運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 43

古代、防人(さきもり)と言われた兵士がいた。これらの兵士の多くは、東国から徴発されて筑紫・壱岐・対馬など北九州の守備に当たった無名の戦士だった。「さきもり」は、崎守(さきもり)と言う字を使い、万葉集にも「防人歌(さきもり‐の‐うた)」として歌われていることで知られる。
 この令は三年を一期として交替させる規定になっていた。

 無名戦士……。
 無名の響きとイメージからその他大勢、大多数、そして微生物的弱者を連想させる。それだけに微生物然の命は安い。
 その安価な命の値段は、如何ほどであろうか。
 世に不思議な不文律がある。金持ちの一円は盗んでも駄目だが、貧者の一万円なら盗んでも構わない。つまり、これが貧者の命の値段である。

 既に記載したが、かつて「女子挺身隊」という組織があった。この組織は、戦争終結とともに解散しなかった。敗戦時、再び「女子挺身隊」が組織された。その理由は、庶民層から組織された女子挺身隊は、財閥の令嬢・高級軍人の令嬢・華族の令嬢などの子女が占領軍将兵の性の生贄
(いけにえ)になることを、半ば強制されて組織されたものである。女子に対して、学徒動員令は敗戦後も残った。
 庶民層と言う愛すべき微生物の命の値段は、自由・平等の世の中になっても、相変わらず安価だった。


●賄賂術

 何処を標的にするか。
 沢田はお膳立てとして、近衛文麿の「近衛グループ」と、有馬頼寧の「朝飯会」
(荻窪会議)を挙げた。
 j此処には陸海軍の反戦争継続強硬派や反東条派が寄り付くばかりでなく、“あと二年分の石油”を秘匿する財界の大物が出入りしているからである。此処は講和派の温床であり、またその仲間内の政界人が出入りする場所であった。
 表面上は現在の戦争指導者に反対の立場をとり、時代に何らかの影響力を持つ経済人の集まりでもあった。
 彼らは実質的には影の既成勢力であり、国家や市民社会、伝統や文化において様々な次元で影響力を及ぼす組織体制を整え、特に政策上の意志決定に対しては、あたかもエスタブリッシュメント
(establishment)のような力を持っていた。その産物として大政翼賛会が挙げられる。また、経済人の大日本産業報国会である。
 この産業報国会はコンツェルンを形成し、官製労働者組織を支配した。形成の目的は労資協調や戦争協力であり、日中戦争期の昭和15年に結成された。貌としては日本政府への「影の協力者」であった。この組織は軍需産業などに多大な影響を与えつつ、大戦敗北まで継続した。
 この全国組織の中に、沢田次郎の息の懸かる手下
(てか)が組織内部の奥深くに潜入し、情報を蒐集していたのである。陸軍法務官の沢田は、全国の手下に檄(げき)を飛ばして内部調査を命じた。
 また沢田の手下は満洲をはじめとして、支那
(中国)、内蒙古、チベット、ソ連国境付近、東南アジア諸国にも散らばり、この組織の長(cap)の暗号名を『梟(ふくろう)の眼』(owls- eye)と呼んでいた。
 これを組織したのは、沢田次郎の養父である伯爵・沢田翔洋であった。養父関係の父子でも、互いに喰えないしたたかな一面を持っていた。養父の翔洋は、維新の功労者の先祖を持つ。親子共々、双方がアウトロー的なのは、持って生まれた天性の才であったかも知れない。

 沢田翔洋は表の貌は『沢田貿易商会』の代表取締で、裏の貌は武器商人で、陸海軍の御用商人であった。言わば『梟の眼』は沢田貿易商会の「経済眼」であり、所謂
“政商”という貌が正体だったのである。
 しかし、公爵・近衛文麿とは別の貌で動き、戦前から英国とは深い関係にあって、その関係は極めて良好であった。更に伯爵・沢田翔洋と信頼関係を結んでいたのが、子爵・鷹司清隆であり、鷹司家は平安の世からの旧華族であった。反岩倉派の公家
(改革派)で、皇族に多くの縁者を持っていた。
 鷹司友悳
(とものり)は鷹司家の次期当主であり、また鷹司財閥の御曹司であった。
 以上の構図から見えて来るものは、水面下で、日本同士の経済戦争は企てられていたことになる。
 つまり、近衛文麿ならびに華族の反逆児・有馬頼寧
(よりやす)に対し、鷹司清隆と沢田翔洋、更には日本人貿易商の佐藤信夫らの連合組織である。そして後者の組織は英国に近い思想で、英国王室にも戦前より深い関係を持っていた。

