運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 55

自分の力であくせくともがいて、命を無駄に磨(す)り減らすような苦戦状態に陥っても、それに囚われていては無闇に寿命を縮めるだけである。賢い行動選択とは言えない。愚である。
 要は「虚(から)」になることである。捨てるだけのことである。
 この「捨てる」と言う行為こそ、実は虚(から)になることの妙法だったのである。
 腹の中を空っぽにすればいい。腹積もりをなくせばいい。そして虚になる。たったそれだけのことである。

 虚から出て来るものは無尽蔵である。無限と云う言葉は、実に此処にあるのである。
 虚空こそ無尽蔵の蔵である。虚で立ち向かう。
 これが捨てると言う行為の妙法であり極意だった。
 それは虚で立ち向かうから、戦法の出かた次第で千変万化するのである。その変化は無限である。無尽蔵にいろいろな道が顕われて来る。したがって、この道は行き詰まることがない


●好事も無きに如かず

 好事魔が多しと言う。何事も上手く行き過ぎると、そこには魔が入り込むと言う。
 一方で、「好事門を出でず」というのがある。幾ら善い事をしても、善い行いや好評判はとかく世間には伝わり難いものである。
 それに比べ悪事や悪評は千里を疾
(はし)ると言う。とにかく伝わるのが速いのである。
 それは、そもそも「好事」に問題がありそうである。
 めでたいこと、善い行いをどう制御するべきか。
 そこで、『碧巌録』には「好事も無きに如
(し)かず」とある。
 好事は、あったらあったで煩
(わずら)わしいものである。善いことが起これば、凡夫・小人ほど有頂天に舞い上がる。それなら喩(たと)え、善いことでも無い方がいい。人間は一喜一憂に振り回されるからである。
 だが、最後の帳尻合わせは善いことも悪いことも大方五分と五分である。半々で、相半ばする。善いことを喜び、悪いことを悔やむ。だが「好事も無きに如
(し)かず」とある。
 人生は、その最後をトータル的に検
(み)れば、「プラス・マイナス=ゼロ」であるからだ。それで帳尻が合うようになっている。一方的に偏るものではない。

 そこで、覚えておきたいことがある。
 時の運は、如何ともし難いのである。人間の力では、どうなるものでもない。運はダイナミックにうねるものである。それに盛衰がある。運の陰陽に支配されるためである。ここに、「事志
(こと‐こころざし)と違う」という現象が顕われる。自分の意志とは違う結果が顕われる。それが失敗と言う現象だ。
 綿密に計画を立て、慎重に行動をしても、現実に顕われた事態が、自分の意志とは違う方向に動く場合があるが、それは運の陰陽に、人間が支配されているかだら。斯
(か)くして、食い違いが起こる。
 だが、それは運命の所為
(せい)ではない。
 これを忌憚
(きたん)なく言わしめれば、自分の周囲の左右に人材がいないためである。
 特に参謀的な幕賓
(ばくひん)になる人物が居ない場合、顕著である。その場合に、事志と異なる現象が顕われる。人間は、一人では事を成就出来ない所以(ゆえん)である。複数の智慧を結集しなければ、志は最終的には結実しないものである。多くの同志を集め、自らの掲げる大旆(たいはい)の下(もと)に結集させねばならない。
 一人では力不足である。大志を抱いても、人の結集がなければ、独り善がりで終わる。そして左右の拮抗が採れていない場合は、食い違う、こうした現象が顕われる。

 事志と違う……。
 これは、自分の周囲に人材がいないために起こる。一人の智慧は高
(たか)が知れているからである。ゆえに独断専行での実行は結末に食い違いが起こる。事、成就ならず……。幕賓が居ない場合、そうなり易い。
 専断を実行して、最後に顕われる結末は悲惨なものである。幕賓が居ないことは、周囲に仁を教えず、不仁の佞智
(ねいち)を働いてしまうからである。
 このときに顕われる好事現象は、結果的に恐ろしいものである。紛
(まぐ)れ中(あた)りであるからだ。
 凡夫の場合、好事が顕われて、たった一回の幸運に気をよくしたり、これが自分の真の実力だと自惚れたりする。これに驕
(お)れば、好事は魔に魅(み)入られるのである。
 魅入られれば、混乱が起こる。賢愚が入り乱れる。志操
(しそう)を高くしても、最後は乱れる。
 この現象下では、瓦礫
(がれき)が玉(ぎょく)に化けたり、玉が瓦礫に下に隠されて、手にするも、その識別が能(あた)わず、脚で踏みつけて、多くは自ら宝の山に入りながら、自分がその山に入っていても、玉と瓦礫の区別がつかないものである。「灯台下暗し」も、こうした識別のなさから起こる。手近な、善きものの価値は分り難いものである。これが世の通例である。
 身近では玉があっても玉に気付かず、これを見逃す……。世の多くの人間の実像である。玉を見ながら、玉に気付かない……。これこそが、甘い“煩悩児”の姿である。

 東北の民話に出て来る家神の「座敷童
(ざしきわらし)」も、灯台下暗しのように、わが家に棲(す)み付いても気付かないものである。座敷童は単なる寓話であろうが、その譬え話から分るように、普通気付かず、粗末にする場合が多い。あたかも多くの日本人が水と空気は、タダと思っているように。日本人はタダの好きな国民である。かつては安全までタダと思っていた。しかし、感謝を忘れれば、やがて“しっぺ返し”が来る。
 座敷童……。
 小児の形
(なり)をして顔が赤く、髪の毛を垂れ、時には枕返しの悪戯をする。しかし気付かずに、気配も観じず、放置し、粗末にすれば、やがて去って行くことになる。居なくなればその後、家は衰退の一途を辿ると言う。気付かぬ罪である。
 つまり挿話であるが、煩悩児は玉に気付かないのである。自ら宝の山に入りながら、玉と瓦礫の区別もつかないのである。煩悩児の現実である。
 善きにもならず悪しきにもならず……。そうありたい。日々平凡。偉大なる平凡。これこそが日々是好日であった。善悪綯
(な)い交ぜの世界で、善悪にこだわらねばいいのである。

 そこで煩悩児は煩悩児なりに、自らで煩悩多き事を悟り、心を鍛錬していかねばならない。
 心の鍛錬……。心法の大事である。意志薄弱や優柔不断を鍛え直す。迷ってばかり居ては未来を喪う。
 これに気付き、鍛錬してこそ「煩悩即菩提
(ぼんのう‐そく‐ぼだい)」に辿り着き、煩悩と菩提の二元対立を超越出来るのである。更に進んで、「生死即涅槃(しょじ‐そく‐ねはん)」に至って、生・老・病・死の四苦(しく)である“生死輪廻”を繰り返す、現世の迷いの世界から解脱出来るのである。
 現象界では感得し、悟らねば堂々巡りの構造になっている。気付かねば永遠に繰り返すようになっている。
 事上磨錬
(じじょう‐まれん)は、煩悩の克服法として、その反省材料を提示している。それに気付くか、気付かぬかである。

