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壺中天・瓢箪仙人 2

人は幸福を探して人生を旅する。
 だが、一切の幸福の源泉は自分の心の内にある。外に無く内にある。
 幸福の出発点の原点は、常に心の内にある。心が幸せの出発点であるからだ。
 したがって、それを自覚できるか、そうでないかに懸かる。
 だが、幸せを外に追い求めても、そこには物としての価値観しか転がっていない。

 ゆえに幸福というものを外に見るか、内に見るかで違ってくる。
 幸福を外に見た場合、それは物や他人であろう。また、内に見た場合は、心的なもので、自分自身である。自分について知り、自分が何者か探求してみなければならない。
 自分が解らずして、外に「幸せの何か」を追い求めても、外にはただ空虚があるだけである。


●進退此処に窮まれり

 悪い時には悪いことが連続する。
 物事は一旦悪い方に偏ると、悪い方へ悪い方へと傾いて行く。最悪現象は連鎖する。
 また、いいことが連続すると、反動が起こり、好事は一挙に魔に魅入られ、悪いことへと転ずる。

 「好事魔が多し」と言う。いいことの裏返しである。
 いいことには魔が潜む。
 悪いことの前兆に中には「有頂天」と言う魔が潜んでいる。
 幸先のいい滑り出しは、いい気にさせ、有頂天に舞い上がらせ、順風満帆は人間を思い上がらせ、そのためにやがて反動が起こる。しかし舞い上がっている当事者は気付かない。
 人を見下させ、得意絶頂に舞い上げるものである。こういう時にこそ、魔は忍び寄って来る。
 私はその魔に魅入られ、「最早
(もはや)これまで……」という断念せざるを得ない、絶体絶命に追い込まれたことがあった。

 悪いことは連続する。途切れがない。
 魔が取り憑
(つ)いた最悪の事態は途切れず連鎖する。そして、一旦これに取り憑(つ)かれると、如何なる人物でも、これから逃れることは出来ない。
 正面からもろに被って、その悪因縁を果たして行く以外ない。そういう不運が襲えば、それを被らなければならない。逃避は難しい。逃れられない。

 自業自得と言う自分の過去の仕業
(しわざ)が、巡り廻って、あるとき突然吹き上がり、魔とともに押し寄せて来ることがある。
 私が、過去の悪因縁をもろに頭から被ったのは、平成2年9月のことであった。
 二進
(にっち)も三進(さっち)もいかなくなり、進退此処に窮まれり……という最悪の事態に陥ったことがあった。

 人間の経験する不幸には行き詰まって困窮し、迷いに迷って、窮して窮して、明日自体を不安に感じ、もうどうにもならないと苦悩するときがある。悪い時には、悪いことが連続するものである。
 「もうこれで終わりか」と、最後の時を覚悟しなければならないことがある。そして、これを覚悟したら最後でない。まだ続く。
 「これでもか、これでもか」と連鎖する。
 墜落しながらも、乱高下を繰り返しながらも、それが中途半端であるために、これがまた怕
(こわ)いのである。

 特に、その怕さを感じるのは、これまで物質的な恩恵に預かり、便利で豊かで快適な生活に慣れて来た人ほど、その怕さは異常に恐ろしいものである。白黒のはっきりしない、中途半端な怕さであるからだ。
 白黒ははっきりしないのは怕いものである。
 そして本当に怕いのは悪いことが連続するのでなく、悪いことを悔
(く)やむ、その中途半端が行けないのである。怕さの元凶である。中途半端が怕さを増幅するのである。

 もし職を失って貧乏になったらどうしよう……。
 あるいは会社が倒産したら、これから先の生活はどうなるのだろう……などの怕さであり、恐れているものは貧乏なのである。これが貧乏が正体だったのである。それも中途半端な貧乏である。最下位の底辺の“ドン底貧乏”ではない。

