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壺中天・瓢箪仙人 4

巴先覚者は一寸先が闇の中を疾る。これは五里霧中どころではない。真っ暗な闇の中を疾走する。
 それだけに孤独が付き纏
(まと)い、あるいは周囲の無理解が纏わり付く。また、それは悲しみであろう。

 先覚者が人より一歩でも、一寸でも先をゆくということは、可視的世界では称賛に値する最先端を突き進んでいるように見えるが、闇の中を突き進むことは、往々にして非難の対象にされ、無理解の渦に巻き込まれ、誤解されて敵意を抱かれ、後ろ指まで指され、あるいはそれによって烈しい指弾を受けることもある。まさに疾走する悲しみである。

 しかし、また一方で、このまま指弾されたまま坐視するのか。流されるのか?……。
 こうしたことを自問自答しながら自らに問い続けるだろう。先覚者の孤独なる故にである。


●雉も鳴かずば打たれまい

 東洋哲学が思想的なる発祥の原点になったのは、孔子の『論語』の世界であろう。
 この世界は今なお、色褪
(いろ‐あ)せていない。未(いま)だに光沢を放っている。現代でも『論語』に学ぶ人は多い。

 『論語』は、殷や周の封建支配の中で「礼」として起こった。これが春秋戦国時代の社会の変化の中で、各地の王が覇者として天下に打って出る目論見となったことも事実である。歴史を検れば一目瞭然だろう。
 この「歴史を検
(み)る」ということに、当時は疎(うと)かったのである。迂闊(うかつ)だった。この検証の眼が欠けていた。そして検証能力がなければ、古人の考え方にも近付けず、ただ流れの浪費の中で右往左往するだけである。

 私は、孔子の『論語』の世界を夢想する度に、古代中国の春秋時代の中に思想が生まれて哲学的なる意味を持ち始めることの感銘を覚えるのである。中国の古代思想家には、澄んで濁らない眼の持ち主が多かったように思うのである。
 特に、孔子の一番弟子であった顔淵
(顔回)は澄んで濁らない眼の持ち主だった。
 『論語』を研究すれば、それがひしひしと伝わって来る。この点においてはソクラテスやカントの思想の感動するのと同様、この時代の戦国期の思想家の中にも多く存在したと思うのである。
 老子、荘子、孟子、荀子などを読めば、その中には濁らないものを感じ感動すら覚えるのである。

 そして私が特に心の掛かるのは、顔淵である。なぜ彼は極貧に甘んじたのか、そのことを探求せずにはいられなかった。
 顔淵は貧乏であることを少しも恥ていない。むしろ極貧に胸を張っている態度すら窺
(うかが)える。
 彼は裏店
(うらだな)住居で極貧の生活を送り、落ちぶれた暮らしをしていたのは、決して徳が欠けていたからと言う理由ではあるまい。そこには濁らない清らかなものがあったからである。そして、この世の構造を顔淵ほど、よく見据えた人物は居なかったのではないかと思うのである。
 つまり、この世は「ろくでもないところ」で、然
(しか)も善悪綯(な)い交ぜで、清濁併(あわ)せ呑む現象界である……、そのように顔淵は検(み)たのであろう。

 また孔子の弟子の原憲は、日本でも平安時代から清貧で知られた人物である。
 私は顔淵といい原憲といい、彼らは動乱の荒れ狂った春秋時代を、実に澄んだ清々しい眼で世の中を見ていたことになる。
 それはあたかも、質素倹約に励み、慎みを知り、かつフランシスコ・ザビエルは言ったように、清貧を旨としたのは、まさに顔淵や原憲の如しである。
 ザビエル神父は言った。
 「日本人にはキリスト教国民のもっていない特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、豪商と同等に尊敬されていることだった。清貧なる貧しさを、少しも恥だと思っている人はいなかった」という、まさにこの一節である。
 この神父は、当時の日本人の「清貧」さについて、驚きと感激の念を表している。
 しかし、これを知るにはその境地を知っていなければならない。

