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因縁消滅論 3

●現代の善悪二元観

 聖書によれば、文明のはじまりは、アダムとイブの食べた「知恵の実」からと謂(いわ)れているが、また、ここから二元観を観念的な要素にして、それに振り回される俗事の常識が、人々の心に根付くようになったと云われている。

 そして人間が「知恵の実」を食べて以来、欲望と、そこから起こる競争心に支えられて、人類は各々の幾多の文明を築き上げてきたのである。この文明を構築してきた原動力が此処にあるとするならば、「文明」という怪物は、この文明というものの中にこそ、
「争うの種子」が封じ込められているとも謂(い)えるのである。

 争いは、二元観の世界からはじまっている。両者が対立することにより始まる。
 神と悪魔が対立し、善と悪が対立し、あるいは安心と不安が対立する二元観の世界は、「足るを知らない」無知の淵
(ふち)から出発している。
 現代を生きる凡夫
(ぼんぷ)は未だ、この無知の淵から這(は)い上がる術(すべ)も知らず、恐怖と迷いに悩まされ続けている。そこに対立し、対峙した者同士の、喰(く)うか喰われるかの攻防が始まる。喰われるのが厭だったら、自分が相手を啖(く)うしかない。喰らい尽くすしかない。こうなると血みどろの闘いとなる。生き残りを賭けての攻防となる。すれは凄まじい格闘戦である。

 一度、この格闘戦が始まれば、戦々兢々
(せんせん‐きょうきょう)とした状態に陥る。安らぎが失われ、不安定の中に身が落とされる。いつかは自分も誰かから恨みを買われて喰らわれるのではないかという怯えが始まる。人間、自分が足るを知らなければ、どうしてもこうした状態に陥る。今で満足を知らなければ、外に向かって物色が始まる。他を喰っていかなければならない。こうした気持ちが意識的になり、そうした態度が露(あらわ)になる。特に勝負師の世界はそうだろう。善悪二元論や、弱肉強食論に陥れば、どうしてもこうなってしまう。此処が肉体の世界の待っている結末である。あるいは肉の世界の限界であろう。三次元世界で展開される格闘戦とは、こうしたものである。

 しかし自己の探究を続け、それをついに発見し、そして足るを知れば、心に安らぎと平安が訪れるのである。
 何事かに怯
(おび)え、おどおどとして不自由の枠(わく)に抑え込まれていた心は、新たな力を得て、生き生きとし初め、自由で積極的な躍動感が満ち溢れてくるのである。

 そして、いつしか自分自身が宇宙であるということに気付くのである。
 宇宙の完全無欠な波動は自身の生命の脈動であり、この脈動は、最早
(もはや)古びた善悪二元観に囚(とら)われることがなく、また観念によって、脈動が妨げられたりしない境地が開けるのである。それはあたかも、古い衣服を脱ぎ捨てて、新たな衣服に身を改める時の、それによく似ているのだ。

 しかしである。善悪二元論に凝
(こ)り固まっている時、古い衣服を脱ぎ捨てて、新たな衣服に改める行為が中々できなくなる。つまり権力の座を得た者が、いつまでもその権力の座に居座っていたいのと同じ気持ちが起るからだ。
 かくして、社会の循環は行われなくなる。淀
(よど)んで、老朽化し不正が始まる。こうした場合、「滯(とどこお)る」という現象が起る。停滞し、動きが泊まってしまう。停滞すればそこに因縁の元凶が派生し、停滞は畸形を作り出す。

 また、畸形は自然から遠く離れた、都会に集中する場合が多くなる。因縁も次々に解消されて行く循環を持っていなければ、それが起因して新たな悪因縁を作り出すのである。
 地方の田舎と、人口密集地の都会とでは、自然に還元される霊的波調に違いが出る為、「滞り現象」が起き易い。

 霊的波調の乱れと滞りは、必ず畸形
(きけい)を生み出す。肉の世界のこだわる所以(ゆえん)だ。肉体に固執すると、こうした結末を招く。人間は年齢を重ねれば、肉の美から離れて、精神の美へと移行しなければならない。これを怠ると、人間には様々な禍(わざわい)が降り注ぐ。それに一旦取り憑(つ)かれれば、中々そこから抜け出す事は出来ない。

