運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 47

明治以降の西洋化軍隊の導入は、先ず自国の軍事力を見せ付けて、近代市民社会の体裁を整えようとした。その意味からすれば、徴兵制と民主主義が同根である。それはフランス革命時の「国民軍」と言う意識である。
 外国の軍隊の干渉で、フランスの独立が脅かされている。その場合、「市民革命を守ろう」という声が上がる。これがフランス中に満ちたとき自発的に市民は義勇軍に志願した。これが義勇軍あるいは国民軍の起こりであった。そして徴兵制を敷くことになる。市民の一人ひとりが国家の形成に加わり政治に参加する。これから考えれば徴兵制と民主主義は同根であったと言える。

 フランス国歌の『ラ・マルセイエーズ』は、マルセイユから祖国防衛のために進軍する義勇軍の歌がそのまま国歌になっている。近代市民社会イコール軍隊の構図である。斯くして、市民社会の同一性および正当性を確認するために、当たらな神話が形作られる。
 しかしよく考えれば、戦争は矛盾に満ちている。欺瞞に満ちている。それを追求すれば、戦争メカニズムの背後には、戦争をマネージメントする輩
(軍産複合体)の恐ろしい画策が隠れている。戦争を演出・調整するコーディネーターである。軍産複合体の後進国は、戦争調整人によって高い武器を買わされることになる。そして武器には、賞味期限も消費期限もある。消費を強要されるのである。


●毅然・清潔・淑女の三つ誓い

 事業を起こそうとしたら、想起時の事業計画に従い、その行動においては、一度に三つのことを一斉に進行させなければならない。同時に三つのことを遣る「戦略能力」を必要とする。
 また三者間には、それぞれに関連性を持たせ、互いに影響を及ぼす仕掛けを作る。先ず、ハードウェアの部分を形成する。こうして仕組みを作った後、次に中身のソフトウェアだが、その動力は分別知でなく、「無分別智」である。尋常であってはならない。尋常の一線を越える。無機物では動かない。有機的な組織である。

 一般には、分別は“良い事”であり、無分別は“悪い事”と解す。分別と無分別の認識意識である。
 しかし、分別が過ぎるとその“智”は、吾
(われ)が先立った名前や概念に捉われ、事の実態が見えなくなってしまう。客観的な眼を失う。
 更にはマクロで物事を見る眼を失ってしまう。近視眼的になり、思考は短剣的になる。事業者にとって最も警戒すべき事柄である。こういう分別に陥って、迷ったり、分裂することを「妄
(もう)分別」と言う。
 事業を始めるに当り、“有智”とか“有我”が最初から混入されていると、妄分別が起こり、その事業は失敗に終わることが多い。目先に翻弄
(ほんろう)され、また誘惑に弱い。
 それを回避するには“無智”となり“無我”にならねばならない。事業の代表者に据えられ、あるいは幹部として動く者は、無智・無我の吾
(われ)を勘定に入れないことだ大事である。トップの座に君臨すれば、金銭に淡白な人ほど、物事はよく見えるものである。しがたって峻烈(しゅんれつ)さのある漢ほど、不正には誘惑されないものである。凡夫(ぼんぷ)の一線を越えているから、金・物・色の誘惑に強い。

 沢田次郎は、『タカ』計画の台所
(資金調達・募兵・交渉人等)を預かったときから「無分別」に徹して来た。
 草創期の事業者は、無分別を知る人間で構成されねばならない。
 言及すれば、分別は科学的体系に走り易く、体系主義に陥る。特に自然科学の場合は、そうだ。
 しかし早い話、科学の歴史を考えれば、コペルニクスもニュートンも、それ以降の濫觴期
(らんしょう‐き)のこの期間を見てみれば、今日まで数えても、高々四百年程度である。
 一方、人類の歴史は人間として二本足で歩き、手に道具を持って活動を始めたのは、数万年の長い歴史を持っている。それが近代に至って、人類は科学を借用するに至ったが、それは体系科学によるところが多く、一旦これに染まると、概念の固執が起こる欠点もある。法則重視、法規重視、体系重視の四角四面の真面目一方の思考で押し通す“分別一辺倒主義”は、ある意味で無限の思考図を破壊するものである。

 かつて、大東亜戦争の分別一辺倒主義は、無限の思考図を破壊し尽くした戦いでなかったか。
 日本軍の場合は、それが大いにあった。その結果、最後まで「奇手」が出て来なかったのである。
 悲劇は、分別一辺倒主義や正攻法一辺倒主義の凡将によって、戦争が指導されたことだ。既に、凡将は“妄分別”を患っていた。勝てないのは当然であろう。勝てない以上、結局、負け将棋を“もう一番”“もう一番”となる。当時はこの落し穴に、殆どが気付かなかった。凡将の惰性で長々と、だらだらと戦争を三年八ヶ月以上も続けた。だがそれでは国力は疲弊する。
 経済活動は麻痺し、流通は滞り、身動きが取れなくなり、国民は飢え、やがて餓死する……。亡国である。
 将来を見抜くには、為政者の炯眼
(けいがん)が物を言う。為政者は眼光紙背(がんこう‐しはい)に徹する者でなければならない。権勢欲や名誉欲に溺れる軍隊官僚であってはならない。戦争職人が政治や経済を動かせる訳がない。軍事政権が国民に圧倒的多数の幸せを約束できる訳がないのである。
 反省すべきは、職人は政治などの口出しせず、職業戦争屋として職人の域に徹するべきであった。

 そこで、沢田次郎は戦争を早期終結させて、新たな発想で仕切り直しを企てた。その行動原理の中に無分別智があった。事業は一貫して、無分別智で貫かれていなければならない。分別は行動原理の中で分裂が起こるからである。分裂するのは、分別を用いて事に当たろうとするからである。これでは、最後に必ず分裂を起こすのである。
 人として、人類としての一般的概念から齎される倫理などの規範は、この規範に照らし合わせて、「これは間違っている」とか「これは正しい」と言う判定は、まさに分別が齎したものである。その分別によって、大東亜戦争の「聖戦論」なども隆起した。自己防衛のために、他国まで攻め入って欧米を駆逐しようとしたことはその後の広島・長崎の原爆投下が雄弁に物語っている。これも国際正義を超越した、人道論を無視した行いであった。敵意から起こったものだと言えなくもない。あるいは白人の、東洋人への敵愾心
(てきがいしん)が爆発したのだろうか。
 敵意が盛り上がれば、そこには当然の如く、「あいつは敵だ」とか、「こいつは味方だ」とかの区別が生まれる。これが“分別知”である。
 そしてその分別知から、本来はひと纏まりのある人間集団、つまり国家レベルの民族に至れば、敵と味方は大雑把に二分され、死闘の戦いを演じることになる。そこで「正義の平和のため」と言う分別の戦いが演じられるのである。これは双方の国民にとって大変な悲劇であろう。
 その場合、自国の政治に解決力がなければどうするか。

 沢田次郎は「自前」を想起した。
 想起し、一つが出来たらまた一つ程度の、のんびりとした進行では、急場に用を為
(な)さない。互いに関連付けがいるのである。それぞれが影響し合う装置を造ることである。それを知って装置を造った。
 アメリカの政治学者で行動科学者として知られるラスウェル
(Harold Dwight Lasswell)は次のように言う。
 彼の提唱する政治的コミュケーション論や政治空間論には、「権力と人間」の関係について、次のように論じている。
 「人間の形成の過程で、その人間が受けた価値剥奪や失意は大きければ大きいほど、権力への衝動も強い」
 これはまさに箴言であった。これには駆引きがあることを臭わせている。政治的コミュケーションはそれを雄弁に語る。また、権力の場は、そのまま政治空間に繋がっている。そう指摘するのである。

