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壺中天・瓢箪仙人 11

小径探歩……。そして径(みち)の示すまま行き着いた先に何があるか。
 しかし、そこに径があるのなら、行くしかあるまい。
 だが、これが曲者
(くせもの)である場合もある。
 人は時として、径に迷うことがある。歩いていて自分の行き先が分らなくなることがある。そういうときに、どうするか。
 何の事はない。最初の原点に戻ればいいのである。あとは戻るだけの勇気が有るか無いかである。
 だが勇気がなければ、先へ進んで迷妄の迷宮に誘い込まれる。


●無理解との格闘

 敵情視察前のことである。
 初日の第一日目は朝8時から、塾内では芋を洗うように、ごった返していた。これを繁盛の嬉しい悲鳴と取っていいのだろうか?……との懸念も拭えない訳ではなかった。確かにごった返していた。それは「芋を洗うが如し」である。まるで新商品の発売日当初のような混雑振り尾であった。
 初めて個別指導に参加する部外の生徒も、父母付き添いで来塾していた。そのために混雑していた。

 いつもより一時間前に塾を開け、学生アルバイト講師を遣って対応に当たらせていたが、遅々として捌ききれずにいた。
 それはあたかも、指導内容やその詳細説明に追われるなどして教室内は戦場のようだった。アルバイトの講師連中で説明や説得の用がなさねば、私がこの場の“右代表”として一々応対し、更には質問に関しても難解なものは、私が対応しなければならなかった。

 いっそこんなことなら、扱いに慣れている進龍一を、私の方が雇って、初日一日だけでも躱
(かわ)せばよかったと思ったが、そうすればこの繁盛が筒抜けになる。下手をすれば所場代が吊り上がるかも知れない。
 ここは秘密厳守で、私一人が切り抜けた方が利口と考えた。然
(さ)もなければ、裏をかいたことが見破られる。奴は狐のように賢い。私は一ランク落ちる豚と同居した狸である。
 狐は狸の上を行く。その懸念があった。秘密は堅守するに限る。

 この時代、個別指導方式に不信を持つ親や、入塾希望の生徒も依然と多かった。まだ個別指導は半信半疑の媒体であった。
 特に「個別指導」というイメージと言葉自体のニュアンスから、これを“個人指導”と解してしまう。そのため誤解も生じていた。
 「個別」と“個人”は明らかに違う。しかし、これを現代でも区別がつかない愚人が多い。今の世においてである。時代は進んだように見えて、人間の思い込みは依然、引き摺ったままである。

 春期講習は混乱の中で幕開けした。
 第一日は混雑と混乱の中で始まった。
 同時に混乱の暗雲が垂れ込めていた。憂鬱を暗示させる暗雲である。
 特に有名私立を受験する今年度4月よりの中三生や大学受験をする高三生や、今年度の受験に失敗した浪人生らの質問は、まさに講師の独占であり、難解なものを持ち込んで、講師に説明と解答を浴びせ掛けるという誤解が生じていた。
 この誤解を解消しない限り、その後の運営に大きな障害を来すのである。
 またこのように迫られれば、これがなかなか厄介なことであった。受講生の大半は、個別指導の意味をまだ理解していなかったのである。

 更に講師の面子
(めんつ)というものがあり「解けない」などとは絶対に口にできない。強気で押し通すのが個別指導の講師の秘訣である。分らないでも解けないでも、絶対にギブアップしてはならない。ゆえに講師が難問に齧(かじ)り付いてはいけない。
 だがこれは、一種の矛盾点であった。
 指導側に家庭教師的なオールマイティーの要素がなくてはならず、一人で全教科をこなす学力が居る。専門教科別では話にならない。そのために講師間の教科専門別に時間配分が必要になってくる。
 そして、万一難問を突き付けられた時には、“お鉢”は速やかに解ける講師に廻す必要があった。専門教科でも同じである。講師は難問に齧る付かない。解る講師に任す。

