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壺中天・瓢箪仙人 3

現代の特徴は、何を見ても直ぐに、“かわいいー”とか“凄いー”とか言う衝動が起こるようである。だが、その持続時間の短いことは何とも哀れである。

 昨今を象徴する「無感動時代」を、地で行っているような気すらするのである。多忙が絡んでいるように思うのである。
 また、その背景にも“現代のあくせく”があるからだろう。
 現代人は何処に出掛けても、あくせくしている。あくせくしているのは、何も仕事だけでない。

 行楽シーズンになると、そこで楽しむレジャーですら、時間に追われてあくせくして足早に通り過ぎて行くことが現代人の行動パターンのようである。
 何処の行楽地でもシーズンになると、海でも山でも、多くの行楽客が群れて大盛況である。そして、そこでの行楽客の大群を観察していると、この大群の多くは、行楽そのものを義務化されてしまった生き物のように見えてしまうのである。

 行楽の目的は、「楽しみ」であった。楽しむことにあった。
 ところが、「楽しみ」ということを、ただ好きだから遣るというのでなく、それをすることが楽しいからということもなく、春が来たから行楽地に出掛けねばならないとか、夏が来たから海に出掛ける、秋が来たから紅葉狩りに出掛ける、冬はスキーに出掛けるなどの、シーズンごとの義務化の中で動いているのである。

 楽しみなど何処にもなく、好きで遣っている要素も殆ど見つからない。義務があるのみである。本当の楽しみを見逃してしまった観がある。
 表面だけを検
(み)て、体系立てて思考することを“科学的”などと称して、その中に隠れる肉の眼に見えないものを見逃してしまったのである。
 そして、有機生命体の隠れて見えない部分に存在する藕糸
(ぐうし)は、“科学的”なる言葉で、現代では一蹴されているようだ。
 見えない部分を想像して、楽しむ気風など失われてしまっているのである。



●瓢として陌上の塵の如し

 当時の私は、「下り坂の法則」を知らなかった。
 また「七転び八起き」などの言葉を信じ、誰もその恩恵に預かれると思い込んでいた。しかし天は、適用者とそうでない者を仕分けした。分別した。
 私は気付いたら、適応者に入れてもらえなかった。天は見放したのである。既に運は尽きていた。

 思えば、勢いに任せて我武者らに突き進んでいたように思う。転機を知らなかった。
 更に、その見分ける観察眼が曖昧
(あいまい)であり、然(しか)も疎(うと)く、肚(はら)の据(す)え方も中途半端であり、足が地に着いた下り坂の歩き方を知らなかった。
 下り坂なのに、ブレーキの掛け方すら知らなかった。
 上り坂と同じ調子で、目先の欲だけに捉われて突っ走った。これでは顛倒
(てんとう)するのは当然のことである。
 そのうえ価値観も間違っていて、金や物に対して、幸福とは如何なるものかも、よくは分っていなかった。あまりにも物質的な豊かさだけに捉われて、心の貧困を放置していた。
 また人生を刹那主義に捉え、人生そのものを真剣に考えていなかったと言うことになろう。
 「今がよければ……」である。暗愚であった。虚しい現実逃避に過ぎなかった。
 それは心の律し方の「心術」を知らなかったからである。

 更に、惜しむらくはこれまで不勉強であった。本当の意味での学問をしていなかった。
 大学は出たけれど……というその程度の学問であった。卒業単位の知識は確保していたものの、本当の意味での学問は殆どしていなかった。暗愚に過ごして来た。
 うろ覚えで、よく学んでいなかった。実学を、余りにも知らな過ぎた。失敗の要因は知らないことに因果関係を持っている。

 学問は人を変えると言う。まず、そのことを知らなかった。
 そして人間を変えるような学問でなければ、本当の学問でない。その自覚にも欠けていた。
 ここで言う「人間」とは、自分から検
(み)た他人ではなく、自分自身のことである。
 また、他人を感化しようと思うのなら、自分自身の変化が必要である。自分を変えなければ他人は変わる訳がない。これが則
(すなわ)ち「己を修め人を治める」ことであった。これが人間学の根本である。