 何か物事を始めれば、その根底には政治空間に結びつく、政治的な心理を駆使する領域のものを掴んでいなければならないからである。装置の基本である。装置の組織構造である。これは個人商店と企業組織との違いである。個人商店は無機単数だが、企業組織は有機複数である。
 例えば給与一つにしても、個人商店では出来高給だが、企業組織は生産奨励給である。あるいは集団能率給である。これをベースアップするには、全体が有機的な機能で組織運営されて初めて適
(かな)うことだ。
 集団を為
(な)せば、組織として機能する要素を持っていなければならない。単に「在(あ)る」では駄目なのである。機能とは「動くもの」であり、活動するものを言う。軍隊もこれに酷似する。
 そして、個人と集団に運営の違いは、個人は一人の食い扶持
(ふち)を求めて活動すればそれで済むが、組織では、組織全体が影響力をもって機能しなければならない。これは全体として有機的に動く生命体とならねばならない。複数要素の有機的集合体(system)である。
 それには、一人の力で事業体として、成功することはない。成功するかのように見えても、横らか“トンビに油揚”のような、こそ泥が居て、賊に乗っ取られて終わりである。この毒牙に掛かる経営者も少なくない。
 しかし、一人の力に他人の協力が得られたとき、事業は初めて成功に向かう条件を手に入れたことになる。
 協力が得られる条件は、主宰者の利発さや鋭敏さではなく、それ以外の「人格力」である。あるいはその人の魅力を秘めた「人物力」であろうか。

 陽明学の大綱を編纂する『伝習録』には、師匠の王陽明と門人の徐愛
(じょあい)の問答が記されている。
 その中に、私が最も興味を惹
(ひ)いた問答がある。
 「先生、書を読んでも一向に道を明らかにすることが出来ません、何故でしょうか」
(『伝習録』序)
 徐愛の問いに師は次のように答えている。
 「それは字句の意味ばかりを穿鑿
(せんさく)して、真意を明らかに出来ないからだ。ただ表面上の字図らを追うならば、昔の学問の方が増しだ。古人は読んだ書物は多いが、それは読めば読むほど理解が進んだためである。もっとも、彼らはそのようにして、あらゆることを通暁(つうぎょう)したが、しかし、それはそれだけで終わった。それにより、一生自分の内面を知ることは出来なかった。人は実践をもって己の心の本来的な在り方に功夫(工夫)を加えねばならない」と回答する箇所がある。隠れた箇所を読めという事なのである。

 この部分を復読すると、私は、かの魏の曹操が『孫子』を繰り返し読み、自分なりに工夫を凝らし独自の解釈を与えた解説書には、確かに眼に見えない隠れた部分を解読している。見事に『孫子』の藕糸
(ぐうし)の部分を探り当てているのである。曹操は『孫子』を字面の体系では理解できない書物と見ていた。この書には、文字に意味があるのでなく、「伏せられた箇所に真意がある」と見抜いていたのである。
 曹操は隠れた有機的な部分を、独自の工夫によって説き明かしたのである。現に実戦を通じて、それが如何に正しいかを証明してみせたのである。それは有機的な軍隊機能であった。
 実学は、字句の中に真意があるのでない。行動の学は、字では学べない。学ぶとは知ることであり、知ることは、行うことであった。これが欠如していれば、事上磨錬
(じじょう‐まれん)を生まれないのである。
 事上磨錬を通して道を明らかに出来ない以上、字図らを追っても、王陽明の指摘するように一生自分の裡側
(うちがわ)を知ることは出来ないであろう。
 また苦労人でない者に、大人物は相手にしないものである。況
(ま)して、対等・同格にはなり得ない。対等・同格の立場が確立出来なければ、また大人物に接しても、一方的に圧倒されて呑まれるばかりである。餌食になるのがオチである。
 「何しに来た?」と一蹴されて、怯
(ひる)むばかりであろう。つまり「呑まれる」からである。

 沢田次郎は呑まれることを嫌った。
 例えば、闇の世界で「呑鯨」の異名をとる安積財閥の総帥・安積徳之助
(あさか‐とくのすけ)対座したとき、分別知で接すればひと溜まりもなかったであろう。無分別智であったからこそ、対等・同格が維持出来た。
 人は、例えば高級料亭の一室で大物と対座したとき、自分の裡側
(うちがわ)を鍛練していない者は、その浅い底が一目瞭然となる。度量の小ささを瞬時に見抜かれる。人物鑑定眼が鋭い。
 対等・同格を維持出来るのは、心の鍛錬をした場合の人物力であろう。まざまざと人間の「格の違い」を思い知らされるものである。大物は“逆鱗”を持っているからだ。この鱗に触れると恐ろしい。
 だが沢田次郎が若輩でありながら、後援者を求めて、大物から大物の間を蝶のように飛び回って行き来出来るのは、人間の格の違いを知り抜いているからである。それだけに扱い方も上手い。賢者の巧みである。

 沢田次郎は「早期戦争終結」に心血を注いだ。放置すれば無駄なエネルギーが流出して行くばかりであったからだ。これを止めさせるには、一旦終わらせて、仕切り直しをする必要があった。
 そこで『夕鶴隊』を組織した。余裕の証を内外に知らしめることであった。
 そのために女子挺身隊を募った。臨時徴用と言う形で募兵した。この特異な組織は「毅然・清潔・淑女」を基本としてこれを建隊の綱領とした。それを各員に誓わせた。
 その象徴は、夕月に向かって飛ぶ一羽の鶴である。この構図の背景には道教的な思想をもつ。鶴は神仙思想に基づく仙禽
(せんきん)であり霊鳥である。それだけに窮地を救う。回避する。古くから願いを適(かな)える仙禽として知られる。
 仙禽として知られる話が『神仙伝』
(蘇仙公伝)に記載されている。蘇仙公(そ‐せんこう)の話である。

 ある日、仙人達が数十羽の鶴となって蘇仙公の門の前に降り立った。蘇仙公は仙人になるために、母親を残して飛び立つことになった。母親は蘇仙公が居なくなることを嘆いた。これからどうやって暮らしていいか困りはてた。蘇仙公は飛び立つ前に、こう言い残す。
 「来年は疫病が流行ります。しかし心配には及びません。そのときは庭の井戸水一生と軒端の橘の葉一枚で一人の病人を治せます。そうなったら、それを実行して下さい。そのために此処に封印をした箱を置いておきます。何か足らなくなったらこの箱を叩いて下さい。直ぐに、不足のものは揃います。でも、どんな事があっても封印した箱を開けてはなりません」と言い残したのである。
 この筋書きは、佐渡島
(さどがしま)の昔話に出て来る『夕鶴』の内容によく似ている。『鶴の恩返し』で知られる。傷付いた一羽の鶴を助ける話である。後にこれは、民話の元になって「夕鶴」と言う戯曲になるが、それ以前の話は『神仙伝』から来たものである。

