運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続 壺中天・瓢箪仙人 1
続 壺中天・瓢箪仙人 2
続 壺中天・瓢箪仙人 3
続 壺中天・瓢箪仙人 4
続 壺中天・瓢箪仙人 5
続 壺中天・瓢箪仙人 6
続 壺中天・瓢箪仙人 7
続 壺中天・瓢箪仙人 8
続 壺中天・瓢箪仙人 9
続 壺中天・瓢箪仙人 10
続 壺中天・瓢箪仙人 11
続 壺中天・瓢箪仙人 12
続 壺中天・瓢箪仙人 13
続 壺中天・瓢箪仙人 14
続 壺中天・瓢箪仙人 15
続 壺中天・瓢箪仙人 16
続 壺中天・瓢箪仙人 17
続 壺中天・瓢箪仙人 18
続 壺中天・瓢箪仙人 19
続 壺中天・瓢箪仙人 20
続 壺中天・瓢箪仙人 21
続 壺中天・瓢箪仙人 22
続 壺中天・瓢箪仙人 23
続 壺中天・瓢箪仙人 24
続 壺中天・瓢箪仙人 25
続 壺中天・瓢箪仙人 26
続 壺中天・瓢箪仙人 27
続 壺中天・瓢箪仙人 28
続 壺中天・瓢箪仙人 29
続 壺中天・瓢箪仙人 30
続 壺中天・瓢箪仙人 31
続 壺中天・瓢箪仙人 32
続 壺中天・瓢箪仙人 33
続 壺中天・瓢箪仙人 34
続 壺中天・瓢箪仙人 35
続 壺中天・瓢箪仙人 36
続 壺中天・瓢箪仙人 37
続 壺中天・瓢箪仙人 38
続 壺中天・瓢箪仙人 39
続 壺中天・瓢箪仙人 40
続 壺中天・瓢箪仙人 41
続 壺中天・瓢箪仙人 42
続 壺中天・瓢箪仙人 43
続 壺中天・瓢箪仙人 44
続 壺中天・瓢箪仙人 45
続 壺中天・瓢箪仙人 46
続 壺中天・瓢箪仙人 47
続 壺中天・瓢箪仙人 48
続 壺中天・瓢箪仙人 49
続 壺中天・瓢箪仙人 50
続 壺中天・瓢箪仙人 51
続 壺中天・瓢箪仙人 52
続 壺中天・瓢箪仙人 53
続 壺中天・瓢箪仙人 54
続 壺中天・瓢箪仙人 55
続 壺中天・瓢箪仙人 56
続 壺中天・瓢箪仙人 57
続 壺中天・瓢箪仙人 58
続 壺中天・瓢箪仙人 59
続 壺中天・瓢箪仙人 60
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 続 壺中天・瓢箪仙人 53
続 壺中天・瓢箪仙人 53

フランスの哲学者パスカルは、次のように言う。
 「人間にその偉大さを示さないで、人間がいかに禽獣
(きんじゅう)に等しいかと言うことばかりを知らせるのは危険である。また、人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかりを知らせるのも危険である。
 更に、人間のその何れをも知らせずにおくことは一層危険である。
 だが、人間に両面を示してやるのは非常に有益である。
 人間は自分を禽獣に等しいと思ってもならないし、天使に等しいと思ってもならない。その何れを知らずにいてもいけない。両方ともに知るべきである」
 パスカルの言の最後にある「両方ともに知るべきである」の締め括りは、総てのことに対しても言えることであろう。
 一方だけを取り上げて誇大宣伝する“片手落ち”こそ、公平を欠くからである。

 この事からすれば、考える葦
(あし)の人間は、民主主義デモクラシーについても再検討を加え、長所と欠点を把握しておくべきなのである。この政治システムは善いこと尽くめではないのである。この主義には欠点もある。長所とともに欠点も知っておくべきである。
 更に欠点を克服すべきは、次世代の歴史検証に委ねればいい。そのためにも次世代を、感情の発露として体験主義を利用すべきでない。

 例えば、戦争体験においても、この体験を語るのに感情を持つ込むべきでないだろう。知性や理性をもって戦争体験を語り継ぐと言うのは、体験者の必須要因であろう。だが、人間が感情に左右される生き物である事も否めない。ここに人間を知る「人間学」が必要になって来る。

 筆者は、戦争と言えば眉を顰
(しか)め、悍(おぞま)しいと一蹴する感情で戦争の体験を語る表現者達を一概に否定はしない。
 しかし、先の大戦を顧みる場合、「なぜ大東亜戦争が起こったか?」ということについて、また、「そのメカニズムに何処に誤りが生じていたか?」を等閑
(なおざり)にしては歴史的な検証も出来まい。更には、便乗に乗じる反戦主義者の言も、メカニズム検証には誤らせるものを多く含んでいる。喧伝するのならば、長所を教えるとともに、短所も指摘しておかねばならない。


●朝夕幕賓の策

 哈爾濱(ハルビン)は東西の要所であった。文化の交流地であるとともに日ソの軍事の拠点でもあった。新京から680kmの地点に哈爾濱がある。対ソ戦に備えての軍事拠点でもあり、また北満第二の都市である。
 東西の間者
(スパイ)が眼を烱(ひか)らせ、隙を虎視眈々(こし‐たんたん)と窺(うかが)っているのである。利権を巡って、国家の威信に掛けて水面下では烈しい暗躍合戦が起こっていた。間者が暗躍するには好都合の街であった。
 これを戦略的に地理の上から検
(み)ていくと、表面上は歓楽地、あるいは行楽地を装っている。また哈爾濱から浜綏線沿いに550km先の終着駅には綏芬河(すいふんが)がある。

 綏芬河は中国東北部にあたり、松花江
(しょうかこう)の支流・牡丹江(ぼたんこう)と並んで、対ソの最前線地であり、東満鉄道の補給路としての兵站(へいたん)基地でもあった。終着駅・綏芬河は四方が国境に囲まれた要塞で、写真撮影などに関しては厳しい規制が敷かれていた。また、この地には特務機関や守備隊が配備され、衛戍(えいじゅ)病院などの軍関係の他、日本人小学校も置かれていた。
 その源は哈爾濱であった。此処を起点に戦略的な構図が作られていた。
 哈爾濱は、ロシアでは「東洋のモスクワ」と言われ、中国では「北満の上海」と言われた。
 商業においては昭和7年の満洲国建国以来で、関税障壁が撤廃されて日本商品が多く出回るようになったのである。商業拠点としても栄えていったのである。

 また哈爾濱と言えば、松花江である。
 この大河は、朝鮮国境の長白山頂の天池に発源し、黒竜江
(こくりゅうこう)に合流する。こうした自然の恵みとともに農業、鉱業、林業、畜産業、鉱業は発展し「日満ブロック相互依存」の名の下に日本の補給基地ともなり、日本国策の国防第一線であった。大陸中枢の位置に置いていたのである。
 一方で時代の流れは、自ら中枢地に有能な人材を集め、その人材は過去と未来の間を静観しつつ、また静かに学ぶと言う気風が育っていく。同時にそれは技術者や経営者を育てたのである。
 人は自分の居場所を明らかにしたい意志が強い。自己主張をしたがる性質がある。何故なら、明らかにすることは自分を知ることにも繋がるからである。自分の存在をアピールしたい。
 したがって次に踏み出す一歩は、自分を知っているか否かに懸かる。自分の長所や短所、更には自らの取り柄を知らずして、次の一歩は踏み出せないからである。
 一定地域に、有能な人が集まる……。人材が寄る……。この力は何だろう。
 それは天意か、あるいは偶然か。
 満洲に日本人が集まり、この地に鉄道が走り、鉄道網が満洲国全域に広がっていった……、これは如何なる力であったのだろうか。中国東北部に限り、いったい何処からこのようなエネルギーが湧いたのだろうか。
 あるいは土地に潜む生命力だろうか。思えば満洲は不思議な土地であった。

