運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 56

依怙(えこ)の心無し。指導者の態度である。また戦闘を指揮する指揮官の姿勢である。
 一視同人仁……。
 誰彼の区別なく、同じように愛する。それが出来る。依怙贔屓の無い指揮官の態度である。この態度は、自分の感情を完全に意志の統率下に置くことから、かなり心を練り上げていないと、一視同人仁の境地まで辿り着かない。

 戦場では、戦闘開始前、下で動く将兵は必ず、一斉に指揮官の顔色を読む。指揮官に動揺があったり、しょぼくれていたら、その部隊は全滅の憂き目を見ることになる。皆殺しされる運命を免れることが出来ない。戦う前から、指揮官の能力で勝敗が決まっていると言えよう。更に警戒すべきは「出し惜しみ」である。
 指揮官が吝嗇家
(りんしょく‐か)だったら、戦う前から敗北していると言えよう。兵器の出し惜しみをするからだ。戦艦大和然り。
 彼
(か)の艦(ふね)は出番の秋(とき)を逸した。
 これは今日の企業でも同じである。そういう会社は、やがて斜陽に至り、没落の運命を辿る以外道はないのである。



●煩悩夢を為す

 太陽島である。此処では哈爾濱(ハルビン)の短い夏を楽しむ市民で溢れていた。
 大日本航空のエア・ガールに扮した四人は、満洲での二日目、この島でひと時の休暇を楽しんでいるように装っていた。それに彼女達の容姿端麗が目立っていた。直ぐに注目を集める。周囲は注視し始めた。
 四人はよい機嫌で辺りを見回しながら、日本から来てはじめて見た松花江の風景を見回し、水に浮ぶ景勝地であることを、それぞれに異口同音で評した。北満の美しいところだと……。だが、その美しいところは、また乾坤一擲
(けんこん‐いってき)の気概をも必要とする場所でもあった。つまり此処はスパイ活動のするための温床でもあった。それだけに、人の眼が彼女達に向けられていた。スパイではないのかという疑いが持たれ、その嫌疑が内外の間者達を暗躍に奔(はし)らせるからである。それに躍(おど)らされるからである。しかし間者扱いされても、埃(ほこり)は出て来ない。仮に捕らえられてもである。懸けた嫌疑も、徒労に終わる。またそこが狙い目であった。
 彼女達は此処で一波瀾ありそうな雰囲気が漂っていたことは、最初から覚悟していたことであり、今さら驚くことは無いと踏んでいたのだろう。
 鬼が出るか蛇が出るか……。前途に何が待ち構えているか予想が出来ないが、要は執念を燃やす野望が点在していることは確かなようである。

 しかしそれにしても太陽島は中州とはいえ、美しいところであった。風光明媚
(めいび)である。
 短い夏の柔らかな陽射しを受け、何処までも天下晴れて、青空が広がる開放的なところであった。その開放的な空に下に、正体不明の、あたかも“蜜に集
(たか)る蝿ども”が接近して来るのである。
 松花江は朝鮮国境の長白山頂の天池に発源し、黒竜江に合する中国東北部の大河である。全長1840kmだが、南は内モンゴルのアルグン河、北はモンゴルのオノン河を源流とし、松花江とロシア沿海州のウスリー江を合わせると長さは6237kmに及ぶ。この大河を別称アムール川ともいう。
 松花江の哈爾濱の下流からは船も通じ、海上交通の盛んなところである。この大河の哈爾濱付近の中州に太陽島がある。当時は避暑地として知られていた。この島で、満鉄は内外の富豪を集めてヨットクラブを経営しているのである。

 日本内地では戦局悪化に伴い、今ごろ大本営発表で如何にいいように言い繕
(つくろ)っても、それを反映して国民の生活は窮屈になる一方であった。この元兇は、昭和17年5月27日の海軍記念日に合わせたミッドウェー海戦に始まる。そして戦局は6月5日に大敗北をする形で負け戦の構図が出来上がってしまった。
 この構図の中で、日本軍はガダルカナル、ニューギニアとじりじりと退却し、以降、大本営が如何なる美辞麗句の言葉で飾ろうと、本土空襲、本土上陸は大戦末期にもなると確実な予感として、国民の誰もが感じ始めていたのである。
 物資は極度の不足し、何処の商店も鎧戸を降ろして商売をしているか否かの判別が付け難くなっていた。
 また男手は次々に駆り出され、兵役は第二乙種はおろか、四十歳以上の、組織抵抗では肉体的に劣る者や身体障害者まで駆り出される始末であった。軍隊にも闇米を売る連中が顕われていた。応召された兵隊は米を隠して私物として営内に持ち込む有様であった。

 日本内地では華やかな装いも消滅していた。市民生活には憲兵や特高警察が関与し、その眼は贅沢に向けられて悲憤慷慨し合った市民までもが監視役を担っていたことであった。憲兵や特高に合わせて、こうした悲憤慷慨派の国民の眼も光っていたのである。
 例えばパーマネントを掛けた女性の髪、もんぺでなく華やかな和服や洋服を来ている女性、明りが漏れて灯火管制を守らぬ家、闇物資を取引している者などは総て容赦なく摘発された。摘発された者は非国民の烙印を押された。そしてこの当時の教育は、非国民呼ばわりされれば「死にも勝る恥」とする感覚を、日本国民は子供の頃から軍国教育を植え付けられていた。戦中派といわれる人々である。
 音楽一つ挙げても、洋楽は総て敵性音楽でピアノがあってもピアノを弾くことすら禁止された。
 まら洋楽に限らず、邦楽でも歌詞が、愛だの恋だの内容は不適正とされ、この種の歌詞自体は憚
(はばか)らねばならない時代となっていた。少しでも違反すれば、寄って集って注意されるのである。隣組制度が強化された時代で個人の自由など殆どなく、またプライバシーすら存在しなかった。軍国主義下では自由が厳しく制限され、社会主義と酷似していたのである。至る所に監視の眼が烱(ひか)っていた。その最たるものが隣組であった。

 ところが松花江の風景は違っていた。少なくとも開放的な風景の中には個人の自由があった。伸び伸びとしている。隣組などない。内地と外地の違いである。また日本では考えられない高級リゾート地としての贅沢があった。それに移動の制限も、内地に較べて幾分自由であった。此処では金さえ出せば、何でも出来ると言う空気が流れていた。
 物資も制限があったとはいえ、内地に較べれば豊かであった。その豊かさが、日本内地ではよく見られた耐え難い、監視、猜疑心、蔑視、卑猥、敵意、嫌忌
(けんき)といったものが哈爾濱市民では殆ど無く、まだ大らかさが残っていた。開放的であり、こと太陽島に限ってはこれが顕著だった。それだけに水面下では暗躍する諜報員達のスパイ王国のような雰囲気が漂っていた。水清きに不魚住の裏返しが、太陽島であった。
 周囲には蜜に集るような蝿な輩
(やから)が飛び回っていた。

 この地は諜報活動の隠れ蓑の温床である。
 その温床には男女の差はなく、むしろ女が、此処では華やかに振る舞ってみせるのである。その華やかさの中に、川島芳子と並ぶ「大陸女浪人」という妖艶な女性も群れていたのである。例えば、日高みほなどの大陸女浪人である。彼女は大陸生まれて大陸育ち。曠野を縦横に駆けるには意識の中に大陸的な、あるいは国際的な感覚を身に付けていなければ情報戦では戦えないのである。また内外の有力者を手玉に取る根性がいる。
 つまり、こうした妖艶なる大陸女浪人には、それぞれの組織にスポンサーが居て、多くは支那服を着て自らの美貌で相手側のスパイを挑発して、周囲に群がらせるのである。大陸女浪人は殆どがユダヤ問題に関わっていた。スポンサーは何も国家だけでない。宗教団体が国家の上に負ぶさっているのである。表面は新興宗教然としているが、背後には陸海軍の機密情報に携わり、武器商社も喰らい付き、更には人種問題も絡んである。この中には親猶太
(ユダヤ)もいれば、反猶太もいる。そのうえ取り巻きのボディーガードまでが取り囲んでいるのである。それだけに華やかで妖艶でもあった。太陽島の棲息者の特長である。

