運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 21

桜は乱舞が始まると若枝から若葉の芽を出す。葉桜となる。乱舞を始める前の予告である。そして桜吹雪が始まる。


●桜の宴

 次の日、家内とともに弁当持参で指定された場所、指定された時間に遣って来た。老人もほぼ同じ時間に到着した。
 桜の花は一斉に満開となり、それは散りはじめている。見頃はあと二、三日と言うところだろうだっただろうか。
 桜は咲いたと思ったら、パッと一斉に満開になり、その後一気に散ってしまうのである。二、三日の間は風に吹かれた桜の花弁が、至る所に飛来し街の路地の隅や窪地に吹き溜まる。

 では、なぜ桜は花弁を散らすのか。
 草木は果実が膨らみ出すと、花を散らす。
 人間も同じよに、人間が円熟し晩年期に入ると、人生は深まり、その深まりは飾り気が少なくなって徐々に清楚になって行く。物財などは散財して、身の周りはすっきりとしてくる。
 円熟しない未熟な人ほど、自分の身の回りを飾りたがる。あれたこれやと所有物を貯め込み、殖
(ふ)やして憚(はばか)らない。金銭も同じである。自分のために貯め込むだけ貯め込む。未熟な証拠である。出来ていない証拠である。
 だが自然を見回して見ると、自然はそう言うことをしない。熟すると、花を散らす。自然の摂理である。
 桜も、これまで一年か掛かって貯め込んだわが身の成果を花咲かせ、咲かせた花を散らすことで円熟味を表現しているのかも知れない。
 桜の花弁で、もう一つ連想することがある。

 花弁を模した団子の一種に「花弁餅」と言うのがある。
 時として桜の花弁を、この餅に重ねてしまうことがある。
 この花弁餅は、「葩餅
(はなびら‐もち)」とも書く。
 花弁はまさに「葩
(はなびら)」であり、かつて、よく見ていたのは、薄い円形の求肥(ぎゅうひ)を二つ折りにしたもので、形は半円形である。これが桜の花弁を連想させるのである。まさに葩なのである。
 葩餅は白味噌の着いた牛蒡
(ごぼう)の小片を入れて包み、小豆(あずき)の汁でほんのりと染めた菱形の求肥(ぎゅうひ)を挟んだものである。それが桜の葩を連想する。

 一時期、茶道を習っていたので、これが初釜
(正月最初に行う茶事)などに登場したのを覚えている。季節は春をイメージしたことで葩餅だったのかも知れない。
 茶の道は極めた訳でないので、私の勝手な連想である。それが何故か、桜が乱舞をし始める季節と勝手に重なってしまうのである。
 同時にそこには妖艶さがあったように記憶している。艶
(あで)やかだが、一方で妖しいほどの美しさがあった。その妖艶さの代表格が桜であろう。
 平安期、桜の樹の下に死体を埋葬したという言い伝えは、何となくそこに人間の魂魄
(こんぱく)の「魄」が存在していたと連想させるからである。更に連想を深めれば、求肥まで深まる。桜の樹の養分である。果たして屍か?……。

 そういう感想を交えて、過ぎた日を思い浮かべ。桜の樹の下での宴
(うたげ)となった。
 三畳ほどの蓙
(ござ)の上に、用意した赤毛氈(あか‐もうせん)を敷いた。何れも老人が事前に用意したものだった。その上に家内の作った手料理の数々の重箱を広げて、いよいよ桜の宴が始まった。
 家内は家内で、事前に酒肴
(しゅこう)も取り揃えていた。それを開陳しての宴である。
 老人も瓢箪の酒を持参しながら、肴の“お呼ばれ”であった。一切が無礼講である。進めもしないし、遠慮もしない。勝手放題である。
 やがて酔いが少しばかり廻った頃、昨日の続きとなった。

 瓢箪部隊は、いよいよ敵の懐の奥深くに入る命令が下りたと言う。敵中突破の下令である。そはまさに強行軍だった。次のように話した。
 「下令は人海戦術を彷彿とさせるものでした」と話す内容は、次のよなことであった。

