運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 50

人間相対界が善悪が入り乱れる。しかしこの世界は、善悪を超越することはない。

 組織人として社畜に成り下がり企業犯罪に手を染める善人、自己中とエゴをモットーに個人主義に奔る善人、嘘と騙しを交互に使い分ける人誑
(ひと‐たら)しの善人、愛国心など微塵もない善人、学歴はあっても無教養な善人、小人の域に固執する善人、為政者のくせに売国奴を恥とも思わぬ善人、常識を論(あげつら)う癖にモラルを欠如した善人、礼儀正しくない善人、意地悪な善人、家族のためだけに奔走する善人、権力の坐に就いて威張り腐る善人、その一方で、正直で赤誠を通す悪人、人情的で義理堅い悪人、自らを犠牲にして他人(ひと)のために命を張る悪人、温情家で優しい悪人、憂国の情に厚く日本思いの悪人、勝利を誇らない悪人、愛情深い悪人、無私無我の悪人らがいても、ちっとも不思議でない。
 善悪は相対界のものである。天が示す絶対的なものでない。

 この相対の世界にあって、愛想のいい人、人から善人だと褒
(ほ)められる人、礼儀正しく清々しい人などは、確かに初見は好感が持てる人のように映るが、本当のところは表皮のことで、その実はよく分らない。見えていて、肝心なところは見えていない。うまく作られていることもある。
 このように考えてくると、他人の噂や世間の風評を気にすることはなく、仮に悪党の烙印が捺された人であっても、気にすることはない。
 毅然としていれば、害されても大した損傷を受けたり、心は傷付くことはない。善悪を超越すればいいことである。


●長い一日の終わり

 野戦出動の津村隊である。
 『黎明の祭典』が行われている一方で、津村隊は野戦出動準備を整えていた。
 「鷹司参謀殿に敬礼!」津村隊副官の兵頭仁介上等兵が聲
(こえ)を掛けた。
 年寄りどもが、若い参謀に敬礼した。年齢差は親子以上に離れている。
 野戦に出動するこの部隊は、奇妙な恰好をしていた。全員、平服
(私服)である。皇居や東京市内見物の満洲からの“お上りさん”という風体をしていた。満洲からのお上りさん風に変装していた。
 しかしそれにしても老兵部隊の奇妙な恰好であった。S分隊の衣装班が揃えた変装服である。よく作ったというより、奇妙に装ったというべきであろう。それに加えて、軍属として猟師然とした熊のような漢が付き従う。総勢十七名の一行であった。

 「津村見習少尉以下、十七名、只今より野戦に出動致します」
 津村隊は何処の師団・聯隊の指令も受けない「密使隊」である。起死回生の任を帯びている。その一策を抱えて軍旅
(ぐんりょ)に出る。旅費は『タカ』の実行者から支払われた。そして、一策をもって「山こかし」を遣って見せる。津村陽平の任であった。召集解除の解かれない任である。戦後も引き摺るかも知れない。
 指揮官は『タカ』の立案者の鷹司友悳
(とものり)参謀本部中佐である。横には来栖恒雄参謀本部少佐と沢田次郎憲兵大尉がいた。沢田は『タカ』の実行者である。
 津村陽平は一任された作戦を詭道
(きどう)として練り上げた。詭道の“詭”は「謀」である。
 騙
(だま)し、欺(あざむ)き、謀り、錯誤に陥れ、虚をもって計る。虚を実に見せる。裏をかくのである。津村の言う「山こかし」である。山師的詐欺である。この漢は山師になりきっていた。筋金入りだった。

 仏の嘘を「方便」という。武士の嘘を「武略」と言う。何れも「詐術」の妙を指す。「虚」である。
 戦略を用いるには、真面目で正直で、朴訥な類では荷が重過ぎる。用意周到な、プランAのみではなく、プランBも、Cも、Dもいる。そして、こだわらないことである。巧みに変化
(へんげ)する。手を替え、品を替える。津村にしてみれば、津村隊は老兵の集まりである。肉体的に組織抵抗する躰は持ち合わせない。抗(あらが)うとしたら「智」以外ないのである。智で方便を遣い、武略を演じてみせる。これも虚である。
 そしてこの部隊には、軍属として『やど重』のオヤジの岩村重蔵が付き従う。津村隊の大半は五十を越えた年寄りばかりだった。これ自体が虚であろう。
 岩村重蔵は元は猟師である。熊みたいな大男である。山地での智慧が勝れている。山岳に通じている。道を読み水の流れを読む。山の春・夏・秋・冬に詳しい。
 岩村とは、父・十朗左衛門以来の知己であった。これまで、山岳修行では重蔵に世話になったことがある。
 山岳・地形・渓谷の歩行に通じた漢である。この種の場所は歩くだけでない。よく知り、通じていなければならない。津村はこの漢を指名し、軍属とした。山の道案内人として重蔵を同行する。津村が“山こかし”を演じてみせるには必要な漢だった。

 津村陽平が岩村重蔵と知己を得たのは父・十朗左衛門のときからである。
 十朗左衛門は新田郷に出没する野党退治をした後、明治11年
(1878)36歳のときに大陸に渡った。そこで24年間、大陸放浪で過ごした。大陸浪人の異名あり、時として馬賊などにも交わることもあった。
 その十朗左衛門は明治35年
(1902)帰国して先祖の領地・新田郷に戻ってきた。そのとき60歳だった。
 明治36年
(1903)村娘・小梅と結婚。一年後、陽平が生まれ、彼は父の61を過ぎた時の子であった。
 十朗左衛門と村娘・小梅との婚姻は奇なる縁からであった。十朗左衛門は小梅の噂を聞いていた。村人の噂では容姿は寔
(まこと)に悪く、肥っていてチビで、然(しか)も醜く、色が黒いという噂が流言されていた。
 しかし、そういうものは信じなかった。わが眼で確かめたわけではないからだ。
 一方この娘も、自分の亭主になる人間を選
(よ)り好みして、既に30歳を越えていた。俟っていたのかも知れない。世にはそういう女が居る。
 小梅の父母は、彼女に訊いた。
 「なぜ嫁に行かぬ?」父親が訊いた。
 「わたしは、かつて幕府幕領の御代官様であった津村鍵十郎さまのようなお人のところに嫁ぎたいと思いましたが、今はそのような殿方がおりません」娘は答えた。
 「いや居る。その嫡男の十朗左衛門さまが、いま大陸より戻られて、新田郷に棲
(す)んでおる」
 「えッ?」少し驚いたように聲
(こえ)を上げた。
 「行くか?」
 「えッ?……そういう方がおられるのですか」驚嘆するように訊いた。それは《いまどき?》という訊き返し方であった。
 かつて『三尺達磨』の異名とった津村鍵十郎、十朗左衛門の親子が居るのかと思ったからである。十朗左衛門さえ、遠い昔の人物になっていた。大陸に渡ったと聞いていたからである。