 そして、北満の大都会・哈爾濱では7月半ばとなると平均気温が23度であり、最高気温は39度になることもある。
 また、哈爾濱北西の松花江の大河では水に親しむ市民で溢れ返る。
 この地域は短い夏を楽しむ憩いの場となり、東支鉄道を引き継いだ満鉄では、松花江に浮ぶ太陽島を哈爾濱市民の高級行楽地と位置づけ、満鉄は富豪相手にヨットクラブまで経営していた。その意味で満鉄は東洋一のマンモス企業と言えた。


 ─────日本からの一行が新京飛行場から哈爾濱に着いたのは、それから13時間後のことであった。
 東京・羽田から新京には午前5時に到着した。そこから哈爾濱行きの急行列車で哈爾濱に到着した。そして一行は哈爾濱駅近くの満鉄ヤマト・ホテルにチェックインした。午後3時頃であったろうか。
 案内人は沢田貿易の吉田をはじめ、領事館員の2人であった。

 一方で津村陽平は、アン・スミス・サトウ少佐ら四人が、キタイスカヤ街に出掛ける前に、こう言った。
 「充分に惹
(ひ)き付けて下さい」
 彼女らに官憲の眼を惹き付けて欲しいという、津村の恃
(たの)みであった。
 津村には策があった。それは「幕賓
(ばくひん)の策」であった。混沌の状態にあっても、幕賓の策は実行されるのである。山師と揶揄されても、動く時には動く。肚に気力があるからだ。

 帷幕と言えば本陣メンバーを指すが幕賓は、幕外にあって、主宰者には直接仕えず、裃
(かみしも)を着る窮屈を嫌って、普段は野に臥しているのだが、“いざ”というとき主宰者に直言を行う人物のことを言う。
 『タカ』メンバーは一応、官の体裁を整えている。しかし津村は直截的には官人でない。応召に応じた一兵卒に過ぎない。それに、組織抵抗をする軍隊の一員としては、年も取り過ぎている。そこで老兵隊は、智で戦う軍隊にならざるを得ない。その智が、胆識に培われた奇手を用いる手練
(てだれ)と言うことである。それはまた老練でもあった。
 時と場合によって奇妙に変化する。それは津村陽平の奇なるところであった。その「奇」から、何らかの策だ出て来る。隠行の術で言えば「見せ付けて、然
(しか)る後に隠れる」ということだろうか。
 機密を抱える運命を背負わされている。密使である。
 幕賓として指名されたのである。その任を負わされた。津村の胆識が買われたからである。

 津村は単なる知識人ではなかった。影に賢を持つ。智慧者である。多くの経験を持ち、老巧でもある。時に奇手を遣う。
 また貧ではあるが赤貧ではない。清貧である。貧を恥とも思っていない。
 一見、愚に映るが賢である。深い智がある。それだけに人品骨格は卑
(いや)しくない。人相卑しからずである。品性もある。その品性は賢を満たしている。老巧はそこからを源泉としている。胆識者の趣(おもむき)がある。肚が出来ているといえよう。

 そもそも知識と言うものは、断片的な記憶を有した大脳の働きによるものである。知っているだけでは行動力にならない。知識に「志」と言う精神活動が加われば、それが智慧となり、その智慧は理想を生む。どうありたいか、どうしたいか、そうした精神的渇望が行動の一貫を形作り、それを基盤に心理的かつ見通し的判断を的確に行うことが出来る。この判断が見識である。
 しかし見識は、知識の廻し合いのように、他からそれを用いて“借りる”ということが出来ない。知識は廻し合いも可能だし、他から盗むことも出来る。真似することも出来る。だが見識はそうはいかない。自分の経験なり体験がなければ、幾ら見識人ぶっていても、その似非見識は単なる“付け焼き刃”でしかない。
 したがって自分の修行が物を言う。場数が物を言う。多く苦い経験を積み、失敗を繰り返し、一敗地に塗れた憤懣
(ふんまん)遣る方ない思いをした足跡こそ見識の母体であり、この場数を確り踏んでいないと見識は生まれない。単なる“成績優秀のお利口さん”では見識を身につけることは不可能である。言わば見識は苦労人の勲章と言えるだろうか。
 ところがである。
 見識でも、まだ不足するものがある。

 それは「肚
(はら)」である。動じない「肚」である。肚は据わっていなければならない。動かない、不動の肚が要る。一般には、一口で不動心とも平常心とも言うが、この心に安定を維持することが難しい。
 世は何しろ清濁を併せ呑み、善悪綯
(な)い交ぜである。それだけに利害が絡み、矛盾が付き纏う。そこから発生する種々の問題は湧き出る泉のように吹き出て来る。その源泉には清濁もあり善悪もある。
 さて、これをどう処理するかである。
 この処理に当たって、単なる見識者レベルでは圧に切れないところがある。制御不能に陥る場合がある。これを圧するには、「抑え込む力」が要る。胆力のない並みの人間では抑えられないものがある。
 その抑える力を有した人が、胆識者である。そして胆識者に限り、寥々
(りょうりょう)としたものがある。
 津村陽平には野に臥し、野人的な官に与
(くみ)しない風懐(ふうかい)があった。
 策である。幕賓としての策である。

 誘き出し、集めておいて一気に攪乱する。
 それが言葉になった。
 「充分に惹き付けておいて下さい」
 囮
(おとり)を暗示する言葉である。
 その意味は、大日本航空のエア・ガールに扮して、目立つ恰好で官憲を惹き付けてくれる。青い制服は何処からでも目立つ。これに敵味方の官憲が集中する。それを託して、津村らは赤塔
(チタ)へと発った。
 既に秘密戦が展開されているのである。また秘密戦を戦う以上、此処に居る女どもも、決してヤワでない。一種の女傑
(じょけつ)である。普段から高等訓練を受けている。近代を戦う女傑戦士群であった。

 兵法の世界は叡智がものをいい、また一種の文化である。蛮勇だけでは戦えない。勝ちもしない。
 そこで「兵は詭道なり」となる。智慧比べと言うか、叡智のぶつけ合いとなる。当然そうなると、胆識者の策が勝る方が勝つ。勝てなくても、負けない。負けない戦いをすることが胆識者の腹芸と言えよう。どこまで敵を欺き通せるかが問題になるのである。顛動惑乱
(てんどう‐わくらん)、為(な)すことを知る。

 到着後、一息を入れてエア・ガールに扮した女性4人と、爺さま2人が『哈爾濱銀座』と言われるキタイスカヤ街を見物して、帰って来てからのことである。既にホテルの周辺では内外の官憲が眼を烱らせてうろつき回っていることであろう。それを予期しての三日間の作戦計画を話し合っていた。三日間の時間稼ぎである。
 秘密裏に津村らを送り出し、更に復
(かえ)りは新京飛行場まで向かう今日を含めて、二泊三日のスケジュールであった。この間の時間稼ぎである。当然人の眼は派手な方に行く。
 戦争と戦争の間にある、ほんのひと時の平和な時間であった。この平和なひと時にも、敵味方の双方乱れてのスパイ合戦があった。

 津村陽平を除く、日本からの20人は哈爾濱ヤマト・ホテルにいた。此処はホテルのラウンジ内にある小会議室である。
 その頃、既に沢田貿易の哈爾濱支店長の吉田毅は、ある二人の漢と、白系ロシア人の二十代の女性一人を残して、津村とともに赤塔
へと旅立っていた。また、日本の官憲に扮した領事館員も津村と吉田を追うポーズでチタへと向かった。
 彼らはチタへ行き、戻って来るのに三日懸かる。その間の三日間を世話する案内人である。
 一人は自社から哈爾濱市内の案内人として、吉田毅に代わり、沢田貿易副支店長の川崎直也
(仮名)を呼び寄せていた。
 川崎は二十代半ばの好青年を装っていたが、目付きだけは鋭かった。今日明日の、鎬
(しのぎ)を削る秘密戦士の眼であった。それは商社マンなどの目付きではなかった。彼の眼は炯々(けいけい)と輝き、隙を見せない漢であった。おそらくこの漢も、吉田と同種か、あるいは陸軍中野学校出の情報将校であるかも知れない。秘密戦を戦う工作員であろう。
 そしてもう一人は五十搦みのオヤジで、哈爾濱日本商工会の理事の山根耕三
(仮名)と名乗る漢であった。

