運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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壺中天・瓢箪仙人 13

人間は今の生活が安定していればいるほど、明日に起こるかも知れない不慮の出来事に不安と恐れを募らせる。
 現世は「一寸先が闇」であり、一時間先、一分先、一秒先のことは誰にも予測がつかない。

 まさに「寸善尺魔
(すんぜん‐しゃくま)」と言えよう。
 世の中はよいことが少なく悪いことが多いこと譬えだ。
 夢を抱いたとしても、その夢は世の荒波に揉
(も)まれた瞬時にして醒め、忽(たちま)ち厳しい真現実に引き戻される。夢や希望は忽ち潰える。そしてその先は茨の道へと繋がっている。

 安穏な日々は長く続かず、のんびりとした平和を貪るわが世の春など絶対にあり得ないのである。
 晴れの日もあれば雨の日もあり、風に曝される日もあれば、厳しい風雪に耐えねばならぬ日もある。だが、まだ遣っても来ない明日のことを思い悩んでも仕方がない。
 故に
明日を思うとき、不安や恐れに戦(おのの)くのは当然の人情であるかも知れない。

 だが明日の死生に囚
(とら)われてばかりでは、「今日」を精一杯生き抜くことは出来ない。
 命あるものは、やがては死ぬ運命にある。滅ぶのが栄枯盛衰の自然の摂理である。
 だからこそ、「今日」を精一杯生きなければならないし、「今」という、この一瞬を充実させなければならない。

 「今、この一瞬」を充実させることが出来れば、もうそれだけで立派に生きていることになり、「明日の保障」などという空しい不確実要素は所詮
(しょせん)心の迷いであることに気付く筈である。


●『法華経』の話

  禍福(かふく)を説いた「南越伝」の真意は、「禍(わざわい)に因(よ)りて福と為(な)す、成敗の転ずるは、譬(たと)うれば糾(あざな)える《なわ》の若ごとし」とあり、直訳すれば、この世の幸不幸は、より合わせた縄のように、常に入れかわりながら変転すると検(み)て、これはあたかも「人間万事塞翁が馬」と思い込んでしまいがちだが、そのように単純なものでない。

 人生は吉凶・禍福が予測できないとしたところに、眼に見えない隠された部分があるのである。
 つまり、この部分は運命の「うねり」であるから人智では予測不可能なのである。
 だが、間違いなくそこには有機的な生命現象が横たわっているのであった。しかしこれを多くの人が見逃してしまうのである。

 人間万事塞翁が馬……。
 ゆえに人智では一寸先が闇である。
 人智では、ちょっとした先の近未来すら予測出来ないのである。その変化は、人智では予測不可能なのである。
 そしてまた、“禍福
は糾える縄の如し”である。
 それは周期的に検
(み)れば、禍福が交互に遣って来ているように映る。繰り返しの連続であるように見える。
 だが果たしてそうだろうか。
 この日、確かに進龍一は10万円をパチンコにすった。
 これを分析すれば、奴は10万も持っていかれたことを悔しいとは思うだろうが、それを根に持っていなかった。取られても、あっけらかんとしていた。

 何故か……。
 それは単に余裕だけでなく。必ず取り返す自信があるからである。明日はそれを倍にして取り返す自信もあり腕もある。それが余裕を作っていた。
 一方的に負けて行くギャンブルであれば、それ以降誰も相手にしなくなる。だが、ギャンブルの面白さと怕さとスリルは、取ったり取られたりを交互に繰り返しつつ、トータル的には損をする構造になっている。最初から一方的に負けが込むことはあり得ない。故にギャンブルは勝った時のことだけが脳裡に残り、負けた時のことは希薄になる。

