かということは、貧しさを知らねば、自分が貧者なのか富者なのか、それを判別することが出来ない。これを判別するには、謙虚になって自分の心の貧しさを知ることから始まる。
 知らねば、人間は心を豊かにすることは出来ない。
 もしそれ以外のことで心の豊かさを求めようとすれば、心は益々貧困になって行くことであろう。


第二章 愛憎のねじれ曲線



●厭離穢土

 昨今は「不倫」という行為が、大流行しているようである。
 この不倫は、“浮気”というような、男女間の愛情が、うわついて変り易いとか、多情、あるいは他の異性に心を移すというレベルのものでない。
 完全なる恋愛遊戯であり、この遊戯には最初から肉欲が絡む。異性の肉体を貪る。肉欲が骨の髄まで絡むのである。そして昨今は、これを奨励する不倫小説やセックス情報が持て囃
(はや)されている。

 「不倫」という語源を『広辞苑』には、「人倫に外れること。人道に背くこと」と、記載されている。
 更に“人倫”という語を追えば、『孟子』
(滕文公・上篇)に「人と人との秩序関係。君臣・父子・夫婦など、上下・長幼などの秩序」とあり、転じて、人として守るべき道と記されている。
 ドイツの観念論哲学者のヘーゲルの用語によれば、「客観化された理性的意志」とある。
 理念の弁証法的発展という方法で、ヘーゲルは思弁化という手法を遣い、この精神現象を見事に言い表している。
 また、“人道”の語を追えば、「人の踏み行うべき道」あるいは「人の人たる道」とある。人としての道義に叶ったさまこそ、人類愛の根本であると説いている。

 ところが現代という時代は、これらを根本から覆
(くつがえ)している。
 例えば、夫婦間の妻の側からすれば、世間体のいい、亭主は一流企業に勤める良人
(おっと)を持ち、また恋人を密かに持ち、更に密かなる、小遣いをくれるパトロン(援助交際者)を持ち、この三点セットの図式を解説すれば、良人は“建前”となり、恋人は“本音”で、パトロンは“底音”であるという。
 まさに「性の多様性」である。
 あたかも、衣服をその時、その場の雰囲気で、自分の気分の併せて着替えるという感覚の多様性で、現代人は老若男女を問わずこの現象に翻弄
(ほんろう)されはじめた。

 この構造をヘーゲル流にいえば、この三重構造は理念の弁証法的発展という観点から洞察すると、上記の三点セットの図式は「亭主」あるいは「良人」という、数直線上に並ぶ「男」の図式の一元論の概念が根本から覆され、見事に崩壊する。婚姻と言う概念が崩壊する。配偶者の概念も崩壊する。
 一夫一婦制は、旧態依然の一元論の概念であるからだ。これを時代遅れとする。

 多様性とか多様化の言葉を乱発をする愛用者は、多面性を展開し、攻めの三面構造をもって現代人を愛欲に眼の眩んだ人種を性欲の中で培養し、渇愛
(かつあい)や愛着(あいじゃく)に放浪する「煩悩(ぼんのう)の徒」を増産し、道ならぬ欲望と執着を煽(あお)っているのである。

 この煽動を、私個人の“私観”で述べれば、これは現代に顕われるべきして顕われた「恋愛魔術」と感得しているのである。
 日常的な実践の中で、愛人を意のままに操り、その後、奴隷化して、これを立派に愛の奴隷に仕立てる。そういう心に巣食う「陰」の部分が現代は表面化したと思うのである。
 愛の奴隷とは、普段から考えれば、日常的であった。

 ところが、この時代に至って、“不倫貴族”なる人種が登場し、その人種の迎合するように、不倫作家と言う仕掛人が、この時代に便乗した。恐れべき結末は、今や多様性と云う言葉にすり替えられたのである。好きなことは、好きなだけ、本能の赴くままに遣って宜しいと、市民民権を得たのである。
 こうして一夫一婦制は根本から覆され、男女とも、貞操観念は根本から崩壊してしまったのである。
 斯
(か)くして、この時代は「一途」という気持ちは喪(うしな)われた。
 だが、一方で人間には“後ろめたさ”というものが付き纏うのであろうか、世間体だけは整えようと画策することである。