 反省材料の提示……。
 それは戦いの中にもある。
 例えば、充分に侮
(あなど)らせておいて、更に近付けておくという策である。この策は、兵学の初歩として上げられている。
 兵学の初歩の中には、緒戦
(第一回目の発端時)では緊張が漲(みなぎ)り、例えば「追撃」という行為の中には、敵も味方も追撃を警戒して、その際に伏兵などの策が設けられる。その伏兵には強い者を残し、後ろに備えるのが兵学の初歩的なものであるが、これが第二回目となると、この退却法が無視されることがある。
 つまり安易に、「追いかけて来る兵は居まい……」などと安易な気持ちになり易い。これまでは強兵を追撃点に伏兵を残すのが常であった。本来は激突の前線に立たせ、弱兵を充分に退却させておいて殿
(しんがり)を遣らせるのが定石であるが、気が弛(ゆる)んだり、侮りが多くなれば自己過信に陥って「虚」を作ってしまう。相手を軽く検(み)てしまう。過小評価してしまう。それが「虚」である。
 だが、その「虚」を衝
(つ)かれれば一溜まりもない。そこに狼狽(うろた)える現実が生まれる。虚を衝かれて焦る苛立が起こる。
 斯
(か)くして、「虚を衝けば必ず勝つ」という、戦う前からの勝敗が明白になるのである。

 時の流れ、風
(ふう)の読み、布陣の検討、構え、備え、先行きの見通し、敵への動向、索敵、警戒の有無などを的確に見極めなければ、虚を衝かれるのである。
 虚を衝かれる前兆として、“おれがおれが”の我
(が)が出てきて、勇み立ち、勝ち急ぐ。それが勝ち急ぎの愚となり、焦りとなる。勝ち急いで勝てなければ、苛立が起こる。
 虚の流れに押し流されていく所以である。
 更にこれに軽薄なる「専断」という愚行が加われば、欲にかられて、事を身よがりに判断し、自軍の有を誇る自惚れや、敵軍を見縊
(みくび)る侮りが起こる。
 時の流れ……。その中に雲が出た。海が荒れた。視界が悪いなどの現象が起こる。そこに見逃しや思い込みが起こる。これを「専断」という。

 大東亜戦争の特異点を探せば、日本の運命を左右するこの分岐は、昭和17年5月25日のミッドウェー海戦にある。此処から日本は戦局を悪化させ、日本を焦土に化す事態を招いた。敗戦の元兇は海軍の真珠湾奇襲に始まり、ミッドウェーでクライマックスを迎えたと言えよう。この時点まで、米国以上に強大な兵力を擁しながら、物量では決して負けてはいなかった。負けたのは戦争指導者の愚からである。指導者の力倆と鬼才と戦略の差に負けたと言うべきであろう。
 日露戦争の時に較べて、人間の才が大きく変化した。元兇は軍隊官僚主義である。その科挙的な試験制度である。答のあるものには強いが、答の無いものは不得意な、記憶力つまり左脳の優れた者だけを起用したことから始まる。空間的な創造力は殆ど顧みなかった。
 成績優秀者は言語的・分析的・逐次的情報処理などの科挙的頭脳に依存された。分別知に重きを置き、無分別智は無視された。教科書に掲載されておらず、答のない白紙の答案用紙に、答を書き込む能力は無視されたのである。戦略には解答がない。自らで創造して解答を造り上げていくのである。創造しながら、変化に対応しつつ「殆
(あや)うき」を取り除いていく。その種を駆逐するのである。

 明治期、プロシア陸軍のメッケル少佐によって構築された参謀制度は、優秀な『作戦要務令綱領』を作り出しておきながら、昭和に入るとこれが度々無視された。
 これによると「……為
(な)さざると遅疑するは、指揮官の最も戒むべき所とす。是此(これこ)の両者の軍隊を危殆に陥らしむこと、其(そ)の方法を誤るよりも甚しきものもあればなり」とある。
 だが何につけ、事を起こすには時宜
(じぎ)を得ねばならない。成らぬものは成らぬのである。
 これを教えるのに『啄
(ついばむ)』というのがある。啄撃(たくげき)の意味である。「そっ啄」ともいう。
 啄は鳥が木の幹を突つく意味である。ひなが卵の殻の中で啼く聲
(こえ)が聴こえたら、母鳥は殻を突つき破ってやるのである。この場合、突つくのが早過ぎても遅過ぎてもいけない。時宜を得なければならない。
 だが、これを読み間違う者は多い。時機
(とき)を見誤ったり、読み違えをする者は多い。

 時の流れを知らず、風
(ふう)を読むことを知らない者は、秋(とき)を読み間違って無益に右顧左眄(うこ‐さべん)し、迷い、困り、断を下すに遅疑逡巡(ちぎ‐しゅんじゅん)し、いたずらに時を費やして戦機を喪う。躊躇(ためら)い、あるいは焦って時機(とき)を喪う。戦争指導者は刹那(せつな)を読む勘所(かん‐どころ)が必要である。しかし当時、これを有した者がいなかった。風を読み、殆うきを感知する指揮官がいなかった。
 つまり、解答のあるものは暗記力で対応できるが、解答無きものは対応出来ない。科挙的試験制度
(答のある暗記一辺倒主義)では、そうした人物を選抜することが出来なかった。血の勝負師を昭和陸海軍では得ることが出来なかった。勉強のできる“お利口さん”は選抜できたが、血の勝負師は探せなかった。

 例えば、米国で言えば海軍のニミッツ
(Chester William Nimitz)や陸軍のパットン(George Smith Patton Jr)のような戦争を想像出来る人物である。戦争を想像出来る人物を「血の勝負師」と言う。
 だが日本には、この時代、血の勝負師はいなかった。答のあるものに解答が出来るだけの軍隊官僚しかいなかった。併せて先任主義であった。知識者が中心で、見識者は予備役に伏されて野に下り、胆識者は皆無に近かったのではないか。
 大東亜戦争の敗北は、此処にあるといえよう。


 ─────昭和19年7月半ば過ぎ、津村陽平は満洲里にいた。この漢は、吉田毅の赦しを得て、満洲里ホテルの前の路上に露天の寸劇商売を始めた。
 津村の出で立ち。布衣
(ほい)ならびに履物、少しも飾っていない。一目で貧乏であることは分かる。だが弱小も貧弱さも嘆きはしなかった。
 本人は喇嘛
(ラマ)僧きどりである。毅然としている。だが、どこかに気概の稟(りん)たるものを備え、赭顔疎髯(しゃがん‐そぜん)、寔(まこと)に渋味がある。人相骨相、更に風体少しも卑しからず。
 笈
(おい)の上に丸めて止めていた蓙(ござ)を敷き、その上に刀剣五振りを並べた。そして自らは、露天主面して、でんと腰を据えた。風を読んで、時を俟つ。出て来る者を俟つ。
 さて、これから鬼が出るか蛇が出るか……。それに些
(いささ)かの期待を賭(か)けていた。
 しかし、直ぐには鬼も邪も出なかった。数分が過ぎ、数十分が過ぎた。残り時間は、あと一時間ほど。
 それでも津村は諦めなかった。顕われる確信を抱いていた。
 『梟の眼』
(owls-eye)が掴んだ情報では、星野周作は満洲里にいるとなっていた。必ず顕われる。そう読んでいた。
 湯村は喇嘛僧に化けているが、時として刀屋にもなる。何にでもしたたかに化ける。身形を変えずに、化ける才を持っていた。『隠形之術』の特長である。隠形は何も身を護る方法として、姿を隠すだけでない。隠さずに何かに化けることもする。摩利支天の印を結び、『真言九力
(しんごん‐くりき)』をもって役者の変更をすることが出来る。化けてその役者になりきることが出来る。

 「さて、お立ち会い。ここに取りい出したるは、日本の名工の作の五振り……。何れも業物
(わざもの)。その中でも『備州長船祐定』は、天下の業物中の業物……」
 聲
(こえ)を枯らして、口上を述べていた。
 漸
(ようや)く鬼が出た。一時間を過ぎた頃であったろうか。