 ロイヤルファミリーの一員であるアン・スミスやキャサリン・スミスの姉妹が鷹司家の庇護で、幼少の頃、日本で育ったというのは、こうした関係からであった。
 またアンの良人・佐藤信夫は、伯爵・沢田翔洋と古くから親友関係にあった。そして佐藤は、沢田翔洋の勧めで、アンと婚姻したのである。背景には政略結婚の匂いが否めない。
 また年齢的に言っても、アンは27歳で、佐藤信夫は62歳である。双方の年齢が奇妙で、この夫婦は良人の佐藤が上海に居て、アンが日本内地に居た。婚姻は戦略的に検
(み)て表面的な繕いであり、世間を憚っての目眩ましであろう。
 以上を追うと、勢力図が見えて来る。大別すれば隷属派
(国際協調派)と改革派(民族改革派)と対峙である。
 これを全体構図から検
(み)ると、“近衛文麿の米国・中国・独逸寄り組織(国際協調派)”対“鷹司清隆の英国・仏蘭西寄り組織(民族改革派)”の対峙(たいじ)が浮上して来る。平安貴族同士の派閥対峙である。
 それにしても国際協調派の連合構図は実に奇妙である。
 露骨ではないが、FRB
(連邦私立銀行群)が中国(国民政府の高官であった蒋介石夫人の宋美齢)を経由してナチス独逸軍事顧問団を抱き込ませ、国民政府軍に武器供給を促し、ヒトラーに多額の軍資金を貸し付けた事に注目したい。ヒトラーは、FRBへの借金返済のために、日本と中国が戦う構図を作ったのか?

 一方、ナチス独逸が中国に張り付いて軍事顧問団を送り込み武器供与をしていたのは、米国FRBがナチス独逸に多額の軍資金を貸し付けたことによる。ヒトラーはこの軍資金により、次々に有効な対外政策を打ち立てて行く。その一つが、中国への軍事援助であった。
 中華民国軍の最高軍事顧問は、独逸のアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将であり、中国軍を日本軍と戦わせて、日本を、大陸の「泥沼の戦い」に誘い込んだ張本人であった。日本は不可解にも、間接的には軍事同盟を締結した独逸と戦っていたのである。当時、この不可解なトリックを見抜く日本人は居なかった。
 中国軍の指導者・蒋介石の夫人は、宋美齢
(そう‐びれい)である。また彼女は米国に留学し、1927年(昭和2年)、蒋介石の後妻となった。またフリーメイソンである。国民政府の要職を歴任して、かの西安事件や対米外交に深く介入していた。
 なぜ中国が、ナチス独逸と軍事提携が行われていたか、この構図から当時の極東状勢が見えて来よう。

 日米大戦前、昭和16年11月時点で、“二年半分”もある石油備蓄量を陸海軍に「半年分しかない」と言わせたのは近衛文麿の差金であった。沢田次郎は政財界への潜入捜査で財界人の嘘を見抜いていた。
 近衛の影響力が大であり、新体制運動と直結していた。それらの大物経済人に対し、『要視察人』としての沢田は、俄芝居を企てる策に出た。
 大物の弱点はないにか。それは「長
(おさ)になると見えなくなるもの」である。それは三つある。

 一つは金である。
 長になると職権や役徳で、金の遣い道が自分勝手に好き放題になるから、金の価値が分らなくなる。贅沢になれてしまう。役徳・役分に溺れる。併せて賄賂に溺れる。

 二つは人である。
 大勢の取り巻きが増え、傅
(かしず)かれるからである。傅く取り巻き連中は、自分の耳障りのいい者ばかりの集団になり、口先上手の追従者の類で溢れ出す。その結果、直言する側近が皆無になって、真実が陰に隠れてしまう。そのために長は、真実が分らなくなる。また、そうなると必然的に耳障りの悪い者を遠ざけれしまう。賢人が愚人に成り下がる瞬間である。
 聡明な賢者でも、直言を聴かなくなり、調子のいいことばかりを耳にすれば、幾ら賢人といっても、最後は馬鹿になる。