 下令は「夜襲」でした。
 わが部隊は華北石家荘方面の敵中突破の尖兵
(せんぺい)となりました。言わば敵中突破は司令部首脳が考え出した実験のようなものでした。
 あるいは大の虫を生かして、小の虫を生贄にする策の弾除けでしょうか。
 部隊の平均年齢は50歳でした。大戦末期のことであり、食糧も充分に無く、内地から補充兵として集められた多くは兵は、軍隊とは言い難い、骨と皮だけの痩せさらばえた者ばかりでした。
 61歳を頭に、ここでは最年少のわたしが39歳で、みな老兵でした。
 この当時、男児の平均年齢は42歳でしたからね、この部隊の平均年齢が50歳というのは立派な老兵の集まりです。
 全員が、組織抵抗には遣い物にならない老兵です。しかし老体をもって、お国へのご奉公が強要されたようです。

 その意味で、老体はその程度の補充召集状
【註】戦史上信じられている召集令状葉書の値段と言うが正しくない。令状は葉書でなく市町村役場の兵事係の職員を通じて封書で言う立つされた文書物であり、「赤紙」イコール「1枚の値段」の出所は不明である)の赤紙より安価な存在だったのかも知れません。
 当時の夜襲の目的は、わたしのような下っ端ではよく分りませんが、思うに、露払いの弾除けが通過した後、何か、重要人物がその退路を通過するということではなかったのでしょうか。
 夜襲とは聞こえがいいが、退路確保が任務だったようです。

 夜襲直前、老人部隊は司令官の許
(もと)に集められ、「白襷(たすき)隊」と命名されました。白襷隊とは名前だけは勇ましいですが、茶番の儀式です。
 わたしたちは鉢巻きに白襷をして整列し、武装は小隊長であるわたしが、下士官用のボロ軍刀一振りと、旧式の南部拳銃一梃、それに手榴弾一個。これは万一の場合の自決用です。
 また部隊構成は、大正期半ばに教練を受け、満期除隊した古参の50歳初めの上等兵3名が荷なう38式歩兵銃三梃に銃剣
【註】牛蒡剣と呼称)三本。
 他は兵役免除
【註】役所官吏、理工系技術者、巡査、大学教員など)の教練皆無の老兵が12名。彼らは小銃の代わりに竹槍と腰に差した手製の木刀でした。更に部下15名にも、それぞれ手榴弾一個ずつ。同じく自決用です。
 この部隊は決死隊ではなく、必死隊だったのです。
 負けが込むと、「滅びの美学」として、こう言う発想が起こるのでしょうか。
 冷静に考えれば、実に馬鹿らしいことです。
 わが部隊の武装は、武装と言う武装は殆どなく、防禦としては、鉄帽
【註】通称、鉄兜)は、わたし一人分しかありませんでした。わたし以外は頭上防弾無しの戦闘帽をでした。

 それにですよ。
 官品で配られる筈の軍靴もないのです。不足していることからでしょうか、軍靴の代わりに全員が地下足袋です。小隊長のわたしも地下足袋でした。それだけに、捨て石に遣われていることを全員が悟っていたようです。
 夜襲とは聞こえがいいですが、つまり退路を開くための露払いをして生贄となり、そこで潰える運命でした。
 そのために水筒の代わりに瓢箪を腰にしていました。もう部隊員全員が死ぬと悟っていましたよ。
 言わば無銘の、死んでも名すら出て来ない特攻隊員でした。軍籍簿にもその記録は残っていないのではありますまいか。

 この部隊を「白襷隊」と呼称すれば、実に勇ましく、凛々く映りますが、夜襲を行うのに、夜目にも目立つ「白鉢巻」に「白襷」とは何とも滑稽です。最初から標的ですよ。
 部下には、鉢巻きに「夢」の一文字を書かせて、それを「旗印」にするよう命じました。司令所の前で整列した老兵隊は、幹部将校や下士官連は「夢」の一文字を見て嗤
(わら)いました。
 「年寄りに、夢でもあるまいに」というのです。
 そして夜襲は、彼らの嗤いの渦の中で出発しました。
 何故、「夢」の一文字を書かせたか、お分りでしょうか。