 「おい、お前。誰の許可を得て、此処で商売している?!」叱責するように言う。
 「はてはて、誰の許可と言われましても困りましたなァ……」頓狂
(とんきょう)に恍(とぼ)けてみせた。
 「まあ、よかろう。鑑
(み)れるのか!」
 「鑑れるのかと申しましても、ご覧の通り……」
 「では、売買もするのか?」
 「刀屋でございます、値が合えば……」《お買い上げ致します》という言い方だった。
 「よかろう。まずは、これを鑑て貰おうか」
 そう、話を切り出したのは地元の憲兵らしい。テキ屋で言えば地廻りだろうか。それも将校である。憲兵バッチを襟に付けた少佐であった。
 かつて憲兵の襟章は黒であった。ところが、黒の襟章は抗日運動で憲兵が狙い撃ちされたことがあった。そこで昭和13年以降の陸軍の軍服・軍装の改訂により、これを排した。下士官は白地に赤の「憲兵」の文字艶やかな腕章をしているが、将校は腕章をしない。その代わり、小さな憲兵バッジを襟に付けている。検
(み)る者には憲兵であることが分る。
 その憲兵少佐が、自らの軍刀を吊環
(つりかん)から外し、「どうか?」と訊いた。佐官の、尉官とは異なる金無垢の軍刀拵に納まった一振りである。
 そして、「では早速、拝見しましょう」となった。
 津村は受けた一振りに恭
(うやうや)しく一礼してから、佐官級の軍刀仕込みの柄の縁ボタンを押して、鉄覆いの鞘を払い、刀身を鑑て感嘆するように言った。

 「これはこれは、手前どもには、とても手が出ません。鑑るところ、『筑州住左』と検
(み)ます。『左』の一文字のみ。裏銘が『筑州住』……。天下の名刀。刃文、小錵(こにえ)付き、小乱れ尖(とが)り。刃、五の目交り。鋩子(ぼうし)、突き掃ける。喰い込み尖り返る。これを『大左』という。いい眼の保養をさせて頂きました。しかし、手前どもには、とてもとめも……」《大業物ゆえ値段が高価すぎて、とても買い求めることは出来ません》の意味である。
 「中々だなァ、見事な目利き……」一瞬、胸襟を開いたような言葉を漏らした。
 「しかし、尖先
(きっさき)三寸に刃零れと血の翳(かげ)り。早速、研がれた方が宜しかろうと……」
 こう言った言葉に隙がない。だが調子に乗って言ったのではない。相手の許容量を読むための話術である。
 小心翼々の小人が虎の威を借る狐ならば、直ぐに語調に顕われる。その種の夜郎自大になりさがる漢が、大業物の『筑州住左』など
に佩刀(はいかん)して腰に吊るわけはない。その人間の器量を読んだのである。
 さて、如何?……。

 「お前……」
 「ただの刀屋で御座いますよ」だが自分の帯紐
(おびひも)を解いてしまうような風は容易に示さない。ほどよい緊張の中にある。それだけに温容(おんよう)とも、心掛けとも映るが、悪く解すれば、他人の心の裏を読む二重底、三重底の用心深さもあった。眼光は炯々(けいけい)として依然鋭い。付け入る隙がない。
 それに津村の事である。抜き打ちに斬り付けても、その刃を躱す力倆は持っている。敏捷に去
(い)なす余裕はある。
 「よく作っているが、ただの刀屋ではあるまい?」
 「さてさて、何に見えましょうか?……」
 「問答する気はない」油断させる策とも映る。懸命な策で言葉を選んでいる。
 しかし、その手には乗らない。津村には話術的な技巧と機知が働いて、既に相手を呑んでいるのである。
 「では、これでそろそろ店終いでもしますか……」
 「俟て!」
 「逮捕なさいますか」
 「憲兵を見ても驚かぬ……。徒者
(ただもの)ではないな?」
 「ただの刀屋で御座いますよ」
 「いや、その目配り。読心の冴え。物怖
(もの‐お)じしない肚の据わり。そして官憲に動じない度胸……。何処から検(み)てもただの鼠ではない」
 「ただの鼠で御座います」
 「果たしてそうかな……。それこそ徒者ではない証拠だと検たが」
 「では、その証拠として、陸軍大臣閣下の命を受けて、各地を視察する『視察人』としてでは、どうでしょうか?……」鎌掛けである。
 「なに!では、お前は要視察人?」
 「視察人は憲兵隊にも視察を致します、お気を付けて……。それに言葉をお慎み下さい」鎌を掛け、官憲の威圧を制したのである。
 「うム?……」
 この世界も、一種の食物連鎖で成り立っている。その輪の中に在
(あ)って、上には上が居る。だが津村は視察人などではない。ただの一介の下級将校である。自分では「見習い少尉」と呼称する将校か下士官か分らない下級の身分である。
 しかしこの一言で、軍刀仕込みの刀を鑑定させた憲兵少佐は大いに震え上がった。
 「私は一介の路傍の刀屋で御座います」
 この言葉は、もう憲兵少佐には通じまい。完全に一目置いてしまったのである。
 「然
(しか)れども、世が世ならば、路傍の人でない気がする……。眼光鋭く、貴殿は奥底に、たまらない情味をたたえている……」憲兵少佐も人を検(み)て物を言っているようだった。
 以降、何ら津村に逆らうような言動も態度もなかった。時間切れで、店終いへの道を進んで開けたくらいである。人間は、食物連鎖で成り立る権力を支配する権力には脆
(もろ)いものである。官憲の階級制度下では尚更である。上には上が居る。権力構造のピラミッドである。
 しかし津村はその種の役人でない。単なる奇舌縦横なる野人に過ぎない。上を恐れる事はないのである。それゆえに、逆に、人に恐れを観じさせる何かを有していた。それも津村の魅力なのであろう。


 ─────満洲里……。
 思えば奇妙な街であった。
 此処は日ソの情報の蒐集の場であり、またスパイ活動の拠点であった。それ以外にも欧州から、その種の諜報員が暗躍していた。
 ソ連の対日参戦……。
 英米に併せてソ連も対日参戦に踏み切る……。その情報を津村は逸早く掴んでいた。東プロシアのケニヒスベルグ
【註】ベルリンから30kmの小さな町で、此処ではナチス独逸によってユダヤ人七千名が射殺された)に駐留していたソ連第五軍はソ連軍の最精鋭部隊である。この精鋭部隊が近々動く様相を見せ始めているのでは?……という情報をチタの満洲国領事館で掴んでいた。おそらく満洲里にある日本領事館もこの動きを観じているのではないかと察していた。

 ソ連の対日参戦……。あり得るだろう。現段階で、そのように映る。
 先ず、これが阻止出来なければ、おそらく北海道や東北の一部は、第二のポーランドのような生地獄が顕われるだろう。その可能性も大いにあり得る。ナチス独逸も、緒戦とは打って代わって負けが込み始めていた。
 第二のポーランド……。日本もそうなるかも知れない。
 更に日ソ中立条約。極めて実体のないもの。この絵に描いた餅に等しい。
 ソ連は反故
(ほご)にするだろう。かつて、あっさりと破られた独ソ不可侵条約があるからだ。日本も、その二の舞になるだろう。