 また北満においての交通機関の移動である。
 日本では地方から都会に移動する場合も困難になりつつあり、鉄道省は乗車券の発行を制限していたが、此処ではその規制が少なかった。新京から哈爾濱に移動するにも、急行列車の乗車券を自由に手に入れられたのである。内地と外地の違いだろうか。
 旅行者は日本のように、朝早くから長蛇の行列を作らなくてもよかったのである。四方海で囲まれた日本と違って、海から遠く、此処では空襲がないからである。日本のように、周囲を海と言う濠で囲まれた島国も、敵空母から飛び立つ戦闘機やB17のような爆撃機の空襲には弱いからである。それだけに北満の地は空襲知らずであった。むしろ警戒すべきはソ連との国境線であった。更に黒龍江沿いである。吉拉林
(チラリン)、漠河(ばくが)、黒河(こくか)、烏雲(うゆん)そしてハバロフスクに至る地域である。併せて東満最大の要衝である牡丹江は兵站基地で日本軍の補給を担当し、綏芬河(すいふんが)は国境の最前線の警備拠点であった。

 古今東西を問わず、敵国の美人スパイに接近されることを役得と考える権力人は多い。権力機構が軍隊であれば、軍の中枢に携わる佐官級の高級将校が莫迦
(ばか)に美人にモテたり、美人が接近して来るのはそのためである。だが日本の高級軍人の場合、敵の工作員が接近したことに気付かない。官僚も同じだろう。事務次官ともなると特にそうだ。権力に胡座をかく。そしてモテるのは自分の人間的魅力だと信じている。そういう権力人は多いようだ。
 ここは色を絡ませた場合の日本人の一番弱いところである。

 人間は金・物・色の三大欲望の一つである「色」を絡ませて誘惑された場合、実に脆
(もろ)く、弱い。
 特に日本人の場合、優等生の答を書く“お利口さん”の中には、この種の人間が多いようだ。そして易々と手玉に取られる。あたかも釈尊の掌の上で、孫悟空を演じる道化師に成り下がる。“お利口さん”にはこの種属が多いようだ。
 欲望に転び、一番弱いところを突かれて誘惑されれば、国さえ売ってしまう。ところが、表の顔はガチガチの愛国者然である。国粋主義者を装っている者ほど、脆い一面を抱えているのである。
 その点を熟知した猟る側は、どこに罠を仕掛ければ、上手に、効率よく生け捕ることが出来るか、常に考えるのである。戦略家の要点と言えよう。

 生け捕る、占領する、財を奪うなどの策略が巡らされた場合、猟る側は先ず官僚に眼をつける。官僚を標的にする。その場合、全部の官僚を狙わなくていい。官僚のトップに当たりを付ければいいのであって、今で言えば事務次官である。事務次官に狙いをつけ、三大欲望の一つ、あるいは全部をもって金・物・色の何れかの賄賂
(わいろ)で落し込むのである。トップの一人を狙えばいいのである。下の者は、罠については分らない。下は事務次官の命令通りに動くから、組織ごと罠に嵌まってしまうのである。人間を猟り、抱き込んでしまう方法である。
 秘密戦もこの中
(うち)にある。斯(か)くして極秘情報が漏洩することになる。

 猟る側は、何処をどう動かせば情報を牛耳れるか、長年の経験から熟知している。トップの関連者やその周囲に目を付け、餌撒
(えさ‐ま)きをする。誘惑し、落し、奪う。あるいは攪乱し、迷わし、狂わし、亡ぼす。
 秘密工作の要諦である。こうした工作には美女が絡んでいることが多い。

 例の四人のエア・ガールである。色恋沙汰で誘惑するためにバカンスを楽しんでいるのではない。任を帯びている。太陽島に物見遊山に来たのではない。
 形
(なり)を魅(み)せて惑乱し、次に攪乱して混乱させ、接近する者を罠に誘い込んで捕まえる。彼女達は派手に目立って、そこに一時期存在すればいいのである。そのための撒(ま)き餌(え)であった。
 太陽島に休暇を楽しんでいると言う設定だけで、諜者は寄って来る。それを影から『梟の眼』
(owls-eye)が監視し、狐猟をする。そのために目立つ恰好で官憲を惹(ひ)き付けてくれる。
 青い制服は何処からでも目立つ。そのうえ四人が四人とも容姿端麗である。人目を惹く。これに敵味方の官憲が集中する。蜜に蝿が集る。正体不明だから尚更、注視される。三日程度のことだが、これだけで一時期、衆目を集める。
 妖しい、得体の知れない素振りを振りまいて、惹き付けておいてもらえればいいのである。それを託して、津村らは赤塔
(チタ)へと発った。
 既に秘密戦が展開されているのである。
 また秘密戦を戦う以上、此処に居る女どもも、決してヤワでない。一種の女傑
(じょけつ)である。四人の女傑に、津村は賭(か)けた。彼もまた勝負師であった。遊撃隊を展開する血の勝負師である。
 津村の策を用い、用意周到に狐を狩る罠を仕掛けたのである。彼女らに接近しようとしたところに、『梟の眼』が片っ端から生け捕っていく。更に、生け捕った狐を逆スパイとして洗脳し、二重三重に罠を掛けておくのである。その手引きをロシア人のナターシャ・ニコルスキーが案内人に扮して、狐猟の手引きをする。
 罠は巧妙な仕掛けであった。
 検挙第一主義の憲兵のような、力で捩じ伏せるのではなく、力を受け入れ、智でやんわりと真綿で絞めるように生け捕ってしまうのである。そうすることで生け捕られた方は、生け捕られたという自学症状がない。わけの分らぬうちに生け捕られ、内部情報や機密を漏らしているのである。智で戦う津村の策であった。

 津村の策には、これまでの経験が生かされていた。この漢は常に窮地に追い込まれ、逆境に継ぐ逆境で、その苦境を隠忍よく我慢し、生きる道を見付けては、その度に切り抜けて来た。そして今、津村の頭上には国際的な圧力が掛かろうとしていた。
 だが、これを力で強引に食い止めるのではなく、智でもって躱
(かわ)し、去(い)なし、賺(すか)し、何れが大きいか、何れが小さいかを比較して、時には合従し、時には連衡するのである。
 「智」の勝負師であった。加えて“山こかし”を遣る山師でもあった。人物を評定し、時勢の変遷を読み、令名を工夫し、策を立てる。
 一方で、彼
(か)の長所に学び、短所を用いず、自らの欠点と脆弱(ぜいじゃく)を克服する。時には意表を衝いてみせる。時を見て、風を読む。

