運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 49

一足不去。
 夕鶴隊の旗印である。戦いの臨み、戦う以上は一歩も退かない。愛の象徴である。自分を愛する気持ちで、自国も愛する。自国を愛せない者に、他国を愛したり理解することが出来ない。愛のために戦う。侵略者と戦う。
 それは日本が好きだからである。郷土を愛したからである。
 私たちの先祖は、蒙古以来、国難来るときには武士が中心になって立ち上がり、戦ったではないか。

 蒙古来襲……。
 一旦、国難が来れば、鎌倉幕府の執権・北条時宗に倣
(なら)い、文永の役(1274)には元寇を撃退し、北九州沿岸に防塁を築いたではなかったか。そして蒙古は、二度目も遣って来た。七年後の、弘安の役(1281)である。だが再度、元寇もよく防御した。
 この時代の日本人は、日本と言う国が、よく知っていた。この国は神国であり、「神風が吹く国」なのである。神の囁きに真摯に耳を傾ければ、その幽かな聲
(こえ)は聴こえるのである。耳を向け、囁きを聞く能力があれば聴けるのである。霊的神性を養い、曇らせていなければ、よく聞き、防禦できるのである。

 では明治維新を経験し、西洋列強の植民地主義・帝国主義にどう躱すことが出来たか。明治維新は、欧米の企んだフリーメーソン革命でなかったか。
 その正体を知る者は少なかった。
 ペリーが砲艦外交を挑んで来たが、清国のように阿片戦争の二ノ前を踏むことだけはなかった。辛うじて持ち堪えた。斯くして日本人は明治・大正を経験し昭和に至った。
 だが、この流れの中には、記憶主義者らの成績順と言う合理主義が持ち込まれ陸海軍の軍隊は昭和に至って、完全に官僚化された。これにより、日本は日本精神を急速に喪失して行く。合理主義は、また人間の命を物資視する観念を植え付けた。大東亜戦争の悲劇である。
 国際社会における大アジア主義は官僚主義のよって押し潰された。侵略に弱い体質を日本は纏ってしまったのである。そして愛国心は、滅びの美学と一体化してしまった。愛が死んだ瞬間であった。人の命が物して粗末にされたとき、愛は死んだ。感情を失った。
 だが、愛は完全に死んだのではなかった。幽
(なす)かに生きていた。
 愛は復活するものである。自他同根の精神は此処に蘇
(よみがえ)った。
 一羽の鶴となって、不死鳥は灰の中から蘇った。

 一足不去……。
 一歩も退かないと言う覚悟である。
 この誓いに、人は何と大袈裟なとか、傲慢ではないのかという言うかも知れない。夕鶴隊に好意を持つ人ばかりではないからである。
 しかし、愛する気持ちは誰よりも強かった。求める愛でなく、施す愛は強かった。
 不死鳥は、いつの頃からか、鶴に姿を変えていた。新しい価値観を創出である。未来に向かって飛んだ。天
(あま)(かけ)た。


●木戸銭

 陸軍九七式輸送機二機が大鳥のように夕空の上に舞っていた。高度は1,000m程度であろうか。
 機は徐々に高度を上げて行った。
  聯隊に設えた仮設管制塔の無線は九七式輸送機の無線を捉えた。管制塔から機長に指示が出された。
 「こちら聯隊管制塔。一六二〇
(ひとろく‐ふたまる)の状況は次の如し。西南東の風、風力4。気温28度。湿度61%。天候、至って良好」陸軍管制曹長が輸送機に告げた。
 「こちら指揮機。本機は、高度3,000mまで上昇を行う」運航指揮官の陸軍航空中尉が応答した。
 異様な高度である。自由落下の高度は300mとされる。したがってこれまでの十倍であり、異様と言う他ない。如何に宣伝実演
(demonstration)とはいえ、常識を超えていた。降下高度が異常に高過ぎるのだ。
 九七式輸送機は大きく旋回を繰り返しながら高度を上げて行く。
 「本機は只今、高度3,500m」
 高度を聴いて誰もが沈黙して、耳を傾けた。この交信が、会場の拡声器を使って流されていた。
 「こちら機長。降下を開始する。降下長は、降下員を降ろせ!」
 「降下員を降ろします!」と降下長。降下長は古参の陸軍空挺曹長である。
 「了解」と機長。
 降下長は左側の降下扉を外しに懸かる。風向きを見るために帯状の号旒
(ごうりゅう)が外に流される。吹き流しを流して、風向きを計る。白い吹き流しが夕日と対照的であった。

 「第一班、降下待機!」
 この待機は、航空ならびに航海用語で「用意せよ」である。
 この時点で、一般降下なら、降下員は降下口付近に鋼索
(ワイヤ)が張られていて、降下員はケーブル状の索道に鉤型のフックを掛け、降下長の「降下!」の下令とともに飛び出して行く。しかし、その気配がない。
 降下口の扉は外されていて、降下長は降下するタイミング計っていた。
 本日のメインイベントの見世物は、キャサリン・スミス少尉を空挺指揮官とする第三班と第四班の空中陣形後の目的点
(直径100m円周内)への着地であった。
 降下員は第三班の副島ふみを伍長
(班長)とする児島智子、守屋久美、宇喜田しず、島崎ゆりであり、第四班は山田昌子を伍長とする向井田恵子、佐久間ちえ、長尾梅子、押坂陽子であった。この班に空挺指揮官のキャサリンが加わる。それぞれは二班に別れて分乗しているのである。第三班は五名で、二番機に搭乗している。
 一方、第四班は空挺指揮官を含めて六名であり、一番機の指揮機に搭乗している空挺遊撃班である。

 「こちら運行指揮官
(一番機指揮機の機長)。二番機は高度3,000mで降下を開始せよ。本機は3,500mで待機する」
 二番機は大鳥のように旋回し、高度を下げていった。
 「二番機、機長。只今高度3,000m。降下を開始する。降下長は降下員を降下員を降ろせ!」
 「降下員を降ろします!」と降下長。
 「了解」と指揮機の機長。
 降下長は風向きの確認ために、号旒への注意を怠らない。
 「降下員は待機!」待機とは“用意せよ
(stand by!)”の意味である。
 この聲
(こえ)を聴いて全員に緊張が疾(はし)る瞬間である。このとき本来なら、降下員はケーブル状の索道に鉤型のフックを掛け、降下長の「降下!」の下令とともに飛び出して行く。だが、その気配がない。
 降下長は、ひたすら降下するタイミングだけを計っていた。
 第一回の降下要員は五名である。
 降下員は迷彩の戦闘服に、編み上げの降下靴
(jumping shoes)、それにワイン色のベレーである。ブローニング拳銃で軽武装している。背中には陸軍一式落下傘を畳んだ落下傘嚢(らっかさん‐のう)を背負っている。
 五名が降下態勢をとった。

 降下長が「降下!」と吼
(ほ)えた。同時に、次々に飛行機の降下口から、1粒、2粒、3粒と……5粒が降りて来た。3,000mの上空である。粒は点でしかない。
 しかし5粒のパラシュートは開かない。下から見ている方も、降下して降下要員のパラシュートが開かないことに不審を抱いた。誰もが「何故だ?」という気持ちで上空を見上げている。
 「なんだ、あれは!」
 会場から異常事態のどよめきが起こった。聲は混乱に似て、悲鳴のようにも聴こえる。
 「どうしたんだ?……、変だぞ、落下傘が開かないぞ。まさか……事故か!」誰もが同意見の聲を上げる。
 不測の事態に対する一つの恐れと、どよめきが上がっていた。惨事に驚愕
(きょうがく)する聲である。まさかの不慮に対する恐れである。
 「おかしいぞ、これは事故か!……どうしてなんだ!……落下傘の紐
(ひも)が縺(もつ)れたのか?」
 空中に散った5粒の点は最初、散開していたものが一点に向かって集合し始めた。点が移動して動いているのである。空中陣形
(formation)であった。