 独ソ不可侵条約
(1939年8月23日締結)は第二次世界大戦の重要なキーワードだった。
 この条約に補足説明を加えれば、独ソ間においては先ず第一に、相互不可侵。第二に、一方が第三国の戦争行為の対象とされた場合でも、他方は第三国を援助しない。第三に、双方何れも、一方を直接的かつ間接的に国際集団に参加しないというものであった。この限りにおいて不可侵だったのである。
 日本は昭和14年
(1939)に国際連盟を脱退している。またヒトラー内閣も国際連盟脱退をした。このときソ連は国際連盟に加入していない。ソ連が加入したのは、その一年後の1934年である。こういう軍事構図の中で1939年に独ソ不可侵条約を締結した。何とも不可解な構図である。
 構図を裏から観れば奇妙なことに、この条約には『付属秘密議定書』なるものがあり、独ソ両国は東ヨーロッパにおける勢力分割を秘密議定書に従って行ったのである。ソ連がこの条約を締結した背景には、ミュンヘン会談
【註】1938年9月ヒトラー(独)・ムッソリーニ(伊)・チェンバレン(英)・ダラディエ(仏)の四首脳がミュンヘンで、チェコ・スロヴァキアのズデーテン地方をドイツに割譲することを決定した会談)以来、英・仏の対独宥和政策を鑑(かんが)み、英仏両国の対ナチス独逸間と比較しつつ、ソ連のみがナチス独逸の侵略の犠牲になる最悪の事態を回避する意図があった。そしてソ連は、この不可侵条約で大いに軍備を整える準備ができたのである。

 一方ヒトラー側はこの条約により、ポーランド攻撃において英国・仏蘭西ならびにソ連と同時に戦う事態を避けることが出来た。だが、1941年6月22日、ヒトラーがソ連に向けて電撃作戦を開始した。条約締結一年を俟たずに、あっさりと破られてしまったのである。独ソ戦が始まると、その裏では英ソ間で相互援助条約が締結されたのである。英国がソ連に武器援助を行ったのである。
 そして昭和16年
(1941)4月13日に日ソ中立条約を締結している。締結時期を考えると有効期限は5年間である。何とも不可解である。
 更に日本は、戦争終結の終結をソ連に依頼した。益々不可解である。結果は無駄な努力に終わった。
 この背景には、独逸降伏らか三ヵ月後に、ソ連は間違いなく対日参戦を行う。この事実が濃厚になり始めていた。

 人間の欲望が荒れる狂う。国家の利害が絡み合う。それぞれの国がそれぞれの国に、連衡
(れんこう)と合従(がっしょう)を企てつつ、欲望の剣を相手の喉元に突きつけ、脅し、去(い)なし、賺(すか)し、征服し、そこから富と領土を収奪する。軍事力の駆使は収奪するために最も手っ取り早く、効率的であるからだ。この方法であれば、長い時間を掛けて経済成長を待つより即効性がある。戦争には、収奪のための戦争もある。
 有史以来の人類の歴史を振り返れば、古代から現代に至るまでの人類の歴史はこの繰り返しであり、「戦争の歴史」は何よりもこの事を雄弁に物語っている。


 ─────暗号に変える乱数表……。コード法の基盤……。情報伝達の暗号鍵……。
 そういう秘密戦が津村の脳裡
(のうり)を支配しつつあった。満洲国総領事館で仕入れた情報を一刻も早く暗号に変えたいのである。羽田から発ったとき、飛行機の中で暗号コードブックの乱数ばかりを考えていた。そして予感は、対日参戦の危惧。それが迫っている。これを政府や参謀本部に伝えるのではない。不時着した米兵三人に伝えて、一刻も早く米国へ逃亡させたいのである。大統領への密使に仕立て上げたいのである。

 国家社会主義と全体主義体制清……。
 そこから連想されるは、ソ連秘密警察の企てたカティンの森
(ポーランド軍将校虐殺)、ナチス独逸のケニヒスベルグ(ユダヤ人虐殺)、そしてソ連軍の満洲への侵攻(難を逃れて南下する邦人虐殺と中国残留孤児)……。様々な死角が潜んでいる。背後には死の翳(かげ)が漂っていた。

 津村は笈
(おい)に、これまで広げていたものを直ぐさま納めた。そして駅に向かって歩き始めた。
 その途上である。
 「もし……」後ろから聲
(こえ)を掛けられた。
 その聲に何か聞き覚えがあった。老いて嗄
(しわが)れ聲だが、その音色に聞き覚えがあった。
 津村は後ろを振り向かず、八方目で後ろの御仁
(ごじん)の気配を察した。津村の視界は270度ある。ほぼ斜め後ろまで視る。一々頸(くび)を捻らないでも、身形(みなり)を観察することが出来る。後ろの御仁は老人である。黒羽織の地味な身装(みなり)をしていた。その御仁に官憲が尾行していることを察したからだ。
 この御仁は平服の憲兵が二人尾
(つ)けていた。更に、二人の尾行にソ連側の尾行が尾(つ)いていた。尾行者に尾行が尾く三重構造である。

 「尾けられている。距離を保って頂きたい……」津村は忠告するように言った。
 追って来た御仁は聞き分けよく、それを守った。横に
並ぼうとせず、ある程度の距離を保った。
 この御仁も苦労人であった。大陸を渡り歩いた苦労人を思わせた。苦労人だけに、他人
(ひと)に内容を打ち明けて説明の付くような、平坦な人生を送って来たわけではないようだ。そのように映る。人生の足跡には困窮が漂っていた。その困窮は酷いものだったらしい。人生の翻弄(ほんろう)されたという跡があった。
 あるいは、この老人は情が過ぎて、足を取られたか……。そのような人情家にも見える。
 それは津村自身が、わが父・十朗左衛門の体捌きを検
(み)てきてよく分る。苦労人は反省の塊である。反応を検る眼を持っている。それだけに警戒心が強い。用心深い。後ろにも眼がある。隙がない。その様子が窺われた。
 だが後ろの御仁は、津村に何か話したくて、うずうずしている容子
(ようす)であった。
 「あの……」遂に吐露した。
 「此処では話さない方がいい。私はこれから哈爾濱に戻る。用があるなら哈爾濱まで来るがいい」
 それだけ津村が言うと、後ろの御仁は聞き分けたのか、無言のまま、後を追って来た。快く了解を貰ったという浮き浮きさがあった。方向を同じくしているところから、どうやらこの御仁も哈爾濱へ行くらしい。尋ね人を待っているかのようであった。

 そこへ吉田毅がひょっこり顕われた。
 「出発まで、何とか間に合いましたなあ」
 「そのようで」
 「商売、巧くいきましたか?」
 「上々です」
 「あなたには羽田を発った時から、驚かされることばかりです。権力への去
(い)なし方、賺(すか)し方、大したものです。ますます下駄を預けたくなりましたよ」

 人には「格」がある。人間の違いがある。人間はみな平等ではない。
 格において、上下の差がある。この「差がある」ということが、人の格である。
 人の格を知る者は、格の高い方を「尊敬する」という行為が起こる。また、尊敬することを覚えるから、人に格があることが分る。これは「人間を知る」行為であり、この「知る」という意識の中に、劣る方は優れた方に学ぼうとする。そして人の「格」は学ぶことから構築することが出来る。
 人を知る。格を知る。それは学ぶことから始まる。
 学べば「知」が生まれる。知を突き詰めれば「見」になる。見を更に探求すれば「胆」になる、総て「識」から起こるものである。その最初が知ることなのだ。
 人間が人間を知る。『人間学』の基本である。
 つまり、この基本に人を知り、人を尊敬する「行い」と「姿勢」がある。