 さて、残された母親の方である。蘇仙公が言い残したように、井戸水一生と軒端の橘の葉一枚で治らないものはなかった。また不足があれば、箱を叩くことにより、それが適った。
 ところが、箱のことが気になるのが人間の心理である。民話劇の『鶴の恩返し』のときも「機織
(はた‐お)りをしているところを見ないで下さい」と釘を刺される。しかし、開けるなと言われれば開けたくなるし、見るなと言われれば見たくなるのが人情である。
 人情の誘惑で、ご多分に漏れず、蘇仙公の母親も、あたかも浦島太郎が乙姫から貰った玉手箱を開けてしまうように、箱を開けてしまうのである。
 すると箱の中から二羽の鶴が飛び去ってしまった。それ以降、箱を叩いても何も出て来なかった。もう願いは適えられなかった。その後、一羽の白鶴が蘇仙公の故郷の楼閣の上に飛来して止まった。何者かが、この鶴を石弩
(いしゆみ)で撃とうとした。その鶴は楼閣の板に「吾こそ、蘇仙公なるぞ、撃つとは何事か」とその文字を爪で書いたという。
 鶴は確かに仙禽であり霊鳥であった。また見ていても優雅で美しい。
 その美しさは『土佐日記』に一節にあるように「見渡せば松のうれごとにすむ鶴は千代のどちとぞ思ふべらなる」である。
 その心情は、松の根元で鶴が飛び交う態
(さま)をあまりに「美しい」と形容して、船人は耐えきれずのこの歌を詠んだ。いい景色であったのである。
 その仙禽・霊鳥を夕鶴隊の旗印にしたのである。この鶴は時には「常山の蛇」にも変化するのである。そのように訓練を受けているのである。

 では、その運営はどうしたか。

資金計画 横の繋がりを需めた。関連者作りを行い、これによって種金を作る。
 また種金は培養して殖やすことが出来る。軍資金は目的のために積み立てる資金の根幹を為す。一種の公募株販売の運用基金である。
人員募集 募兵者を百名リストアップし、上位から20番目をボーダーにした。以下切り捨て。そう言う組織にも、上(1割)・中(8割)・下(1割)に分布される。下はどうしようもないクズであり、中は可もなく不可もなく、一般に言う“普通”という分布層である。
 上位に近い者ほど機能的な集団を形成する。この上位20名をもって、かの毛沢東が実践した『三大規則』と『注意八項』を行う。プロパガンダ戦略である。『孫子』にはこの大事が説かれている。
協力者 縦の繋がりを需めた。上・中・下のうち、中を省き、最上位の人脈と最下位の野に臥す賢者に智慧を求めた。
 例としては、最上位の養父の沢田翔洋、鷹司清隆、安積徳之助らである。それに加えて「教唆の術」を遣い、山上源太を安積徳之助が呑めば、理想的と諭した。まさに無から有を作り出す話術であった。

 以上のように、三者を成して材料を揃えた。そして潤沢な軍資金を得るためには、先ず第一に資金計画をもってスポンサーを探すことであった。
 第二に内容に適合する人員募集である。
 第三に目的を同じくする協力者を得ることである。この三つが整って機能する組織が運営出来る。条件を満たしたことになる。併せて同時進行出来る仕掛けと造る。事業体は理想を願っても、それで成ることはない。夢を追いかけても夢幻で終わる。理想の追求は、単に利益の追求だけではないのである。それは本当の意味で有機的な仕組みを持つ事業体でない。不揃いな集合体でしかない。一時的に為しても、歴史が造れず、やがて崩壊しよう。


 ─────木戸銭を貰う。大変なことである。
 しかし観客は失望に木戸銭など払わない。
 国民精神総動員本部が掲げた標語は「贅沢品は敵だ」であった。昭和15年8月1日のことである。
 この年、内務省は東京市内に千五百本の立看板を立てた。
 まず贅沢品に挙げられたのは、一般的に考えて高価な装身具や著度品、値の張った衣服や履物、貴金属宝石類、高級料亭などで食する豪華料理、金の懸かった軽井沢や那須の別荘、高級乗用車などが贅沢人に挙がるであろうが、然
(さに)に非ず。

 当時の為政者が真っ先に贅沢品に指定したのは、書籍や雑誌類であった。その中でも思想書や哲学書をはじめとして、娯楽雑誌、婦人雑誌、文芸雑誌、これらを含む総合雑誌などであり、国民向けの思想統一に反するものは贅沢品の槍玉に挙がった。理由は「紙が不足している」と言うことであった。
 紙不足に、贅沢品として書籍や雑誌類の統制を図ったのである。その結果、昭和19年になると倒産する出版社が相次いだ。
 軍部は逸早く情報を仕入れるために新聞社に接近し、一方で啓蒙力を図り、国民の思考を軍国一色に染め上げようとした。

 ところが「紙が足らない」は、別の理由で、権力筋のご贔屓出版社に過ぎなかった。この種の権力の提灯持ち出版社は、この時代にあっても大いに栄えた。整理統合の結果、弱者を啖って行った。陸海軍の御用商人は戦争で肥り、名も無い底辺の弱者を次々に啖って行く態
(さま)は、弱肉強食の食物連鎖を髣髴とさせた。
 大戦当時の出版業界の顔役は、その貌の一枚下を剥けば軍事産業の財閥であった。
 軍部は紙不足を挙げながらも、逸早く情報を知りたいがために、新聞社や雑誌社に密着した。その筋からの情報入手のために、贅沢品を指摘することで、啓蒙力を利用して国民の思想統一を図ったのである。
 種々に向く、その他大勢を一つの方向に向けさせて、統率しようとした。しかし結果的には空回りし、その指弾において『タカ』計画が持ち上がった。

 計画の指揮官は裏社会の毒蜘蛛を指名した。闇の策士に声を掛けた。それが沢田次郎であった。
 沢田は陋規を知る手練である。手練は闇の世界に通じた。この手練に陸軍法務官の権力を握らせ、併せて陸海軍の司法権まで握らせた。彼に計画実行者として暗躍する指揮権を与えた。
 また計画そのものも、表社会には出せない陋規の部分を含んでいた。行動が、これまで秘密裏に行われていたのである。そしていま、裏が表に顕われた瞬間であった。

 時は流れる。時々刻々と変化する。その中に時代もある。
 戦争状態にあるとき、戦局は日々変転する。旧態依然の古い考えでは支持者を失う。
 戦争は、戦争職人同士が戦場で戦っているのではない。背後がある。銃後がある。
 そして国民挙げての挙国一致が、戦場での勇戦の下支えになる。戦時下では、挙国内閣構造で国民全体が一丸となる必要がある。だが無理も生じる。「強制」という無理強いがあるからだ。
 この状況下では、銃後も間接的な准戦闘員のようなことを国家命令で遣らされる。
 だか、こうした背景に、物事が円滑に運ぶ道理はない。何処かに無理がいき、無言の不満が吹き上げ、それが支持層を失う元兇となる。

 贅沢は敵だ。あるいは贅沢品は敵だ。戦時では尤もだと思う。質素倹約を訴える美徳の響きを持つ。
 しかし、この標語には、他方から見れば無理がある。無理強いは欠乏状態を齎すからだ。
 例えば、持たざる生活困窮者は、持てる富裕者から見下され、侮蔑を受ける。足許を見られる。臆病で吝嗇家のように映る。そのうえ強調し過ぎれば、暗くなる。その影が昏
(くら)いものを引き寄せる。その暗い中に居る者は益々、暗さに惹き寄せられて行く。没落を暗示する。滅びの美学に惹(ひ)かれるようになる。
 特攻隊はその顕著な例でなかったか。滅びの美学から生まれたものでなかったか。
 これでは逆効果だ。
 暗くては意味がない。浮かぶ瀬もない。
 そこで心機一転、仕切り直しが要る。
 沢田次郎はそう考えたのである。


 ─────何とか此処まで漕ぎ着けた。短期にしては早い仕上がりであった。
 沢田次郎も、また三羽鴉を構成する鷹司友悳も来栖恒雄も最悪な分裂を招く“妄分別”に陥らなかった。
 今は、お披露目が成功裏に終わるだけのことを祈った。
 お披露目会場は第三十五師団佐倉歩兵二百二十一聯隊の広大な練兵場である。陸上戦闘を想定して、平地のみだけでなく、森林側には丘陵有り、河川有り、泥沼有り、塁壁有り、また有刺鉄線が張り巡らされた塹壕有りの戦場が想定されている。この区劃内に大規模な特設会場が設
(しつら)えてあった。内外の高位・高官を招くための特別観覧席まである。更には航空管制塔を模した仮設の鉄塔も建っていた。最上階の指揮所にはタラップ(trap)を登って至るような構造になっていた。