 私も、塾や予備校の講師をこれまで多く見ていたが、特に県立などの公立高校から国公立大学へ進んだ学生は、数学一つ挙げても傾向の違うものは解けない。
 北九州に居るとき、九州工業大学
(国立)化学科の四年次の学生講師(県立高校から国立大学の経路)に、有名私立中学の数学の問題を解かせたら解答率は30%程度だった。
 これを大学の科目単位の評価で言えば、優
(A)・良(B)・可(C)のうちの、可(C)にも満たない赤点である。単位を取得するには追試を受ける必要がある。あるいは留年である。
 傾向が違えば、こうした格差が起こる。

 有名私立校特有の定理を知らねば分らない空間図形などは全く解けないのである。高校受験でもラサールや灘や開成の問題は、計算を除いては全滅であった。
 有名私立は定義や解法を知らねば解けないのである。
 英語でも中学生レベルで、日記を英語で書ける文章力を持っていないと、この種の学校の英語問題は解けなかった。公立学校出身者には規格外の難問であった。

 個別指導は志望校別に様々が志望校が入り交じる。その差が極端である。
 公立高校受験問題は教科書中心だが、有名私立となると教科書から規格外の範囲となり、私立受験の訓練を受けていない講師は全く歯が立たない。講師採用試験を実施したとき、有名私立校の受験問題に、真剣に齧り付き、頭を抱えて苦戦している教科書しか知らない国立バカ大生もいた。
 人間は往生際悪く、解らないことに齧り付く性癖があるようだ。諦めるべき時は諦めるべきであり、諦めないことにこだわるべきでない。
 だが、世の中には何事に対しても“諦めない”と言うバカの一つ覚えが罷
(まか)り通り、何でも諦めずに格闘することがいいように思い込んでいる風潮があるようだ。
 そして世の多くは、その他大勢がこの傾向にあり、齧り付きあ諦めて発想の転換をする才が無いように思える。

 当時私が指揮していた個別指導講師にも、一つに事にこだわり、拘泥し、発想の転換をするという才の無い“そこそこ大学”の学生もいた。こだわって諦めが悪いのである。要領を得ない新米講師は、難問に齧り付いて諦めないこの種のこだわりが烈しかった。
 この当時も、新米講師はこれを熟知していなかった。それだけ心身ともに疲弊する。つまり、そのプレッシャーが大変なストレスになる。個別指導の生みの親・佐々木氏が指摘したように、講師自ら考えることで疲れていた。
 世の中全体が、今日でもそのような“その他大勢”で動かされているのだろう。今日の日本人のストレスは、これと関連が深いようである。そしてその関連は多忙まで作り出してしまったのである。多忙とストレスは密接な関連があるようである。

 私が北九州でチェーン塾を展開している時は、難問は一人の講師が考えるのではなく、チェーン塾の講師を総動員して難問に当たらせ、まずファックスで各教室に送りつけ、数分後、何処かの教室から解答が廻って来るというシステムを作り上げていた。難問を考え続けても無駄であるからだ。

 それは北九州だけでなく、習志野の明林塾とも支援体制でネットワークを組み、ファックスを通わせて遣り取りをしていた。
 また北九州に居る頃、習志野には東京理科大数学科の数学マニアの学生アルバイト講師がいたから、この手の難問はこの講師が一人でこなしていた。
 彼は難問を突き付けられると矢鱈
(やたら)燃えるのである。難解な問題でも平均5分前後の即興で解答してくれたものである。こうした特殊能力者には、それなりの報酬を与えていた。
 かつてはそう言う時代もあった。それだけ人的資源も豊富だったのである。小規模ながらに明林塾グループはシンクタンク
(頭脳集団)を形成していた。

 ところが私は尾羽打ちを枯らし、平成2年9月半ば以降は殆どの財産を失い、わが身一つになっていた。特殊能力者もない。シンクタンクも失った。以降、私一人が全教科を人力で解決して行かねばならなかった。
 この年の春期講習は自分一人の人力でその解決に当たっていたのである。

 さて、難問を持ち込む生徒対策である。
 これには苦肉の策がいる。あるいは巧妙策と言うべきか、更には手抜き策と言うべきか。
 その間、解法を論じた参考書などを、もう一度研究し直すように命じるのである。
 何故なら簡単に答を教えては、それっきりになるからである。自分の頭で考えさせなければならない。その説明が、また一苦労だった。