 沢田貿易の川崎が、案内役の辞を述べた。まずエア・ガールの四人に対してである。
 「本日から三日間、皆さんの哈爾濱でも案内役としてお世話致します沢田貿易の川崎です。今日は哈爾濱初日として、市内をご案内し、明日は松花江に浮ぶ太陽島へと、一泊二日で哈爾濱最大の行楽地
(resort)へとご案内します。休暇のひとときをヨット遊びでもして、短い夏をごゆっくりとお楽しみ下さい。隣の女性は、この三日間、皆さんのお世話をするロシア人のナターシャ・ニコルスキー(仮名)です。日本語も堪能ですので、困ったときは彼女に何なりと、お訪ね下さい」川崎は気兼ねなく注文をつけろと言うのである。

 次に商工会の山根が、老兵隊の世話役として辞を述べた。
 「津村隊の皆さんは、私がこれから職人組合の長屋へとご案内します。皆さんは此処で一年間過ごして頂きます。ある人は職人のして、また、ある人は会社員として、また農業従事者として、更には教育関係者としてです。各位の業師的なところを発揮して下さい」
 「……………」全員は妙なことを言うと思った。
 「津村さんから皆さんの経歴を総て見せて頂きました。適材適所に振り分け致します。
 但し、週に一回の割合で、満洲軍の軍事教練に参加して頂きます。階級は退役の上校
(満洲軍の階級で日本陸軍の階級では大尉)扱いです。軍事教練と言っても、武器を持っての戦闘訓練ではありません。農事と行軍の、ただひたすら歩く、強行軍です。皆さんを強行軍の絶えられるように、津村さんから依頼を受けております。
 そして最初に申し上げておきますが、強行軍の末に歩く距離は約5千キロです。これは、何処かの山地を想定しているのでしょう」
 「……………」ますます分らなくなった。
 老兵達は、この言葉を聞いて押し黙ってしまった。しかし恐れの沈黙ではない。
 5千キロとは強行軍の末にである。日本列島を北から南に歩いたとしても、まだ余る距離です。しかし、津村陽平に下駄を預けた以上、そのように言われれば遵
(したが)うしかない。老婆心に鞭打って……となったのである。決して悲観はしていなかった。
 だが津村は、爺まさ達を何処に連れて行こうとするのか、皆目検討がつかなかった。総てのプランは津村陽平の脳裡に秘められていた。

 「では、これからグループごとに二手に別れましょう」沢田貿易の川崎が聲
(こえ)を掛けた。
 女性と、老人のグループは二手に分かれた。セクションごとに、任務の通達を受ける。
 女性グループである。このグループは会議室の円卓テーブルを挟んで、川崎直也とナターシャ・ニコルスキーの六人であった。
 「自分は『梟の眼』の機関員の川崎中尉であります」
 沢田貿易の哈爾濱副支店長の肩書きは表向きの名称であった。川崎はこのように自己紹介したあと、更に一段と聲を顰
(ひそ)めて、「アン・スミス・サトウ少佐のことも、キャサリン・スミス少尉のことも、また夕鶴隊のことも総て聴いております。そして、こちらはナターシャ・ニコルスキー。ソ連第五軍の第一重砲司令官のニコルスキー少将のお嬢さんです」と聴いている四人の女性に、意外な発言をした。
 これを聴いて、アンが「えッ!」と悲鳴のような聲を上げた。彼女は「なぜ?」と思う。
 日ソ中立条約の有効期間中と雖
(いえど)も、仮想敵国の情報将校が此処に居るからである。
 尋常に考えれば、これは利敵行為である。ナターシャ・ニコルスキーのロシア祖国の裏切りに聴こえる。日本で言えば、非国民どころか、売国奴と罵られる。官憲に逮捕されて、烈しい拷問を受けるかも知れない。最後は拷問の末に、淫らな悪戯をされて殺されるだろう。

 「少佐殿。奇妙に聴こえるのではありませんか」川崎が鎌を掛けるように訊いた。
 「どうしてです?」
 「敵の中の味方と思って頂ければ、この現実は、ご理解頂けますでしょうか」川崎は、微妙に変化したアンの顔色を窺いながら、更に釜を掛けるように訊いたのである。
 アンも、その気持ちは漠然とは分る。
 「遺恨でも?……」
 「その通り。ニコルスキー家は、この辺の、つまり哈爾濱などを領地に置く白系ロシアの王侯の名家なのですよ。そのうえ四分の一はポーランドの血が混じっています。これで、多くは説明しなくても、お分かりでしょうか、少佐殿?……」
 アンは直ぐに、あの忌まわしい『カティンの森事件』のことを思い出した。
 「カティンの森……」アンは思わず吐露した。

 1940年、ソ連が捕虜としたポーランド軍将校をロシアのスモレンスク州の“カティン
(Katyn)の森”で大量殺害した事件である。日本で言えば昭和15年のことであった。ポーランドが虐待された事件であった。
 将来、この国を背負って立つポーランド軍の将校が残虐な殺され方をしたのである。そのポーランドの血をナターシャ・ニコルスキーは、四分の一引いていると言うのである。
 そしてニコルスキー家は、この地域の大領主であった。アンはその不運を思った。
 この領主は結局、ロシアに掠奪され、次に日本に掠奪されたからである。
 ナターシャ・ニコルスキーの祖国は、いったい何処だろう。彼女の祖国はポーランドなのだろうか、それともロシアなのだろうか?……。その不憫
(ふびん)なる運命も思った。その不憫の裏には、何は重苦しい気配を孕(はら)んでいた。孕んでいる正体が分るだけに、また不憫であった。

 「ロイヤルファミリーの少佐殿は、この事件をご存知でしたか」
 「ええ……」
 「もしかすると、わが国もその二の舞になるやも……」重苦しい口調で言った。
 「さて……と」アンが明るく言った。
 「これから、わたくしが皆さんを、ご案内致します」ナターシャ・ニコルスキーが流暢
(りゅうちょう)な透き通る日本語で言った。
 「少佐殿。このホテルを一歩出ると、ソ連側の官憲ではなく、日本も、中国も、米国も、そしてナチスのゲシュタポ
(Geheime Staatspolizei)も、あなた方の後を追います。くれぐれも気を付けて下さい」横では、川崎直也が警告を促すように言った。
 「承知しております」
 津村に依頼されたことを百も承知していた。内外の秘密機関と一戦を交えるのも、快であると彼女は思っているのである。ひと時の平和があっても、今は戦時である。水面下では烈しい暗躍が起こっていた。
 「ニコルスキーさん」アンが呼びかけた。
 「はい?……」
 「あなたのご身分は?」
 「極東方面第五軍の情報将校で、ニコルスキー少尉です」
 「そのソ連軍情報将校のあなたが、わたしたちと、なぜ行動を伴にするすです?」
 「わたしの父は第五軍の第一重砲司令官です」
 「えッ!?」改めて小さな悲鳴を放った。
 アンはそこまで告白されて、この背景を思った。ソ連と言う国家の複雑さを思った。果たしてソビエト政権は挙国一致の一枚岩なのだろうか?と。
 そして、第五軍の重砲の抱口は満洲に向けられるのだろうか?……、あるいは?と思った。
 「わたしは白系ロシア人です」明言するように言った。重大発言である。
 彼女のこの言葉には、複雑なものが混じっていた。そこそも「白系」と明言する以上、ソ連軍にあっては反ソビエト政権主義者である。白系とは、そういう意味を持つ。反革命で、スターリン反対主義者である。知れれば、弾圧でシベリアの強制労働などを喰らい、更には反対主義者として粛清の対象になる。未だにソビエトが単一国家でないことを思わせた。
 これを思想的に単一化することは難しく、況
(ま)して一枚岩になりようもない。あとは「粛清」という敵対者の処刑以外ない。プロレタリア独裁と言っても、独裁国家である。不正者や反対者などを厳しく取り締まる以外なく、独裁政党の特長と言えた。方針に反する者は徹底的に排除する以外ない。