 この地域では、早朝から花火が打ち上げられ、お祭り騒ぎのイベント一色であった。
 この日、軍用バスとトラックが人員移送に、『ホテル笹山』と聯隊間を頻繁に往復していた。事は予定通りに運んでいた。更に幸運だったことは、数日前に梅雨が明け、七月の爽やかな夏の青空が一面を霽
(はれ)一色で包んでいた。懸念した雨天でもなく、曇天でもなかった。鮮やかな青であった。

 このお披露目を『黎明の祭典』と銘打ち、輝かしい次の時代への始まり告げるものと位置づけていた。
 総てのものには終わりがあり、どんな夜にも必ず夜明けが来る。
 如何なる辛い残酷な夜であっても、時間が経てば夜明けが遣って来る。永遠に暗い夜と言うことはない。黎明は必ず訪れるものである。
 夜が明けても灰色の時代なら、輝かしい夜明けは必要であろう。灰色の厳しい、昏
(くら)い、希望のない時代ならば、なおさら華やかな、光り輝く、新時代の未来は必要であろう。早々に切り替え、新たな仕切り直しが必要であった。

 黎明……。
 その位置づけを、全国に向けてラジオ放送で中継させるのである。その根回しも数ヵ月前から画策した。
 根底には「余裕を見せる」意図があった。そのために派手に石油を浪費してみせる。石油はこの時代、戦略物資であった。戦争をしているのなら尚更だろう。また食糧や鉄なども同じである。
 これが備蓄量は、「まだ二年以上もある」のポーズであった。まだ瀕死の末期状態にあるのではないと言うことを、内外に向けて宣伝工作をしなければならない。
 この場合、実際に有る無しは大して意味がない。無いでも、有るように思わせることが大事である。戦略物資が、未だに底を突いていないことをアピールする必要があった。まさに「兵は詭道」である。
 敵を欺
(あざむ)くことに有り。詭計を用いて敵を攪乱し、錯覚させ、誤算を起こさせることに有り。
 尋常でない。
 ヒトラーが謂うように「戦争は欺瞞
(ぎまん)」なのである。

 戦争は科学を進歩させるものである。
 一旦戦争が始まると、それに伴って最新兵器が登場する。その登場はまさにベストセラーだが、これがロングセラーで落ち着くようでは最新の次元からは置いてきぼりを啖
(く)う。まずベストセラーが誕生したら、それを叩き台にして次ぎなるベストセラーを短期で産み出さねばならない。物量戦の鉄則である。
 ベストセラーに落ち着き、これに胡座をかくと危うい。次ぎなるベストセラーが産まれず、そこで停滞するからだ。先の大戦では、零戦が顕著な例であった。
 零戦はベストセラー以来、度々改良されたが、零戦から紫電改に切り替わる前まで、このベストセラーが次ぎなる新機種の登場を妨げた。
 一方米国は、グラマンで零戦と互角以上に対抗し、防禦面では零戦をかなり上回っていた。熟練パイロットの生命は防禦面で守られていた。
 熟練搭乗員を養成するのに千時間以上の飛行時間を要するが、日本海軍では紫電改が登場するまで、熟練者を防禦するという空戦思想
(dog fight thought)はなかった。

 戦争とは、単に物量が物を言うのでなく、新商品の開発と、次ぎなる登場も重要な意味を占めるのである。
 旧態依然の変化のない武器で戦っても勝てないし、旧式武器で精神力を鼓舞しても、武器の格差が近代戦では勝敗を左右するのである。常時、新機種の発表が必要なのである。
 変わったことを知らしめることが、則ちプロパガンダ戦略である。

 更に、武器は人が遣う。
 戦艦でも飛行機でも戦車でも、それを遣うのは人間である。武器はあるだけでは用を為さない。宝の持ち腐れである。したがってそれを遣う人間側の伎倆
(ぎりょう)が問われる。熟練し、長じていなければならない。これこそがプロパガンダ戦略での要諦となる。高価な武器を持っていても、操作に長けていなければ、それは無きに等しい。
 夕鶴隊は、先ず遊撃戦を展開する上で、軽快車輛での行動律を「常山の蛇」と位置づけた。
 九二式重機関銃で武装した九五式小型乗用車『くろがね四起』を縦横に走行させる。
 時には散り、時には集まる。そして、「常山の蛇」の行動律に従い、二匹の常山の蛇は、躰は二つに別れていながら合体して一つになり、頭脳の双頭だけを残し、首・胴・尾が連携して動くように訓練されている。有機的な連動をもって動く。頭の何れかを攻撃されると、それに応じて、尻尾が巻き返して反撃を加える。
 反対に、尻尾に攻撃を加えると、頭が巻き返しにかかる。また中央が叩かれると、頭と尻尾が、両方から一斉攻撃を始める。そのように連動していなければならぬ。これを遊撃戦の理想としていた。そして威嚇以上の白兵戦はしない。
 疾風のように燎原
(りょうげん)の火の如く襲い、攻め尽くし、退くときは何も跡形も残さず消える。闘う時には闘い、退く時には跡形も残さず消える。消えて、闇があれば闇に溶け、緑があれば緑の中に溶ける。溶けて正体不明と為(な)す。姿を見せない。それだけに恐れられる。大軍でも神出鬼没に戦慄(せんりつ)する。詭道を地で行く者であり、これが遊撃戦の理想とされた。

 しかし、この戦闘理想を実現するには、余りにも資金が乏しい。
 世の中が戦時一色傾くと、軍をはじめとする中央省庁では国庫資金給付の締め付けで、国民の意志を戦争へと集中させて、それを自在に操作するため、国税主義を設定し、国民の繁栄は先ず無視される。国民を細らせても豊かにすることはない。搾れるだけ搾る。
 更には軍事費や財政投融資、ともに戦争状態にあっては凍結の必要を全く認めないのである。
 食糧手配においても政府管掌
(かんしょう)備蓄米の搬出に失敗する。物不足パニクックはこうした状態から派生する。これこそ国家の大計を誤ることであった。
 これを覆すには、遊撃戦の有効性を証明してみせねばならない。状況を造ってみせなければならない。
 そして本日のメインイベントの見世物は、キャサリン・スミス少尉を空挺指揮官とする第三班と第四班の空中陣形後の目的点着地であった。
 降下員は第三班の副島ふみを伍長
(班長)とする児島智子、守屋久美、宇喜田しず、島崎ゆりであり、第四班は山田昌子を伍長とする向井田恵子、佐久間ちえ、長尾梅子、押坂陽子であった。これを見せ付けることで木戸銭を頂く。

 祭典は先ず、午前の部と午後の部があり、前半は軍楽隊の演奏会のようなものであり、別に軍事パレードと言うのもではなかった。しかし午後の部になると、これが一変する。軍事色が濃厚になって来る。内外に向けて宣伝工作が目的になるからだ。
 午後の部は、野戦を意識して夕刻から始められた。
 一般のショーでも、午前と午後の二つに分けられるが、午前よりも午後の方が客席料金は高い。メインが集中するからだ。このお披露目は、主宰者の意図を含めて、敢えてそれを選択した。
 夏空の下では、夕刻の方は涼風が吹く。午後5時30分頃からの陸風が吹く、その涼ととともに開演した。
 もうじき暮れ泥みという時刻であったろうか。会場はそろそろ照明灯が必要になる頃である。
 10輛の武装四起の車輛行進から始まった。併せて軍楽隊の行進曲が演奏された。
 軽快な『君が代行進曲』に合わせて、九二式重機関銃で武装された車輛が静かに、静々と登場した。そのうちの1輛は、九八式20mm高射機関砲を据えた、ひと回り大きい『改造型武装四起』であった。
 夕鶴隊の総員は22名で、教官2名が加わって24名である。
 そして他の10輛は、午前の部から武装車輛として、一般公開されて展示されていた。無線搭載などもプロパガンダの一貫として、内外に公開していた。運動性も公開済みであった。