 「居る。但し、父君と同じように背が低く、三尺達磨の異名は拭えず、そのうえ年齢が60歳ときている。
 だが、もう老人だ。変わり者だが、文武両道に士として知られ、かつてはこの辺に出没した野党を一人で退治なさった剣客だ。そのうえ智がある。しかし……」《貧乏だ》を言い淀んだ。
 「そういうお方なら、ぜひ!」小梅は嫁ぎたく思っている。仙人のような漢に遭ってみたいと思った。
 そして両家は、双方の貌も見ずに婚姻を取り決め、何故だか小梅は一際喜んだのである。
 津村の家では、十朗左衛門一人が舞い戻り、彼の両親は死んでいた。家も没落していた。それを大陸で一山当てた金で興した。大陸では賞金稼ぎのようなことをしていた。その漢が24年ぶりに日本に戻って来た。

 小梅が嫁ぐ時に、木綿の着物に糸紡ぎ道具一式を造ってもらい、嫁ぐ際、彼女は高価な絹を羽織って、津村の武門に入ったのである。
 十朗左衛門は、小梅が色黒で肥っていて、チビと言っても、二尺五寸
(150m)以上はある。小柄だが亭主より二寸は背が高い。しかし亭主は新妻を抱こうとしない。七日が過ぎても、放置されたままであった。仙人漢は嫁いで来たばかりの新妻を抱こうとしなかった。それとも、萎れて遣い物にならないのかとも思った。
 新妻は訊いた。
 「あなた様はわたしを、こうして選んで下さいました。もう、七日も経ちましたのに、わたしの何処がいけないのでございましょうか」妻は床下に跪
(ひざまず)き訊いた。
 「わしは絹を纏い、白粉
(おしろい)を塗りまくったような女は気に入らぬ」十朗左衛門は心にないことを言った。
 「もう、見えているのでございましょう?」小梅は十朗左衛門の心を読んでいた。
 「ないをだ?」惚けて訊いてみた。
 「わたしくの正体を?……」禀
(りん)と響く聲でいった。
 「なに!」十朗左衛門は驚く振りをした。
 「痩せ我慢もいい加減になさいませ」小梅はにやりと笑った。
 「……………」《読まれたか》そのように吐露しそうになった。《この女、したたかじゃのう》と思う。
 「暫
(しばら)くお俟ちを」
 こう言って新妻は隣部屋に行き、髪を詰め、白粉を落し、沢山着込んだ衣服を脱ぎ捨て、木綿の粗衣に着替えた。そして再び亭主の前に顕われた。そこには今までとは見違えるような小柄な細身の美人が顕われた。これまで変装していたのである。亭主を験
(ため)していたのであろう。

 「わしは老いている……」
 「老いが、どうかなさいました?……。それを言うのなら、わたくしも薹
(とう)が立っております。お互い様では御座いませぬか」
 「それでこそ、わしの花嫁御寮
(ごりょう)だ。今日から仕えよ」
 明治36年のことだった。
 陽平が生まれたのは、それから一年後の明治37年
(1904)のことであった。生まれた子は、小柄な、しかし健康優良児で、早くから神童ぶりを発揮した。頭の回転の早い乳幼児であった。少(わか)くして機警(きけい)である。その機警は、例えば母親が乳房を含ませ、乳児がこれ以上、乳を欲しないときは歌って、それを教えるのである。遊ぶことを知っていた。歩くのも早く、好奇心旺盛で、文字を早く覚えた。
 幼児にしては物事への悟りが早かった。体格的にも躰の小さなことに反して、頭が異様に大きい。そのアンバランスが、何故か幼児にして賢人を思わせた。
 幼児にして賢人……。何故このような子供が出来るのか。女房が身籠るのに、亭主の巧妙なる業
(わざ)に痺れたのだろう。男女が子を授かるのは、単なる動物の胤付けではないようだ。女房は髪の先まで痺れなければならない。十朗左衛門は仙道房中術の遣い手だった。女を何度も極楽に送り届けることが出来る。
 十朗左衛門は老いて齢
(よわい)はもう直七十であり、仙人然として従えた子供は、あたかも仙人図に出て来る童子を思わせた。村人は、こういう陽平を神童と言って崇めた。文字も、並みの子供に較べて早く覚え、言葉をよく理解した。大人が舌を巻くようなことを言った。

 それから五年後のことである。一家は赤城連邦・黒桧山
(くろび‐やま)山麓に隠棲した。
 この隠棲は妻の方から出たことであった。
 「あなた様は常々、この世の禍
(わざわい)を避けて隠棲をすべきだと仰っていました。陽平も五歳になりました。そろそろその時機(とき)ではないかと思うのですが、如何でしょうか。それとも官にでも、お召し抱えられるときを俟っておられるのでしょうか」
 津村十朗左衛門には陸軍の探偵という口も掛っていたからである。
 すると十朗左衛門は直ぐに反応して、荷物をまとめるように命じ、一家は黒桧山の裾野
(すその)に隠棲してしまったのである。
 この一家は山生活に入り、妻の耕織
(こうしょく)で生業をたて、十朗左衛門は読書にふけり詩を詠み、書画を描き、時には妻の琴を聴き、気が向けば村の子供を集めて読み書きを教えた。また、時には山に入って、薬草を取りに入り丹薬を煉(ね)った。健康剤として津村の家元の『秘伝丹』を煉って生活の糧(かて)とした。この山地には天然自然の薬泉が至る所にあった。
 この一家は、世人の多くが汲々するなか生活に追われることもなく、焦ることもなく、風変わりな隠棲の風流人然としていた。また、それが村人を感嘆させた。世人が求めるものを求めなかったからである。
 津村家に村長
(むらおさ)が度々訪ねたことがあった。
 「もしかすると、あなたは名だたる方では?……」
 「いやいや、そういう者ではござらぬ」手を振った。
 十朗左衛門は昨今の権力者のように、物欲盛んで、権栄を好み、強悪を喜びのその種属でないことを言いたかったのだろう。
 「しかしそれでは、あなたの『智』が無駄に潰えます」村長は町議に推そうとしていた。
 「富貴を望むくらいなら、こんな山地には棲みません」十朗左衛門は頑
(かたくな)に断った。
 村長は今さらのように「人有る所に人なく、人なき所に人有り」の感を深くして去っていた。

 小梅は出来た女房だった。
 山間の村人達は、津村一家に一目置いていた。貧しいが格の違いを見せ付けた。かのザビエル神父は武士を称賛したようにである。
 「あのお方の女房殿は、よく出来たお方だ。あのように女房を躾
(しつ)けるのは、あのお方が、ただの凡人でない事を物語っている。今は隠者だが、許(もと)は、きっと名のある方であったのだろう」と言って、この一家に平身低頭する姿勢を崩さなかった。その低頭は、武士に対する尊敬であった。また小梅は村人が羨むような、実によく出来た女房だった。そのように村人から尊敬されていた。
 この頃に、岩村重蔵に出遭ったのである。重蔵は熊のように映った異様な漢であった。口数の少ない殺伐とした側面をもっていた。

