運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 20

世の中にはケチを売物にする人間がいる。ケチだから金持ちになれたのだと豪語する人間がいる。
 だか、こういう人間は、人間的には教養が欠如している。吝嗇と言う、本当の意味を理解していないからである。ケチで貯め込んでも、結局最後は回収されてしまうのである。

 質素倹約を旨として、清貧に甘んじ、その清貧の意味を充分に理解していれば良いが、ケチを売物にして「赤貧」になれば、ケチもまた哀れなものである。

 清貧なる人物は、自身に質素倹約を課して極力無駄遣いをせず、慎
(つつ)ましい生活を実践する人であるが、自分が慎ましく清貧である事を、他人に押し付けなければ、この質素倹約は「愛」ということになる


●雲水

 三月も末日となった。三月も一日限りである。
 これまでの鬱積が取れたようである。憑き物が落ちたようである。心の靄
(もや)が霽(は)れた。蟠(わだがま)りが取れた。確執が解けた。
 今日は何とも気分がいい。爽快な気分であった。
 一方、桜は終盤に近付いていた。
 それを惜しんで、家内を連れての二回目の花見だった。
 桜の季節の終わりを惜しんだからである。

 見納めが近付きつつあった。桜が今年の最後を惜しんで狂い咲きを始めたようだ。
 もうじき狂ったように乱舞を始める。何となく、その風景が見てみたくなったのである。脳裡には桜の花弁の妖艶な乱舞が記憶されている。去年の今ごろもそうだった。だが今年は場所が違う。去年は習志野でなく北九州小倉であった。
 どう違っているか。それを見てみたい気持ちが起こった。二回目の花見である。
 老人の奇妙な酒盃に花弁を浮かべる術を見てから、今年は今までとは違うと感じ始めたのである。
 昼食を済ませた後、家内を連れて公園へと出向いた。
 今日明日がおそらく桜の見納めであろう。
 桜の花は満開となり、花吹雪の乱舞を開始するだろう。もう開花の終わりを告げていたのである。
 今から狂う「桜の舞い」が始まる。風に舞って吹雪くだろう。妖艶なる姿を披露するだろう。それが一大パノラマとなって眼の前に顕われる。それを見てみたい。

 妖艶で、然
(しか)も風に巻かれて一大花吹雪となる。花弁が舞う。それはきっと艶やかに違いない。それを見てみたい。
 それだけに、見る価値がある。おそらく今日明日が見納めだろう。

 あたかも長い髪の女が、自らの髪の毛を解
(とく)ように風に晒(さら)し、いよいよ乱れて散る様相を見せ始めた。
 花の舞いである。舞いは嬌艶
(きょうえん)である。桜の花弁が吹雪となって艶やかに乱舞する。

 久しぶりに前回と同じように、習志野公園へと家内を誘って足を運んだ。
 ひと時の花見見物と洒落込んだのである。そして公園で、またいつぞやの瓢箪の老人と貌を合わせたのである。今度は老人の方が先客であった。先を超されないように、一足先に来ていたのだろうか。
 「おや、これは奇遇ですなァ、またお会いしましたねェ」
 どちらからともなく、同じような挨拶を交わしていた。旧懐を錯覚したのである。そんなに経っていないのに何となく懐かしかった。
 以前、住いを訊いたら教えてくれなかった。そして“そのうち、またお会い出来るでしょう”と体
(てい)よくはぐらされた。しかし奇遇にも“そのうち”が今日であった。

 「もうそろそろ終わりでしょうか」
 「今日明日が見納めでしょう」
 老人もそう踏んでいる。
 一期一会の瞬間が迫りつつあった。
 老人は毎年この時期に通って来るという。それだけに公園の桜が、いつ終わりになるか知っているようだった。桜の散り際を承知しているのである。
 だが、私は来年習志野に居るだろうか。
 ふとその懸念が疾った。来年はもう此処にいないのではあるまいか。他に地に流れて行っているのではあるまいか。
 そのように感じられた。