 物事は知らないと、自らを窮地に招くことがある。地獄の淵
(ふち)に引き寄せられることもある。
 私の場合は引き寄せられるばかりでなく、その淵から顛落した。奈落の底へと、真っ逆さまに落ちてしまった。これまで学ぶことを怠って来たからである。
 学ぶことは、単に知識を学ぶと言うことではない。
 知識を見識に移行させ、見識へと格上げする訓練である。その訓練法を、実は学ぶことによって養成出来るのである。この訓練法と養成法を当時は知らなかった。

 思えば、人生の転機である厄年まで、殆ど何一つ学ばず、安易に過ごして来たのである。このツケが、厄年を特異点
(シンギュラーポイント)として“どんでん返し”が起こったのである。これに掛かれば落ちる以外あるまい。真っ逆さまに顛落していく。確かに顛落途中は怕い。
 しかしドン底に叩き付けられて落ちてしまえば何の事はない。途中で感じた恐怖は一掃される。
 後は頭を遣って這い上がることを考えればいい。

 以降の生き方に、真剣味が生まれたのは、ドン底に叩き落とされて以降のことである。
 「進退此処に窮まれり」を感得し、物事を検
(み)る観察眼に余裕ができ、日々の食にも事欠く、ドン底生活に甘んじた時からであった。その時に検る眼が養われた。
 落ちるところまで落ちると、この困窮が物事に対する見方を正しく考えさせるようである。
 思えば、一色の価値観で人生を突き進んで来たように思う。価値観には種々あることを知らなかったのである。

 例えば、儒家の『論語』一色になってしまえば、他の墨家、法家、道家、陰陽家、兵家の思想を退けてしまう。これでは正しく学ぶことは出来ない。総てを知って、はじめて学んだと言える。
 一方だけに熱を入れて、他を食わず嫌いにしては、一色の価値観のみで人生を見ることになり、先の進路を殆
(あや)うくする。
 世には、いといろな価値観があることを知る人と、一つの価値観に囚われ、それしか信じない人とでは、現実の対応の仕方が違う。そして多種多様の価値観を知っていると見識が生まれるのである。
 この見識も、習志野に夜逃げして、進龍一の抱える厖大な蔵書を読み漁って読破した以降に知ったことである。同時に「学ぶ」ということも学んだのである。

 これが顕著になるのは、例えば孤立してしまった時である。
 孤立してしまった時に、一つの価値観しか知らなければ、もうその枠から出られなくなる。こういう生き方や、切り返しがあるということを知らなければ、一色に固まってそれから出られなくなる。

 発想を転換するには、多種多様の価値観を知っておかねばならない。
 自分は世の中の大勢とは異なる考え方を持っているが、孔子のみならず、その正反対の老子のような生き方もあるんだ……、こういう考え方もあるんだ……ということを、その場その時に応じて状況判断し、一つの思考に凝り固まらないことである。凝り固まらないことを「柔軟性」という。こだわって一つの価値観に囚われてしまうと、柔軟性を失うのである。
 頭の固さは、そこに元凶があるのである。

 その見方で、感得した現象が昭和61年
(1986)から平成3年(1991)に掛けてピークを迎えた平成バブル並びにバルブ経済崩壊までの51ヵ月間であり、それ以降に伴う世の中の急激な変わりようである。そこに時代の特異点が訪れた。これにどう対処するかが問われる時代が到来した。
 この年代までは、確かに忍耐を必要とした時代だった。
 ところがバブル崩壊後、これが突然変化した。忍耐否定の時代がきた。苦難回避の時代がきた。
 苦しみは耐えるものでなく、合理主義とその効率のよさをもって駆逐されるべきものとなり始めていたのである。忍ぶことより、如何に効率よく躱
(かわ)すこと、去(い)なすことに全力が注がれるようになった。