 人間は年齢を重ねると倶に、霊的なもの、精神的なものが勁くなり、かつてはこれがスムーズに行われた。しかし現代社会に於いては物質優先の為に、いつまでも物質にこだわり、あるいは魅了されて、此処からの移行が難しくなって来ている。
 喩えば、色に魅せられたり、美食に魅せられるこうした欲にほだされる、誘惑などもそうであろう。故に心身を傷
(い)めることになる。特に食の世界に於ては、食傷で心身を煩(わずら)うと言う事が蔓延(まんえん)している。そして、霊的バランスは崩れ、また生活習慣病などにより、肉体的バランスも崩れている。「正食」を忘れた所以である。

 かつて肺病を患う人は、海より遠く離れた山地で静養して肺病を治したものであるが、これはカリ塩とナトロン塩の関係があり、
「夫婦アルカリ論」によって導き出された養生法であった。

 ところが肺病患者が、海浜の海側で養生しても、この病気は恢復
(かいふく)に至らかった。理由は、海浜はナトロン塩が多く、海地ではカリ塩が少ない為である。この環境は食べ物ばかりではなく、大気にもこうした関係が生まれ、都会は海よりの平地に社会の循環が作られる為、そこでの大気の主体はナトロン塩が多くなる。

 その上、肉や乳製品の動蛋白は、ナトロン塩の非常に多い食べ物であり、ナトロン塩の大気中に生活をしながら、ナトロン塩の多い食品を摂取すると、ナトロン塩過多となり、この地に棲
(す)む生き物は、どうしても畸形化する。

 事実、東京の神社や仏閣に棲
(す)んでいる鳩の40%は畸形であると言う。これはナトロン塩過多の影響によるものである。また、日本人自身も、畸形発生率は0.7%と云われ、これた大気汚染や光化学スモックの影響により、都会の大気自体が汚染され始めたからである。こうした汚染は、霊的な面にも及び、心身共に危険状態が発生する。

 こうした汚された大気の中で死を迎える都会人は、霊的に云ってもガン発症に憑衣
(ひょうい)され易く、ガン疾患によって死んで行く人の殆どは、断末魔の臨終(りんじゅう)を迎えているのである。
 都会の暗天は凄まじいものがある。この異常に気付いた人は、大都会の喧騒
(けんそう)から逃れて地方の山地の田舎に引っ越す人が増え始めているが、一方、都会の喧騒に憧れ、これに吸い寄せられるようにして、大都会に集中する人も、事実、増加しているのである。

 一方が大都会の暗天を懸念してそこから離れて、他方は大都会の喧騒と人気味に憧れて、此処に魅了されて棲み着こうとする二つの層が起り始めているのである。
 因縁論では前者を霊人
(たまびと)と呼び、後者を獣人(けだものびと)と呼ぶ。そして「肉を喰らう人種」が獣人と呼ばれるのは、食への慎(つつし)みと、食の誤りによることから、以上のように分類されるのである。
 因縁論では、末期ガン患者らが、断末魔の臨終が増加傾向にある事を警告している。因縁が複雑に絡み合っているからである。



●宇宙意識に至る

 霊性が養われれば、宇宙意識を感得する回路が開かれる。宇宙意識を感得するには、まず、その人の霊的波調が、「細やか」でなければならない。霊的波調が粗
(あら)く、「粗(そ)」である場合は、波調の細やかな高振動をする宇宙意識からの波調は感得する事が出来ない。

 この「粗密」の違いは、多くは、その人が食べている為者と大きく関連している。穀菜食で、カリ塩とナトロン塩にバランスの採れた食事をして居る人は、その
「正食」により、霊的波調が細やかになり、高振動の微細な波調も捕らえる事が出来るが、動蛋白に偏ったナトロン塩偏重の食事をしている「雑食」をして居る人は、どうしても霊的波調が粗になり、粗くなる。
 こうした次元で感得できるものは、低級な誘惑ばかりであり、多くの現代人はこうした誘惑に負けている現実があるようだ。