 「皆さま、只今の降下実演は夕鶴隊独特の空中陣形です。これは事故ではありません、ご安心下さい」アナウンサーが安堵を告げるようにいった。5粒の点は一旦中心に集まったが、この塊は再び散り始めた。大きな円形を作った途端に、5個の粒は一斉に白い花を咲かせた。これを見ていた観客は唖然
(あぜん)とした。今までに見たことのない奇妙な降下法だったからである。
 この5つの粒は、練兵場内に描かれた直径100mの円周内に全員が着地したのである。
 下から視ていた多くは、「だいたい、今のは何だ?……」と、一瞬大掛かりな魔法を見たと言う感じで、どよめきのような聲を上げ、降下して来る降下員に、惜しみない拍手が送られて来た。地上に降り立った空挺戦闘員は、直ぐさま落下傘処理に懸かっていた。
 会場は降りて来た降下員が女性であることに驚いたようである。驚きの聲が挙がった。

 「見ろよ。いま降りて来たのは、みんな女だぞ。日本陸軍の婦人部隊だぞ!」そういう聲が上がり始めた。
 また他から「いつ出来たんだ、こんな婦人部隊が?……」と聲が上がった。
 しかしこの時代、日本軍の婦人部隊などある訳がない。
 狙撃隊一部に女子狙撃兵や、無線傍受などを行う通信隊の女子隊員はいたが、組織的に、戦闘に参加できる婦人部隊の編制は、アジアの中でも一番遅れていた。丙午
(ひのえうま)から来る明治以来の男尊女卑が仇(あだ)を為していたのか……。遅過ぎた観があった。
 日本にはこの時代、婦人部隊は正式には存在しない。この聯隊に徴用されたの女子学徒隊であった。その学徒隊は遊撃戦を展開する女子武装挺身隊であった。陸軍の正式な婦人部隊ではない。『タカ』計画に則って、組織・編制された私兵のような軍隊である。それだけに、いま見た落下傘降下は驚きであった。
 そして、「これが日本陸軍の『今』か……」という進歩の足跡を見た一般市民の聲があった。時代は時々刻々と変化し続けているのである。降下演習に参加した夕鶴隊員に惜しみない拍手が起こった。

 更に、第二回の降下に掛かった。このグループはキャサリン・スミス少尉を空挺指揮官とする六名である。
 このグループだけは、更に高い位置から降下する。最初に降下した班と異なり、航空鉄帽を被り、迷彩戦闘服の上に航空防寒服を着ている。左脚には100式短機関銃を納めた軽機嚢
(けいきのう)を巻き付けている。
 全員が完全武装である。
 第一回目の降下員と軍装の違うところは、重装備をしていることで、マイク付きの小型のヘッドホンを着けている。小型無線機を躰に装着している。互いが連絡を取り合う。それだけに動きが密で、それぞれが有機的に動く。六人の戦闘員が、一体化した一つの生き物として巧妙な遊撃戦を展開する。二回目の降下員は、この演習を試みて居たのである。

 「こちら機長。降下長は降下員を降ろせ!」と陸軍航空中尉が吼えた。
 第一回目の高度より500m高い。この時代、前人未到である。経験者はいない。
 しかし、英国空軍のテストパイロットであったアン・スミス・サトウ少佐は、3,500mあたりで空中分解して戦闘機からパラシュートで脱出降下した体験を持っていた。その降下をベースに、本日のメインイベントが組み込まれていたのである。唯一の木戸銭を貰うための実演であった。
 しかし今日の場合は、左脚に軽機嚢を付け、100式短機関銃を納めていた。前人未到のことをやらかすのである。木戸銭を貰うために……。
 その木戸銭が戦争早期終結基金となる。以降の支援者を募る呼び水となる。そのように企んで『タカ』計画が推し進められて来たのである。

 「降下員は用意!」降下長もマイク付きのヘッドホンを着けている。マイクから降下長が吠えた。
 降下扉は外され、指揮機からも風向きを計るための帯状の号旒が流されていた。高度が上がればそれだけ風力も強く流れも早い。降下長はこれまでの経験から、降下のタイミングを計る。
 機内では誰人も会話を交わす者は居ない。誰もが緊張し沈黙を保ったままである。励ましの聲も、成功するか失敗するかの不安もない。ただ迷わず飛び出す“思い切り”だけだった。しかし一方で降下員の貌は、みな蒼白
(そうはく)に近かった。
 「降下!」降下長は吠えた。
 それに合わせて、飛行機の降下口から飛び出して行く。1粒、2粒、3粒と……6粒が降りて来た。小さな塵
(ちり)のような点である。
 第一回目と同じようにパラシュートは開かない。下から見ている方も、降下して降下要員のパラシュートが開かないことに不審を抱くが、空中陣形をとるための策であろうと思い直す。一回目の降下を観ているだけに別に驚く様子もないが、しかし不安もある。空中陣形後のことである。その後、開くか否かである。心配はそこに尽きる。

 ラジオのアナウンサーは、3,500mから降下したことだけを興奮気味に、マイクロフォンに向かって喋り続けていた。その高度が如何に高いか、想像を掻き立てて伝えていた。
 「今ご覧頂いているのは、空中陣形です。降下員は降下しつつ、落下重力に合わせ、空中で陣型を整え、目的場所に、より近く降下する新たな空挺戦術です
」興奮気味に実況を伝えていた。
 やがて6個の粒は空中で不思議な動きを見せ始め、それらの粒は一つに集まり始めた。そして一旦中心に集まった塊は再び散り始め、大きな円形を作った途端に、6粒は一斉に白い花を咲かせた。安堵を覚える瞬間である。だが安堵は、無事に着地するだけでない。次なる展開を演じた。遊撃戦である。
 会場から五百メートル先に10m規模のトーチカ
(tochka)が設えている。トーチカは見るからに、頑強で重厚に映る。S分隊の防空壕班の土木の専門職人が、破壊され易いように造っている。
 降りて来た夕鶴隊員は、この陣地に上空から攻め込み、取り付く筋書きである。まず二人が砲口窓の背後から回り込んで、トーチカの上部に取り付く。更に、砲口から小型の99式手榴弾を放り込む。
 この手榴弾はこれまでのものと較べて小型で、かつての10式手榴弾
(高さ9.5cm×直径5cm)が530gあったのに対し、99式(高さ7.5cm×直径4cm)は300gしかない。更に爆発秒時は7秒から8秒であったのに対し、99式は4秒から5秒と短い。爆発秒時が長いと、敵兵から投げ返される恐れがあるからだ。そのため、投げ返されれば甚大な被害が出る。それを警戒して爆発秒時が短いのである。

 粗筋はこうである。
 着地後、パラシュートの収納処理を速やかに終え、直ぐに遊撃戦を展開する。トーチカの上部に二人が取り付くと、他の四人は二人ずつ両脇に展開し、トーチカから稼動角の90度視覚を避けて約200m離れる。
 航空鉄帽と航空防寒服を速やかに脱いで身軽となり、ワイン色のベレー帽に被り替え、軽機嚢の中に納めた100式短機関銃を手にする。トーチカ上部の二人が手榴弾投げ込んで退却後、両脇からトーチカ
に向けて機関銃の猛烈な斉射を行う。設定はトーチカの盲点である上空からの侵入であった。
 勿論、これは模擬的な演習である。架空に近い実演である。しかし堅固室内での爆破は戦術的価値を含む。トーチカは堅固な室内に敵兵がいる。内部には爆薬もあり、爆破されれば破壊力は凄まじい。
 日中戦争当時、中国軍のトーチカの出入口
(重厚な鋼鉄製扉)には外から鍵を掛け、二度と中からは開けられない物もあったという。それは兵士自らが「背水の陣」的に希望したのか、戦術司令官の意図なのかは不明であるが、おそらく後者だろう。
 手榴弾を放り込めば、内部を破壊して敵陣地は占領出来る。そういう筋書きになっている。
 トーチカとはコンクリートで堅固に構築して、内部に機関砲などの重火器などを備えた銃または砲口窓がある防禦陣地である。大きさは様々で5mくらいの物から100mに近い物まである。中国でのトーチカ構築のために独逸軍の軍事顧問が指導したことは、日本側でもこの頃になると知れ渡っていた。