 それは、カザーク
Kazak/この語はトルコ語で自由人の意味で、日本ではコサックの語で知られる)とは違うという意味かも知れない。十五世紀から十七世紀に掛けて、ロシアでは領主の苛酷は収奪から逃れて南方方面の農民達はロシアへと移住した。その子孫は後に半独立的な軍事共同体を形成した。騎兵として能力に優れロシア中央政府に奉仕したのである。更にカザークはシベリア方面にも進出した。軍事能力にも優れ、彼らは生まれながらに戦士の才を持っていた。ロシア中央政府は彼らを近辺防衛に当たらせ、堅固な帝政ロシアを構築した。

 しかし、1917年のロシア革命によりこれまでの安寧が毀
(こわ)された。革命により、ロマノフ王朝の専制政治が倒壊し、ソビエトの支持のもとに臨時政府が成立、次いでレーニンらの指導するボリシェヴィキがペトログラードに武装蜂起し、全国に波及、ケレンスキー臨時政府が倒れてソビエト政権を樹立した。
 このときロマノフ王朝を長きに辺り支えて来た白系ロシアの貴族階級は、悉
(ことごと)く領地を追われ、樺太を渡り、北海道北部にまで逃亡して来た。一部は「逃亡の民」と化した。フランス革命の構図を考えれば、こうした民の末路がどう言うものであったか、容易に想像がつくだろう。
 もしかしると、長い間貴族として君臨したニコルスキー家も、一時期、迫害された逃亡の民であったのかも知れない。
 此処には激動する時に流れがあった。飛び立つ鳥は、呼べども戻らない。流れ行く川の流れは、手で招いても逆行することはない。ただ過ぎて行くだけである。荒れ狂う激動の時の流れは、手を拱
(こまね)いて見ているだけでしかない。この嵐を躱(かわ)すには、ただ遣り過ごし、静かに待つしかないのである。


 ─────津村陽平と吉田毅は、哈爾濱から満洲里行きの急行列車に揺られていた。そして津村は、ラマ僧に変装していた。態度は野放図
(のほうず)である。あるいは野放図を装っているのだろうか。
 果たして、その変装がラマ僧に見えるか否か、津村個人の独り善がりのところもあった。だが自作自演も出来る漢であった。何者にも、直ぐに溶け込む。背景に溶け込む。
 津村はラマ僧に化けるに当り、キタイスカヤ街の日中文化混合の骨董屋で、笈
(おい)か旅嚢(りょのう)のような物を買い入れ、それを背負っていた。日本の僧侶が用いるものである。
 また陳腐な装飾品としては、腰に下げる瓢箪と手に持つ仙人杖だった。仙人杖は長さ180cmくらいの長さで、杖頭に鹿の角が装着している。時として護身杖となる。これがこの漢の旅装スタイルであった。
 喇嘛僧……。坊主頭の津村の風体からして半僧半俗の徒に映る。本人は上手く化けたつもりである。この風体からして、日本的に言えば熊野詣での出立ちであろうか。権現でも参詣するポーズである。
 あるいはソビエトと言う、獰猛な羆
(ひぐま)大明神を参詣するのだろうか。

 いつしか陽は傾き、直ぐそこまで黄昏
(たそがれ)が迫っていた。赤い夕陽の満洲……。
 そういう、いつか聴いたことのある満洲の夕暮れ時を重ね合わせた。
 赤い夕陽の満洲の太陽……。それは日本で見るより、満洲の太陽は一段と大きく見える。そして夕陽は、何処までも赤い。
 赤い夕陽……。
 そう聞くと、かの李商隠
(り‐しょういん)の詩に『楽遊原(らくゆう‐げん)』が思いが馳せる。
 津村はその一節の「夕陽
(せきよう)限りなく好(よ)し、只是(ただこれ)黄昏(こうこん)に近し」を重ね合わせていた。
 赤い夕陽の満洲は、確かに美しい。だが、しかし……と思う。何故か胸騒ぎを覚えるのである。果たして満洲では、来年も今日と同じように赤い大きな夕陽が拝めるのだろうか。
 津村は、李商隠が、この詩の背後にある不吉なものを感じ取ったように、限りなく美しいものの中に不吉が潜んでいるのではないかと思ったのである。李商隠は滅び行く大唐帝国の末路を思った。そして津村も、満洲国がやがて亡び行くのではないのか?……と、この国の亡国を重ね合わせていたのである。

 「今日もいい夕陽ですなァ」吉田が車窓から夕陽を見て問い掛けた。
 「日本で見るより、随分と大きな夕陽ですねェ」
 「これが満洲特有の夕陽です」
 「確かにいい夕陽ですねェ」
 「詩心でも湧きましたか」
 「いやいや……」津村は頭
(かぶり)を振った。
 彼は画家である。詩心よりも絵心だろう。
 「今頃、ホテルの連中も同じ夕陽を見ていることでしょうか……」
 「そうですねェ」
 「津村さんは、満洲は初めてですか?」
 「はい」
 しかしこの“はい”には、寂しいものが漂っていた。「今年限り」と言うものだろうか。
 この年の、この季節の赤い夕陽の満洲は、これが見納めかも知れないと思ったのである。
 「私はいつも思うのですよ、この赤い夕陽を見ていると、何故か無性に懐かしいものを感じるのですよ」
 「それは同感です。初めてきたところなのに、以前いつか来たことのあるような、そういう感覚を感じますなあ。かつて大本の出口王仁三郎師が満洲を目指したように……」
 「ほ……ッ、これはまた……」

 津村は死んだ父のことを思った。父・十朗左衛門が、なぜ大陸に渡ったかを……。
 父は明治11年、36歳のときに大陸へと渡った。満洲の地を目指した。そしてこの大陸で24年間浪人生活を過ごした。時には馬賊に交わるなどして……。
 そこで父は苦労人としての修行を積んだのである。まさに櫛風沐雨
(しっぷう‐もくう)の24年を送った。風雨に曝されならが辛苦奔走した。
 このときのことを津村は、父から聞かされたことがあった。馬賊は肉食の戦士であると聴かされていた。時に燎原
(りょうげん)の火の如く掠(かす)め去って行く。その風のようは速さを知っている。疾風である。迅雷である。

 「ところで、吉田さんはどうして陸軍を辞めたのですか」
 「煙たがられ、挙げ句に更迭されて、予備役に廻された……。こうなると辞める以外ありますまい」
 「なるほど」
 吉田は陸大恩賜組で、軍隊官僚としてもエリートコースを歩いていた。将来も嘱望されていた。しかし自分の居場所は陸軍にはないと検
(み)たのだろう。懸命な判断かも知れない。
 組織も初期の草創期から安定期に入ると、次第にマンネリズムが起こる。固定してしまって、独創性や新鮮さを失い始める。昭和陸軍の悪しき習慣となっていたのは、課員でも課長でも、上司を一つ越えて自分の意見を述べてよい習慣が根付き、これは慣習となり、マンネリズム化していた。
 そして大戦末期では、佐官級の発言力が増していたのである。この発言の中には、上司を越えて意見を述べる事以上に、むしろ下克上的な弊風まで起こっていたのである。
 更に発言においては、強気一辺倒の積極論が優先され、議論が対立すると、積極的な強硬論が、慎重論や非戦論を制するという構図が出来上がっていた。強硬論者が独断専行する構図が生まれたのである。斯くして陸軍では組織としての上位下達が乱れ、一撃論がマンネリ化の中に在
(あ)って猛威を揮った。
 したがって、これに斬新的な非戦論が加わると、極力嫌う反作用が起こる。反復慣用が起こり、斬新的なほど煙たがられるのである。核心を突くようないい意見ほど、却下されてしまうのである。こうなると暴走を続ける以外ないのである。
 智や賢を排除する、小人の妬
(ねた)みから起こるものであろうか。

