運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 51

南満洲鉄道株式会社の鉄道網の発展図。

 満洲国が建国されると、鉄道付属地の行政権は満洲国に委譲された。満洲建国後は、関東軍と陸軍省対満事務局は満鉄コンツェルンを解体し、関連諸事業を満鉄から分離させる計画を立てた。この計画の目的は、企業の国家的統制を実現する布石を考慮したもので、一種の共産主義的軍国化の思考に偏った画策であった。
 しかし、陸軍の「満鉄改造計画」に満鉄側は徹底的に猛反対し、また満鉄社員会も反撃的な態度に出た。経済を知らない者と知る者の経済観念と政治意識の格差であった。

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●吝することなし

 飛行機は依然としてローリング状態にあった。横揺れである。その揺れは益々加速されていた。海面に沿って低空を飛んでいるからである。
 「室瀬客室係員。操縦室へ」機内アナウンスがあった。
 佳奈は操縦室と向かった。広角があって視力がズバ抜けていい彼女が呼ばれたのである。夜目も利く。
 「室瀬、入ります」
 「本機と500mの間隔を保って平行して付け回す、あれを何と見るか?」
 副操縦士の小池郁夫が室瀬佳奈に訊いた。
 「国籍を示す表示がありません」
 「どう見る?」
 「独逸機ではないでしょうか」佳奈の脳裡
(のうり)には、敵味方の識別機影の総てが記憶されていた。
 「独逸機だと、まさか?」副操縦士が驚いたように訊き返した。
 「間違いありません」
 「では、この夜空をナチス独逸の同盟国機が飛んでいるということですか?!」今度は航空機関士の明石洋之が驚いたように訊いた。
 「それは違うでしょう」と機長のアン・スミス・サトウが口を挟んだ。
 それは同盟国機ではないということであった。
 「どうしてです?」再び副操縦士が訊いた。
 「では、なぜ国籍を隠すのですか?」アンが謎を掛けるように副操縦士に訊き返した。
 「?…………」副操縦士は答えられずに考えていた。
 「中国軍機だからです」佳奈が先に答えた。
 「あれは中国軍の飛行機ですって!」副操縦士は驚いた。
 「機種は戦闘機です」佳奈が答えた。
 「それも新型のメッサーシュミット!」アンが断定的に率直に答えた。アンの頭の中にもその記憶が蓄積されているからだ。
 「そうです。独逸の双発の重戦闘機メッサーシュミット・Me 410ホルニッセ。機首に20mm機関砲を2門搭載しています」
 「20mm機関砲だと!?」驚愕したのは副操縦士だった。
 「そうです」佳奈は確信をもって言い放った。
 彼女は参謀本部にタイピストとして出仕する中川和津子と山田昌子の二人から米英情報のみならず、独逸情報も聴かされていたからである。そのためよく知っていた。佳奈の言葉は重大発言であった。
 同盟国ナチス独逸は、日本が敵対する中国に有能なる軍事顧問団を送り込み、卓れた武器まで軍事援助していたのである。
 「通信士!」アンが吼
(ほ)えた。
 「はい!」航空通信士の加納信也が緊張気味に返事をした。
 「国籍不明機に直ちに警告文を発信。本機に接近し過ぎている。本文〈本機ハ大日本航空ノ『東京・新京直行便』ノ羽田発・新京行キノ特別臨時便。本機ニ接近シ過ギテイル。日本ノ陸海軍ノ軍用航空機ニ非ズ。本機ハ民間機ナリ。繰リ返ス。本機ハ民間機ナリ。軍用機ニ非ズ〉以上を直ちに送信!」機長命令だった。
 航空通信士の加納は国際モールス符号
(Morse code)に置き換えて、電信器の電鍵キー/機械式スイッチ)を叩き始めた。
 「室瀬は至急客室に戻れ」機長命令である。それは更に海面すれすれに低空を飛ぶと言う意味だった。
 こう指示されて彼女は客室へと急いだ。乗客の動揺を抑えるためでもある。

 一方、客室である。
 「だいぶん低空を続けていますなあ」
 「どうも、そのようですなァ。そのためか揺れが烈しいようです」
 爺さま同士がこのように、軽食の飯をかっ込みながら話していた。暢気
(のんき)と言えば暢気だった。別に動揺はしていなかった。
 「お客さまに申し上げます。ただいま機長命令で、わたくしたち客室世話係も戦闘態勢に備えて、着席し致します。万一の場合に備えて、安全固定帯
(シートベルト)をお締め下るようお願い致します。客室世話係は、もう一度、お客さまの安全固定帯を確信して下さい」
 異常事態を告げる機内アナウンスであった。

 これまで独り手酌でチビリチビリ遣っていた梶野二等兵も落ち着かなくなった。
 梶野二等兵は元関東軍の陸軍曹長で、戦場を言うヤクザ崩れの飯場
(はんば)を歩いて来た漢である。勇ましいことが好きである。一応実戦を知る筋金入りである。その漢が穏やかでなくなった。尻(けつ)に火が点いたように、やけに落ち着かなくなったのである。
 一杯気分どころか、殆ど素面
(しらふ)に戻っていた。
 主任客室世話係の言葉に従い、良子と佳奈は点検に廻っていた。
 「おい、姉ちゃん。この飛行機だいじょうぶなんかい!」
 「大丈夫でございます」良子が笑顔で答えた。
 「ほんまかいな」
 「おい!梶野」
 「なんだ、泉蔵爺さん……」
 「黙れ!」
 「うム?」
 「小隊長殿の読書の邪魔になろう!」
 「うム……」忌々しいという口振りで渋々黙った。
 泉蔵の横から、別の一人の老兵が聲
(こえ)を掛けた。郡司与一二等兵である。
 「泉蔵さん。あんた、どうして小隊長殿の同じように肚を据えていられるのですか」
 「わしは小隊長殿に下駄を預けた」毅然としていた。
 「小隊長殿の肚が出来ているのはよく分ります。しかし、われわれは飛行機の乗っておるのですぞ」
 「それがどうした?」
 「幾ら下駄を預けたとはいえ、今は飛行機の中に居るのですぞ」
 「それで」下駄を預けた以上、これ以外に回答があるかと言う言いぶりだった。
 「しかし、われわれの運命は、いわばこの飛行機の、つまり操縦士に命を預けたのですぞ。万一、飛行機が墜ちれば……」
 「それは違うだろう」
 「えッ!」
 「いいか、耳をかっ穿
(ぽ)じって聴け。だいたいだなァ、あの小隊長殿が墜ちる飛行機に乗ると思うか」
 泉蔵が言いたかったのは、津村小隊長は、それほどしたたかな人間なのだぞ。したたかでは引けを取らないんだぞと言いたかった。墜ちないと言う確信があるから、あの堂々さだった。全く不安がないのである。揺れは揺り籠のようなものだった。
 「なるほど……、これで合点が生きました。ご教授有り難う御座いました」郡司二等兵は膝をポンと叩いて納得がいったという貌をした。下駄を預けた以上、以降の運命は、「運命と諸共
(もろとも)」であっていいのである。説得力があった。
 この話を傍耳を立てて聴いていた全員は、郡司二等兵と同じように、頷
(うなず)きながら「なるほど」と再確認したのであった。部下としては小隊長に遵(したが)えばいいのである。それ以外に、あるだろうか。

