運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 52

今日の日本ほど、「祖国愛」という言葉ほど希薄にしてしまった時代はあるまい。
 昨今、祖国愛などと言うと軍国主義者と一蹴したり、悪しき全体主義と侮蔑する者が多いが、日本人が自国を愛せずにして、どうして他の民族やその国の国民を愛することが出来よう。
 故郷に「祭」が存在するのは、郷土愛を讃える象徴の印ではなかったか。郷土を祝う行事が祭礼でなかったか。
 日本の暦に「祝日」があるのは、日本国民全体が国の祝いをすることではなかったか。
 何も祝日はサラリーマンの休日ではない筈だ。しかし祝日をサラリーマンの休息日と考える人は少なくない。

 かつて「新人類」と言われた世代も五十の曲り角を越えた。
 しかし残念なことに、新人類と呼ばれる世代からは日本精神がまるで感じられない。
 この世代は日本人として生きるのではなく金儲けを企む国際人の感覚で日本列島に生きているように思う。また、この世代のマインドは、日本精神を浸食する事で繁殖してきた。彼らは、日本精神をズタズタに引き裂いてきた。
 そうした輩が、これから日本の指導者となって権勢を揮う。

 さて、以後、正しく機能出来るだろうか。
 彼らの親
(強制疎開で国民学校低学年時代を過ごす)や祖父母(祖父は下級兵士として応召され、祖母は国家総動員法の動員令で軍需工場で勤労奉仕)は戦争を経験した。ゆえに「子や孫には苦労をさせたくない」という中で、育てられたと思う。そして、この世代を持った親の多くに「天皇制反対」を唱える父母が多い。
 要するに親は、小学校低学年時代を過ごした「国民学校世代」である。その世代が「新人類」を生んだ。
 新人類世代は子供の頃から「高度経済成長」の中で育ち、『わたしをスキーに連れてって』
(この映画の影響で、都会ではスキー板を抱えた若者で溢れた。またこの時代に結婚した多くは、カナダなどにスキー付きの新婚旅行に出掛けた)の中で大学時代を送り、売手市場の真っ只中にあって、青春時代はバブル経済ど真ん中だから、脳に麻薬を打ち込まれたのと一緒なんだろう。我利我欲亡者だ。彼らは、既に金と色しか頭に無い……。
 その最たる者が覚醒剤で逮捕された清原某ではなかったか。これは明らかに「愚」である。「悪」ではないが、「愚」である。
 まさに新人類世代の成れの果てであった。戦争体験者への敬意なんか、欠片も無い。あれが、人類学世代のなれの果て……。

 「日本人には、精神のバックボーンとなる宗教が無い」と指摘した人がいるが、宗教の本質は、欲
(金欲・性欲、等々)を自制する事だった。そういう面で、新人類世代を検(み)れば、その実体が見えて来る。金欲と性欲の全開放!が新人類世代の特長。
 この世代、金欲・性欲・物欲の充足以外に何かあるだろうか。
 これで国が亡びなければ幸いである。

 この新人類世代は、左翼のコミンテルンよりも質
(たち)が悪いといえる。国家は「悪」ではなく、「愚」で亡びる。コミンテルンは「悪」だが、「愚」ではない。
 しかし、新人類世代のマインドは「愚」である。そして、この愚に気付いて自覚症状を謙虚に感じるこの世代人は皆無だろう。
 歴史を振り返れば、『ローマ帝国衰亡史』からも窺えるように時代の世代や流行や性風俗が作り出した「愚」で、国を滅ぼすこともある。ヒューマン世界は「悪」では亡びないが、「愚」では亡ぶのである。


●戒喩の篇

 「知を好みて、学を好まざれば、その弊は蕩(とう)
 孔子の教えである。
 “蕩”とは締まりがなく中途半端で、最後は亡び尽きるという意味である。
 知識だけで、とろかされて締まりがないということで、最後は亡ぶのである。知識偏重の世の中は、やがて亡ぶと言うのである。
 つまり、知識だけを身につけていても、それは単なる“物知り”に過ぎない。
 そもそも知識と言うのは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけのよって得られるものである。
 記憶力とか、暗記すると言う行為は、大脳皮質によるもので、大脳半球の表層を形成する灰白質で、人では大部分が新皮質であり、思考や言語など高次の機能を担う中枢の働きによるなものに過ぎない。此処に記憶されたものは薄っぺらな「知」に過ぎず、人間の行動力になでには至らない。物事を知っているに過ぎない。
 つまり、教科書の何ページに何が書いてあるか憶えていても、それは行動力にならない。
 また知っていても、信念とはならない。確固たるのものにはならないのである。もっと根本的なものが要るのである。それにはもっと権威のあるものが加わらねばならない。それが加わって知識は初めて役に立つ。
 知っているだけでは何もならない。教科書に記載された事柄を知っている……、ただそれだけである。

 では、知識はどのようにして役に立てるのか。
 知識に智慧が加わって、智慧に変換出来て、これが「見識」となる。
 同じ物事を観察しても、それにはいろいろな知識的な解釈が出て来る。その解釈は知識の範囲を超えるものでない。考え方の違いから起こるものである。
 同じ物事を検
(み)ても、人それぞれに違う。
 問題解決の場合も、一つの問題に対しそれぞれが知識的見解が異なっている。同じ物事に対して、学者の見解でも別れることがあり、甲乙つけ難い場合もある。
 そこで問題解決に当り、「斯
(か)くあるべし」とか「こうしよう」というそれぞれに異なった見解と解釈が生まれ、その判断は人格、体験や経験の違い、思考能力などの違いで、意見も別れるところである。個々人の悟り得た境地も異なっている。当然解釈に内容の違いが出て来るのは当り前である。
 要するに、知識では「斯くあるべし」とか「こうしよう」というところまで漕ぎ着けないのであって、これには見識を必要とする。
 しかし実のところ、見識でも未
(ま)だ足りないのである。

 勿論、見識は高ければ高いほどいい。しかし見識も余り高くなると、低俗な連中はその見識の良さが理解できない。それを理解する能力がないからである。その能力不足が、結局反対するという立場に疾
(はし)る。
 こうなると見識者の言うことは“何でも反対”という立場を採
(と)って反抗する。小人(しょうじん)のもつ“焼き餅根性”である。小人ほどこの気持ちが強い。頑迷な小人ほど、自己主張や持論を曲げない。自分だけが正しく、他は総て間違っていると思い込んでいる。
 如何なる建設的見識をもってしても断乎反対し、断乎妨害する。世の中とは、このように矛盾の坩堝
(るつぼ)なのである。清濁併せ呑むのが、この世の構造である。その構造には、嚇(おど)かしたり、執拗に絡んだりする側面もある。
 これに一々途方に暮れていては、全く問題解決にならない。実行には至らないのである。臆病者がケチをつけると、消極策が先行して議案が“お流れ”になる現象は、此処から起こるものである。組織でも団体でも、狭量人の集合体だと、この現象が起こり易い。
 組織でも団体でも、小人臆病者が屁理屈を動員する標語は「時期尚早」を挙げ、次に「迷惑を掛けてはいけないので止めておこう」となる。何事も為
(せ)ずに済ませ得るための細心な自己防衛説得論である。この論に組織や団体が荒らされれば、やがて斜陽を辿る。何でも反対で、それに変わる代案がない。

 そこで、反対や妨害を排除する力が要る。反対者や妨害者を排除する能力である。物事は実践するには抑える力が要る。この能力を「胆識」と言う。肝である。換言すれば肚
(はら)である。あるいは相手を気合い負けさせる老練さである。老練さは学問によってのみ鍛錬される。
 換言すれば、決断力や実行力を伴ったベースに知識や見識があって、それを実践するのは学問のよって鍛えた心の鍛錬にも通じる胆識が必要になって来て、この胆識こそ、人を導く力となるのである。この力を養っていなければ、人は人気取りだけに奔走しても、そう言う手合いには靡
(なび)かないものである。素直に従わないものである。いわば「断乎力」であろう。この胆識によって断乎力を実行する。