 つまり、負けの日のパチンコでも10万円を一方的に湯水を注ぎ込むように負けたりはしない。取ったり取られたりの面白さとスリルがある。ギャンブルの魅力は此処であり、その誘惑にギャンブル狂は嵌まるのである。
 心の中では勝った日のことを思い出し、「必ず、いつかは……」という反撃の野心の焔
(ほのお)を燃やすのである。一回でもいい思いをすると、これは記憶の中に刻まれる。負けても、勝った時のことしか覚えていない。これが病み付きにする。
 このジレンマに多くのパチンカーが嵌まり、またそこにギャンブラーの「また、いつか……、必ず取り返してやる!」という執念と勝利への希望的観測を抱くのである。依存症になって行くプロセスである。

 更に観察眼を凝らすと、奴は許容量が10万円如きでない。常人なら、10万円も負ければカリカリする。
 ところが奴はそれがない。
 余裕と言うか、悠々としたところが観じられる。
 それは許容量がもっと上に設定されているからである。
 奴の許容量は30万円前後と検
(み)た。30万円以上を持って行かれたのなら、カリカリしているからである。だが、そうでないところを見ると、今日はぜいぜい10万円止まりであろう。
 言わば、自分の身を持ち崩さないだけの小ギャンブラーとしての節度を保っていた。それ以上深入りしないのである。

 また以前一度だけ、奴は塾長室に置いてあった26万円の入った月謝袋の束と鞄ごと、闖入者に取られたことがあった。奴が大声を張り上げて授業をしている時であった。授業に熱中していた。
 熱中のあまり、第三者の闖入
(ちんにゅう)に気付かなかった。
 また、窃盗に及んだ闖入者もそのところを読んでいた。ゆえに奴は闖入者に気付かなかった。まんまと読まれたものである。
 おそらく犯人は内部事情に詳しい元塾生であったと考えられる。
 もし闖入者が元塾生とすると、この生徒は勉強は余りできなかったであろうと推測される。嫌われている生徒であったかも知れない。しかし狡猾
(こうかつ)であった。こうした裏側の狡さは塾長以上に知恵が勝っていたのかも知れない。裏をかかれた観がある。

 この窃盗事件は聞くところによると、部屋の窓から入り込んだ形跡があり、スニーカーの靴跡がハッキリと着いていたと言う。このときばかりは奴もカリカリして、怒り心頭に来ていた。
 奴はいいショルダーバッグを持っていた。外国製でエルメスか何かだったと思う。五万円前後のバックであったと言う。
 それに併せて、中身の26万円の月謝の金である。締めて31万円也。
 パチンカーとして損を生じた場合の許容量は、故に30万円前後なのである。
 これを越えれば、怒り心頭に来てカリカリするであろうし、以下ならば、いつでも挽回する余裕があるからであろう。
 これは健全なる神経を持っていたと言えよう。

 何故なら、かつて私が遣ったような、数千万円単位を賭けての大博奕はしなかった。公営ギャンブルの競馬や競輪や競艇もしない。金銭意識は庶民的で、極めて正常と言えた。浪費家でもない。
 ところが私の場合は違っていた。
 一面にイカレた「夢追い人」の残留があった。大金を追う癖があった。若い頃から世間の常識とは掛け離れたところがあり、向こう見ずの冒険者である。自分の利することを追うのでなく、利他的な夢を追い掛けていたように思う。道場と言う「函物」欲しさからであった。函物は数千万から億単位である。それを追い掛けたときがあった。

 その意味では現実から外れたユートピアンだったかも知れないし、もしかすると、米の相場師だった祖父の遺伝をそのまま引き継いでいるようにも思えた。世人の金銭感覚からは規格外の夢を追っていたのであろう。それが、いつしか博奕に手を出す羽目となった。
 明治期、祖父は米の相場師をしていた。聞くところによると、一時は洋行までやって、かなり羽振りがよかったと言う。相場は一種の博奕のようなものである。浮沈があり、当たり外れがある。読み間違いもある。そこが恐ろしい。