 三つは人の貌である。人の貌が見えなくなる。
 特に、底辺庶民の貌の向きがどちらに向いているか分らなくなる。長は、雲の上の存在である。自他ともに偉いと認めている。高く上れば、下が見えなくなり、最下位の貌など分ろう筈がない。その他大勢の最階位の微生物の貌など、どれだどれか判別つかなくなる。みな同じような微生物と看做してしまう。
 斯くして価値観が崩壊する。
 もしかすると例えば、メザシが何処で捕れるか、パンが何から出来ているのかも知らないだろう。
 その、元の色すら知らないかもしれない。人の上に立つ者は、流れ作業の形式のみに流される。日常の普段着で振る舞う非公式な、形式張らないものからは遠ざかってしまう。それでは庶民の貌は見えない。
 金も人も貌も、総て分らなくなっている。この権力と言う“蠱”が憑けば、人間は脆
(もろ)くなる。権力と言う魔力の効いた世界に一度足を踏み入れたが最後、世界の見え方が変わり、思考も感情も欲望も総てが畸形にある。敵を叩き潰す闘争力の誇示も、嘘も非道も、権力一辺倒の魔力で回転し始める。
 一方、そこが権力の盲点となる。人謀をもって取り憑くとしたら、その箇所だった。

 既に『タカ』は発令された。三羽鴉が練りに練った作戦である。
 もう、計画段階ではない。後戻り不可の実行段階に突入していた。
 大陸での信憑性の捏造と、内地での天一坊式の『伊東方式』の同時進行である。それぞれが一世一代の俄芝居を打つ。兵は詭道なり。術者は必ずしも正直者でなくていい。欺
(あざむ)くことを兵法者の旨とする。
 そのためには機略で標的に迫る。
 かの明智光秀すら、「仏の嘘を方便と言い、武門の嘘を武略と謂う」と言っているではないか。謀って、何が悪かろう。政治は欺瞞
(ぎまん)に満ちているではないか。
 海千山千の群れ合う欺瞞の世界に、真面目と正直を持ち込むのは愚である。

 毒は喰らってみなければ恐ろしさは分らない。毒を知るには毒を喰らって、初めて恐ろしさを知る。
 もちろん死なない程度
(致死量外)の毒である。毒を喰らい過ぎて死ぬようでは、お話しにならない。
 ゆえに普段から毒に耐性を付ける。耐性の付いた毒の内包者は凄まじい。毒蜘蛛も毒蛇も、自分の毒には当たらないものである。彼らはその毒で死ぬことは無い。
 悪もそうだ。
 悪は、悪を知らねば、悪の恐ろしさは分らない。
 つまり、悪事を働けない人間よりも、悪事を働くことが出来て、悪事を働かない悪党の方が、悪の処方箋は知り尽くしていることになる。そういう悪の内包者は、その悪に自分が懸からない。猟られることはない。
 例えば、いい刑事とは悪事を知り尽くした毒の保菌者のことだ。悪も毒も知らない、お行儀のよい、可もなく不可も無い善人は、いい刑事にはなれない。安全圏の住民では、悪は観察出来ない。何もしない善人は悪に対して論ずることができても、それは想像の域を出ることはない。論じたとしても、想像による思い込みの論である。八方美人的な、当たり障りのない安っぽい正義論である。


 世の中では、あの人間は悪党だと言う。
 だが、悪党というのは、よく考えると何処が悪党か、なぜ悪党呼ばわりされるのか、結局は分らない。
 それは見方によるからだ。したがって、検
(み)る角度を変えれば、悪党に対する見解が違って来る。権力に収監されるから、悪党だとする見方は正しくない。
 特に政治犯や思想犯は、見方を変えれば、たいてい善人である。悪党の欠片
(かけら)も無い。
 悪を知らない善は、本当の善では無い。無力なる善であり、悪党より始末が悪い。その最たるものが、可もなく不可もなくの、この種の善である。沈香
(じんこう)も焚かず屁も放(ひ)らずの、この種の善である。悪人でないと自称する善である。しかしこの善ほど怕いものはない。
 たいてい大成者は、若い頃から沢山の悪を知り尽くしている。それでいて、悪事を使わないとなれば、その悪党は、並みの無力な善人以上に善人である。悪を知った善。挫折を知った上での前進。それを知っている。
 そういう悪党的善は偉大な善であり、またそれであるからこそ、人間的な魅力が漂っている。

 『タカ』には三本柱があった。
 まず一番目は、大陸での信憑性造りは、津村陽平とその率いる貧弱な老兵部隊が担う。
 二番目は、一方内地の『伊東方式』の役者は鷹司友悳と来栖恒雄、それに沢田次郎の三羽鴉が担う。
 三羽鴉は文殊の智慧を出し合った。智慧の出所は、それぞれの人間性に対する深い信頼である。個々人の異種能力である。その人でなければならない“持ち場能力”である。これをそれぞれが持ち場で担当する。