 もう一度攻略の筋書きを復習すると、第二回目の空挺演習は空からトーチカに取り付き、これを攻略すると言う筋書きであった。
 降下後、二人が先ずトーチカの上部に取り付き、砲口窓から手榴弾を投げ込み、速やかに退却する。その間は約4秒。それに合わせて、両脇に展開した四人は、それぞれに100式短機関銃を斉射する。
 更に留
(とど)めは、特殊改良した100式小銃擲弾器に装填した手榴弾99式手榴弾を装弾し、狙撃者がこれをトーチカの銃口窓に撃ち込む。そして1秒から2秒後、トーチカは大爆発を起こす。そういう筋書きになっている。また巧妙な仕掛けがなされていた。
 この仕掛けをS分隊の武器庫班の職人集団が造った。この班は全員が爆破職人である。武器や射撃の研究を行うとともに、爆破を手掛ける“発破屋”である。発破屋どもが、TNT火薬を巧妙に仕掛けて、あたかも戦争アクション映画さながらの仕掛けを造り、最後は遠隔操作
(remote control)によって大爆破を行うのである。
 そして設定の時刻と戦場は夜襲戦である。

 夕鶴遊撃隊六人はキャサリンを指揮官として遊撃戦を展開した。あたかも「常山の蛇」のようにである。
 「山田候補生、完了!」
 「押坂候補生、完了!」
 トーチカ上部から砲口窓に取り付いた手榴弾攻撃の二人の完了合図がキャサリンのヘッドホンに届いた。
 「向井田候補生と佐久間候補生は最右翼。長尾候補生は、わたしと最左翼に廻る」
 「長尾候補生、了解!」
 「向井田候補生、了解!」
 「佐久間候補生、了解!」
 「長尾候補生、了解!」
 了解報告が連発花火のように伝わった。
 山田昌子と押坂陽子が窓から手榴弾を放り込んでから4秒。彼女達はトーチカ上部から消えていた。そして二人は100式小銃擲弾器に装填した手榴弾99式手榴弾の装弾を完了していた。
 「撃て!」
 指揮官の命令で100式短機関銃が一斉に吼えた。勿論、実砲である。
 展開円を描いての猛烈な機銃の“つるべ撃ち”での掃射である。猛烈な射撃音が辺りを震撼させた。
 「小銃榴弾発射!」指揮官が吼えた。
 榴弾は砲口窓に命中し、その後、トーチカの上部蓋が吹き飛び、火山の大噴火のような炎を上げた。凄まじい爆発音である。轟音が天地を引き裂くように劈
(つんざ)いた。
 現実にはそうならないが、コンクリートのトーチカが、火山が噴火するように天に向かって大噴火を起こしたのである。凄まじい漸強音
(crescendo)が夜の帷(とばり)寸前の上空に炸裂し、新鮮な、それでいて容赦のない光芒(こうぼう)を飛び散らせた。火焔(かえん)の柱が噴き昇ったのである。恐ろしい光景だった。

 この大噴火が、既に夕暮れの帷の空に吹き上げた。コントラストが奇妙に映った。この世のものでない、火焔地獄を思わせた。灼熱の無数の小さな曳光が長く尾を曳き、地獄の凄まじさを演出したのである。大噴火並みの大爆発は、トーチカ内の爆薬に火が点いたという設定であった。観客を驚かすには充分に効果があった。
 大噴火をバックに六人の降下員は、観客席に向かって悠々と歩いて近付いて来る。
 地獄の炎から生まれでたような錯覚を思わせる奇妙な生還であった。観客は誰一人として聲
(こえ)を出さなかった。暫(しばら)く聲を失ったように唖然となった。それだけ衝撃が重く伸(の)し掛かったのである。
 アナウンサーも暫くは唖然とし、少し遅れて、この地獄ぶりを実況した。
 生還者は観客席の前に歩いて来た六人は横一列に整列した。全員が迷彩の戦闘服を着ている。マイク付きヘッドホンを装着しワイン色のベレー帽を被っている。しかし、それだけに恐ろしき者達の生還を思わせた。地獄からの亡霊を髣髴とさせた。
 「トーチカ攻略の空挺指揮官は陸軍航空士官学校軍事顧問キャサリン・スミス少尉であります」
 アナウンサーは、指揮官を紹介した。六人は横一列になって一斉に敬礼した。その後、嵐のような拍手が舞い起こった。そしてトーチカ攻略に遣われた榴弾は、秘密工厰が新たに開発した極秘の『乙號榴弾』の流言が流れ始めたのである。噂は噂として実
(まこと)しやかに波及していく。

 陸海軍軍の高級将校らも観戦したが、彼らは参謀本部や軍令部に居て、殆どは実戦を知らない。実戦を知らない連中を欺くには充分な効果があった。訳の分からないことが起こったのである。それだけに唖然とする。
 つまり実戦とは似つかない、架空の模擬戦
(simulation)を行って、観客を驚かせたのである。しかし、宣伝工作としては充分に効果的であった。発破屋の手の込んだ仕掛けであった。
 更にこの仕掛けが、空挺攻撃と一貫した攻略と思い込むように、意図的な錯覚を起こさせたのである。
 そして観客の殆どは、凄まじい火焔に驚愕
(きょうがく)したのである。この中には当然、内外の諜報員も眼にも止まったことであろう。新兵器が出来た!と多くが錯覚を招く仕掛けである。実に手の込んだプロパガンダ工作であった。

 振り返れば日本軍が、中国戦線で泥沼の苦戦を強いられたのは、昭和7年
(1932)の上海事変からのことであった。この頃から中国軍は急に強くなる。
 この背後には中国軍を指導した独逸軍事顧問団の指導の大きさが上げられる。これにより、これまでとは違う堅固なトーチカが造られた。中国軍はこの頃から急に強くなる。
 その後、昭和12年
(1937)の第二次上海事変となった盧溝橋事件に端を発した日中戦争が本格的な戦闘となり、ここから日本は国力を大幅に消耗して行くことになる。北京や天津の中国兵と異なり、上海に展開した中国兵は精強であり、この強力部隊が日本軍を待ち構えていて、日本は此処から泥沼に足を取られ、身動きができなくなる。このとき日本側は四万一千人余りの犠牲者を出している。
 背後の独逸が関わっていたことにも深い因果関係を持っていた。
 そしてこの事件後、独逸から中国にわたる軍事物資は見過ごせないものになっていた。この当時、独逸顧問団は有能な将校だけで46人を数えていた。独逸の戦争技術が大いに日本軍を悩ましていたのである。

 特に独逸軍の軍事顧問団の指導は、機関銃の銃座や機関砲の砲座の頑強なる設置、トーチカのコンクリートを使った強力な防禦陣地、巧妙な鉄条網の設置、対戦車豪の構築などを指導した。これは中国河北省中部の保定にも強力な陣地が構築された。そして中国軍はこの地を日本との接戦上と考えて、また日本軍も北支における決戦が此処で行われると想定していた。
 爾来
(じらい)、日本軍は特に中国軍の巧妙で堅固なトーチカに悩まされ続けた。
 更に、日本軍の展開は面の展開あるいは線の展開で、立体的に戦う策が欠如していたのである。
 近代戦は、面の戦争から三次元の立体戦争に移行していたのである。