 「今日明日ですか?……」
 時の流れは早いと思った。
 「あと三日もすれば葉桜へと変わりましょう。時の変化は世の習い……、自然の掟……。掟とはそういうものです」
 あたかも栄枯盛衰を知り尽くしたようなことを吐露
(とろ)した。何か意味深長を思わせた。
 この御仁
(ごじん)は君子と言うより、一ランク上の聖人だろう。何者にも束縛されない自由を持っているようだった。長老然とした懐の深さを持っていた。
 こだわる人で無いようにも思える。
 ただ飄々と流れて行くに人に思われた。長い間の年輪の集積で多くのことを熟知しているのだろう。
 「世の習いですか?……」感服して訊き返した。
 「左様」
 断定的に云った言葉であった。その言葉が、また意味深長であった。

 雲水。
 雲は去り、水は流れる。いつまでも留まらない。留まらないから澱
(よど)まない。
 自然の摂理である。
 現象界では総てが流転する。時々刻々と変化する。留まることは無い。総ては流れ去った行く。
 雲水はその最もよく分る変化媒体である。
 松浦静山
(まつら‐せいざん)の『甲子夜話(かっしやわ)』には「跡なき工夫」が挙げられている。人も雲水のようであれと教える。
 松浦静山は江戸後期の名君として知られる。
 第三十四代藩主・松浦壱岐守源清
(まつら‐いきのかみ‐みなもと‐きよし)こと、明君の誉れも高い松浦静山(まつら‐せいざん)である。
 ちなみに平戸藩の松浦家の「松浦」は読みを「まつら」と読む。「まつうら」ではない。

 静山は文武両道に優れた藩主であり、有能な財政家であるとともに、また心形刀流
(しんけいとうりゅう)剣術の達人でもあった。静山が免許皆伝を得た心形刀流(しんぎょうとう‐りゅう)は剣術の流派として、他を抜きん出て高い品格を得たのは、松浦静山の文武両道の品位による。
 此処で少しばかり名君としての「静山論」を語りたい。

 静山は在職三十年間、平戸のオランダ商館が長崎に移転した後、急に寂れた平戸を復興させるために種々の施策をなしている。
 その一つは新田開発であり、開墾
(かいこん)し、耕地を整理した。
 次に土木治水にも務め、農民には耕牛
(こうぎゅう)や農具を貸し与え、また代官や田役人(たやくにん)を各村に駐屯(ちゅうとん)させて農民の指導や相談に当たらせて農作物の増産を図った。下級武士には副業を奨励し、一層の勤勉と節約を行なわせ、冠婚葬祭の簡素化や備荒貯蓄びこう‐ちょちく/凶年の準備のために貯蓄すること)を奨励した。

 上納米
(じょうのう‐まい)は出来るだけ少なくさせ、飢饉時(ききん‐じ)に対しては租税の免除や救恤米(きゅうじつ‐まい)等を放出し藩民救済に努力した。また藩財政の安定と強化を図り、藩主自ら質素倹約に務め、藩の出納(すいとう)は厳格を極め一銭の無駄もさせなかった。

 また静山の漁業政策も目を見張るものがあった。
 平戸列島や五島列島は古くから漁業が盛んな所で、特に捕鯨
(ほげい)が盛んであった。
 私が子供の頃は「松浦漬け」という鯨の軟骨を味噌漬けにした珍味があった。これを御数
(おかず)に、二杯飯、三杯飯をしたことがある。
 しかし、今は「松浦漬け」という平戸名物が食卓から消えて随分と久しい。

 平戸藩の捕鯨は、古書の記録によれば、享保年間より万延元年
(1860)頃までの鯨の捕獲量は約百三十年間に鯨二万一千七百五十頭を捕獲して、金額に換算すると約三百三十万両を水揚げしたが、その約三分の一が税金や献金になって藩の財政になっている。

 当時の捕鯨法は投鈷
(とうほこ)式投網(とあみ)方式で、静山自らもその仕掛けや操業を検分して、生月(いきつき)の当事者に助言や激励を行っている。この投鈷式投網方式は中々勇壮なもので、天明八年(1788)十二月には、文人画家で有識者として知られる司馬江漢(しば‐こうかん)が生月に赴き、その光景を『西游日記(さいゆう‐にっき)』に著わしている。
 そして静山の名著と言えば、『甲子夜話』である。文政4年
(1821)11月17日の甲子の夜より起稿したことからこのタイトルが付いた。
 『甲子夜話』は大名や旗本の逸話、また市井の風俗などの見聞を詳しく筆録したもので、正続は各百巻、後編は七十八巻からなる。