 最初、この力を用いると強い反撥
(はんぱつ)を覚えさせる。非難囂々(ひなん‐ごうごう)が起こる。拒否反応は大きい。だが反撥を覚えさせながらも、それは徐々に魅力に変化して行くものである。諄々(じゅんじゅん)に説得する力でもある。それが魅力となる。
 この魅力は、口先や方便で巧みに繕
(つくろ)って躱(かわ)しても無理である。正面から“四ツに組む力”である。怯(ひる)まず、逃げない力である。不退転である。一足不去である。一歩も退(ひ)かない。
 そうすると「頂門の一針」になり得る。
 やがて拒否反応は、痛切な戒めとなって変化する。
 他人
(ひと)の急所を抑えて戒めを加えるには、己(おの)が知っている知識をぶつけても意味を持たない。そういうものは初歩的な次元のもので、本を読んだり、学校で講義を受けることによって習得する薄っぺらなものである。他人を動かすまでには至らないし、自らも動こうとしないだろう。
 だが、知識に経験が加わり、その集積がやがて智慧となる。この智慧が則ち見識である。この見識に実行力が加わると、最終的には人を動かす胆識となるのである。その胆識をもって、人には魅力が生じて来る。
 この魅力が、やがて生涯の伴侶になるように変化させることが出来れば、最初に反撥が襲うものほど効果的であったと言うことが分ろう。

 いいものは万人に適応する“八方美人構造”になっていない。毒々しい。毒薬のような恐ろしさを感じる。
 したがって、最初は烈しい拒否反応が起こり、反撥させ、苛立たせ、批難や指弾していることに違和感を覚える。しかし繰り返し反復すれば、徐々に良さが分って来る。だからこそ、そういうものは、いつの時代も色褪
(いろ‐あ)せない。生っちょろい流行物でないから、繰り返し検討される。そこに辿り着けるか否かは、偏に邂逅(かいこう)と言えよう。最初の出遭いである。邂逅こそ、人生の重大事である。そしてそれにより、以降の人生に大きく関わり多大な影響力を与える。


 ─────津村陽平は満洲に発つ前、一子相伝によって伝えられた家伝の『津村流陽明武鑑』を渡した。
 その書には「生け捕った者は然
(しか)る後の解き放て」と教えている。そして根元には、「柔よく剛を制す」という教えがある。
 そこには腕力での「剛力」を用いるのではなく、「柔」をもって「真綿
(まわた)で制せよ」とあった。「弥和羅(やわら)の術」である。
 柔よく剛を制する……。
 これは何も柔道の専売特許ではない。そもそもが老子の教えである。道教に中に存在する。
 一見強そうに検
(み)えて、猛々しい剛の者ほど、柔には弱いのだと教える。この思想は、もともと老子の教えである。この「教え」を書いた『津村流陽明武鑑』を、発つ前に津村は沢田次郎に手渡したのである。彼の人生の機微に弱者救済の念(おもい)を托したのである。

 『津村流陽明武鑑』は陽平の父・十朗左衛門が、24年間、かの大陸で、大陸放浪時代に験
(ため)して来たことであった。その書に「戒喩(かいゆ)の篇」があり、プロパガンダ戦略の法まで揚がっているのである。そこには剛柔の使い分けまで教えていた。肝心なのは「抜ける術」である。
 強気一点張りの、負け将棋をもう一番、もう一番では駄目なのである。退くときは退く。一旦退いて、これまでを刷新し、仕切り直しをする。しかしこれには多大な勇気がいる。こだわったり、意地を張っては、それ止まりである。

 更に根本には、この世と言う人間現象界は「大いに矛盾に満ちている」のである。それを熟知しておくことである。
 普通人は矛盾がないことを教わり、矛盾を駆逐することこそ、正しいものだけが残ると信じられているが、実はこの考え方そのものが「大きな矛盾の輪」の中にあるのである。
 水面下で正邪が暗躍する現象界にあって、正だけが汲み上げられることはない。正を汲み上げたと思っていても、その中に微量なる邪が混じっていたりする。その邪は媒介・培養する特性を持っている。
 世の中の大半は数学的に言えば、「不完全帰納法」に満ちている。
 これこそが清濁併せ呑む最たる証拠である。いいものだけを選択しても、その中には微量に邪が混じり、正を冒すのである。繁殖力や培養力が、正と邪とは異なるからである。このように根元を探ると、正邪はもともと同根であったことが分る。したがって正邪の中で、邪のみを駆逐してもこの愚かなる「引き算」では正だけが残るわけがない。邪も微量に紛れ込む。
 人間世界から戦争が無くならない理由である。
 したがって、邪は正へと教化し、矯正する以外ないのである。この強化し、矯正するのが「学問」と言えようか。ここに「学問を修めた者」イコール「胆識者」の図式が成り立つのではあるまいか。
 知識だけでは全く役に立たず、見識をもってしても不十分なのである。知識を単に知識の終わらせるのではなく、胆識に至る学問にまで高めねばならないのである。

 正邪両極の相対界にあって、それは併せ呑む以外ない。善悪相対界にあって、悪を駆逐して善だけとなることはあり得ない。善悪綯
(な)い交ぜなのが、この世と言う人間相対界なのである。
 相対界では常に正邪も善悪も、等しく拮抗が保てず、何れかに揺れ動く世界であるから、平時でも戦時でも振幅はあるもので、なかなか中庸には定まらない。常に一喜一憂に揺れ動いていた。局面的な勝ち戦は、全体的な勝ち戦に結びつかなかった。
 全体が十あって、その中の二や三の勝ちあっても、他が負ければ、全体の勝ちには結びつかない。結局一喜一憂に揺れ動くだけだ。昭和19年当時は、そうした時代であったといえよう。

 軍隊官僚が威張り、夜郎自大になり、上
(かみ)以上にエリート意識と言う権門を驕(おご)っていたが、果たして彼らに赤誠があったのか。国を憂うる至誠があったのか。
 確かに意識的にはあっただろう。
 しかし、権門に舞い上がった輩から、最後まで「奇手」は出て来なかった。一方で夜郎自大が雄弁に物語るように、権門は、また高位・高官の軍隊官僚は、上に驕っていたのではないか。
 つまり、官僚とは軍隊官僚を問わず、そういうものである。体質は驕るものである。夜郎自大になるものである。エリート意識がそうさせるのである。これは今も昔も変わりがない。
 この元兇は福沢諭吉の『学問のすゝめ』に始まった。今日もその延長上にある。
 その最たるものが、かつての高等文官試験、今日の国家公務員I種試験である。体質は依然、僅か四百人で日本を運営する驕る体質である。

 明治27年10月に新制度による第一回文官高等試験が行われた。
 しかし不思議なことは、当時東京には一つしかない東京帝国大学の卒業生だけは予備試験が免除された。斯くして官僚世界に、この時点で東大閥が出来上がるのである。
 その一方で、かの大陸の清
(しん)では悪名高き官僚登用試験の科挙を廃止したのである。明治38年のことであった。
 だが不可解なことは、かの大陸では科挙を廃止し、わが国の明治政府では科挙を開始したのである。何と言う皮肉であろうか。