 1号車は参謀本部暗号班から引き抜いた霧島祥子が運転をし、助手席にはアン・スミス・サトウ少佐が車輛指揮官として起立している。2名乗りの九二式重機関銃を据えたピックアップ型の“武装四起”である。
 2号車は谷久留美が運転し助手席には女子武装挺身隊として選抜された親愛高女の生徒A子が、同じ制服を着てブローニング拳銃で軽武装し起立していた。
 以下、3号車は成沢あいで助手席には親愛高女の生徒B子。4号車は有村緑運転で助手席には親愛高女の生徒C子。5号車は鳴海絹恵運転で助手席には親愛高女の生徒D子。6号車は清水克子運転で助手席には親愛高女の生徒E子。7号車は青木文恵運転で助手席には親愛高女の生徒F子。8号車は栗塚さきえ運転で助手席には親愛高女の生徒G子。9号車は鈴木直子
(参謀本部暗号班からの引き抜き隊員)運転で助手席には親愛高女の生徒H子であった。
 最終車輛には鷹司良子運転で、砲撃指揮官は中川和津子、砲手は室瀬佳奈であった。彼女は視力がいいことと、射撃成績がトップであったからだ。
 1号車から9号車まで並び、最後尾の10号車は『改造型武装四起』で、車輛番号20番をつけた他よりもひと回り大きな九八式20mm高射機関砲を据えた特殊車輛が並んだ。だが、この車輛について、安定性や遊走性、遊撃性や砲撃時の即応性は不明であった。まだその実験が充分になされていなかった。未確認物体なのである。これらの車輛が勇壮なる姿を見せたのである。

 この姿を見ながら、特別観覧席にいる陸海軍高級軍人や政府要人達は、入場して来た車輛部隊に指し、傍に居る副官や周囲の人に対し、「あれが、わしの娘だ」と指をさすのであった。
 例えば、参謀本部兵站総監の霧島太郎中将は1号車を運転する、わが娘を指差して「あれが、わしの娘だ」とやれば、これに負けじと張り合い、軍令部兵務課長の中川直文少将は、娘の和津子に指をさし「あれが、わしの娘だ」と張り合うのである。親バカと言おうか。それだけ、この場は平和であった。
 全車輛は会場中央で横一列に、ほぼ45度の角度で次々に整列駐車した。観客に対して斜めに構えて、優雅美を魅
(み)せたのである。そして搭乗員は、車輛の前に出て、華麗に横一列にずらりと整列した。
 「頭
(かしら)ッーなか!」の号令が掛かると、車輛指揮官は敬礼をして、他は頭を中央に向けた。
 ラジオの女性アナウンサーは、「指揮官はアン・スミス・サトウ少佐です」と紹介した。
 そして魅了美の結果、会場から彼女達に対して拍手が巻き起こった。計算し尽くしたポーズであった。


 ─────大空に複葉機が飛んで来た。祭典半ばのことである。
 黄昏に差し掛かることである。奇しくも……という状況であった。
 のんびりと大空を航行していると言う感じの複葉機が、ぽっかり空に浮いていた。ただ一機である。
 しかし会場にいる何人かは「大体この複葉機は、何ものだったのだろうか?」と疑う者がいた。
 時間は黄昏といっても陽は沈んでいない。複葉機は太陽に入っていて、下から見ると色が釈然としない。黒なのか銀なのか、また赤なのかも……。
 この飛行物体に対し、空襲警報も警戒警報も鳴らなかった。
 そのときである。
 複葉機から爆弾が投下された。爆弾が異様な風切り音を立てた。
 「風切り板」から発生する「ヒューンー」という、尾を引く独特の音である。異様な音を立てて爆弾が会場近くに投下されたのである。それが、少しなられたところで爆発した。そこは人家もなく、人が集まっているようなところでもなかった。ただ投下されて、大きな音を立てて爆発したのである。辺りに地響きが疾った。
 巨大な炸裂音とともに、付近に大きな土埃
(つちぼこり)を巻き上げた。
 そのとき上空の複葉機を睨んだ2番車輛の谷久留美が「そんなことしたら、危ないじゃないのよ!」と大声で怒鳴った。あッ!と驚くような不意打ちだったからだ。《許可でも貰ったの!》という言い方だった。
 一体、爆弾を投下した複葉機は何ものだろうか。そして国籍は?……。

 B29
(米陸軍爆撃機)を東京方面に誘導して来た複葉翼の誘導機でだったのだろうか。
 この聯隊上空に飛来したのは、偵察を兼ねて“行きがけの駄賃”ならぬ、「帰りがけの駄賃」であったかも知れない。もし投下された場所が人家や聯隊会場の客席だった大惨事になっていたことだろう。そのうちの何十人か粉々に吹き飛び、即死者も出たであろう。
 あるいは複葉機は、地上の人間どもが何をしているか、上空から見物したのであろうか。
 それにしては、ただ一機というのは大胆不敵だった。「ただ一機」というのが曲者
(くせもの)だった。したがって防空監視員は、これを友軍機と見誤ったのだろうか。
 そのために防空管制下でありながら、空襲警報のサイレンが鳴らなかった。ただ一機が内陸部に侵入しているとは、誰も気付かなかったのである。編隊ではなく“ただ一機”が、友軍機と誤認したのだろうか。

 当時、本土空襲の初期時には誘導機が付いた。艦船搭載の索敵機や陸上からの偵察機がその役目をした。
 爆撃機には電波誘導装置を搭載しているが、受信されることを恐れて、敵機に発見され易いことなどで使用しない例もあったと言う。そこで、初期の頃は偵察隊が編制され、先頭に立って日本本土まで誘導して来たと聞く。誘導を勤める偵察機には、航法計算を専門に行う航法員を同乗させている。
 初期時はこの機が日本本土まで誘導してくる。この当時はコンピュータも電卓もない時代である。
 対気速度や進路、風に流されての偏差、侵入する予定進路計算は計算尺を用いて計算する。それを海図・陸上地図・天気図などに書き入れて推測位置を算出する。これは面倒なうえ、熟練を要した。そのため偵察機が後続機を誘導する。機内には数学者並みの計算員が搭乗する。この計算員を「航法員」という。運航指揮官である。
 それにしても「帰りがけの駄賃」に爆弾を投下した敵機は、大胆不敵だった。この、大胆不敵はそのまま通り過ぎようとせず、旋回して再び低空から侵入して、あたかも機銃掃射して、地上の人間を撃ち殺さんばかりの態勢で急降下して来た。それは、見ていて腹立たしいほどであった。
 これは、サムライのそれでなく、思い上がった蛮行であった。猛禽が猟をするように、大胆に突っ込んで来るのである。

