因縁は物事の生ずる原因をいう。「因」は直接的原因、「縁」は間接的条件である。また、「因」と「縁」からその結ばれた延長戦上に結果である『果』が生ずる。これを「縁起」といい、転じて、定められた「運命」という。
そして人間は、この自然界の一員であり、その縮図の中で“翻弄(ほんろう)”される。
そこには、善きにつけ悪しきにつけ、「天の配慮」というものが成り立っている。この配慮があるから、生きもし、死にもする。生死は配慮の結果、生じた流転を繰り返す生き物の、事前の中に循環する“一過程”に過ぎないのである。
つまり、フィルムの“一コマ”だ。それはまた、毛塚でもあり、原因でもある。
自然現象の総ては、あたかも“映画のフィルム”のように連続されたものである。しかもその自然のフィルムは、垂直線上に平面的に平たく延ばされているものでなく、立体的に有機的に循環する構造を持っている。繰り返し、巡り、巡るのだ。
このメカニズムは、立体的有機的な因果関係を持っていて、極言すれば、部分的に検(み)れば原因や結果であり、全体的に検れば、原因も結果も存在しないと言うことになる。
それは「つかみ所がない」からである。
この現実を検ると、自然には本来因果はないと言うことになる。
つまり、初めもなく終わりもないのだ。一もなく、二もなく、原因もなく、結果もない。その為に、自然には「因果は存在していない」ということになる。
これをあたかも“因果が存在し、しかるべき原因が派生して結果が起こる現象”と映るには、因果の「輪」を“科学の目”で部分的に、近視眼的に検ているからである。その限りにおいて因縁は派生し、因果が起こっているように観測できるのである。 |