 本当の学問は、今日に言う、単なる知識の範囲に留まるものでない。実学である。
 暗記や記憶する事に非
(あら)ず、実際に社会に応用出来なければならない。社会は人によって構成されているのだから、人を知らない以上、実学の実践はあり得ない。

 更に、実学と言うものは『荀子』にある「窮して困
(くる)しまず、憂えて意衰えず、禍福終始をして惑わぬ心術を養う」ものであり、更には陽明学の大家である大塩中斎(平八郎)の著書の『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』にある「英傑、大事に当たりては固(もと)より禍福(かふく)生死を忘る。而(しか)して事適々(たまたま)成れば則ち亦(また)或は禍福生死に惑う。学問精熟の君子に至っては則ち一なり」ということになる。
 社会に反映されてこそ、実学の価値を生む。
 つまり、肝心なる「修己治人の学」を知らなかった。世に言う『帝王学』である。この学に欠けていた。

 『帝王学』などというと、保守反動の塊
(かたまり)のように誤解されてしまうが、求められるものは素養や見識の学であり、指導者的立場にある者は、どうしても習得しなければならない「人間学」である。
 つまり人間学である以上、また「至誠の学問」と言うことになる。
 換言すれば、人間教育のための実学である。人間のみに適応出来る学問なのである。
 この学は、教科書の何ページに何が記載されていて、テキストの何ページに何が書かれているかを暗記する学でない。そう言う暗記や記憶の類
(たぐい)では意味をなさない。書かれているそれを理解し、知識を見識までに高めて、はじめて価値を持つ。

 かつて吉田松陰は、至誠の学問について次のように言った。
 「至誠にして動かざる者は未だ之
(これ)有らざるなり、吾、学問すること十年、齢(よわい)(また)而立(じりつ)三十歳、然(しか)るに未だ斯(こ)の一語を解する能(あた)わず」と。
 斯
(か)くして、私は42歳の厄年まで知らないことが多過ぎた。無知であった。そして直後、知らないゆえに転んだ。

 陶淵明の『対酒
(たいしゅ)』の一節には「 盛年(せいねん)は重ねて来らず 一日再晨(いつじつ‐あした)なり難し 時に及んでは当(まさ)に勉励(べんれい)すべし 歳月人を待たず」というのがあるが、もしこの一節の意味を熟知していたら、その後の人生も変わっていたであろう。禍(わざわい)は避けられたかも知れない。

人生根蔕無
瓢陌上塵如
得歓当作楽
斗酒聚比隣
盛年不重来
一日難再晨
及時当勉励
歳月不待人
人生に根蔕(こんてい)無く
(ひょう)として陌上(ひゃくじょう)の塵(ちり)の如し
(かん)を得えなば当(まさ)に楽を作(な)すべく
斗酒
(としゅ)もて比隣(ひりん)を聚(あつ)めん
盛年
(せいねん)は重ねて来らず
一日再晨
(いつじつ‐あした)なり難し
時に及んでは当
(まさ)に勉励(べんれい)すべし
歳月人を待たず

 『対酒』に記された大意は、「人の命の果敢
(はか)なさは、道に舞い上がる埃(ほこり)のようなものではないか。機会があれば楽しみ、一緒に酒を飲もうではないか。今日一日の事は、再び明日同じものが巡って来ないのだ。したがって、この時期にあっては、楽しむべき時に楽しみ、勉強すべき時に勉強をしなければならない。歳月というものは、決して人間が老いて行くのを待ってくれないものだ」という、人生の飄々(ひょう‐ひょう)と流れゆく現実を述べている。