 こうした現代の背景には、欲望の多様化というか、情欲の多様性というのがあり、女が一人の男に尽くすとか、男が一人の女に満足するという時代ではないことを物語っている。
 もう双方は、一人の人間に対して忠誠を尽くすということはあり得ないことを窺
(うかが)わせているようにも見える。時代は多様性を合い言葉に、そのように変わっているのかも知れない。

 愛だの恋だの、世間は騒がしい話題の一つに、恋愛劇を取り上げているが、今日の恋愛劇の背後には、そこで演じる恋愛の数々が、最後はその相手を愛
(いと)おしむ“愛”が、まるで雷に打たれるよう襲われ、ついに消滅するということである。そして、現代人は公私混同という恋愛劇を繰り返すにあたり、これまでの種属に検(み)ることが出来なかった、不思議な才能を持っている。
 現代人こそ、特異な種属かも知れない。

 その特異な種属の日常行動の中に、1年365日の「一年中を通じての発情」がある。人間は、年から年中発情している生き物だが、特に現代人は、この発情が旺盛である。

 生物学上、哺乳類の中でも、年から年中発情しているのは人間という動物だけである。犬でも猫でも、その他の動物でも、こうまで発情はしない。多くの動物には、発情期のシーズンというものがある。
 ところが人間は違う。
 一年中発情をしている。異性や同性を求めて、体の燃え滾
(たぎ)る血を鎮めるために夜の巷(ちまた)を徘徊(はいかい)する。徘徊するのは何もボケ老人だけでない。老いも若き恋愛遊戯に奔って徘徊するのである。

 ところが、年中発情している割には、いつも中途半端でだらしがない。人間だけは年中発情しながら、男も女も発情準備は雄として整い、雌として整っているのだが、いざ“性交開始”となると、実にだらしないのだ。持続力がないのは、その典型であろう。
 その元凶に本物の、「男女二根交会
(だんじょ‐にこん‐こうえ)」というものを知らないことが挙げられる。交会は肉体を介したスポーツではない。「清らか」なものだ。しかし現代人にはこれが難解であるらしい。

 さて、男は女を手に入れるために精一杯、寛大に、鷹揚
(おうよう)に、いかにも自分がその道での大物のように振舞ってみせ、こうした男の似非(えせ)なる部分の毒牙に搦め捕られる女がいる。
 また一方、あたかも女性週刊誌の派手なグラビアのファッション記事を全身に貼付けたような恰好で、男を惹
(ひ)き寄せようとする女もいる。双方の色仕掛け合戦は尽きることがない。
 この仕掛けで、男が惹き付けられると信じ込んでいる女も女だが、この手の女に眩惑
(げんわく)される男も男である。
 こうした手合いの男女が、夜の巷
(ちまた)には溢れている。そして双方は、狂い惜しいように、口先から恋を囁(ささや)き、愛を語るのだ。

 その分、酔って、囁き、語る分はいいだろう。双方の遊び心が存在するうちはいいだろう。
 女の顔も、化粧を落とさない分、また男も人前で札ビラを切って、抱く分にはいいだろう。とにかく一夜の遊び相手にはいいのだ。
 ところが、これが五十年も連れ添うとなると、女の素顔だけではなく、男の正体も問題になってくる。これが“霊長類”の頂点に君臨して、年から年中発情しているから、また驚きなのである。

 生物学上、人間をサル目ヒト科の動物として検た場合、現在のヒトと定義される「ホモ・サピエンス」は、明らかに他の動物と違う。また他の動物も人間とは違う。人間も動物の一種とされて定義されているが、それは似て非なるものだ。
 ところが、この「動物」は、例えば薬事法からいう動物を定義した場合、この法律に関する限り、人間を動物の延長上に置くことが許されている。

 これは法律だけでない。現代医学も、人間を動物と考えている。
 人間の肉は、哺乳動物の肉と、その仕組みが酷似すると定義されている。人間を動物の一種属と検
(み)ている。
 医学の世界では、動物実験において行った予行演習が、人間にも、そのまま適応できると考えているのだ。そうした考えから、各種の臓器の移植も可能になったとしている。
 しかし、ここにも盲点がある。

 例えば、心臓移植をした場合、山羊
(やぎ)や仔牛(こうし)で何ヵ月も生き続けるのを見ると、これは人間にも通用するのではないかと考えたくなる。そこで心臓を患(わずら)っている患者と家族を説き伏せて、患者の胸を開いて、まだ脈打っている心臓を取り出し、他の脳死状態で死んだ人の心臓と挿(す)げ替える、傲慢(ごうまん)な外科医が現れてくる。この種の外科医にあるものは名声だけだ。