 『甲子夜話』に雲水が挙げられ、「雲」として、「大事を作
(な)し出すもの、必ず、跡あるべからず。跡ある時は、禍(わざわい)必ず生ず。跡なき工夫如何。功名を喜ぶの心なくして作(な)し得べし」と。
 つまり、跡とは何かを行ったときにはその結果としての跡が残る。特に大事を行った後には業績などの後が残るが、大事業こそ跡を残して自らを誇ってはならない。誇れば奥床しさを失う。そして跡は、その後に必ず禍が起こる。
 その名誉心はやがては自称となって見苦しくなり、無心に、懸命に励んだことを帳消しにしてしまう。
 例えば、分不相応な墓を生前から建てるとか、銅像の類
(たぐい)である。
 こうしたものは見苦しいばかりでなく、謙虚も奥床しさも失う。総ては旧
(もと)の木阿弥に戻る。ゆえに跡がないことこそ大事だと説いている。

 次に「水」である。水も然りとする。
 「是
(これ)も亦(また)(ぜ)なり。功名を喜ぶの心なきは、学問の工夫を積まざれば出まじ。周公(旦)の事業さえ、男児分涯(ぶんがい)の事とする程の量にて、はじめて跡なきようにやるべし。然(しか)らざれば跡なき工夫、黄老こうろう/黄帝と老子)清浄の道の如くなって、真の道とはなるまじ。細思商量(さいし‐しょうりょう)」とある。

 まさにお説の通りである。
 まず、そうなるためには余程、学問をしなければならない。老いたからと言って、物見遊山や若作り、あるいは娯楽や享楽のみに狂奔してはなるまい。
 かの千年王国を築いた周公旦の事跡も男一匹、男子の本懐というくらいの度量があって、ここまでくれば、はじめて跡の無いように遣れよう。
 そうでなければ、偏った老子流のニヒリズム
(虚無の意で老子説の有無相対を超越した境地)、つまり真理や道徳的価値の客観的根拠を認めない立場となり、人生や世の中を虚しいと感じ、極度な虚無主義に陥ってしまうからである。それでは真の道とは謂(い)えなくなる。
 その愚に至らないためには、何れにも偏らず、中道・拮抗を見極め、このことを綿密に思索して、何れにも偏らない中道バランスを徹底的に研究する必要があろうと謂うことだろう。
 既に、静山は孔子にも老荘に対しても、偏り過ぎる愚を指摘している。老荘の学は、また「黄老の学」でもあった。

 ちなみに「黄老の学」とは、黄帝と老子とを祖とする学、すなわち道家の学の一つで、無為を貴び生を養うことを主とした政治思想を説くもので、この哲学の危険なところは、極端化過ぎると、伝統的な既成の秩序や価値を否定したり、生存は無意味とする態度となってしまい、無意味な生存に安住する逃避的な傾向と、既成の文化や制度を破壊しようとする反抗的な傾向に疾る危険性がある。
 孔子ならびに老荘の中を執
(と)って中道あるいは中庸の拮抗を保つことである。
 『菜根譚』流にいえば「ほどほど」であり、何れにも100%の完璧を求めない。和して相半ばするのである。
 それは「雲水」を検
(み)れば分ると言うものであり、こだわりがないのである。

 いま考えても松浦静山は紛れもなく名君であった。
 私は子供の頃、小学一年から三年生一学期まで平戸で育ったが、この頃、よく平戸城の下にある亀岡城跡で級友と遊んだものである。
 この頃の平戸の住人は貧しかった。その殆
(ほ)どが貧しく産業は漁業中心で、近海の魚介類を採って生計(くらし)を立てていた。
 当時の平戸は全くの田舎町で、今のように観光目当ての、都会の資本の楔
(くさび)は、一本も打たれていなかった。静かなしっとりとした、四方を海に囲まれた小さな城下町であり、漁師町であった。素朴で、平戸市民は大半が純朴であった。また今日のように、他県からの流入者は非常に少なく、多くは平戸で生まれ平戸で死んで逝った。