 陽平5歳の時に、父に連れられ赤城連峰・黒桧
山に入り修行した。父がわが子に一子相伝で、家伝の『津村流陽明武鑑』の方術を教えるためである。「陽明武鑑」は仙術を基盤におく弥和羅(やわら)の流派であった。
 かの「柔よく剛を制す」は元々老子の教えである。道教からきている。明治期の柔道の専売特許ではない。
 山稽古を特異とする流派である。道場は大自然の天地であった。函物
(はこもの)を構える屋内道場ではなかった。道は天地にあるのである。
 その頃、山稽古の最中、黒桧山の猟師の岩村重蔵にであった。重蔵は当時、二十歳になったばかりの若者であった。
 黒桧山の山中で出遭った重蔵は、野袴風の紺の伊賀袴
(いがばかま)を履き、狐狸の毛皮の袖無羽織を着て、筒袖の着物を着ていた。色は黒く、無精髭(ぶしょうひげ)を生やした大男で、太い眉に分厚い唇をしていた。その風体は山賊に見間違うほどであった。
 生業は猟師で生計
(くらし)を立てていた。猪をはじめとして鹿、狸、狐、兎などを獲り、時に熊を得物としていた。昔ながらに、鉛弾の旧式の火縄銃を遣い、これらは“しし肉屋”に売りに行って換金した。その金で娼妓(しょうぎ)を買うのである。無類の女好きであった。無学だが、頭の回転は早かった。健脚で、それに眼もよかった。得物をよく見る。その猟は巧みであった。天性の才を持っていた。能(よ)く捉え、猟った。
 黒桧山に入ったとき、津村親子は重蔵の猟を見た。しかし綺麗な猟ではなかった。残虐な猟であった。
 大男が風下から得物に近付き、火縄銃を放って猪を射止めていた。見事な大猪であった。それを麻布に包んで背負うところだった。

 「お前達、何を見てる?!」多少、剣幕気味だった。見られたことが厭だったのだろう。
 「別に……」十朗左衛門は、重蔵を意に留めずに去ろうとした。
 「おい、俟て!」
 「なにか?」
 「見たな、俺の仕留めたところを」脅すように言った。
 「それが?……」
 「それが赦せん。お前らを、どう料理してくれよう」火縄銃を構えて傲慢に言い放った。
 「わしらを撃つか!」十朗左衛門は迫った。
  十朗左衛門にしてみれば、こういうものは少しも怕
(こわ)くもない。剣客である。神道無念流剣術の達人である。更に大陸ではモーゼル銃を使いこなして来た。武器にも通じている。火縄銃の欠点も知っている。
 「うム?」重蔵は十朗左衛門が、只者
(ただもの)でないことを瞬時に悟った。
 「火縄銃とは古いことよ……」
 「なんだと?!」《愚弄
(ぐろう)するか》と言いたかった。
 十朗左衛門は確かに矮男
(こおとこ)だが、肚の据わりが並みではなかった。腕に覚えがあると検(み)た。
 「お前、それでよいのか!」
 「なに!」指摘されたようで、むきになった。なぜか癪
(しゃく)に障ったのである。
 「殺生は止めたらどうだ」毅然の言い放った。
 「うム?わしに、それを言うか!」
 「見ろ、あの虫を……」十朗左衛門が顎
(あご)でしゃくった。
 そこには一匹の虫が蛙に啖
(く)われる瞬間であった。
 頭の回転の早い重蔵は刹那
(せつな)に悟った。今まで見落としているものを悟った。一匹の虫を喰らった蛙はやがて蛇に呑まれよう。そしてその蛇は猪に喰われよう。その猪を自らが鉄砲で撃つ。その猪は、何者かに食されよう。それは自らが啖われることではなかったのか。これこそ廻(めぐ)り合わせというものだと、重蔵は悟った。まさに「輪」でないか。悪循環を繰り返す輪廻の輪でないか。愚かなことだと悟った。
 「どうか、わしを弟子にして下さい」
 重蔵は知らぬ間に平蜘蛛のように這い蹲
(つくば)り、頭を下げていた。額を地面に着けた。瞬時に悔悟したのであろう。これまで幾多の生き物を殺生して来た。それが恐ろしいように思えた。
 「おぬし、命拾いをしたな」
 「確かに……」
 「ならば、この瓢箪を叩いて『般若心経』でも唱えよ」
 十朗左衛門は腰に着けた水筒代わりの瓢箪を惜しげもなく差し出した。
 「こんな高価なものを……」見事な瓢箪に驚いた。
 「構わん。叩いて唱えよ。わが聲
(こえ)と音を神仏の捧げよ」
 「わしは、生涯、このことを忘れますまい」
 斯くして岩村重蔵は津村親子の僕となった。また、これが重蔵との知己であった。


 ─────津村隊は大陸へ向かう。特別の優遇をもって大陸に向かう。たった今から……。
 『タカ』メンバーは、津村隊をのんびりと東京駅発・新京着の特急列車で送り込みたくなかった。
 この時期になると、戦局に悪化で特急列車が新京に時間通りに到着する可能性は低くなっていた。満鉄線の大連・新京間は米軍機の来襲で度々停車した。また不便になりつつあった。
 東京から関門海峡を越え、門司港あるいは下関から大連行きの連絡船に乗り、更に大連から新京に向かう特急列車は、定刻通りに到着することが怪しくなっていた。既に米軍機が飛来して、満鉄『あじあ號』は攻撃目標になっていた。運休が相次いだ。路線の安全が確保出来なくなっていた。

大東亜鉄道地図の時間表の表紙。この時間表の扉の裏側には、運賃表があり、釜山・新京間、奉天・新京間など運賃が記されていた。(昭和17年)


昭和8年当時、満鉄線は健在であり満州国も平和に満ちていた。
 しかし、これは束の間の事でしかなかった。
 また、昭和17年に時刻表によると、朝鮮半島方面の釜山を早朝6時50分に出発する特急『あかつき號』は、京城
けいじょう/李朝時代の王都漢城を明治43年(1910)の韓国併合にともない朝鮮総督府が置かれた)には14時丁度に到着した。料金は三等特急料金で2円20銭だった。
 更に、半島から大陸に入る釜山・新京間は直通急行で29時間。
 満鉄ご自慢の『あじあ號』では、大連を午前9時30分発で、新京到着は午後5時55分であった。蒸気機関車としては世界最高の速度を誇っていた。
 満洲国にも、いいことはあった。
 満蒙に移住した日本人は、この時期にも空襲がないだけに日本内地とは異なり、のんびりとした生活を送っていた。
 だが、昭和19年と言えば、これまでとは形成が変わり、戦局は悪化の一途にあった。
 月日は呼べど還らず……、過失は追うも昔に戻らず……。