 そこで、『タカ』計画の実行者としての沢田次郎は、空からの作戦展開を考えて、当時、国家転覆罪で死刑判決を受けて府中刑務所に収監されている元英国空軍少佐でテストパイロットだったアン・スミス・サトウ少佐を牢獄から助け出し、彼女を陸軍航空士官学校軍事顧問の身分で、女子遊撃挺身隊に主任教官として招いたのである。またその妹の治安維持法で無期懲役になっていたキャサリン・スミス少尉も陸軍航空士官学校軍事顧問の身分で教官として招いたのである。彼女は数学者で、お茶の水女子大の数学講師
(高文官資格)で暗号解読に勝れた解析力を持っていた。この姉妹の新たな思考で、発想を転回させ、「空から」という特異な襲撃戦闘思想で、『タカ』計画を押し進めていたのである。
 この計画では、より良い負け方で早期戦争終結を目論んでいたのである。
 仮想標的のトーチカの凄まじい連射は上空から接近したことで、攻撃威力が増したことを証明した。これまではトーチカに近付けずに多くの犠牲者を出していたからである。
 最後の上空に向けての一発は、攻略の合図である。

 しかし、本日のお披露目は、この殺伐とした戦闘で終わっては、何とも後味が悪い。最後は一糸乱れぬ儀仗演技で本来の夕鶴隊の本性を紹介したい。この部隊は単に戦闘のために掻き集められた殺人部隊ではない。
 優雅で、それで居て凛としたところもあり、その姿は凛然
(りつぜん)としていなければならない。この目的こそが、お披露目のテーマだった。
 夕鶴隊のコードネームは「常山の蛇」である。縦横にあらゆる戦闘を展開出来る有機的な働きを証明しなければならない。それが『黎明の祭典』の主旨であった。全国に向けて、ラジオ中継されているのである。
 また戦略的には、根底には「余裕を見せる」意図があった。そのために派手に石油を浪費してみせる。石油はこの時代、戦略物資であった。戦争をしているのなら尚更だろう。また食糧や鉄なども同じである。
 これが備蓄量は、「まだ二年以上もある」のポーズであった。まだ瀕死の末期状態にあるのではないと言うことを、内外に向けて宣伝工作をしなければならない。
 この場合、実際に有る無しは大して意味がない。無いでも、有るように思わせることが大事である。戦略物資が、未だに底を突いていないことをアピールする必要があった。まさに「兵は詭道」である。

 しかしである……。
 夕鶴隊の全員は本当の戦場を知らない。その凄まじさと恐ろしさを知らない。その地獄の態
(さま)を知らないのである。知らないことは、また恐ろしいことであった。無秩序なる非道を知らないのである。合戦の時代と違って激戦地では、この限りでない。バーチャル空間のシミュレーションとは違うのである。
 では、どこが違うのか。
 まず匂いである。死臭である。生臭い風が吹き、肉や血は飛び散り、そこは死臭が漂う激戦地である。この地で、血湧き肉躍る……という感覚の持ち主は、完全に異常者だろう。
 次に眼から訴えて来る悲惨な現実と、触角で感じるドロリとした感触である。それに併せて、爆弾が降って来る風切り音と炸裂時の巨大が轟音である。それに伴う粉塵であり、これは肺を襲う。高熱の煤煙と粉塵が肺を灼く。灼熱地獄である。

 人間の肉体が引き裂かれ、手足は千切れて飛び散り、おし潰され、砕かれ、そうなると、もやは人間の面影はない。誰もが眼を背け、嘔吐
(おうと)を覚え、身も心も戦慄するのである。最前線にいる兵士は、めいめいの地獄の苦悶のうちに、死に物狂いにもがき、殆どは恐怖に狂いながら死んで逝く。這ってもがき、痙攣(けいれん)し、皮膚を焦しながら火刑に殉ずる人達である。
 狂気が荒れ狂う激戦地こそ、戦争現場の正体なのである。そして戦争と言う何ともバカバカしい陋劣
(ろうれつ)なる徒労……。

 この戦場において、誰もが踏み止まり、本分を敵味方が尽くすのである。それだけに人間の呪が掛かったところが戦場であり、その戦場は実戦を知らない参謀本の数人の軍隊官僚が机上の空論で立案するのである。先の大戦では、日本軍がそう言う軍来館量の机上の空論で立案した作戦があったのではないか。その最たるものがインパール作戦だった。この作戦では日本兵の「白骨街道」を築いたではなかったか。
 それらを、恐ろしく立派に立ててみせるところに、実は戦争の恐ろしさがある。そこには実戦での戦争が存在せず、また戦争の何たるかを知る者は、殆ど居ないたと言っていいだろう
。そして知らないだけに、現実を一層悲惨なものにする。

 もし、夕鶴隊の彼女達が野戦の出動して、激戦地に送られたらどうなるだろうか。
 砲撃の十字砲火を浴び、命中弾に当たれば、美しい手足は飛び散るだろう。乙女の膝から下の、型のよい白い脹脛
(ふくら‐はぎ)が、あたかも大根が降り落ちて来るように、目前に散らばるかも知れない。
 あるいは上半身だけが千切れて、腸を引き摺りつつ飛んで来て、どさっと落ちて来て、腸だけはピクピクと痙攣
しているかも知れない。そのうえ無慙に焼け爛(ただ)れた貌。その貌を見れば、どんな人でも胸を抉るに違いない。彼女達は、これに驚愕しないだろうか。悲鳴を発しないのだろうか。
 屍体
(したい)は人間の形を留めないほど破損しているのである。畳の上や病院での死ではない。このような残酷な死を見れば、常人なら信じかねて瞠目(どうもく)する恐怖の表情を思わず硬直するに違いない。
 尋常な思考を突如阻むのが、非常な戦場での死である。


 ─────かつて私は、知人が遣っている青少年の更生塾に出向いた際に、そこで出荷する豚の解体を見たことがある。昭和50年代のことであったろうか。私は当時、二十代後半の頃であったと記憶する。
 この塾は非行青少年の更生塾
(福岡県鞍手郡鞍手××字)で、塾長である千葉円慶ちば‐えんけい/仮名。当時47歳)先生が、青少年の更生のために開いた塾である。先生自らが私財を抛(なげう)って創設した私塾である。
 千葉先生は東大インド哲学科を卒業され、仏教学
(専門はラマ教史や密教史)に通じた陽明学者であった。私も陽明学の教えを乞いに、此処には何度か通ったことがある。
 此処では先ず労働を教える。働くことを教える。塾生達は豚を飼育し、全員で働くことを覚える。塾生は此処では養豚を通じて、最初に労働を学ぶ。豚を飼育し、出荷出来るまでになると解体まで行っていた。豚肉を出荷して、その売り上げを塾の運営費の一部に当ていた。塾名を『安政塾』という。

 青少年に労働を教え、次に読書することを学ばせる。読書をする習慣を身につけさせるのである。
 読書する本は、特別に決められた教科書はない。グラビアのエロ写真集以外は何でもいいのである。読み応えのある文字があればいいのである。漫画でも許可されていた。読み書き出来ない塾生に文字を教え、この学習を通じて学問することを教える。恥を知ることを、学問を通じて教える。
 然
(しか)る後に、先生は『菜根譚』を講義された。襟を糺(ただ)させるためである。
 千葉先生は誰も見向きのしない、世の鼻つまみ者の落ち零れのために、自前で更生施設を創ったのである。
 ちなみに塾名の『安政』は、安政の大獄で斃
(たお)れた梅田雲浜・吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内らの志を継いでという主旨であった。しかし、この主旨はあまり評価されず、地域住民からは不逞の輩(やから)の集団と看做されて敬遠され、安政塾は地域の嫌われものだった。