 ところが相場を読み間違えて、祖父は一旦は没落した。一夜にしてドン底に叩き落とされたと言う。極貧へと落された。
 家族はたった一日で、これまでの富豪から極貧へと叩き落とされたと言う。人間が大博奕に失敗をした瞬間であった。
 この時期がいつであったかハッキリとは訊かなかったが、おそらく日清戦争が終わり、ロシアが日本を凍らない港と狙い始めたときに起こった戦争前の不景気ではなかったかと思う。このとき銀行なども多く潰れたと言う。銀行も預金を集めて貸すだけが業務でない。集めた金を運用する。

 一般には、貯蓄者から預金を預かり、他方で貸付や手形割引および証券の引受けなどを業務とする金融機関程度にしか考えられていない。だが集めた金を国債などにも投資する。
 リスクを回避しながら収益を得る手段を講じる。ヘッジファンドなどである。しかし景気動向を読み間違う時もある。乱高下が烈しいときには、時として読み間違いが起こる。投機に失敗する時もある。あるいは貸付が不良債権化することもある。不景気が訪れると、世の中には在庫が余り物が売れなくなる。停滞・沈滞が起こる。企業は在庫処分に苦慮する。生産の縮小が起こる。次に物価や賃金の下落が起こる。そうなると街に失業者が溢れる。不景気時の特長である。
 戦争が起こる前は、一旦世の中が不景気になる兆候を示すようだ。

 世の中に不穏が垂れ込め、これを解消するには戦争特需を呼び込んで、戦争を遣る以外ないという大衆心理に陥れられると言う。
 当時もこうした開戦前の不景気が世の中を襲っていたのではあるまいか。

 尾羽打ち枯らした祖父の家を戦後復活させたのは、父の直ぐ上の兄に当たる叔父であった。
 叔父は高等小学校を終えて丁稚奉公をしたのち十七歳で、海軍に志願し、海軍特別年少兵として佐世保海兵団に入隊したと言う。海軍に入って、その僅かな水兵の給料を実家に仕送りし、細々と祖父母や父以下の年少の兄弟・姉妹の面倒をみたと言う。

 私が子供の頃は本家は再興していて、祖父は生きていたが、相場の失敗以来、萎
(しお)れて、ひと回りか、ふた回り小さくなった置物のような“猫爺(ねこじー)”になっていた。私は祖父を“猫爺”と呼んでいた。
 小学校低学年時代、平戸で育ったが、その頃は未だ祖父が生きていた。よく諸外国の話をしてくれた。そしてヨーロッパで買ったと言うオメガーの時計を貰ったことがある。
 “猫爺”は気前のいい人であった。しかし祖父の財産と言えば、この時計くらいであっただろう。それを気前よくくれたのである。一年後に祖父はこの世を去るが、自分の死期を予見していたのかも知れない。
 かつての名うての相場師も、老いて、枯れて、借りて来たような温和
(おとな)しい猫になっていた。

 私は好んで博奕に奔る方ではないが、若い頃、筋者と称される集団が開陳する手本引にも行ったことがあるし、赤いダイヤと言う小豆にも手を出したり、シカゴ大豆などの穀物相場を張って千万単位の金を持って行かれたことがあった。株も遣ったことがある。
 だがその才能がなかった。トータルは一億円程度の損害が出ているだろう。
 筋者が主催する博奕も相場も、また株式も、いい思いをしたのはほんの一瞬のことであった。結局こうした博奕は損することが分った。それ以来博奕は止めた。
 しかしである。
 経営に失敗した。兵を率いていたが、敗軍の将になってしまった。