 更に三番目として、最大の小道具は、アン・スミス・サトウ少佐率いる夕鶴儀仗隊だった。
 無き権勢を、在
(あ)るが如くに誇ってみせる。虚勢を張る。それが詐術である。夕鶴儀仗隊はそれらしい体裁を整えつつあった。
 構造は「トライアングル構造」である。構造は奇妙にも「三極委員会」的である。この構造をもって俄
(にわか)を打つ。
 また打つ以上、『タカ』を実行するに当り、何処まで筋金入りかで決まる。詐術師も筋金入りでないと馬脚が出る。ボロが見えて来る。ボロが怕いのは見透かされたときだ。マジックも同じである。
 マジックは見透かされたときが怕い。幻影でも現実のものとして、観客者を暫く酔わせねばならならない。
 出来れば永遠に酔わせておきたい。見破られないマジックこそ、理想である。

 兵は詭道なり……。一般によく知られる言葉である。
 しかし冒頭は知っていても、『孫子』
(「計篇」第一)に挙げられた「兵は詭道なり……」の、その後に続く一節を知る人は少ない。この後には、「故に、能にしてこれに不能を示す」と続くのである。本来は、この部分が一番大事なのである。単刀直入に言えば、「詐(だま)せ」と長調しているのである。無いものを有るかのように捏造して嘘を言い、虚構を見せ、錯覚を植え付けて最後は欺くのである。詭計という。

 兵は詭道なりを註釈すれば、自軍は強力であっても、敵軍には弱力であると見せ掛けよというのが、表向きの解釈であるが、『孫子』の読み方が、ただ字面だけを追って語句を暗唱しても、有機的結合で繋がる「藕糸
(ぐうし)」の部分が全く見えて来ない。隠れか部分が読めない。
 したがって、体系的解釈では真意が掴めないことになる。問題なのは、文字裏に隠れて見えない部分を読まねばならない。そして藕糸から読むと、逆も「可」になっていることがわかる。つまり『孫子』は二重構造の表現形態になっているのである。この意味では、一筋縄では行かないのである。
 ゆえに自軍が弱力でも、敵軍には強力に見せ掛けることも、また「有り」なのである。この意味で『孫子』は字面作文ではない。

 わが戦力を大軍に見せ懸けるには、図らずも、この逆を「可」とすべきなのである。
 詐
(いつわ)って虚構・虚勢(きょせい)も有り、攪乱(かくらん)も有りである。
 この場合、大事なのは、あるが儘
(まま)に見せ、こちらから言葉などで解説しないことである。あくまで眼で誑(たぶら)かし、間違っても耳に訴えて、言葉で先入観を植え付けないことである。それだけに信憑性が出て来る。要諦は、耳で誑かせるのでなく、あくまで眼である。眼で錯覚を起こさせるのである。
 それに文言の解説は要らない。黙示録的に「黙って示せばいい」のである。註釈・解釈の類は要らない。
 但し、詐術が成功する場合、優先順は、「自分のことは後回し」であることが鉄則である。自分を順位の頭に持って来ると、直ぐに見破られてしまう。

 その、見破られるかそうでないかの境目が、他人を先に遣らせるか、自分が他人を制して先に行くかの譲歩度である。譲歩度が小さいと人間の程度と底の浅さを読まれてしまう。
 大物は、その人間が持っている「自分観」で人物評定する。その評定の眼力は鋭く、自己保身からも、他人を検
(み)る眼が厳しくなり、この点においては見識が豊富なのである。この見識を通じて人謀(じんぼう)を凝らすことを得意とするのが、財界人の大物の特長である。談合と共同管理を余儀なくされるからだ。
 人謀……。詐術の行う場合の謀であり、駆引きの策となる。この策を凝らす。
 『孫子』を応用して、それを悉
(ことごと)くに註釈を入れて、自分流の解説したのが『三国志』に出て来る魏(ぎ)の曹操(そうそう)である。曹操こそ、『孫子』の隠れた糸の部分の藕糸を、見事に解説した人物はいないだろう。
 曹操は、反董卓派
(はん‐とうたく‐は)の盟主となった袁紹(えんしょう)に対して人物評定し、人謀を凝らして次のように客観論を述べた。
 曹操の袁紹の人物評定は次の如し。