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“五族協和”を謳
(うた)い文句にした満洲国は昭和7年3月に建国されたが、昭和20年8月15日の日本の敗戦により、この新天地と目されたこの国は、人々の野望を膨らませたまま、夢のように消えて行った。そして満鉄も、この時期を境に、夢(ゆめ)(まぼろし)の如く消え去っていった。僅か13余年の儚(はかな)き幻だった。これにより満洲国は、かの大陸から消えた。かつて中国吉林省中部にある長春と称された地は、まだ満洲の曠野(こうや)の真っ只中にあった。この原野に、蜃気楼(しんきろう)の如く、五月の雨上がりの竹の子の如く、近代建築が次から次へと出現したのである。満蒙に、人と物を輸送し続けたのが満鉄だった。
 しかし満鉄本社も、またその他の満鉄施設も砂上の楼閣
(ろうかく)のように、日本の敗戦とともに消えた。
 満鉄株は紙屑
(かみくず)になった。
 満洲には軍閥が支配し、日本の植民地支配があった。此処に居留したのは日本人ばかりでなく、祖国を追われた白系ロシア人や満蒙の貧しい暮らしを強いられる様々な小数民族の人達もいた。果たして、こうした人達にとって、満洲は王道楽土だったのだろうか。その満洲国も僅か13年と11ヵ月の幻夢
(げんむ)の中に消えたのである。
 しかし、偽帝国「満洲国」が崩壊しただけでは止まらなかった。国には人民がいる。
 人民をもって国を為
(な)す。国民論である。
 近代国家の原則は、市民社会を形成すると共に、市民社会を保護する軍隊がいる。市民社会と軍隊は切ても切れない関係にあり、軍隊なくして市民社会はあり得ないことは、近代市民社会の鉄則であった。
 だが、日本は制空圏を失っていた。この中の移動となる。空路が危なければ海路にするか。否、それも殆
(あや)うい。むしろこの時期は、野戦兵を乗せる輸送船では、なおさら危なくなっていた。東シナ海では米潜水艦が出没していた。日本お得意の輸送船団方式では時代遅れになっていた。駆逐艦の護衛では、もう護りきれなくなっていた。そこで飛行機に切り替えたのである。夜間に飛ぶ航空機を利用するのである。

 まず羽田発・新京行きの「東京・新京直行便」
(大日本航空)で、今夜の特別機で満洲国新京に飛ぶ。そしてその足で、直ぐに哈爾濱(ハルビン)まで行く。そこで沢田次郎手下の特務機関『梟の眼』の機関長に会う。
 更に、満洲の西北西方向へと進み、内モンゴルに入り、
札蘭屯(ジャラントン)・博克図(ボーカトゥー)・海拉爾(ハライル)・札来諾爾(ジャライノール)、そして国境の街・満洲里(マンチューリ)まで行く。長い旅程である。
 満洲里はシベリア鉄道の終着駅である。そこで星野周作に接触する手筈になっていた。段取りをつけた満洲人が居た。それも親日家である。この親日家が満洲里まで案内する。
 満洲里は満ソとの国境の街。シベリア鉄道の終着駅。凍土の大地……。星野棲息の情報は、特務機関『梟の眼』
(owls-eye)が掴んでいたからである。『梟の眼』は機関長(cap)の秘匿名(chord name)である。
 津村にしてみれば、星野周作は元女房の鈴江の義父であった。この義父が重要極秘事項『柳田メモ』に関する重大なものを抱えている。そう推測するのである。それを足掛かりを津村が、沢田から渡されたパズルとして組み立てたのである。まず義父に会わねばならない。これが糸口になると検
(み)た。

 「津村少尉。お別れです」鷹司友悳
(とものり)が吐いた言葉の中には、訣別の意味が含めれていた。
 「お名残おしゅうございます」
 「成功を祈る」来栖恒雄であった。
 「意の添うよう“山こかし”を遣ってご覧にいれます」
 「新京飛行場には『梟の眼』の手下が出迎えに来ています。これから先の道案内をするでしょう」
 「大尉殿」津村が沢田に聲
(こえ)を掛けた。
 「なんです?」
 「これを、あるご婦人から預かっております」鹿革に入った小さな袋を差し出した。
 「なんでしょう?」
 「さあ……」首を捻って惚
(とぼ)けた真似をした。
 差し出した小さな袋の中には、元女房の鈴江が母国の鉄鉱の玉鋼で作った独楽
(こま)だった。
 あのとき鈴江は次郎と別れた後、わが子を思って独楽を作ったと言うのである。そして「この独楽、日本の貝独楽
(べいごま)にも負けませんわ。もう、こういう物で遊ぶ年ではないでしょうが、あなたの息子に、渡す機会があったら、いつの日か……」と言ったのである。
 津村は、今が渡す時機
(とき)だと思った。このとき以外あるまい。津村に一時の回想が疾(はし)る。

 鈴江を娶ったとき、父・十朗左衛門は76歳を越えていた。陽平は十朗左衛門の61歳を越えたときの子である。随分老いていた。母・小梅も世を去っていた。陽平が鈴江を娶
(めと)る前のことだった。
 爾来
(じらい)父一人、子一人の家になっていた。女手は絶えて久しかった。そして、老いた父は言った。
 それは陽平が鈴江を娶ってからのことであった。

 「わしは老いた。わが息子の嫁ならば、出来るだけいい女がいい。別嬪
(べっぴん)に限る。わしは大陸暮らしが長かった。そして大陸の習慣として、いい女に会えば恋慕の思いをする前に、かっ攫(さら)って来る悪癖があった。だが、それをお前が遣りおった。いい根性だ。その根性に満足を覚えるが、わしもこの歳だ。
 そろそろ、この男鰥
(おとこやもめ)の家に、女を入れたいと思っていたところだ。女手を入れて、余生を楽しみたい。そう思っていた。
 勿論、お前が、かっ攫ってくる女は若くて、容姿端麗で飛び切り美人がいい。美人の柔指
(やわゆび)で、腰など揉(も)ませて、うっとりとして眠りに就きたいものだと考えていた」
 そう言ったのは、鈴江を娶ってから暫く経ってのことだった。
 陽平は予々
(かねがね)鈴江の後を付け回し、最後は、わが巨大な一物を見せて、爾来(じらい)仕えさせた。
 攫って来たのと何ら変わりない。これを十朗左衛門は「いい根性」といったのである。父は褒めた。
 しかしこの頃になると、父は半身不随状態になって、病んでいた。もう直、八十になろうとした時だった。それは鈴江が去ってから直ぐのことであった。乳飲み子を抱えて、父も子も途方に暮れた時だった。そこに鈴江の姉である珠緒が顕われた。そして月日が流れた。子が三歳になったとき沢田公爵家に養子に出した。