 「如何なる組織にも、些細
(ささい)なことを、あたかも重箱の底をほじくるように捉えて、棒ほどに訴える輩(やから)がおりますからね。そして足を引っ張る。主たる位置にある者ですら、この種の佞智(ねいち)で誇りと弱点に付け込む。讒者(ざんしゃ)の常套手段と言うべきでしょうか。二年ほど前になります」
 「二年前と言うと、昭和17年の7月以降と言うことですか?」
 吉田は奇舌学徒タイプの人間である。舌鋒鋭い。「奇」をもって、時局を分析することを特異とする。

 「そうです。海軍がミッドウェーで大敗した以降のことです。短期決戦を豪語した海軍は、焦りとともに太平洋の孤島のミッドウェーの基地を攻略する作戦と同時に敵の空母軍をおびき寄せ、一気に叩き潰すという、一度の二兎を追う二面作戦を立てた。昭和17年5月27日のことでした。
 5月27日と言えば、東郷元帥がロシアのバラッチック艦隊を敗ったときです。日本は日露戦争に勝ったことで自信を深めた。そして大東亜戦争です。
 確かに緒戦は華々しかった。真珠湾を奇襲して、停泊中の戦艦を多数撃沈するか大破させた。続いてマレー沖海戦やスラバヤ・バタビア海戦で連戦連勝を重ねた。すっかり自信をつけ、無敵と驕ってしまった。
 その後のミッドウェーでは、その自信が挫かれた。これが負け戦の始まりですよ。この海戦で、海軍は鎧袖一触を驕り、ざわざわ5月27日の海軍記念日を選んでいます。しかし、連戦連勝で気をよくしていたことから、その弛みは情報が筒抜けになるという愚を重ねていましたからね。結局情報戦に負けたのですよ」
 「つまり元兇には、二兎両逸
(にと‐りょういつ)の愚戦あった。それも情報、筒抜けの……」
 「浅慮の一言に尽きます」吉田の舌鋒は海軍の甘さを指摘した。

 「しかし、海軍は決定的な敗戦を陸軍にも、国民にも知られたくなかった……という事でしょうか」
 「その通りです。天を欺き、“お上”に無礼を働き、地を裏切る浅慮。如何に隠そうとしても、隠しきれません。実際は四隻の空母と訓練の行き届いた搭乗員の他に、三百機余りの飛行機も失っていましたからね。それでいながら、この海戦では、わが方は勝ったと豪語していたのですよ。愚かなことです」
 「その結果、ミッドウェーの生き残りは厳重なる監視下にあって、結局は軟禁ですか」津村は下級将兵の悽愴
(せいそう)を思った。さぞ悲惨であったろう。
 「そうです。生き残った将兵は国内の基地で何ヵ月も軟禁状態でしたよ。この大敗北を喋らせないために独房擬いの個室に推し込められましてね。外部とは完全遮断されて、多くの将兵は陸戦隊として南方方面へと追いやられ、戦死を強要されました。海軍お得意の、例の熱望というやつですよ」
 「そして吉田さんは、万歳突撃反対論者でいらっしゃる……。違いましょうか?」
 「図星です。つまり、近代戦に竹槍の精神論は通用しませんよ。また近代戦は水面下では秘密戦です。智と言う情報に疎
(うと)い方が負けます」
 「それだけに、東条首相は小人の饒舌
(じょうぜつ)に乗せられるほど甘い指導者ではなかった……」
 「しかし、どんな人物でも、大きな組織の上に君臨しておれば、その心理は王者の権力と同じです。こうなると初心を忘れ、立志期の克己心や反省心も薄らぎ、やがて忘れ去るものです」
 「まさに、人間は忘却の生き物ですか……」津村は感慨深く言った。
 「そのうえ周囲には、自分のお気に入りばかり置きたがる。権力に据われば、偉人も盲目になる」
 「耳障りの悪いものを排除する習性ですな」
 「何しろ人間には、眼は閉じても、耳は閉じられませんからね」
 口を発
(あば)けば、自分のみを清廉潔白のように言い、人を見れば、自分以外は汚濁のように誹(そし)る者も、やがては朱に染まれば、同じように濁ったものになる。他人の臭いと詰(なじ)りながらも、実は自分も臭いもになっている。

 「権力者は偉そうには構えているが、その眼は人の賢愚すら識別
(みわけ)けがつかない。これは眼が濁っている証拠ですなァ」
 「それに気付けば、まだ救われますがね」
 「今となっては、遅きに失するということでしょうか」
 「権力者と言うものはですねェ、人間通有の凡小なる感情は、抑止きれなくなると、普通の人間以上に露骨になりますからね。フィリピン第四航空軍の冨永恭次中将のように……」
 「憲兵政治ですな」
 「自分に反対するものは誰彼と逮捕して排除する、凡小なるが故に……。これが権力の恐ろしところです」
 「つまり、吉田さんは、無能は小人輩から佞智
(ねいち)の言で排除された……というところでしょうか?」
 「甘言と佞智渦巻く世界では、私は生きられなかった。それに妥協し、それを職務と思い込むような世界に生きることはうんざりでした」
 「語は、心を吐くと申します」
 「うム?……。その響き、なかなか蘊蓄
(うんちく)がありますねェ」感心したように吉田は言った。
 津村陽平の奥深さが窺われたからである。
 「人は、時には詩書でも読んで、心を浄化することを知っておくべきです」
 「つまり、教養ですね」
 「教養人の忠言の一言。大事です。聞くか聞かないか、それはその人の心の濁りの有無で、一目瞭然になります」
 「猛々しいばかりで、我意ばかりで、聴く耳持たぬは耳が濁っている証拠。これを情操を濁すと言います」
 「なるほど……」吉田は深い感銘を覚えた。
 「その、あなたの苦諫を聴いてくれたのは奇
(く)しくも、沢田伯爵と言うわけですか?」
 「津村さんも、中々の情報通でいらっしゃる……」
 こう聴かされて、津村は思わず苦笑した。伯爵・沢田翔洋は、わが子・次郎の養父であったからだ。

 「亡国に足を踏み入れた日本にも、まだ健全な思考の出来る良識派は居る……、そう検
(み)たというところでしょうか」津村は沢田翔洋の見識を検(み)たのである。
 「ご察しの通りです」
 「だが、しかし讒者
(ざんしゃ)は未(いま)だに雄弁を揮う。机上の空論で、胸に畳んで居たプランを、このときばかりと舌に任せて並び立て、強硬論を主張している。そう思っているのですね?」
 「だから、私は御曹司の『タカ』計画に一枚噛んだ……というところでしょうか」
 「よく分ります」
 そのときである。吉田が眼で合図を送ったようだ。
 「さてこれから、煩
(うるさ)い蝿どもが飛び回りますので、少しばかり蝿叩きでも遣ってもらいましょう」
 吉田は尾行者の扮した二人の情報将校に、それを命じたのである。彼らは迅速に動いた。津村と吉田を哈爾濱から追って来た私服
(平服)憲兵に釘を刺させた。「我々の捜査の邪魔をするな」の類(たぐい)である。
 普段は、彼らは満洲国総領事館員である。

 急行列車が満洲里に着く頃に、津村が乗っていた二等車の方に流れ込んで来たからである。二等車には何も日本の官憲ばかりではなかった。ソ連側の官憲も中国側の官憲も紳士を装って着座していたからである。その正体を暴こうとした矢先に、日本の官憲に無駄な動きをされたからである。
 日本の弱点は、愚かな縄張り意識であった。これは今も昔も変わりがない。部外者と言う意志過剰が情報を共有出来ない所以
(ゆえん)である。これは、外的と戦えば負ける構図である。昔も今も、日本がスパイ天国であることは頷(うなず)けよう。
 日本人は猟をするのに、欧米人に較べて連携プレーの劣る民族なのである。個が勝ち過ぎていて、縦横に情報を共有出来ないのである。島国根性の日本人特有の欠点と言えよう。これは、そもそも猟をすることが出来ない民族であることを顕している。

 満洲里発・モスクワ行きの午後11時初のシベリア鉄道『ザ・バイカル號』
【註】『ザ・バイカル』はシベリア鉄道名であるが、物語では急行列車名に用いた)に乗車した。満洲里は、大連から1700km、哈爾濱から1200km強である。チタは、満洲里から700km強である。そして翌日の正午過ぎにチタ駅に到着した。