かつて山歩きをしていて、不思議な抜け殻(がら)に遭遇したことがある。石堂の中は神仏不在でありながら、なおも逆行するように願を懸けて期待を抱く現世ご利益の時代。
 それがまた、この世の奇妙なところである。

 果たして、石堂の中の御神体は何処に行ったのだろうか。何者かに持ち去られたのであろうか。あるいは御神体の効力を削ぐために石で塞いで封じたのであろうか。
 ある意味で残酷な光景である。

 本来、神仏が居る筈の場所に、神仏は等閑
(なおざり)にされ、叩き出され、ただ人間の欲望を願う“現世ご利益”だけが露(あらわ)になった。

 現代の世は神仏不在である。神仏が存在しているように映る神社仏閣においても、神や仏は不在の儘、商売上手な利権者によって運営されているだけである。
 神仏不在、そして現世ご利益……。
 何とも奇妙な組合せである。

 アルゴリズムによるデータ情報から弾き出された数値の数字に注目が集まり出した。
 これまでのアナログは見向きもされなくなり、デジタルのみに関心が集まった。映像中心の、本格的な
ネット時代の到来を告げたときだった。ここから急激な変化に加速度がついた。
 それは科学者や専門家と言われる連中が、間接的に政治に介入し、その意向や意見が、直接政治を左右する状況を作り出した時代でもあった。
 この時代より、フィクションと思われていた“サイエンス・フィクション”が現実もを帯びて来る時代への転機でもあったのである。
 私がドン底の環境に甘んじ、浪人生活に身を窶
(やつ)したのは、こうした急激な変化の時代であった。

 禍
(わざわい)は口より出(いず)る。
 無駄口やホンネの吐露は自分のみを危うくする。雉
(きじ)も鳴かずば打たれないのである。
 人生で失敗があるとすれば、口から出らものが多い。無駄口や無用に発言である。
 善意であっても喋り過ぎはよくないし、特に酒席での発言は気を付け、注意を払い、開放的な雰囲気に翻弄
(ほんろう)されてつい無駄口を叩くようなものなら、そこから身の危険が迫って来る。常に背景を読む訓練をしておかねばならないのである。
 裏側の察知である。
 しかし、一色に価値観に染まってしまうと、裏側から物事を検
(み)る感知能力に支障を来たし、言わないでいいことまで喋ってしまうことがある。

 人間の構造は表裏一体である。
 表だけでなく裏がある。裏まで見越す必要がある。これは自然現象も同じであろう。一方だけに気を捉われては行けない。裏の側面からも物事は観察する必要がある。
 また専門バカでもいけない。
 全体像を見逃すと、大きな落し穴に嵌まる。また、そうした仕掛けに足を取られてしまう。
 「雉も鳴かずば打たれまい」とは、まさにこれだった。
 そして、このことを明言したのは孔子であった。

 『論語』を読むと、師弟の問答が教訓として掲載されているが、『論語』も研究すると、孔門では二派に別れていることが分る。つまり先進派と後進派である。
 両者の違いは前者が人文学派もしくは精神科学派と定義付けられているのに比べ、後者は社会現象のみに眼を向け、社会全体を科学と言う体系で捉えて評すれば社会科学派と呼べるだろう。
 つまり後者の社会科学派と言われる連中は、大半が孔子に対して懐疑的な眼を持ち批評する者が多かったと言うことである。

 特にその中でも子游、子夏、子張らは、儒学における礼至上主義者であり、更に曾子に至っては、に三度三度わが身を省みるという人物で、外面的な礼より、内面的な忠恕の徳を重視した人であり、後進派の中の後進派で、また後進派を支配した人物でありながら、奇
(く)しくも先進派人文学派とした発展観を顧みている。
 そのために孔子の死後、後進派が有子を孔子の代理の師として立てようとしたとき、猛反対して遂に孔子の代理に有子を置くことが沙汰止みになったのである。この企ては完全に阻止されてしまった。