 過保護に慣らされ、贅沢が当り前と考えた物質的に恵まれた生活をしてきた人は、貧乏を物凄く強く感じるものなのである。その豊かさなども極上の豊かさであれば申し分ないが、中途半端な、今日で言う「中の上」的な豊かさの恩恵に預かって生きて来た場合の“並み程度”の生活である。
 この種の生活を維持するための格闘は、そもそもが不安定で浮動性の多きものであるから、その不安定こそが恐怖を増幅してしまうのである。

 つまり、背景には不安と心配で煽
(あお)られる現象が控えていることである。
 この環境は経済的基礎体力が完成していないことである。
 そこで子は「もし親が死んで貧乏になったらどうしよう」などの不安と心配が付き纏い、親は親で、「もし会社が倒産したり、リストラされたら今後家族をどうやって喰わせて行こうか」などと不安に駆られ、そういう怖れと焦りばかりが降り積もるのである。
 つまり“恐れるものはみな来る”の在
(あ)りもしない明日の恐怖である。
 「もし」の恐怖が、一種の脅迫観念化しているのである。まだ来ていないから、また怕いのである。
 それはまた、中途半端であるからだろう。完全な怕さでもないし、また枕を高くして寝られる安心でもないからだ。

 ところが、実際に会社が倒産し、持ち家やその他の財産なども四番抵当まで設定されてしまえば、意外にも肚
(はら)は据わるものである。
 借金も莫大となり、取るものがあれば皆持っていけくらいの落ちるところまで落ちれば、意外と落ち着きが出て来る。それ以前のビクビクした恐れがなくなるからである。

 啖
(く)うにも困り、着る物にも事欠き、塒(ねぐら)の確保もままならない状態に顛落(てんらく)しまえば後は借金が山のように降り積もろうと、意外にも平気になるものである。怕さを感じるのは、落ちるところまで落ちない場合である。
 中途半端に落ちてしまうと、まだ下があると思うから、そこが怕いのである。つまり、下の怕さを想像するから怕いのである。

 本当は貧乏の辛さも、気楽さも、これを経験してみなければ分らないのである。
 ゆえに“恐れるものはみな来る”の脅迫観念に攻め立てられて、それが心の中を占有してしまい、その怕さが何倍にも増幅されてしまうのである。
 しかし、実際に経験してしまえば、その怕さは消し飛ぶ。後は気楽になるのである。

 中途半端に豊かであるとか、中途半端に貧乏であると言うのは確かに怕いものである。
 だが、土地家屋だけでなく、調度品や衣類まで、総て抵当設定がなされているとなれば話は別である。
 街を歩いていても、抵当物件が歩いているとなれば、逆に肚
も据わって来て、これ以上失う物がなければ何も怕いものはなくなり、気楽になるのである。

 ところが昨今のように、永久に経済成長をしなければならない自転車操業では、やがて破綻
(はたん)を招く恐れ出て来る。それが、いつ恐慌に変化しても訝(おか)しくない。そういう変化を前に、特異点(シンギュラー・ポイント)に突き進んでいる現在進行形では、この状態が中途半端であるだけに、実に怕いものである。肚の据えようがないからだ。
 肚
(はら)が据わっていない限り、まだ来てもいない明日のことを悩まなければならない。この中途半端な怕さでは、物事に対して困窮する実体を正しく伝えることなく、思い込みに奔(はし)らせる。それを考えると、老後の生活設計まで不安を呼び、未来に危機感を感じ、心配の種が殖えるのである。

 だが、一気に顛落してドン底に叩き落とされても、総て最悪と言う訳でない。
 最悪と言う恐怖は、まだドン底まで到達していない状況下で感じるもので、一旦底辺のドン底まで落ちてしまえば、本当に気が楽になるものである。はじめて肚も据わって来る。

 私はこれまでに会社を二回潰したことがあった。倒産寸前は実に怕いものである。
 既に決着がつきつつあり、経営破綻は確実なのに、「まだ何か手がある……、奇手がある……」などと考えてしまうと、それに縋
(すが)ろうとする反面、「やはり駄目かも知れない……」という、相半ばする中途半端が襲って来て、これに翻弄(ほんろう)されるのである。これは実際に経験した経営者でなければ分からないものである。希望的観測に一喜一憂するからである。