 この一文字は世間でよく言う「人生夢の如し」という、感傷的な意味ではありません。
 夢の一文字は禅にも通じ、また老荘思想とも一致する「後に何も残さない」という意味です。しかしこれを解する人は居ませんでした。
 わが部隊は歓呼の声ならぬ、冷やかしと揶揄と嗤いの渦の中で出発しました。それでも毅然さを崩しませんでした。


 出発してから、月明かりの下を歩いていましたが、見晴らしのいい峠の上で小休止しました。そこで瓢箪の水を口に一杯含むことを許しました。
 これから先の道中はまだまだ長いのです。どういう欠乏状態が起こるか分りません。食糧も僅かで、下令には物資欠乏の際は「現地調達」とありましたから、不足分は自らで凌
(しの)げと言うことなのでしょう。
 そして箴言しました。
 「今から歩く道は、己の道である。己の道を疑わず、真っ直ぐ前を見て一心に歩けば、塞がれたように見える道も自ずと開ける」と。

 出発際の歓呼の声ならぬ嗤いの渦の中で、あの時の「年寄りに、夢でもあるまいに」という雑言
(ぞうごん)が、以降忘れられない痼(しこ)りとなりました。
 逆から検れば「夢」一文字が、既に生き存えると捉えたのです。こんなことくらいで、くたばってたまるか。そういう信念を抱かせました。嗤われたことが、逆にわたしたちを奮い立たせました。
 斯くして、普段の懦夫
(だふ)は、此処に来て勇者に早変わりしていました。  

 私はこの話を聞かされた時、思わず胸の中が熱くなった。
 世の中を、また人を、本当に動かすのは旗印でな行く、実行力であると、これまで信じてやって来た。
 また、実行力こそ人を、あるいは世の中を動かす原動力であることは誰も疑う余地がないであろう。
 ゆえに本来ならば、旗印など無くても済めば、それにこしたことはない。無いがいいに決まっている。
 したがって、瓢箪部隊が出発するとき、大半は冷やかしと揶揄と嗤いの渦で送り出したのである。緊張下の中の、ひと時の娯楽として、彼らは最初から道化を演じていたのである。
 ところが、道化を演じた臆病な懦夫らは、これを機に勇者に変わってしまったのである。
 老人は更に言葉を繋いだ。

 水と食糧は屈辱に絶えるための原動力です。これを失ったら、自ら掲げた旗印は死にます。夢は潰えます。そのためにも極力節約して、飢えと渇きには耐えなければなりません。

 この状況下では娑婆での利害の打算とか、見栄とか、そういう俗界の邪念が、一気に消滅するものです。弱い者同士の協力体制が出来上がります。遂に旗印の「夢」の一文字に、自らを賭
(か)ける気持ちが生まれます。
 その証拠に普段は余り仲のよくない者同士が、時には手を握り合って協力体制を作ります。こういうのを「同舟相救う」
(『孫子』九地篇)と申しましょうか。
 わたしたちは、司令所を離れた瞬間から、一叟の「夢」を旗印にした舟に乗ったのです。

 人間は死を前にすると、逃げずに踏み止まり、この状況下で「背水の陣」が敷かれるようです。そのとき、本当の自分に目覚めるのです。自分の尊さ気付きます。そして自分で自分を拝みたくなるのです。
 自分の背面に神が貼り付いていて、それが一体であることに気付かされます。
 このときばかりは、わたしも自分の背中に「夢」の一文字の旗印とともに、神と共に居ること感得しました。
 更に「同舟相救う」の気持ちが起これば、危急の難所を乗り切ることが出来ます。
  

 人間は自分独りの力では如何ともし難い。
 一人の力が如何に弱いか、小さいかを、人間は自然の中に置かれて、始めて分ると言うものである。
 更には、自分の始末すら、自分独りでは出来ないものである。その時の模様を次のように語った。

 わたしたち部隊は、全員で一致団結しました。
 本来、団結自体は、実はあやふやなものなのですが、これが一致すれば、人間は信じられない力を発揮するのです。これが力の集中です。
 それに比べて、現代はどうでしょうか。