平戸城天守閣。平戸城周囲は子供の頃の遊び場だった。級友や上級生ともよく遊んだものである。
 そして天守閣下は公園になっていたが、そこには見事な桜の銘木が植えられていた。

 町並みから少し外れると、もうそこは、鄙
(ひな)びた漁村の集落をなしていた。平穏で素朴な人達が多く居た。
 所謂
(いわゆる)昭和二十年代後半の清貧な田舎であった。

 この田舎では、私が珍しいためか、私の今まで住んでいた所が社会科等の教科書に載っている八幡製鉄所のある、八幡から来たのだということが事前の噂になって知れ渡っていた。
 父の旧姓は岩崎である。
 但し、母が曽川家の一人娘として遠縁の網元の家に養女に出たため、戸籍上の苗字が変えられず、そのまま曽川姓になってしまった。
 しかし岩崎家本家の家系の流れを引くためでもあろうか、「本家の坊ちゃん」で通されていた。そのように周囲から思われていた。
 よく子供の頃から「あんたは岩崎さん処の坊ちゃんじゃろが」と街を歩いていても言われたものである。どうも私の貌は、父親や叔父に似ているらしい。男の兄弟の血であろう。
 近くでは、岩崎の名は通っていた。それは代々中野村の代官を勤めた先祖岩崎家の功名
(こうみょう)によるところが多いようだ。先祖は平戸藩士で村代官をしていたと言う。更に遠い先祖は平家一門であったと言う。

 当時の田舎の子供は実に貧しかった。級友も貧しかった。
 靴を買うことができないで、藁
(わら)で作った便所の草履(ぞうり)のような履物を履いた子供や、夏には裸足で登校する子供までいた。冬になっても、靴下や足袋を履いている子供は殆どいなかった。素足で、痛ましいほど霜焼けで足を腫らしていた。

 旧八幡市も、東京や大阪から比べれば随分と田舎であるが、平戸は四方を海に囲まれた自然が一杯の超田舎であった。
 そして田舎の子供には持たないものを私は所持していて、いつも羨
(うらや)ましがられ、いつの間にか、毎日が殿様のように、級友から傅(かしず)かれる日々を送っていた。
 私は分けのわからない儘
(まま)、子供心に優越感を味わったものである。

 私の生まれは決して裕福な生まれではなかったが、それでも父は八幡製鉄所に勤めているせいで、少しだけ当時の生活水準より豊かであり、既にその頃、水洗便所の付いた家に住んでいた。だからそれなりに恵まれていて、金銭や物には困らなかった。
 当時の平戸の生活水準と比べれば、比べ物にならないくらおであった。
 転校して行く時も、父に連れられて旅する時に乗った汽車は殆どが二等車であったし、履物も当時はズックという布の靴が主体であったが、私は革靴を履かされていた。持ち物は、他の子供のそれに比べて随分と良かった。

 また、本家の叔父がその頃、親和銀行の平戸支店長で、祖父母もまだ生きていた。
 特にその幼児は祖母の力が絶大で、尾羽打ち枯らした祖父とは雲泥の差で、この当時、祖母は私の従姉連からは「お婆さま」と呼ばれていた。女ながらに威厳のある人であった。
 更に祖父が米の相場師に至る経緯は、先祖が村代官をしていたことによるらしい。中野村という村代官をしていた。石高は僅か十五石であったが、大変な金持ちであったと言う。
 祖父が米相場に失敗する前は裕福な家であったという。それだけに祖母も武門を誇った人であった。
 子供の頃に見た祖母は威厳があって近寄り難く、また馬術に師匠であったから恐ろしくもあった。子供心に畏敬の念を感じ一目置いていたのだろう。