 今回の予備校の倒産は、それを雄弁に物語っていた。経営者の才能がなかった。
 経営自体が、言わば形を変えた博奕なのである。ただし法的には何の法の抵触はなく、御法度でないだけであった。しかし先見の明がいるところは似通ってる。
 だが時代の読みを誤り、経営を遣り損なえば基本的には博奕と同じ結末を招く。遣り損なえば億単位の負債を抱えるから、まさに大博奕と言えた。
 こうした大博奕に奔る一面には、祖父の血が流れているのかも知れない。その習性が、持って生まれたギャンブラーだったのかも知れない。大博奕をする以上、小ギャンブルはしないだけである。
 しかし奴は、私と正反対で、そう言う危険な大博奕はせず、手堅くパチンコ止まりで、それ以上をしなかったことは賢明であると言えた。

 「なるほど、それで私が10万もスッたことは、ラッキーだったのですか?」
 「そうだ、但し今後、パチンコを辞めればの話だが……。もう、二度と金輪際、パチンコ屋には足を運ばないという条件に限りであるが……」
 「そんなの、無理ですよ」
 「お前、パチンコ依存症の重症患者であるまいな?アルコール依存症のような……」
 「そこまで落ちちゃァいませんよ」
 「そうかな?……」
 「私を麻薬患者のように言わないで下さい」
 「結局、豚の耳に『法華経』か?……」
 「何です、それは?」
 「有り難い『法華経』を豚に聞かせても、分からんということだ」
 「それを言うなら、馬耳東風というのです。あるいは馬の耳に念仏と……」
 「いや、違う。お前は豚に真珠ならぬ、豚の耳に『法華経』だ」
 「宗家はいやに、豚と法華経にこだわりますねェ」
 「こだわるのでなく、断定しているのだ」
 「その意味を説明して下さい」
 真剣な面持ちで、体を乗り出してきた。

 「いいか、豚という生き物は、自分が豚であることも、豚に生まれたことも気付かない。哀れな“畜生道”に生まれた生き物だ。しかし、自分の哀れさにも気付かない。分らずに生まれて来て、分らぬまま屠殺されて行く。ここに哀れな輪廻の輪がある。
 この世の一切には“食物連鎖”が働いている。
 海にも陸にも空にも、みな自然界の食物連鎖が働いている。
 大きな動物は小さな動物を食べ、小さな動物は大きな動物にへばりつき、寄生して体の窪
(くぼ)みを食い荒らしている。バクテリアを見ろ。ウイルスを見ろ。微生物だって、食物連鎖にあって果てしない輪の中に居る。
 一切の動物は大きな食物連鎖の輪の中にあって、この輪の中から一歩も出られない。また、出ようと思わない。そういう智慧もない。永遠に使役されることからも免れることが出来ない。
 草食獣は肉食獣から、簡単に食われないために、いつも耳をそばだて、ビクビクして周囲を警戒していなければならない。寛
(くつろ)ぐ時間もない。恐怖に怯(おび)えて暮らす一生だ。
 なぜ怯えて暮らさなければならないか!……。これを考えたことがあるか。
 自分が曇らされていることが分らないからだ。それを自覚出来ないからである」
 「……………」
 奴は神妙に聴いていた。
 「この輪廻の輪、どこかパチンカーの習性に似てはいないか」
 「えッ?……」
 早く輪の中から抜け出せと言いたかった。果たして聞く耳は持っているだろうか。

 「また人間に食われる牛や豚、それに羊や鶏らは、最初から食われることが前提になって生まれてくる。最初から自由などない。
 自由を奪われていながら、そこから抜け出ることができない。自分でも食われる運命を、あるいは使役される運命を、どうしたらいいか分からないのである。彼等の心は愚かさで曇らされているからだ。愚かで無知であるから、底なしの苦しみの中に沈んでいかなければならない。深く沈み、地の底へと埋没する……。

 一見、心配事も何もないように見える動物は、実は殺されて啖
(く)われる宿命的な苦悩を抱えている。生まれた時から啖われ必然的な定めとなる。
 苦悩に喘
(あえ)いでいる動物を見たら、食物連鎖という輪廻の輪の中にいるのだから、あれはかつて自分の父であり、母であった生き物だったかも知れないと思い遣って、慈悲の心を放ってやらなければならない。彼等に共鳴し、動物に生まれたことの苦悩を理解し、瞑想(めいそう)する必要があろう。
 だから、馬の耳に念仏宗の“念仏”ではなく、豚の耳に『法華経』なのだ。