 「多様化」などの言葉が流行しておりますが、この語は、どうも、わたしからすれば浮薄な時代の流行語に思えてなりません。ただ騒がしい、煽動の何かが働いて、何かに動かされているという感じがしてなりません。
 今日の日本を思いますれば、この国全体が連帯で動いているのでなく、個々人の勝手な思惑で動いているようにしか映りません。こう言うのを個人主義と言うのでしょうか、わたしたちの年代は、あの激戦下の十字砲火の中を潜り抜けて参りましたから、今の状況が何となく、あの当時の夜襲前夜のように感じるときがあります。

 夜襲前夜と言っては語弊がありましょうが、今は、まかり間違えば、死を覚悟しなければならない危機に直面しているのではありますまいか。
 生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされても、何の危機感もなく、めいめいの心は向かうべき対象を見詰めるでもなく、坐して沈黙を守り、静かに世の流れに忍従をし、一切を浮薄の中に葬り去ろうとする敗北主義、あるいは投げやりな終末主義に奔走しているように映るのですが、これは私の思い過ごしなのでしょうか。
 そうであれば、幸いです。

 その後、石家荘までの道程
(みちのり)は遠く、炎天下の中を、来る日も来る日も歩き通したそうである。人間は炎天下で灼(や)かれると、何処をどう歩いているのか分らない、こういう錯覚に陥り易い。
 やがて水が一滴もなくなってしまう。炎天下の強行軍は烈しい量の水を消耗するのである。
 また驚くことに指揮官の図嚢
(ずのう)に入っていた地図は、華北方面の物でなく、何と、長江の河口近くの上海方面の地図であったと言う。
 果たして、間違って渡されたものだろうか。

 しかし、だからといって強行軍を止めるわけにはいかない。どんな険阻
(けんそ)な道でも、ないよりはましである。探しても道が見つからないほど苦しいことはない。だがこれで行き詰まった訳でない。
 道がなければ自分で切り拓けばいい。切り拓く手段が残されているのである。それを選択したのだろう。賢明と言えた。

 夜襲に出発した後、あれほど気心の知れた者も、今から思うと、実は自分の心の中にも戦場と言うものがあって、その心の蠢(うごめ)きは異常でした。
 戦場が、日常とは異なる非日常の異常なる環境である事を、わたし自身見逃しておりました。何か目に見えない大きな力で自分が操られ、真実の世界に曳き立てられた気持ちを感じ始めました。
 炎天下の中を何日も歩き、しかしそれでいて、絶望を感じませんでした。
 総勢16人の小部隊は、このとき灼
(や)け付くような岸壁沿い這うように歩いていました。老体に策(むち)打っての強行軍です。
 あの日は凡
(おおよそ)五、六里歩いていたでしょうか。

 その岸壁の割れ目が一尺ほどあって、そこから水が流れていたのです。いま思えば不思議なことでした。
 水が流れていたというと、かなりの量を想像しますが、実は岩の表面がせいぜい五寸ほどが湿って滲み出ている程度のものでした。まったく貧しい量でした。それでも、救われたという感じです。

 早速二名ずつを一組にし、流れを挟んで左右二つに分けたのです。そこに瓢箪の口を宛てがい、中に導くのですが、これまで半日以上水を口にしていませんでしたから、この程度の水も見過ごすことが出来なかったのです。
 二名ずつ整列させるに当たっては、まず年齢の高い順に並べ、次に体力の消耗の激しいものを次にし、最後は階級順に高い方を後回しにすることを決めたのです。
 瓢箪の中に水を貯め込むと言うのでなく、最初に口を湿らすことから始めました。その後、一巡したら、それそれが瓢箪に半分だけ入れるのです。途中で途切れることがあるからです。
 順番は極めて公平でしたから、誰からも何の文句も不満も出ませんでした。いま思えば、あれを民主主義と言うのでしょうか。