 ちなみに先進派とは、孔子が魯
(ろ)の政治家として活動した中年頃まで親しく接した人たちであり、顔淵(顔回)、子路、子貢、曾参(そうしん)らをいい、孔子の亡命旅行の遍歴にも付き合った人達であり、師とともに艱難辛苦(かんなん‐しんく)を舐めた経験を持っている。そのため師との情愛は一入(ひとしお)で、後進派にはこれが欠如していた。
 孔子の弟子の大部分は先進派、後進派ともに下級武士の子弟であったり自作農の出身者だった。また一番弟子と称された愛弟子
(まなでし)の顔淵は、陋巷(ろうこう)の一偶で貧乏暮しをしながらも天命を楽しみ、徳行をもって聞こえたと人物であった。ちなみに陋巷とは、貧民窟のスラムのことである。

 孔門には豊かな暮らしをしていた人は豪商の子弟だった子貢を除き、他は殆どが貧困者であった。
 中には後進の社会学派の一人であった子張は、ある日、孔子に対して「先生、一体どうしたら役人に取り立ててもらえ、多額の俸給に預かることが出来るのでしょうか。私はその道理が知りたいのですが」と、このように切り出している。
 礼を重んじる孔門ならば、実に無礼な質問であった。
 しかし、晩年の孔子である。既に円熟し、温良と評される人物へと進化していた。
 孔子は怒ることもなくこう応えた。

 「知識は見て且
(か)つ聞くと言う直接的な経験の上に成り立つと言うのは、常々私が論じているところである。しかし知識はそれだけでは駄目である。まず経験し、その経験から知識を汲み取り実際に言動に移さねばならぬのだが、君はそれを考えていない。言動つまり言行はその意味で重大な問題は潜んでいる。その問題と言うのは、多くのことをよく聞いて自分で疑わしいものと思うものは次々に省かねばならない。そして最後に残った重要と思える、自分の納得出来るものだけを残し、それを言葉少なく表現出来るようにならなければならない。
 言多くでは、焦点もボケよう。
 したがって言葉は少なく発表することである。言い過ぎてはならない。言い過ぎれば、禍が起こるからである。
 ところが、愚者はこれに気付かない。言い過ぎに気付かない。
 問題は此処にあるのだ。
 これは重要なことである。
 まず沢山読んで見て、聞いてみて、知ったうえで少しでも疑わしいものや不安を感じるものは省き、いいところだけを汲み取って最後に残った自分で本当に納得できたことだけを用心深く実行すれば、決して後悔することはあるまい。
 そうすれば発言に間違いはなく、過ちも起こらず、行動に後悔がないという人物になれば、自分から需
(もと)めないでも職には就けるものだ」(筆者解説)と、順を追って諭(さと)したのである。

 これが有名な『論語』
(為政篇)に出て来る「子張禄(ろく)をもとむるを問う」であり、これに応えて「子曰(しのたまわ)く、多くを聞きて疑わしきをかき、慎んでその余をいえば、尤(とがめ)すくなし。多く見てあやうきをかき、慎んでその余を行えば悔少なし。言尤なく行悔なければ、禄その中にあり」である。

 つまりこの回答の奥には、孔子が最も人間教育として重要視していた知識の扱い方を問題にしているのであって、換言すれば、知識だけでは役に立たないとするしている。知識は行いに発展させてこそ価値が生まれるのであって、知っているだけでは何もならないとしているのである。
 つまり、後にこの部分は明代に登場する『陽明学』の有名な「知行合一説」に発展するが、知行合一は何も陽明学の専売特許ではない。『朱子学』にも「知行論」は登場する。
 しかし、陽明学と朱子学とでは、格物致知の修養法が180度異なるのである。

