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壺中天・瓢箪仙人 14

福禄寿(ふくろく‐じゅ)は七福神の一神である。
 短身長頭で、長い髭をはやししている。長頭短身の老人だ。

 経巻を結びつけた杖を携え、多く鶴を従える神で、中国では南極星の化身という。南極老人の異名がある。
 道教の神で、南極仙翁あるいは寿星
(じゅせい)とも言う。竜骨座(りゅうこつざ)の『首星カノープス』の漢名であり、これを祀って福寿を祈る。
 またその長い頭には、長寿と健康と幸福を齎す「三徳の智慧」が詰まっていると言う。

 日本では七福神の福禄寿と寿老人のモデルだと言われる。
 福禄寿は唐桃
(からもも)という桃の木の杖を握っている。桃の木は霊妙が宿る木とされている。邪気を払う力があるとされている。
 そして特記すべきは、此処が一番大事な要点であるが、三徳の一つである「幸福」とは、現代日本人が考える漠然とした幸せなどのことではない。

 これは血の繋がった実子に恵まれることを言う。
 血縁が自分以降に繋がってこそ真の幸福である。血縁が絶えて、どうして幸福と言えよう。

 鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・禄・寿を象徴する三体一組の神体像を構成する。


●花見

 あれから数日が過ぎた。月日の経つのは早いもである。
 しかし私の質問攻めの憂鬱は相変わらずだった。腐るような毎日を過ごしていた。何とも滅入る。こんなに天気がいいのに何故心の霧は霽
(は)れないのだろう……。
 それは毎日、小娘の質問魔に手玉に取られ、遣り込められているからである。

 この日の昼は一旦家の戻り、家内に弁当を作らせて近くの公園にでも出掛けるつもりであった。そこで弁当でも喰って気分転換でもしてみるかとなったのである。
 近くに習志野公園があり、桜の花が徐々に綻
(ほころ)びつつあった。いい日の昼下がりだった。午後一時を少し回った頃であったろうか。

 「今日は天気もいい、今から花見に行く」憂さ晴らしでもする気持ちでいた。一時間でもいいから質問魔を脳裡から消したい。
 「桜の下でお弁当ですか、いいですねェ。でも何処に?……」
 「近くに公園はある」
 「では用意します」
 「直ぐにだ」
 「はいはい、分りましたよ……」
 「直ぐに遣れ、5分以内にだ!」
 春期講習の合間を縫ってのことである。休憩時間は僅かであった。

 講師間はローテーションを組んで、交替で休憩時間と取る。そして私は、一時間半の昼食時間を貰った。
 主宰者ほど束縛を受け、自分の都合に合わせて勝手な行動は出来ない。自由を譲って、自らは不自由の一番悪い時間帯か、質問者が集中するコマにセッティングする。こう言う貧乏くじを他人に曳かせてはならないのである。
 塾生の押し掛ける時間としては、この時間帯が一番少なくなる時間であった。突飛な異常事態が起こらなければ、アルバイトの学生講師でも充分に対応できる。トラブルの少ない時間帯であった。
 その時間が一時間半であり、大学の授業で言えば90分の“一コマ”の時間であった。

 個別指導では“一コマ90分単位”である。
 大学の授業と同じように90分単位で一コマを区切る。
 恐らく個別指導の生みの親の佐々木慶一氏が、暗中模索しながら、探り当てた時間帯であろう。近年の個別指導も、大半が“一コマ90分単位”である。
 人間が集中できて、難解なことに取り組む時間単位であるらしい。一時間では短いし、二時間では長過ぎるのである。句切れのいい時間単位は、一コマ90分であるらしい。
 私はその一コマ分の休憩時間を貰ったのである。

 「はいはい……、あと5分ですね」了解済みと言う聲
(こえ)であった。
 「急げ」
 「はいはい……只今」
 家内の聲は喜々として弾んでいた。
 花見と言ったから嬉しかったのだろう。細やかなことでも、そこに楽しみを見つけ出すのである。何も遠くまで行く必要はない。