 時は“飄々と流れゆくもの”である。それに、人間は「俟
(ま)った」を懸けることはできない。遵(したが)うしかない。時は、時々刻々と流れて行くだけである。
 人間の力では、時の流れを覆すことが出来ないからである。
 だが、人間はこれを深刻に考えない。
 後先を考えず、ただ「今がよければ……」という刹那主義で、その日暮らしを企てる。
 つまり、そこが殆
(あや)ういのである。
 未来展望がないところに、自分の未来を取り逃がしているのである。それでは「人生の計」が無いことになる。

 また、宇宙の法則ですら甘く考え、見逃してしまうことがある。厳然たる法則を無視して、その先きに何が期待できよう。このように思考が短絡的になると、社会の側面に渦巻いている牽強付会
(けんきょう‐ふかい)に奔ってしまう。屁理屈を捏(こ)ねて都合のいいように解釈してしまう。
 これでは道理に合うまい。当時の私はこの事を甘く見ていた。

 例えば、夜の太陽の位置である。
 太陽は、夜、果たして何処に居るのか?……。
 これを真剣に考えたことがなかった。
 安易に知らずに過ごし、あるいは聞き逃し、見逃していた。真剣勝負での真剣さが欠けていた。生きる根本を考えていなかったのである。また、人間だ大自然の一員であることを知らず、天より生かされていることすら考えてもみなかった。人間は自分で生きていると思っていた。謙虚さや畏敬の念に欠けていたのである。
 したがって太陽の存在すら考えていなかった。

 太陽は夜になるとどこへ行くのか。
 夜、太陽は東に行くのでもなく、また南すら行かない。
 では何処に行くのか。
 この命題すら何一つ考えなかった。多忙と言う理由で、日々を浪費して、安易に過ごしていた。それに意味あることなど、思ってもみなかった。
 だが、此処に重大な意味があった。

 夕方の陽の入りに伴い、人間の眼には西に沈んだように映る。そして、再び太陽を見るのは翌朝の東側である。その間、太陽は何処に居たのか?……、見えない夜は何処に居たのかである。これを考えたことがなかった。この知らないことの罪は大きかった。
 実は北に居たのである。夜の太陽は北に居た。
 そのことを考えようとしない人間は、夜の太陽の位置すら知らないのである。それはまた、否定出来ない事実である。大自然の現象である。それすら考えることがなかった。

 しかし人間は、昼間は太陽を頭上に頂いて生きている。太陽を頭上にして、生きているから夜の太陽の位置は?……などとは考えない。その居場所すら考えないのである。考えれば、これ自体が見逃しである。
 それは太陽が夜間、何処にいるかを考えないからである。昼間、太陽を頭上に頂きながら、夜は太陽に位置を知らないから、自らの頭は何処に位置していいか分らないのである。問題は此処にあった。

 道理から考えれば、昼間、頭の位置を南天に向けていたのであるなら、夜は頭の位置を北に向けて就寝するのが本当ではないのか。太陽とともに起き、太陽とともに寝るならば……。
 就寝する時は、頭は北向きで冷やす位置。足は南向きで温める位置。
 北枕の位置こそ、真だった。
 だが世俗の習慣として、北枕を嫌う慣
(ならわ)しがあり、これを不吉だとしている。また死者の枕の方向だとしている。
 この慣しは、釈尊が涅槃
(ねはん)のとき頭北面西(ずほくめんさい)だったことに習ったとされる。
 果たして北枕は不吉か。

 だが、これが逆になって反対向きにすると、自然の法則からは外れることになる。摂理とは逆行することになる。世俗で信じられている一般的な慣しには、念仏的な魔が入り込んだものが多い。西方浄土の浄土教的である。
 また、方位は九星気学の弊害も多い。鬼門なども、この最たるものであろう。

 しかし、逆行して摂理から外れると、悪しき不幸現象が起こる。不幸現象の多くは、夜、生成されることである。
 病気、ストレス、不和、貧困、不穏、災禍、事故や事件などは、夜に作られる。一種の知らないことへの罰として現象化する。現象界は相対世界である。相対するものが存在し、それが現象として事象を生じる。