 科挙は遠く遡
(さかのぼ)れば、隋(ずい)に時代に始まり唐代になって確立された文官試験である。
 悪名高き科挙が後に、囂
(かまびす)しく唱えらるようになる東洋的欠陥に気付き逸早く気付いた清では停止の道筋を付けたのに対して、日本では逆にこれとは相反するものを採用した。『学問のすゝめ』が大であったことは明白であろう。『学問のすゝめ』の“学問”とは記憶力に物を言わせることである。
 よく考えてみれば、そもそも科挙という試験制度は、本来の日本に伝統にないものであった。高文官試験をはじめとして、陸軍士官学校にしても海軍兵学校にしても、またこの制度を真似た大学の入学試験にしても、古来からの日本の伝統にはなかった。日本は明治以前は、試験依存に頼らない制度を採用し、試験で人間を篩
(ふる)い分ける方法を用いなかった。その人の人格と人物本位で選抜をして、円満を保って来た。薄っぺらな大脳皮質には頼らなかった。言語的・分析的・逐次的情報処理を司る左脳に頼らなかった。
 だが、明治・大正そして昭和になると暗記重視の試験選抜が濃厚になり、やがて深刻化させる。科挙と同質の物が、日本の官吏登用制度に顕われたからである。答えのあるものに答える解答法である。
 この時代に至ると、試験こそ人材を篩い分ける万能の尺度になってしまったのである。この信仰が、明治期に始まり大正を経て、昭和になると益々深化したのである。軍隊官僚は、この深化の中から生まれた。この官僚は答のあるものしか解けない。記憶や暗記の大脳皮質に頼った世界で思考するのものみである。この思考者をエリートと称した。

 一方で当時、石油メジャーらの巧妙な仕掛けで、財閥は富を誇るだけで、社稷
(しゃしょく)を思う気持ちはあったのか。国家の安危や存亡に賭(か)けて、それを一身に受けて事に当たる危害があったのか。
 この困難を、国家の指導者達は、どちらの方向に引きずり回そうとしていたのか。戦争遂行の強硬論で、その程度の思慮で、国の存亡は救えたのか。

 単に、華々しい戦を局部的に企てて功を立てることは易しい。
 しかし、実果を収めるのは難中の難事で、況
(ま)して一朝一夕にはいかない。付け焼き刃は通用しない。特攻隊などの作戦は付け焼き刃ではなかったか。
 それで、成功した例
(ためし)は人類の歴史の中にあるのか。
 当時の連合国を行動原理を考えると、乱を思い、虚を窺う国の集合体でなかったか。謀を得意とした国家群ではなかったか。その最たるものが、「ハル・ノート」であった。日本はこれを外交で、政治で躱せたのか。
 津村陽平が新京飛行場に着き、沢田貿易の哈爾濱
(ハルビン)支店長の吉田毅(よしだ‐つよし)の紹介で、初対面の漢は、いきなりこう切り出したではなかったか。
 「コーデル・ハルの『ノート』には、日本は満洲から撤退せよとは一行も謳
(うた)」っていません。中国から手を引けと言っているだけです。なぜ海軍は、手の裡を見せるような立体戦争の真珠湾攻撃を遣ったのでしょう?……不思議と思いませんか?」
 初対面で、遭うなり、唐突にこういうことを切り出した。
 それだけに、この御仁は熱血漢を窺わせた。その熱血漢の集合体が、あるいは『タカ』メンバーであり、これまでの種々の疑問から『タカ』計画が起こったと言えよう。彼らは早期戦争終結を求め、「仕切り直し」に同意していたからである。

 日本は外交で、赤子の手を捻るように、まんまと為手
(して)遣られたのである。日本は外交音痴だった。
 その残恨が、津村との初対面の、この漢の口から出たのである。外交を知る人間なら、ここまでの言葉も出て来よう。
 祖国愛に通じる人間なら尤
(もっと)もなことであろう。


 ─────さて、三羽鴉の謀議である。
 「難しいとは、どう難しいのでしょうか」問いは鷹司友悳
(とものり)から起こった。
 「功を立てることは易しいが、実果を収めるのは難だからです」と、頭出しをしておいて「今こそ、徳を知らしめ、心から畏服せしめる好機と思います」と、沢田次郎は胸中に秘策のあることを臭わせた。

 沢田の論は、裏口からそっと逃がせと言うのである。
 「捕らえた米兵を放てと言うのか!……捕獲した猛獣を再び野に放てと言うのか」
 だが来栖恒雄はせっかく捕らえた捕虜を放てということに、些かの疑念があった。捕らえておけば、何かの場合に交換条件として遣えると思っていたからである。あるいは未だ尋問の余地が残されているのではないかと考えていたからである。
 しかし、この言も意味がない。“せっかく”とか“何かの交換条件“というその根拠はないからである。
 せっかく捕らえたというのは、常人的な考え方で、此処には“勿体無い”と言う考えがあり、また何かの交換条件と言うのも、では「何に」「いつ」これを持ち出すかと言うことになる。その意味では、常人の陥り易いこの思考は、殆ど意味のないものであった。
 考え方としては「玉より、飛車を可愛がる」という発想であろうか。
 日本は世界に誇る戦艦『大和』
(基準排水量6万4000屯、口径46cm砲9門)を造り出しておきながら、この戦艦の有効利用を知らなかった。最後まで出し惜しみして、昭和20年4月、米空母機の猛攻により徳之島西方で沈没させ、日本の象徴は消えた。だが活躍の場は他にもあった筈だ。勿体無いの出し惜しみがそうさせた。
 玉より、飛車を可愛がる……。下手な将棋指しの常套手段である。勝負は負けが込むと、如何なる手当をしても勝てないのである。勝負の世界に、意地もこだわりも無用なのである。「退き」が肝心である。血の勝負師はこの事を知っていなければならない。
 負け勝負をもう一番もう一番では、身ぐるみ剥がれ、肝心なものを最後には失ってしまうのである。
 勿体無いも、時と場合によるのである。ワンパターンのこだわりでは危ない。

 「来栖さんの考えていることは分りますよ。しかし、それでは余りにも教科書通りです。そこで従来の定説的思考を崩し、捕囚を放って彼らを宣伝工作に遣います。通常の考え方にこだわっていては、既成概念やこれまでの分別知から抜け出すことが出来ません。また彼らとて獰猛な禽獣
(きんじゅう)ではありますまい。聴く耳を持っている人間です。いま必要なのは、彼らを工作する無分別智です」
 「君の言わんとすることは分らんでもないが、ではどう言う方法で放つと言うのか」来栖が食い下がった。
 「簡単なことです。謀
(はかりごと)に乗せればいいのです。彼らに宣伝してもらうのです。英雄に仕立てて自国民に訴えるのですから、効果は大です」工作媒体にせよと言うことであった。
 つまり彼らを工作すればいいのである。実に単純明快である。それも、何の自覚症状も感じ実ないままにである。これが分別知に対する、沢田の考えた無分別智であった。
 「なに!謀だと?……」米国に留学経験を持つ来栖も、相変わらず堅いことを言う。
 「兵は詭道なりをお忘れなく」沢田は諭すように言った。
 「……………」
 「彼らを優遇し、酒肴
(しゅこう)で持て成し、その後、放つ。無罪放免にする……。但し、喧嘩する相手は選ばないといけません」
 「どう言うことだ?」
 「極端な言い方をすれば、信用出来る相手、あるいは好意を持っている相手とでなければ、喧嘩はしない方がいい。後から懐かしく思える相手のみ、喧嘩をします。低い輩
(やから)とは極力、事を構えず無視して行くに限ります。そこで、常識派と言われる少数に限り、企てることを考え付きました。兵を用いる道は、つまり心を攻めるをもって、上とするそういう戦略家との喧嘩を思い付いたのです。兵は武力に頼って、それで終結させるというのでは、策としても下の下でしょう」
 「では、君の言う喧嘩する相手とは、いったい誰を指すのか」
 「連合国の戦争指導者達です。そのためには解き放つ際に、彼らを心服せしめ、出来れば帰伏させ、恩を感じさせ、人徳に懐
(なつ)くように仕向けるのです。智で戦う以上、もう再び背くことがないように工作しておく必要があります」沢田は毅然として言い放った。
 こう糸口を紡ぎ出した沢田次郎の才は、鷹司が夙
(つと)に認めているが、しかし彼にしても、計略の全貌が未だに見えずに居た。プロパガンダ戦略として遣うのであるから、“七度擒(とら)えて七度縦(はな)す”はよく理解している。
 「私も沢田君の意見に賛成です」
 「しかし七度では悠長過ぎます」
 「どうしてです?」
 「時間がありません。悠長に構えていては時限爆弾が爆発します」
 つまり沢田の「七度では悠長過ぎる」は、此処にあった。