 動物に『法華経』を聞かせても分からんであろうが、しかし彼等の苦悩を理解してやることはできよう。そういう努力が、人間に課せられていることを忘れてはなるまい。
 この世は確かに弱肉強食で、しっかりと食物連鎖の輪の世界が展開されている。しかし、こういう世界だからこそ、深い慈悲がいるのだ。愚者や弱者を哀れむ慈悲がいるのだ」

 私は読書で得た知識を、奴に講釈として語った。
 奴の蔵書の一冊には『法華経』の真意が解釈されていたからである。面白い見解であった。

 「その愚者とは、今日一日で10万もスッてしまった私のことですか?」
 「俺は早く、喰
(く)いつ啖(く)われるの食物連鎖の輪から抜け出せと言っているのだ。何も悪意で、お前を愚弄(ぐろう)しているのではない。面白半分に罵倒しているのではないぞ」
 「豚の耳に『法華経』ですか?……いまの私の状態が……」
 不審そうに訊く。
 「気付いたら、カモられる輪から早く抜け出すことだ。パチンコ屋は何も貧者のために慈善事業をしているのではないからな」
 「それは十分に承知しています」
 「貧者をカモって、しこたま儲けるために派手な呼び込みの軍艦マーチを鳴ならして、したたかな営利事業を展開しているのだ。それが分かれば、自分がパチンコ中毒を起こして、依存症であることが分かるはずだ。パチンコ屋は慈善事業を遣るためには派手ない呼び込みを遣るのではない。愚者をカモるためだ。カモられた愚者は中毒を起こす。中毒症状に陥れる。これに早く悟って解脱することだ」
 「しかし、中毒から解放されると、趣味と実益もなくなってしまいます。私の場合、豚の耳に『法華経』を噛
(か)まされるより、もう少し愚者の世界で迷っていたい気もしますが……」
 「じゃァ、せいぜい迷ってパチンコ屋の売り上げに協力をすることだ」
 「しかし、それもまた悔しい気がしますねェ」
 「それなら、迷いの矛先を他に探せばいい。もっと効率のいい、金の懸からないところで迷え」
 「何に?……」
 「自分で考えろ、それはお前が俺に教えたことだ」
 「考える前に、腹を何とかして下さい。腹が減っては戦
(いくさ)する智慧も出てきません」
 結局、輪の中を巡り巡って、堂々回りの果てに、ここに辿り着くのだった。やはり、私の忠告は無駄だったのか……と思うのだった。
 依存症中毒患者には何を言っても無駄であり、結局「豚に法華経」であった。

 今は、豚に『法華経』を唱えても、意に留めず、聞き流されてしまうのだろう。中毒とか、依存症というのが怕
(こわ)いのは、実に、人間の「迷い」に始まる。
 現代の世は、「迷い人」を多く見る。
 現世はかつてに比べて、迷い人が殖えたような気だがする。迷っていても、迷っていない振りをする。知らないでも、分った振りをする。そして思い込みを烈しくする。自分以外のものに責任転嫁をしながら自分だけを正当化する。その意味では、この世は“ろくでもないところ”であった。

 『法華経』というこの教典は、世の信奉者の多くは、分ったようは振りをして、実は非常に難解な経典であると言うことを思い知らされたのである。『法華経』は研究すればするほど実に難しい経典である。主旨が先ず分らない。
 この教典には効能書きだけが重い言葉を用いて、しこたま書かれている。しかし肝心な中身の薬用部分は、何一つ論じていない。どういう効能が生じるか書かれていない。だからこそこの教典に、非常に興味を示したのである。