 そこで進龍一の考え出した策は、『最初から答を見て勉強しよう』だった。
 しかし、これを嗤
(わら)う者は意外にも多いものである。愚者はこれを嗤うようだ。
 入塾説明会に来塾した生徒の父母も嗤う人が多かった。
 特に壁に張っていたこの一言のスローガンを見て、苦笑したり叱責する父母は少なくなかった。

 ある母親同志は「ねえねえ、これ見てよ。『最初から答を見て勉強しよう』だって。この塾の先生、バカじゃないの……」と影で嗤っている人も居た。
 私はこの種の母親を多く見て来たが、やはりこの種属は、この種属の世界に満足する所詮サラリーマンの女房であった。わが子もその程度であろうし、亭主もその程度の会社員なのだろう。
 またこの階級は、個別指導に対しては一番のトラブルメーカーだった。子供の成績が上がらないと難癖付けるのは、この階級が多かった。所謂
(いわゆる)「中の上」と思い込んでいる階級である。

 父子同伴で来塾した父親の中には「解きもしない前から答を見て勉強するとは……」とか「問題の答が最初から分っていたら問題の意味がなくなるじゃないか」などと罵倒したり、このスローガン自体を笑止千万と一蹴する人が少なくなかった。
 こうした父母やその子弟は「個別指導をインチキだ」と決め付け、悪評をばらまくスピーカーにもなっていた。世の中では、まだ依然とて“学校ごっこ”の一斉授業方式が支持されていたのである。

 しかし進龍一の頭の中は違っていた。奴を天才だと表するのは此処にある。
 それは、奴が無意識であったろうが、『最初から答を見て勉強しよう』は、分布層としては一番層の厚い「中の上」と思い込んでいるサラリーマン子弟は相手にしていないように思われたからだ。

 ターゲットとしては分布の上下に位置する、例えば「中の上」の上を行く、開業医とか、自営法律事務所の弁護士とか、裁判官とかそれに準ずる司法書士、公認会計士、更には会社役員、大学教授、国家公務員キャリアなどのランクであったように思う。事実、この階級の母親はこれを「なるほど」と感心したのである。
 また逆に「中の上」の下を行く職人や零細の町工場の経営者、商店主の女房連は「わたしにはよく分りません。総てお任せします」で、塾に任せてくれたこういう人達だった。つまり任せて、塾の方針に口を挟まないのである。

 ところが、「中の上」を自負する階層は夫婦共々、そこそこの大学を出ているケースが多い。あるいは多くはそれに準ずる二流三流大学の出身者である。
 「自分も大学を出ている」という自負が、個別指導の遣り方に楯を突くのである。それだけに遣り難く、煩
(うるさ)くて、直ぐにクレームを付けるのである。
 こう言う子弟は成績の向上が見られないか、下がるかの何れであった。親が邪魔するからである。

 奴は事前にこのことを見抜いて『最初から答を見て勉強しよう』をスローガンにしたのかも知れない。
 既に間接的には、父母自身の頭の程度を、この入塾テストの一文で行っていたのであろう。
 高校や大学受験は、生徒一人が頑張っても単独での名門校合格は無理なのである。親が理解し、協力する支援体制がいる。だが、親がこの程度であれば、既に受験自体を邪魔しているに等しかった。子供の受験の失敗は半分以上が親の責任である。
 そこでこの種のトラブルメーカーは排除する必要があった。親や子が塾を選ぶのではなく、塾が親や子を選ぶのである。自塾の合格率も下がるからである。これが塾生募集に大きく影響する。

 つまり、事前に篩
(ふるい)に掛けて、善良なる常識派という父母の思考を見抜いた上で、スローガンを揶揄した種属を、この時点で振り落としていたのかも知れない。
 サラリーマンはサラリーマン生活に満足し、その枠の中で生きるようにみえる。そして自分流の価値観を身に付け、その尺度で世の中を測る。100%の頑迷なる固定観念である。
 したがって柵
(さく)の中で飼い馴らされた家畜のようになってしまう。人間牧場の住人になる。住人なったが最後、その柵から一歩も出られない。
 今日の「社畜」という会社組織の運命共同体の中で生きる種属である。社畜に満足を覚える階層である。
 また社会全体では、一番多い中間階級である。