 人物を評定する時に重要なポイントは何処か。
 まず、配下に従えている人物を読む。その評定する。よく人材を遣うか否かを検
(み)る。地味か、派手かを読む。
 地味に拓いているのであれば、斜陽は少ない。派手に周囲から傅
(かしず)かれているのであれば、やがて斜陽を迎えるだろう。
 また絶頂・絶好にあっても、群れを統率するリーダーが優柔不断であり、迷いが多く、外に大志がなく、裡
(うち)に衰え、虚に乗じて気は老い、身に病気を背負い、閨門の不和と争いを巡り、その嫡子(ちゃくし)の間に暗闘があるなどは、亡兆である。元兇である同族争いが起こる。
 リーダーがその座に固執し、老齢で、時務
(じむ)には昏昧(こんまい)して利息ばかりを貪るのを知り、上司や部下の心情がギクシャクとして、下は上を心服していない組織は、やがて亡びる。それが金に物を言わせて整えていても同じである。金の無いのが縁の切れ目になる。金が続く間のみである。
 この構図を鑑みれば、昨今の日本に酷似していまいか。
 確かに日本の軍備は充実している。自衛隊は確かに世界でも最高水準の装備をしている。だがこれを扱うのは人間である。軍備は人間あっての物種である。

 しかし活用を知らず、外国に較べて軍事裁判所などは無く、更に死守などの法伍の整えが無く、事件が起こってその後の依頼は警察が出張る。軍来擬きである。軍隊擬きには工兵の組織も無く、鉄道や兵舎は愚か丸太橋一つも掛けることが出来ない。食事も糧食班が崩壊している。部外者に食事の面倒は任せている。自己完結性が完全に喪われているのである。危ういだろう。
 果たして敵の侵攻を食い止めることが出来るのか。シビリアンコントロールはよしとして、無能な政治家の口出しの一言。玉
(ぎょく)に繋がる勾玉(まがたま)の輪は崩れている。船頭多くして、船の舵取りは方向を見定めるに意見多言。そして衆議の聲(こえ)は抑え難い。殆(あや)ういだろう。

 状況判断。
 その場、その秋
(とき)を読む。通常とは異なっている状態を読む。変化している状況を読む。
 太陽島の女四人である。ナターシャ・ニコルスキーの案内で、満鉄経営の高級リゾート地の松花江に浮ぶ太陽島に来ていた。この四人は一時、存在するという任を担っていたが、奇妙なことに気付いた。
 此処では戦争をしていると言うのに、日本に居たときのように物資難でない。此処では少しもハングリーでないのである。平時以上に贅沢過ぎると思うのである。これは何だろうと思う。
 こういう場合、落し穴がある場合が多い。そう思える。待遇が良過ぎるのである。この違いについて状況判断がいる。特殊な機関に属するとは言え、何かに験
(ため)されているのだろうか。そのように疑ってみる。リゾート地に案内されて喜々としていられない。やはり験されている。その洞察は要ろう。

 エア・ガールの四人はリゾートホテルのラウンジに居た。
 「一時の存在……。幾ら任を帯びているとは言え、何か訝
(おか)しいと思いませんか?」
 何か得体の知れない大きな輪の中に居る。それが動いている。更に巨大な食物連鎖の輪の中に居るような、そういう感覚を受けるのである。何故だろう。良子は、そういう気持ちになって、アンに訊いてみた。
 「あなたもそう思う?」アンが訊き返した。
 「不可解と思います」
 「ナターシャは白系ロシア人です。もしもですよ、もし、彼女の属する組織が、つまり……」アンは言い淀んだ。
 「アン先生、つまり何ですか?」不穏なものを感じて良子は訊き返した。
 「その、もしも……」言い澱んだ。
 「何ですか、お姉さま!……」今度はキャサリンが迫った。
 「これは、かつて聴いたことのある革命勢力の分裂ですが……」
 「革命勢力の分裂って、何ですか?」良子は訊いた。
 「例えば英国が行った黒海艦隊司令長官のコルチャーク提督への支援であったり、また日本が行った東支鉄道長官のホールワットとか、ザ・バイカル・カザックのアタマン・セミョーノフへの支援です。この当時、日本が米英仏の要請で、チェコスロヴァキア軍
Czech and Slovaki/スラヴ系のチェコ人とスロヴァキア人が1918年オーストリア・ハンガリー帝国からチェコスロヴァキア共和国として独立した軍隊)救援を求められたときでした。かつてはチェコ軍はオーストリア・ハンガリー帝国のもとで戦っていたのですが、共和国として独立を宣言して、ロシアに投降したのです。ところがロシアでは革命が起こった。このときロシアは独逸と単独で講和条約を締結していたのでチェコ軍は孤立してしまいました。そのため仕方がないので、東方に向かってシベリア経由でウラジヴォストークから船で戻ろうとした。でもその途上、ソ連軍に遮られた。立ち往生している時に、日本軍が救出したという筋書きから、そこに見えて来るものは……」
 と言いかけたとき、キャサリンがすかさず切り返し、「チェコ軍はロシアと戦うために出兵したのに、広大なユーラシアの地では流浪する以外なかった……という背景に、奇遇にも日本人と出遭ってしまったということでしょうか」と言うのであった。
 「つまり、このときに日本軍と言うか、日本人と言うか、そこではじめて欧州人を見て意志改革が起こり、国際政治と言うものの外交政策の事実を知った。これが日本人の国際化の始まりでしょうか」と意味深長なことをアンがいった。
 「理知というか、つまりインテリジェンス
(intelligence)……ということですね」と良子。
 「そう、情報の重大さ。そして真の情報は多くの中から、ただ一つ……」とキャサリンが相槌を打った。彼女が何故、暗号解読に執念を燃やすか、良子は分ったような気がした。
 その一方で、十四歳の佳奈は、他の三人が何を話しているか、殆ど意味不明だった。知的レベルの次元が違うからである。彼女はただ黙って、三人の会話を聴く以外なかった。

 国際政治の舞台を意識した日本人は、その後どうなったか。
 特務機関という発想が生まれた。特務とは、軍隊組織に入らないような秘密情報を蒐集する「裏の外交」のことである。この外交人を特務機関員と言った。
 この意味からすると、沢田次郎の養父である沢田翔洋はその先駆
(はしり)のような人物で、北方軍閥相手の武器商売でこの必要性を重要視して『梟の眼』(owls-eye)を組織したのである。この組織は、直接的には軍に属さない組織で、沢田貿易自体が私兵を抱えているようなものであった。
 そして不可解なことは『梟の眼』は武器商人として、赤軍の赤色ロシアに対して白系ロシア人を取り込み、セミョーノフのような人物を要し、また『ニコルスキー交易商会』の代表者でソ連陸軍のミハエル・ニコルスキー少将までも情報下で動かしているのである。沢田貿易哈爾濱支店長の吉田毅が商業特権をもって国境を自由に出入りで来るのは、ロシア・ソ連国内に白系ロシア人に加担する同士がいるからであった。
 これらの、普段はソ連兵の恰好をしつつ、活動する軍隊を「白軍」といった。表面からでは分らない。ソ連軍の軍服を着たロシア人であるからだ。彼らは、反ユダヤの思想を持ち、また反国際派でもあった。

 つまり、シベリア出兵とは軍人だけがシベリアに出兵したのでなく、この出兵には間接的には宗教家、政治家、経済家、企業家、芸術家、文壇・文士、歴史学者、人類学者、言語学者、国粋思想家、策謀家らが軍人と伴に、欲望に纏
(まつわ)る野望も渦巻いて、この地に殺到したのである。そのときに西欧の人間、つまり白い肌を持つユダヤ人をはじめて見るのである。そして情報活動(intelligence)の何たるかを知るのである。
 だが、軍人がいる以上、そこには当然ながらスパイがいる。諜報員がいる。こうなると学者群や政治家と諜報員の区別が付け難くなるのである。境目が曖昧
(あいまい)になる。
 この曖昧なるものを、アン・スミス・サトウは「何か訝
(おか)しいと思いませんか?」と、他の三人に訊いたのである。それは所属する組織での、それぞれの思惑が存在したからである。
 それは不穏なる動きの風
(ふう)を読んだからである。そして、今から「何かが起こる」という要注意の暗示であった。