 ─────津村陽平は赤塔
(チタ)の満洲総領事館の秘密部屋にいた。情報戦の只中、敵味方の官憲の目を眩(くら)まし、何とかチタまで辿り着いた。秘密部屋と言うのは領事館の屋根裏であった。そこからシベリア鉄道の様子が覗けるのである。
 この鉄道を通過する貨車に何が積載されているか、その様子が分るのである。貨車は時に西に向かい、時に東に向かう。
 東西を往き来する貨車には、積荷が戦車であったり軍用車輛あったり、また大砲であったり、時には飛行機が分解された形で積み込まれていた。更に注目すべきは、トラックと一体型になったロケット砲である。
 積載物の領事館の観測者は、まず計数器でカウントしていく。しかしこれだけでは充分でない。戦車の重量を推測し、形式、種類、性能などを調べ上げる。またロケット砲は、後輪キャタピラーのトラックに搭載しているため、砲の口径や適用地形なども調べ上げる。これらを貨物列車が通過する際に瞬時の読み取り、時間などとともに記録していくのである。

 更にである。
 積載物だけでない。東西いずれかに向かう貨物列車は、行きと復
(かえ)りで違った形になっている。行きはある武器を満載し、また復りは空になっている場合もある。
 昨年の暮には、西に行く貨車には多くの積荷があったが、今年の夏頃から西に行く積荷は少なくなり、逆に西から東に移動する貨車の積載量が増え始めていたのに気付き始めた。これは何を意味するのか。
 この推理を推
(お)し進めれば、戦線の東西で明らかに変化が起こり始めていることであった。昭和19年から20年に懸けて、変調の兆しが見え始めていたのである。
 ソ連には奇妙な現象が起こっていた。
 英国からは北極海を通って、また米国からは北太平洋を通ってウラジオストクに陸揚げされた対ソ援助物資が続々と到着していたのである。この構図は、日本一国に対して国際連合軍が総掛かりで日本を攻め込むと言う構図であった。この構図の妙に、当時の日本人で気付いた者は殆ど居なかった。日ソ中立条約は厳守されていると、誰もが思い込んでいるのである。

 満洲国総領事館の外交官に化けた情報将校達は、この分析に入っていた。東に軍需物資が集中し始めているのである。
 米国は独逸人科学者を引き抜きに懸かっていた。ソ連も独逸人科学者の買収に懸かっていた。
 独逸の決定的な敗戦は、国際連合軍間で、科学者の争奪戦に追いて明白になり始めていた。有能な人材が、敗戦が濃厚になり始めたナチス独逸
から、国外へと流出し始めていたのである。それに合わせて、監視や尾行も頻繁(ひんぱん)になり、人の出入りを厳しくチェックしていた。
 武器だけでなく、頭脳の流出を警戒していたのである。
 現に、ナチス独逸の信管が「ペーパークリップ作戦」で、これが米国に移動して、ナチス独逸の技術者が加担したこと情報を入手していた。米国FRBがナチス独逸を支援して、貸付金を回収するというペーパークリップ作戦を知っていたのである。広島に投下されたリトルボーイは、ペーパークリップ作戦で完成された原子爆弾であった。これこそ、独逸頭脳の流出であった。

 満洲とソ連の国境の街・満洲里では日本の私服
(平服)憲兵に着き回された。
 これを予期したかのように、吉田毅との道連れで、その後を領事館の主事の植木隆三少佐
(32歳)と、外交官で領事館員の下村金之助大尉(29歳)に尾行させたのである。二人とも大卒者でそれなりの教養を有し、予備士官学校上がりで、陸軍中野学校出身であった。陸大出や士官学校出のようにガチガチではなかった。頭は極めて柔軟である。四角四面で厳めしくもなく、状況判断も速い。想像力があり、右脳も発達している。
 そのうえ一年間、中野の通信隊近くにある中野憲兵学校でも、憲兵として学び、実習をし、憲兵の何たるかを心得ている。憲兵隊特高課員の経験もある。高等訓練を受けた有能者である。

 だが、日本は昭和19年になると、大量に半島人を徴兵した。その徴兵において、記憶力などの頭脳判断により、半島人の憲兵が紛れ込んだ。もともと憲兵と聴けば、泣く子も黙る怕
(こわ)い存在であった。それに半島人が加わった。怕さが増幅されるのは当然の成り行きであろう。
 憲兵の悪評は、この頃から濃厚になって行く。それに負け戦が拍車を掛ける。巧くいっていないときの人間の心情は、巧くいってないだけに、他への八つ当たりも烈しくなる。小人なら尚更だろう。
 しかし、本来の憲兵の姿とは似ても似つかない、実際にはこれは事実無根であった。一部の半島人から編制された集団に特権階級の横暴を極めた者が居た。また、全体的には負け戦が込んでいるために、日本人でも庶民に対して横暴を極めた者は居たが、これは何も憲兵の世界だけではあるまい。如何なる組織にも、如何なる団体にも、この種の人間が3%とか4%の割合で紛れ込むのは集団の集合からすれば、完璧に排除出来ない者である。

 現に、東大卒のようなエリート集団の、学力的かつ知的な最高学府の大学にも、ある一定の割合で、どうしようもないクズは生まれるものである。そのエリートの一部が政府国家機関の官省へと就職する。高級官僚である。国家公務員I種試験の合格者達である。
 彼らが僅か四百人しか居ない省庁への重要なポストに就く。
 しかし最優秀のエリートを集めたこれらの省庁でも、贈収賄いなどの不祥事に手を染めるクズは居る。
 要するに、記憶などをはじめとする知的能力とモラルは全く関係がないのである。知的であるから総て善とは言い難いのである。
 常に一定比率でどうしようもないクズは居るものである。これは警察官僚でも司法官僚でも同じであろう。
 法の番人であるということが、必ずしも正義には結びつかないのである。この世は、清濁併せ呑み、全宅綯い交ぜなのである。この、相対界の現実を何ぴとも覆せないのである。この世に、数学的に検
(み)て完全帰納法で解決出来るのは少なく、その機能法が齎す結論は正しいとか限らない。帰納法から導き出された結論は必ずしも真でないことはあり得る。帰納法的論証は「偽」であることもあり得る。
 真偽を判断する場合に、「真」において、“多分、真であろう”という程度に留まる。つまり帰納法は必ずしも正しいとは言えないのである。これを把握しておくことが肝要であろう。どうしようもないクズが混じる所以である。
 また、国家公務員I種試験の合格者による科挙的試験制度は、必ずしも賢人や道義人を選抜する判定法にはなり得なかった。知的レベルのハードルを上げても、それで賢人や道義人は選抜出来なかった。
 知識力だけを計っても、人間の判別も選別も出来ないのである。この方法で、有能な人間は探すことは出来ないのである。

 これは明治27年10月に新制度による第一回文官高等試験以来の、科挙制度を採用した日本の決定的な弱点であった。
 一方、大陸の清
(しん)では、この弱点に気付き、明治38年に悪名高き官僚登用試験の科挙を廃止した。隋(581)に始まり、唐代になって確立された科挙の制度は、明治38年(1905)まで続いたが、大陸では千三百年余りの歴史を持つ科挙に見切りをつけた。
 日本は遣隋使以来、推古天皇期の607年、608年の小野妹子
(おの‐の‐いもこ)に始まり、614年の犬上御田鍬(いぬかみ‐の‐みたすき)と続き、更に唐代になっても遣唐使を送って、国際状勢や大陸文化を学ぶために使節団を派遣し大陸から多くの文化を持ち込んだが、このとき大陸の文化に馴染まなかったものは宦官と科挙の制度だった。宦官と科挙だけは、大陸に習わなかった。日本人はその悪弊に気付き、人間性を萎縮させることを見抜いていたからだ。