曹操の袁紹人物評定(客観視) 袁紹自身の自己評定(主観視)
志は大なれど、智は小なり。機を悟ること遅し。 志は大なれど、智も大なり。悟ること疾(はや)し。
色は嶮(けわ)しくも、胆薄し。事を見るに遅し。 色は嶮しからされども、胆(きも)太し。
忌克(ねたみ)多く、威に少(か)ける。 忌克少なく、威ありと過大評価。名門の出の誇り。
兵は多いが、分畫・編制不明なり。名は有だが愚。 勇猛果敢なる名臣・名将揃いで精鋭揃い。名は有。
将驕(おご)り、軍令・政令一ならず。大義は悪。 軍規・軍法・権力ともに均しきなり。権門は豪。
小よく大を制すを識らず。遊撃論少数精鋭 寡は衆に敵せず。衆寡論属僚厖大主義

 衆寡
(しゅうか)の用を識(し)る者は勝つ(『孫子』諜攻篇第三)
 意味は、衆寡敵せずであり、人数の少ないものは、人数の多いものには勝ち目がないと言うことだ。
 しかし権門に比べて「名は微」の場合は、略解をし、「人謀」を積極化しなければならない。これが「敵を攻めんと欲すれば、必ず先に謀あり」である。「はかりごと」は何も“謀”の一字だけでない。智の一字を用いて、これを「はかりごと」と読む。智と謀を併せて『智謀』である。その背景に「巧みなる詐
(いつわ)り」がある。

 賄賂
(わいろ)……。この言葉を聴いて、眉をひそめる人は、おそらく無力で、可もなく不可もない、また沈香(じんこう)も焚かず屁もひらずの、善悪の区別も知らない、根っからの“お人好し”の善人であろう。
 裏を返せば、「悪党の要素ゼロ」ということになる。更に言及すれば、指導者としては“完全不向き”と言えよう。思えば案外、こう言う真面目で、律儀で、善なる人が、会社を倒産させるのかも知れない。
 夢で、会社は作れないし、維持も出来ないからである。それゆえ「陋規
(ろうき)」を知らない。経営学を学んでも、肝心なる経営が出来なければ、それは無力ままで、人生を潰える宿命が暗示されていると言えよう。

 さて、世の中には「清規」と「陋規」の二つが存在している。
 清規とは表社会・表街道の道徳とか、道義やモラルである。
 一方、これに対して裏社会・裏街道の陋規というものがある。
 例えば、賄賂の取り方である。それは喧嘩には喧嘩のルールがあるように、また泥棒には泥棒のルールがあるように、賄賂には賄賂の収賄側の取り方があり、贈賄側の渡し方がある。このルールを知らねば、双方は贈収賄で官憲に追われる身となる。

 日本では最優秀学閥の東大法学部を頂点とするエリートを集めている霞ヶ関の高級官僚の中にも、贈収賄などの不祥事を引き起こして指弾されるクズがいる。要するに、このクズは可もなく不可もなく、善いこともしない代わりに悪い事もせず、沈香
(じんこう)も焚かず屁もひらずの小心者が、受け取り方の間違いから起こす不祥事である。
 この場合、知能程度と人間のモラルとか道義とは関係無しに、如何なる組織や集団においても、常に一定比率で、どうしようもないクズ人間が存在していることだ。要するに、善だけを知って、悪を知らないクズなのである。このクズが、尻尾を掴まれて官憲の追求を受ける。その挙げ句、総てを白状する。その茶番の“鬼ごっこ”は官僚の世界だけでなく、政治家にはなれない政治屋の世界にも伝染している。間抜けなのは政治献金の処理の仕方である。賄賂術を知らないからである。
 その回避には、老練なる術を磨いて、暗黒面
(dark side)の道徳である陋規を心得ていなければならない。したがって気の小さい、真面目一方で、可もなく不可もないその種の、悪を知らない善人は、陋規に決して触れるべきでない。

 裏街道には裏街道の仁義がある。
 そして、賄賂の遣り方も、またその取り方も確たるルールがあるが、このルールが乱れ始めると、世の中は混沌として来る。つまり、陋規の崩壊は、則ち社会の崩壊を意味するからである。社会への赤信号を感知するには、陋規の状態である程度察しがつくものである。
 故に、例えば喧嘩の仲裁においても、裏表の社会での「清規」と「陋規」のスレスレのところで遣らねば意味がないし、本来の交渉人は、この両方を知り尽くし、その術に長
(た)けた者でなければならない。
 つまり賄賂術とは、この二つのスレスレで処理出来る名人を言うのである。そしてこの名人は人謀を凝らして、人を検
(み)る。そして陋規の理解できない者は、賄賂対象者から外す。口の軽い者も同じである。
 凡庸な人間は、その魂も凡庸である。故に最後は秘密が漏れる。口の軽い人間を、大物は相手にしない所以である。
 脱線しないためには、予め凡庸なる魂を排除しておかねばならない。四角四面、規則重視のこの種は、例えば国際取引において、国によっては賄賂が必要な国もある。効果的な策を立て、脱線しないためには賄賂術を心得ていないと交渉は成功しないのである。承諾まで漕ぎ着けるには、賄賂術を心得ておかねばならない。
 つまり、「清規」だけでなく、「陋規」までも熟練しておかねばならないのである。