 私が北九州に居る時、大学の非常勤講師などもしてアルバイトで稼いでいたから、この兼ね合いは家内も能
(よ)く知っていた。
 5分と言ったのは、講義を終わった教室から、次の教室へ移動する合間が5分なのである。
 この間に、私のような臨時雇用の底辺の講師は、速やかに移動し、担当する授業の下準備をする。総て自前で行い、助手は付かない。

 ここが私のような底辺の非常勤と、助教授、准教授、教授との違いであった。
 この差は歴然で、足軽と殿様くらいの開きがある。あるいはもっと開きがあって、大王と奴隷の差かも知れない。講師は、特に少ないコマで及びの懸かる非常勤は奴隷以下の存在だったかも知れない。それゆえに何もかもが自前での準備である。前の講義で黒板を消していなければ事務などの職員がするのでなく、教室を遣う講師自ら消さねばならない。
 予備校時代も、この下準備に追われ、自分で何事も遣っていたから、この癖は未だに身に付いていた。
 5分で総てを賄
(まかな)い、次ぎの授業に備えるのである。

 私は「あと5分」と云う言葉で、直ぐに思い出すことがある。
 それはミッドウェー海戦である。
 この海戦は昭和17年
(1942)6月5日【註】アメリカ標準時では6月4日)から7日にかけてミッドウェー島を巡って行われた海戦であり「MI作戦」と言われた。ミッドウェー島の攻略を目指した作戦である。
 その戦略構図は日本海軍を、アメリカ海軍が迎え撃つ形で発生した。日本軍はこれまでの攻撃から迎撃へと変化した。守りへと変化した。

 一方アメリカは、その後、攻撃一本槍の作戦が展開されることになる。
 戦略でも、一旦守りを固めて守戦論だけに固執すると、その軍隊は弱くなると言うが、防戦態勢だけでは臨機応変の自由性を束縛され、自由が利かなくなる。不自由は消極策に出てしまうからであろう。
 先の大戦の負けの要因は、こうしたところにも潜んでいるようである。それが、守りだけの不自由性の弱さである。

 結果は日本海軍機動部隊の大損害で結末を迎えた。アメリカ海軍情報部の情報収集が長
(た)けていたからである。
 日本海軍機動部隊は大型航空母艦四隻とその艦載機を多数喪失した。あの白村江以来の損害を被った。この大敗北の結果、日本は主導権を失うのである。
 では、その大敗北はどのように齎されたか。

 まず作戦実行部隊の参謀部の奢
(おご)りであった。米海軍を甘く見ていた。その見下しが下級の将兵にも伝染した。
 結局これが、「アメリカ軍機動部隊発見と二度の兵装転換」となったのである。
 更に「三度目の兵装転換」を行った。正攻法から派生した愚策であった。これが飛行甲板全体を火薬庫にしてしまったのである。兵装転換の最中に集中攻撃を受ける。それを前に、参謀連の云った言葉が「あと5分」であった。
 運命はこの5分に懸かっていたと言えよう。その後は、戦史の示す通りである。

 しかし、「あと5分」にも疑問がある。
 「あと5分」早かったら日本はアメリカに勝てたのか。この5分で本土空襲は免れたのか。
 そもそも日本はミッドウェー以前に負けていたのではないか。
 既に真珠湾奇襲作戦で負けていたのではないか。
 真珠湾奇襲作戦は誰が見ても、快進撃のように映る。果たして成功した作戦であったであろうか。
 あれ自体が負け戦の始まりではなかったのか。
 航空機による奇襲というのは、これからの戦争が三次元の立体戦争に入ったと言う手の裡をアメリカに暴露してしまったのである。
 連合艦隊司令長官の山本五十六の失態であった。
 それがミッドウェーの敗北に繋がった。
 歴史は近視眼的に見てはならない。マクロ的に大局を見なければならない。