 津村陽平の悠々ぶりは周囲を安心させる。安堵
(あんど)を齎す。その姿を見ると落ち着く。不安や心配事が一切消える。津村とはそういう漢であった。徳である。人徳である。
 聯隊の開墾班にいたときは、津村は人間削岩機であった。弱い者に代わって強靭的な働きを見せた。そしていま、津村の人間地震計は微動だにしたい。何か黙々と、分厚い辞書のような本を読んでいた。時に読みながら考えている。そういう仕種をする。
 部下と言うものは、指揮官の顔色や行動に敏感に反応する。僅かの異変や異常で動顛
(どうてん)するような指揮官には、幾ら腕力があり知識があっても、肝心な土壇場でブレて騒ぎ立てるような小心者には遵わないものである。信頼どころか信用されないものである。検(み)られるからだ。
 つまり他人
(ひと)は、理論的な机上の戦術知識よりも、実際に十字砲火の火焔が上がる戦場実戦を体験した苦労人の方に魅力を感じ、そいうい魅力を持った人の方に付き随うものである。小難し理屈をこねる理論的人間より、実戦経験をした苦労人に関心を寄せる。
 戦時では、平時とは異なる有徳の士が信頼される。部下は、こういう人に下駄を預けたいと思うのである。特に戦場では、苦労人の行動律が心の糧
(かて)となるのである。

 津村陽平の『部下心理論』である。
 苦労人・津村陽平は次のように言う。
 「部下は無闇に可愛がるものではありません。褒
(ほ)め言葉も無用です。部下は褒め言葉で使役するのは愚です。部下に対しては公平である前に、厳格でなければなりません。そうでないと難より易に傾き、楽な方を選択し、至上命令が途中で撤回されてしまいます。易に流れ、楽な方に流れたらどうなるでしょう。それは部隊の全滅を意味します。
 よく世の中には、部下を可愛がって勢力を伸ばしたり、人気取りを企む者がいますが、そのような考えは、結局総てを台無しにします。部下に対しては公平・公正である前に、自他ともに厳格であるべきです。むしろそうした方が、部下は指揮官に下駄を預け蹤
(つ)いて来るものです。
 そしてです。次のことが大事です。
 部下の大半は、却
(かえ)って指揮官の厳しい指導や管理・監督下にあって、内心は、そうしたものを希(ねが)っているものです。優しい上士ではありません。依怙贔屓(えこ‐ひいき)やお気に入りを抜擢すれば、必ず閥(ばつ)ができ、抗争ばかりが旺盛になり、やがては亡ぶものです」
 つまり津村は、自らの襟を糺
(ただ)して自身は「秋露(しゅうろ)に還せ」というものであった。人を指揮する指揮官は自らに秋露を浴びせ、心を鍛えよというものであった。一方で、「自らを計らず」である。
 更に、こうも言った。

 「指揮官は鉄兜のように重いものであってはなりません。軽いものほどいい。被っているか、そうでないか分からないものほどいい。重い存在であってはなりません。
 かの『十八史略』の冒頭にある《堯帝、天下を治むること五十年。天下、治まるか、治まらざるか。億兆、己を戴
(いただ)くこと願うか、己を戴くことを願わざるかを知らず。在野に間えども知らず、乃(すなわ)ち、微服(びふく)にして康衢(こうく)に遊ぶ。童謡を聞くに曰(いわ)く『我が蒸民(じょうみん)を立つるは、爾(なんじ)の極に匪(あらざ)る莫(な)し。識(し)らず、知らず、帝の則(のり)に順(したが)う』と。老人あり。哺(ほ)を含み、腹を鼓(つづみう)ち、壌(つち)を撃(う)ちて歌いいて曰く『日出でて作し、日入りて息(いこ)う、井(せい)を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食う。帝力、何ぞ、我しあらんや』と》の、あれですよ。軽いとはこういう存在なのですよ。これが下駄を預ける条件です。だから、百姓は百姓をやれるし、漁師は漁師をやれて、それだけに励めばいいのです。こうなるように指揮官は、目的意識を明確にして部下を指揮をすればいいのです。これが、よき羊飼いの条件です」


 ─────戦場体験者から聴いた話である。
 この人は十字砲火を浴びるような激戦地に居た人である。そこの指揮官は、砲弾がビュンビュン飛び交う下で歩き回り、詩吟
(しぎん)を口にして吟じる人だったと言う。それを見て、最初、大した肚の据わった人だと感心したと言うが、徐々にこの指揮官に異様なものが顕われた。
 それは、砲弾が飛んで来る時にだけ詩吟を詠じ、普段のときはそういうものは口にもしないと言うことは分って来たと言う。
 砲弾が飛んで来るときだけ、なぜ肚の据わってように見せ掛けて詩吟を詠じるか。
 それは緊張が高まり、怕
(こわ)いからだという。怕いから何かを口にする。こういう人間を検(み)ると、人間学に通じていない人は、悠々と詩吟を唸ってみせれば肚の出来た大物と見間違ってしまうが、実はそうではなかった。怕いからだったのである。

 真物
(ほんもの)の肚の出来た人は、平常心であり、祈りを捧げたり、歌を歌ったりはしないものである。静かに、何かをしているか、口からは音と言う音は消してしまうものである。平常心のまま振る舞う。
 また、戦争体験者から聴いた「防空壕での話」である。
 この中に老人や女や子供が空襲警報で大勢入っていたと言う。その中にある中年婦人が二人居て、一人は静かに何か書籍を読んでいいる風で、もう一人は躰を前後に揺すりならが、かつて流行った流行歌を雑音に近い聲
(こえ)で歌っていた言う。近くでは爆裂音が響いていたと言う。
 こうした場合、歌を歌うというこういうは恐怖心を鎮静させる効果があると言う学者も居るが、私はそうでないと思う。怕いから歌で紛らわすという恐怖心の裏返しが、口に出ると思うのである。
 逆に、平常心を失わない人は、まさに普段と同じなのである。

 フランス革命当時の逸話がある。この話の中には、ギロチンで処刑される人が、処刑順を待つ話はある。
 ある人は寝込み襲われて逮捕され、パジャマのまま刑場に引き立てられた。その人は手に一冊の書籍を手にしていて処刑順を待つのに本を一心に読んでいた。昨日の読みかけの本であったのであろう。
 その人の名前を呼ばれた。その人は今まで読んでいた本をパタンと閉じ、悠々と断頭台の階段を上がったと言う。そのときこれまで疑問に思えたことが、本の解説を読んで解けた風だったと言う。その貌には爽やかすら漂ってと言う。
 フランス革命時の暗黒政治の中には、五歳の少女まで処刑されたと言う。この少女は政府軍に弁当を届けたと言う理由からの処刑であった。そしてこの少女は、断頭台に上り、ギロチンの中に頭を突っ込むとき、処刑人に「おじさん、これでいいの?」と訊いたと言う。そして処刑を見ている人々の涙を誘ったと言う。
 少女の、これも無邪気なる平常心だが、平常心は年齢を重ねるごとに乱れるものらしい。

 異常事態に落ちが消せる人は、則
(すなわ)ち肚の出来た人であり、心の鍛錬が出来た人である。
 指揮官こそ、真摯に『陽明学』を学び、心を造るべきである。心を鍛錬すべきである。
 肉の眼から飛び込んでくる恐怖の幻影に惑わされず、また耳から襲って来る轟音の類
(たぐい)に耳を塞ぐのではなく、むしろ耳を傾けて、恐怖と一体になれば、もう恐怖は自他で分離しないのである。恐怖と一体になれば、恐怖は無くなる。何故なら、恐怖の中に在(あ)って何ゆえ恐怖を感じるのだろうか。