 千葉先生は、私に言ったものである。
 「自分は数歩先の霧の中を歩いています。いつの時代も自分ような人間には冷たく、無理解で、ときには批難の渦の中に立たされます。それは家内共々覚悟の上です。しかしこの批難に、先覚者の吉田松陰先生や梅田雲浜先生は、決して嘆きはしなかったものです」先生の自信を失わない信念であった。その顕われが「まごころ」という赤誠の郷土愛であり、日本人はみな同胞と考える日本人愛であった。
 日本人は日本人を罵倒し、欧米の思想に入れ揚げる日本国籍の無政府主義者であっても、同朋愛は持っておられた。根は同じだと言う。
 「彼らは、いま熱病に罹っているだけです、やがて熱から醒めます」これが先生の持論であった。

 また千葉先生が、先達の偉人に対し「先生」と呼んで敬服していたことを、私は一種独特の感動をもって敬承していたことを覚えている。また塾生に対し、決して名前を呼び捨てにせず、十代初めの学校嫌いの子供にも、女子は「さん」付け、男子は「くん」付けし、互いに敬語で話すことが、この塾の決まりであった。
 そして先生は、またこうも言われた。
 「世の中には独自の着想力もなく、情熱もなく、自身と家族のための小さな欲望で満足する人がいます。
 そう言う人を、間違った生き方をしているとは思いません。その日一日を快適に、無事な日常であれば、それだけで満足を覚える人がいます。個人主義に奔
(はし)る人達です。そういう生き方を否定しません。
 しかし自分は、個人の生活を楽しむ生き方を楽しむより、何かの不運が重なり、その切っ掛けでボタンを掛け違いを遣ってしまった若い世代の人に対し、幾らかでも修正につとめて、それが役に立てば、それに満足を覚える人間です。つくづく安楽と安堵の中に棲
(す)めない人間であることを痛感します……」
 こう言って、自嘲
(じちょう)気味に笑っておられたことを覚えている。自分のことより、他人を優先する人である。そして、私に「あなたは、どちらの人でしょうか?なぜ陽明学を学ぶのですか?」と訊かれたことがあった。

 つまり生き方に情熱がなく、自身の欲望も、その他大勢の需
(もと)める物で満足し、日々をその日暮らしで面白可笑しく仲間内で楽しむような、個人としての生活を楽しむ人間ならば、「陽明学は必要ありません」ということだった。こぢんまり、小さく生き、小人(しょうじん)の一生で終えればいいと言うのであった。
 故に、そう言う人は陽明学が必要でないと言うのである。その陽明学不要の人が、組織の頂点に立ったり、集団の代表者になったりしてはいけないと言う。そして、千葉先生の謙虚なところは「他人
(ひと)のことを小人と言う自分も、それ以上に輪を掛けた小人です」と自嘲しておられたことである。
 さて、この種属の人は小人として生き、小人として終わればいいと言うのである。悟る必要もないし、徳才もないから、その方面は能のある人に任せて譲れば、経済的困窮に陥って貧乏になったり、不運を招くことはないということを言われたことがある。私には新鮮に、斬新に、強烈に響いた言葉であった。

 「小人は小人で、それはそれで愉しいものです。それなりに尊いものです」と言ったことを覚えている。
 それは、そこまでで満足せよと言うことである。“その程度”の「足るを知れ」ということだろう。
 もしサラリーマンなら会社でも、課長以上の役職は求めてはならないと言うのである。それ止りで満足し、上を目指してはならないと言うのである。私自身、個人的には筋の通った話だと思う。文句なしである。
 世の中は、課長まで止りの小人が、欲を出して上の役職を目指すからおかしくなる。小人が重役になるような会社は必ず斜陽に陥る。また会社側もバカでないから、小人を重役に推すような会社はあるまい。
 小人は自分の徳才を知り、ただそれを弁
(わきま)えればいいのである。そして「社畜」になればいい。小人には世の中を変える情熱がないからだ。会社側から使役される社畜になって、大きなヘマを遣らなければ、給与確保と終身雇傭は間違いないだろう。先に立って出しゃばったり、目立ちたがり屋になる必要はない。
 人間は決して平等ではない。千葉先生は道の実践者であった。情熱の人であった。
 “口先の徒”ではなかった。博識多聞でありながら、その知識や見識に胡座をかくことなく、自分の保身を図るわけでもなく、水火
(すいか)も辞さない人であった。貧富の次元を越えた人であった。

 千葉先生は、昔はこの地域の地主で資産家であったというが、青少年の更生施設に財を投じていたため、私が面識を得たときは、随分の貧乏をなされているようであった。
 あるとき先生に訊いたことがあった。
 「先生は金持ちになる気はないのですか?」と訊くと、「それは先祖が遣ってくれました。自分はその血筋として、今度は先祖に代わって貧乏に全うするだけです」と、笑って奇妙な回答を返されたことあった。
 先生曰
(いわ)く「中途半端が一番いけません」というのである。
 「金持ちになるか、貧乏になるか、はっきりして下さい。あなたはどちらですか?」と鋭く訊くので、私は苦悶しながらも「私は先生と違って、貧乏な家に生まれました。目指すは金持ちです、ただし今は金持ちではありません。しかし金持ちの道を歩いています」というと、「それは既に金持ちになったのと同じですね」と返答されたことがあった。そして「富貴天にあり」
(『論語』顔淵)と、ぽつりと言われた。

 「あなたは金持ちの道を歩いているのなら、既に金持ちだ。奮闘努力して、実際に金持ちになれなくても、それはあなたの責任でない。富を得るか否かは、運命によるものです」
 先生の言によると、金持ちになるかならないかは、自分が決めるのではなく、天が決めるのであるから、なるならないは問題ではない。問題は金持ちになる道を歩いているのなら、もう金持ちになっても同じだというのである。奇妙な論だが、この当時、自分なりによく理解出来た。奇妙だが斬新に響いたものである。
 それは
(いま)だ辿り着かないが、その延長線上にあると信じている。金持ちになって、得た金を、名も無い大勢に投じてみたいと考えている。全人格を表面に打ち出しての奉仕である。己の勘定はない。
 私の理想は「大勢の人と一緒に理想郷に辿り着く」ことである。そこまで、大勢で辿り着くには、些かの路銀
(ろぎん)が懸かる。その路銀を稼ぐために金持ちになる必要がある。己一人の金でない。

 また先生は、古代史や大陸史に通じていたので、極東の国『日本』の意味に独自の解釈を持っていた。
 「大いなる東
(ひむがし)」の『大東論』を力説されておられた。アジア連帯主義者であったと言えよう。
 そのため支那の実体を、よくご存知だった。支那は、今は共産党に侵略されてしまったが、それでも独立運動をしている国であると言う見解を持っていた。この国は、未だに独立してはいないと言うのである。
 その最たるも証拠は、かの国で民主運動が起こっている事実である。

 先生は若い頃から穎悟
(えいご)の人で知られ、東洋哲学の世界では名の通った賢者であった。この賢者は先祖からの財を惜しむことなく、抛って、それを社会的に底辺にいる青少年に投じ、彼らの更生に務めた人であった。自分だけの安泰を願うような人でなかった。金離れと物離れのいいのである。それらに囚われない人であった。千葉先生は金や物に価値観を感じる人ではなかった。郷土愛と日本人愛に価値観を価値観を感じる人であった。それだけに、今日の現代日本人には見られない日本人の誇りを持っていたように思う。
 決して立派とは言えない塾の玄関前の掲揚台には、いつも日の丸が掲げられいた。
 朝会は国旗掲揚から午前6時から始まり、終会は午後5時になると国旗が降ろされた。
 千葉先生の奥さんも、質屋通いで塾生の生計費の賄いに苦労しているようであった。塾生の衣食住は、此処では一切無料であった。
 経営は中々大変なようで、塾長は、私には「教育には金が掛かる」と苦笑しながら嘆いているようだった。
 それだけに運営費を他から借金しているようであった。金銭感覚が薄かった所為
(せい)か、筋者と思われる怕いところからも、借金をしているようだった。
 私は此処を何度か訪れたことがあるが、そのとき奇
(く)しくも、その筋が、取立に着た時に鉢合わせになったことが一度だけあった。そして先生は、この筋にも怯(ひる)まず、彼らに足を洗うことを進め、更生を促すのであった。並みの人では、ここまでのことは言えまい。
 そのときは、ちょうど豚を解体するところであった。
 「あなたたちも、後学のために見ていきませんか。ご所望なら、少しばかりお分け致しますが……」などと物怖じすることもなく平気でいうのである。肚の据わったサムライだった。
 私も豚は潰すところは、最初から一部始終見せてもらったが、実に凄まじいの一言に尽きた。先ず、豚の脳天に大きなハンマーを打ち込む。一撃で倒す。一回限りのことである。その必殺を、礼に帰していた。