 また、宇宙の完全無欠な波動を受けるには、宇宙そのものの仕組を理解しなければならない。
 私たちが科学知識として知らされている宇宙は、あくまで地球と同じ、三次元世界の物質宇宙であり、幾千億の星々が渦巻く大星雲の集合体と考えられているが、それは丁度人体が幾千億の細胞組織から構成されているのと類似しており、これらは常に三次元世界の相対観によって造り上げられたもので、時間空間の制約と支配を受ける宿命にある。

 しかし本当の宇宙は、三次元世界以上に広大であり、また逆の三次元世界以下の、平面、線、点、更にはその中心に向かっても、連なっており、そこは最小的な無限の領域を持っている。

 つまり中心に向かえば向かうほど、ミクロ分野の「零
(ぜろ)次元世界」に達するということである。この零次元世界は、マクロ分野の高次元世界と連続されており、無限を有する高次元世界は、突き詰めれば、結局、零次元世界に帰り着くということである。それは丁度巨大な蛇の頭が、自らの尻尾をくわえた形になっているのである。

 無から有が生まれ、その有はやがて無に帰するというのはこの為であり、宇宙は常に進化を続けている。その進化の状態が、時空を超越して、順方向に進み膨張し続ければ、過去・現在・未来の順に流転を一定期間繰り返すが、それが行く着くところまで行く着くと、今度は逆方向に流転を繰り返し、今度は未来が先頭になり、現在・過去という順序で時が流れ始める。そして宇宙は、自浄作用を繰り返しながら生き続けているのである。

 しかし、その宇宙が生きものである以上、それ自体に自浄作用が働いていて、やがて時を経て、低温の赤色巨星団となって大爆発するか、あるいはブラックホールが出現し、その中に宇宙自体が吸収されて、星々の終焉
(しゅうえん)が暗示される通り、最期の時を向かえるか、何れにしても、やがては全てが無に帰する運命にある。

 そうなれば最早、幾度となく歴史を繰り返し、輪廻転生を重ねながら生まれ変わってきた人間の魂の進化と、その努力も、また無に帰するのである。
 だが、人間はその時の最期の一日まで輪廻転生を繰り返し、進化を繰り返して、向上して行かなければならない。
 死は誰にも訪れるものである。それは宇宙すら同様である。



●魂の安住

 如何なる場合も「希望」だけは失ないたくないものである。希望は魂を安住させるからである。
 人は希望があるからこそ、悲しみや苦しみを乗り越え、その辛い境遇の中でも生き抜くことができる。死生観に襲われたり、それから逃げてばかりいては、不安と迷いの種子を太らせるばかりである。

魂の安住は遠浅の海岸で、潮が引いて現れたような干潟である。
何処までもなだらかで、何処までも遠浅である。

 人間は今の生活が安定していればいるほど、明日に起こるかも知れない不慮の出来事に不安と恐れを募らせる。現世は一寸先が闇
(やみ)であり、一時間先、一分先のことは誰にも予測がつかない。だから明日を思うとき、不安や恐れにおののくのは当然の人情であるかも知れない。

 だが明日の死生観に囚
(とら)われてばかりでは、「今日」を精一杯生き抜くことは出来ない。命あるものは、やがては死ぬ運命にある。だからこそ、「今日」を精一杯生きなければならないし、「今」という、この一瞬を充実させなければならない。

 「今、この一瞬」を充実させることが出来れば、もうそれだけで立派に生きていることになり、「明日の保障」などという空しい不確実要素は、所詮
(しょせん)心の迷いであるということに気付く筈である。

 文明の生み出した「生の哲学」は、「今日」を安易に過ごさせてしまう欠点があり、明日のことを思いわずらすばかりで、不安や恐れを割込ませる新たな隙
(すき)をつくる。そして何でもが明日への先送りになり、安定を願う心だけが貪欲(どんよく)になる。また同時に積極性が失われ、守りのみの消極的な、将来のことだけが気になる生き態(ざま)に落ち着いてしまう。
 そのことは余命幾許
(よめい‐いくばく)もない老人の生き態を見れば一目瞭然であり、その老人の多くは、決して今日を生きていない。

 過去のよき時代の追憶に浸り、毎日毎日の気怠
(けだる)い一日を、公園の片隅で日向ぼっこで過ごすか、あるいはゲートボール場などで一時のボール遊びを楽しんでいる。
 老後の生活が年金などで保障され金と暇が出来ると、今までに経験した貴重な苦労の足跡は旧
(もと)の木阿弥(もくあみ)に戻り、現実生活から危機感と緊張感がなくなり、これがまたアドレナリン・ホルモンの分泌量を少なくしてボケの原因をつくるようだ。