 ところが復員後、内地に戻って知ったのですが、シベリヤ抑留での彼
(か)の地で、ある陸軍大佐が、食事の際に配給のパンが配られたときに、「パンは階級の高い順に、大きい方から配れ」と命令したそうですが、あれなどは自らの恥を後世に曝(さら)したことになります。
 これを聴いた下級の元兵隊達は「あいつに命を賭
(か)けずによかった」と胸を撫で下ろすと同時に、烈しく謗(そし)ったそうです。
 これを聴いて、呆れたことを覚えています。だが、あれは逆ではないでしょうか。上が下を惨
(むご)く扱っては、下が蹤(つ)いて来ません。下令があっても命を賭けて死守しません。今日でも高級官僚に、この種の人を見ます。

 こうして繰りを湿らす程度の作業が終わり、次に瓢箪に半分だけ満たし、これが一巡して、全員が瓢箪を満タンにしてから、再び移動を開始しました。
 口を湿らせた時、喉に滲みて来る水の有難さと同時に、その時に感じたことは躰中の血が生き返って濁ったものまでが清まって行くのを覚えました。もうそれは一つの悟りのようなものでした。
 そのとき眼の前に映るものが、何もかも美しく映り、深い恩恵によって生かされていることへの感謝で一杯でした。紛れもなく、天から生かされている天命を知ったのです。
 その時の岩壁は、確かにゴツゴツしたものですが、これが何と、母親の乳首のようにも思えました。有難かったですよ。
 そして眼には見えない大きな力を、信じない訳にはいかなくなりました。
 自分がどんなに浮薄な人間であろうと、その大きな力さえ信じていれば、無闇に天は自分を害する事はないと思うようになりました。
 もし天が害するとしたら、それは天を疑った時だと思いました。
  

 人間は自らが、自分で生きているのではない。生かされている。働いて収入を得て、収入の一部から食糧を買い、それを自らが食べていても、この側面には生かされている因縁がある。自分で生きているのでない。
 また食糧ですら、食べる因縁があるからこそ、生きているのであって、これは言わば、生かされているのである。
 人間は自分独りの始末すら、自分では何も出来ないものである。
 生まれて来る時も他人の手を煩
(わずら)わせるし、死ぬ時も他人の手を煩わせる。生死だけは、自分一人では何一つ行えないのである。他力の協力があって適(かな)うことである。

 生かされていることを感得すると、真の智慧と勇気が生まれ来ます。こんな風に考えるようになったのは、「信じる」と言う信仰でしょうか。
 そういう信仰心があれば、どんな浮薄な人でも、心の乱れや疑念を取り去ることが出来るものです。
 夜襲と称する強行軍は、後にわたしをこのように変化させました。
 そして、更にどうして生還したかを、お話ししなければなりません。

 あれは確か、終戦前の武装解除の十日前ほどでした。
 終戦のあの年の8月6日、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告し、有効期限内の8月に対日参戦して来ました。猛烈な勢いで満洲に攻め込んで来たのです。
 この報は、遠くこの地まで伝わって来ました。
 そうなると、ソ連軍は赤軍
(八路軍など)と合従連衡(がっしょう‐れんこう)して中国華北にも殺到することでしょう。その懸念がありました。
 そうなると、死はますます確定的なものになります。もう内地に還る夢も金繰り捨てねばなりません。再び死を新たにしていました。
 そういう矢先に事故が起こりました。

 わが部隊の最長老の61歳の兵隊が、岩場の登攀中に足を骨折し、更に悪いことに、わたしたち部隊は敵に包囲されてしまいました。もう絶体絶命です。助かる見込みはありません。そのうえ戦うだけの武装もしておりません。
 わたしなどは『戦陣訓』で煽られた口です。また、部隊員も『戦陣訓』を叩き込まれて、しごかれた口です。自分独りよりも、敵の軍門に下った後、家族が地域住民から「売国奴」と罵られて、村八分にされることを恐れたのです。