 ─────津村陽平の脳裡には、赤塔
(チタ)の満洲国総領事館の屋根裏部屋から見た、東に移動するソ連軍の動向が気になる不可解なものが絡み付いていた。また「山こかし」をしてみせると切り出した以上、これを実行しなければならない。豪語では赦されない。これを不履行しては山師・津村陽平の名が哭(な)く。
 復
(かえ)りは、赤塔から急行列車の『ザ・バイカル號』(ザ・バイカルは鉄道名だが、ここでは列車號名で遣う)で満洲里へ向かう。この列車は、西欧から遣って来る急行列車である。不定期だが、最長距離を走る「ロンドン発満洲里行き」という満洲里を終着駅にする急行列車もあった。
 満洲里
(マンチューリ)を出て、札来諾爾(ジャライノール)・海拉爾(ハイラル)・札来諾爾(ジャライノール)・札蘭屯(ジャラントン)の内モンゴルを抜け、昴昴渓(コウコウケイ)へと至る。更にそこからも長距離である。
 これだけでも、かなりの長旅であり、当時は急行
(当時は特急の呼称)利用でも長時間を要した。
 津村と吉田は哈爾濱へと向かう急行列車の中に居た。遅れて動き出したから、夕刻になっていて夜行列車である。西欧からの満洲に入る乗客制限があったらしい。ナチス独逸の迫害を逃れて満洲に亡命するユダヤ人も多かった。津村陽平にしては、白い肌のユダヤ人を見るのは初めてのことであった。しかし満洲入国の旅券を持っているユダヤ人らは、一目見ただけで、独逸国内で裕福な生活をしていたと思える人ばかりであった。
 おそらく職業も、フランクフルトなどで銀行家、医者、弁護士などをしていた人達なのであろう。

 「予定より随分と遅れてしまいましたなァ」吉田毅が吐露した。
 「あと哈爾濱までは?」
 「一日延びたと言う事でしょうか」日程が延びたことを伝えた。広い大陸ではそうなり易い。
 「一日……」即座に日程計算を始めた。
 「此処から昴昴渓までは込み合います。大半は斉斉哈爾
(チチハル)へ向かいますからねェ」
 「斉斉哈爾には何か?」
 「ユダヤ人のシナゴーグ
(synagogue)があるからですよ。此処に居る多くは、斉斉哈爾市の縁者を頼っての満洲国への亡命でしょう」
 「シナゴーグというと、ユダヤ教の礼拝堂ですか」
 「彼らはシナゴーグを通じて民族的統一の意識を高めますからね。離散した民族の特徴です」
 「なるほど。それにしても、哈爾濱行きは多いですねェ」
 「でも、気を付けて下さい。この中には、ユダヤ人の学者や企業家などに化けたナチスの諜報員や秘密国家警察
(Gestapo)が紛れていますからね」
 反ナチス運動の取締りは、満洲にまで及んでいた。これを聞いた津村は、一瞬、太陽島にいるエアーガールに扮した四人の事が気になった。
 「哈爾濱の連中は大丈夫でしょうか?……」
 「心配には及びません。メンバーの中には、去
(い)なし上手の補助員が居ますから……」
 メンバーには太陽島への案内人のナターシャ・ニコルスキーと、彼女を紹介した沢田貿易の川崎直也と、哈爾濱日本商工会の理事の山根耕三が居るからだろう。
 「では、あの連中は何者にも制約されず、自然に振る舞える……ということでしょうか?」
 「例えばですなァ、野球などでいうフォロースルー
(follow‐hrough)とお考え下さい」吉田は意味ありげな、何とも妙な表現をした。
 それは躱
(かわ)し、去なし、賺(すか)すことを指すのだろう。
 「振り抜きですか、補助者に支えられての……」あるいはそれだけでなく、宥
(なだ)めることも指すのだろうかと津村は思った。こういう場合、力で捩じ伏せても駄目なのである。相手の力を利用して、躱(かわ)すことを意味する。自然体とでも言おうか。
 「おやおや、ご存知で?」
 「内外の垣根を越えて、周囲には黒幕的な人物
(fixer)のような人物がいると言う事ですか」
 「商売になりますからなァ、情報は」
 「親・反、入り乱れてということですね……」
 「水清ければ魚棲まず……といいますからなァ」
 「よく分ります」

 一見、清廉は人の生き方として正しいように思える。
 だが、これは正規の世界のことである。陋規
(ろうき)には無関係である。世の中は正規だけで成り立っているのではない。清廉潔白、そして高潔であったとしても、所詮(しょせん)人間の生き態(ざま)であり、自分の気付かぬところでは過ちを犯している。気付かないだけである。
 この世は清濁併せ呑み、また善悪綯
(な)い交ぜなのだ。それを覆して清廉だけを追い求め、善だけに固執するのは、それ自体が嘘をついていることになる。偽りである。片一方だけを肯定するのでなく、両方を肯定しなければならない。矛盾と云う言葉はそれを如実に物語っている。
 清いだけでは人に親しまれず、善だけでは総ての物事が見えないのである。如何に理性で自分を抑えようとしても、煩悩で振り回されている限り、邪
(よこしま)な心や忍び込んで来る。行動に至らず、見ただけでも邪は忍び込む。煩悩夢を為(な)すの所以(ゆえん)である。
 結論を言えば、善も悪も認めて、こだわらず、するりと抜けていかなければならない。清廉を自負しても、所詮人間の行為に、清廉だけ、高潔だけを維持することは不可能である。
 だが一方で、奢
(おご)りと欲の二つを慎めば、人間は一ランク上のステップへと到達することが出来る。
 これまでの欲にこだわった自己との訣別をして、捨てていけばいいのである。この世は、捨てて行く中に真理がある。
 此処に来て、こだわりを捨てることで善悪も、清濁も超越出来るのである。そこを目指すべきだろう。ただ清廉にこだわれば、超越出来ないまま、命脈は尽きるだろう。

 津村は、情報戦には国際的な宗教問題が絡んでいると検
(み)ているからである。軍の機密も、許(もと)を辿れば宗教問題に行き着く。日本でも、当時は陸海軍の高級軍人に大本教(正しくは大本)に絡んだり、反ユダヤ的な陰謀論や、親ユダヤ的な信奉者が居たことは、よく知られるところである。
 例えば、日高みほらは陸軍の板垣征四郎の諜報機関に関わって、講演や座談会などを各地で催していた。
 日高みほは大陸女浪人としても知られる。日高女史は仏典、聖書、日本の古典にも明るく、和歌を読み、海外情報に詳しく、国内問題のも通じていた。大陸女浪人だけあって、一種の女傑である。
 彼女はユダヤ人と親密な連絡を取り合いながら、上海ではブナイブリズ結社や、ハバロフスク西方の黒龍江沿岸に居たビロ・ビジャンらとも親密な連絡を交わしていた。更に大陸の新興宗教であった世界紅卍字会
(こうまんじかい)とも関わり、日本の五族協和の大陸政策に通じる同教団の五教同根を唱える考えを持っていた。
 これに共鳴したのが、親ユダヤと言われる板垣征四郎や小磯国昭らの陸軍出身者であった。
 あるいは彼らは、煩悩夢を為すを原動力として、日高女史を傀儡
(くぐつ)に遣ったのかも知れない。