 果たして、日米開戦当時、日本の政治家や戦争指導者に陋規を熟練した者がいたであろうか。
 真珠湾奇襲攻撃で、米国への通達が遅れたのは外務省官吏の怠慢であったし、戦争指導者は徹底した外交音痴だった。清規一本槍だった。
 また日本の石油備蓄量も正確には把握していなかった。
 更に米国の石油資源のルートを断った締め付け理由も分析出来なかった。最終眼目には、米国系メジャーが利益を図る一方、日本産業の首根っこを押さえ、特に石油に関しては石油資源開発には参画させない意図があった。
 当時、多くの日本の石油会社はメジャーから供給された黒い石油を白く精油するだけのクリーニング業者のレベルで留め置かれていたのである。それでも半年分どころか、まだ二年半分の備蓄量があったのである。それを秘匿してしまったクリーニング業者が居たのである。

 この情報を『タカ』グループのメンバーは掴んでいたのである。そこに賄賂が必要だった。備蓄量を吐き出させる手続きは、賄賂を必要としたのである。しかし、この賄賂の必要性を凡庸な魂で生きている人間には分るまい。
 彼の平賀源内
ひらが‐げんない</江戸中期の博物学者・戯作者。1728から779)は、この「凡庸な魂」について、こう論じている。
 「利口者が馬鹿に罵詈雑言を吐く場合の呼び方は幾らでもある。例えば、バカ、たわけ、うつけもの、痴れ者、阿呆、のろま、間抜け、うっかり者、痴呆、戯
(お)け者など……。ところが、馬鹿が利口者に対して罵詈雑言を言う場合の呼称は、たった一つしかない。それは山師の一言のみ」と。
 また、山師が人謀を凝らして、巧みに賄賂術を遣う者を言う。
 山師は、ときとして、海千山千のやり手婆をも丸め込む。役者が一枚も二枚も上なのである。


 ─────当時の時代分析は、昭和16年4月から始まった日米関係の悪化である。これがその後、悪化の一途を辿った。そしてその年の7月26日には、米国が対日資産の凍結を通告した。これに英国と和蘭
(オランダ)が右へ倣(なら)えをした。この時点で、窮地に立たされた日本は全面戦争への突入を余儀なくされた。
 その頃、日本の石油備蓄量は約六百万トンに過ぎなかった。この六百万トンは、交渉決裂により、以降、一滴も入ってこず、それは一年で底を突く量であった。4月の時点で六百万トンであるから、11月の時点では計算としてその半分として三百万トン前後であろう。この計算を米国は巧みに行い、一年半、石油を封鎖すれば日本は無条件で屈服すると計算した。日米交渉は4月から四ヵ月間交渉されたが、結果は思わしくなく、米国の条件は、日本軍が支那及び仏印から全面撤退を提示されて、その通牒が『ハル・ノート』であった。
 このハル・ノートは事実上、米国の対日宣戦布告であった。日本は、これにより開戦の火蓋をきらざるを得なかった。
 しかしと思う。
 この筋書きは、余りにもよく出来ていると思わないだろうか。

 突き付けた通牒には、「支那及び仏印」としてあり、当時、日本の生命線と言われた満洲国云々は一行も触れられていない。ここに着目すべきだった。
 背景を考えると、この以降は中国国民党政府の蒋介石の以降が反映されているのである。米国の反映より、蒋介石の意向が大であった。
 蒋介石とは如何なる人物か。
 彼は昭和6年
(1931)9月18日の満洲事変に始まり、盧溝橋事件で戦火を点け、これが日中戦争へと発展し、それはやがて大東亜戦争と、ここから十五年戦争の第一段階が始まるのである。最初、奉天(今の瀋陽)北方の柳条湖の鉄道爆破事件を契機とする日本の中国東北部への侵攻であった。これが中国の東北三省および東部内モンゴル(熱河省)をもって作りあげた傀儡国家・満洲国と発展する。