 また病気の中でも、南北が逆転すれば心臓病、種々の内臓疾患、神経疾患などであり、神経疾患には中風が挙げられる。脳に関する血液不全状態や不眠症や、また理由が釈然としない不定愁訴などもある。それらは夜作られたものである。夜の太陽の位置を知らなかった罰である。

 生活の行動障害にも、事業の不振や中途挫折、家や血統断絶による没落、種々の事故や事件などであり、これが人生を起きている間の昼間だけと思い込んでしまったところに問題があったのであり、夜の太陽の位置を考えもせず、実はこれが人生で大きな意味を占めていることを知らなかったことに始まる。
 昼間の活動の裏付けは、夜に就寝の熟睡度の反映であると言えよう。そして人間の行動には、常に太陽は頭上にあることを求められるのである。
 これを知ったのは随分後のことであった。
 そもそも当時は自然の摂理すら見逃している観があった。

 それゆえに肝心要の人体構造にも眼を向けることがなく、ただ飽食の時代にあって、誰もが美食に貪り付いていた。何でも食べれば、それがエネルギーに変換され、行動力になると信じていた。特に食肉はスタミナの元と信じていた。
 だが、これが違った。

 俗世には、「酸性食品はよくない」という俗信が罷
(まか)り通っている。肉も酸性食品なのでよくないという。よくない理由に、肉はコレステロールを殖やすという俗信がある。
 しかし不思議なことは、「よくない」と言われながら、肉はスタミナの元という考え方があって、それが信仰化し、然
(しか)も「多少マイナス面があるにしろ、スタミナを付ける方が先決だ」と思い込んでいる矛盾が存在していることである。
 この矛盾の最たることは、そもそも人体と言うのは秩序だった働きをするからである。不規則に動いているのではない。

 つまりこの秩序の中には、血液を酸毒化しておきながら、コレステロールの増大に作用し、また動脈硬化を引き起こす一方で、躰にスタミナを付けるという矛盾した作用は起こらないのである。
 スタミナが付く条件は、血液が生理的中性
(弱アルカリ性)である限りにおいて図られるのである。
 当時の私は矛盾の中に身を置いていた。
 特に肉や鶏卵、乳製品や肉加工食品などの動タンパクを好んだ。
 このために血液は酸毒症状態
(アシドーシス)となり、酸毒を中和するために体内のミネラル分が無駄に消費される事態を招いていたのである。
 これは老廃物を体内に蓄積させる愚行であった。運気も、これでは失速・減退しよう。必然的な結果を自ら招いていたのである。

 また思考力にも落度があり、考える力に欠けていた。
 物事の深層を見抜く洞察力も疎かった。目先の欲に追われて、短絡的に奔り過ぎた。物事の見方が近視眼的であった。
 物事を短絡的に捉え、考え方が単細胞的になり、皮相的な見方しか出来なくなるのは、長い間に蓄積された動タンパクの仕業
(しわざ)であり、酸性思考に毒されていた。こうした一面が安直なる挙動に至り、失敗した元凶であった。これにより、本来の正常な生体が狂ったとしても当然の成り行きであった。
 そして、このような狂いの進行は、人間としての「徳」も喪失させているのであった。

 徳の無さが愚者に転落させ、人望が離れて行く元凶を、自らで作り出していることに気付かなかったのである。要するに、自己点検が出来なくなっていたのである。
 そこに一切の見逃しが派生していた。悪いことが度重なる元凶であった。

 東洋哲学は生まれるべきして生まれる運命にあり、それは東部ユーラシアの空間概念が儒家、墨家、法家、道家、陰陽家、兵家の思想の多様性を生み出したことである。これは単に、思想の祖となった思想家の考え方の違いだけでない。
 そこには原理原則や思想の背景は異なっていても、その裏に潜む「藕糸
(ぐうし)」のあったことを見逃していたことである。こうした学を、知識として記憶しようとしたところに間違いがあった。