 また出口王仁三郎も五教同根主義に基づいて、大陸に宗教団体を作ろうとしていた。
 当然、宗教に軍が絡むことは必然であった。つまり戦争の背景には、常に宗教が絡んでいるのである。これを知らないのは、「日本とはなにか」あるいは「日本とは如何なる国か」を知らない日本人だけであった。日本人は特定の信仰を持たないからである。

 つまり、日本人には日本と言う国を知らない、また国家とか国体について考えることのない珍しい国民であると言うことがいえ、今日でも、日本に対してアイデンティティー
(identity)のない人格ならびに存在証明の同一性な国民であるということが言えよう。日本人でありながら、一方で日本人と豪語しつつも、日本と自分が自己同一性を持たないのである。したがって、戦争に宗教問題が絡んでいることも気付かないのである。
 単に戦争は、政治の延長ぐらいしか考えていない。国家間での政治家同士の喧嘩だと思い込んでいる。今も昔も、日本人が想起し得る戦争観である。多くの戦後日本人は、武器を遠ざけさえすれば戦争は起こらないと信じている。
 常に戦争を、遠い国の花火大会のような感覚でしか考えていないのである。その最たる戦争観が、“非武装中立”という矛盾する考え方である。武装無しに中立は保てないし、宗教を除外して戦争は避けられないのである。これは信仰を持たない日本人の特長と言えよう。神は、苦しいときの神頼みや、御利益主義だけに存在する都合のいい神しか知らないのである。
 日本人は宗教を信じない。神仏を口にしながらも、その神仏さえ信じていないのである。端的にいえば、中途半端な無神論者である。島国人の特長と言えよう。

 だが、津村陽平の脳裡にはシベリア出兵の体験談を聴いたことがある。大正11年
(1922)の18歳のときである。
 シベリア出兵は大正7年
(1918)から11年に懸けてのことである。サラエヴォ事件を導火線とした第一次世界大戦が始まった頃であった。日本はこれを機に、大陸進出を狙ったのである。ロシア革命が起こったときであった。米国をはじめとする列強は革命勢力に対して武力干渉に入った。日本もこれに便乗した。米国とともにシベリアに出兵したのである。
 チェコスロヴァキア軍救援の名目のもとに、日本も、米国・英国・仏蘭西・伊太利亜などとともにロシア革命に対する干渉を目的としてシベリアに出兵した事件である。日本は他国撤退後も単独駐留したが、これは失敗に終わった。
 しかしそのとき、日本とは、日本人とは何か?を考えざるを得なかった。そしてこれが、ユダヤ問題や満洲問題について考える切っ掛けとなったのである。それはまた、民族とは何か?ということであった。日本人は民族を意識した最初であった。
 当時、世界の中で、日本人は国家とか国体とかを考えることに、一番疎
(うと)かった国民であった。そのことを出兵した兵士から聴かされたことがあったからだ。日本以外の外国人が、国旗に対して敬礼するのも、このときに初めて知ったのである。

 津村と吉田は、北満の地を東南へと移動していた。
 哈爾濱まで戻り、更に新京までの旅程は最短距離を通って、丸三日間であった。この長旅からすれば、新京到着は、更に遅れるかも知れない。そこから大日本航空の「新京発東京直行便」で、羽田飛行場まで向かう。
 日本内地までは長い旅程である。

 チタの満洲国総領事館の屋根裏部屋から見たものは、何か?……。
 予想外の異様な軍需物資であった。
 シベリア鉄道の東西の行き来は、西に向かう貨車には軍需物資が少なく積載され、東に向かう貨車には西へ向かう積載量より多かった事実だ。これは何を意味するのか。

 津村は屋根裏へと案内されて、小さな窓からシベリア鉄道の東西に動く貨車を観察した。そこで奇妙な動きに気付いた。ゆっくりと通過していく貨物列車の積載物である。まず驚いたのは、ソ連軍の武器であり、特に大戦末期の1943年に登場したT-
34改良型で、最新型のT-34/85の戦車であった。
 中国東北部の北西辺で、モンゴル国との国境に近いハルハ河畔の地・ノモンハン
(Nomonhan)では日本の関東軍とソ連・モンゴル軍とが国境紛争で交戦し、日本軍が大敗を喫した戦いであった。
 このときにソ連軍の導入した戦車がT-34であった。分厚い装甲と、日本戦車とは比べ物にならない強力な火力を持つ。一戦すれば、装甲板の薄い日本の九七式中戦車や九五式軽戦車などはひと溜まりもあるまい。
 日本の戦車が、当時は珍しいディーゼルエンジンで動き、幾らエンジン部分だけが優秀でも、装甲が薄くてはどうにもならない。戦車同士で戦えば負ける。
 この時代、日本陸軍の戦車はブリキの戦車とか、豆タンクなどと揶揄
(やゆ)されたくらいである。こうなった実情も、日本の鉄不足(特殊鋼)と、製作費を安く上げるための経済実情が絡んでいた。

 1939年、ノモンハンで登場したT-34は26.73屯で、乗員は四人だったが、最新型のT-34/85は32屯もあり、乗員は五人である。火力も違う。これが対日参戦に使用される可能性は大である。
 当時、T-34/85は、IS-2スターリン
(46.25屯)戦車に継ぐ、史上最大といわれた大型戦車である。この戦車が貨物列車に積載されて、東に向かっているのである。今は少数の車輛だが、そのうち台数も殖え、東に向かう貨物列車も頻繁になろう。
 対日参戦……。
 それは津村の脳裡を支配した。
 更に見たものは、自走式多連装ロケット砲の『カチューシャ
Katyusha/多連発ロケット砲。制式名は82mmBM-8で公式名称ではないが赤軍兵士の間ではロシア人女性の愛称で、この兵器はカチューシャと呼称された)』が積載されているのである。この砲はロケット推進剤を高速度で噴出させ、反作用により、凄まじい勢いで16連発を連続発射させることが出来る。構造は非常にシンプルで、ロケット弾を載せる鉄レールを平行に並べた連続発射する、今日でいうロケットランチャである。これが戦場で、地獄の十字砲火を演出する。日本兵の間ではそのように映った。
 併せて兵士や軍馬などを満載した貨車も東へと通過して行く。それに兵士の中には女性兵士も多い。彼女達は戦車や軍用車輛の運搬兵であろう。共産主義国家では、男女は均等に兵役に従事し、この意味では男女の隔たりはなかった。
 また、ロシア民謡であった『カチューシャ
(Katyusha)の唄』(日本では流行歌として愛唱され、島村抱月・相馬御風作詞、中山晋平作曲)は、本来、歌詞も二番までしかなかったが、対独戦に際して、これに三番・四番の戦争風景の歌詞が付け加えられて、ソ連の代表的な歌謡曲というか軍歌というか、いつの間にか国境警備隊の恋人を思う娘心の歌に早変わりしていたのである。反ナチズムの唄とも取れる。

 屋根裏部屋の窓から視たシベリア鉄道の貨車に、時には飛行機なども積載されていた。戦闘機なども極東の浦塩斯徳
Vladivostok/ウラジヴォストークの軍港)方面に移送されていた。しかし中立条約を提携している日本にではない。日本海軍が当てにしていたソ連の戦闘機でない。対日参戦時、満洲を攻め入るための空の部隊の兵器である。満洲進攻に遣われる兵器である。
 これがソ連軍の軍事実情であった。この実情を、これまで独逸戦線に投入されていた精鋭部隊の、ソ連第五軍の移動、またはその戦争準備と検
(み)たのである。
 軍隊は移動するものである。軍旅するものである。その軍旅に明らかに奇妙なものが見て取れた。何かが起こる前触れである。