 世の中には、恐怖と言うものが多々ある。
 例えば、ローン持ちは借金である。借金も恐怖と言えなくもない。借金は、返済も順調に支払えている時はいいが、これが滞ると、借金は取立屋を介して何処までも追い掛けてくる。
 私のように億単位の大借金の経験を持つ者は、借金の追いかけて来る様が実に恐怖に映ったものである。
 ところが、一度借金と一体になれば、そこからは不思議とその恐怖は消え失せるものである。これは大借金を作った人でないと分からないものだが、人間は中途半端が一番いけないようである。
 つまり、中途半端とは恐怖心を抱えて恐怖から逃げまくることである。逆に方向転換して恐怖の中に突っ込んでいけばいいのである。逃げるから追いかけて来るのである。


 ─────旅客機は月下の海面の上を飛行していた。それを追うように国籍不明機が後ろに廻ったり横に付いたりしていた。黒塗りの重戦闘機メッサーシュミットの正体不明機は、警告発信を無視して、ますます接近して来た。調子に乗って来たと言う観がある。敵のパイロットはしつこく、醜悪獰猛なのかも知れない。
 敵戦闘機に狙われて、後ろ付け回されている。20mm機関砲を機首に装備している。異常接近された場合は高度を下げた方が砲撃され難い。旅客機は今はその戦法を採
(と)っているのであろう。海面スレスレの雑巾掛けをしながら、その状態で左右に躱(かわ)す。そうなれば当然の如く、横揺れ(rolling)が烈しくなる。その揺れがこれまで以上に一段と烈しくなった。

 そのとき津村陽平は何思ったのか、席を立ち上がり、「便所はこちらですかな?」と訊いた。
 そうした津村を制するために、揺れの中、キャサリンが駆け寄って来た。
 「お客さま、困ります」
 「もう、着きましたか」
 「違います。いまは戦闘態勢です。わたしどもも着座しております。お席にお戻り下さい」
 「そう言われましでもですなァ。出物腫れ物、ところ構わずと申します。自分はそういう戦闘態勢以上に、緊急態勢にあるのです」
 さて、キャサリンは、こういう人を喰ったようなオヤジをどうして料理してくれようと思う。しかし、即座に用いる話術の決め手が思い浮かばなかった。
 「あれをご覧下さい」
 中腰で窓の向こうを指差した。
 「ほ……ッ、あれは戦闘機ですなあ。それも友軍機でない……。こう、こなくっちゃ、戦争をしているのですからなァ。しかし、あれ如きは、振り切るでしょう。こちらの方の『智』が上ですからなァ……」
 「えッ?」キャサリンは驚いたような聲
(こえ)を上げた。
 今さながらに、津村陽平の大きさを悟ったのである。津村は操縦士の「智」を読んでいた。そしてキャサリンは、この「智」が沢田次郎にも流れていると確信したのである。
 「さて、自分も暫
(しばら)く出物腫れ物を引っ込めて、お手並み拝見といきますか」いつも津村は人を喰ったようなことをいう。平然と言い退けるのである。物事に動じないからである。
 これは指揮官として並々ならぬ特質を持っていることになる。

 例えば、海戦の場合を挙げてみよう。
 艦船の艦長の態度である。
 舷々相摩
(げんげん‐あいま)する海戦での艦長の態度である。敵の砲弾がビュンビュン飛んで来て、命中弾を見舞われて炸裂し、辺りが火の海になったとき、士官のみならず、水兵達も艦長の顔色を見るものである。その自信のほどを、幽(かす)かでも窺おうとする。顔色を読もうとする。
 そこで、もし艦長の態度や言葉や、その他の行動や気配に些
(いささ)かでも怯(ひる)んだり、気後れする仕種(しぐさ)があれば、艦内は一斉にパニックに陥るだろう。これでは勝てる戦も勝てなくなる。
 これは企業に置き換えても、それが言えるだろう。

 企業における他社と自社の攻防戦は、海戦と違って負けても命を失うことはないが、窮地に追い込まれて、一朝、事が起きると、社員は先ず社長の顔色を読む。況
(ま)して倒産寸前の憂き目に合うと、社長の態度は大きく左右するものである。
 このとき社長に何らかの動揺があったり、元気が失われて、しょぼくれた素振りを見せれば、その会社は間違いなく倒産する。まず起死回生は期待出来ない。
 没落の運命を辿るのは、そのときの指揮官の持つ運の強さである。強運の持ち主に率いられる軍隊は、一時的に悪化状態に陥っても、直ぐに立て直すものである。復活力と言う運である。要は指揮官が、運が強いか否かである。
 この会話を、此処に居る全員が聴いたのであった。

 ちなみに私の場合は、他人
(ひと)の「運」を査定する場合に、特に商売上のことであるが、運のない人とはお付き合いを御免蒙っている。出来るだけ接触しないように務めている。
 他人の「運の見方」に、最も分り易いものは、その人の持ち物である。自分が接触する相手と言うのは、懇意であったり、接触して交際
(つきあい)している以上、その人の運の善し悪しは自分にも及ぶ。そこで、運の悪い人や、自分から進んで運気を上げない人とは、その後の交際や接触を避けている。運が悪いと、自分まで啖(く)われるからである。

 私は「低所得高額納税者」だから、老いても、働いて納税する義務を負わされている。そこで複数の職業を持っている。その一つに刀屋家業がある。あくまでも職業の一つに過ぎないが、刀屋を遣っている時
(竹光や鞘製作・柄巻などの拵一般ならびに売買)いろいろな注文が入って来る。
 特に最近目立つのは、「物の価値観」を知らない人は殖えたことだ。そう言う人は、適正価格で物を買うことを知らない。安い物、安い物に偏っている。こういう人の持ち物を調べれば、その人の運が良いか、悪いか一目瞭然である。もし、その人の家に行って、持ち物を検
(み)れば、その人の運気も一目瞭然になる。
 したがって、“激安商品”を好んで買う人は、もうこれだけで運のない人といえる。
 そして最近の刀剣マニアは、自分の買値予算を隠したまま、「安い刀はありませんか」と訊くことである。これは誰もが持つ人間の人情だろう。分らないこともない。しかし盲点もある。
 こういう人は、骨の髄まで“激安商品”に染まっている人であろう。運のない人だ。安物は結局長い目で見ると高いものにつく。人生には、眼に見えない代償を払わされる側面があり、常に作用と反作用が働いているからだ。
 「安い物はありませんか」これは《掘り出し物はありませんか》というのと同義だろう。しかしこの時代、多くの人が探し当てた現代、二匹目の泥鰌は居ず、これを探し出すのは万に一つの可能性もないだろう。限りなく不可能に近い。
 したがって、最初から計ったように、このように訊かれると、こちらも話の持っていきようがない。それ以上の話は無用である。余所
(よそ)へどうぞとなる。

 “激安商品”に、どっぷり染まっている人は、刀剣を検ても、運が良くなるようなものを所持していない。
 それは錆刀であったり、曲がった刀であったり、銘がよくても、研ぎ減りして中身の“餡こ”が出ているものを、何年も何十年も平気で持っていることである。つまり、この手のものが何故悪いか。
 それは「ババ抜き」に引っ掛かった物であるからだ。嵌められたのである。素人はこういう物は持つべきでないだろう。しかしそのまま放置している人は多い。手放しことが出来ず、そのまま所持している。自身では処理出来ないからである。運が悪くなる盲点だ。
 更に追跡調査をすると、こうした人は、人間関係もよくなく、人からの信用も薄いのである。そして、また再び“激安商品”に手を染めるという悪循環を繰り返している。それに気付かない。自分では随分と得をしているつもりであろうが、それは運を呼ぶような人間の徳性を呼び込んでいるのではなく、自らに備わる運気を逃がしているのである。進んで不徳を抱え込んでいるようなものだ。
 したがって、私は運が逃げているような、そう言う人とは、極力接触しないように心掛けている。自分の僅かな“並みの運”まで持っていかれるからである。