 ─────父は死に就こうしている。死ぬ枕許である……。
 「鈴江は確かにいい女だった。が、子を捨てて、わが祖国を捨てたのは赦せん」
 「親父殿、そうは言いましても……」陽平は宥
(なだ)めるつもりで言ってみた。
 だか、父は聞かない。
 「鈴江に囁
(ささや)いた奴も赦せん」
 かの国への愛国心を目覚めさせた者への遺恨だろうか。子を捨てて、愛するような国家があるのだろうか。
 「それが、わが一物より勝っていたのです」《仕方ありますまい》と言いたかった。
 「幾ら星野のバカ息子の娘とはいえ、半分は日本人の血が入っている。
 しかし石田は、静子が責任をとって、珠緒を送ってきおった。思えば不思議な縁じゃ。珠緒は鈴江に負けぬくらい、いい女だった。わしのお気に入りの嫁だった。家内のことも、よくこなした。ただ惜しむらくは眼であった。眼さえ開いていれば賊には、むざむざと殺されることもなかったろうに……。
 さぞかし無念であったろう。赦せ、珠緒……」
 父は自分の躰の不甲斐なさを嘆いた。かつての剣客も下半身不随を患って、肢体の自由を失っていた。
 「親父殿……、もう言いますまい……」
 「その無念。珠緒の無念……、お前が霽
(はら)せ。汝(うぬ)の女房の無念、霽せ。いいか、陽平……」
 「親父殿」
 「さて、わしは一足先に行って、あの世で俟っておるぞ」
 「ご冗談を」
 「冗談なんかじゃない。鈴江が去り、珠緒が死んだ……。もうわしは、女手のないところで生きているのが飽きた……」
 「なにを言われます」
 「もう娑婆は飽きた。よく生きた、これで充分だろう。一足先に行って俟っておるぞ。そして、あの世で珠緒の柔指で腰でも揉ませて、ついでに酒の酌でもさせて楽しんでおる」
 「それでは母さまが……」
 「そうじゃった、小梅にも逢うぞ。いい女房だった。膝枕がいい……。小梅の膝枕に、珠緒の柔指……。何とも贅沢なものじゃ」十朗左衛門は、ふと小梅との生活を回想した。小梅は一緒に棲んでいて心が安らぐ女だった。理解力があり直感が勝れていた。こういう女はいいと思う。それに底深さを持っていた。冒さず、冒されずの境地を保っていた。陽平に、《お前の母はそういう女だ》と言いたかった。
 「羨ましい限りです……」
 「次郎は?」孫の消息を訊いた。
 「立派に成人致しました。今では沢田伯爵家の御曹司として何処にでも通用します。立派な紳士です」
 「そうか……」《それはよかった》と安堵したようだ。
 「親父殿の申した通りで御座いました……」
 次郎の行く末を案じて、伯爵・沢田翔洋の養子にしたのであった。次郎の才を検
(み)たのである。十朗左衛門の案であった。その次郎が立派に成人した。こう聞いて、十朗左衛門は安堵の貌をした。その貌には《よかった》という文字が張り付いていた。
 「もう、そろそろ汐時じゃ。少しばかり娑婆に長居し過ぎたようだ……。陽平」弱々しく呼んだ。
 「はい?」
 「小梅と珠緒が、わしを迎えに来たようだ。さらばじゃ……」
 父はこう言って、その刹那だった。
 「親父殿!……」思わず号泣の聲
(こえ)を上げた。
 だがもう、事切れていた。陽平は哭
(な)いた。肩を震わせて慟哭(どうこく)した。
 津村十朗左衛門は静かに息を引き取り、九十年の人生を閉じた。大往生である。長寿であったと言えよう。父・十朗左衛門は羨ましい死を致していた。いい死に態
(ざま)だった。サムライの死であった。
 こうして父が事切れたのは、陽平が召集令状を受け取ったときだった。このとき、もう陽平は帰る場所を失っていた。今さら新田郷には戻れない。訣別済みである。軍隊に入り故郷を離れた。そしていま日本を離れようとしている。
 陽平自身も、珠緒が殺されたのではないかという疑いは、わが妻が死んだ時点で即座に悟っていた。
 しかし、それを軽々しく口にはしなかった。沈黙して耐えたのである。忍んだのである。時が来れば、その恨みは霽
(はら)すと誓ったのである。しかし今は忍んだ。耐えた。秋(とき)を俟った。末端を捉えても、背後の奥の院には迫れない。闇の総帥に鉄槌を下せない限り、本当の恨みは霽らせないのである。その曇りは取れない。

 星野のバカ息子とは、かつて代官・津村家の鍛錬処を預かっていた星野加衛門の息子の周作であった。津村の家は幕末まで徳川幕領の代官だった。そして星野加衛門は津村家の打物鍛錬師であった。家来であった。
 父・十朗左衛門は周作を、バカ息子と言って憚
(はばか)らなかった。だが、陽平は何ゆえ周作が、如何なるバカか知る由(よし)もなかった。また知りたいとも思わない。ただ陽平は鈴江を妻にしたとき、確かに義父であった。それだけのことである。養父に対しては、そういう感想しか持たなかった。

 津村陽平は父の言葉を端座して、頭を垂れて聴いた覚えがあるそのときのことを克明に覚えている。
 予々
(かねがね)こう言っていた。
 「いいか、陽平。いつか大陸に出向いて、珠緒の恨みを霽
(はら)してくれ。これでは珠緒も浮ばれまい。
 いいか、必ず霽すのだぞ。そしてだ。鈴江を勾引
(かどわか)した者ども、彼奴(きゃつ)らともども誅(ちゅう)に伏してくれ。いいか、恃んだぞ……」父はそう言っていた。
 父が彼奴といったのは、M資金に絡む瞿孟檠
(く‐もうけい)である。貌のない影の皇帝のことである。
 そのとき父の眼力の確かさと、無念の二つを陽平は思った。大局を能
(よ)く検て居た。
 眼力の確かさとは、珠緒を葬った指令者がいると検て居たのである。
 そのとき津村陽平は“三人纏めて仇を討つ”と神明に誓ったものである。今でもその誓いは崩れていない。
 その思いを馳せて、津村は、親子を名乗れない辛さを噛み締めて、今から野戦に出るのである。生還は十中八九不可能である。
 老兵隊は軍隊官僚の的
(まと)になって、銃弾に斃(たお)れる運命にあった。その運命を背負って、密使として大陸に渡るのである。彼らは、表向きは弾除けの「楯」であり、裏の任務は「密使」であった。二つの使命を帯びたのである。


 ─────『黎明の祭典』最後の演技種目である。
 「津村少尉。最後です、夕鶴隊の演技を観ていってやって下さい」と沢田次郎が言った。
 沢田には何もかも承知の上であったようだ。そして沢田には、生みの母の聲
(こえ)が聴こえたような風を感じた。
 最後の出し物
(finale)は夕鶴隊22名全員による『月の沙漠』の歌と分列行進の演技であった。
 全員、白の儀仗服を着ている。黒の長靴を履いていた。全員は清楚で、然も毅然としていて美しかった。
 清楚な白の制服が夜間の照明に浮き上がっていた。だが平時の儀仗隊と違うところはその上に、ブローニングM1922拳銃を肩から下げ、実砲ケースの付いた帯革を腰に纏い軽武装していることであった。それが戦場に繋がっていることを思わせた。何故か泣きたくなるくらい悲しく、アンバランスが奇妙であった。