 さて、現代の世に、人を尊敬する行為はあるだろうか。
 権威筋に、知で適
(かな)わないとして“シャッポを脱ぐ”姿勢は見られようが、それは尊敬しているからではない。ただ「知」について、専門分野で一目置いているだけであり、知的な優劣を認めているだけである。
 この「認める」は、必ずしも尊敬と同義でない。人間的に「上だ」と認めている訳でない。
 例えば、自分の掛り付けの病院の医師に尊大な医者がいたとしよう。そしてその尊大な医者の態度に、一々言うことを聞き、医療指示に遵
(したが)うが、それは尊敬しているからでない。医療の専門家として、聴いておかねば殆(あや)ういからその言葉に遵うのであって、尊敬しているからでない。専門家の意見として、自分の知らない医学知識に対して適わない面を認めているだけである。

 勿論、医者の中には患者から尊敬される医者も居ようが、患者が医者を尊敬する場合、死病を患い、生きるか死ぬかの危険に命を晒
(さら)され、執刀医の大手術によって九死に一生を得たときは、尊大な医者であっても尊敬はされよう。患者やその家族からも平身低頭されよう。
 だが逆に、失敗すればその限りではなく、患者や患者の家族はその後、怨み、憎み通すだろう。医療裁判が茶飯事化していることは、今日の医者が“医は仁術に従って、その執刀者は必ずしも仁者でない”ことを如実に顕す側面だと言えよう。
 専門家の言には、尊敬して遵うのでなく、権威だから遵うのである。知識人として遵うだけなのである。

 しかし、権威とか知識人以外に、何の学歴もないのに他人
(ひと)から尊敬されている人もいる。
 そう言う人は、如何なる苦難も、あるいは窮地に立たされても、へこたれもせず、諦めもせず、苦境や傷害に向かって立ち向かい、能
(よ)く抗(あらが)っている。その抗う力を持っている限り、どんなに貧乏していても貧乏ではなく、どんなに逆風の強い場所に居ても、自分を決して不幸と思っていない。毅然として抗い、立ち向かっている。
 こういう人は、他人の眼から検
(み)て不幸と思えても、本人は不幸を微塵も観じていないのである。
 本当に不幸で惨めなのは、肝心要のその気力が萎え、根刮
(ね‐こそ)ぎ消え失せている場合である。
 例えば、脅しに屈するとか、協調とか、「和」の一文字にほだされて丸め込まれて妥協するとか、抗う前から直ぐに諦めたり、長い者に巻かれろ主義の、したたかな粘りの無い者の姿である。この姿は惨めだろう。
 「強
(したた)か者」でない場合、極めて不幸な人生を歩いていると言える。尻尾を巻くのが早い、負け犬の姿である。すごすごと退き下がる惨めな姿だ。
 それに較べると、窮地に立たされても、なお立ち向かう。倒されても直ぐに立ち上がる。立ち上がって一歩前に出る。諦めずに奮闘努力する。叩かれても刃向かう。圧力に屈しない。見上げた姿であろう。

 だが、人間には唯一つ堪えることの出来ない不可能な悲哀がある。どんなに努力し、粉骨砕身の情熱的な生活を送っていても、自分の今までを顧みて、辛さに堪え、風雪に耐え、押し進めて来た苦労と努力が総て空しかったと思い知らされた瞬間である。総てが徒労に終わった……と、心より思い知らされた時である。
 これまでの絶え間ざる努力に対し、一人の賛同者も居なかったと自覚したときである。
 例えば、周囲の人に限らず、自分の人生の足跡を、女房にも子供にも理解されず、認めてもらえなかったときである。空しいの一言に尽きよう。このとき一切が無に帰する。

 普通人間は、如何なる人であっても自尊心を持っている。あるいは小人と揶揄
(やゆ)される自堕落なぐうたら者でも、実は心の裡(うち)には細やかな望みと自負なる誇りに縋(すが)って生きている。傍目(はため)から見れば、他愛無い、滑稽な望みと夢であるかも知れないが、それであればこそ、人間は明日の自分があるのを信じて生きているし、生きていけるのである。

 例えば、「俺はこの程度の人間でない」とか「私には大きな夢がある」とかの類
(たぐい)である。中には、世の中は“総て金”と割り切り、「大金持ちになってみせる」と豪語する類である。
 しかし奮闘努力して、その類の夢に打ち込み、大金持ちになることに懸命になるが、世間一般の誰もが思い込んでいる、ただの“中の上”程度で終わったり、あるいはそれ以下のローン漬けになっていたりすれば、それは空しいのではないか。
 このように、わが生涯は空しかった……と認めざるを得ないときには、全く救済の手がないのである。
 特に、世間に翻弄され、煩悩に煽られながら生きている者に限っては、救いようがないのである。
 確かに夢は大きな方がいい。大志は大きい方がいい。しかし大きな夢や大志を追い掛けて終焉
(しゅうえん)したとき、そこには何とも表現しようのない空しさが残る。
 人間が深く自戒すべき根本的なる要件は、わが人生を徒労に終わらせるような悲哀に苛
(さいな)まされない鍛錬をしておかねばならない。普段からの心の鍛錬である。

 人は希望によっていき、希望が少しでも懸かっていれば、その一縷
(いちる)の希(のぞ)みに縋って生きることが出来る。だが諦めによって、空しさを痛感したとき、これまでの息の根は完全に絶たれてしまう。
 人間が、本来奮闘努力して回避しなければならない「人が陥る謀
(はかりごと)」は、空しく儚い死よりも、人に陥れられて計られ憤懣(ふんまん)遣る方ない死よりも、自分の人生を顧みて“総てが無駄で徒労だった”と観じる愚であろう。おそらくこういう人の最後は、何ぴとにも尊敬も感動も与えまい。
 人間は出来るだけ早い時期に、物事に感動を感じ、それが長続きし、そういうものに邂逅
(かいこう)することである。心の拠(よ)り所を持っておくべきである。
 また人間の「格」を知り、尊敬出来る人物を持っておくべきである。自身の生き方のお手本となるべき人物である。それは何も、現世に生きている人物でなくても構わない。歴史上の人物、また伝説上の人物であってもいい。心の拠り所になる「人生の師」を持っていることである。
 師を持っている人は、往々にして、人から一目置かれるだけでなく、尊敬されることがある。尊敬されると言うのは、逆に、他人を尊敬することを知っているからである。他人を尊敬出来ずに、他人から尊敬されるわけはない。

 現代という時代、知識者、専門家、趣味世界の舌徒の研究家などは殖えもしたが、しかしこうした人の中で尊敬されている人は殆ど見掛けない。況
(ま)して女房や子供が、亭主を尊敬するというのは限りなく皆無にしたいように思える。家長制度が崩壊した現代社会にとって、父親が子供から尊敬されている家庭など、殆どないであろう。
 特に、現代の父親像は年齢を重ねて古くなって行くに従い、厄介者のボルテージは上がっていく。父親に権威が無くなったからだ。そのためか、父親を尊敬している子供など、今日では数えるくらいしか居ない。
 また父親像が、子供の未来像になっている場合も少ない。父親否定で現代の世は進んでいる。
 戦前・戦中と家長制度が存在していたから、大半は父親に威厳があった。ところが戦後は高度成長経済に到達した頃から、父親像は影薄となり、存在感もぼやけているというのが実情のようだ。そして父親自身、自分の存在の影が薄くなっていることに気付かないである。その自覚症状がない。
 現代において父親とは何か。
 かつて欧米人が尊敬した武門の父親像など皆無である。外国人から検
(み)て、現代の父親は尊敬される権威で無くなっている。そして父親が、わが子から呼ばれる場合、その呼称は「あのひと」とか、頭ごなしに「おやじ」である。そこに敬称はない。現代日本人が、外国人から尊敬されない理由である。
 現代は、尊敬の“物差し”が狂っている時代と言えよう。