 そして津村陽平の脳裡
(のうり)に映ったものは、単にソ連の対日参戦だけではなかった。
 津村は大陸から帰って来た父・十朗左衛門から日露戦争後の米国との経緯を聴いていたからである。そもそも大東亜戦争の事の始まりである。これには満洲が大きく絡んでいた。特に満鉄である。鉄道の権益である。
 この権益に米国の鉄道王ハリマンが一枚加わろうとしていた。しかし日本は米国の参入を拒否した。
 この拒否は何に繋がったのか。
 津村陽平は以前、赤城嶺山神社は古神道の神主・林昭三郎から聴いた『火の雨予言説』である。
 この爺さまは刺客に遭い、斬られて不運の死を遂げたが、「火の雨」が何処までも脳裡に引っ掛かっているのである。この「火の雨」と満洲の鉄道問題は、共通項をもっているのではないのか?……。彼にはそう思えてならない節があった。

 火の雨……。つまり原子爆弾。この、人類初の原爆を日本人の頭上で浴びる計画であった。
 日本に原爆を投下する為の「マンハッタン原爆計画」は、1944年、ニューメキシコ州のロスアラモスの「プリンストン高等研究所」で、オッペンハイマー
John Robert Oppenheimer/アメリカの理論物理学者で、原子爆弾の完成を指導。1904〜1967)やアインシュタインAlbert Einstein/理論物理学者で、特殊相対性理論・一般相対性理論などの首唱者。リンストン高等研究所で相対性理論の一般化を研究し原爆計画に携わった)らのユダヤ人科学者によって原爆は研究・開発された。
 現に、プリンストン高等研究所への資金提供はロックフェラーとモルガンが22億ドル
(日本円で約4兆円)を拠出している。
 多くの戦史家は、何故ドイツに落さず、「日本だけに」ということを充分の説明仕切れないでいる。多くの説は、もう日本の落す時には、ドイツは降伏していたという人が居るかも知れない。
 しかし論者の反論は、十九世紀の末には、既にウランやプルトニウムは協業化され、ロックフェラーとモルガン連合は、世界中から原爆材料を買い集めていたのである。加奈陀
(カナダ)と白耳義(ベルギー)領コンゴのウランが、米国に持ち込まれ、原爆計画が始まったのは、第二次世界大戦が始まる前であった。

 1945年7月16日、世界初の原爆実験はニューメキシコ州のアラモ砦のあった砂漠の中で行われた。その三週間後、原爆を搭載したB29が、8月6日ウラン弾を広島に、その3日後プルトニウム弾を長崎に投下した。この原子爆弾がどのような悲劇を齎したか、ここでは語るまでもないが、この悪魔の兵器を作り出したのは、国際ユダヤ金融財閥によってであった。
 それも原爆の被害を受けたのは、日本だけであった。
 ロックフェラーもモルガンも、また原爆投下を命じたトルーマン大統領も、何れもイルミナティの使用人であり、こうした米国支配中枢に命じられての事だった。
 これを更に突き詰めると、こうしたユダヤ系の財界実力者が、日本に原爆を投下したのは、満洲にユダヤ人国家を作る計画を、日本が邪魔したと言う理由からだった。そこで浮かび上がって来るのが、例の「ハリマン事件」である。この事件は、日露講和会議から起こった。

 明治38年
(1905)8月29日、日露講和条約の締結が決まった(調印は9月5日)。更に10月12日、T・ルーズベルト米大統領【註】日露戦争の講和を斡旋)の意向を受けて来日した米国の鉄道王エドワード・ハリマンと、首相の桂太郎とが会談した。この会談により、南満州鉄道を日米で共同経営する構想で、元老の井上馨や財界の渋沢栄一も賛成し、南満州鉄道の経営に関する覚書に合意したのである。
 ところが、日露講和会議から戻った小村寿太郎はこれに猛反撥した。この小村の反撥により、覚書調書はあっさりと破棄された。ここから日米対立が深まっていくのである。小村は、米国の本当の正体を知っていたからである。しかし、ここではそれを論じない。

 だが日本人個々人が、米国の鉄道王ハリマンが提案した、南満州鉄道の共同経営を拒否したことを重視して考え直してみる必要があるのではないか。
 また、ハリマンが目論んだ「ユーラシア大陸横断鉄道」あるいは「世界周遊鉄道網」の野望が、当時の日本の国家政策により、潰えてしまった米国側の遺恨が、その背景に浮上するのである。
 それほど、満鉄の「日本の生命線」ともいわれた国家的事業は、逆の意味で満洲に侵入できない米国から、激しい恨を買ったのである。そしてペーパークリップ作戦と抱き合わせだったことに注目したい。
 それを思えば、現実には共同事業提案
(1905年)から、広島・長崎への原爆投下の昭和20年(1945)8月までの、「遺恨なり40年目」のことだった。


 ─────近代戦で兵力と言った場合、兵士の数ではない。武器が同等であって、その優劣の差が殆どない場合にそれで武装した兵士の数で、本当の兵力が決定されるのである。十六世紀の戦国時代では兵士の数が物を言ったであろうが、近代戦では兵士の数は余り問題ではない。武器の優劣が物を言う。

 津村陽平がチタの満洲国総領事館の屋根裏部屋の小窓から見たシベリア鉄道の貨物列車に搭載した兵器の数々は、「対日参戦近し」のシグナルであったのだろうか。
 あるいはその準備。そのように解釈されよう。その懸念は大であった。そして、その時期はいつか?……。
 津村の脳裡には独逸降伏後、三ヵ月前後。推定すれば来年の八月の初旬頃……。大東亜戦争は終盤に差し掛かっていた。日本の敗戦は確定的であった。
 独逸はおそらく来年の春には降伏するだろう。この降伏を暗示させるものが、満洲国の旅券
(passport)を持ったユダヤ人であった。ナチスの迫害を逃れて、続々と満洲へと亡命しているのである。この裏には何があるのか。
 また大陸を舞台とする大アジアには、今何が起ころうとしているのか。陰謀なのか。単なる幻想なのか。

 陰謀……。
 それは謀叛
(むほん)とか計略と解される。
 陰謀が起こればその多くは暴露されるが、更には陰謀など無いと否定されても、否定されたものが繰り返し蘇って来るのも、また陰謀の持つ性質の特異なところである。
 陰謀と言えば、一般にはバカバカしいと一蹴
(いっしゅう)されてしまう。その一蹴されたものが、いつか浮上して来るのである。そして陰謀の隠された部分を見抜くことは難しい。
 しかし陰謀を「計略」と解すれば、少しは分り易くなるのではあるまいか。更に計略を「計画」と直せば、此処に新たな切り口として、歴史の断面が見えて来るのではあるまいか。
 陰謀……。
 それは魔術的な響きを持つ言葉である。
 そして「幻想」と言えば、満洲国自体が幻想の塊ではなかったのであるまいか。
 戦後の日本史で「満洲国史」を論ずることは長い間のタブーであった。