 さて、話を桜の樹の下に戻そう。
 時は流れる……。
 時々刻々と変化する。歳月、人を待たずである。
 「付かぬことをお訊きしますが、そちらのご婦人は?……」
 「ああ、家内です」
 「奥さまでしたか……」
 老人は家内をどう見たのだろう。
 三十歳を過ぎても服装が小娘のような恰好をしていたから、私が昼間から娼婦でも同伴して連れ歩いているとでも検
(み)たのだろうか。その懸念は大いにあった。十歳ほどの歳の差がそう見せることもあるようだ。
 これまで間違われて、「娘さんですか」と訊かれたことがあった。

 末坊主が生まれた時も、初対面の看護婦から「お孫さんは元気ですよ」などといわれて、果たして老けてみられているのかと思ったりもした。
 しかし、私は老けてみられることが厭でない。年齢以上に高き見られることは、それだけ人生経験をして来たと言う年輪がそう言わせるからである。
 一方、「随分とお若いですね」などと言われると、「あなたは青二才ですね」と思われているのと同じだからである。
 しかし、昨今の日本人は、どうしたことか、“お若い”と言われると喜々として喜ぶようだ。背景にはこの“喜々”したバカにさている側面に気付いていないのである。要するに“その程度”のバカなのである。
 私は年齢以上に「歳喰っていますね」などと言われると、逆に胸を張る方である。
 老
(ふ)けているとは、精神年齢が老いていると採るからである。あたかもよく練れた老酒の如し。
 また、逆に「若いですね」と言われると《それれほど青二才の莫迦に見えるか》と遣り返したくなる。
 世間の社交辞令になっている《あなたは“お若い”ですね》と言われる言葉の裏を見抜かねばなるまい。言葉尻を捉えて嬉々と喜んではいられまい。

 今日の老人は腰瓢箪であった。腰に瓢箪を下げて、一見その姿で仙人を思わせた。
 「見事な瓢箪ですなァ」感嘆を正直に吐露していた。
 「ああ、これですか」
 「ご自分でお作りになったのですか?……」
 「これは頂き物です。これを手本に近い物を作ろうと苦心惨憺
(さんたん)ですが、なかなか近付けません。見事にここまで育て、逸品を作り出したものです。しかし、わたしの腕では、なかなかその域に及びそうもない」
 この御仁は自分の人称を「わし」とか「ぼく」とは言わない。正しく「わたし」と呼称する。

 世の中には、自分のことを「わし」と傲慢ぶって言ったり、逆に遜
(へりくだ)りの意味を込めて「ぼく」と言ったりする。
 この「ぼく」は下僕の「僕
(しもべ)」であればいいのだが、現代人は恰好をつけた幼児的な「ぼく」の意味合いが強いようである。
 四十も五十もなって、いい年をしたオヤジが、幼児的な「ぼく」と呼称するのは、聴いていて、非常に違和感を感じるものである。
 更に「ぼく」の対等は「きみ」となり、同等同格を表す言葉だが、目下や弟子などと話していて「ぼく」と言われていると、あたかも目上の上司や師匠から「きみ」と呼ばれているような気持ちになって来る。
 「目上」対「目下」の関係でも、目下が「ぼく」を自称すれば、目上は「きみ」と呼ばれたことになる。それだけ無礼なのだが、現代人は目上の前でも平気で「ぼく」という言葉を使うようである。

 また会社などの組織で、社長や会長を交えての重役会議で、部課長の目下が自分のことを「ぼく」と呼称すれば、上司の重役に「きみ」と呼ぶのと同じである。
 常識として、こう言う席では「わたし」と言う方が、対等意識からは解除されて無難であろう。また目上への礼儀でもあろう。
 この老人が「わし」とか「ぼく」と言わないのは、それなりに礼儀を尽くし、互いに尊ぶ尊厳の意味を知っているからであろう。