 ─────津村と吉田は満洲里から哈爾濱行きの急行列車に乗っていた。この急行は、現代で言えば特急列車の事である。特別急行と言う意味である。通過する駅も多い。その列車の二等車の車上の人となっていた。
 哈爾濱到着は深夜の予定であった。

 一方、松花江に浮ぶ太陽島に出掛けたエア・ガール四人組である。満鉄経営の高級リゾート地に居てロシア人のナターシャ・ニコルスキーの案内で北満の短い夏を楽しんでいた。
 ナターシャ・ニコルスキーは白系ロシア人である。

 「白系」とは、赤色革命でその難を逃れ、安全地帯を需
(もと)めて国外へ亡命して来た反革命ロシア人を指すが、昭和19年はロシア革命から27年が過ぎていた。亡命の色も薄くなり、白系の中にもソ連軍に軍籍を置くものは多くなっていた。また時として白系の内部調査をする間者などにもなって、ソビエト政権に反対を唱えながらも、亡命人の中には、これに協力する者も居た。諜報員や外国との貿易に携わる者も居た。
 ニコルスキー家も、そのような家であった。あるいは表面上は強力しているように見せ掛けているのかも知れない。生きるための手段であった。
 ソ連第五軍の第一重砲司令官のミハエル・ニコルスキー少将もそういう生き方を選択していた。チタ郊外にある『ニコルスキー交易商会』は、外国に向けての武器輸出機関で、ソ連の外貨稼ぎの尖端
(せんたん)を担っていたのかも知れない。公営の武器商社である。
 沢田貿易哈爾濱支店長の吉田毅は、ニコルスキー少将と懇意であった。あたかも、日露戦争における明石元二郎大佐ように……。
 吉田は防諜・諜報の面を一部で担っている。『梟の眼』の機関員である。機関員は独自の勢力に属し、強硬な戦争推進派とは異なり、反戦争推進派で、早期戦争終結を目論んでいる。
 したがって吉田は、表向きは沢田貿易哈爾濱支店長だが、実際は日本陸軍の特殊機関に属し、予備役中佐を隠れ蓑
(みの)に、対ソ謀略の任務も帯びていた。そのため反ソビエト政権を唱える白系ロシア人と接近し、ソ連軍の中にも監視する独自の眼をもっていた。『梟の眼』はそう言う眼であった。ニコルスキー少将とは盟友なのである。ソ連軍の中には隠れ白系露人が多かった。こうして敵の中に味方を作っていた。

 かつて明石大佐が参謀総長の密命を帯びて、ヨーロッパに移り、更に東欧に接近して、レーニンを盟友として帝政ロシアのロマノフ王朝を破滅に追い込んで、日露戦争に勝利したように、今度は吉田毅が、沢田貿易の沢田翔洋の命を受けて、参謀本部の戦争強硬派とは反対の運動をしていた。そのための対ソ政治工作をしていたのである。
 沢田翔洋は沢田次郎の養父である。また沢田次郎は『梟の眼』を能
(よ)く遣った。その『梟の眼』は白系ロシア勢力と接近し、ソ連に恭順したと思える軍人を取り込むことに成功していた。
 白系ロシア勢力を工作し、権力に虐げられた底辺の農民や労働者の暴動や煽動をしていた。反官憲勢力に対しての工作である。ソビエト政権の弱体化を計ったのである。極東に伸びるシベリア鉄道を利用しての武器買い付けは、その目的も背負っていた。ロシア国内の危機的状況を工作するのである。また買い付けたソ連製の武器を東南アジアに輸出し、独立運動組織に販売・支援する。販売は金である。ゴールドである。支援は軍事顧問としてである。機関員を派遣する。

 一方で、国際連合軍への監視と根回しも忘れない。
 特に米英である。間接的に連衡する。特に日本は英国との同盟関係の歴史は長い。表面的には枢軸国として英米と対立しているが、水面下では英国と関係があった。アン・スミスとキャサリン・スミスのロイヤル姉妹が幼少女期、鷹司家に寄宿していたというのも、この関係からであった。鷹司は皇族に繋がる親英派の一族である。
 ソ連を牽制するためには、米英の力が必要であった。特に英国の力は大きい。チャーチルが動かせたからである。ソ連は、おそらく一年後には対日参戦をするだろう。その予測がある。『梟の眼』は欧州に派遣した諜報員からその大方の予測分析をしていた。そのためには満洲に一番近いソ連に一人勝ちさせないためである。
 来年の昭和20年初めには、米、英、ソの三国間で連合国の最高指導者会談があるとの動きである。割拠分割の草案が練られているという情報を掴んでいた。半年後には秘密会議が行われることである。
 現に1945年2月には、ルーズベルト、チャーチル、スターリンがヤルタで秘密会談を行う。その会談の中で、ナチス独逸の敗北から三ヵ月後に、ソ連は日本に参戦する。その秘密協定の草案が練られているとのことであった。これが決定的となれば、ソ連はヨーロッパ戦線から極東へと移動する筈である。

 この当時、日本海軍はソ連が独逸を片付ければ、大量の燃料と航空機が余ると検て居た。その読みから、余った分を日本に武器援助してもらって、米国と、台湾決戦沖縄決戦、そして本土決戦を遣ればいいと考えていた。その見返りとして、満洲と樺太の領地を、そっくり差し出すという計画を立てていたのである。
 この秘密会談のテーマは独逸降伏の情勢下に、降伏後の独逸管理し、国際連合
(軍)の招集などについて秘密に協定する草案であった。領土割譲である。

 更に恐ろしい情報は、尖端
(せんたん)を切って侵攻するとき、「まず犯罪者を先頭に立てる」という策を用いるであろうと分析していたのである。
 多くの戦争の歴史を見ても敵国に侵攻するときは、犯罪者だけで構成された部隊を編制する。世に言う「ならず者部隊」である。「ならず者部隊」は、政治犯は含まれない。
 監獄に居た兇悪な刑事犯を先頭に集中させて侵攻し、そこから尖端を切るのである。この部隊に悪虐非道を働かせる。遣りたい放題遣らせる。そうなると、先ず掠奪と婦女子への強姦が顕著になる。この部隊に好き放題遣らせて、後に憲兵隊と正規軍の大軍勢は登場し、先頭に居た「ならず者部隊」を取り締まるのである。
 その取締は殆どが、ならず者どもを逮捕するのでなく、片っ端に銃殺していくわけである。スターリンの常套手段であった。