 更に、階級別に分析すれば「自力型
(自立)」と「他力型(一斉授業信奉者)」に分類される。
 また、親の思考構造は前者が放任型で、後者が干渉型である。そして奴が何れを欲するかと言えば、塾が遣り易いように任せてもらえる自立型と検
(み)たのだろう。
 塾に指導方針に干渉せず、任せてもらう自力・自立型でないと、生徒を伸ばすことが出来ないのである。
 一概に断定は出来ないが、その違いを奴は熟知していたように思う。

 要するに自分の理解者を求めたのである。その理解者はその他大勢ではなく、一人でも二人でもよかった。小数だったのである。その対象者を無言のうちに絞り込んでいたのである。目指したものはマイノリティー小数派だった。換言すれば先覚者である。世の愚人どもには受け入れられない悲哀を味わった常にマイノリティーに置かれた小数派であった。奴は、その少数派に先覚者的要素を検
(み)た。
 つまり対象者は、階級の中で最も多い中間層でなく、最も少ない上と下の層である。この層の中にこそ、先覚者は潜むと踏んだのである。
 吉田松陰然りだろう。

 明治維新も思えば、下級武士や貧農によって時代が動かされた。時代は変化し、激動の世にあっても生活に困らない中間層ではない。ハングリー層が時代を動かした。
 吉田松陰が相手にしたのは、高杉晋作のような上級武士か、伊藤博文
(俊輔)のような極貧の下級武士であった。高杉晋作の奇兵隊も下級武士か貧農や下級の町人の出であった。中間層は少なかった。中間層はどんな時代であっても、生活に切羽詰まっていないから、それ以上の向上を望まないのだろう。

 だが、これでは進歩の停滞が起こる。創造性の枯渇が起こる。
 奴は既に、これを懸念していたのかも知れない。
 今日の社会全体を見回せば、思考面においては進歩の停滞が起こり、創造性の枯渇が起こりはじめているように見える。
 今日のサラリーマンの多くが、本を読まなくなり読書量が減少し、また自分の頭で考えることをせずに、他人の人真似だけをして、それで満足する生き方は、自身の思考に停滞が始まったことを雄弁に物語っている。
 また世の中全体の流れを見ると、創造性が枯渇していく進行形のようにも思える。

 もしかすると奴は、そういう未来像を見越して、ある意味で、自由な質的な基本条件を追求していたことになる。広大な仕掛けの「迂遠策」にも思える。先見の明である。
 しかしあの時代、こういう策をいったい誰が想起し得よう。
 このように考えて行けば、歴史の中でも思い当たることが多い。
 多数ではなく小数だったのである。学校授業のように、その他大勢を平等の名を借りて、誰もが同じ一斉授業を受けるのでなく、個々人に能力に合わせた個別策を打ち出していた。それを想起し得た。
 換言すれば、次元の低い輩
(やから)とは事を構えず、無視する策を立てていたとも言えるだろう。
 まさに「帝王学」だった。

 現代では帝王学を“社長の学”とか“経営者の学”とか“権力者の学”とか言うようであるが、この見解は正しくない。真物
(ほんもの)の帝王学を追究すれば、「たった一人」を探し求める学である。君臨者は大勢はいらないからである。また船長は一人でいい。
 船頭が一叟の船に複数乗っていたら航路は定まらないであろ。指揮官は一人でいいのである。
 外野の発言的な、便所の落書き程度の言い放題言う、そんな手合いが幾千幾万、集まったところで本当の舵取りは出来ないのである。
 たった一人でもいいから手応えのある者が欲しい……。明確な判断を出来る者が欲しい。それが個別指導を通じた奴の考え方に反映されていたのかも知れない。