 製薬の世界も、これと似たことが行われている。
 新薬の検討は、動物と人間を同じテーブルの上に載せ、両者を連続線上で考えることである。
 ところが実際には実験動物は、ラットで害のない薬が、犬では激しい副作用が起こり、猿に効くはずであった薬が、ラットでは何の反応も得られないということがあるという。

 これらの実験動物は最終的には、人間に適用されるのであるが、結局、推測で新薬が製作されているため、格別なる存在の人間にどういう反応を示すかが不明で、最後は人体実験をして確かめるしかないのである。そして、この人間という種属が、他の動物とは違う反応を見せて、年から年中発情しているというこの現実に目を向けた場合、果たして人間は、動物とは異なる次元的なものが、浮き彫りになってくるのである。
 人間以外の哺乳動物に、年中発情している種属は見当たらないからだ。

 昨今は不倫が大流行し、恋愛至上主義の時代である。
 その上に、主婦でありながら、首都圏やその他の大都会では、愛人志願者が後を絶たないという。これこそが最尖端
(さいせんたん)の贅沢であるという。
 まさに肉欲に舞い上がった世界が、今日
(きょうび)(び)の世の中に展開されている。そしてこれに対し男も女も、罪の意識も、罪悪感も、自責の念も何一つないのである。モラルは廃れたというより、時代が変わったというべきであろう。
 あるいは大流行の陰に、マスコミの性情報の誘導があったことは充分に考えられることである。

 底なしに果てしなく、人間の人倫意識が破壊され、何かが崩壊しつつあるのは間違いないようだ。そして現代人の特徴は、直
(じか)にマスコミ誘導に染め上げられ、適応していく、流行の取り入れ方の加速度的な早さである。
 いかがわしい肉愛、いかがわしい嗜好
(しこう)を伴ってアバンチュールを楽しむ。そういうお手軽な不倫意識が、広く人間界を覆っているといえる。人間どもは、そうしたものに搦(から)め捕られ、地の底まで落ちて行こうとしているようだ。現代は、そうした時代なのだろう。

 誰もが目論むことは大きな家に棲んで、好きなっことに従って、自由気儘
(きまま)にリッチに暮らせる、そういう暮らしを求めて奔走している。衣食住の世界を最大限に増幅し、そこで思う存分享楽を貪(むさぼ)る。これが現代人の追い求める夢のようだ。
 この夢の実現を「幸福」という言葉で言い表そうとしている。幸福の究極は、ここに結びつくようだ。

 現代の世は、衣食住を最大限に享受し、その上で性の享楽を満足させ、文化や恋愛を放逸することにより、それが幸福という名の定義になっているようだ。人一倍、より豊かに摂取することこそ、それを幸福と言うらしい。
 確かに人生の目的は、幸福を追い求めることに尽きよう。
 これを「自然人的幸福」と言うらしいが、この欲求を最大限に満たそうとして、誰もが、日々奔走しているのである。

 働く理由も、ここに回帰する。人生の目的も、ここに帰着する。
 その証拠に、企業でも大規模に組織して、社会的に、例えば、資本家経営、オーナ経営、あるいは現地生産とか原料地獲得とか、あるいは市場経済に介入して、市場獲得などと称して活動を続けている。その根底には「享楽を追求する幸福」というものが横たわっている。

 哲学的にいう「自然的幸福」の追求者とは、“自然的人間”というのであって、それは結局「人間は動物である」という建前に立っている。
 人間を「政治的動物」とか、「社会的動物」とか、「道具と使う動物」とか、あるいは「経済的動物」と規定するのは、結論的にいうと、結局人間を「動物として規定している」ということになる。それは人間が、自然的存在として、生物学上は、動物の中の「一種属」と看做
(みな)されているからであろう。
 しかし、この定義も未来永劫ではあるまい。やがて変わる時が来よう。

 価値観は、時代時代によって変わる。幸福の定義も、変わることは免れない。
 これは、その時その場によって、あたかも水が流動的に変化して、「方円」に収まるように、また水が上から下に滔々
(とうとう)と流れるように、流動・変化していくものだ。流れは、停滞する現象に留まらない。刻々の流れ、変化する。
 人間の世界にも流動的価値観というか、価値の流動というか、そうしたものが現象界には働いている。それを無視した場合、人間は手に負えぬ頑固・頑迷の「こだわり」に捕らえられ、「こだわり」の冷酷さと、狭量さに搦
(から)め捕られて、抜き差しならぬ状態に陥る。こだわり人種は、ここに行き詰まりを見せる。まさに「厭離穢土(えんり‐えど)」なのだ。
 穢れたこの世を厭
(いと)い離れねばならない。穢れに染まってはならない。