 要約すれば、この経典には効能書きだけがあって、肝心な中身の薬がないのである。薬は何処に消えてしまったのだろう。
 つまり、この教典は、「中身は白紙」になっている。
 あたかも白紙委任状か、白紙手形である。白紙ゆえに、何でも好きなように解釈出来るのである。本当の怕さは、この解釈にある。

 それは読んだ者が、勝手に想像を巡らすことで、この教典の威厳を保っているようにも思われる。もしこの経典が、他の仏典のように書き過ぎていれば『法華経』の威力は忽
(たちま)ち失われよう。
 『法華経』が能書きばかり書いて、実質的な中身を省略していることこそ、『法華経』の『法華経』たる所以である。これにより仏教徒の創造の世界が広がり、威厳を保っているのである。釈尊も巧い策を考え付いたものである。

 南無妙法蓮華経……。
 妙・法・蓮・華・経の五文字は、何故だか知らないが、宇宙の「五題目」に入っている。そしてこの五文字を分析すると、五行の相尅に配列すると、妙
(木)・法(金)・華(火)・経(土)の四文字と蓮(日蓮/水)の題目となる。
 だが、妙・法・蓮・華・経の五文字が、なぜ相尅配列の妙・華・経・法・蓮に並べたのかは不明である。

 五行は「五気」ともいう。木・火・土・金・水は宇宙のご元素を指すのである。
 南無妙法蓮華経……が奇異なる波動として、宇宙の根幹を揺るがすことは疑いないようだ。

 その証拠に、かの巨人と謳
(うた)われた霊能者の出口王仁三郎(でぐち‐おにさぶろう)が、法華経信者で国家社会主義者の北一輝(きた‐いっき)の題目の響き、その凄さを耳にして、《なんと凄いやつよ……》と敬意を表したように、また、満州事変の首謀者で世界最終戦論を唱えた石原莞爾(いしわら‐かんじ)が、なぜ法華経信者であったか、更には詩人で童話作家であった宮沢賢治が、なぜ法華経に帰依したのか……それを考えずにはいられなかった。

 また彼らの感性は、妙・法・蓮・華・経の五文字とともに……、果たして宇宙の波動とともに共鳴していたのではないか……と考えさせられる。またこの五文字の中には『般若心経』とはことなる波動の威力はあったのではないかと思うのである。
 それを日蓮聖人が即座に悟り、折伏
(しゃくぶく)に執念を持たしたとも採(と)れる。同時に小乗と大乗に別れ、自力宗と他力宗で分離している。だが、なぜ仏教が分離したのか。それは謎である。

 昨今の仏教寺院は葬式専門業となってしまっている。一面に拝金主義が巣食っている。
 かつてのように奉仕もなくなったし、況
(ま)して自力宗の無一物や放下著も薄れた。地獄の沙汰も金次第を髣髴とさせつつある。その中で『法華経』だけが威力を失わずにいることは不思議なことである。だが、解釈を間違えばその限りでない。

 ただ、恐らくその真意は題目にも大きな有機的生命力の部分が宇宙の根源に繋がっていて、何かを現世に投げ掛けているようにも思える。
 しかし、折伏となると誰もが口を閉ざしてしまうのである。何故だろう。
 だが、法華経の真意は、いまもって謎のようである……。
 そんな思いをしながら、豚の耳に『法華経』が、進龍一への伝搬となっていたのだ。

 「よし、智慧を授けてくれたお礼に食わせよう。何が食いたい?」
 「なんでも」
 「それじゃあ、とびっきりの所に連れて行こう」
 しかし深夜である。とびっきりと言っても、ただこの時間帯に遣っている一膳飯屋である。
 私は、最近知った飯屋に連れて行ったのである。此処は深夜食堂だが、出る惣菜物が美味かった。
 もう少しで閉店と言うところだったが、看板までに何とか間に合った。
 時刻は、午前零時を優に廻っていた頃であったろうか。




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