 「佳奈!」良子は彼女に対して怒鳴った。佳奈は上空を見上げて、ぽかんとして放心しているようだった。
 良子は、気が抜かれたようになっている佳奈に向かって怒鳴った。《なにをぼんやりしているのよ!》と、彼女を叱りつけるように呼んだのである。
 「はい!お嬢さま」良子の侍女官は直ぐに吾
(われ)に返り、飛び上がるように返事をした。
 「行くよ!」それは《撃墜するよ!》と同義だった。良子の聲
(こえ)は凛(りん)と冴(さ)えていた。
 良子は、このときばかりは怒り心頭に来て、《赦せない!》という感情を先立たせたのかも知れない。あたかも身内・肉親が、上空から理不尽に襲われたという錯覚を抱いたのかも知れない。
 良子は無意識に、弾かれたような一つの動作で『改造型武装四起』の運転席のハンドルに飛びついた。彼女が運転席に飛び乗るとき、スカートの裾が乱れて、長靴下
(stocking)の上からであるが、太腿が露(あらわ)になった。まさに、女は怒らせたら怕いということで、形振り構わずであり、母性本能的な動きであった。

 良子は、九八式20mm高射機関砲を据えた『改造型武装四起』に飛び乗り、エンジンを掛けた。
 彼女はこれを命令違反などと微塵の思っていない。その場の怒りに任せた感情であった。お目玉はその後に貰えばいいと考えていた。行動が先立ったのである。感情が彼女を動かしていた。あたかも最愛の末子を隠された鬼子母神
(きしもじん)の忿怒(ふんぬ)であった。それだけに冷静さに欠いていた。
 もはや「冷静」などという悠長な次元でなく、良子は“荒く猛き神霊”と化していた。荒らぶる神の如きだった。敵パイロットは、その荒らぶる神に触れたのである。触らぬ神に触ったのである。だがこれは事の成り行きであった。挑んで来た以上、迎え撃つしかない。怯
(ひる)むわけにはいかない。
 良子に、ほぼ遅れて佳奈も銃座に就いた。動き出している『四起』の砲撃指揮官席に和津子も飛び乗った。
 彼女も無言だが《わたしを置いていかないでよ》という感じだった。砲撃指揮官がいるのである。
 和津子は指揮官席
(助手席部分)の仕切板(dashboard)下の収納函部から、高射角度を射角計算する射撃表を取り出し、敵機と、“さし”で渉り合う進行方向を指令した。
 和津子は仕切板下に仕舞われていたマイク付きヘッドホーンを、それぞれに配布し、直ちに全員に装着を命じた。
 「良子さん。今のは、陰影からして、米海軍の『グラマンJ2Fダック』よ。水陸両用の複葉機。この機は爆弾もしくは爆雷を搭載している。いま投下されたのは、おそらく45kg陸上爆弾と思われるわ。でも、あと一個抱えている。投下したのは一個だけ。
 あれをもう一度、人が大勢居る会場で遣られたら大惨事になるわ。会場には子供や老人の非戦闘員も沢山いるのよ。また、この複葉機には、7.62mmのブローニング旋回機関銃を後部に武装しているの。機銃は空中戦のもので、地上に向けては撃てないけど、旋回時には可能かもね。乗員は3名ないし4名。急がないと時間がないわ」
 明大女子部の中川和津子は、同大学の山田昌子とともに、英語が堪能なのを認められて、参謀本部第十八班に出仕していた。この班には参謀本部第二部から廻されて来る暗号電報や、米国軍事情報を逸早く知ることが出来た。和津子が『グラマン・ダック』に詳しかったのはそのためであった。米海軍はフリゲート艦以上の艦船に索敵機として搭載し、『ダック』を実戦配備しているからだ。

 良子はこの情報に基づいて三名の場合、パイロット一名、航法員一名、後部銃手一名。そして四名の場合、パイロットは二名いるのだろうと分析した。
 「分ったわ」
 和津子の懸念は他にもあった。
 彼女が「急がないと……」と付け加えるのは、本日のメインとなる落下傘降下での「空中陣型」の披露があったからだ。降下員は落下傘が開いた後は、ぶら下がっているだけで何秒間かは完全に無防備になり、敵の銃弾を躱
(かわ)すことは出来ない。無慙(むざん)に機銃掃射されるだけである。もし生き残っても、何の防禦もなくでは、おそらく不具に化すだろう。和津子は起こりうる最悪の事態を総て想像していたのである。
 そのとき彼女は腕時計を覗いた。秒読みをするように時間を気にしている。貌には深まる憂色があった。
 「あと5分しかない!……5分後にはN基地から、九七式輸送機が飛んで来る。本日の祭典のために夕鶴隊の降下員が、キャサリン先生以下、五人ずつが、それぞれ二機に分乗して搭乗している。
 『ダック』には、旋回機関銃が装備されているわ。早くしないと
(撃墜しないと)輸送機もしくは、降下員が機銃掃射されるかも知れないわ!」和津子が悲鳴に似た大声を張り上げて怒鳴っていた。その聲(こえ)が、ヘッドホーンの中でびんびん響い来るのである。

 「そんなこと、絶対にさせるものですか!」良子が怒鳴り返し、巧みに武装四起を操った。
 彼女には滲透
(しんとう)なる決意があった。怯む容子(ようす)は、全くない。
 「砲手ならびに運転手に命令。敵機は右2時方向、侵入角10度で侵入。砲手は射角10度!運転者は右2時方向に直進および修正」和津子は砲撃指揮官として、角度修正をする側角手を併せて兼務している。
 本来は、九八式20mm高射機関砲を発砲するには側角手がいる。武装車輛は計4人で運行する。それを今は和津子が兼務していた。それだけに臨機応変であり、また彼女の行動は凛然
(りんぜん)を思わせた。
 これは間接的ではあるが、遊軍的な戦闘思想が育ちつつあった。そもそも夕鶴隊は、機動性を主眼に組織された遊撃隊ではなかったか。
 沢田次郎が掲げた「毅然・清潔・淑女」の三つ誓いの裏には、一方で「常山の蛇」の有機的な仕組みを為すのが目的ではなかったのか。最初は急拵えの寄せ集めであったが、その一部が、いま動いているのである。
 「射角10度」砲手の佳奈が復唱して、その通りに構えた。彼女は視力の良さを買われて、これまで特殊訓練を受けきていた。既に発砲経験がある。高射機関砲の操作に関してはある程度熟知していた。

 射角10度と言うのは、対空射撃ではかなり低い。九八式20mm高射機関砲の射角は、−5度から85度までである。こうなると激突戦で、まさに“さし”の勝負であった。
 「運転手は、そのまま直進!」和津子は前方の空を睨んで、指揮棒を指して方向を指示した。
 良子は目一杯アクセルを踏んで、加速を上げた。武装四起は確
(しっか)りと地面を捉えていた。
 敵機は急降下から水平の体勢を執
(と)って、“さし”で「一騎打ち」のような水平飛行を整え、真っ直ぐに『改造型武装四起』に向かって来る。機銃掃射体勢である。猟るか、猟られるかであった。

 「撃て!」和津子が指揮棒を指して命令を飛ばした。
 佳奈は九八式20mm高射機関砲の“肩当て”にピッタリと当て、発令とともに付け引金を引いた。機関砲は凄じい勢いで吼
(ほ)えた。
 機関砲の函型弾倉には20mm弾が20発装填してある。対空では、最大射程距離が3,500mである。発射速度は毎分300発を連射する。
 機関砲弾は先ず10発が連射された。威嚇
(いかく)としては充分であった。
 砲手は撃つ場合、その弾数を数える。常に残り弾を考えるのである。この日、機関砲には、僅かに一函分しか装填していなかった。
 最初の攻撃は僅かに外した。しかし威嚇としては充分であった。敵機のパイロットも、これだけで充分に肝を冷やし、震え上がったに違いない。
 しかしである。