 しかし、蒋介石は満洲を日本に譲渡し、彼は支那
(中国)支配を目論んでいたのである。この時代、満洲と支那とは異なるので、歴史的理解の上では注意を要する。近代中国を見る上で重要なポイントである。
 蒋介石こそ、日本を敵として戦った中華民国の指導者であった。日中戦争とは、中国大陸を戦場として、日本将兵が蒋介石率いる中国軍と戦った戦争である。したがって戦後、中国大陸全域を中国共産党がこの大陸を支配統制下に置くことになる。その建国は、中華民国国民党政権
(蒋介石)を革命戦争によって倒し、蒋介石を台湾に押しやって、1949年10月1日、中国に成立した共和国なのである。漁父の利から建国である。
 中華民国と中華人民共和国。その性質は全然違う。戦後の日本人は、日中戦争で日本と戦った相手は中華人民共和国と思い込む錯覚があるが、当時、日本と戦ったのは中華民国の将兵であり、中華人民共和国の毛沢東率いる赤軍兵士ではなかった。毛沢東は漁父の利を得たことで、逆に日本軍に感謝したとも言う。

 昭和12年
(1937)12月、日本軍将兵は大陸に進出して、中華民国軍と戦い電撃戦を展開し、首都の南京を忽ち攻略した。
 これに続き、華北から華中、華南へと侵攻して主要都市を占領した。だが戦線は伸びきって、拡大して行く一方であった。大陸の広大な広さ故、進出部外は忽ち孤立した。そのうえ中華民国軍は、ナチス独逸から軍事顧問団を迎えて日本討伐の策を授かり、また武器まで提供を受けていた。つまり、日本軍はナチス独逸が軍事教練した、これまでとは異なる強靭
(きょうじん)戦士に改造された中国軍と戦っていたのである。以前とはレベルが違っていた。更に、蒋介石は『孫子』の「小敵の堅(けん)は大敵の擒(きん)(謀攻篇)を用いて、日本軍を苦戦に強いるのである。
 日中戦争から大東亜戦争
(米国側が言う太平洋戦争)のストーリーは、そもそも昭和6年の満洲事変から始まったのである。約15年の長きのおいて、長々と、だらだらと消耗戦に苦しむことになるのである。
 この物語は日中戦争が起きて、14年目の内地を部隊にした「昭和19年7月半ば」の話である。

 そもそも「詭道」とは騙しである。故に欺瞞に満ちている。詐
(うそ)であり、詐(だまし)である。
 兵法では、詐欺を働いたからと言って、羞じる必要もないし、謝る必要もない。戦争である。これは欺瞞に満ちている。虚像を見せ、虚構を張る。目一杯騙してみせる。国家の金看板を背中に背負って、敵を大いに詐
(だまし)てみせるのである。
 これぞ、『孫子』
(十三篇)にある「兵は詐(さ)を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為(な)すものなり」である。その場合、これを遣う者は、醒(さ)めていなければ、敵を誑(たぶら)かすことはできない。
 つまり、心の迷いが霽
(は)れていなければならない。

 毒蜘蛛の指令で、網を張る食指が伸びた。
 時代の風に靡
(なび)いて、その網は吹き流し風になる。号旒(ごうりゅう)となる。俄芝居を打つ。
 その吹き流しの網に、時代の画策者達が掛かる。その者を猟る。
 この三者は舞台をそれぞれの場所に設定して、これから一世一代の俄芝居を打つのである。天一坊となる。
 それも、あと三日と迫っていた。



●山こかし

 津村陽平は夕鶴隊オフィスに出頭を命じられた。このオフィスは『ホテル笹山』の五階にある。
 ボロを引き摺るような格好の矮男
(こおとこ)が、ホテルの玄関ロビーを通ろうとした。そのとき接待員が慌てて飛び出してきた。
 「困ります!」と接待員は言う。
 一瞥
(いちべつ)した矮男の風体が、余りにも異常じみていたからである。
 この漢、兵隊らしい格好をしていたが、恐ろしく背が低かった。そのうえ南部拳銃と下士官用の軍刀で武装しているが、階級すらよく分らない。軍刀からして兵隊ではなく将校なのかも知れないが、着ている物が余りにもボロだった。矮男の歳の頃はと言えば、五十と言えばそのように見えるし、四十と言えばそのように見える。また、本人が歳を三十と言えばそうかと思うし、二十と言われればそうかと思う。それは、余りにも背が低く、大人か子供か分らないからである。風体は小人然
(こびと‐ぜん)である。