 雇用主は、雇用者を一人雇っているだけで、その家族を含め、約四人の生活を見る責任が生まれる。その責任を果たしてこそ、経営者は経営者として認められるのであり、喰わせることが出来なければ、その資格を失う。
 そのために経営者も、そのことのみに不安に駆られ、それが危機感になったりもする。労使共々、何らかの不安と心配と危機感を抱えつつ生きているのが現代社会である。そのうえ落ちるところまで落ちていない。不安や危機感はあっても、まだ落ちるところまで落ちていない。
 落ちても中途半端である。
 この中途半端が、実は物事を正しく考え、それを凝視するという観察力を奪っているのである。

 私は42歳の厄年を前後に、老荘的な考えに至らなかった。また老荘思想すら知らなかった。
 これまでは孔子の『論語』の世界に「活」を需
(もと)めしば、その「信」と「義」によって道は拓けるものと思っていた。
 ところが、それだけでは駄目だったのである。

 人生には前半と後半があり、後半を前半如きに振る舞っていては、後半の人生をしくじるのである。しくじりは、老荘の『思想』の世界を知らなかったからである。
 また儒家の孔子の学と、道家の老荘の思想が、正反対であることも知らなかった。
 更には、人生の折り返し点である「厄年」時点に、前半と後半の切り替えがあることを知らなかった。

 人生の折り返し点は、人それぞれによって多少異なっているようであるが、私の場合は、この転機が厄年を境に、前半と後半があってようである。そして、前半は孔子の『論語』の世界の実践であるが、これは上り坂で有効である。
 折り返し点の前半と後半は、単に肉体年齢だけを指すのでない。
 折り返し点を肉体年齢で言えば、おおよそ50歳くらいをいい、体力の衰えが明確になった時を指すようだが、運勢における折り返し点は、これより早い時期に遣って来て、大体42歳の厄年の頃だと思うのである。

 この時期に差し掛かると肉体の衰えから病気に罹ったり、事業などの失敗や、サラリーマンなら中間管理職でありながら上下関係が巧くいかなくなったり、リストラの対象にされたりする時である。このときに躓く人が案外多いようである。
 それは肉体年齢の以前に来るから、その障碍
(しょうがい)に掛かれば無慙(むざん)である。

 障碍に掛からないためには、生き方のコントロールが必要で、その運勢年齢に掛かる年齢になったら、スピードを落として減速することが大事である。此処に人生のカーブが存在するのである。このカーブを巧く曲がるには減速が必要である。今までと同じようなスピードでカーブは曲がり切れるものでない。猛スピードで曲がれば顛倒
(てんとう)するのは当り前である。

 また人生を登山に譬
(たと)えることがある。
 登山は頂上までの上り坂と、頂上からの下り坂に分けられ、上りと下りでは足の進め方が違う。下り坂に差し掛かって、上り坂と同じように力んでで我武者羅に前進していては、足に掛かる負担も大きいし、歩き方を誤ることになる。
 下り坂では減速が必要なのである。

 後半に差し掛かれば、これまでの上り坂の駆け上りを一新しなければならない。
 此処から先は下り坂のため、老荘思想的に小国寡民
(かみん)に徹し、欲張らずに、成長もあまり期待せず、減速を行い、速度を弛(ゆる)めなければならない。しかし私は、当時それを知らなかった。
 脅迫観念や危機感ならびに不安感に襲われ、まだ来ていない明日の事まで心配していた。
 商いは顧客のニーズに流される。顧客に応えることしか考えない。それだけに客商売は厄介な一面がある。

 商売上の客と言うのは、常に損得を考える。
 安いか高いか、いいか悪いか、更には好悪感、あるいはプラスかマイナスかなどで動く。
 言わば浮動体であり、時の流れに乗り、次々に変化する。それゆえ事業主は、常にそれに応えて行く義務が課せられ、都合よく応えることが出来れば、売り上げは安定する。
 企業の安定とは、いつ変化するかも知れない顧客の不安定要素の上に成り立っているのである。そのために種々の情報もいる。こういうものに対しても対策がいる。