 私が北九州で進学塾や予備校をしている時代、テレビドラマで『金八先生』なるものがあった。
 視聴者には大人たちまで巻き込んで少年少女に大受けし、その頃一方では賛否両論の意見が巻き起こった。世は大いに湧いた。
 その中で中学生の男女が恋愛感情から肉愛を躱
(かわ)すようになり、妊娠して子供を出産するというドラマを正当然として演出していたが、この正当然が、日本中では「大受け」したのである。
 無責任きわまりなく、まさに公共の電波を使って、公害をまき散らした観があった。

 ところが世間の大半は、妊娠させ、妊娠した当事者同士の中三の少年少女に「頑張れよ」と無責任なエールの拍手を送ったのである。言葉で言い表されないような不思議な汚さがあったが、この汚さが、また市民権を得た最初でもあった。
 今日では、この程度の出来事は、驚くに値しない日常茶飯事の現象である。

 そして、この頃から小・中・高校では、性教育ならぬ「性器教育」が盛んに持て囃
(はや)されるようになり、また子供の恋愛に対して、親は一言もいわなくなってしまった。
 子供の恋愛に、一言でも難癖を付けると、世間から袋叩きの目に遭い、批難の譏
(そし)りを一身に浴びるからである。わが身大事の親は、わが身の保身に余念がないようだ。
 子供の恋愛にも、“触らぬ神に祟
(たたり)なし”というのでもあろう。
 わが子の恋愛遊戯に関与しなければ、禍
(わざわい)を招くことはないというのもであろうか。
 ところが、そうは問屋が卸さないのだ。この禍根
(かこん)は、巡り巡って跳ね返って来るのである。
 しかし、その恐ろしさを知る者は少ない。

 人間の欲求は、公汎
(こうはん)なものである。
 衣食住を満たし、その上にセックスに関する満足度が、日常生活の価値観の追求として求められるが、しかし、それにしても衣食住を確保した上で、セックスに満足すれば、それで事足りるということではあるまい。
 この日常の価値観の中には精神的な愛が存在しなければならぬ。愛の不在では人間は精神的支柱を失い、運命共同体を全うすることは出来ないであろう。この精神的愛こそ、人間が原始の時代から営んできた共同生活における「労
(いたわ)り」というものではなかったか。
 これが現代では、すっぽりと抜け落ちているのだ。

 性愛だけが一人歩きをし、それはあたかも肉の愛に塗
(まみ)れる、肉を通した愛に焦点が当てられ、その部分だけがクローズアップされているが、渇望する愛では溺愛の中に身を沈めることになる。愛執に狂い、渇して水を欲しがる常態を失した挙動をなす愛着(あいじゃく)の亡者と成り下がる。そこに見えない、不可視の世界が隠されているから恐ろしい。
 こういうのを偏愛というのだろう。
 偏愛のあるところ、肉愛に固執する溺愛があるようだ。
 溺愛の性質を帯びない偏愛はあり得ないし、偏愛の生ずるところには溺愛を意味するものが生じる。それはしばしば残忍を選ぶことがあるようだ。その結果、生命を萎縮し、またその自律性を奪うことにもなう。これでは畸形になる以外ない。

 現代は人間の営みが複雑である。
 情熱とか、結晶作用とか、あるいは思い込みと言った、こうしたものが綯
(な)い交(ま)ぜになって、未来は拡散・膨張を続けながら、やがて終息点に向かう構造が複雑化されている。昔のように単純でなくなった。
 これは恋愛遊戯においても例外ではあるまい。

 「科学的」という言葉が絶対真理でないように、情愛の世界にも、男女が結びつく、未来永劫などという現象は、絶対に起こらないのである。何もかもが、“盈
(みつ)れば虧(か)く”なのだ。
 何事も盛
(さか)りに達すれば、やがては衰え始めるのだ。物事には必ず盛衰がある。これこそ、現代人が心得るべき事柄であろう。