 会社員でも運の悪い人は、就業時間内に仕事が終わらず残業したり、土・日・祝日の休息日に出張させられるような会社で働く人は、つまり就業時間内に仕事が終わらない無能な経営者の下で働いていることになる。
 これ自体が運が悪いと言えよう。特別手当などの金の問題でない筈だ。人が休んでいるのに“自分だけ”というのは、尚更だろう。
 但し、会社側の人間なら経営的立場にあるのだから、土・日や祝日だろうが、その限りではない。こういう人は一年365日、一日24時間、何処に居ても働くべきである。社員一人を雇傭すると言うことは、その家族を含めて四人の人間をみなければならないからである。経営者は経営に使命感を持ち、働くことに生き甲斐を感じているべきである。
 私も、一年365日、一日24時間働いている人間である。夢の中でも商談しているときがある。働くことは好きではないが、決して厭でもない。そういう生活も、慣れれば愉しいものである。愉しみは、至る所にも転がっている。そういう愉しみを、自分で見付けられる人は運が良い人である。
 運は、人生においてダイナミックに動き、その人に大きく働き掛けるのである。自分の心次第で如何ようにも変化する。それだけに運気は失速させたくない。

 一方、ケチな人、臆病な人は性格と言うより、過去世
(かこぜ)からの習気(じっけ)を引き摺っているから運の悪い人である。特にケチはいけないようである。
 格言に「吝
(ものおしみ)することなし」というのがあり、逆に、吝を売りものする人間がいるが、そういう手合いは人間的教養の欠落で、吝嗇(りんしょく)が如何に運を悪くするか知らないからである。人生の「凶」と検(み)るべきだろう。吝嗇家からは離れることだ。
 また言及すれば、目的を持たず、あれこれと迷う人も運が悪い人である。こういう迷宮に迷う運の悪い人からは極力離れた方がいいのである。
 物怖じせず、堂々と、毅然なる態度を執れる人は心を鍛えた人であり、こういう人は運が良いのである。強い運気を持っている。
 ゆえに他人から悪罵を浴びせ掛けられても銷沈しないし、良いことが連続しても有頂天に舞い上がらない。
 平常心が維持出来ている。中庸をよく理解しているのである。こういう人は運が良いのである。


 ─────津村陽平は確かに貧者だった。その貧は原憲にも匹敵するような極貧であろう。
 つまりこの漢、自分は清貧として貧乏の只中に在
(あ)るが、貧を「倹」に変えて、同じように人にそれを強制しない。これを「愛」と言う。愛を所持している人は運がいい。
 次に、自分でも倹約を実行し、その倹約を人にも遣らせようとする。これを「倹」という。
 更に最も悪いのは、自分は贅沢三昧していて、他人に倹約を強いる。これを「吝」という。つまり、運が悪いのだ。
 軍隊官僚が特権意識をもって驕
(おご)ったとき、そこに顕われるのは衰運である。国を滅ぼす亡国の暗示が顕われる。これは度々の負け戦と無縁でない。ゆえに日本は先の大戦に負けた。欧米人との人間の格差で負けたのである。
 斯くの如く、人の運の善し悪しは、自分にも影響を及ぼすと言うことが、お分り戴けたであろうか。


 ─────いつの間にか、重戦闘機メッサーシュミット・Me 410ホルニッセは姿を消していた。あるいは正体不明の戦闘機を振り切ったとみえて、飛行機は高度を徐々に上げ始めていた。振り切ったのである。
 海面すれすれで雑巾掛けをするように飛行する飛行機を追尾すると、以外にも落し穴がある。後ろから撃墜しようと計る戦闘機は、この体勢で追い回すと、前に飛んでいる飛行機の海面衝撃波を被る恐れが出て来る。
 海面すれすれでは追尾する方が不利になる。少しでも波頭に触れれば、機首から海面に突っ込む恐れがあるからだ。但し戦闘機同士の場合である。旅客機対戦闘機の場合はどうか。
 状況は圧倒的に不利だった。戦闘機が有利である。
 そこで追われる方は海面すれすれに飛んで、海面衝撃波を派生させる。波を起こして飛沫を掻き揚げる。
 目潰しを噛まして、左へ急旋回する。左旋回はプロペラの回転方向と密接に関係があるからだ。後方から見て右回り
(時計回り)している。日本、米国、独逸などはそれである。【註】英国では反時計回りもある)
 その関係で左へ左への極意をもって横滑りの状態を作る。その隙に、左旋回して敵機に向かって突入飛行を企てる。窮鼠
(きゅうそ)の状態を作っておいて、次に一気に急上昇する。
 しかし旅客機の鈍重と、戦闘機の俊敏は較べるべきもない。前者は圧倒的に不利である。だが、逃れる方法もないわけでない。
 これは剣術でいえば、敵に後ろを追わせておいて、『振り向き態
(ざま)』という「横薙ぎの術」である。誘い込んでの「入身」と思えばいい。剣には入身術がある。

 私は高校時代
(昭和30年代半ばのことで、手回しの09エンジンは懐かしい)、ラジコン飛行機を遣った事があったので、戦闘機型の一足フロートの水上艇(例えば『グラマンダック』とか『二式水上戦闘機』など)で、この種の経験をしたことがある。
 高が知れた小さな知識のラジコン経験しか持っていないが、理論上は可能と思うがどうだろうか。
 但しこの場合、余程パイロットの腕がよくないと、水面すれずれの雑巾掛けは自ら機首を下げて突っ込んでしまうようである。これは至難の業である。
 しかし上昇出来るか否かに掛かり、その計算がないと失敗する可能性が大になる。
 その意味では、よく振り切ったといえよう。
 しかし追尾されて、時間をだいぶんロスをしたようであった。燃料も浪費する。

 空は暁闇
(ぎょうあん)に差し掛かっていた。ほんのりと白い。
 「ご搭乗の皆さま、本機は間もなく満洲国新京飛行場に着陸致します。只今からから、この飛行機は着陸態勢に入りますので安全確保のため、もう一度、安全固定帯
(seat belt)をお締めてご確認下さい」
 主任客室世話係
(purser)のキャサリン・スミスのアナウスであった。
 羽田飛行場を午後11時30分に飛び発った大日本航空の『東京・新京直行便』の新京行きの特別臨時便は無事新京飛行場に到着した。
 「ご搭乗の皆さま。本機は無事に満洲国新京飛行場に到着致しました。只今の時刻は午前4時15分で、定刻より45分遅れての到着でございます。飛行機が到着が遅れましたことにお詫び申し上げます。この度、大日本航空にご搭乗下さいまして寔
(まこと)に有り難う御座いました。これからのご旅行に幸あらんことをお祈り致します。どうかお気を付けて、いってらっしゃいませ」
 そのときである。
 一番後ろの席の漢が、これまでの事を一部始終を検て居たと見えて、拍手をした。喝采の拍手であった。
 気付かなかったが、この漢は津村部隊の者ではなかった。全くの部外者だった。一番後ろに隠れるように坐っていたのである。
 「いや〜ァ、感服致しました。自分も、小隊長殿に下駄を預けたくなりましたよ」
 「ご貴殿は?」
 「自分は沢田貿易の哈爾濱
(ハルビン)支店長の吉田毅よしだ‐つよし/仮名)であります。一足先にお迎えにあがりました」
 こう名乗ったのは、おそらく特務機関『梟の眼』
(owls-eye)の配下の諜報員であろう。平服(背広)を着て会社員然としていたが、目配りが諜報機関員のそれであり、身分は情報将校であろう。合気道(陸軍中野学校では植芝流合気術が指導されていた)や剣術をはじめ、忍法遁走術や隙を作らぬ高等訓練を受けいるようであった。元は東京憲兵隊の特高憲兵であったかも知れない。
 陸軍中野学校は「東部第三三部隊」であり、「陸軍通信研究所」を名称していた。
 此処での教育は一般教養として国体学をはじめ、心理学、統計学、気象学、航空学、薬物学などの13科目があり、語学は英語、ロシア語、支那語、モンゴル語などを学ぶ。
 専門学科としては諜報、宣伝工作、経済謀略、秘密兵器、暗号解読などの及び、更には写真や映画撮影、変装術、開封・開錠などの実科まであり、外国事情としてソ連、英国、米国、仏蘭西、中国、南方諸国の政治や経済、気候や風土、宗教や国民堅気、軍事情報など多岐多様に及んだ。併せて、遊撃戦術、暴動煽動術、犯罪捜査、逮捕術、通信、乗用車運転、航空機操縦などを実技習得している。
 沢田貿易と聴いて、津村には直感するものがあった。おそらく沢田次郎の差金と思ったのである。