 指揮者
(drum majo)は、鷹司良子である。彼女は左肩から右腋下に掛ける紅白の布帛(ふはく)を掛けていた。
 布帛の端下には、金モールの房が付いてる。指揮者の毅然なる権威である。彼女が手にしたのは指揮杖
(majo stick)でなく、和式の長さ80cmほどの、直径2cmの竹竿(亀甲模様の竹)の指揮棒を手にしていた。
 指揮棒の尖端には3:4:5の比の三角の赤い小さな旗が付いている。良子は亀甲竹の指揮棒を高く垂直に掲げた。この合図により、一歩前進して、一斉に足踏みが始まった。
 「全隊〜ィ、速足
(はやあし)!」
 ほぼ同時に、前方に指揮棒を直角に下げた。そして直ぐに右肩に戻す。肩刀
(かたとう)の体勢である。
 全隊は一斉に進んで行った。その間、良子は指揮棒を肩に倒したまま、「いち・いち、いちに・いちに、左右・左右。いち・いち、いちに・いちに、左右・左右。いち・いち、いちに・いちに、左右・左右……」と拍子取りの聲を懸けている。その状態で、斜め上に指揮棒を上げたまま、宙で一回円を描き、「全隊〜ィ、月の沙漠!」と言い放って、再び中斜めに肩に付ける。指揮者は心の中で常に拍子取りを忘れない。
 それは、きびきびとした敏捷な動作であった。一糸乱れぬ動きであった。それと同時に、成沢あいと児島智子二名のフルートの二重奏が、哀愁のある前奏部分を奏で始めた。このときも指揮者は、楽譜を頭の中で、一小節ごとに音符を追っている。
 前奏が終わると、一斉に和音付けての合唱が始まった。フルートの二重奏とともに、その合唱は聴かせる歌になっていた。音に深い音域があった。歌いながらも、きびきびとした動作で歌と演奏が行われた。

 良子だけは、楽譜の流れを追いながら、常に拍子取りの「いち・いち、いちに・いちに、左右・左右……」を繰り返しているのである。人体メトロニームであった。ひらすらリズムを取っていた。
 フルートの二重奏と合唱は、一番
(4)から二番(4)、その間は伴奏のみで、三番(4)から四番(6)まで歌い終わると、後奏はフルート演奏が終わる頃、指揮者は再び指揮棒を真上に掲げて横一文字に頭上の構え、一旦肩に斜め倒し、再び指揮棒を斜め上に上げ、“終了近し”の合図を後ろに送るのである。
 その合図が伝わると、また斜め上に上げたまま宙で一回円を描き、一斉に合唱は指揮者が肩に斜めに倒した時点で終了して、ピタッと止る。同時に行進も停まる。そのきびきびとした姿が美しかった。
 これで夕鶴隊の総てのお披露目が終わったのである。
 そして昭和19年7月××日の『黎明の祭典』のプログラムが、これで総て終了した。
 最後の『月の沙漠』の一曲は、観客の胸に沁み入った筈だ。おそらく観客は木戸銭を損していまい。


 ─────『黎明の祭典』を演じた夕鶴隊は、この時代の「娘子軍」であった。平時には“眠れる蛇”が、戦時の、負けが込んできたときに眼を醒まし、「常山の蛇」の如き動きに転じたのである。

 思えば長い一日であった。前夜祭から含めれば、丸一日強であった。
 前日のレセプション時の空襲警報のけたたましいサイレンに始まり、また当日の米海軍『グラマンJ2Fダック』の爆弾投下事件による強制着陸指示。更には木戸銭を頂く、メインイベントの二班に別れた空中陣形とその後のトーチカ攻略。「常山の蛇」の演出。戦争アクション映画さながらの発破師達の火薬を使った派手な火焔の演出。締めくくりとして、夕鶴儀仗隊の分列行進とドリル演技。
 この日は、午前の部と午後の部に分けられ、夕鶴隊は午後の部を担当した。

 午前の部は友情出演として東京陸軍士官学校儀仗隊、海軍横須賀海兵団軍楽隊、陸軍軍楽隊が出演し、前座を見事にこなしてくれた。そういう一日での爆弾投下事件とトーチカ攻略。こうした長い一日の中で誰一人として負傷者が出なかったことは奇蹟であった。あるいは出演者達は無我夢中のことで、慌ただしく夢のような早さでこの日が終わったのかも知れない。それは恐怖、不安、死の半ばの確信などが、どこにも感じなかったかも知れない。それだけに本当の戦場を知らない怕
(こわ)さが暗示されていると言ってよかった。
 更に言及すれば、トーチカ攻略に際し、九七式輸送機から降下するとき出で立ちは、航空鉄帽を被り、迷彩戦闘服の上に航空防寒服を着ている。左脚には100式短機関銃を納めた軽機嚢
(けいきのう)を巻き付けていた。全員が完全武装していた。トーチカの上部に二人が取り付くと、他の四人は二人ずつ両脇に展開した。
 その際に不思議なことをしている。それは、航空鉄帽と航空防寒服を速やかに脱いで身軽となり、ワイン色のベレー帽に被り替え、軽機嚢の中に納めた100式短機関銃を手にする。ここで何故、鉄帽をベレー帽に被り替えたことである。誰が考えてもベレー帽より鉄帽の方が遥かに頭部の保護になる。そう思う。
 しかし、それを止めて、わざわざベレー帽に被り替えている。

 この考え方の二つある。
 一つは身軽になるということで頭の動きを、異常な重さで振り回される鉄帽を脱ぎ、身軽な頭部の動きを重んじたのかも知れない。事実、これは例えば剣道において言えることである。竹刀競技における「面」を付けてのことであるが、北辰一刀流式の面を用いない古流流派の木剣太刀合の頭部身軽は真剣を用いた場合、克明に顕われるようだ。むしろ「面」など無い方が身軽なのである。「面」の発想は、練習においての頭部保護であろうが、それはそれでよしとして、一方では視界が制約され、前方視覚が狭まる欠点がある。
 本来、武術では「八方目」が喧しく言われてきた。つまり前を向けば、その周りの自分の頭部を基準にして頭を左右に振らない状態にしておいて、270度を見れと古伝では教えている。ところが面を被れば、それは半減以下となる。耳まで塞がれる。果たして真剣勝負における実戦には通用するかとなる。

 もう一つは、危険から身を護る、特に頭部においては、頭がやられればそれで終わりだとする「頭部第一」の考え方がある。それは、あながち間違いとは言えまい。
 しかしである。
 これを戦場に置き換えた場合である。近代戦は銃弾の殺傷力が上がった。火縄銃時代のそれでない。当時の陸軍の鉄帽や海軍陸戦隊の鉄帽では、既に殺傷力の大きな7.92mm弾
(昭和12年当時、中国軍精鋭部隊は世界一と言われたチェコ製の軽機関銃で武装し、日本の三八式歩兵銃の6.5mmを遥かに上回っていた)では、この種の防禦では役に立たないものになっていた。
 況
(ま)して昭和19年当時である。鋼板の薄いヘルメット(helmet)では防禦薄であった。
 また、近年は地震が多発している。その際に報道人らが樹脂のヘルメットを被っているが、現実に襲われれば役には立つまい。気休め程度である。上から軽量な障害物が降って来た時に防げると言う程度で、それ以上のものは防げない。この事も覚えておくべきだろう。現代人は、何かと揺れに弱いようである。揺れると驚いて頭を守ろうとする。腕を防禦創にして頭部を守り、腹を守る。それは人間の本能だろう。これを悪いとは言わない。その通りだろう。
 しかし、守れないものもあるということを覚えておくべきだろう。