 この時間のない時に、「七度」という回数を悠長に構えている暇はない。出来れば放つにも、一回限りで終了したいと考えていた。だがその策が思い付かないのである。それゆえ鷹司は、沢田に諮問
(しもん)しているところに、彼が如何に腐心しているかが窺えるのであった。
 絶好のカモが向こうから飛び込んで来た。沢田次郎はこれを好機と捉えた。
 思いがけぬ出来事であった。しかし長々捕らえても意味がない。
 此処は謀に乗せて利用する以外ない。早急に放つ必要があったが、それには劇的に放たねばならない。
 つまり心服させ、帰伏させるまでに至らねばならない。この効果がなければ、単に放ち損に終わる。その愚は避けたいと思っていた。

 「この戦争は、日本が負ける。必ず負ける。これ以上いじってもどうなる訳でもない。智将が更迭された状態では奇手
(きて)の出しようもない。私もそこまでは読んでいる。したがって、同じ負けるにしても、いい負け方をしたい。此処に居る三人は、その意見で一致している筈です。此処まではよく分るのですが……」と言いかけて、その先を噤(つぐ)んだ。
 「鷹司さんも、もっと最悪なる負け方を想像しているのではないでしょうか」沢田が訊いた。
 「それは、日本列島の東西の分割と言うことか!」来栖は懸念していることを訊いた。
 「あり得ます」
 「もしそうなれば……」
 「これに介入するのはソ連でしょう。日ソ中立条約は当てにはなりません。来年の4月になれば目鼻が付くでしょう。有効期限内に対日参戦も考えられます。その証拠に、ソ連は盛んに米英と蜜月関係を作り出そうと工作しています。その情報が『梟の眼』
(owls-eye)から入っております。おそらくこの事に気付いているのは日本では、われわれだけでしょう……」
 「それはどういうことだ?」
 「キーワードは独逸の敗戦と関係があります。この時期に絡んで日ソ中立条約は反故
(ほご)にされる可能性が大です。そうなると、おそらく一年前後に、ソ連は満洲に侵攻して来る筈です」
 「それは、つまりソ連が連合国の一員として、日本に関与して来ると言うことか。日ソ中立条約を破約にてまでも……」鷹司は恐れていることを訊いた。
 「充分に考えられます」
 「そうなると深刻です。とにかく、先ずは戦争終結を急がねばなりません」
 「その工作に、いま捕らえている米兵三人に一役買ってもらいます。彼らはこれ以上叩いても何も出てきませんよ。そこで、たっぷりお土産を持たせて解き放ってやる……」
 「その土産とは?」
 「われわれが計画した『タカ』そのものを公開し、手の裡を見せ、然る後に放つ……というこのシナリオではどうでしょう?」
 「なんだと?!」
 「それでは筒抜けにして、われわれの総ての手の裡
(うち)を総て明かしてしまうということですか?」不審に思った鷹司が訊いた。
 「手品には楽しみ方が二種類あります。一つは最後まで種が分らないもので、能
(よ)く隠せ果(おお)せるものと、最初に種を見せておいて、その取りにしても結局分らないものとがあるのです。これから遣うのは後者のものです。最初に種明しをして、われわれが戦争の早期終結を望んでいること明かすのです。そのために米国側もこれ以上戦えば、ただで済まないよいうことを見せ付けるのです」
 「では、具体的には?」
 「あと三日もすれば、津村少尉が舞い戻ってきますよ」
 「彼は満洲に発ったばかりではないか?」
 「もう直、いい智慧と情報を仕入れて、赤塔
(チイタア)の満洲国総領事館から戻ってきます。大きなお土産を抱えて……。それを手土産に米兵三人に持たせて、送り帰してやるのです。彼らはおそらく、脱獄後、米国では英雄になるでしょう。この美味い話を放置するバカは居ません。絶好の餌と言えましょう」
 「しかし、かの諸葛亮孔明ですら、南方征圧のときは蛮軍の王・猛獲
(もうかく)を七度擒(とら)えて酒肴で歓待し、然(しか」)る後に七度縦(はな)つているではありませんか」
 「今回は、わが方の一度だけの誠意を示しただけで充分です」
 「僅かに一度だけと言うのか」不審に思って来栖が訊き返した。それは、「一度だけで充分か」という懸念であった。
 「そうです、たったの一回限りで済みます」
 「どういうことだ?」
 「孔明が七度も擒えなければならなかったのは、猛獲が蛮軍の王であったからです。しかしこの度の、米兵三人は猛獲と違います。彼らは三人が三人とも、カレッジ卒業以上の教養を持っています。南方の蛮人ではありません。立派な米国の文明人です。この文明人に七度擒
(つら)えて七度縦(はな)つ必要はありますまい。
 人間は何度も繰り返し説得が必要な場合もありますが、これは、多くは“分からず屋”である場合です。これに反して、僅か一回で、適度で適切な説得で理解する、聴く耳を持った、物分りのいい人間も居ます」
 「なるほど、利を得ている……」来栖は膝を叩いて納得した。

 沢田は米兵三名を徹底的に優遇したあと、米国情報を知りたがっている参謀本部の第二部に再逮捕させて、陸軍刑務所に投獄された構図を作り、脱走を企てさせ、その手助けに陸軍刑務所の内部を知っている津村も併せて一旦投獄させ、津村が奇想天外な術を遣って脱走させると言う策を立てたのである。
 何故なら津村は陸軍刑務所の拷問室を検
(み)てきているからである。拷問にも遭(あ)っている。その手口も知っているのである。転んでもタダで起きない漢である。
 更に参謀本部には外事諜報班員に、前川恭二という大尉が居るからである。前川は情報を漏洩させている疑いが前々から持たれていたからである。獅子身中
(しし‐しんちゅう)の虫である。この漢を遣えば、信憑性が増すと踏んだのである。

 「それは、ソ連が対日参戦の意図があることを、彼らに洩らすということか」来栖が烈しい口調で訊いた。
 「それを大統領まで上申させればいい……」沢田の言は説得力を持っていた。
 「なるほど、上手く考えましたね」それに相槌を打ったのが鷹司だった。
 「この秘策の総ては、津村少尉の頭の中に在
(あ)ります。『山こかし』の一貫として、上手く、こかしてみせるでしょう」
 沢田は津村の『山こかし』に一役買って、女四人を満洲へと送り込んだのである。
 そして掴んだ情報の一部を、いま捕獲している米兵三人に仄
(ほの)めかす。ソ連情報である。この情報を米国は喉から手が出るように欲しい。その欲しがるものを『梟の眼』が掴んだ。これまでに蒐集したソ連の最新情報である。
 おそらくこれは、大統領へと上申されるだろうと検
(み)たのである。

 日本は「北進を採るか、南進を採るか」は明治以来の長年の主題であった。
 このテーマに従い、北へは朝鮮を併合し、満洲へと踏み出した。更に南にへは台湾やサイパンなどの南洋群島を前哨とした。日本帝国主義の野望である。明治の幕開けとともにこの宿命を日本は背負ったのである。そしてその宿命とともに、これらの地に理想と夢と野望を賭けて、一儲けを企んだ日本人も少なくなかった。
 また、これが大東亜戦争の要因となったと言えよう。