 「ほーッ、相当凄い物でしょうなァ」
 瓢箪を見せて頂いて感嘆した。
 「この作者は疾
(と)うの昔に、この世を去っています」
 「亡くなられているのですか……」
 「腕のいい瓢箪職人でしたがね。この作者は瓢箪に、昆虫を模した“盛り上げ”を高蒔絵風にして漆で描くのです。そょりゃァ見事でしたよ。非常に珍しい儀法です。本当に惜しい人を失いました」
 「そうですか……」神妙に相槌
(あいづち)を打った。
 「あの戦争で……」
 「あの戦争というと、先の大戦の大東亜戦争でですか?」
 「大東亜戦争とはこりゃァ懐かしい。この呼称は長い間米軍から禁じられていた。それを今の人が遣っておる。奇妙なことですなァ……」
 「亡くなられたって、いつのことです?」
 「当時わたしは、幹候
(陸軍幹部候補生)上がりの見習少尉でしてなァ。わたしは造形美専の出身でしたからねェ」と大戦末期のことであろう話を始めた。

 幹候の将校は大戦末期に大学、大学予科、旧制高等学校、高等専門学校などの学生や生徒から集められ、幹部要員として速習指導された臨時の将校のことである。
 老人は先の大戦期、見習少尉ということから末端の下級将校であったらしい。
 その当時の話を、ぽつりぽつりと始めたのである。
 あるいは誰でもいいから、当時の話を聞いて欲しかったのかも知れない。私が瓢箪のことを訊くと、併せて是非聞かせたいと言う素振
(そ‐ぶ)りであったからだ。
 この話を家内と拝聴した。

 「幹候とは幹部候補生出身の将校と言うことですね」
 「ほーッ、詳しいですなあ。
 さて、わたしがなぜ幹候になったか、そこから始めましょう。私の身長は四尺八寸。
 今流で言えば145.4cmと言うことでしょうか。つまり150cmに満たないのです。
 わたしは明治38年生まれですから、今年で85歳です。兵隊検査を受けたのが大正15年。つまり昭和元年で21歳の時です。この時わたしは丙種合格」
 「えッ?丙種合格……」
 「まあ言ってみれば体裁の良い不合格ですな。軍隊では箸にも棒に掛からない、お呼びでない不合格者でしてなァ、身長が足らずに丙種合格でした。ところが日本の敗戦が囁かれ始めた頃、突然赤紙が来ましてなァ、召集されたのが昭和19年で、私が39歳のときです」
 「39歳で召集ですか、随分と大変でしたでしょ」
 年齢が年齢であったからだ。思わず同情が疾った。
 私は最初、この老人を八十歳前後と検
(み)たのはほぼ当たっていたが、この人は85歳だった。年齢を読むのに五歳ほどの誤差があった。

 「兵隊としては随分と歳を取っていました。もう老兵ですよ。私のような丙種合格にも赤紙が来たのですからなァ。
 ただ、わたしは高等専門学校出ということで、幹候に押された。三ヵ月の短期即修訓練で、いきなり北支の激戦地ですよ。そりゃ酷いところでした。
 後方支援の全くない部隊に配属されましてな。その部隊は武器も充分に行き渡らず、人海戦術を強要される有様で、殆ど組織抵抗できるような部隊ではありませんでした。それでも部下15人の分隊長を遣らされ、そこから更に奥地へと進軍を余儀なくされました。高級将校の弾除けだったのでしょう。
 15人の部隊には歩兵銃が僅かに三梃。わたしの武器は配給の95式軍刀
(大戦末期、伍長や軍曹に支給された平巻柄の軍刀)という下士官用のボロ刀一本。それに旧式の南部拳銃(官品の14年式下士官用の拳銃)一丁。あれは弾詰まりが烈しい銃でしてなァ、悪評高い初期型14年式でした。将校用でなく下士官用の官品ですぞ。
 それに小隊は手榴弾がそれぞれに一個ずつ。武器と言えば竹槍、木刀、それに手製の弓矢。
 腰に手製の木刀を指し、手には竹槍。それに弓矢です。もう、石器時代の古代人の武器ですよ。
 銃剣も三人分しかなく、小銃三梃に併せたものでした。もう最初から捨て石を余儀なくされていました。
 しかし組織の長としては泣き言は赦されません。最後まで指揮することに勤めました。この小隊は軍隊と言うには程遠いものでした。
 それにです……」
 老人はそこで言葉を切った。何故だろう。