 新京飛行場には他にも出迎えの漢が二人いた。平服を着て中折れ帽を被った紳士であった。
 「ようこそ、満洲国に」帽子を取って挨拶した。
 「われわれは『タカ』計画に基づいて、戦争を早期終結させることに賛同する組織です」
 それぞれが津村小隊長に握手を求め、津村もそれに応じた。
 その一人は奇妙なことを言った。唐突と言っていい。
 「コーデルハルの『ノート』には、日本は満洲から撤退せよとは一行も謳
(うた)」っていません。中国から手を引けと言っているだけです。なぜ海軍は真珠湾攻撃を遣ったのでしょう?……不思議と思いませんか?」
 初対面で遭うなり、いきなりこういうことを切り出した。それだけに熱血漢を窺わせた。

 沢田貿易哈爾濱支店長の吉田の話では、出迎えた二人はチタ市
Chita/ロシアの東シベリア、チタ州の州都で、現在はシベリア鉄道沿いの鉱工業の中心地であり、対モンゴル貿易の要地)に置かれた満洲国総領事館の外交官であった。チタ市は漢読表記では“赤塔”となっている。これを「チイタア」と読む。
 東シベリアの要衝である。此処はソ連国境とバイカル湖のほぼ中央に位置する鉱工業の中心都市である。
 現在は人口30万8千人だが、当時は12万人の都市で、この街の下にはインゴダ河が流れ、この流れに沿ってシベリア鉄道が走っている。この街には白樺林と松林が多く、この樹林に囲まれた小高い丘の中腹に満洲国総領事館があった。しかし、この地域に日本からの居留民など一人もいない。日本人と言えば、領事館員くらいなものである。
 今から、新京飛行場に到着したばかりの津村隊一行を、チタ市の総領事館へと案内にすると言うのである。
 だが、この地は満洲里
(マンチューリ)より更に奥にあり、近くにはシベリア鉄道が通っている。
 昭和7年の『満ソ協定』により、ソ連が満洲国に哈爾濱
(バルビン)の総領事館と大連に領事館を置いた際、その代償として満洲国側はチタ市に総領事館、ブラゴベシチェンスクに領事館を置いたのである。
 何とも奇妙な申し出であった。
 この筋書きを津村陽平が練り、それを特別暗号に組み替えて電報で、沢田貿易哈爾濱支店長の吉田毅に送っているのである。そして吉田が、満洲国総領事館の外交官二人に情報将校を送ったのだろう。それが本日の出迎えとなっていた。
 津村が飛行機の中で懸命に辞書のような分厚いものを読んでいたというのは、辞書ではなく、暗号コードブックであったのである。暗号組替えを懸命に検討し、そのコードを研究していたのである。それが新京飛行場到着の45分前に解決したのであった。その間、国籍不明機に付け回されていることすら念頭になかったのである。この漢自身、幸せだった。
 実に飄々
(ひょうひょう)としているところに、この漢の運のよさが転がっているのかも知れない。運の良い人間は最悪の事態でも、不安と心配を周囲に感じさせないものである。これ自体が運の良い証拠であった。



●置き土産

 運の良い漢が発つ前に置土産を残した。
 空間利用のための有効利用を具申したのである。上空農園と地下農園を造れというものであった。
 そもそも居住空間とは何だろう。また、そういう空間には不思議だが、総て名前がある。
 例えば「○○室」の名称である。あるいは「○○の部屋」である。
 それは、戦前・戦中に見られた農家の家屋の造りに見られたことである。
 昨今はそう言う農家は、文化庁や教育委員会指定の文化財として保存され、これに人が棲んでいるというのは稀
(まれ)であるが、日本の農家や、また下級武士の屋敷の造りも観察すると、一独特な、不思議な法則があって、家屋内の空間には、総て名前があることに気付く。
 そもそも農民は、戦国期は農事と兵士を兼務していた。半士半農である。したがって、下級武士の屋内構造は農民のそれとよく似ているのである。

 例えば、戦前・戦中の農家の家屋構造である。
 農家住宅の法則性は、まず屋内が「田」の字型に仕切られていたことである。その田の字の中心に、大黒柱を立て、それを必然的に住空間を四つの区切っていた。
 この四つに、客間だの仏間などを配して、それぞれの部屋にはみな名前があった。しかしその名前は、後から付けられたものが多く、建てる前からの設計時に名前を付けたものでない。建設後も、棲
(す)む人間によって幾らでも変更出来るのである。それは自由自在であった。棲む人間で、部屋を代わればいいのである。

 ところが現代は、最初から名前に従って建てるので、その後の偏向は利かないことが多い。
 例えば、現代では子供部屋に父親の書斎にしたり、そこをリビング
(洋風の居間)にするなどは不可能で、名前が先に来て設計されている。つまり、一度建てたら最後、室内の変更は殆ど出来ないのである。
 例えば子供部屋はリビンブにならないし、リビングは父親の書斎にしたり、寝室の出来ないのである。固定され、建てたら最後である。変更が出来ない。
 かつてのように棲
(す)む人間の年齢や、用途に合わせて後に変更できるという利便性がない。この点が古今との違いである。
 しかし住空間とは「何か?」となると、本来は名前など無くてもいいのであって、その空間は使う人や用途に応じて、そのときどきで変更されてもいいものであった。
 現代人は、この「変更」という古人の智慧を見逃した言えよう。
 現代という時代は、人間生活を複雑化してしまった。そしてこの複雑な思考から、また再び新たな名前の空間が次々に際限なく派生して行くのである。現代人は空間を複雑化し、拡大してしまった。実に奇妙なことである。
 では、どこが妙なのか。