 ゾルゲ事件以前の日本の動きが気掛かりだった米国は、日本が南進策を採
(と)るか、北進策を採るかで、ソ連の顔色を窺っていたのである。日本は満洲から先の北進策を進めなかった。石油資源を求めて南進策を採った。これはソ連赤軍諜報員リヒャルト・ゾルゲ(Richard Sorge)の影響である。
 日本が北進策を押し進めなかったために、ソ連は対独逸戦線に全力投球できた。この事でモスクワの防衛は適
(かな)ったのである。ゾルゲ情報で、ソ連は独逸を追い詰めることが出来た。
 そのうえソ連とは日ソ中立条約があるために、条約上は互いに戦争をしない同盟国のようなものであった。
 その同盟国然としたソ連が、今度は連合国側に加わろうとしている。これに米国は諸手を上げて喜ぶわけがない。日本を敗戦に追い込んだあと、利権をソ連に横取りされる恐れがあるからだ。米国はソ連の性格をよく知っていた。熊の狡猾さと獰猛さをよく知っているのである。知らぬは日本ばかりであった。
 その証拠に、戦争終結の仲介役をソ連に恃
(たの)もうとしていたのである。そうすれば満洲ばかりか、樺太も北海道もくれと言い出すだろう。そういう国である。愚かなことだった。戦争は英米を中心とした国とばかりしているのではなかった。
 そもそも日中戦争は、背後にナチス独逸の軍事顧問団の中国援助があったのである。更に日本の負けが明確になってから、中立関係にあったソ連が日ソ中立条約を反古
(ほご)にして連合国側に加わろうとしていたのである。
 この当時の、世界を相手にした日本の愚を見抜いた賢人は、日本には殆ど居なかった。一握りの『タカ』メンバーだけだったのである。

 「君の策の流れは一応理解したとして、具体策は?」来栖が訊いた。
 「タダでは帰しません。脱獄だけさせれば意味がありません。彼らを英雄に仕立てるために、官憲の裏をかいて劇的な逃亡劇が必要です。つまり、これを実行するためには、彼らにもそれなりのトレーニングをしてもらい、なおかつ、こちらが彼らに対して意の沿うような教育をしなければなりません。親日のための思想教育です。そのプランは総て津村少尉の頭の中に在ります。あと三日もすれば『梟の眼』の掴んだ情報をもって舞い戻ってきます。その情報に従って、彼らを英雄に仕立てることでしょう。
 さて、お二人に役者を遣って頂きます。日本語を教育した上で、日本の良さを知らしめ、鷹司さんは彼らに独逸語を仕込んで下さい。来栖さんは、彼らの友として、よき聞き役を遣って頂きます。私は『梟の眼』に檄を飛ばします。此処まで話すと先が見えて来たと思うのですが、如何でしょうか。これが津村少尉の仕組んだプランの全貌です。期間は三ヵ月間です」
 「三ヵ月で、果たして可能ですか……」
 「短過ぎないはしないか」
 「三ヵ月と言ったら三ヵ月です。出来なければ、このチャンスは逸します。
 これから先は往生際よく遣って頂きます。こうなったら津村陽平のいう人間を心から信用し、信頼して下駄を預ければなりません。どれだけ津村少尉を信頼するかに懸かります。そして事は急ぐ必要があります」
 沢田次郎の脳裡
(のうり)には、以前、赤城嶺山神社の神主の林昭三郎から聴いた懸念が脳裡に残っていた。
 今年中に襲う東南海地震と、翌年に降るであろう火の雨のことであった。この前後に、ソ連は満洲に攻め入って来る。十中八九そうであろうと検
(み)ていた。
 急がねばならないと思った。火の雨だけはどうしても食い止めたい。時限爆弾の爆破時刻が迫っていた。その策を思案中であった。

 ところが、奇
(く)しくも打って付けのカモが転がって来たのである。これ幸いである。願ってもない構図が出来た。敵味方含めて役者が揃ったのである。
 このカモにネギを背負わせる。津村プランであった。誰も考え付かないコペルニクス的発想であった。
 津村プランによれば、カモに詳細なソ連の対日参戦情報を流して、これを利用すればいいのである。強制着陸に応じた米海軍の三人を、米大統領への密使に遣えばいいのである。
 米大統領なら後に喧嘩しても面白い。沢田次郎はそう思った。充分な秘策を練り上げていたのである。
 津村陽平が盛んに三人の米兵捕虜に、虐待や拷問を加えてはならないという力説したのは、実は此処に根拠があったのである。
 津村プランを一口で言えば、戦争には武力行使以外の戦争遂行手段であると同時に、早期戦争終結手段であると言えるだろう。
 津村の言に従って、米兵三人には姓名・階級・年齢・最終学歴を問うただけである。それ以上の尋問はしなかった。それ以降、歓待した。この歓待に随喜と満足を表明した。そればかりか、心からの恭順を示す有様だった。席を改めて酒宴を開いた。美酒と佳肴で、下へも置かず持て成した。恭順は更に深まり、心服の態度が顕われていた。そして入獄や脱獄の指導までして、然
(しか)る後に放つのである。劇的に逃がし、彼らを英雄に仕立てるのである。津村プランであった。
 三人の米兵を徹底的に三ヵ月間で“親日漬け”にする。これが津村陽平の策であった。
 話はこれで纏まった。全員一致で、これを議決した。


 ─────満洲国新京に到着した津村陽平以下の老兵隊一行と、大日本航空のエア・ガールに扮したアン・ スミス・サトウ、キャサリン・スミス、鷹司良子、室瀬佳奈の四人は、沢田貿易の哈爾濱
(ハルビン)支店長の吉田毅が案内した満鉄のヤマト・ホテルに滞在していた。
 アンは、飛行機を操縦して来た航空キャプテン制服から、次にエア・ガールに扮していた。変装である。四人にエア・ガールの一員に溶け込んでいた。日本の女子遊撃隊が化けたとは思えない。そのような装いをしていた。

 老兵隊の爺さま達は、生まれて初めての豪華なホテル宿泊していることに満足を覚えていた。
 またエア・ガールに扮した四人は、青い制服のまま『哈爾濱銀座』と言われるキタイスカヤ街へ出掛けた。
 その一行に、室瀬泉蔵と満鉄調査部にいた第三班の伍長・浅沼重吉上等兵が加わった。
 浅沼上等兵が室瀬泉蔵とともに「哈爾濱銀座でもどうですか?」と誘ったのである。
 そのとき「行きたい」と聲
(こえ)を上げたのは佳奈であった。
 そこで津村は、孫の佳奈に併せて、「泉蔵さん。あなたも浅沼上等兵の案内で、彼女達と一緒に銀座見物にでも行ってらっしゃい」と許可したのである。
 津村の脳裡には目立つ大日本航空のエア・ガールの制服を着た四人と、“お上りさん”風の爺さま二人を監視対象において、ソ連官憲に注目をさせておくという意図があったからである。
 四人の女性と、老人二人が哈爾濱銀座の“銀ブラ”と洒落込む。これは監視の眼を惹き付けるだけでなく、近年の日本には見られなくなった安穏風景だった。津村は、このアンバランスが景色になると思った。これに官憲は眼をつける。そう踏んだのである。
 戦争と戦争の間にある、ほんのひと時の平和な時間であった。女性達と爺さま達はキタイスカヤ街へと出掛けた。