 満洲……。
 それは今日では中国東北部の三省および東部内モンゴル
(熱河省)をもって捏造(ねつぞう)した傀儡(かいらい)国家をいう。そしてこれ自体が、大陸に日本の植民地を建設し、日本人が我が物顔で独占する。既に陰謀であろう。
 満洲国は昭和7年
(1932)、もと清の宣統帝(せんとうてい)であった愛新覚羅溥儀(あいしんかきら‐ふぎ)を執政として建国。昭和9年(1934)に溥儀が皇帝に即位し、首都は新京(長春)に置いた。だが、昭和20年(1945)8月15日の無条件降伏とともに消滅した。現在、中国では偽満州国と称している。
 満洲国の始まりは昭和6年
(1931)9月18日の満洲事変に始まる。奉天(現在の瀋陽)北方の柳条湖【註】事件の起こった地名を柳条溝とするのは誤り)の鉄道爆破事件【註】関東軍の参謀だった石原莞爾中佐らの謀略計画により柳条湖で満鉄線路を爆破し、中国軍のしわざと偽り、攻撃を開始した事件)を契機とする日本の中国東北への侵略戦争であると、近現代史では教えている。これが日中戦争における十五年戦争の第1段階である。

 満洲国……。
 果たして日本の大陰謀によって満洲国は建国されたのだろうか。また、この大陰謀は日本一国だけで企てられたのだろうか。
 もしそうだとすると、日本には満洲国を建国するだけの多額な資金があったのだろうか。それだけの巨額な資金が国庫にはあったのだろうか。
 確かに満洲事変は、関東軍の仕業
(しわざ)によろう。だが、この事件を仕掛けるように唆(そそのか)し、耳許で囁(ささや)いたものは、別に居たのではないか。日本を裏で煽(あお)った者がいた。煽動者(agitator)がいたと検(み)るべきだろう。
 近代史は十八世紀後半から、おおよそ一つの流脈によって人工的に、あるいはある特定の目的、もしくは意図を持った隠微な、殆ど表には姿を顕さない集団によって形成されたことは確かである。それを陰謀と呼ぶか否かは、個々人の感性の差によろう。
 歴史が人民の声を繁栄して自然体で栄枯盛衰の自然の摂理で動かされていると思うなら、それでもいいし、また世界には他国に攻め入り、そこを割拠し、牛耳ろうとする潜在的な意図が働いていると検
るのなら、それでもいいのである。人の感じ方は個々人で違う。洗脳度合いも、洗脳され方も、個々人で異なるのである。

 だが、事実検証として、これを特定の感情論
(populism)で測定してはなるまい。感情の物差しで、これを計ってはなるまい。
 つまり、一般大衆の考え方、感情、更には要求を代弁しているという政治上の主張や運動などを外して、もう一度、かつての満洲国を検て頂きたい。検証して頂きたい。率直に凝視すればいいのである。
 何故なら、この国は建国以来、僅か十三年で滅亡しているからである。
 果たして王朝が崩壊するのに、僅か「十三年」という短期間で崩壊するだろうか。捏造
(ねつぞう)された傀儡(かいらい)とは言え、王朝が崩壊するには、それなりの時間が掛かるからである。
 そもそも富の収奪と独占を狙って、支配階級が企てる権力抗争の構造は、現体制の支配階級に対して、それに相反する被支配階級が、その立場の逆転を企てて執念を燃やす、そうしたものであり、それでも王朝や軍事支配を配して君臨したとしても、高が十三年と言う短き命ではなかった。
 満洲国が十三年で崩壊したという作用に対し、裏では何らかの反作用は存在しなかったのだろうか。
 単刀直入にいえば、日本への、世界を廻した反動の軋轢
(あつれき)である。こうした事は皆無だったのだろうか。
 そして、更に分らないことがある。
 何ゆえ、日本は大陸の奥地へ奥地へと侵攻したのだろうか。侵攻の原動力は何なろうか。日中戦争は拡大方向へと進み、その勢いは止まることはなかった。何とも不可解である。背後に、煽動者が居たとしか考えられない。

 陰謀により暗殺と殺戮が繰り返され、それが日本軍閥の“軍刀”だったという論者もいる。だが、この軍刀はそれほど威圧的なもので、脅
(おど)しの兇器としては充分に効果を発揮したのだろうか。
 あるいは「試し斬り」という妄想から、軍刀がその槍玉に挙がったのではないか。
 ズバリ言えば、刀は素人が用いても斬れるものでないからだ。
 日本刀で頸
(くび)を刎(は)ねる。これには“大した伎倆”いる。腕がいる。時代活劇で見るような、人間は斬り易い大根でないからだ。人間の肉体は男女とも強靭に出来ている。格闘技経験のないヤワな一般人への打撃でも、徒手空拳での一撃必殺などは、決してあり得ない。殺すにも時間が掛かる。
 私はかつて、ある戦前の合気道経験者が、大陸で見てきた将校の、軍刀での中国人試し斬りを書いた本を読んだことがある。それによると、若い将校は中々斬れずに斬り直し、刀は飴の棒のように曲がったという。
 また、空手有段者の将校が一撃必殺で中国人を殺そうとしたところ、連打し、蹴りまくっても中々死なず、最後は軍刀で刺し殺したと言う。残酷な話だが、日本刀は手練でないと、人間の頸刎ねは難しいのである。

 日本軍は軍刀の錆覚悟で大陸人の頸を刎
ねた……。この幻想から、軍刀は悪の代名詞に上がり、軍刀イコール悪玉論に捏造(ねつぞう)されたのだろう。更に当時の日本軍の軍刀のレベルを考えてみればいい。
 軍刀は、満鉄刀
(満鉄の線路と同質の鉄で造ったと言われるが実際は不明)を始めとして既製品である。素延べと言う鍛錬の少ない刀剣である。これは下級将校に配給された官品である。鍛え刀でない。簡単に物に叩き付ければ曲がる代物である。剣道の五段以下の低段者では斬れずに曲げる代物である。あるいは試刀術の手練でないと、刀で人間の頸を切断することは難しい。当時の軍刀は、武器と言うより将校の象徴に過ぎなかった。または血気に逸る若い将校の喧嘩道具か……。
 そういう物を左腰の帯環に佩刀していたとして、如何ほどの殺傷力を持っていたのであろうか。
 排日運動や抗日運動は、そもそもが「日本人憎し」の感情と憎悪から始まっている。況
(ま)して憎い日本人が満洲を企てたのである。此処に世界から攻撃力が加わらない訳がない。

 その証拠として、満洲事変の処理に当たった森島守人氏は、その著書『陰謀・暗殺・軍刀』
(1950年刊行、岩波新書)の中で、満洲事変が発生したとき関東軍は満州併合論が支配的だったと言う。
 ところが、その数ヵ月後、満洲独立国論が決定的になったと言う。森島守人氏は、昭和4年
(1928)から昭和10(1935)年まで奉天総領事代理、哈爾濱総領事代理を歴任した人物である。

 では満洲事変が、なぜ満洲併合論から満洲独立国論へと変貌したのだろうか。
 関東軍の青年将校達は、当時、日本政府に対して不満を募らせていたと言う。
 この不満論によれば、彼らは満洲に独立国を作り、その国力によって日本を変えようとするクーデターを企んでいたと言う。また関東軍の横暴はこうした側面にもあったと、近現代史では論じられている。しかし、この程度の力では、変革は難しく、また非合法的な手段によって政権簒奪など無理な話である。錦の御旗がなければ、仮に武力で勝利しても、勝てば官軍にはなり得ない。ただの反逆者である。
 何故なら、政権簒奪には武力行使も必要であり、革命並みに軍資金がいるからである。そういう力は、仮に企んだとしても青年将校には無かった。2.26事件が成就しなかったのも、結局、資金不足であり、それにより根回しが出来ず、結果的には粛軍が叫ばれ、軍部の政治支配力は著しく強化させたに終わった。逆に悪しき方向へと爆走させたことになった。