 藕糸は蓮華の裡側
(うちがわ)の根茎が繊細な糸となって地下まで伸び、その部分は決して肉の眼では確認出来ない。何処に通じているか分らない。
 しかし有機的結合を為
(な)ている。それが生命体の「隠れた部分」であった。
 この隠れた部分を洞察する能力に欠けていたのである。そこに見落としがあった。当然裡側を読める訳がない。裡側を読むには、裏や奥を洞察し、その深層部を見抜く力が必要である。

 また隠れた部分が、有機的なる生命体であることを見逃していた。単に、表面に顕われた性善説、あるいは性悪説の体系的な相違だけではなかった。その鬩
(せめ)ぎ合いではなかったのである。深部に気付かず、最も一番肝心な「藕糸」を見逃していたのである。その存在を見逃していた。
 また、歴史から学ぶことも欠けていた。
 なぜ思想が派生したのか。
 そういうことも根本的には考えてもみなかった。此処には人間に思考の原点があったのだが、表面だけを検
(み)て、暗記のレベルで済ませてしまった。此処に大変な手抜かりと、見落としがあったのである。

 こう言う見逃しがあっては、結局「運」も働くまい。
 何事も努力し、体系立てて正当なる手段を踏まなくては、「いい思い」にありつくことは出来ない。いい目にも遭
(あ)わない。
 そして、よくいう「ついてない」という言葉もよく考えてみれば、当世風の表現である。
 「ついてない」は、自分のすることを遣らずに棚上げして、起こった結果を悔やんだり、不都合が生じたことに対し、ただ運だけの所為
(せい)にしてしまう。
 小人
(しょうじん)・愚者なら、それを論(あげつら)って責任転嫁をする。
 これは明らかに自分のするべきことせずに、責任転嫁をした態度ではないのか。
 こうした態度や姿勢で、天は働きようがなく、結局、他力一乗は作動しなかったことになる。

 それを歴史に中で検
(み)れば、私は直ぐに「ミッドウェー作戦」での日本軍の大敗北を連想する。この大敗北は、日本史上に名高い「白村江(はくそんこう)の戦い」以上の大敗北と言われる。
 663年、白村江で日本ならびに百済連合軍と、唐ならびに新羅連合軍との間に行われた海戦であり、日本は三年前に滅亡した百済の王子豊璋を救援するため軍を進めた。
 ところが強力な唐の水軍に惨敗した。このため百済は完全に滅んだのである。

 だが、ミッドウェーでの日本軍の敗北は、これを上回る惨敗だったと言う。
 これにより日本の運命は悪化一途に大きく傾くことになる。確かに運は左右されていたであろうが、戦いと言うものは、戦闘時刻に雲が出たとか、雨が降ったとか、命令伝達が不十分であったとか、視界が悪かったなどのちょっとしたものに左右されて勝負が決するものである。それが決定的になる。

 ところが、運は確率から言っても、敵味方五分五分なのである。
 正攻法では勢力数が多く、物量に勝れ、訓練が充分で、体力があって、然も士気が上がって、そのうえ情報分析に長け、未来予測が正確だった方が勝つ。それが一つでも劣っていれば、戦っても負け戦を強いられ、惨敗の結果を招く。
 したがって、「運が悪かった」とか「ついてない」は責任転嫁といえる。

 何かにつけ「ついてない」という言葉を吐露
(とろ)すれば、それは出た結果を予測出来ず、努力しなかったことに他ならない。
 また、それに凝
(こ)り固まると、「運命は変えられないもの」となってしまって、自暴自棄に陥ってしまう。運命は確かに変えられない部分もあるが、それと同じ量だけ、変えられる部分も残されているのである。それを探して努力し、努力する他力が働いた後に「他力一乗」が働くのである。
 当時私は、「努力する他力」すら知らなかった。知らないことが多過ぎた。
 以降、真摯に歴史を学んだのも、大失敗して習志野に夜逃げした後のことである。



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