 「此処が有名な哈爾濱銀座です」浅沼が説明した。
 そう言われても室瀬泉蔵には、哈爾濱に来たのは生まれて初めてであり、浅沼の説明には納得するようなものはなかった。東京生まれ、否、江戸生まれの泉蔵には、江戸の銀座しか脳裡にはなかった。
 「ほぉーッ、此処が銀座とな?それにしても外人さんが多いようだが……」泉蔵が訊いた。
 「此処は白系ロシア人の街なのですよ。そしてあれが、ギリシャ正教会のソフィスキー教会の塔です」浅沼は元満鉄職員だっただけに、この辺は詳しいようだ。それは東洋の中に、西洋が同居していると異国情緒を語る言葉でもあった。。
 そして横から「ねえねえ、お爺ちゃん。あおのお店の、あれ見てよ、日本の漆器だわ」佳奈が指差した。
 「うム?日本の漆器とな?」《こんなとことにまで日本が……》という感想であった。
 泉蔵は佳奈にそう言われて、その方向へと足が向かっていた。他もその後を蹤
(つ)いて歩く。日本の漆器に惹かれたのである。
 漆器屋の店頭のショーウインドに飾られている椀を見ていた。
 「もしやこれは……」泉蔵が驚いたように吐露した。
 「うちの塗椀じゃないの?……」
 「うん、そうだ。わしが塗った物だ」合点が言ったように返事した。泉蔵の塗り物がこんなところで販売されていた。
 そう言っているところに、商店の婦人が出てきた。中年の日本婦人である。
 「どうです、よございましょう。匠
(たくみ)の技巧が加わった日本の最高級品で、これは桜花散螺鈿椀(おうかちらし‐らでんわん)と申します。見事な桜の文様は夜光貝(やこう‐がい)と鮑貝(あわび‐がい)が塗り込められた極上の研ぎ出しです」と聲(こえ)を掛けたのである。
 「うんうん」《その通りじゃ》と泉蔵は言いたかった。
 「どちらから、お出でになりました?」
 「わしは東京から来た」泉蔵が胸を張って言った。
 「そうでしたか」
 「これ、そんなにいい品
(もの)か」泉蔵が訊く。
 「勿論ですとも」
 「この街では、そういう結構な評価が付いておるのか……」泉蔵は満足げに頷
(うなず)いた。
 「哈爾濱土産に、お一つ如何でしょうか?」
 「うちには同じ物が沢山ある……」
 「ところで、あんたたち、お上りさんですかい?」
 「いや、東京から下って来た」泉蔵が、上りと下りの間違いを指摘するようにいった。

 白系ロシア人の多いこの街に、大日本航空のエア・ガールの青い制服の四人の女性は、見るからにすっきりと艶
(あで)やかで、莫迦(ばか)に目立った。青が鮮やかだったからだ。エア・キャップを被り、おのおのは黒のショルダーバックを背負い、今風で言うスチュワーデス然とした出立ちである。目立たない筈がない。
 「では、あんたたちも日本人ですかい?」婦人が驚いたように訊いた。
 「わたしたちは大日本航空のエア・ガールです」
 「そうでしたか、随分と日本も変わったようですね」それは日本女性が変わったと言う意味である。あるいは健康事情を言ったのかも知れない。外地に伝わって来る日本の情報と言えば、物資難に喘
(あえ)いでいる日本だったからである。
 また四人の身長も、当時の日本人としては高い方である。彼女らは毎日の軍事訓練で鍛えられて、日本人離れした締まった躰をしている。制服がよく似合ってスマートで恰好いい。そのためか上背が高く見える。
 良子が160cm、佳奈が158cmであり、アンとキャサリンは160cmを越えている。
 それに婦人は、この二人の青い瞳を白系ロシア人
(特長として白い肌で、髪の毛はブロンドかブラウン、眼の特長としては灰色掛かった深い緑の瞳が多い.青の瞳もいる)の帰化人とでも思っているのだろう。あるいは日系二世と思ったのだろう。

 「新聞によれば、内地も空襲で大変だと聴いていましたが……」
 「ご安心下さい。日本は未
(いま)だ健在です」
 「そうですかい、それを日本人から聴いて安心しましたよ。わたしの親戚縁者の多くは広島に棲んでいますからね」
 これを聴いたキャサリンは、何か心に引っ掛かるものがあった。それが何であるか、しかし今は分らなかった。だが、胸騒ぎを覚えたのは確かであった。

 此処は中国名では中央大街
(チュンヤンターチェー)と呼ばれ、白系ロシア人の街であり、ロシア人を多く棲んでいるところであった。哈爾濱は帝政ロシア時代の東清鉄道があり急速に発達した街である。そして東清鉄道は後に北満鉄道となる。ロシアでは東洋のモスクワと言われた。
 それだけにソ連官憲の眼も烱
(ひか)る場所である。現にG・P・U(ゲーペーウー)の尾行が、この目立つ一行に付き纏い始めた。ソ連側は哈爾濱にも監視の眼を烱らせていた。哈爾濱は交易点に当たる場所である。そのうち日本人は1万5千人ほどで、商工会やその他の団体が結成されて商業も盛んな地域であった。またロシア人は4万人ほどであり、他にも三十余種族が雑居していた。人種の展覧会場のようなところであった。
 そのためか此処には劇場、キャバレー、料理店、喫茶店や専門のカフェー、ダンスホール、遊郭などが完備されていて東西が交わる歓楽都市でもあった。こうした中での日本人監視である。それは日本人を監視するソ連官憲だけではなく、日本の官憲も日本人を監視していたのである。

 何故なら、哈爾濱郊外には日本陸軍の細菌戦研究部隊の悪名高き731部隊があるからである。この部隊の存在は極秘で、絶対に知られてはならないからである。生体実験材料として「マルタ」が挙げられる。
 この「マルタ」は諜報活動者が生体実験材料に第一に挙げられ、正体が判明してその手の人間だと分ると、処刑は人体実験材料となって死を遂げなければならなかったからだ。
 スパイは身許
(みもと)がバレれば、最後は残忍な殺されからをするのである。諜報活動者の脳裡には、自分の逮捕されれば敵側に捕らえられ「マルタ」の運命を辿るという恐怖があったのである。
 監視は敵味方で入り乱れていた。それに、日本人に扮した中国側の秘密組織も暗躍していた。

 津村陽平の策は、此処を間者暗躍の舞台にして、一挙に集めておく。そのための目立つ日本のエア・ガール四名と、二人の老兵を“お上りさん”に仕立てて、三日ばかりホテル暮らしをしてもらう。他の老兵も同じである。
 此処に官憲の眼が集まっている隙に、沢田貿易哈爾濱支店長の吉田とともに赤塔
(チタ)の満洲国総領事館に行く。また、新京飛行場で出遭った二人の情報将校に、その後を追わせる。ポーズは尾行である。
 この二人は満洲国総領事館の領事館員で外交官を装っているが情報将校である。一人は領事館主事の植木隆三少佐で、もう一人は外務省の外交官で領事館員の下村金之助大尉であった。
 彼らは『タカ』計画に賛同した情報将校であり、『梟の眼』の配下であった。また、養父の伯爵・沢田翔洋の手下である。彼らは大学出の予備士官学校を出た教養家でもあった。その手下が沢田次郎の意のままに動いてくれる。表向きは日本の情報将校であり、領事館員だが、一方で私兵として、充分に仕掛けを作っている。
 その策に、津村が脚本と演出の味付けをする。十重二十重の調味料である。
 津村と吉田を、日本側の官憲が追い掛けるという構図を敵に見せ付けるのである。満洲国総領事館に入る口実を見せ掛けるためである。

 津村はアン・スミス・サトウ少佐ら四人が、キタイスカヤ街に出掛ける前に、こう言った。
 「充分に惹
(ひ)き付けて下さい」
 その意味は、大日本航空のエア・ガールに扮して、目立つ恰好で惹き付けると言うことである。青い制服が目立つからである。これに敵味方の官憲の眼は集中する。
 「分りました」
 「そして、此処で三日間、惹き付けたまま時間稼ぎをして下さい」アンに言い含めた。
 「先生は?」
 「赤塔
(チタ)の満洲国総領事館に行って参ります。往復三日掛かります。その間、敵味方の官憲を少佐殿が妖艶さをもって、充分に惹き付けておいてくれませんか。ときに不穏を装って騒いでみたり、尤(もっと)もらしく淑女然として見せ掛け、軽く相手を揶(から)かって、攪乱させたり欺いてくれませんか。此処には満鉄調査部の職員も、欧米の新聞記者も多く入り込んでいます」
 この事を津村は、沢田から聴いていたのである。危害が及んでも万一の場合は、領事館員の彼らを口実に遣えばいい。詭弁は幾らでも作れた。
 まさに哈爾濱は人種の見本市であった。