 また、スターリンの要求する草案の中には、一気に南樺太を征圧し、更に南下して北海道に攻め入り、北海道の留萌
(るもい)と釧路を結んだ線の北側を、ソ連領にするという草案を計画していた。
 この計画を阻止するには、まずソ連国内に散らばるソビエト政権に反対する白系ロシア人を抱き込み、逆に米英の力を頼りにして、ソ連と対峙させる工作も必要だったのである。この工作に『梟の眼』は暗躍した。
 こうした工作は、既に日露戦争敗戦前に明石元二郎大佐が遣ってのけている。
 明石大佐は表向きはペテルブルグの駐露公使館付き武官であったが、実際には陸軍参謀本部の対露謀略主任であり、欧州から密使としてロシアに移動して来た。任務はロシア軍の後方攪乱である。この攪乱工作に成功したのである。日本が日露戦争に勝てた大きな要因の一つである。
 明石大佐一人で、満洲軍25万人の将兵に匹敵する大成果を上げたのである。秘密戦の成功例であると言えよう。
 この成功例の背景には、大佐自身が日露開戦に備えて、ロシア情勢を徹底的に分析し、気候、風土、国民気質を調べ上げ、歴史的な特性やそれぞれの時代の人物評定までして、ロシア人に対する謀略計画を推し進めていったのである。
 しかし日本では、日露戦争に勝利した後、秘密戦を戦う情報の重大性よりも、直接武力で敵を殲滅させるという方向へと傾いていった。その顕著な例が、海軍の巨艦巨砲主義である。もうこの頃になると、情報と言うもの顧みず、また理解度も低下していた。秘密戦の何らたるかを無視し始めていたのである。

 武力偏重では国運を危うくする。武力作戦では無益な殺生を積み重ねることになり、有害無益な殺人謀略にも繋がってしまう。悲劇は拡大するばかりである。その拡大に殺された側の恨みが、怨念となって歴史に刻まれて行く。それを何とか阻止しなければ、日本民族末代までの恥となる。恥の汚点が永遠と歴史の中で語り継がれて行く。権力でも武力でも、用い方を誤ればその無知・傲慢は歴史に恥を晒すことになる。これでは万民の平和は訪れない。武力作戦偏重主義の愚行に留めを刺さねば。これが『タカ』計画であった。
 この工作は、昭和19年当時の日本政府と陸軍
(参謀本部)の戦争継続強硬の方針と真っ向から対峙する。
 『梟の眼』はそういう戦争を煽る強硬派とは、真っ向から対峙する諜報勢力であった。
 明治維新以来の反平民勢力である。平民軍隊官僚に対峙する平安期以来の公家勢力である。武装非戦論と戦争早期終結を掲げる。
 対峙構造は武力一辺倒で、対外進出で国威を高めようとする立場を執
(と)る平民軍隊官僚に対して、智謀で武力を封じ込める。非戦と兼愛を掲げる意味では、墨家(ぼっか)に酷似する。この勢力に『タカ』計画が投入された。この度の大戦では国民の兼愛を説き、早期終戦の画策を企てる。まず、戦争は止めねばならない。根絶やしにして、何が国家だ、民族だとなる。帝国主義・植民地主義を煽る国際化主義の断乎阻止。地球を欲望で膨張させてはならないのである。その挙げ句に滅びの美学で、総てが死に絶えてはならないのである。

 勢力とは人間現象界において、一方が擡頭
(たいとう)すれば、それに対峙して別の異なる正反対の勢力も併せて擡頭するものなのである。現象界は作用と反作用から成り立つ。この現象界にあって、人間はそこで人間現象を起こすだけである。
 拮抗は、バランスは、一方的に傾かず、極端に傾いただけ、それを戻そうとする揺れ戻しが起こる。山深ければ、谷深し……。現象界の作用と反作用の法則である。
 そして今、何らかの反作用が起こり始めていた。
 ソ連極東第五軍のニコルスキー少将一派が『梟の眼』に協力の意図を見せ始めたのである。白系の“どんでん返し”かも知れない。その証拠に、ニコルスキー将軍の令嬢ナターシャ・ニコルスキーはソ連軍情報将校でありながら、こうして日本陸軍の女子遊撃組織の『夕鶴隊』に協力している。大日本航空のエアーガールはあくまでも敵の眼を攪乱する表の姿に過ぎなかった。裏に攪乱の任務を帯びていた。
 彼女たちは「贅沢は素敵だ」を標榜する。大戦末期の日本のミリタリーバランスの反動である。奇妙な揺り戻しが起こっていた。

 昭和16年以来続いた“贅沢
(品)は敵だ”の内務省通達に対峙して、反内務省派は哈爾濱の高級リゾートで寛いでいた。エア・ガール四人組は太陽島で、甲羅干しをしていた。休暇である。これまでになかった特大バカンスを楽しんでいた。こういうことは日本国内では不可能だろうが、満洲では出来た。
 大洋島は北満の代表的なリゾート地であり、哈爾濱の北西を流れる松花江の中州にある。此処は帝政ロシア時代からの行楽地であった。哈爾濱市民は此処で短い夏をヨットを疾
(はし)らせて楽しむのである。
 しかし、これはただの遊びでない。楽しみの中に工作の任務が隠されていた。津村陽平が授けた官憲の惑乱工作である。そして惑わした敵を掻き回す攪乱工作である。これにしくじれば、大変なことになる。

 もともとアン・スミス・サトウは婚姻によっての英国からの帰化人で、元英国空軍少佐でテストパイロットであった。しかし国家転覆罪で死刑判決を受け、府中刑務所に居た。また妹のキャサリン・スミスは元英国空軍少尉で暗号解読に優れた数学者でお茶の水女子大学の講師であった。彼女もまた治安維持法違反で無期懲役の判決を受けていた。二人の姉妹は英国王室のロイヤルファミリーである。
 何れも戦争強硬派の捏造で、死刑判決と無期懲役判決を受けていた。それを沢田次郎が『要視察人』として立回り、二人の姉妹を陸軍航空士官学校
(陸軍航空総監管理下)顧問に仕立て上げた。軍事顧問である。その彼女達二人を『夕鶴隊』の教官に据えた。
 二人教官は鷹司良子と室瀬佳奈を連れ来ていた。また良子と佳奈は鷹司家の主人の侍女の関係である。
 哈爾濱の松花江に浮ぶ高級リゾート地の太陽島にいた。しかしバカンスを装っての、内外の官憲やソ連諜報員を惹
(ひ)き付けておく任務を背負っていた。

 権力に工作を仕掛ける日本側の策は未熟であった。日本の工作には限界があった。更に満洲側も同じように未熟であり、防諜はあっても防諜態勢は笊
(ざる)同然であった。
 それに較べて、ソ連側は徹底していた。秘密戦の何たるかを充分に理解していたのである。それだけに国境警備には厳重であったのである。満洲側からチタへと入れる日本人は限られていた。チタにある満洲国総領事館員とソ連製武器購入に対して商業特権を持つ沢田貿易の数人であった。この地に、それ以外の日本人など一人もいなかったのである。それだけ監視の眼が厳重であった。一方ソ連側が満洲に潜入するときは全くの笊であり、容易に入り込んで来れるのである。この大きな違いがあった。
 ソ連側は国境付近の民家の住人を総て立ち退かせ、平地に移動させて、無人地帯を作り、此処を頻繁に徹底的に監視するのである。満洲側から潜入しようものなら一目でわかる。更には潜入者の大敵である軍用犬も大量に使用して、蝶者の侵入を阻止していた。