 日本軍の精神主義や体力主義は、米国の頭脳戦に見事に敗れた瞬間がミッドウェーの大敗北である。
 この戦いで負けた責任は実に大きかったが、海軍首脳部で、この敗北の責任をとったものは誰一人いなかった。山本五十六は愚か、司令長官の南雲忠一も、参謀長の草鹿龍之介も逃げて責任を免れた。その責任を取ることはなかった。
 将官が責任を免れるのは、日本陸海軍の明治以来の伝統であった。
 また、日本の敗戦責任は誰にあるのか。
 戦後半世紀以上を過ぎても、その責任追及をする国民会議などは一度も開かれることがなかった。

 私が子供のときに「5分前精神」を叩き込まれた。
 叔父は、相場師として一夜に顛落した祖父に代わり、その身代わりになった人である。
 年少の父以下の家族を養うために、かつて佐世保海兵団に水兵として入隊し、下士官まで上り詰めた人であった。戦後は長崎平戸で親和銀行に勤めていた。私が平戸にいた子供の頃は、よく金の話を聴かされたものである。
 その叔父の口癖は「5分前」だった。これを、私は小学校低学年時代から散々聴かされたのである。
 それが「5分前精神」であった。
 5分前に総てが完了してこそ、その後のことが履行される。銀行員だった叔父の論である。
 旧海軍では「5分前精神」が徹底されていたと言う。

 爾来、約束時間の必ず5分前に到着するということを徹底的に教え込まれた。
 その約束を履行するためには、事前に準備し、余裕を持った5分前でなければならない。
 叔父が5分前を煩
(うるさ)く言うのは、その時間内で「5分」という時間単位が、その後の運命の鍵を握っているからだと思うのである。

 以降、私は「5分前」を、老いた今でも大事にしている。
 運命の波に乗るか、置いてきぼりを喰らうか、この「5分」と言う時間に総てが懸かるようだ。5分を蔑ろにすれば、ミッドウェーと同じ轍
(てつ)を踏むことになる。
 つまり「あと5分」という言葉の響きは、この時間内に遣り終えるか、そうでないかで、その後の運命が定まるように思えるのである。
 私はこれを、「約束履行」のための一種の運命法則のように考えている。

 さて家内は、どうだったであろうか。
 私は、早くとも5分を少し上回るか、それ以上と検
(み)た。5分以内には対応出来ないと考えていた。急な思いつきであったからだ。
 「今から花見に行く」はあまりにも唐突で、行き当たりばったり的であった。無理難題の一種である。
 ところが、それは《即時!》と言うほど早かった。意外に予想を反していた。
 このとき懸かった時間は、せいぜい1分くらいであっただろうか。

 タッパーに詰まった弁当が二個用意され、ビニールの手提げ袋に納まっていた。何とも迅速であった。
 「直ぐ出掛けられますよ」というのである。
 「うん?……」
 この即興に半信半疑だった。早過ぎるからである。
 一体弁当の中には、何が入っているのだろうかと疑いたくなるような気持ちであったが、出掛けられるのなら行くしかない。言い出し屁は、私であるからだ。
 ただ疑問は弁当の中身だった。一体即興の弁当で何が詰まっているというのか。それが果たして喰うに値するのか。味は?……などの疑問があった。

 今日の昼食は桜の樹の下で弁当となったのである。
 桜の下で弁当……、何とも風流である。しかし急がせた結果、どう言う物が出来たものものやら……。また何を喰わされるものやら……。
 詰まらぬことにこだわっている私自身、何となく情けなかった。《何でこだわる?》と自身を叱責したいほどだった。