 千葉先生は私に言ったものである。
 「一発で倒して、楽にしてやらないと、豚に失礼です。何度も叩きないしでは残酷で、だいいち豚に無礼を働くことになります……」と、よく言ったものである。
 食べ物に対しての礼儀を説いた人である。
 「命を頂きます」の感謝を説いたのである。だから合掌して感謝の意を顕し「頂きます」という。
 次に斃
(たお)れた豚の両足を、即座に解体台の滑車の縄に結(ゆ)わいて吊り下げ、腹を、一気に解剖刀で断ち裂(さ)く。すると血塗れの腸が、どさっと勢いよく飛び出て来る。そして腸は、ビニール・シートが敷かれた床に飛び散り、あらかも大樽(おおだる)の中の流動物をひっくり返したように垂れ下がる。見るのを慣れない人は、実に気持ちが悪い光景である。
 その腸の上に、長靴を履いた塾生の青年が5kgくらいの粗塩を蒔
(ま)いて、腸を塩で揉(もん)んで洗うのである。更に別の青年が腸をナイフと、裁ちバサミで適当な長さに切って、スコップで掬(すく)ってポリバケツに次々と入れていく。そのバケツを持って、年少の少年が流水場に運び洗いに走る。そのとき切断された腸は、まだ生きていて、ピクピク痙攣しているのである。奇妙な生き物のように見えたことを、今でも印象的に記憶している。

 この解体現場に、その筋の貸金業者の取立があった。奇
(く)しくもである。
 大型のアメ車に乗った二人の若い衆は、豚の腹を断ち裂いて腸が流れ出る態
(さま)を見て、思わずゲロを吐いたくらいである。筋者でも、動物が死ぬのを初めて見れば、この態であった。異様な光景である。
 はっきり言えば、気持ちのいいものではない。気の弱い人は、その時点で以降、肉など食べたくないと思うだろう。この現場を見た以上、その日の食事もろくに喉の通らないであろう。
 一方で、人間が他の命を犠牲にして生きている傲慢
(ごうまん)も思い知らされる。
 人間とは、実はそういう生き物である。
 よくデパ地下などでマグロの解体ショーを遣っているが、あれを牛や豚で遣ったらどうだろう。
 殆どこの種の食品は売れなくなるだろう。それは日本人の遺伝子の中には、四ツ足を食べない先祖からの記憶が刻まれているからだ。肉を食べたいと思うのなら、肉がどういう行程で生産されているか、知るべきであろう。肉は、最初から発泡スチロールに入ってパックされていないのである。

 またかつて読んだ本に、三島由紀夫の小説か、あるいは随筆かは忘れたが、その中に、大戦末期のセーラー服を着た女学生の話が出て来る。
 その女学生は米戦闘機に狙われ、走って逃げているのだが、逃げ切れずに機銃掃射を背後から浴びる。そして戦闘機が女学生の頭上を通り過ぎた後、女学生には首がなく、首から下の下半身だけで、両手を小鳥のよいに広げてピヨピヨと泣く素振りをする描写が描かれていた。頭部が消えたのである。
 首を失った女学生は膝を折り、暫
(しばら)く膝立ちのまま、両手だけを小鳥のように動かした後、前方にどさっと倒れる内容だったと思うが、そういう話が記載されていた。おそらく、この話は三島氏が直接自分の眼で見たか、あるいは人から聞いたリアルな話を聞いて、そのまま表現したのであろう。

 また、戦争体験者から聞いた話であるが、田舎の畦道
(あぜみち)などでは小学生は俯(うつぶ)せになって倒れていることを聴いたことがある。背後から戦闘機に追われて機銃掃射されたということであった。非戦闘員がこのように無慙に殺されていたのである。戦争に名を借りた犯罪である。この戦闘機パイロットは人間相手に猟をしていたのであろう。大戦末期、日本は制空圏を失い、名も無い庶民がこのように、動物が屠殺(とさつ)されるように殺されていたのである。
 勿論、戦闘機は空母から発艦した米戦闘機である。後でそれに気付いた人が、その小学生を抱き起こすと、腹部が無くなっていて、上肢と下肢が分離していたと言う。その人は、胸を抉
(えぐ)るような光景であったのだろう。おそらく戦争を知らない今日の一般人ならば、このような光景に遭遇するだけで、何日間も食事が喉に通らなかったり、精神に異常を来すだろう。
 内地でも、このように非戦闘員までもが戦争犯罪の犠牲者となって、戦争に巻き込まれていたのである。
 何故この事を、南京攻略を世界的に報じてしまった『ニューヨーク・タイムズ』のカメラマンと記者は、こういう日本国内で起こっていた戦争犯罪も、世界に向けて報じなかったのだろうか。

 戦争を抑止するには、百年兵を練る思想で、練った後は容易に攻め込まれない状態を維持出来てこそ、抑止力になるのである。丸裸にして、赤ん坊状態になってしまった国に、侵略者は侵攻しないのだろうか。
 間違った戦争観は持つべきでない。
 既に論じたが、先の大戦の「敗戦後遺症」に患
(わずら)わされて、鶏と同じように“突っつき”の序列に陥っての“戦争を知らない大人たち”では殆(あや)うのである。“突っつき”の序列に従い、現在もアメリカの傘の下から抜け出せずに属国になっていることは周知の通りである。
 また、猿にもマウンティングなるものがある。
 社会的順位を確認するために上位のものが下位のものに対して行う行為だ。こういう行為は企業などでは、「ホモ」という。大企業などでの序列は、「猿の尻乗り」のそれであろう。
 この同一の行為は、官公庁などでの高級官僚間でも見られる行為である。上位の者が下位の者の尻を犯し、交尾の真似をする。この事実は否定できまい。猿特有の行為である。

 一方、鶏にも“突っつき
”の序列がある。
 上位ならびに優位が、下位の鶏を突つく。しかし下位は、上位に突つき返すことが出来ない。これにより、鳥の集団内の順位序列は決定される。一度決定されれば、これを覆すことは難しい。
 特に鶏において、あるいは猿において……ではある。
 日本が先の大戦に敗戦して、アメリカが憲法を押し付けたのは生物学上に検
(み)ても、まさに“突っつき”の構図あり、戦後の日本人は、これを未(いま)だに返上出来ずにいる。
 おそらく戦後の日本人の多くには、先祖と言うより、猿そのもののマウンティング本能が残っていたか、敗戦恐怖症として残っていたのであろう。

 近年の研究により、DNA分析によれば、人間とチンパンジーの遺伝子は、かつて仮説として提起されていた以上に、双方は同種に近いほど酷似していたと言う。
 チンパンジーと人間を比較すれば、知能的かつ文明的には人間が上である。また日本人もノーベル賞受賞者もいる。つまり、日本人は知能的には世界の水準の一定以上のレベルでありながら、日本人は「サル」と表現されたのは何とも皮肉であった。
 現に、欧米人は日本人を「イエローモンキー」と侮蔑したではないか。