 逆にソ連側からは、満洲建国に反対した北方軍閥、馬賊崩れの残党、民衆らを一時期庇護し、諜報員として高等訓練を受けさせ、彼らを工作や諜報目的に満洲側へと送り込むのである。虎の威を借る狐に仕立て上げるのである。
 一方満洲側の監視の眼は甘い上に、網の目は粗く、この点を比較しただけでも極めて劣っていた。こうした盲点を衝いて、狐は簡単に入り込んで来る。
 更にソ連側から潜入した工作員や諜報員に対し、満洲側の憲兵隊や警察の対策は、ただ検挙するだけにしか余念がなかった。ソ連のように捕らえた諜報員を逆利用するために教育し、高等訓練をさせて、逆スパイに仕立て上げる策は、殆ど考えていなかったのである。ただ見境なく検挙し、拷問し、弾圧し、最後は銃殺あるいはマルタとして哈爾濱郊外にある細菌戦研究部隊に生体実験材料として送り付けるだけであった。
 防諜阻止だけで手一杯であり、敵諜報員を逆スパイにして防諜工作する頭がなかった。満洲国の秘密戦は既に絶望的であった。日本側は、ソ連側のように飴と鞭を使い分けて洗脳するという方法を知らなかった。ただ堅い官憲に終始しただけである。これこそが秘密戦の感覚意識と理解度はゼロであったと言えよう。そのゼロは今日でも日本の官憲に見ることが出来る。

 『梟の眼』は、この欠陥を是正するために治安分室が置かれたが、その隊員達は、身分は満洲国事務官兼警正の隠れ蓑でこれらの活動に当たった。任務は工作をしたり、その指導に当たることである。だが非常に根気のいる作業であった。そうした作業に従事したのが『梟の眼』の秘密機関員であった。
 『梟の眼』の本部は哈爾濱であった。此処を本拠地にして水面下で暗躍していた。また分室は新京、赤峰、間島、佳木斯
(シャムス)、牡丹江(ぼたんこう)に設置されていた。何れも沢田貿易の支店である。秘密戦を戦うために『梟の眼』は暗躍する。
 その暗躍に、一ヵ所に集めて捕らえる策を授け、津村陽平はエア・ガールの四人に依頼したのである。
 捕らえたソ連狐を憲兵には渡さない。狐は『梟の眼』で暫く飼う。飼育して、飼い馴らし、洗脳し、逆用する改造工作をする。満洲側への諜者の侵入を阻止出来なければ、捕らえて逆用するしかないのである。
 ソ連狐に仕立て上げられてしまった満系人を、再び逆スパイに改造していく。この工作が次第に功を奏していくが、まだ不十分であった。狐は猟って猟っても、次々に遣って来る。そこで、一ヵ所に集めて一気に猟ってしまうのである。
 津村の読みは、チタから満洲里、満洲里から哈爾濱の道中に狐が次々に餌取りに遣って来る……。更に、津村に後ろから聲
(こえ)を掛けた老人にも狐が群れる。そう検たのである。尾行の二重構造、三重構造を作るのである。
 その一方で、松花江に浮ぶ高級リゾート地にも周囲の狐が迎合する。総てを併せれば大量に狐が捕れる。一網打尽である。その読みがあった。

 満洲里から哈爾濱へ向かう急行の二等車の中である。
 「今日は二等車にも莫迦に乗客が多いですなァ」
 「それもその筈です。商売をしましたから……」
 「なるほど」
 「この列車は二等車ばかりではありますまい。三等車のカモにも、狐どもが群がっています」
 「なかなか遣りますなァ、流石です」
 「猟りの常套手段ですよ。猟をするには罠
(わな)がいります。しかし日本人は、島国に棲(す)農耕民族なので、欧米人や大陸人、更には半島人とは異なり、動物を猟るのに罠や仕掛けが要(い)ることを知りません。欧米、大陸、半島などの遊牧民や西洋人の考え方が理解出来ません。他の民族のように動物を仕留める方法を知りません。つまり、狐狩りには不向きな民族と言えましょう。戦争が下手な理由も、そこにあります。その最たるものが秘密戦の戦い方を知らない。その一言につきましょう」
 「ほ……ッ、元軍人であった私には、なかなか耳の痛い話です。ご指摘の通りと言えましょうか……」
 「動物を仕留めるには、罠と言う仕掛けが要ります。その仕掛けは、巧妙に作っているものほどいい。この用意が出来ていないと、仕留めるために失敗します。仮に仕留めても一網打尽に出来ません」
 「ということは……、つまり、憲兵隊の遣っていることは、検挙第一主義と言うことでしょうか」
 「さよう」肝心なものを取り逃がすと言う意味である。
 「津村さんの言う罠とは?」
 「全体的な罠を張るためのロケーション
(location)が必要です」
 「ほぉーッ……」ロケーションという語句に吉田は驚いた。
 つまり、それは追い込む場所、追い込む位置が必要であるからだ。その場所と位置を何処に設定するかで、大きく結果が違って来る。津村陽平をなかなかの策士と検たのである。しかし策士、策に溺れると言う類ではあるまい。彼には、知があり、見があり、胆があった。
 下駄を預けたくなる人間の特長である。

 「ロケーションには必ずしも、そこに大きな柵を造らなくてもいい。要点は、A地点、B地点、C地点と位置を設定しておいて、勢子
(せこ)という煽動者(agitator)が煽って追い込めばいいこと。勢子は噛(か)ませ犬を嗾(けしか)け、煽(あお)り、狐を追い込むと言う重要な役割です。それは決して敵側に居るのでなく、味方にも、味方のポーズをした者の中にも居る。これを巧妙と言います」
 「その巧妙とは?……」
 「売国奴が、それでしょう」意味ありげなことを言った。何もかもお見通しと、吉田には感じたのである。益々下駄を預けたくなったのである。この漢には、智慧がある、策がある。吉田はそう検たのである。まさに邂逅
(かいこう)であった。シャッポを脱ぎたくなる人物への邂逅であった。
 狐は、ソ連狐である。
 満系人が速習指導で改造された狐である。狐へ掛けた暗示は解けば、元の満系人に戻る。戻った上で、再び逆狐として、ソ連側に潜り込ませればいい。これを二重三重の仕掛けと言という。秘密戦の定石である。狩猟民族の知るところである。
 ところが、島国根性で凝り固まった村単位の日本人には分らない。猟方や屠殺法が分らないからである。その遺伝子が民族の血には流れていないからである。そういうのは専門家任せとなる。昨今に日本人を見れば一目瞭然であろう。
 昨今のサラリーマン化した日本人は、その道の職人の激減してしまったために、自分の釘の一本も正確に打ち込むことが出来ない。サラリーマンの実情である。給料を運ぶ以外、自分ではそれ以外の事は何一つ出来ないのである。今日の日本のサラリーマンの実体である。専門を外れると、自分では何一つ自己完結が出来ないのである。世界の中で、唯一の自己完結性を持たない民族であると言えよう。

 「売国奴?……」
 「金・物・色で簡単に転ぶ権力人のことです」
 「権力人ですか、人間狩りですね」
 「権力のある人物を標的
(target)として絞り込む。此処に巧妙な罠を仕掛ける。必ず嵌まるようにA地点、B地点、C地点と位置を設定する。次に我々のチタ行きをAとし、エア・ガール四人の居る太陽島をBとし、職人長屋に住んでいる老兵隊の居場所をCとします。此処にトライアングル構造が出来上がります。三極構造です。獲物が接近するように、それぞれに撒き餌を施します。粘着性の金・物・色の類です。
 最初は三角形の底辺の網には、獲物が次々に接触するでしょう。そして網に絡まる。
 この二、三日でも、かなりの狐が張り付いているのではないでしょうか。それも、日本人の場合は、特に目立つ、女の場合は……。B地点には内外の狐が大層群がっていることでしょう」
 「えッ?大丈夫でしょうか」
 「彼女達はヤワではありませんよ、筋金入に鍛え直してありますから。女子供の類ではありません……」
 「安心しました」
 太陽島の連中は上手く仕掛けを作っていることだろうと、吉田は、津村の言で安堵したのである。津村は下駄を預けられる人物であった。


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