 「分りました、三日間ですね。お任せ下さい。充分に惹き付け攪乱させてご覧にいれます」
 情報戦を戦っているのである。その意味をアンは知り抜いていた。腕力でなく智で戦う戦争である。智で戦う秘密戦は権威や形式よりも、冷徹なリアリズムとあくなきロマンチズムが物を言う。そして哈爾濱は異境の地であり、これまでにはないユートピアを秘める何かがあった。その内なるものを求めて、また津村陽平も国境の街・満洲里を経て、ソ連の赤い星の急行列車『ザ・バイカル號』に乗って赤塔
(チタ)へと向かう。日本人など殆ど居ないロシア領である。
 此処には領事館員らに扮した秘密戦士が、命を張って蒐集した極秘のソ連情報が堆積している。それを埋もれさせてはならない。この中に、ソ連の対日参戦の鍵がある。おそらくソ連は、この条約の不延期を通告し、有効期限内の来年の8月に対日参戦するのではないかとの見方があった。
 更に津村の画策には、幻の、今は不明だが例の“M資金”があった。この鍵を手に入れる必要があった。
 津村はM資金と対日参戦は個別のものか?……。なぜソ連は対日参戦を企てているのか?……。懐疑は次から次へと生まれた。
 それにしても、対日参戦が近いことは、何とも気になるところであった。その期間を“あと一年”と踏んだのである。

 これに関して、満洲国側の諜報態勢はお粗末なもので、保安局なる秘密機関も充分に機能していないと推測が立てられていた。つまりこの保安局なるものは、関東軍第二課によって創立されたもので、関東軍は治安分室の名で君臨しただけであった。日本はこのとき秘密戦の何たるかを理解していなかった。
 つまり、関東軍第二課は既に当時、情報による秘密戦が展開されているのに、ただ国境を守るだけで、この時代の大変革期に当たりながら、何ら積極的に具体策を打ち出していなかったのである。要するに、規格の小さな人物で体裁を繕い、大計は殆どないままであった。左遷組を守備に当たらせ、智謀の将を厄介物払いした観があった。
 そして監視と守備は、現在、対独戦線で勇戦を誇っているソ連極東第五軍が満洲に攻め入ったとき、どうするかについて全く計算に入れていないことであった。
 この懸念は石原莞爾将軍から受け継がれた課題だが、これを問題にしていなかったことは、関東軍と参謀本部の大きな手抜かりであろう。こうなると、一旦国境を突破されれば、如何に手を尽くそうと、勝つ策は失われていた。これにより、満洲事変は無に帰したのである。
 昭和6年
(1931)9月18日に企てた日本の中国東北部への侵略は十五年戦争の第一段階であったが、この戦争を日中戦争へと発展させてしまったことは愚であり、この愚の上に負け将棋をもう一番やらかしてソ連を華北分離工作の中に誘い込み、これに一枚噛ませてしまった秘密戦の敗北は大きな代償であった。日本は情報の何たるかを殆ど理解していなかった。秘密戦では、この時代、日本は負けていた。

 来年には、ソ連が日ソ中立条約の有効期限内に攻め入って来る……。
 『梟の眼』の掴んだソ連情報であった。このソ連情報を、関東軍も参謀本部も信用しないとなると、では、何処に用いるか?……。この情報の欲しいものは他にもいた。しかし有効利用の法をしらなかった。
 単直に言えば、米国に洩らせばいいのである。これにより、連合国の関係は複雑になり、ソ連をどう扱うかになる。
 おそらく有効に遣っていれば、1945年2月のヤルタ会談での米・英・ソ三国の最高指導者であるルーズべルト、チャーチル、スターリンの構図の中の、スターリンの扱いも大きく違っていたのではないか。
 独逸の敗北が決定的になってとき、降伏後の独逸をどう管理するかが国際連合
(国際連合軍であることに注意)の召集の決定などとなるが、その後の1945年7月26日のポツダム宣言においても、後にソ連が参加するなどの日本に対して不利なる共同宣言が採択されただろうか。それも、ソ連を交えて……。本来、この構図はあろう筈がない。
 無条件降伏後の、戦後における対日処理に日本東西分割・分断とか、あるいは北海道分割・分断は避けられたにしても、北方領土問題
(ソ連(ロシア)が占領している歯舞諸島・色丹島、および南千島の国後島・択捉島はロシア領である)が勃発してしまったのである。

 もう一度、昭和7年以来の建国以来の満洲国について考えてみる。虚構であり、日本の傀儡
(かいらい)国家として起こったこの国は、果たして一代や二代で亡ぶ国であったろうか。
 欧州からはユダヤ人が続々と雪崩れ込んで来ていた。人をもって国を為す構造も徐々に整いつつあった。
 だが、情報の秘密戦に敗れていたことは否めないだろう。そのうえ兵革に敗れていた。
 裡には智将は更迭され、あるいは思想的には誅せられていた。軍隊官僚は皇帝一族の骨肉干戈
(かんか)を弄んだ観が否めない。現に、皇帝・愛新覚羅溥儀の妃の婉容(えんよう)は日本敗戦後、ソ連・モンゴルの連合軍とともに満洲へ遣って来た八路軍に逮捕されてその後各地を延々とし阿片中毒で最期を迎えている。
 婉容が阿片中毒に陥ったのは1937年頃からだったと言う。このことを溥儀の弟の愛新覚羅溥傑の妃だった嵯峨浩
(さが‐ひろ)は自伝の中で記している。阿片中毒、何故だろう?……。阿片漬けにされたのか。
 満洲国軍は関東軍に靡
(なび)かなかった。横暴で傲慢であったからだ。この構図の上に、ソ連は虎視眈々であった。対日参戦のタイミングを計っていた。付け入る隙を窺っていた。

 しかし現実は、この画策すら信用されていなかった。諜報組織が掴んだソ連情報は無視されていた。
 日本は秘密戦を戦っていなかった。更には『梟の眼』が蒐集したソ連の対日参戦など、頭から信用していないのである。
 一方でソ連は狡猾であった。
 昭和6年9月の満洲事変以来、翌年の満洲国建国までの期間、満洲には北方軍閥崩れや馬賊の残党が多く居たが、彼らは満洲建国されるとチタを経由するなどして、ソ連国内へと逃げ込んだ。これらの残党や民衆を庇護したのがソ連であった。ソ連は続々と逃げ込んで来る彼らを庇護し、その後、充分に教育したあと、再び満洲側に諜報員として潜入させたのである。
 関東軍第二課の治安分室の監視の眼は甘く、更に監視網は粗く、秘密戦においては完全に満洲側が劣っていたのである。また、それだけでなかった。
 日本は、日ソ中立条約を心より信用し、一度は対ソ戦を想起しながらも、この条約を拠
(よ)り所にしていたのである。その証拠に、前線基地で蒐集された満洲国総領事館のソ連情報は参謀本部でも殆ど信用していなかった。それだけ日本は情報に無知だったと言えよう。
 むしろ、この情報の価値を高く評価したのは米国であった。
 更に中国国民党軍や赤軍の八路軍や華中の新四軍も加わり、この情報秘密戦は三つ巴
(ともえ)、四つ巴を呈していた。赤軍は秘密組織を最低一つずつを、各要所要所に起き、国民党軍も二つ以上の組織を要所ごと持っていた。更に、これにソ連の地下偵諜網が加わり、それぞれに火花を散らす、諜報および謀略活動を企てていたのである。