 此処からが、重要であるようだ。この先を聞かせたいのである。
 「?…………」訳が分からず引き寄せられた。
 果たして話術の妙であろうか。
 話の情景描写の中に取り込まれていた。おそらく興味津々で、家内もそうなったであろう。先が聞きたいという貌になっていた。

 「水筒などの官品の軍需物資が欠乏していたことから、水筒代わりに腰にしていたのは、瓢箪でした。瓢箪ですよ、わかりますか瓢箪。当時の日本陸軍の官品の水筒である筈の水入れが瓢箪なのです」
 私はこれを聴いて驚いた。
 《うそでしょ》と言いたい気持ちが先立った。
 「周りからは、わたしらの小隊を瓢箪部隊などと揶揄されましたがね。ただ、わたし一人分だけは官品の兵隊用の水筒でしたがな。後は、みな瓢箪の水筒ですよ。
 でも戦地では飲料水が欠乏していましたなァ。戦場では、水を求めて、みな空の瓢箪を腰にして逃げ廻ってものですよ」
 老人はしみじみと当時のことを話して聴かせたのである。

 「随分と難儀されたようですね」
 「当時、私は15人の分隊長でした。それも39歳の。しかし、この39歳の分隊長は、この部隊では私が一番若かったのです」
 「えッ!なんですって?……」
 「一番年の喰ったのは61歳の老人ですよ。この部隊の平均年齢は50歳というところでしょうか。年寄りの集まりでした。こういう老兵ばかり集めた部隊では、既に組織抵抗する力はありません。いつも老体に鞭打って逃げ廻ってばかりです。ろくに練兵された者など、殆どいませんでしたからね。
 そりゃァ酷いものでした。小銃三丁は旧式の38式歩兵銃
(明治38年に制定された殺傷力の少ない旧式銃)で、これを握るの古参の上等兵が三名。大正期半ば頃の入営で、練兵を受けた25年前ですよ。三名の上等兵は50代半ばの古兵でしてね。辛うじて実砲が発射でき、引鉄(ひきかね)が弾けるという程度です。しかし勿論、標的に命中させる腕などありません。体力もないし、白兵戦でも敵と戦う力はありません。
 大戦末期、日本軍は召集した寄せ集めの素人でしたからねェ。軍需も兵員も不足すると捨て石のような老人までもが駆り集められます」
 益々語り口が湿っぽいものになっていった。

 果たして大戦末期、平均年齢50歳と言う召集兵が居たのか。
 聞くところによると居たらしい。
 私の知る人で、大戦末期60歳で、退役少佐だった人であるが、この人が再び召集されて南方方面の戦線に配属されたと言うから、末期には平均年齢50歳と言う召集兵がいたとしても不思議ではない。
 負けが込むと、軍務局は男女を問わず召集令状を乱発したようである。
 女性でも従軍看護婦を始め、狙撃兵や重機関銃の銃手の一部にも女性を登用していたと言うから、召集令状を乱発した話は満更ウソでもなさそうだ。

 しかし、私には何となくこの瓢箪部隊が滑稽と言うより、おかしな部隊と思ったのである。
 全員が小隊長以外、腰に瓢箪という姿は何となくユーモラスである。
 それに平均年齢が50歳である。五十、六十オヤジの寄せ集めである。爺さま部隊である。
 最初から戦う気などなかったのかも知れない。ただ敵前逃亡ないだけであった。飲料水不足と言うから、水を求めて戦場を彷徨っていたのであろう。
 老人の話を聞いていると、時間が見る見るうちに過ぎて行った。
 もう、時間である。
 私は自分の担当の席に戻らねばならない。その先を聴きたいのは山々だが、今日はこれまでであろう。塾に戻らねばならない。

 私は一つの提案を持ち出した。
 「私はこれから仕事です。もう、戻らねばなりません」
 「さようですか、話も弾んでまいりましたのに。これは残念ですなァ」
 「そこで、提案です。明日、もう一度、此処で、この時間で、その先を聞かせて頂けませんか。家内共々、明日、ここで『桜の宴』は如何でしょう?……」
 「宴ですか、いいですなあ。これは楽しみだ。お待ちしましょう」
 「では、お先に」
 私は明日の約束を取り付けて、家内とこの場を後にした。



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