 世の中には、古今東西を問わず、何処の国にも蛮勇がいる。“性懲
(しょう‐こ)りもなく……”というこの種の手合いがいる。
 米国にも多い。多民族国家では、その種属が多い。米国は多民族の見本市である。
 彼
(か)の国は“女性尊重(ladies first)”の国だが、英国植民地時代の「女が少なかった」という名残から起こったもので、女性優先はピューリタニズムに基づいたもので、根底には日本以上に、男尊女卑の思想が根付いていた。か弱き女性を優遇するのが、女性を人格ではなく、物として扱っていたからだ。
 かの国では歴史的に検
(み)ても、女性が男並みに銃を執って闘ったと言う近代史は殆どない。それはハリウッド映画の世界だけである。清教徒以来、女性は淑(しと)やかなものと相場が決まっていた。

 むしろ日本の方が、女性は男並みに闘った歴史は多い。
 会津戊辰戦争のとき、会津藩上士の娘であった中野竹子は、直ぐに『娘子軍
(じょうしぐん)』を組織した。竹子を指揮官とする『娘子軍』を組織して、薩摩と土佐からなる官軍と勇戦した。
 同じ時代の長岡攻防戦にも、約百五十日間、官軍と交戦した集団があった。女子供老人で闘った戦いが百五十日というのは、ギネスブック物である。
 この戦いでは抵抗集団が武家の子女を中核に、年寄りと子供が枝葉となり、薩長の官軍と長期戦を闘ったのである。組織の中核になったのは、日本の武家の子女たちであった。サムライの娘たちであった。

 『娘子軍』の名の由来は、唐の平陽公主が女性だけで組織した軍隊をいい、父の高祖を助けて天下を平定したことに因
(ちな)む。この由来は日本にも届いていた。武士の娘は、一度事があれば身を挺して、命を投げ出して闘ったのである。
 それに引き換え、徳川幕臣の旗本・後家人からなる慶応四年の上野戦争
(1868)での「彰義隊」は、僅か半日という何ともお粗末なものであった。徳川家からの禄(ろく)を食(は)みながら、この態(ざま)であった。

 娘子軍……。国難に至れば、女性の力は凄まじい。
 また大戦末期にも、日本軍の中には名人級の女性狙撃兵がいて、数十名の米兵を狙撃して震え上がらせたことは、よく知られることだし、大陸でも舞台の殿
(しんがり)として、愛国婦人会の一人の女性が、九二式重機関銃を乱射して、八路軍の侵攻を一時間以上阻止したという話がある。
 “いざ”となれば、豪語を垂れる男どもの方が情けなかった。有事に不言実行を示したのは、むしろ女性の方であった。

 このときの“さし”の勝負も、「白蘭
(びゃくらん)の日本女性」対「日本を侮ったヤンキー野郎」の構図であった。ヤンキー野郎の『ダック』は180度の弧を描いて旋回し、一旦高度を上げ、その位置から急降下して水平飛行に移り、攻撃進路に入って再び白蘭を襲った。地上の追撃者を女と検て、甘く見たのだろうか。
 再び、“さし”の勝負に入った。
 この場合、先に怯
(ひる)んだ方は、激突する前に臆病風に吹かれて方向を躱(かわ)す。口先ばかりの懦夫(だふ)は「逃げ」の態勢となる。そして生死を決めるのは、勘と度胸であった。

 しかし白蘭は、怯まずにまっしぐらであった。何処までも直進した。前方の小高い丘をジャンプ台にして、敵機と体当たりして激突することも辞さない突撃体勢であった。その凄まじさに一瞬怯
(ひる)んだのか、ヤンキー野郎は、僅かに方向転換を図った。これで“勝負有り”の構図となった。尻込みしたのである。
 その隙である。
 和津子が佳奈に「撃て!」と吼えた。
 指令は、敵機が方向を躱
(かわ)すのと、同時の刹那(せつな)であり、残り弾数を考えて5発を連射した。そのうちの1、2発が敵機の左翼を掠(かす)め、翼の燃料タンクをぶち抜いた。やがて黒煙を上げ、不時着せんばかりの状態に陥ったのである。エンジンに異常が起こった。火を吹くのも時間の問題であった。

 そのとき〈撃墜しては駄目です!捕らえなさい!〉という聲
(こえ)が、無線器を介して車内の拡声器から響いた。それをヘッドホーンでもキャッチしていた。アン・スミス・サトウ少佐の聲だった。
 『改造型武装四起』は敵機の不時着先を追っていた。そして更に、発射角の最大角を85度にして、再び上空に残り弾を連射した。これは〈強制着陸セヨ〉という合図の警告弾である。命令に従わねば、撃墜するという意志表示でもある。

 武装四起の後を負って、憲兵隊のサイドカーやトラックが全力で追い掛けて来た。聯隊の消化班のトラックもそれに続いていた。
 敵機は着陸体勢に入るとき、大石や窪
(くぼ)みなどの障害物で、バウンドして車輪軸が折れた。その後、機は滑るように、胴体着陸して何本かの樹木を薙(な)ぎ倒し、大木に激突して停止した。すると機体から、もくもくと黒煙を吹き上げた。数秒後には発火して、爆発炎上するだろう。
 中には三人の米兵が乗っていて、一人が、気絶している二人を助け出そうとしているところだった。
 「爆発するぞ、機から早く離れろ!爆弾に誘発するぞ!」
 後から追って来た憲兵隊の一人が、大声で叫んでいた。『ダック』はまだ爆弾一個を抱えていたからだ。
 その聲を無視した良子以下三人は、まず武装四起を炎上機から遠くに離して停車さた。車輛への誘爆を避けるためである。
 そして一目散に不時着機に駆けつけた。救助である。勝負がつけば敵も味方もない。
 彼女らは太腿も露に、複葉翼の下翼に駆け上がって、機内に取り残された米兵を、外に引き摺り出そうと救助に徹した。彼らを機外に退避させようとした。そして遂に、彼女ら三人と無傷の米兵一人の併せて四人が、負傷した二名を安全圏まで引き摺り出し、無事、救助に成功したのである。自他ともに幸運だった。
 その後、不時着機は炎上し、爆発した。恐ろしい熱風と轟音が周辺を烈しく振動させた。轟音が一瞬耳を聾
(ろう)するばかりであった。反射的に後退(あとずさ)りを覚えるほどだった。まさに間一髪である。

 良子にしてみたら、こちらの強制着陸の命令に従って、着陸した米国兵は、もう敵でなかった。降参しているのである。敵でない者を見殺しには出来なかった。人類としては、国家の垣根を越えた同胞だった。
 米兵三人は白人であり、その場で憲兵隊に逮捕され、トラックの荷台に押し込まれた。三人のうち、二人は躰の数ヵ所を負傷していたが、命に関わるような重傷ではなかった。

 そのとき憲兵隊のトラックの助手席から、鮮やかな赤文字の「憲兵」の腕章を付けた曹長が降りて来て、彼女らに命令を伝えた。憲兵曹長はトラックの装備された無線で、命令を受けたのであろう。彼は戦闘態勢で略帽を被り、顎紐
(あごひも)を締めていた。
 憲兵曹長は、先ず彼女ら三人に敬礼した。敬意の敬礼である。
 「自分は東京憲兵隊S分隊の安達曹長であります。捜索隊の指揮官であります。今の、あなた達の勇気は、心から感服致しました。ただ一つだけ質問したいことがあります。なぜ撃墜しなかったんでしょうか。そればかりは、どうしてわが身の危険を冒してまで、米兵を、爆発寸前の機内から助けたのでありますか?!」
 「敵は強制着陸命令に応じました。これは降参したからです。降参した人に、どうしてこれ以上、無用な仕打ちや、生命に危害を加える必要がありましょう」
 良子は、自らの信条を諄々
(じゅんじゅん)と説き、静かに諭(さと)し、静かだが、それだけに態度は毅然としていた。
 これを聴いた憲兵曹長は、思わず「うム!」となって言葉を呑んだ。的を得ているからである。
 「降参した人に危害を加えることは戦時国際法に違反します。また武士道に外れます」彼女の語に裂帛
(れつぱく)の気合いが裡(うち)に秘められていた。
 更に曹長は、この言葉を聴いて、彼女の炯眼
(けいがん)に益々感服を覚えた。
 「よく分りました」一礼をした。
 憲兵曹長は、これこそ胸を張れる回答だと思った。そこが爽やかに思えた。更に、彼女に感動を覚えた。晴れ晴れとした貌で、これまでの疑問が解けたと言う貌になっていた。
 「お分り頂いて光栄です」と良子。