 わたしも、この時どうするかについては散々迷いましたが、結局最後の一兵卒まで戦う事を誓いました。これに誰も異存はなかったようです。
 また骨折した61歳の長老もそれを望んでいました。
 この長老は東京御徒町で漆職人をしていました。遊び心に、漆で昆虫を描くのです。名人級でした。いま手にしているのがこの瓢箪です。ここに一匹の蜂が止まっています。これも長老の作です。どうです、見事でしょ。
 水筒の配給が不足しているのを知って、東京から瓢箪を直ぐに取り寄せたのも長老で、みな寄贈によるものです。
 敵の包囲の輪は狭まりました。ところが、幸運にも退路の抜け道があったのです。
 それで、再び苦渋の決断に迫られました。

 さて、その決断は如何なるものだったのであろうか。
 指揮官だったこの老人は、長老を置き去りにしたという。苦渋の選択からだったのだろう。
 その後、長老がどうなったか聴きたかった。
 「その後、どうなったのです?」
 「わたしたち全員のために犠牲になってくれました。後を任せろと言うのです。苦渋の決断でした。あの時のことが、今でも頭から離れません」
 そこまで喋って、言葉を絶ってしまった。
 それ以上、訊くのは惨
(むご)いので、その先を聴くのを断念した。

 「あのとき長老は笑っていましたよ。晴れ晴れとしたいい笑顔でした。曇りも翳
(かげ)りもない。満面の笑顔でした。恐れなどは何一つ漂っていません。此処に残ることを覚悟していたのでしょう。
 わたしたちに、盛んに先を急ぐように促すのです。まさに『後に心は残れども……』でした。
 しかし、長老のこの行為は無にできません。『夢』の一文字に夢を託したこの行為を無駄にすることは出来ませんでした。
 わたしは自分の鉄帽を脱いで長老に被せてやりました。
 わたし以下、十五名は長老の前で整列をして、最後のお別れをしました。もう八路軍がそこまで迫って来ていました。そして古参の上等兵が『長老どのに頭ァー……中ッ!』と号令を掛けて捧げ銃
(つつ)をし、私は軍刀を抜き、刀礼しました。最後、自分の腰から瓢箪を取って形見代わりに、わたしに預けました。これをというのです」と、当時の結末を話して聴かせたのである。
 重い決断を下したのだろう。
 「笑顔を作っていたとは言え、実に悲しい別れですね」
 「いや、それは違いますぞ!」
 一見、怒ったように切り返したのである。
 私は怒る理由が釈然としなかった。

 「あの……、失礼ですが、どう違うのでしょうか」
 「宜しいかな、作り笑いと言うのは無理に笑えば、それは苦笑です。
 ところが真物の笑顔は真心に顕われです。この違いが分らずして、人の心を推し量ることは出来ません」
 少しばかり、語調を強めた言い方であった。
 「……………」私は未熟を恥じた。
 「最後の別れが笑顔であるからこそ、そこには統
(す)べを解脱した尊さがあります。
 この高貴なる領域を、わたしごとき凡夫は侵すべきではありますまい。最後まで、菩薩の微笑みのように笑っておられた。感動でした。感無量です。
 私は再び敬礼して、『お元気で』と聲
(こえ)を掛けました。そしたら長老も『小隊長こそお元気で』と答礼してくれました。あの時のことが今でも焼き付いています。
 こうして此処で別れたのです」
 「……………」重い訣別であった。
 「その後、聞くところによると長老は敵の呼びかけで軍門に降り、敵の看護兵に運ばれて以後、手厚い看護を受けたそうです。しかし赤化教育中、結核が再発症し、遂に彼
(か)のちで潰えました。故郷の土を二度と踏むことはありませんでした。訣別したあの日の、これが形見の瓢箪です」
 長老は自分一人で身代わりを引き受け、他を逃がしたのである。実にいい話であった。
 ちなみに形見代わりに預かった瓢箪を遺族の許に届けようとしたが、同年の3月10日の東京大空襲で遺族は全員死亡したと言う。

 そして39歳の分隊長は、抜け穴を通って退路を確保し、瓢箪部隊を率いて隊員を一人残らず内地に連れ帰ったと言う。見事、敵中突破を果たしたのである。
 更に聞くところによると、夜襲と称して尖兵として送り込んだ司令部本体は、途中、八路軍の猛攻に遭い、おめおめと敵に後ろを見せて敗走し、そのうえ戦力の半分以上を失い、昭和30年までに内地に辿り着けたのは全体の三分の一以下だったと言う。