 三度三度の温食にありつき、現状の満足に安住し、何の苦労も努力もしなくなった老人は、生存本能が脅かせられることもなくなり、それに伴って闘争本能が眠った状態になってしまう。その為にアドレナリン・ホルモンの分泌量が激減してしまい、脳や神経に働いていた刺激作用は著しく低下して、知性の退化かがはじまるのである。

 この元凶は、脳の腫瘍
(しゅよう)・炎症、中毒・血液循環障害などに由来し、また加齢にもよる。初老期に始まり、記銘力の減退、知能の低下、高等な感情の鈍麻、欲望の自制不全、気分の異常、被害妄想、関係妄想などがあって、やがて高度の痴呆に陥り、全身衰弱で死亡する。これが痴呆症である。
 そして羞恥心を失い、軽薄な行動にも恥じることもなく、後は死を待つばかりの哀れな老人になってしまう。

 やがて彼等にやってくるのは薬漬けの「生きる屍
(しかばね)」の入院生活で、後は世間並みの規格化された死と葬式が待っている。
 病院の固いベットの上で孤独な死を向かえ、最後は火葬場で灰と骨だけになり、小さな骨壷に収まるだけのささやかな行事が残っている。何と哀れな死に態
(ざま)だろうか。

 老年期はマラソン競技に例えるならば、ゴールを目前に控えた全力疾走の時期であり、芸術でいえば最後の仕上げの段階である。その仕上げを怠って、未
(いま)だに金や色に未練を持ち、我欲に固執して迷宮を彷徨い、最後の全力疾走を諦めている老人も少なくないのだ。
 だから現代の老人の死はその大半が、若者に惜しまれることがなく、いつも小じんまりとしている。これも金と暇を持て余し、気怠るく余生を送る現代特有の老人像かも知れない。

 しかしこの現代の老人像は、そのまま明日の自分自身の老人像なる恐れも潜んでいるのである。心の精進と魂を進化させるという、人生の目的を忘れた安易な生き方をしていると、彼等と同じ二の舞になってしまうのだ。

 「今日」のこの日は、昨日の反省の上に構築されており、「今日」を精一杯生きることは、明日の生き態の結果になるということを知らなければならない。明日の生き態
(ざま)は「今、この一瞬」に創られ、今をどのように工夫して生きるかが、人間に与えられている人生修行の目的なのである。

 今日一日の枠の中で、精一杯生きるということは、たとい宇宙に大異変が起こり、仮に明日が人類最期の滅亡の日であっても、今日のこの日を精一杯大切に生きる限り、昨日の夜と同じように今宵
(こよい)もぐっすりと眠ることが出来て、死ぬその日も今日と同じ充実した日に違いない。

 これは人生を生きる上での「当たり前」のことである。当たり前の事をして「けじめ」をきちんとつけ、生死を解決しなければならない。ここに因縁論で云う「終始」は存在し、「始末」が存在するのである。
 したがって、迷いっぱなしでは生死を解決する事が出来ない。死生観を超越し、人生の一大事を把握して、「荘厳なる死」の心構えを会得しなければならないのである。魂を向上させ続けなければいけないのである。魂とは、進化する事を求める意識体であるからだ。

現世は一旦暗雲が垂れはじめると、それを中々取り払うことができない。いつまでも頭上に暗雲の翳(かげ)りを引き摺って、堂々巡りの中で何も解決の出来ない苦渋の人生を選択しなければならなくなる。その最たるものが、死生観の未解決であろう。

 然
(しか)し乍(なが)ら、現代人の多くは、正しく「死」の現実を見つめる事が出来ず、「死」から逃げ回り、迷妄の徒なって、死生観を解決できずに死んで行く人が多い。それ故に、次なる因縁を作り、再び六道(りくどう)を輪廻して、迷いを繰り返す事になるのである。此処にこそ、「因縁」の元凶が横たわっているのである。これこそ、死生観を解決できない最悪の「終りなき生き方」といえよう。


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