 だが、その後を付け加えた。
 「鷹司候補生以下三名は、直ちに指揮所本部に出頭せよと厳命が下っております。至急お戻り願います」曹長はそう言い放った。
 彼が敬語を遣ったのは、階級に関係なく、彼女らの行為に感服しているからである。敬意がそのまま言葉になったのであろう。
 彼女ら三名は、その場で直立不動で敬礼した。
 曹長は上官礼に従い、後は軽く、短い返礼を返して、言い終わると、軍刀と南部拳銃を納めた拳銃ケースや手錠を納めた手錠ケースなどの中身の金属類の音をガチャガチャと響かながら去って行った。
 憲兵曹長は、階級章の横に幹部候補生バッチこそなかったが、言葉遣いといい、顔かたちたや年齢からいっても、学徒兵であることが窺われた。憲兵を志願するくらいだから、何処かの大学の法学部の学生であろう。
 二十歳そこそこの憲兵であった。
 憲兵隊がトラックを発進させようとしたとき、荷台が騒がしいようであった。部下の憲兵が「曹長殿、米兵が何か訴えておりますが」と言うのである。捜索隊の指揮官の曹長が降りて来て、米兵と、何やら話しを交わして、再び彼女らの方に駆け寄って来た。この曹長は英語が喋れるようであった。

 「米兵達が、あなた達に一言、お礼が謂いたいそうです」憲兵はニコニコしながら喋った。
 「えッ!わたしたちに?……」驚いたように和津子が訊き返した。
 米兵三人は負傷をした者も含めて、横一列に並び、誰かが" Attention
(気を付け) "そして"salute(敬礼)"と言って、彼女達に敬礼した。
 彼女達も慌てて答礼を返した。
 敵兵も、礼を知る者達であった。
 再び荷台に押し上げられて連行されて行った。
 良子は思った。
 もし、戦争ではなく、違った時代に、「あの人達に出遭っていたら……」と思うのである。
 もしかすると、彼らはアメリカ民謡に出て来る“紅
(くれない)の空を高く、鳥は鳴き飛び……”の郷愁を想わせる「峠の我が家」で育った人達であったのかも知れない。良子はそう思った。
 彼らは二十代前半くらいの海軍士官で、カレッジ以上の出身で、それなりに教養を持ち、開戦時の日本海軍の理不尽な奇襲に対し、"Remember Pearl Harbor " で立ち上がった志願兵であったかも知れない。
 ちなみに、戦前・戦中の米国の大学生と日本の大学生との違いは、米国では軍事教練でも自ら進んで参加したが、日本では如何にして軍事教練をサボるかにあった。日本の高等学校
(旧制)以上の学生は、如何にして軍事教練をサボり、上手く卒業するかの要領に、心を砕いていたようである。この点も、日本が戦争に負けた要因の一つになろう。

 「わたしたち、これから叱られるわよ、勝手に動かしたんだから」和津子が釘を刺すように言った。
 「覚悟の上よ、叱られても構うものですか」と、にっこり笑って良子が頷いた。
 「お伴します」と、二人に相槌
(あいづち)を打つように佳奈が言った。彼女も叱られることを覚悟した。これも浮世の義理だろうか。三人は互いに貌を見合わせ、肩を竦(すく)めて苦笑した。
 しかし彼女達はまだ“実戦を遣った事”に気付かないでいた。夢中で行動しただけのことである。

 三人は、突然聴こえて来た飛行機の爆音に、ふと空を振り仰いだ。その視線の先に、紅の複葉翼の練習機一機が“赤とんぼ”のように夕日の炎に染まって、霞ヶ浦方面へ翔
(か)け抜けて行った。霞ヶ浦航空隊の飛行練習生(予科練)が基地に復(かえ)るのであろうか……。
 西南上空は鮮やかな朱色であった。空は、かなり赫々
(あかあか)と染まり始めていた。この風景は決して長閑(のどか)とか、牧歌的と言うものでなかった。況(ま)して、故国の感傷的風景と云うものでもなかった。
 戦争をしているのである。その只中の朱色の夕空だった。その朱色が、人間の流す血の色を思わせた。

 「ねェねェ、一句できたわよ」と、良子が《ねェねェ聴いて》という感じで和津子に聲
(こえ)を掛けた。
 「どんな?」
 「夕空に復りを赤とんぼ」
 「復りを急ぐ赤とんぼか……」和津子が感傷的な言葉を吐いた。
 「わたしたちも戻りましょうか。これで一件落着ね」何か用事を済ませたように良子が言った。
 「でも……」と、和津子が何か思い出したように呟いた。
 「でも、なあに?」良子が訊き返した。
 「わたしたち、これから何処に復るのかしら?」
 「えッ?……」
 「わたしたち、いま本当に、実砲で実戦を遣ってしまったのよねェ」と、改めて思い当たったように和津子が言った。それは《本当に怕
(こわ)いことをしたのよ》という言い方だった。
 「えッ?……、実戦?」驚いたように良子が訊き返した。実戦と云う言葉が改めて重くのしかかった。
 「やはり戻る以外ないのよね」促すように和津子が諭した。戻るとは実戦への参加だったのだろうか。
 それは今までの夕鶴隊の隊列に戻るという意味で、敵愾心
(てきがいしん)とか、祖国肉親の怨みに還るということではなかった。敵愾心は決してなかった。思えば「敵」という概念や意識が釈然としないのである。
 そして良子の心には、釈然としないものが泛
(うか)び上がった。
 闘いが終われば、人間としては同胞なのだ。敵も味方もない。だが“なのに……”と思うのだった。

 当時の日本人は「敵性」と言う“坊主憎けりゃ袈裟まで憎し”という概念を植え付けられたが、それは内務官僚が振り回した憎悪論が前提となっていた。それだけに官僚どもは、軍隊官僚を含めて、敵を余りにも知らな過ぎた。この辺が日中戦争の泥沼に誘い込まれて、喘
(あえ)ぐ現実を招いた。
 蒋介石が指摘した「日本軍は己を知らず敵を知らず」であった。彼は官僚どもの愚を指摘したのである。
 特に軍隊官僚の無智は、甚だしいと詰
(なじ)った。
 単に彼らは、敵を口で罵
(ののし)り、それでいて物理的な威力を持つ武器を製造する敵に対しては畏敬し、恐怖し、敵を殺せるなら一人でも多く殺したいという戦争指導をした。国を挙げて、熱狂的な愛国主義に駆り立てた。「聖戦」という欺瞞(ぎまん)の衣装で粉飾し、国民を欺瞞の渦の中に引き摺り込んでいった。

 日本軍が辛うじて「サムライの日本軍」として評価を得ていたのは、昭和12、3年頃までの衣食住を確保出来たころまでの軍隊であろう。しかし、サムライ精神は日米開戦とともに崩壊に向かった。
 裏を返せば崩壊の裏に、石油を牛耳る国際経済資本
(メジャーズ)に「やられた」というべきであろう。



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