 旗印……。
 本来、旗印など無くていい。無いでいいに決まっている。その意味から言っても、瓢箪部隊が司令所を出発する際、此処に集まった幹部連は旗印の「夢」一文字を見て嗤ったのである。嗤ったのは一応、道理だったのかも知れない。
 ところが、「夢」一文字は嗤われたことで老兵を勇者に変え、更には敵中突破を果たしている。そして誰一人として敵に後ろを見せず、強行軍を続けたのである。
 これこそ、人生における背水の陣であり、自らの怯懦
(きょうだ)なる臆病な魂に策(むち)を打つことが出来たのである。
 人生における戦いでの「背水の陣」に気付かず、傲慢誇示だけを標徴とすれば旗印を軽く見て嗤っていたのかも知れない。
 しかし、それは表皮のことである。
 老人が掲げた、あの「夢」の一文字の旗印も、一時的な感激に駆られて盲目的に誓ったものであるまい。もっと深いのである。
 練って練って練られた結果、「夢」一文字が登場したと検
(み)るべきである。それは時として人生の背水の陣にもなり得たのである。
 私にとっては心に染み入るいい話であった。


 ─────さて、桜の花弁を盃の中に呼び込む術についてである。
 老人は「蜘蛛の網についてご存知でしょうか」と訊いた。
 私は「蜘蛛の網」と訊かれても、漠然としか答えることが出来ない。

大東流の「女郎蜘蛛伝説」に使われたアシナガグモ科の大形のクモ。この蜘蛛は、樹間に蹄型の円網を張り、その中心に陣取る特性を持つ。そして「捕虫」の態(さま)の絡め方は特異性を持つと揶揄されたが……。
 甲冑を身に着けて生活する戦国時代の武門に、果たして素肌による「捕り手」は存在したのだろうか。

 私が知っている蜘蛛についての知識は、次の程度のものだった。
 蜘蛛とはクモ綱クモ目の節足動物で、体は頭胸部と腹部とに分かれ、どちらにも分節がない。頭胸部に8個の単眼と6対の付属肢
(鋏角・触肢・歩脚)がある。書肺または書肺と気管の両方で呼吸し、腹部にある糸疣(いといぼ)から糸を出す。
 その後、網を張る。
 所謂、「くものす」であるが、これを張るものと張らないものとがあるらしい。
 私が一番知っているのは、ジョロウグモである。「女郎蜘蛛」と書く。

 蜘蛛の卵は一塊にして産み、糸で包んで卵嚢
(らんのう)を作る。
 子蜘蛛は糸を流して風に乗って飛行し、散らばる。その種類としては有名なものが、ジョロウグモであり、次にオニグモ、ハエトリグモ、キムラグモ、ハナグモなどである。知る範囲はせいぜいのその程度である。
 この中でも、女郎蜘蛛は独特の特性を持っている。捕虫法に特長がある。搦
(から)めた獲物を、あたかも一本の糸で巻き取って行く。

 だが、蜘蛛はなぜ網を張るのか。
 それを知らなかった。張る理由を知らなかった。
 老人に質
(ただ)されて始めて、そのことについての自ら無知を悟った。
 なぜ蜘蛛は網を張るのか。
 真剣に考えれば考えるほど奇妙なことが分って来る。なぜ張るのか、分らないことが分って来る。今までこのことを、真剣に考えたことがなかった。

 かつて、蜘蛛について論じた哲学者の本を読んだことがある。この人は昆虫学者でない。
 机上の空論で、蜘蛛が網の中で静止している、その状態を哲学的に小難しい理屈を並べ立てて詳細に説明した本である。
 蜘蛛がなぜ網を張るのか。
 この哲学者は、それについては論じていなかった。蜘蛛の網の真中に居座った姿のみである。この哲学者に言わせると、蜘蛛と言う動物は、蟻や蜜蜂に比べると、非常に怠け者であるそうだ。
 蟻や蜜蜂は不断の努力を怠っていないと言う。働き者であると言う。
 ところが蜘蛛は網の真中にデーンと胡座をかき、網に、偶然に飛んで来る昆虫だけを捕虫し、餌としていると言うのである。この光景だけを見ると、確かに蜘蛛は蟻や蜜蜂に比べて働き者で無いように映り、かつ怠け物の典型にも見える。つまり、これは蜘蛛の一コマを見た場合の捕虫活動である。
 しかし、この哲学者の見落としているものがある。