 私は「現代」という歴史区分の中で、後世の人が問題にするであろう“この時代の栄枯盛衰”を、一つの過程の中で破綻
(はたん)に向かう一場面と見る思いがするのである。
 現代の「科学的」とされる科学至上主義も、後世から見れば、迷信になりうる確率は充分にあり、何もこの時代をクローズアップして、「最尖端
(さいせんたん)の時代」と表することはないのである。
 そして現代ほど、豊かさや幸福の概念もあやふやで、特に幸福を挙げた場合、それは多分に観念的な意味しか持ち合わせていないと言えるだろう。

 ところが、これが不幸となると、具体的に、目の前に、再現されて見えるから驚きなのだ。
 これは幸福が、必ずしも不幸の正反対にあるということ物語っていないことになる。こうなると、現代人が求める幸福論も、どこかで、何かを見逃していることになる。それだけに失ったものも多くあろう。



●三界流転

 現代のおぞましさ……。
 それは、物の上に築かれているからなのだろうか。それとも心の上に築かれているからなのだろうか……。
 この「おぞましい」という現象は現代の“畸形
(きけい)”を現わす側面に鎮座していることは確かなようだ。そうした「時のおぞましさ」の中に、私は彷徨(さまよ)っていたこと覚えている。それに重ね合わせて見ていたのが、上原小夜子の存在だった。

 この娘は家庭環境としては資産家の裕福な母子家庭で、母親が薬剤師という申し分のない地位に居る。
 しかし、一枚岩の母子でないこの家庭は、根底にねじれた淀
(よど)みがあると思われるが、今のところ詳細は不明である。

 上原小夜子自身、その影響下に置かれ、情緒的に些
(いささ)か問題があると思われた。
 以上が家庭内情報である。
 そして、交友関係についても一切不明だった。彼女には不明な事が多過ぎた。塾で見る側面は、日常の一部分でしかないからである。

 上原小夜子の扱い方は、慎重を要求された。それだけに複雑であり、これらをすっきりと明確にさせるには前途に多くの問題を抱えているように思われた。
 そこでこの問題について、単に私は傍観者では済まされないのである。根本に何があるがその起因を追求せねばならない。問題解決に努力せねばならない。
 このことを考えれば、まず根本にあることを分析する必要があろう。
 人間はある程度の金と地位を手に入れれば、その先に何を求めるか。多くは愛憎を深め、やがて自覚症状を伴わない「狂い」を派生させるだろう。
 枝分かれして、例えば肉欲や愛欲に目が眩むという現象である。

 道ならぬものに傾く現象であり、表面は如何にも取り繕
(つくろ)って清(す)ましていても、その真面目の裏には性悪(しょうわる)なものが漂っている。そういう厄介な男が世間にはざらにいるのである。そういう男と連れ添う女は、これが夫婦である場合、その女房はいつもイライラして機嫌が悪い筈である。波立っている状態にある。
 この波が子に伝搬すれば、子もその波の影響を被ることになる。
 上原小夜子が一時その影響を受けたとしても不思議ではあるまい。大いにあり得ることであった。

 つまり彼女は、平素のもろもろの母親の欲求不満を自らに反映させて、その波が、塾の講師泣かせという行為に及んだのであろう。私はそう推測するのである。
 世間では、そういうのを女のヒステリーなどの言葉で簡単に片付けてしまうが、その背景にあるのは男への反省を促す意図が隠されていたのかも知れない。並立っていつも荒れているのは、これだったのであろう。
 そして不思議なことに、塾では質問攻めの生贄にするのは、限って男子学生のアルバイト講師に限られていたのである。確かに女子学生のアルバイト講師もいたが、彼女らは上原小夜子の毒牙に掛かった者は一人も居なかった。これで背景が読めた気がしたのである。

 しかし無論、世の中に問題のない家庭とか、家族というのは殆どいないのであり、こうした問題を抱えている家庭は、いわば今日の世相を反映していて、当り前といえば当り前だった。
 昨今では、もっと深刻な難問を抱えた家庭も多いことだろう。

 時代は下れば下るほど、そこに顕われる現象は「厭離穢土
(えんり‐えど)」とは、遥かに遠ざかりつつあるらしい。穢(けが)れの中に染まろうとしている。
 現代人は、この穢れた三界
(さんがい)流転(さんがい‐るてん)の迷いの連続を、どう解決し、どう乗り切って行こうとしているのだろうか。



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