 例えば、現代住宅の名前による部屋を考えてみよう。
 現代住宅の部屋には、総て名前がついている。名前の目的通りに設計されて家屋が建てられている。したがって食事の時には書斎・寝室・子供部屋などは総て空
(から)になる。
 食事時はどうだろう。家族は娯楽ら団欒のために食堂
(dining room)などに集まる。
 一方、書斎・寝室・子供部屋に戻ると、食堂は空になる。就業や就学が始まる時刻になると、家屋一切が空になる。
 こうした「空になる構造」は、職場にも学校にも起こっている。
 これらの空間は、よく考えれば、使われる時間は一日のうちの僅かな時間であり、それ以外は常に空なのである。要するに機能していない。全機していないといってもいい。全機しないから、この空間自体が不調和に陥るのである。
 そして、妙なる不可解は未
(ま)だある。
 何ゆえ、現代は「高密度社会」などと呼称するのであろうか。
 いったい何が、どこが「高密度」なのだろうか。
 高密度というのは、よく観察すれば、それは人間が密集しているなどの、人口密度を言うのではないことが分る。現代で使われる高密度は、自然界の中に造られた人間世界の人口の施設だ巨大化しただけである。

 例えば空港や駅などもそれに入るし、大企業の職場などの名前のある空間は、総てそれであろう。
 生活様式を複雑化し、際限なく要求した結果、都市型社会が巨大化したことなのである。そして奇なるは、これらが巨大化する一方で、現代人はその空間を使用する使用時間は減少し、密度も低下しているのである。
 更に不可解なことは、その空間を利用したり活用したりする上で、そこまで「通う」という通勤時間が設定されて、これらが交通を複雑化させる。これに合わせて情報伝達のシステムも巨大化してしまった。この巨大化の側面には、生活時間を無視した生活反応の少ない空室という無駄が生じることである。現代に至るほど、この無駄は大きくなるのである。地球が狭くなり、宇宙に進出して飛び出す所以である。この背景に宇宙開発の動機がある。

 こうした巨大化社会にあって、いつの時代も節約や倹約が叫ばれてきた。
 大東亜戦争時も節約や倹約は、声を大にして叫ばれて来た。だが、節約並びに倹約とは、大半の人も言葉の上では理解しているであろう。
 節約とは、無駄を省いて切り詰めることであり、更に倹約となると具体的になり、経費を切り詰めて無駄遣いをしないことをいい、欲しい物があっても我慢する精神的姿勢まで指示している。
 大戦当時は国家が、国民に倹約を押し付けたのである。無駄をするなと言いながら、人命は無駄に浪費されて来た。

 節約及び倹約……。
 それは分別で考えれば、資源は有限であり、その有限なるものによって、国家レベルで言えば「国を残す」という意味だろう。併せて、国体もその中に含まれていたであろう。子孫も同じように考えられていた。分別知の世界ではそうなる。
 ところが、これが「無分別智」で考えると、どうなるだろうか。
 まず「こだわらない」と置き換えられる。こだわらないことこそ、無分別智であり、こだわることこそ、分別知の愚であった。知識一辺倒ではそうなる。
 無分別智で言う節約・倹約の意味は全く異なって来る。無分別智で考えるこれらの意識は、有限であろうが無限であろうが、必要最小限を全機させることが節約であり、倹約なのである。
 また無駄をしないことで、例えば空間などに遊びを作らないことであった。
 普通、戦時では節約や倹約と言うと資源やエネルギーに関していうのであるが、実は賢人の智慧には空間も節約したという過去の例がある。その智慧の一つとして、空間になる名前を実際、排除したのである。
 つまり名前の付いた室の類
(たぐい)である。全機しないものは、長官室も総長室も本部長室もいらないのである。野戦病院のベッド数が不足すれば、これらの部屋を有効利用すればいいのである。部屋名からの解脱であった。
 これが無分別智であり、戦時体勢の考え方である。
 これを、津村は指摘し、まず『ホテル笹谷』の屋上に上空農園を造り、階下に地下農園を造るよう意見を具申したのである。

 そして津村陽平の意見具申は、もう一つあった。
 それは捕虜を解き放てということであった。
 『黎明の祭典』時に米海軍『グラマンJ2Fダック』の爆弾投下事件があった。
 そこで夕鶴隊員3名が奮闘した。艦船搭載の索敵機を撃墜するために、九八式20mm高射機関砲を据えた『改造型武装四起』で迎え撃った。見事迎撃した。迎撃を放置すれば、5分後にはN基地から、九七式輸送機が飛んで来る。この機には武装がない。間違いなく機銃掃射を浴びて被害を大にしていたであろう。
 祭典のために夕鶴隊の降下員と空挺指揮官のキャサリン以下、五人ずつが、それぞれ二機に分乗して搭乗している。もし輸送機が襲われば、全員死亡するかも知れない。仮に生き残っても不具である。
 複葉機『ダック』には、7.62mmのブローニング旋回機関銃を後部に武装しているからだ。機銃掃射されれば一溜まりもない。その後“さし”の勝負が行われた。
 「白蘭
(びゃくらん)の日本女性」対「日本を侮ったヤンキー野郎」の対決構図である。そして高射機関砲の連射弾が翼の燃料タンクをぶち抜いた。やがて黒煙を上げ、不時着せんばかりの状態に陥ったのである。エンジンに異常が起こった。火を吹くのも時間の問題であった。

 しかし、アン・スミス・サトウ少佐からその後の撃墜命令は下らず、〈強制着陸セヨ〉という合図の警告弾で米搭乗員は強制着陸に応じた。敵機は着陸体勢に入るとき、大石や窪
(くぼ)みなどの障害物で、バウンドして車輪軸が折れた。その後、機は滑るように、胴体着陸して何本かの樹木を薙(な)ぎ倒し、大木に激突して停止した。すると機体から、もくもくと黒煙を吹き上げた。数秒後には発火して、爆発炎上が俟っていた。
 しかし奇しくも、彼女ら三人と無傷の米兵一人の併せて四人が、負傷した二名を安全圏まで引き摺り出し、無事、救助に成功した。間一髪で助け出したのである。米搭乗員らはその後、東京憲兵隊S分隊によって逮捕された。現在も拘束中であった。何れ捕虜収容所に送られて、更に厳しい拷問のような取調べが俟っているだろう。

 津村は満洲に発つ前、この米兵三人を優遇した後、「解き放て」と言うのである。絶対に処刑させてはならぬと言うのである。また沢田次郎にも、そう念を推して発ったのである。そして昭和17年4月18日の愚を再び遣ってはならないと言うのである。
 この日、米空母『ホーネット』甲板からドゥリットル中佐率いるB25爆撃機16機の「ドゥリットル隊」が東京発空襲に向けて飛び立った。この16機は東京・横浜・横須賀・名古屋・神戸の工厰に爆撃を加え、その後、中国本土の米軍基地に脱出する作戦を立てた。
 このとき2機が中国大陸の南昌の日本軍占領地区に不時着した。2機のB25の搭乗員のうち五名が死亡し八名が捕虜となった。その後、日本軍は機長のファロー中尉以下三名を処刑している。他は減刑され、うち一人が獄死した。
 津村に言わせれば、これはプロパガンダ工作からすれば、逆効果だというのである。
 『ダック』の搭乗員全員を釈放して、本国に還せと言うのである。

 この種のことを毛沢東はよく知っていた。
 『孫子』を徹底的に研究した毛沢東は、プロパガンダ戦略をよく理解した。蒋介石以上に理解していたのである。それが『三大規則』と『注意八項』であった。
 赤軍は抗日戦線で日本軍との遊撃戦は行うが、一旦捕虜になったものは極力処刑しないようにした。それは釈放しても、日本軍には『戦陣訓』なるものがあり、冒頭に「虜囚の辱
(はずかし)めを受けず」というのがあって、解かれは捕虜は帰るところがないことを知っていたからである。当時、日本側には、こういう愚行が存在した。
 一方、連合国側は捕虜になっても、捕虜収容所から脱走して帰国すれば英雄であった。国を挙げて脱走兵を称賛した。だが日本では最低の非国民とされ、逃げて帰るものなら罵倒の限りを浴びせ掛けられた。村八分にされた。日本人の島国根性の狭量の一面である。
 特に軍隊官僚は社会主義者の狭量主義に凝り固まり、カチカチで融通の利かないこの種の人間が多かった。
 ただ夜郎自大で威張り腐った高級軍人が多かった。尊敬されない一面である。