 考えれば、イエローモンキーと侮蔑された事実は、生物学的には矛盾しないのだろうか。
 そうでなければ、日本人のための、日本人が創案した自主憲法は持てるはずだ。何を遠慮して“突っつき
”の序列に従い、この暗示に掛からねばならないのか。この集団催眠は、何が元兇になっているのか。
 このことを真摯に考える日本人は少ない。
 歴史を振り返れば、弱い者を面白半分に苛めてみたいのも、完成されない進化途上の人間の心理である。そういう心理で、弱者を面白半分に半殺しにしたり、いびり殺す兇悪な性格の持ち主もいる。この種属は強い者には弱いが、弱い者には残忍になれる。その種の人間の言葉も心も交えず、聴く耳を持たぬ者もいる。
 また複雑な時代、性格粗暴者や精神異常者も少なくない。
 過去に較べて、薬物投与などで、感覚器や神経系の異常者は殖えている。この種属が現在も増加の一途にあることは、今日の精神病院の大繁盛ぶりを見れば一目瞭然であろう。このことを忘れるべきであろう。


 ─────儀仗演技に出演するための夕鶴隊の楽屋裏である。
 そこでは、これまでとは違う女の戦場になっていた。彼らは制服の着替えて、髪の毛のセットである。
 楽屋では、五人の髪結い職人
(stylist)に扮した“化粧・衣装室”のS分隊員が伍長以下、着付けに、女どもの髪のセットアップにと、大忙しで、てんてこ舞いしていた。そもそも彼らは憲兵というより、もとは美容院などを経営していたリ、美容師であったりした。誰もが職人で、カリスマ的である。腕利きである。
 ところが、内務省通達で「贅沢
(品)は敵だ」となったことで廃業に追い込まれた。

 パーマネント
(permanent wave)の類(たぐい)は最初の槍玉に挙がり、これが一切禁止された。また日本髪を言うことも、非国民の譏(そし)りを受けた。この職種の職人は軒並みに食い上げとなった。
 しかし沢田次郎は、こうした一面も見逃さなかった。彼は安易に人が見逃すものに注視する性癖がある。親譲りなのだろうか。
 人は見落としたり、着目を怠ったり、関心を向けないところに着眼点を向けたりする。彼は進んで、変人・奇人の陋規
(ろうき)に通じた裏街道の名人を捜し出して来る。東京憲兵隊S分隊の憲兵として優遇し、寄せ集めたのである。全員が「独立職人集団」であった。「独立」というのは、それぞれに名人の巧みを持っているからだ。
 沢田は彼らを、独立職人の「仕事師」としてよく遣うのである。変人・奇人に一目置いて、陋規に通じた職人達を集めたのは、彼一流の先見の明であった。
 楽屋では仕事師達に、衣服の着付けや髪結い、化粧などに注文が次から次へと殺到するのである。

 「ねえ、おじさん。此処をもう少し直してよ」好き勝手に、無遠慮に注文をつけるのは島崎ゆりだった。
 「おい!小娘。わしを気易く呼ぶな。わしはなァ、この道の……」と言いかけたのは、この道30年の経験を持つ髪結いの水島曹長だった。この班の班長である。
 「失礼致しました、曹長殿」
 「おまえ幾つだ?」
 「十四です」
 「14歳か……若いなァ……」羨むようにいう。水島曹長は彼女が目映
(まばゆ)いのだろう。
 「曹長殿は?」
 「わしか、わしは四十二にまで数えていたんだが、もう今は忘れた」
 水島曹長が四十二と言ったのは、当時の日本の男子の平均年齢が42歳であったからだ。そして男の厄年の年齢に命を失うのも奇
(く)しくものであった。それを越えれば、男の場合、余生だった。
 「曹長殿、子供さんは?」
 「うん、子供か……うんぅぅ……」語尾を濁してそれ以上、言葉を紡
(つむ)ぎ出すことはなかった。一瞬想い出の方が先行して、言葉を失ったのだろうか。
 島崎ゆりは、水島曹長の手が止まりかけて、触れてはならない琴線に触れたことを悟ったようだ。水島曹長してみれば、悲しい想い出が堆積しているのであろう。

 「いけないこと訊いたのかしら……」無頓着に訊いてしまったことに、後悔の唸が疾ったようだ。
 「こらッ、頭を動かすな。世が世なら、わしはだなあ。今頃は天下の……」と言いながら話題の鉾先を変えて島崎ゆりの髪の毛を結い上げていた。
 この年齢の少女の、こういう好き勝手な細かい注文を聞くのも、水島曹長の温厚な人柄だった。
 水島は五十搦みのオヤジで、島崎ゆりくらいの娘を過去に、三十半ばになって、やっと授かったのだが、その子供を亡くしていた。それだけに彼女の些細な注文も聞いてやるのである。
 島崎ゆりの髪を、あたかも七五三の宮参りの参詣にでもさせるつもりで結い上げ、そして結い上げた髪に、白絹のリボンを結びつけていた。
 この曹長を班長とする他の髪結い職人も、娘達の注文と混雑に大童
(おおわらわ)だった。そして戦争していることを忘れさせる商売繁盛の一コマであった。
 髪結いや化粧ならびに衣装を担当する班には、班長を含め、五人の職人がいた。彼らは衣装を含め、変装までを担当する。その道の職人である。裏街道の陋規
(ろうき)にも通じている。
 下士官の夏用襦袢
(じゅばん)の軍服の緑色の折り返し襟の左右には、下士官の階級章が着いている。そして胸には、それぞれに名札を縫い着けているので、誰が誰だか一目瞭然であった。

 石井伍長は化粧師である。
 石井伍長の専門は、変装を得意とする。その彼が、小娘の貌に頬紅を薄らと施し、口紅を引いて廻る。
 「動くなよ、筆が狂うからな。狂えば“おてもやん”のような下種
(げす)の女になる……。そうだ、そのようにツンとすまして“お澄まし”してろ、いいか動くなよ」
 石井伍長はそう言いながら、15歳の栗塚さきえに化粧を施してた。
 「こうですか?」
 「馬鹿者!黙ってろ。喋るな、黙って“お澄まし”してろと言っただろうが。そうだ、そのままだ。栗塚候補生は、あと5年もすれば、引く手数多
(あまた)のいい女になる……」
 化粧師の石井伍長は、彼女の五年後を見ていた。おそらく本心が、そう言わせたのであろう。
 そして石井伍長は全員に化粧を施し、神経を研ぎ澄まして、彼女らの唇に紅を引いて廻っていた。


 全員は本日のために、新調した白の儀仗隊の制服を着ている。分列行進に出るための最初のグループが、時間に追われつつ準備をしていたのである。
 夕鶴儀仗隊の演技開始の花火が、夕闇迫る夜空に打ち上げられていた。
 儀仗隊ドリル演技は島崎ゆりを指揮者
(drum major)に、第一列目に押坂陽子、佐久間ちえ、長尾梅子、室瀬佳奈。第二列目に青木文恵、栗塚さきえ、守屋久美、宇喜田しずの九名で、この九名は3.7kgの九九式短銃を担っている。本日の最初の演技者は全員が15歳以下である。
 そして鼓笛隊として、小太鼓
(ドラム)として向井田恵子、鳴海絹恵、清水克子の三人と、フルート奏者は成沢あいと児島智子である。彼女らがドリル演技外に位置して演奏を行う。
 分列行進を行う3.7kgの九九式短銃を担う九名は、演技時間の約3分30秒間をこなす。そして最後に、短銃を8人が、順に小銃を横回転させ、全員は回転し終わったところで空に向けて空砲を放つのである。