 歩いて数分足らずのところに習志野公園がある。その公園の周りには、桜が満開に近づきつつあった。おおかた六分咲きから七分咲きというところであろうか。
 公園には、人は斑
(まばら)だった。
 当時は公園の真中がぽっかり開いていて、周囲に桜の大木が囲み、またベンチがあるだけの簡素な造りであった。しかし今日のように犬の散歩などをさせる人はいなかった。犬の躾
(しつけ)やマナーの悪い買主を見ないだけでも幸せな時代であった。

 さて、日本人が桜の樹の下で弁当を食べるなどの「花見」の風習を始めたのは、いつの頃からだったのだろう。古い文献などを調べると、少なくとも平安時代には一般化されていなかったようだ。桜の花は貴族の独占物であったからだ。
 その時代庶民の間では、桜の樹は不吉なものと看做
(みな)されていたようである。

 花見見物などの行事が、庶民に広まったのは江戸中期くらいであったと言う。
 それ以前は不吉な樹として、桜はランク付けされていたようだ。それだけ庶民からは遠ざけられていた。
 では何故不吉な樹とされたのか。

 平安時代、桜の花は不吉なものとされ、桜に樹の下には死体が埋められたと言う話もある。桜の樹はその屍
(しかばね)から養分を吸って、花を咲かせていたとも言われている。
 桜の花が美しいのは、死んだ人間の死体から養分を吸収して美しい花を咲かせたと言う。
 見事に開花した桜の花弁の一枚一枚には、人間の死体から吸い取った養分が、肥料として遣われ、それ花咲かせたと言うことになろうか。あるいは、庶民と桜を切り離すために、このようなシナリオを何者かが仕組んだのであろうか。

 ゆえに桜こそ、死んだ人間の怨念を象徴しているとも言う。
 満開から、やがて散る桜の花の果敢なさは、そうした側面にあるのかも知れない。栄枯盛衰の総てが、桜の花弁に象徴されているようにも思えるのである。
 だがこの花は、平安期には貴族に独占されていた。貴族が桜の花を愛
(め)で、和歌を詠んだのは、庶民から桜の花を隔離する何らかの理由があったのだろう。

 この日は春の温かな陽射しの降り注ぐ午後であった。
 私たち夫婦は日当りのいい、桜の花を通して洩れる柔らかな陽射しの下のベンチに腰を降ろした。何故な不思議な安堵
(あんど)を覚えた。それは、坐った場所の安堵であったのだろうか、それとももっと別な時間的なものであったのだろうか。磁場的なものを観じない訳でもなかった。
 とにかく落ち着くのである。ふと、安息が洩れる安堵を観じるのである。不思議な場所であった。
 家内と一緒にという、こういうのは久々であった。多忙の間を縫っての細やかな息抜である。

 これまで家内とは旅行と言う旅行もしたことがなく、夫婦揃って何処かに出掛けると言うことが一回もなかった。
 結婚式すら挙げず、ただ籍を入れただけの夫婦であった。この夫婦に祝福など一度もなかった。誰からもその祝福は受けたことがなかった。ひっそりと、《夫婦をしていた》という感じの生活を、家内が23歳のときから約十数年間もやって来た。出掛ける暇など殆どなく、早朝かや深夜まで働き詰めであった。家内も私も、経営と講師の二足の草鞋を履いていた。それだけに毎日が激務であった。

 振り返れば、家内に殆どいい思いもさせたことがなかった。また、いい思いをしないということが当り前のように捉えている家内であった。心の裡
(うち)には、「武門の妻」という覚悟があったのかも知れない。この一点に焦点を合わせ、家内と同志結婚をした。
 恋愛などと言う甘っちょろい行為を通じたのでもなく、また世話焼きの仲人がいて、そういう人から紹介されて見合いをした訳でもなかった。
 ただ転がり込んで来ただけであった。
 あるいは唆されてそうなったのかも知れない。それにしても、よく蹤
(つ)いて来たものである。
 では、どのように家内が唆されて、私がどのように唆したのか……。
 それを語らねばならない。



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