 歴史を振り返れば、福沢諭吉の『学問のすゝめ』が大きく禍
(わざわい)していたと言えよう。禍根といっていい。その禍根は現代でも弊害となって引き摺っている。
 平民でも記憶力と暗記力が旺盛で、それだけに秀でていたら、出世できるとした官僚主義に始まる。この制度は一見公平のように映る。しかし盲点も多い。記憶力や暗記力に優なる者は、必ずしも人物優秀で、人生の機微に通じているとは言えないからである。昨今の、“優秀”といわれる日本の高級官僚を見れば一目瞭然であろう。知的に優秀であることと、人物や道義とは無関係であるからだ。

 昭和陸海軍の軍隊官僚の大半は平民で占められていた。これは江戸期の武士の数が全国民の5%、幕末期に7%
【註】この数字は幕末期、旗本や御家人株が売り出され、それを豪商や豪農が金に物を言わせて買取り、また下級武士にも満たない郷士が武士の真似をして武士然としたことから殖えたように見えるが、実質の5%は変わらなかった)の数字からも明らかになる。士族は当時10人に1人にも満たなかったのである。
 当時の難関試験と言えば、“高文”という高等文官試験と、陸軍士官学校と海軍兵学校だった。この三大難関に合格した者は、日本人は無条件で平伏した。『学問のすゝめ』の悪弊である。
 これが禍して、当時の日本人も現代の日本人も、容易に突破出来ぬ難しい試験に合格した者への無条件尊敬の姿勢である。そして妄想であるが、それほど激烈な競争率で選抜されたという者を“途方のない偉人”と思い込んでしまうことである。
 また、日本国民には難関試験を突破した者を偉人と思い込む先入観があり、更に悪いのは、彼らを賢人と思い込んで「聖人」の域に祀り上げて、愚なる偶像を造り上げていることである。

 思えば、“途方のない偉人”が先の大戦を戦って、なぜ負けたのだろうか。これでは被害大にして、何処が偉人と言えるのか。
 戦争とは、囲碁とか将棋の盤面勝負ではないのである。指揮する者は「血の勝負師」である。自らが命を張るだけでなく、多くの将兵の命も預かるのである。“途方のない偉人”が多くの将兵の命を預かりながら、なぜ負けたのだろうか。この事を真剣に考えて見なければならない。

 更に、負け戦が克明になりはじめた頃から、どうしようもないので「特攻を熱望せよ」という。何と言う理不尽だろう。それも、言い出し屁の大半は、戦後、おめおめと生き残ったからである。責任を感じて自決した者は僅かだった。恥知らずと言うべきだろう。特別攻撃を命じたこれらの指揮官らは、戦死者の家族にどう申し開きしたのだろうか。
 戦争指導者とは、ここまで責任があるのである。勇ましいところがあれば、それに匹敵するだけの卑怯な振る舞いもあるからだ。痛快なる“武勇伝”だけに眼を向けてはならない。
 戦争をすると言うことは、人間と人間が血みどろの殺し合いをするのである。死者に対しては当然、死亡責任が課せられる筈である。したがって、負けたということは、そこには「敗戦責任」が生まれて来よう。

 徴兵された兵士には敵味方を問わず、わが祖国に、わが家がある。そこには当然、父母がおり、兄弟姉妹がおり、また妻子もあり、あるいは恋人がいるかも知れない。兵卒と雖
(いえど)も虫けらではない。一銭五厘の召集令状で、幾らでも製造出来るというものではない。生命とはそう言うものでない。
 誰でも親族が死ねば、血を流して悲泣するだろう。人間は人間である以上、何で好き好んで、無益にその生命を争って捨てに来る者がいようか。
 それを「一銭五厘」で製造出来ると言う。
 この考え方自体が、傲慢を通り越して、愚であった。

 こうした考えが、平民出身の軍隊官僚から出て来たことは恐るべきものであった。平民も、狂えばここまで恐ろしい存在になれるのである。
 日本の場合、5%にも満たない軍隊官僚によって、先の大戦が指導されたことであった。
 これを百分率
(percentage)でいうと、例えば陸軍参謀本部には超エリートと言う陸大恩賜組(上位五番以内)からなる各部門の課員が50名いたと言うが、この中で、武士の血筋の者は3人にも満たなかった。2.5人である。これは既に、日本が「尚武の国」でないことを克明に物語るものである。何故なら「尚武」とはサムライの次元のものであるからだ。
 その尚武の国でない日本が、米英をはじめとする連合国軍と戦ったのである。負けるのは、物量以前の問題であろう。無謀があるとするならば、このサムライ無縁の血筋こそ、無謀であったと言えよう。本来ならば、サムライの人格に戦略的頭脳が重なっていなければならない。知的であるだけでは不十分である。
 英国は身分社会であり、また米国は階級社会である。
 英国や米国では、身分や家柄や階級が物を言う社会であり、これは今も変わっていない。特に米国は完全なる階級社会で、人民は平等でない。
 日本人が感じて、自由と平等に見せ掛けているのは、ハリウッド映画と大リーグその他のプロスポーツの影響による。だが、大半の現代日本人は自由と平等の国アメリカと賛美している。この現実は、実は日本人が考える実際とはだいぶん違うようだ。この米国で平等を探すのは難しい。

 此処でもう一度復習してみたい。
 かのイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルは言う。
 「日本人にはキリスト教国民のもっていない卓れた特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、豪商と同等に人々から尊敬されていることだ。清貧なる貧しさを、少しも恥だと思っている武士はいなかった」と、ザビエル神父は、当時の日本人の「清貧」さについて、驚きと感動の念を表している。
 それは、また「尊敬される理由」を同時に隠れた藕糸
(ぐうし)として表現している。この藕糸こそ、サムライの隠れた徳性を顕している。
 この徳性に、ザビエル神父は確
(しか)と気付いたのである。この時代のサムライは、真物であったから決して夜郎自大ではなかったことが、誰にでも容易に想像できよう。
 それに較べて、昭和陸海軍の軍隊官僚どもは、どうだっかた?。夜郎自大ではなかったか。
 サムライはいたであろうか。平民出身の官僚でなかった。あるいは知を優先した『学問のすゝめ』の染まった者でなかったか。
 その最たるは、国会での参謀本部課員の佐藤賢了
(けんりょう)中佐の「黙れ!」発言であろう。
 また、軍隊官僚の人生の機微に欠けた発言の一つに、例えばシベリアでの食事時に、ある佐官級の夜郎自大を地で行く高級将校
(陸軍大佐)が「パンは階級順に大きい方から配れ!」と厳命したことは、これ自体が、その正体を曝すものであった。

 こうした夜郎自大に、戦費を計算する算術能力があったのか、どうか。軍旅の算出は出来たのか。
 日本は日中戦争に投じた十五年間の軍事費は莫大であり、国庫は空竭
(くうけつ)という状態に近かった。
 特に日本の所持していた金
(gold)が海外に流出した。また軍隊官僚はこの収支計算が出来なかった。
 戦争における損害を知らぬ者に、戦争を指導する資格はないだろう。経済感覚ゼロだからである。人間の命の値段を知らないからである。浪費家も甚だしかった。