 それは、蜘蛛が網を張るために用意周到の策を巡らし、その策に粉骨砕身した別の一面を見落としているからである。蜘蛛の表皮だけしか視ていなかった。
 もし蜘蛛が本当の怠け者として、では網は誰が張るかと言うことになる。
 次に、怠け者として何もしない怠け者的な存在ならば、偶然に飛び込んで来た虫が何億匹、何十億匹いたとしても、蜘蛛はその一匹すら捕えることは出来ないであろう。
 偶然を俟
(ま)って、網を張らない蜘蛛など生存出来ないのである。如何なる動植物も怠けてそれで済まされ、偶然ばかりを頼り、偶然に頼る幸運が掴めると思っているのなら、それは大変な間違いであろう。

 現象界は、また相対界である。作用に対して反作用が働く。この反作用に偶然は存在するのか。
 総てのことは、理由があって現象を起こしている。
 私たちが“偶然”と思い込んでいる偶然すら、実は必然であり、仮に偶然を頼るのなら、より多くの偶然に遭遇しなければならないであろう。そして、より多くの偶然を捕えるためには、より多くの用意と努力を重ねなければならないのである。
 この用意と努力を蜘蛛で譬
(たと)えるならば、張り巡らす網が大きければ大きいほど、網の目は綿密で細やかであるべきで、捕虫される虫はそれだけ多くなることである。
 蜘蛛は、どんな虫でも一度網に掛かれば、どうもがいても抜けられないような、昆虫の複眼をもってしても気付かない細かな目の網を張る。工夫であろう。
 この網を空間の総てに張り巡らすことが出来れば、虫が蜘蛛の網に飛び込んで掛かるという現象には、もはや何一つ偶然は存在せず、総ての現象は必然のうちに起こっていると言うことが出来よう。
 私が『大東流蜘蛛之巣伝』を想起したのは、このとき、老人から蜘蛛の話を聞いた以降のことである。

 そこで、「術」とは何かと言うことになって来るのであるが、人生の営みとか、社会生活を巡っての闘争とかは、人生の意味合いからして偶然に起こっているものは、何一つないと言うことである。
 例えば、盃の中に花弁を浮かべた奇妙なる現象である。あれを「術」と解していいだろう。
 この「術」は修練の結果、偶然を必然に置き換えたものでなかったのだろうかと思うのである。
 かつて見た、盃の中に桜の花弁が舞い降りて来る、あの妙技も偶然で起こったことでなく、必然的に導いたことになる。
 偶然に出くわす事象に対しても、偶然に突発的に起こっているのでなく、ある意図を持った必然によって発生した。身辺に様々な間断なく流れる現象の中で、一見偶然に見える事象すら、それを偶然に放置しないで片っ端から必然に変えて行く行為が、実は「術」ではないかと思うのである。私が知らないだけであった。

 世の偉人と言われる釈尊は宵の明星を検
(み)て悟ったと言う。またニュートンはリンゴの落ちるのを見て万有引力を発見したと言う。何れも偶然と言えば偶然であろうが、これは不断の努力を重ねて見出したものではなかったか。そこで見たものは機が充分に熟したからである。それは偶然などではなく、必然であった。
 必然に至らしめるには、日々の修練が必要であろう。
 人知れず、地道に励む、例えば「瓢箪磨き」のような錬磨の修練である。
 これこそが修練・修行の要諦である。この日、私は要諦の大事を学んだのである。
 以降、この老人を『瓢箪仙人』と呼ぶことにした。名前も居所も知らない。向こうも、私の名前も住所も知らない。それでいいではないか。
 一期一会に、なにゆえ住所・氏名が必要であろう。



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