 これは、天は運にあり……と言いたいからだ。
 運がなければ、幾ら頭部を守っても、頸
(くび)から下が遣られれば、死ぬときは死ぬ。人間の死も、また天が司っているのである。しかし頭部を守る鉄帽があることは否定しない。あればその方がいい。貫通弾ではなくても、掠る弾もあるからだ。その場合は是非ともあった方がいい。
 しかし巧みに遊撃戦を演じる部隊ではどうであろう。
 八路軍をはじめとする抗日戦線を戦った新四軍の兵士は鉄帽を被って遊撃戦を展開しただろうか。あるいはベトナム戦争時にベトコン兵士は鉄帽を被っていただろうか。正規軍ならともかく、少数で遊撃戦を展開するゲリラ兵はこういうもの無用であったに違いない。むしろ視界のいい略帽や、米グリーンベレーからも分るように鉄帽無しの方が動き易いのである。しかし、正直なところ実戦を経験した者でないと分からない。


 ─────祭典が終わった後、教官以下、夕鶴隊全員が整列している津村隊の前で整列した。
 「これまでいろいろお世話になりました。敬礼!」良子が聲を掛けた。
 訣別である。解散後、それぞれが別れの挨拶を交わしていた。
 「先生もお元気で」主任教官のアンが津村に聲を掛けた。
 「少佐殿も……」
 またその横では「お爺ちゃん、元気でね」と室瀬佳奈が祖父の泉蔵に聲を掛けていた。
 「お前もな」
 「お爺ちゃん、さようなら」何故か彼女の言葉は、今生の別れの響きを含んでいた。
 そして泉蔵は、その後、日本の土を、二度と踏むことはなかった。

 老兵部隊は軍用バスに詰め込まれ、これから羽田飛行場へと向かう。そしてバスは憲兵隊のサイドカーが護衛に付いた。バスの外には軍服姿の沢田次郎がいた。そして鷹司友悳も来栖恒雄もいた。またアンもキャサリンもいた。
 津村は次郎に対して、問い掛けるものがあった。
 《次郎よ。お前の描いた絵を完成させてみようじゃないか。今度は、わしが実行者だ。山こかしを遣ってみせよう。さらばだ……》
 そう思ったとき、この五人は並んでバスに敬礼をしていた。そして沢田次郎の横にはキャサリンがいた。
 それを見て、津村は思った。《この二人、出来ているな。ならば愛
(いと)おしめ。さらばだ、次郎……》
 津村は鈴江のいる大陸へと旅立った。
 バスの中である。
 「小隊長殿。いいんでありますか?」兵頭仁介上等兵が聲
(こえ)を掛けた。
 「なにをでしょう?……」空惚けて返事してみた。
 「いえ……」言葉を控えた。兵頭も親子の関係を見抜いていたからだ。
 もう、日本に思い残すことはなかった。かつて父・十朗左衛門が24年間いたという彼
(か)の大地へと向かうのである。凍土の大地である。その大地で鈴江は生まれたと言う。鈴江が居る大陸。そこに何か夢があるのだろうか。
 バズは軍用弾丸道路を驀進して羽田飛行場へと向かっていた。バスの前にS分隊の憲兵隊のサイドカーが先導している。後ろにもサイドカーがいた。更に後ろには、夕鶴隊の九二式重機関銃で武装した九五式小型乗用車の『くろがね四起』が二台蹤
(つ)いて来ていた。それぞれに二人乗っているようだが、運転者はヘットライトの反射でよく分らなかった。年寄りの護衛に蹤いて来たのだろうか。

 十七人の年寄りは、本日の羽田発・新京行きの「東京・新京直行便」
(大日本航空)で、今夜の特別機で満洲国新京に飛ぶのである。そして十七人は、飛行機に乗るのが、この日初めてであったに違いない。
 双発の旅客機に改造した九七式輸送機が待機していた。エンジンが掛けられプロペラが廻っていた。飛び立つ寸前のような待機状態で、乗客が乗り込めば直ぐに発つ態勢になっていた。誘導員が「急いで下さい」と合図を送っていた。

 この中で飛行機に乗った経験を持っていたのは、橋爪太くらいなものであろう。このオヤジは豊橋から羽田に向かう際、陸軍の輸送機の乗った経験を持っていたからだ。
 「旅客機とは、なかなか結構なもので、随分と豪華です」
 橋爪は第二班の伍長
(五人の長を言う。班長の意)の成田光男上等兵に話し掛けた。陸軍の輸送機と比較しているのであろう。
 「そうらしいですね。しかし私は飛行機に乗ったのが初めてです」
 成田上等兵は私大教授であり、考古学を専門としていた。そしてこの十七名は、年寄りの修学旅行のような気持ちで浮き浮きしていた。
 「この飛行機は、われわれだけの貸切のようですな」第三班の浅沼重蔵上等兵がいった。

 「ご搭乗の皆さま、大日本航空の『東京・新京直行便』の羽田発・新京行きの特別臨時便に、ご搭乗下さいまして寔
(まこと)に有り難う御座います。わたしは主任客室世話係(purser)のキャサリン・スミスで御座います」
 こう言い終わったとき、津村陽平は「なに!?」と聲
(こえ)を放った。聞き覚えのある聲だと思ったからである。誰の差金か?と思った。誰の差金で夕鶴隊を乗務させていると思ったのである。次郎の仕業か?……。然もあらんと思った。こういう事は仕込みそうな漢と思った。誰に似たのか、そう思うと思わず苦笑した。

 「本機は午後11時30分発の特別臨時便で御座います。新京飛行場の到着予定は午前3時30分を見込んでおりますが、途中、天候や気流、その他の影響により遅れることが御座います。また同機には、同じく客室世話係として、他二名が同乗しております。ご用のときは、わたくしともども、何なりとお申し付け下さい。
 なお機長はアン・スミス・サトウ。副操縦士は小池郁夫。航空機関士は明石洋之。航空通信士は加納信也で御座います。これから皆さまを赤い夕日の満洲へとご案内致します。空の旅をゆっくりとお楽しみ下さい。
 では本機は、只今より離陸を開始いたします。安全固定帯
(シートベルト)をお締め下さい」
 爺さま連は「安全固定帯とは何だ?」となった。知らない者ばかりだから、それは騒然と言ってよかった。
 「機長より、客室世話係へ。本機は只今から離陸する」それは《急げ》と言う意味であった。
 プロペラの回転数が上がり、飛行機は風上に向かって滑走路へと侵入を開始し、爆音が大きくなった。
 エア・ガール
(air girl)の三名は大急ぎで、乗客のシートベルトの締め具合を見て廻る。飛行機は始めての爺さま連が多い。客室世話係は全員白襟のブラウスに、青い制服を着て、同色のエア・キャップを被っていた。