 おそらく当時の戦争指導者は『貸借対照表』も『損益計算書』も読めなかったのだろう。人間の命の値段が分らないから、一銭五厘の召集令状で幾らでも作り出せると考えたのだろう。それくらい経済に昏
(くら)い愚将が戦争を指導したのである。幾ら下士官や兵が優秀でも勝てる筈がない。この構図は、あたかも自称“尚武好きの日本人”が、剣には負けなくても、策には負けたいう結末だった。
 この結末を、「人間だから暗いところで蹴躓くものだ」と言い訳で来るだろうか。
 昨今は日本の近現代史が見直され、それに便乗して「大戦当時の陸海軍が優秀だった」というこの種の本が多く売れているようだが、これが殆どが“昭和12、3年頃の陸海軍”の姿であり、大戦末期の人情の機微のあるそれではない。この時期に入ると、陸海軍の軍隊官僚どもは人間の命を一銭五厘の価値でしか考えていなかった。小難しい権力的な権謀術数主義
(Machiavellism)の戦争論は無用なのである。

 また、「日本にはこういう武器を造り、それが実行中であり、少しばかり遅過ぎた」という、その種の論が近年上がっているが、当時の日本に、幾らいい武器がその後、続々と登場しても、その武器を遣うのは人間であり、その人間に命令を下すのは参謀本部や軍令部の作戦課員である。机上の空論しか出来ない陸軍大学校や海軍大学校の恩賜組である。この課員に、人間性が欠如していれば、結局勝てるはずの戦争も、負ける結末を招くのである。
 日本では、米国のように先任を飛び越して、チェスター・ウィリアム・ニミッツ
(Chester William Nimitz)やジョージ・スミス・パットン・ジュニア(George Smith Patton Jr)ような将官を登場させることは出来なかった。これも先の大戦に敗れた敗因の一つである。
 旧態依然の“こだわり戦争論”では勝てないのである。時代は変化するのである。
 その証拠に、“こだわり戦争論”にこだわったところに、日本が戦争に負けた要因であり、軍隊官僚ども頭の中はプロパガンダ戦略ゼロであった。自国民に怨まれて、どうして戦争に勝てよう!武器は人間が遣うのである!

 負け将棋をダラダラと繰り返してはならない戒めである。この戒めを無視したところにこそ、日本の戦争指導者の敗戦責任が横たわっているといえよう。
 「仕切り直し」をすれば済むことであった。

 それは、私自身も経験ある。会社倒産の寸前のことである。
 ある先見の明のある経営者から、私は倒産前の会社を抱えた経験がある。長い辛い経験であった。
 倒産寸前の会社に固執するのは、とにかく長く続けるうちに逆転する運気が訪れ、今の形成を逆転するのではないかという妄想を抱いたことがある。安易な希望的観測である。
 しかし、この御仁から言われたことは「早く会社を潰しなさい」ということであった。
 それは「仕切り直しをしてもう一度出直しなさい」ということと同義だった。しかし、当時はこのとこが中々理解できず、楯を突いて、逆のことをしてロスした苦い経験を持っている。愚かだった。
 私のこの苦い経験は、先の大戦の負け戦が込んだときにも言えるのではないか。

 当時、佐官級の軍隊官僚に、私が味わったロスが理解出来れば、広島・長崎の原爆投下も、無条件降伏もなかったであろう。官僚主義の愚であった。この悲劇は、負け将棋をもう一番もう一番繰り返した愚将の責任である。

 また損益計算が出来ないのだから、その損害も知らず、利益も知らない筈だ。損益計算を知らずして、何ゆえ阿修羅の如く戦うのであろうか。経済感覚無しで、単に殺伐とした殺し合うことだけが好きなのだろうか。
 『孫子の兵法』を繰り返し読めば、兵士を家畜のように酷使すれば、その報
(むく)いが必ず起こると警告している。戦争指導者は経済感覚を持てと力説している。
 戦争における損害を知らぬ者は、戦争における利益も知ることが出来ないのである。此処にこそ『孫子』の含蓄の深さがある。
 これが「兵は拙速を聞くも、巧久をみず」である。

 『孫子』曰く、「戦争に勝っても長期に亘れば軍を疲れさせ、士気を挫き、攻めれば勢いを失う」と指摘している。また長期に亘って、軍を戦場に曝
(さら)せば、武器弾薬食糧の補給にも莫大な費用が掛かり国家の財政は疲弊する。そのために、戦う力を出し尽くして疲れ果て、財政が底を突けば、その隙を突かれて別の兵が攻め込んで来る。抗日戦線での赤軍の横槍は、これでなかったか。
 この構図こそ、日本が中国戦線で嵌まった泥沼戦でなかったか。喩
(たと)え知謀の将が居ても、そうなれば収拾は不可能である。『孫子』の教え通りであった。日本が負けた所以である。
 先の大戦では、勝つために何を遣っても構わぬという策は、当時の大日本帝国にとって利なのか害なのか。
 おそらく害極まりなだったのではあるまいか。それを当時の昭和陸海軍の軍隊官僚どもは読めなかった。

 慎み深く、思慮深い高級軍人は、殆ど居なかったと言っていい。威勢のいい、強硬派が主導権を握ったのだから、負け戦に傾くのは自然の成り行きであったであろう。
 こういう場合は、一旦戦争をやめ、再検討する必要があった。
 戦争を長引かせれば、敗戦は一層高いものにつくのである。現に、広島・長崎の原爆投下に限らず、人命の損失は非常に高いものにつき、そのうえに重なるのが惨めな敗戦だった。日本が無条件降伏したことは、それを雄弁に物語っている。
 また、戦争を長引かせたとして、連合国側の条件が弛
(ゆる)むとも思えなかった。そのうえソ連が虎視眈々の日本列島を窺っていた。対日参戦のタイミングを計っていたのである。つまり強硬派の戦争遂行に、何ら利するところはなかった。長引けば、連合国側の過酷な条件による分割占領が俟っていただけである。
 僅かながらに利があるとすれば、出来るだけ早く戦争を終結させることであった。仕切り直しをすることこそ急務であった。

 一子相伝によって伝えられた家伝の『津村流陽明武鑑』の中には「戒喩
(かいゆ)の篇」という項目がある。
 「生け捕った者は然
(しか)る後の解き放て」と教えている。そして根元には、「柔よく剛を制す」というのがある。
 一見強そうに検
(み)えて、猛々しい剛の者ほど、柔には弱いのだと教える。この思想はもともと老子の教えである。この「教え」を書いた『津村流陽明武鑑』を、発つ前に津村は沢田次郎に手渡したのである。彼の人生の機微に弱者救済の念(おもい)を托したのである。
 この津村家の武鑑の項目に「戒喩の篇」があり、此処に『三国志蜀志』の「諸葛亮伝」に記載されているが《七度擒
(とら)えて七度縦(はな)す》の例を示し、それを津村流として教示して「敵将を改心させよ」と記していた。
 心服の法である。敵を改心せしめる法である。
 この書には「心服させよ」と懇々と記してあった。
 そして「既に虜人
(とりこ)になって心から服する者を、何で無闇に恣(ほしいまま)に虐誅(ぎゃくちゅう)できよう」と結んであった。これこそ胆識というものである。人は胆識を極めねばならぬ。
 知識だけでも駄目で、また見識だけでも駄目である。最後の詰めは胆識となる。『津村流陽明武鑑』は胆識の書であった。これに戒喩が記されていた。プロパガンダ戦略である。


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