 ところが、その習わなかったものを、日本は明治27年に科挙の制度を採用したのである。そこで始まったのが、科挙並みと言われた、わが国屈指の“三大難関”である。高等文官試験、陸軍士官学校および海軍兵学校の入学試験である。これらの合格者に対し、日本人が無条件で平伏したことから考えれば、これが科挙並みであったと言えるだろう。
 これを考えれば、軍隊官僚も同じではなかったのか。科挙並みの試験の中から誕生した。しかしそれは、賢人や道義人を選抜する人格的なものとは全く無関係な、記憶力に頼って選抜方法であった。明治以来、日本人の賢人観は、“頭がいい人”を記憶力や暗記力の優れた人に求めたのである。今日もその延長上にある。
 そして当時、現役の高級軍人の場合はエリート意識から、驕
(おご)り、夜郎自大であったことは、佐藤賢了(中佐)の国会討論の「黙れ」発言からも明確である。これにより、佐藤中佐は一時期、時の人となる。
 だが“時の人”などと喜んで入られない。この構図は、今の世無秩序であることを顕していた。無秩序こそは浪費と混乱と過ちの始まりであったからだ。事実、「過ち」へと日本は爆走していた。そうなると自制が効かなくなる。


 ─────津村陽平と吉田毅には、尾行者が蹤
(つ)いていた。哈爾濱から蹤いてきた。そのように仕組んだのである。尾行者は植木隆三少佐と下村金之助大尉である。
 この二人は領事館員を装っているが、正体は陸軍の情報将校であり、また特高憲兵と同じように陸海軍の司法権を持ち、逮捕権までもっている特異な日本の官憲であった。官憲が官憲を見張り、場合によっては尾行者として追っている者を警護するのである。
 その警護者が満洲国官吏と言う隠れ蓑
(みの)を着て、時には陸軍省直轄の「陸軍大臣の命によって」の言を行使する。日本の憲兵に変化(へんげ)するのである。

 憲兵政治の弊害は軍の威光を笠に着て、暴力的にあるいは権力的に謙虚第一主義の態度をとり、傲慢にのさばることである。満洲国では、その最たるものが日本の奉天憲兵隊であった。暴力と権力の横暴を極めた。憲兵が憎まれ、怨まれる所以である。
 更には憲兵間で、功を焦るあまり捏造も度々で、架空の犯人をでっち上げたり、事実無根の証拠に並べ立て見当違いを検挙したりの、野粗なる弊害は極まるばかりだった。そのため真相を見失い、相手側の組織の全貌を暴
(あば)いたり、首謀者には迫れないままに蜥蜴(とかげ)の尻尾きりで終わっていた。その弊害はそれだけでなく、無関係な一般市民にまでに及んでいた。

 だが、無辜
(むこ)の市民にまで累を及ぼしていたのでは、正確な情報を掴むことは出来ないのである。
 これこそ「権力の間抜け」と言う他なかった。
 この種の間抜けで工作を続ければ、味方の工作員にも害が及び、危険に晒されることになる。憲兵政治の弊害は、この事すら把握していなかった。権力主義の末路であった。この時代の日本の憲兵や特高警察は、秘密戦を全く理解し得なかった。言葉の上で、その言葉は知っていても、身をもってそれを知る者は居なかった。
 多くは無理解で、情報に対しては傲慢であり、あたかも参謀本部や関東軍のように尊大ですらあった。
 日本の強大な軍隊と内部警察機構がそうされたのであろうが、此処には「知る者と知らない者」の二者間で摩擦が生じ、日本がこの摩擦を最後まで駆逐することが出来ず、結局、大東亜戦争に敗れた。日本人は最後まで秘密戦の何たるかを理解しなかったのである。
 この愚者達は、身みずから自身を荊棘
(けいきょく)に作り替えつつあった。
 愚かしきかな……。
 もしかすると、吉田毅はそう叫びたかったかも知れない。

 詰まるところ、当時の日本軍は情報に関しては全体的に殆ど理解しておらず、この絶望的な無知状態で敗戦を迎えたことであった。
 しかし、この気配を感じていた日本人は少なからずいた。
 こうした事は断乎駆逐しなければならなかった。
 警護者がどこまでも警護を続行する。
 この構図を考えたのは、沢田貿易哈爾濱支店長の吉田毅であった。

 かつて吉田は陸軍省兵務局の兵務課長で陸軍中佐であったが、更迭され、今は予備役に廻されていた。陸軍の戦争強硬派に徹底的に楯を突いたからである。強硬派に理詰めで攻めた。そのため強硬派から命を狙われたこともあった。それだけに度胸もあり、心の鍛錬が出来ており、また筋金入りであった。陸大出の実戦を知らない生っちょろい青二才の参謀とは違う。しかし敬遠されて予備役に廻された。
 そして、この漢を買ったのが、沢田貿易の沢田翔洋だった。

 吉田は兵器に詳しく、これに精通していた。それぞれの火器の性能を熟知している。それは表向きの長所ばかりでなく、短所と言える欠点や欠陥も熟知しているのである。世に完璧な武器などは無いというのが吉田の持論であった。長所を持った優れた武器は、それに伴う分だけ短所や欠陥を抱えているものである。そのことを熟知していた。
 沢田貿易では、吉田を重役待遇で内外から優秀なる武器を扱う兵器部の責任者であった。彼は各国の商業特権を持っていた。そして、ソ連での得意先は、チタ郊外にある『ニコルスキー交易商会』である。公営の武器商社である。この交易商会の代表者は、ソ連陸軍のミハエル・ニコルスキー少将であった。
 ニコルスキー少将と吉田は懇意であった。


 ─────満洲国総領事館でこれまで領事館の情報将校が蒐集したソ連情報を仕入れたが、これを持ち帰ることが、また一苦労だった。これを如何にして運び出すかであった。収集情報を暗号電報に組み替えても無線電信で送ることも長々となってしまう。電報文程度ではない。脳裡
(のうり)に記憶させることも、かなりの量では難しい。この証拠物件を移動させるのに最も簡単な方法は、人間がそれを携帯して持ち運ぶことである。しかしそれでは官憲に目を付けらる。
 検問で、尋問されれば一溜まりもない。
 さて、どうするか。
 思案しているときに『ニコルスキー交易商会』と商談を契約して来た吉田毅がソ連の軍需物資として、満洲里まで安全に運ぶ方法を作り出していた。運搬方法である。

 これに津村の「朝夕幕賓の策」が加わった。特異な策である。
 世間から遠く離れて飄々
(ひょうひょう)とした津村独特の発想から生まれたものであった。
 領事館周辺の地図の上に、1cm刻みの正方形の碁盤の目を描いた薄いハトロン紙を被せた。これを光に透かし、出発点を領事館として正方形の西南の角と終点の西北の角までを、阿弥陀籤
(くじ)のようにして碁盤の目を辿るのである。その辿り方は無数にある。これを無作為に、乱数的に選び出し、数枚のモデルを作る。
 このモデルから仕切られた碁盤の目を照準器のレンズのような眼で観察するのである。その一つひとつを順に観察し、機械的に覗いているとある種の漠然としたものが泛
(うか)び上がって来る。視点が定まらなかったピンポイントが浮上して来るのである。絵画的判断法である。これは津村にしてみれば、絵を描く前の構図設定であった。

 構図を作る……。
 これはインスピレーション、あるいは閃
(ひらめ)きのよるものであろうか。
 自分も見ている。しかし、相手も見ている。そういう相対関係が生まれているのに気付くのである。見ているものと見られている者の鬩
(せめ)ぎ合いである。
 津村の構図決めの観察方法は画家であった。
 物を能
(よ)く観察する。これは生まれながらの性癖であるか。
 こうして観察して構図を決めていこうとすると、構図を作ろうとする場合、神経という神経は知らず知らずの裡
(うち)に事物を観察する観察眼になっている。その観察によって、秩序あるものの中に異常や変化を発見するものである。勘を鍛えれば、何かがリズムを狂わしたり、周囲に異常が顕われていることを直ぐに発見するものである。武運の有る無しは、これで決まる。