 そして事業を継続して行くためには、前年度比と較べて成長している実績を必要とする。
 斯
(か)くして成長し続けることに意義が生まれ、上り坂を上るために躍進が必要となるのである。成長のために何処までも、「行け行けムード」を維持していなければならない。
 だが、ここに躓
(つまず)きが横たわっている。それは下り坂に入っても、「行け行けムード」では無理な面が出て来る。そのためには減速を必要とし、下り坂は「下り坂の法則」に従わねばならないからである。

 後半に差し掛かったにも拘
(かか)らず、駆け上りの上り坂と同じように突っ走る。下り坂で減速しなかったら、果たしてどうなるだろうか。
 当時はこのこと知らずに顛倒してしまった。躓きは、前半と後半の違いを知らないことにあった。
哲学・祖 原理原則 背景思想 行動原理 性説 識度
儒家(孔子) 礼の実践
(上り坂人生)
秩序重点 社会に介入 性善説
道家(老子) 無為自然
(下り坂人生)
小国寡民・唯心論(小さな政府) 清静・恬淡 性善説 ×
墨家(墨子) 反戦守城 兼愛・博愛主義・平和主義 非戦論に基づく守城防衛策 性悪説
名家(荀子) 儒・道・墨の習合と矛盾の解消 唯心論的世界観を唯物論に改造 中国古代思想の統合 性悪説 ×
法家(韓非子) 君権強化 法治国家・論理学体系の構築 賞罰の徹底 性悪説
陰陽家(鄒衍) 陰陽五行 五行(五徳)の消長で王朝交替 陰陽二気 ーーー
兵家(孫子) 戦略術 戦略・戦術を思想的に説く 総合的兵法 ーーー
筆者が厄年までの識度判定。厄年を起点に以前を前半、以後を後半とする。
 40%以上…◎ 30%前後…○ 20%前後…△ 10%前後…▼ 殆ど皆無…×
 

 前半の人生では躍進と成長ばかりを追い掛けて生きていればいい。つまりこの生き方は、上り坂を駆け上がるスタイルである。無知のままでの暗中模索である。
 しかし、駆け上がった先に頂上があり、その頂上に至っても、まだ上へと上ろうとすればそれは無理なことで、頂上から先は下り坂なのである。
 下り坂に弾みを付けて駆け上がるような足取りで進もうとすれば、それから先は深い千仞
(せんじん)の谷に向かう“逆さ落し”か、先が断崖絶壁になっているかも知れない。頂上から先、上ることは物理的にも無理なのである。

 したがって、下り坂では下り坂の進み方がある。その足遣いがこれから先、問題となる。上り坂とは違うからである。
 下り坂に差し掛かったのに勢いをつけて、上り坂の調子で駆け上がるような足運びで突き進めば、やがて足場を踏み外して顛倒する以外あるまい。
 顛倒するのは無知だからだ。「下り坂の法則」を知らないからだ。
 必然的に、転けるようにして転けたのである。
 転ければ起き上がっても、知らない以上、また転ける。転けを繰り返しても、七転び八起きとは行かない。その程度で済まされない。
 命を失う、ぎりぎりまで追い込まれるだろう。あるいは本当に失うかも知れない。

 人はそういう場面に迫られることが、生涯のうちに何度か遭遇することがあるかも知れない。
 しかし、その後の結果を予測することは人智では出来ない。
 出来るのは、迫られてどう対処するかの選択肢だけである。
 多様性の時代、選択肢も多様に及ぶだろう。そのどれを選ぶかは自分である。その場合に、ただ一つだけはっきりしていることは、未来予測で見通しを立てる場合、目先だけに囚われるか、長い目で検
(み)て全体像を捉えるかである。全体操を検る能力に欠ければ、則ち転ける。
 また知らなければ、進退此処に窮まるのである。



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