 朱子学では、この解釈を自己とあらゆる事物に内在する個別の理を窮め
(格物)、後天的に得た知見を拡充(致知)した後に、究極的に宇宙普遍の理に達する(窮理)ことを目指すとした。
 一方、陽明学では、先天的道徳知としての自己の良知を十分に発揮
(致良知)し、それによって社会的な物事に正しく処する(格物)ことを目指すとした。
 つまり、陽明学では『心即理』の原動力として、「仁」に繋がる最短距離の道に至るとしたこの行動律を指し、顛沛
(てんぱい)の処し方を問題にしている。

 顛沛とは、咄嗟
(とっさ)の弾みなどで、躓(つまず)き顛倒(てんとう)することを言う。
 だが、仁者はこうした顛倒時にも、仁をなすと言うのである。更には、仁を違
(たが)えないというのである。このことについては拙著『陽明学的な生き方の模索』に詳しいので此処では省略する。

 則
(すなわ)ち、仁の背景には個々の生活のために単に知識と言う技術を身に付けただけでは本当の人間とは言えない。この段階では未熟としているのである。知識は経験を積み重ねて、それを見識としたところに、知識の大きな成果が出て来る。
 そのことを孔子は指摘したのである。
 そして自らの過去を振り返り、このように回想する。
 「自分は貧しい武士の家に生まれた。それゆえ少年時代の大半は生活していくための技術をあれこれと習得させられ、多能な人間になったが、多能でただ知っているだけでは人間の理想像としてまだ条件が整わなかった。人間は人として本当の人間になるには仁の実践が大事であり、この基盤は教養によって養われる。私は教養によって完成された人格者を世の中に送り出すことが私の教育の目的である」
(筆者解説)と語っている。

 要するに学問をするとはどう言うことかの根本を説いているのである。
 この説論は、今日の知識偏重主義とは大いに異なり、学問が記憶や暗記の学でないことを説いているのである。
 『論語』為政篇には「子曰く、君子は器ならず」であり、ここで言う「器」とは、個々の生活のために知り得た技能を指しているのだろう。技能は今日でいう知識を指す。
 そして同じく「子罕篇」には、子貢とある弟子での「夫子が聖人か、何ぞそれ多能なる」の問答に対し、これを聞いた孔子は「吾わかいとき賤
(いや)しかりき、故に鄙事(ひじ)に多能なりき。君子は多ならんや、多ならざるなり」と述懐していることによる。

 それにしても孔子の「多くを聞きて疑わしきをかき、慎んでその余をいえば、尤
(とがめ)すくなし。多く見てあやうきをかき、慎んでその余を行えば悔少なし」の一節の存在感は実に重たきをなしている。これを知るのと知らぬでは雲泥の差であろう。

 私自身の過去の失敗は、「言多く」のこの一点に懸かり、言い過ぎる「多弁」であれば身を危うくする元凶となる。戒めたいものである。
 しかし、これを知っているだけでは未
(ま)だ不足する。
 此処には知ることに加えて、言い過ぎの多弁を抑制する世の中の処しからが問題になってくる。多弁は愚痴に繋がるからである。あるいは愚痴のように聴こえてしまう。そして無駄な誤解を招く。

 例えば「朝三暮四
(ちょうさん‐ぼし)(列子黄帝)の話である。
 つまり、「猿回しと猿との団栗
(どんぐり)の遣り取りの話」である。
 『曰
(いわ)く、狙公(そこう)チョ(団栗)を賦(あた)へんとして曰く、朝は三にして暮れは四にせん、と。衆狙みな怒る。曰く、然らば則ち朝は四にして暮れは三にせん、と。衆狙みな悦ぶ』の話である。
 猿回しが猿に向かって、「朝は三つ、夕刻は四つ遣る」といった。すると猿は怒った。
 そこで猿回しは「では朝に四つ、夕に三つにしよう」と言った。すると猿は大いに悦んだという。