 「あのッ、ご同輩」
 「はあ、何ですかな?」
 こう問うたのは浅沼重吉上等兵であった。そして問われたのは、堀川作右衛門二等兵であった。
 「それは違いましょう」安全固定帯の締め方が違うと指摘したのである。
 「どこがです?」
 「これはこうするのですよ」
 「なかなか博学ですなァ」感心したように言った。
 しかしこの程度のことで、博学と言われたことに苦笑した。
 浅沼上等兵は元満鉄職員である。それも満鉄調査部に在籍したという強者
(つわもの)であった。満鉄事情に明るかった。満鉄調査部には諜報部門があり、ソ連事情に対して特異な情報を掴んでいた。ゾルゲ事件のことも詳しかった。尾崎秀実(おざき‐ほつみ)の関係していたのかも知れない。
 この度のことは浅沼上等兵にしては、災難のようなものであった。だが、これ禍福は糾
(あざな)える縄の如しと捉えた。常に入れ替わるのである。そう捉えた。なるようにしかならぬ。人生とはそういうものだ。
 しかし、諦めた訳でない。津村陽平を検
(み)て、禍を、福に転じてしまった。下駄を預ければ済んだ。
 再応召で徴兵された兵隊であったが、四年前に55歳で満鉄を退職していた。大東亜戦争が始まる前のことであった。しかし58歳の応召兵とは、体力的にも、組織抵抗するには余りにも歳を取り過ぎていた。その老兵が、津村隊にいることは、「智」を買われてのことであった。「智を売ろう」そう思ったのである。

 「おい、佳奈。なんでお前が、此処に居るんだ?!」居る筈のない孫が機内に居たことに、祖父の泉蔵は驚いて思わず訊いた。
 「これは内職
(Arbeit)よ」しゃあしゃあと答えた。
 「なに!内職だと?……、学校の許可を貰ったのか」《未成年だろうが……》泉蔵の言い分であった。
 「なにをバカなことを言ってるのよ、お爺ちゃん」苦笑気味に言った。《今は戦争をしているのよ、バカも休み休みいってよね。わたしは女子遊撃隊の夕鶴隊員なのよ》と言いたかった。
 戦争をしている以上、人間は何でも化けると言いたかったのだろう。佳奈の頭の中は、すっかり「兵は詭道なり」に改造されているようだった。「詭」だから、此処に居ると言いたかった。詭であるい以上、何にでも化けるのである。

 飛行機は離陸態勢から高度を上げ、越後山脈を迂回するように水平飛行に移った。『東京・新京直行便』の羽田発・新京行きの特別臨時便は、もう直日本海に差し掛かろうとしていた。
 特別臨時便は七月の既望の月の夜空を飛んでいた。陰暦で言う十六夜
(いざよい)のである。既のあとの月である。その月が遠くにぽっかり浮んでいた。
 「皆さま、左2時の方角をご覧下さい。よいお月さまです。さて、これからお客さまのお席に、お飲物と軽いお食事をお届け致します」客席世話係が機内放送でアナウスした。
 戦争をしているとは思えない奇蹟的な静かな夜であった。
 「ほぉ……ッ、この食糧難の時代に、食事まで出してくれるとは……」こう吐露したのは47歳の河村啓次郎二等兵であった。
 河村二等兵は貿易商社員で、サイパンが陥落するまでは、横浜とサイパンを往復する商社マンであった。横浜根岸岸壁から九七式飛行艇
(川西四発飛行艇で、水上を離着水する大日本航空の旅客機。昭和14年初運航)がサイパンまで飛んでいた。この飛行艇は海軍機だが、豪華な内装がなされて機であった。

 機内では飲み物と軽食の準備がなされていた。エア・ガールがワゴンで運んでいた。
 「おい、姉ちゃん。酒はないんかい?」冗談半分に訊いたのは梶野太二等兵であった。
 梶野二等兵は関東軍に居た古参である。元陸軍曹長である。しかしノモンハン事件で満洲国境付近でソ連軍の捕虜になり、捕虜収容所経験があって解き放たれて日本の戻って時には、元の階級は剥奪されていた。再応召で二等兵として徴兵されたのであった。
 「ご座います。日本酒でしょうか、洋酒でしょうか?それとも、おビールでも?……」
 「うム?……。そんな結構なものがあるんかい。わしは日本酒で、指しつ指されつでチビリチビリ遣りたいが、それは無理だろうな」と、まさかのことを訊いてみた。
 「お酌なら、して差し上げます」そう言ったのは鷹司良子
(ながこ)であった。
 「ほんとうか?……」
 「はい」笑顔で答えた。
 「おい!梶野二等兵。言葉を慎め」叱咤したのは津村隊の副官・兵頭仁介だった。
 「構いませんわ」
 「お嬢さま。何ぶんにも躾
(しつけ)が悪くて」良子に気兼ねして言うのであった。
 「宜しいじゃありませんか、おじさま」
 「しかし……」
 「さあ、どうぞ」良子は空いた席に坐って、日本酒の入った徳利を差し出した。
 「これは有難い。この歳になって、初めて飛行機に乗り、それも美人の酌でここまでご馳走に慣れるとは。副官殿、長生きはするものですなあ」小作人で虐げられた生活をしてきた梶野二等兵は、機内の夢のような現実に、一瞬舞い上がっていた。
 「梶野二等兵。帝国軍人として、酒品だけは保てよ」
 「はあ、分っております」と言いながら、盃を一杯、二杯と重ねることに段々喋りが怪しくなった。

 「機長より、客室世話係へ緊急連絡。前方に正体不明機。これから高度を下げる。戦闘態勢に備えよ」
 「なんだ、なんだ?正体不明機だと!それとも敵機か!こんな夜中にか……」機内が一瞬騒然となった。
 しかし、それは直ぐに止んだ。
 「皆さま、ご安心下さい。本機には危害は及びません。ただし機長より、ただいま戦闘態勢の指示が出ておりますので、もう一度、安全固定帯を締めて下さい。客室世話係は速やかに点検をお願いします」

 「泉蔵爺さん。あんたいい度胸だなァ」少しばかり酔いを重ねた梶野二等兵が、室瀬泉蔵を冷やかすように言った。
 「怕いのか?」泉蔵は梶野二等兵に訊き返した。
 「なにをこれしき」《おれはノモンハンで、これ以上の怕い目に遭ってきたぞ》という言い方だった。
 「なら、黙ってろ。あの人のように」そう言って、津村陽平を顎でしゃくった。
 津村は何かの読書に興じているようだった。分厚い辞書のようなものを読んでいた。
 「大したもんだ、小隊長殿は」
 梶野二等兵は、誰もが津村に下駄を預ける意味を理解した。
 「分ったか?」泉蔵が確かめるように訊いた。
 「ああ、分った」この漢も満洲で鍛えた強者
(つわもの)だった。
 飛行機は高度を下げたためか、これまでとは打って変わって揺れ始めた。船で言う横揺れ
(rolling)のような状態になり始めた。しかし、これに驚く者は居なかった。全員が津村の毅然さを見習ったからである。
 「さて、結構な軽食を肴に手酌でも遣るか」
 エア・ガールが去ったあと梶野二等兵は、独り手酌でチビリチビリ、巧みに盃の注ぎ、揺れに合わせて名人芸的な呑み方をして、空の夜旅を満喫していた。
 下手をすると錐揉みになるやも知れぬ。飛行機は揺れが徐々に烈しくなっていたった。だが、一方で津村に下駄を預けた老兵隊員は、悠々として驚く者は居なかった。


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