 要するにディスカウントショップのように、薄利多売を目的にしているのではなかった。大勢を相手にしているのでなかった。骨のある「たった一人」を相手にしていたのである。
 当時、奴は個別指導を「帝王学」として捉えていたようである。薄利多売を目指しているのではなく、たった一人の高級顧客を求めていたと言える。

 この図式は、その他大勢の全資産力と、たった一人の資産力が、ほぼ同等と検
(み)ていたのではあるまいか。ユダヤ的な発想である。
 それに今日の民主主義デモクラシーの掲げる「最大多数の最大幸福」というベンサム流の虚構も、共産主義と同等の虚構であることを見抜いていたのかも知れない。しかしこれに気付かないその他大勢は多い。現に今日の商業主義はディスカウントショップのように、功利主義へと誘導しているではないか。

 いま思えば、無意識であったにせよ、奴の凄い発想をしていたと思うのである。
 この発想は後に、私に大きな影響を与えた。
 私自身、わが流の過去に倣
(なら)って、かつての「門人制度」を復活させたからである。
 ちなみに、今日の「個人教伝」はこの意図を汲んでいる。
 私の感得するところは、大勢であるのではなく、心有る、ただ一人の、心の中に楔
(くさび)を打ち込めばいいのである。一子相伝における古来から伝統的な伝承法である。

 最初に解答だけが提示されていれば、その解答集に僅かな数行の解説と導き出された答に添う解法を、生徒は何とか自分の力で導き出そうと工夫を始める。これはまさに正解だった。
 この図式を、わが流の伝統的な伝承法に置き換えれば、道がそこにある。到達点への道標がある。
 そこに至るには、どう工夫して行けば、迷わずに到達出来るか?……の命題に対して、創意工夫し、自力でその答を導き出して行くという図式が浮上してくる。対策路の検討である。
 勉学法もこれに共通項があるように思える。

 私もかつて高校・大学時代、数学の難問など解く場合、答だけが提示されていて、そこへの誘導する解法があれば、どうしてこの答が出たか真剣に挑んだものである。答だけ見て済まさない。何故そうなるかを思索したものである。
 問題はその答に至る解法なのである。答に至るプロセスである。
 この解法法則を知るには、生徒が自ら自分の頭で考え、自分独自の境地を得なければならないのである。ここに賢者と愚者が別れるのである。
 答を見て終わりでない。答えに至るプロセスを知り、その結果答に辿り着かなければならない。
 世の中の人間選別の分岐点があるとするならば、この点であろう。問題が提起され、その答を如何なる手段で導き出すかである。

 当時は、個別指導と個人指導の意味が講師も生徒にも、よく理解されていなかった。両者の意味には大きな違いがあったが、それを理解せず、個別指導は個人指導のような錯覚が抱かれていた。
 つまり、講師は「自分一人の家庭教師だ」と思われていたのである。そういう錯覚があった。
 親もそう思い込んで、わが子を塾に通わせていた。それゆえ講師は、生徒から独占される対象物となっていた。

 こうした戦場の日々のような中で、私に執拗
(しつよう)に食い下がってくる何人かの生徒がいた。私はこの生徒達にほとほと困らされたことがあった。
 この内訳は、在塾生の中三生の女子と、もう一人も同じく在塾生で大学受験を見据えた高三女子、更にもう一人は部外から春期講習に参加した高二女子の計三人が、私に難解な質問をぶつけて悩ませるのである。要するに験
(ため)すのである。
 この三人は問題児だった。非常に遣り辛い相手であった。

 特に、私にとって問題児だったのは、秘めた志望校を持ち、大学受験を見据えた高三女子にはほとほと手を焼いた。進龍一の話によると、この生徒は東大理科
(類不明)一本の志望だと言う。
 また県立船橋に通っていて、学内では常に五番以内をキープしていると言う。遣り辛いタイプである。
 要するに講師の実力を上回っているのである。
 それだけに験すように鋭いところを突いてくる。まるで心の底の深さを測られているようであった。彼女は質問攻めで私を困らせた。途中で投げ出して怒鳴りたくなるくらいだった。
 この生徒を相手にしていると憂鬱になるのである。私の心の霧は当分霽
(は)れそうもなかった。



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