 結果的に見れば、一日に貰う個数は同じである。
 ところが、目先しか考えない場合は、これが分らない。
 朝に四個貰えば多いように感じる。しかし結果は同じなのである。違うのは早く多く貰うか、少ないかの違いであり、一日の合計は同じなのである。
 だが、老子流解釈ではこれで決着がついたのではない。
 問題は此処からである。
 朝は三つ、夕刻は四つ遣るといった。すると猿は怒った。そこで猿回しは「では朝に四つ、夕に三つにしよう」と言った。すると猿は大いに悦んだ。
 『喜怒を用と為す」である。
 一方は怒り、他方は喜んだのである。
 私たち人間界も、こういうことは日常茶飯事なる現象として至る所に起こっているのだが、背景には「人を欺く詐術」があり、この手法を用いて人を愚弄することはよく使われている。

 春秋時代、宋の狙公
(そこう)が、手飼の猿にトチ(団栗)の実を与えるのに、朝に三つ暮に四つとしたところ猿たちは少ないと怒り、朝に四つ暮に三つとしたら大いに喜んだという故事を挙げ、目前の違いにばかりこだわって、同じ結果となるのに気がつかないことして人間現象に詐術が用いられている誤摩化しを指摘している。
 つまり、問題はこれにある。

 老子流に解釈すれば、「天鈞
(てんきん)に休む。是(これ)を之(こ)れ両行(りょうこう)と謂(い)ふ」となり、孔子流のあたかも正義漢然とした者なら、「団栗の合計数は同じではないか」と指摘するところを、老子流の日々是れ好日という観点に立てば、一々詐術を指摘せず、人間には詐術的なトリックもあるが、それを種明して野暮なことまでするまいという考えに落ち着くのである。これが「両行」である。

 したがって孔子流の論語の世界では上り坂となり、下り坂になれば物の本質を観察して一定の固定化された先入観や価値観に振り回されないことが肝心とするのである。本質が分っておれば、迷ったら出発点に戻り、強いて異を唱える必要はないとするのが「下り坂の学問」なのである。

 老荘思想的に言う老人学は、下り坂では「総てを失って行く」というのが大前提なのである。あるいは減らすことであり「引き算」で行く。減らすことを大前提とする。
 若い時は足し算で構えれば巧くいくだろうが、老いれば減らず引き算で行く。
 「死を見ること帰するが如し」である。その準備をしておく。死計である。より善き死を得るために、死に恵まれることである。

 老子的な人生観を辿れば、下り坂では人を押しのけず、高位の上席は望まず、他人のポストを奪わず、老いては重職に就かず、平凡に去り際を準備しておくことである。
 引き算の「負の哲学」では、晩年の人生の退き方が問われるのである。

 人間には、健康で働く実働寿命が人生と大いに関わっている。いい仕事をして働こうとすれば、残念ながら寿命が壁となって、これを妨げるのである。肉体の衰えが健康を妨げ、実働寿命を縮めてしまうのである。
 歴史上では数えきれないくらいの実力者が登場した。
 しかし実力者と雖
(いえど)も、亡くなった日から逆算して、三年の期間を限定してみた場合、その大半の人は失敗していることが多い。かの豊臣秀吉然(しか)りである。
 肉体の衰えは如何ともし難く、衰えからボケを招き、判断を誤らせている例が多々ある。
 したがって「退き際」が問題になるのである。
 老子の学は、退き際の学でもある。減らすとは「退き際」を計算する引き算だったのである。

 「雉も鳴かずば打たれまい」
 これを頭に叩き込んでおくべきである。また知で学習するだけでなく、躰でも体得しておくことである。世の中は愚人に牛耳られている。人は総てが総て、みな聖人君子ではない。大半が愚人である。したがって愚人の誤解を招かないためには、多くを語るべきでなく、また「両行」を知っていれば、の日々是れ好日なのである。
 孔子流の生き方は人生の前半にしか通用しない。厄年を越えた後半に差し掛かれば、老子流の下り坂人生に入ったと感得しなければならない。



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