 「皆さん、あと5分ですよ」
 分裂行進の儀仗指揮官であるキャサリン・スミス少尉が、急かすように時間を告げていた。
 「木下伍長殿、この長靴、きついんです」と苦情を訴える長尾梅子。
 「そういうものは、足が靴に合わせるんだ」
 「えッ?そんなバカな……」呆れたように訊き返す長尾梅子。
 「そういうときはだなァ、踵に絆創膏
(ばんそう‐こう)を貼るんだ」
 木下と呼ばれた伍長は、元靴職人だった。彼女らの足許
(あしもと)を担当する。こういって小娘達の面倒を細かく見るのである。
 その一方で、他から声が掛かる。
 「高田軍曹殿、スカートがブカブカなんです、何とかなりませんか?」そう言ったのは、15歳の守屋久美であった、彼女は目黒高女在学中、いきなり『臨時徴用令状』で女子挺身隊へと引き立てられた。それも武装する遊撃隊とは知らずにである。自らの希望など、最初から無視されていた。
 そして昨日の前夜祭では、彼女は眼の覚めるような、高価な友禅の振り袖を着ていた。
 彼女の家は目黒で呉服商を営む家で、両親は娘が余りにも高価な着物を着ていたのには、流石
(さすが)に驚かないわけにはいかなかった。最初に娘に逢って「どうしたんだい?……、その着物?」の親子の会話が始まったのある。
 その着物を着付けしたのは、着付師の鍋島伍長であった。更に驚いたのは着付けの見事さであった。
 鍋島伍長は京都祇園で、舞妓に着付けに走り回る“男衆
(おとこし)”であった。
 舞妓の帯は男衆が締めないと結べない。一人で結べる帯でない。
 祇園では、帯結びは男衆の力が大きかった。それだけに、守屋久美の着物を着方が、あまりにも見事だったのである。この着付けに、呉服屋の両親が驚嘆したくらいである。

 一方で、高田軍曹は左手の甲に針山の帯を止めて、そこには糸の通った針が何本か刺している。
 彼は以前は『テーラー高田』という紳士服店を経営したが、生地
(きじ)の不足で廃業に追い込まれた経営者だった。そして従業員だった下山兵長は、店主と一緒くたに、引き抜きで憲兵を遣らせているのである。
 「おい下山。お前はこの小娘を看
(み)ろ。おれはこっちの小娘で手が離せん」高田軍曹は細身の守屋久美に掛かり切りで制服の修正をしている。彼女は身長が157cmで41kgと細身である。
 「どうした?小娘」
 下山兵長は室瀬佳奈のところに遣って来て注文を聞いていた。
 「あの、此処がきついんです」
 「さては、襠
(まち)を少し間違えたかな」上衣の後ろ背の脇縫に入れる間の布を言っているのである。
 高田軍曹と下山兵長は、首に洋裁巻尺
(measure)を掛けて走り回っている。
 『テーラー高田』は紳士服の店であった。今回ように婦人服に手掛けたのは初めてであり、その大まかな婦人服指導は、親愛高等女学校の被服科教師の柿原浩子によって行われていた。しかし、婦人服は俄である。
 柿原浩子も、娘達に着ききりで修正に走り回っていた。
 「下山兵長。その遣り方はだめです」と、室瀬佳奈に掛かった下山兵長に注意を柿原浩子が促していた。
 そして婦人服特有の訂正を入れて廻っていた。
 何とか間に合ったという感じであった。
 このようにして、全員が上下白の制服に着替え終わると、ブローニングM1922拳銃で軽武装をした。

 白の上下の制服に、襟には赤絹のマフラーで胸元を覆い、黒革の拳銃ホルダに黒の帯革で留め、靴はヒールの付いた黒の長靴だった。そして軍帽はワイン色のベレー帽で、左上には近衛聯隊の帽章を模した物が付いていた。ただ違っていることは、近衛兵の場合は中央上が五芒星
(ごぼうせい)だが、夕鶴隊はその部分が、白い八角形の鏡の中に日の丸が施されている。
 各人は白絹の手袋をしていた。きりりと締まっていた。
 準備が整ったキャサリン・スミス少尉以下10名は、横一列に整列をし、「お手数をお懸けいたしました」と敬礼した。そしてオヤジどもも慌てて返礼をした。

 キャサリン・スミス少尉の金髪を美しく結い上げたのは水島曹長であった。
 水島曹長は彼女の髪を結い上げたとき、思わず「少尉殿は、何処かの国の王女さまみたいですねェ」と気品を賞賛し、鏡に映った彼女に思わず吐露したくらいである。彼女の髪はロシア風のお下げ髪型であった。両端に白絹のリボンが結んである。それだけに、髪結いの水島曹長としては、満足したことを自身で頷き、納得するように認めたのである。
 キャサリン・スミスと島崎ゆりは、指揮官と指揮者と言うことで、布帛
(ふはく)の指揮官と指揮者の紅白の肩章が掛けた。それは更に引き締めた。

 人懐
(ひと‐なつ)こい島崎ゆりは、布帛を掛けて正装したあと、水島曹長のところに遣って来て、「どうですか、曹長殿?」と可愛い笑顔で訊くのであった。
 「うん、七五三の宮参りにしては、よく出来ている。頑張って来い」
 水島曹長は、わが娘の愛らしさを見るように、満足げに頷いていた。職人気質の人であった。
 しかし彼女達は、平和な時代のドリル鶴儀仗隊ではないのである。ブローニング拳銃で軽武装していること自体、そのまま彼女達は戦場へと繋がっていたのである。彼女達の分列行進は、そのまま戦場へと向かう行進であった。

 戦場への行進が、いま始まった。親愛高等女学校の吹奏楽部が次のプログラムを告げていた。
 ドリル演技は島崎ゆりを指揮者
(drum majo)に、第一列目に押坂陽子、佐久間ちえ、長尾梅子、室瀬佳奈。
 第二列目に青木文恵、栗塚さきえ、守屋久美、宇喜田しずの九名で、この九名は3.7kgの九九式短銃を担っている。本日の演技者は全員が15歳以下である。儀仗用の佩刀
(はいとう)を略刀帯(りゃくとうたい)に吊り提げる儀仗指揮官はキャサリン・スミス少尉であった。
 そして鼓笛隊として、小太鼓
(drum)として向井田恵子、鳴海絹恵、清水克子の三人と、フルート奏者は成沢あいと児島智子である。彼女らがドリル演技外に位置して演奏を行う。

 指揮杖
(major stick)を胸に斜め構えた島崎ゆりは、きびきびとした凛然なる動作で、「いち・いち、いちに・いちに、左右・左右。いち・いち、いちに・いちに、左右・左右。いち・いち、いちに・いちに、左右・左右……」と拍子取りの聲(こえ)を懸けている。
 その拍子に合わせて、小太鼓は鳴り響き、二列が静かに動く。中央で静止すると、指揮者が指揮杖を巧みに操って杖を廻し、きびきびと動かし始めた。小太鼓はそれに併せて鳴り響いている。そして、一旦指揮杖がとまった。詮議者全員が静止すると、静かにフルートの二重奏の前奏が流れ始めた。『南の花嫁さん』
(藤浦洸・作詞/任光・作曲)である。
 一旦、足踏み静止した9人は、島崎ゆりの呼子
(whistle)で動き始め、九九式短銃を担った分列行進は、キャサリンが幾何学的な円と直線の交叉(こうさ)により、時間差等を計算して考案したドリル演技である。
 佩刀を握る儀仗指揮官を先頭におき、指揮者が続き、音楽に合わせて演技者全員がきびきびと、切れのある動きで、然
(しか)も女性特有の優雅さを失うことなく行う分列行進である。
 演技時間や約3分30秒間であった。そして最後に、短銃を8人が順に横回転させ、全員は回転し終わったところで空に向けて空砲を放つた。それが九連発の花火のような早さで、淀みなくそれに向かって撃ち上げたのである。
 会場から「おッ……」という驚嘆
(きょうたん)の声が上がった。見事なのは連続する早さであった。
 大和撫子の威厳に賭
(か)けての演技を、最年少グループが演じてみせた。無事演技をこなしたのである。
 会場からどよめきと拍手が巻き起こった。
 これを見ていた職人集団も「よくやった!」と惜しみない拍手を送っていた。しかし、それは戦場に送り出す歓呼の声と拍手だったのだろうか。



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