 秘密部屋へと上がった。此処は屋根裏部屋である。小さな窓があり、そこから約300mほど前方が見え、その先にはインゴダ河と平行して走るシベリア鉄道が見える。
 「双眼鏡がありますか?」津村が訊いた。
 領事館主事の植木隆三が日本では珍しい最高倍率12倍の双眼鏡を渡した。
 津村は此処からシベリア鉄道を観察するのではない。その周囲に居る私服のソ連監視兵を観察し、その位置を記憶するのである。そして列車の通過時刻に併せて、監視兵がどう移動するかを観察するのである。
 その観察結果を先ほど近辺地図の上に載せたハトロン紙に、予
(あらかじ)め描いた碁盤の目の上に置いて、記憶するのである。津村流では「方眼法」と言う。

 津村は屋根裏で二時間ほど観察した。そして観察記憶を碁盤の目の上に色分けして載せていくのである。
 それぞれの位置関係と、人相から判断した内面を読み、蛮人的で灰汁
(あく)が強ければ赤(A)、観察眼に欠け間抜けならば紫(B)、それ以外ならば中間位置を顕す若草色(C)で塗り分けた。そして碁盤の目の中に誰も居なければ白(D)を塗る。その場合、二人以上を黒(Z)とし、これを座標軸の中心に置くのである。これを携帯していた色鉛筆で方眼の上の塗分けしたのである。こうして現在の静止画像を作った。
 「なるほど、こういう監視網にあるのか……」津村は独り言を呟いた。
 「なるほど……って、どういうことです?」植木が訊いた。
 「監視網の死角ですよ」
 「死角と申しますと?」
 「人間という生き物は無意識の裡に楽な方へと流れていくものです」
 「よく分りませんが」
 「単純作業やこれに類似する行為は、難より、易きに流れます。況
(ま)して権力の命令下にある場合は、難に挑みません。そこで近辺地図の上に難易分布を色分けしてみました。これを見て下さい。方眼の上に記した全体像は何色に見えるでしょう?」
 「あたかも色盲検査のように映りますなァ」
 「漠然とした色で、赤や紫は数えるほどです」
 「さようですなァ」
 「警戒の甘さ、あるいは監視の甘さを顕しているのです。分析すれば、まだ本番は二、三ヵ月、あるいは半年先くらいでしょうか……」
 「なるほど、そう説明されれば分ります」
 「これは敵味方の識別
(みわけ)る方法の一つです。色が薄ければ、敵は少ない。濃いくなるにしたがって、ケバケバしさが増し、ドぎつくなると敵は殖えていることになります。少なくとも、今は敵が少ないと検(み)ていいでしょう。しかし、その後は濃いくなります」
 「それは対ソ戦が濃厚になるのと同義ですか!?」驚いたように訊いた。
 「そう思って下さい」
 それを聴いた植木は、津村を見ながら目敏く眼を上下させて、もう一度、風体を眺めながらお辞儀して、感謝の意の述べた。
 「ご教授有り難う御座いました。心致します」身震いしたように言った。まさに老練なる智慧者と思ったからである。
 「私の恰好がどうかしましたか?」
 「ええ、心より敬服しております。あなたはやはり噂通りの人だ」
 「これまで集めた資料
(data)があるでしょ?」
 「はい、あります」
 「それを大至急に、十日ごとに方眼法で顕してくれませんか」
 植木はこの方法を即座に呑み込んだ。座標軸の中心がどのように移動し、全体の色が濃いのか薄いのかを読むのである。これを教えるのに何分もかからなかったのである。一種の科学的な監視資料と言えた。

 それと、もう一つ、重要なことを教えた。
 一般的な考え方として、情報は通過する物体情報だけに眼が行くものである。ところが津村は、その反対も指摘する。つまり、シベリア鉄道が通ってない領事館の表側である。重要情報は、裏側だけにあると思いがちである。しかし、表にも重要情報が姿を顕している場合がある。裏が見れないときは表を見ればいい。人間はこの単純な事を見逃し易い。表にな殆ど価値がないと思い込んでしまう。どうにかして裏を覗こうとする。
 だが、表にも盲点がある場合がある。
 これまで領事館員らも見逃していた表の夜景について、極力思い出してもらって、一週間前に遡
(さかのぼ)り、方眼紙の上に、指定した色を置いてくれないかと恃んだのである。
 燈火が一番強く映ったところは座標軸の中心点におき、それを黒
(Z)。ぼんやりした燈火を若草色(C)。燈火がない箇所を白(D)で顕すのである。赤(A)と紫(B)がないのは、夜陰での人間の表情まで窺うのは難しいからである。白と黒だけでも座標軸の中心が、どのように動いているかが分るからである。追うのは、あくまでも中心座標軸の点の位置である。その動きに伴い、若草色と白の分布である。絵画的発想がこの色識別分布を考え付いたのである。

 裏が覗けなければ、表を見ればいい。
 これを津村は指摘した。
 それは表の夜の風景である。夜になると、人が居れば燈火
(あかり)が着く。点々と燈火が灯る漠然とした夜の風景の中にも、夕餉(ゆうげ)のひと時を憩う人間の姿があり、そうした姿に人間反応が出る。
 この反応を、方眼紙の中に書き込んで毎日記録を取るように教えたのである。そして裏と表を合わせて双方を検
(み)る。これにより、更に人間としての人間現象が出る筈である。
 何故なら、武器を遣うのは人間であるからだ。
 これを聴いて、領事館主事の植木隆三少佐は大いに参考になった。用いるのに当たり、即、実践価値が生まれたのである。直ちに数名の領事館員を集め、依頼された作業に取り掛かった。
 そして数分も経たないうちに、どこからか「なるほど、なるほど……」という聲
(こえ)が上がり始めたのである。動きがよく分る。

 これまで雲を掴むような、手探りの観察が何を意味するか形になっていなかった。指先に触れたような感覚がなく、漠然としてよく分らなかったものが、奇
(く)しくも克明なる姿を顕し始めたからである。何らかの構図が見えて来たのである。夜景の中に一つの法則めいたものが泛(うか)び上がって来たのである。
 領事館員らはこれまでの蒐集活動が徒労でないことを確信した。津村陽平の奇手で諜報の悉皆
(しっかい)は生かされた。

 更に津村は、前もって渡されていた暗号コードブックと極秘電報のコード表とを渡し、暗号組替えをしてくれるよう植木少佐に頼んだのである。ある意味では大変な作業であった。
 組み替えた後、これを一ヵ月間に三回に分けて定期的に発信するのである。発信期間は一年間。受信先は東京憲兵隊S分隊の地下基地。対日参戦の正確な予測をしたいのである。
 依頼と同時に津村はチタの総領事館の地理を記憶し、出来れば隠形之術
(おんぎょう‐の‐じゅつ)を遣って碁盤の目の上の500m四方を歩いてみたいと考えた。摩利支天(まりしてん)の印を結ぶのである。実体がなければ影を生じない。そういう闇に溶け込む術である。
 津村陽平は、このときソ連参戦のあることを既に予測した。それは必ず起こる。その期間を、今から一年前後と検
(み)たのである。

 隠形之術は三元式
(縦・横・高さを加え、平面配当盤でない高低を持つ立体図)という半時計回りに「八門の術」に遵(したが)う。これにより姿を気付かれずに通過し、碁盤の目の八方を窺う。
 わが身を隠しつつ、敵に気付かれず、これまで漠然とした根拠がないものでも、一旦頭に閃
(ひらめ)いたものは、自分の足で歩いてみたくなるのが津村の性分であった。この漢の奇なるところであった。
 颱風の左回りに従い、その目にわが身を置き、500mの碁盤方形の裡側を歩く。何処に何が分布しているか頭の中に叩き込むのである。そうすると更に現実味を帯びて来る。
 津村は、便所に行く振りをして、領事館の便所の窓から外に抜け出した。このことは領事館員らも、誰一人知らないし、知られもしなかった。あたかも空気のように動いた。津村特有の迅速行動である。
 そして10分ほどして、再び便所の窓から戻って来て、「いや〜ァ、外は満艦飾になりつつありますなァ」と吐露したのである。
 それに合わせるかのように、一策を引っ提げた吉田毅が戻って来た。領事館員らは、この二人を見ながら、あんぐりと口を開け、狐に摘まれたように驚愕した貌になっていたのである。


<<戻る トップへ戻る 次へ>>


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法