 またナチス独逸の秘密国家警察
Gestapo/Geheime Staatspolizei の略で反ナチス運動取締の国家警察機)も、満洲へのユダヤ人流出に警戒の眼を烱(ひか)らせていた。シベリア鉄道の欧州からの終着駅は満洲里である。此処は急行列車『ザ・バイカル號』の終着駅でもある。欧州からは此処が満洲への玄関口となる。
 またチタは、シベリア鉄道の経由駅で、インゴダ河に沿って東に向かえば、ハバロフスクへと至る。
 更にハバロフスクから東へ至ると、ロシア極東のコムソモリスク・ナ・アムーレがあり、此処は1932年
(昭和7年)にコムソモール団員が建設したことに因(ちな)む、アムール川下流の極東の工業都市である。
 此処より、更に東へ進むと、ソビエツカヤ・ガバニの軍港に至る。此処は日本樺太領の間宮海峡を挟んで、安別、西棚丹、北名好、恵須取、鵜城、萌菱、久春内、泊居
(トマリオル)、野田、蘭泊、真岡(マオカ)、多蘭泊、本斗と港町が並び、真岡から樺太の中心地の豊原に至り、南下すれば大泊へと至り、此処から稚内に向けての航路があった。【註】泊居、真岡以外は漢読表記は不明)
 この関係を戦略的に検
(み)れば、赤塔(チタ)は極東の重要な要であったと言えよう。また赤塔から満洲国内を東に向かえば満洲里を経て斉斉哈爾(チチハル)、そして哈爾濱(ハルビン)へと辿り着く。地理的に検ていくと哈爾濱こそ国際的なスパイ活動の拠点と言えたのである。表面は歓楽地のような貌を持っているが、水面下では各国のスパイが暗躍していた。

 津村陽平がアン・スミス・サトウに、これらの三つ巴、四つ巴を三日間攪乱して欲しいと恃んだのは、この組織を手玉に取って欲しいと言うのと同義だった。満洲にはソ連側の満系人を逆スパイに仕立て上げて満洲国内に送り込む秘密組織が、徐々に功を奏していたからである。惹き付け役に、大日本航空のエア・ガールに扮した四人に恃む以外なかった。


 ─────津村はチタに向かうに当り、沢田貿易哈爾濱支店長の吉田毅ならびに、領事館の主事の植木隆三少佐と、外交官で領事館員の下村金之助大尉と綿密な打ち合わせをした。
 「私たち二人は満洲国保安局の秘密警察に扮して、喇嘛
(ラマ)僧に扮した津村さんを満洲里まで追います。満洲国の官憲を装います」
 「では、私は沢田貿易哈爾濱支店長の身分で、商業特権があり、チタ郊外にある『ニコルスキー交易商会』に出向くことにしましょう。この会社は武器専門交易商社で、そこからソ連製の71発入のドラム・マガジンのPPsh短機関銃でも仕入れますか。これを日本への手土産手とて、津村さんは御曹司にお届け下さい。そして他にも手土産がもう一つ……」吉田が言った御曹司とは、沢田次郎のことである。
 「何です?」興味津々で訊いてみた。
 「三日後にお知らせします。それまでお楽しみに」吉田はじらして教えなかった。今は口に出来ないものらしい。
 先ずは、チタまで出向かねばならないのであろう。
 それにしても支店長の吉田毅は小気味のいい漢であった。
 「吉田さん。あなたはどうして沢田貿易の商社マンになったのですか。私は、てっきりあなたを陸軍省の情報将校と思っていましたよ」
 「そういう時代もありましたなァ」
 「やはり」
 「喜びを喜びとし、悲しみを悲しむ。これ、人間としての自然の摂理です。こればっかりは、どうにもなりません。つまり軍隊には、私の居場所はありませんでした。随分と諌言をいって、最後は煙たがられ、予備役に廻されて更迭です」両手を広げて竦
(すく)めてみせた。

 吉田は、以前は陸軍省兵務局の兵務課長で陸軍中佐であった。しかし、上司に大胆に楯を突き、遂に予備役に廻された。言は理に適っていた。舌に衣
(きぬ)を着せぬ言い方は、だが威勢のいい強硬論に反目した。
 この吉田を高く評価して社員に迎えたのが、沢田貿易の沢田翔洋だった。吉田は兵器に詳しく、これに精通していた。沢田貿易では、吉田を重役待遇で内外から優秀なる武器を扱う兵器部の責任者に据えたのである。
 この話を聴いて津村は、はたと思った。沢田貿易には、かくも忠義な商社マンが多いのか。
 思うに、吉田ような漢は、こういう優れた忠義の真人を陸軍は用いず、威勢のいい戦争強硬論者ばかりの言を採用し、結局は予備役に伏して野に追い遣り、今の日本は、間違いなく亡国の道をひた走っている……。
 殆
(あや)うしであった。沢田次郎が何ゆえ私兵を養おうとするか、その意味が分らないではなかった。
 そして、陸軍省も参謀本部も、また関東軍までもが、これまで最前線の情報将校が蒐集した貴重なる重大情報を殆ど無視している。日本は秘密戦に敗れたり……。津村陽平の実感であった。

 打ち合わせを済ませて、哈爾濱から満洲里
(マンチューリ)行きの急行列車に乗る。満洲里から、更にチタ行きの急行列車『ザ・バイカル號』【註】「ザ・バイカル」はシベリア鉄道の路線名だが、この物語では急行列車の號名として『ザ・バイカル號』を使用する)でチタまで行く。
 津村陽平はラマ僧に化けた。かつて沖禎介と星野周作がラマ僧に化けたようにである。
 刀剣鍛練の徒であった星野周作は、その名目で大陸へと渡った。更に突き詰めれば、刀剣鍛練の徒として何故大陸へと渡ったかと言うことである。純粋に刀剣鍛練の徒と言えたのか?……という、これが津村には懐疑である。そういうオヤジには見えなかったからだ。何か意図があったように思う。それは、あたかも元女房の鈴江が愛国心にほだされて、かの大陸に渡ってようにである。鈴江自身、愛国心や祖国愛に燃えて、その気持ちだけであったのか?……。この懐疑も、津村には消えなかった。
 こういう場合、「何かある」と思うのが普通である。
 星野周作は大陸で、民間人の軍事探偵の平戸出身の沖禎介
(おき‐ていすけ)に出遭っている。果たしてこれは偶然か?……。

 沖禎介は北京で東文学社で教鞭を執
(と)りつつ、一方で、明治36年には文明学社を設立して、清国内で子弟を養った。また明治37年(1904)、日露宣戦布告に際しては、沖は在清の日本人同志らとともに日本陸軍の特務機関に属し、以降の校務は門人に托して、自らは東清鉄道を破壊するため、ロシア軍の『東方輸送妨害作戦』の挺身隊を組織した。星野はその頃、沖と知り合い、その組織に加わった。
 彼らはラマ僧を装い、北京を発
(た)って蒙古不毛の地へと至り、更にロシア領まで潜入していた。五十有余日を経て、漸く目的の任務も遂行できて、あと一歩と言うところでロシア国境軍の巡邏隊に捕獲された。
 津村は、星野の動機が知りたかった。星野は、何らかの形でM資金に絡んでいたのではないか?……。そういう疑念が出て来るのである。なぜロシア官憲はここまでこだわって、星野を追ったのか。
 星野は逃亡の末に斉斉哈爾
(チチハル)の製鉄業者の孫熈英(そん‐きえい)に匿われた。やがて沖禎介が哈爾濱(ハルピン)郊外で銃殺されことを知る。
 これも思えば、何故か哈爾濱だった。東洋の国際都市・哈爾濱である。それはロシア側の、先きを読んだ見せしめか。

 星野周作はその後もロシア官憲から『東方輸送妨害作戦』の挺身隊の一味として追われていた。だが、孫熈英に匿われ、日露戦争が明治38年に終結すると、孫熈英の娘・美麗
(びれい)を娶(めと)り、美麗ともに満洲鉄道付近の長春(満洲国建国以降、新京と改まる)に棲(す)み付く。果たしてこれも事の成り行きか?……。
 孫熈英の娘・美麗は鈴江の実母である。この血縁構造に隠された秘密はないのか?……。
 津村陽平の脳裡には次から次へと疑念が湧いた。彼はあたかも難解な迷路の出口が分らない中を彷徨っているようであった。
 沢田貿易の哈爾濱支店長の吉田とともに急行列車の中で、津村は身を揺られていた。脳裡に湧き出る謎は深まるばかりだった。



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