 そこで吟味してみる。また近現代史を検証してみる。
 満洲国の真の目的は何であったのか?……と。
 これに国際的な巨大な影の力が働いていなかったのか?……と。
 ナチス独逸はユダヤ人を迫害した。あたかも白系ロシア人の如く……である。
 白系ロシア人は1917年のロシア革命
(十月革命以降)において国外の亡命した人達を言う。彼らはポーランドを始め北満の地にも雪崩れ込んで来て、ソビエト政権に対し反対の意を唱えた人達である。満洲国建国以降も白系ロシア人は満洲へ、あるいは南樺太や北海道の一部にも押し寄せた。
 これと同じように、ユダヤ人もシベリア鉄道を東に進み、チタから満洲里へと押し寄せて来た。彼らは難民化していたのである。迫害や戦争が、そうさせたのである。民族の移動は根元に迫害や戦争がある。それを逃れて人々は移動する。歴史には、この事実が多いことを見逃してはなるまい。難民が生まれる元兇である。
 では何故、ユダヤ人はカナン
(Canaan)の地を求めて旅をしたのだろうか。
 聖書におけるパレスチナの名称で、神がアブラハムとその子孫に「与える」と約束した地である。イスラエル人が崇拝した絶対神ヤハウェ
(Yahweh)は、そう約束した。その名は口にされることはなく、「主(しゅ)」と呼ばれる。主が、そのように約束したのである。

 ユダヤ人(Jew)……。
 ヤコブの子ユダ
(Judah)の子孫の意味である。ユダヤ教徒を、キリスト教の側から別人種と見なして呼ぶ名称である。現在イスラエルでは「ユダヤ人を母とする者またはユダヤ教徒」と規定している。
 そして十字軍時代以降、ヨーロッパのキリスト教徒の迫害を受けたとされる。近世、資本主義の勃興とともに実力を蓄え、学術・思想・音楽方面にも活躍するも、その多くはディアスポラ
(離散)したユダヤ人で、中世以降ドイツ、次いで東欧に移住した人々を指す。ナチス独逸のホロコーストで犠牲になった人達である。彼らをアシュケナジム(Ashkenazim)という。白い肌を持つ、かつてはカザール人と言われた人達である。
 しかし旧約聖書に出て来るアブラハムから始まる、その子イサク、その孫ヤコブの、神からイスラエルの名を授かった十二人の息子たちではない。血縁が違う。紀元千年頃、北からロシア正教、南からイスラームへの何れかへの改宗を迫られたが、そのどちらも選ばず、ユダヤ教へ改宗をした人達である。
 その後、彼らは十三世紀頃、ユダヤ教への迫害を受けて離散する。ところが、アシュケナジムと同じように離散した後、中世以降、スペインならびに北アフリカなどに移住したセファルディム
(Sephardim)でないことに注目したい。セファルディムが非常に貧しい生活をしていたのに較べ、アシュケナジムの多くは比較的裕福であった。
 アシュケナジム
(経済上位層)とセファルディム(経済下位層)。双方は同じユダヤ教徒でありながら、経済格差が極端に開き、貧富の差が烈しいのである。これが1948年以降のイスラエルの二重構造社会である。

 現に米国では、1%にも満たない裕福なユダヤ人がエスタブリッシュメント
(establishment)として金融界を牛耳っている。この事からも経済格差が分ろう。桁外れの、ほんの一握りの大富豪である。
 また、彼らは国家・市民社会のさまざまな次元で意志決定や政策形成に影響力を及ぼす。外からは、隠れて内部を窺い知ることが出来ない。

 かつてナチス独逸の迫害を逃れて独逸から東に向かったアシュケナジムと呼ばれたユダヤ人が居た。彼らの向かう先は満洲であった。満洲ではユダヤ人を受け入れる計画が立てられていた。この計画を『フグ計画』という。フグといえば、あの河豚
(ふぐ)である。猛毒を持つ河豚のことである。
 確かに河豚は猛毒を持っているから危険だが、猛毒を取り除けば、この魚は中々珍味である。高級魚の部類に入る。そういう意味から、ユダヤ人受け入れを『河豚計画』といった。
 この計画に背景には満洲にイスラエルを作る、あるいはシオニズム運動
(神から約束された地、つまりパレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動)に従って、この地にイスラエルを建国するという計画であった。イスラエルは1948年に国家建国の実現がなるが、それ以前の16年ほど前のことである。
 では何故、満洲にイスラエルを建国しようとシオニズム運動の前倒しが行われたのか。
 これは米国に住む1%未満の米国系ユダヤ資本に頼り、満洲に出資させる計画があったからだ。
 この計画は、満洲に国家を作ろうとする「ユダヤ満洲共和国計画」である。
 国際ユダヤ金融資本を総動員して、満洲国を繁栄させる企みがあった。ところが、米国のユダヤ資本は『河豚計画』には乗らなかった。

 これについて「もし」という話がる。
 もし、この計画が上手に進められたら、少なくとも数十万人にユダヤ人はホロコーストの毒牙に掛からなくてもいいという話である。更に、この計画が成就していたら、日米は友好国になり日米戦は避けられたと言うのである。しかし、あまりにも楽観的な気がしないでもない。あり得たことであったかも知れないが、満洲国はあるいはこの政府は、イスラエルと関係
(connection)があり、便宜上においてはネットワークがあったことになる。つまり、この関係から読み解いていくと、満洲が単にソ連や中国とだけに隣接しているだけでなく、間接的には米国とも猶太(ユダヤ)とも、また中国軍の軍事顧問だったナチス独逸とも深い関係を持っていたことになるのである。
 特に近現代史では猶太とナチス独逸の関係を見逃しがちである。

 近現代史は、日本の関東軍の独走によって作られた傀儡の似非
(えせ)国家だと教えているが、満洲と言う国家像を考えると、どうやらそれだけではなさそうである。
 満洲事変そして満洲国の建国。
 この流れの中には、日本が日露戦争で得た東満鉄道などをはじめとする鉄道網と深い関係があった。日本の部隊が満洲に駐留した訳は、鉄道保護と言う理由から、満洲本線のうち関東州外を走る625kmに対して鉄道線路1kmにつき、兵力15名が駐留することが認められていたからである。鉄道の建設と警護に必要な土地の使用、つまり「鉄道付属地」の権利である。日露戦争後、東清鉄道建設における帝政ロシアの極東政策の引継で、この解釈は租界同様に満洲全体へと広がっていった。
 これを概算すると、最大で9375名
(625km×15名)の兵力が満洲に駐留していたことになり、この兵員数は当時の日本軍の編制では、おおよそ一個師団に相当する兵力となる。この単位は、陸軍の編制単位の一つであり、司令部を有し、独立して作戦する戦略単位である。聯隊並びに直轄部隊から編制され、作戦を展開するための基本単位である。

 この経緯を振り返れば、日本は日露戦争に勝利した直後、旅順
りょじゅん/中国遼寧省、遼東半島の南西端、大連市の港湾地区で日清戦争と日露戦争で日本軍が攻略した租借地。先の大戦の敗戦後はソ連の管理下にあった)に関東都督府を置いた。満洲の支配機関である。
 関東都督府は表面的には行政を担当する機関であるが、これを表に民政部とし、この裏に軍事力を背景とする陸軍部があったのである。近代市民社会は文武の両方が備わって機能する社会構造であるからだ。大正8年
(1919)の事であった。やがて民政部は関東庁となり、陸軍部は関東軍となった。
 これが関東軍の起こりである。満洲事変を起こした関東軍の始まりであった。
 一口に国益と言うが、それはまた富の収奪と独占を図った「煩悩夢を為
(な)す」の始まりでもあった。満洲の総ては、此処から始まったと言えよう。『大東亜共栄圏』を掲げる夢と野望である。



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