 《此処は、あんたのような野戦復
(かえ)りの十字砲火を浴びた、見苦しい軍服を着た兵隊が、入って来るようなところではない》というような言い方で注意を促したのである。そこへ、総支配人の小松原光男が接待員を制した。彼は『タカ』メンバーの一員で、既に津村と顔見知りであった。
 「この方は、構わないんだよ」
 津村陽平に対して、15度のきびきびした立礼を行った。津村が上官であることが分る。
 津村の格好は、激戦地の戦場帰りの兵隊を思わせた。軍服は不潔でないがボロを纏っている。南部拳銃に曹長刀で武装しているが、時代遅れの官品である。それに階級章は少尉なのか准尉なのか、星がもげていてよく分らない。将校なのか下士官なのか、判別に難しい格好をしていた。
 小松原は、こんな津村をエレベーターまで丁重に案内し、操作して、五階まで送り届けた。

 「津村見習い少尉、只今、出頭致しました」と申告した。
 此処には、三羽鴉とアン・スミス・サトウ少佐の四人が着座していた。四人のうち沢田次郎だけが平服
(私服)で、他は軍服であった。この四人の貌には、意を尽くして論じ合う気構えが顕われていた。
 しかしである。津村陽平が「見習い少尉」と名乗ったことで、その気構えが一瞬崩れた。四人は最初、津村の申告にあった「見習い少尉」の階級に、互いに貌を見合わせて苦笑したのである。その階級自体が、人を啖
(く)っているからである。見習士官はあっても、少尉に任官した者の“見習い”はないからである。
 この時代、中等学校以上の教育を受けた者は、半ば強制的に幹部候補生させられて短期即修の訓練で俄仕込みの将校を養成していた。数ヵ月で見習士官
(階級は准尉)になった。見習い期間を終えて少尉に任官する。
 したがって津村陽平の「見習い少尉」は、この漢の勝手な理屈からなのだろう。

 鷹司友悳中佐が訊いた。
 「貴官に、以前から一度お窺いしようと思っていたのですが、なぜ、見習い少尉なんです?」
 「自分は規格外人間でして、“見習い”の方が適語でないかと……」冗談のようなことを言った。
 しかし一方で、津村の言には妙な毅然さが入り交じっていた。
 「どういう意味です?」不審がって鷹司が再び訊いた。
 「一言で云えば、悲愴感と言うか、寂寥感と言うか、自分は年齢的にも黄昏れておりまして、陸士出
(陸軍士官学校卒業)のピカピカ少尉と一緒にされては、彼らが不愉快と言うか、怒るというか……。したがって自分は一等下がって、遜(へりくだ)るのも一興と思いまして」と津村は臆せずに、人のいい笑みを泛べて答えた。
 「まったく人を啖
(く)っている」と苦笑気味で、鼻で嗤う来栖恒雄少佐。

 「さて、冗談は差し置き、本題に迫りましょう」
 鷹司友悳のこの一言で、胸を締め付けるような緊張が起こった。
 妙に、漠然とではあるが、一つの決定的瞬間が、この一言の中には込められていた。『タカ』が動き出した刹那を思わせたからだ。その一言で、時代が動き始めたのである。その刹那に、無言の強要があった。
 しかし一歩間違えば、取り返しのつかない事態が起こる。
 「私は津村少尉のことをよく知らない」と来栖。
 来栖には自分の知らない人間に対して、他愛のない遣り取りをするのは、何となく面映いのである。そのうえ津村は、人を啖う人間であるからだ。それは冗談か本心か分らないところがある。
 「しかし、俄の芝居を演ずるには、人を啖うだけの剽軽者
(ひょうきん‐もの)が、適任者かと思われます」と駄目押し気味に言う沢田。
 沢田は津村陽平を普段からよく観察していた。その観察から、この漢を剽軽者と検
(み)た。腰に瓢箪でも付ければ、まさに仙人然である。その気軽明朗なる態度は、一種の風流人でもあり、風流であるがゆえに飄々(ひょうひょう)としていた。その態(さま)が超然としていた。矮男だが、大した役者だと言うのが、沢田の感想であった。彼の言葉には津村陽平以外、この世で、これ以上の適任者が居ないという言い方であった。

 「その役者を、無理難題の多い、世の中の舞台で、ひとつ織り込んでみますか」と津村の剽軽に迎合したよなことを言う鷹司。
 「自分としては、下手な役者くらいはできましょうが、しかし、かつて承ったことのない至難の註文
(密令の意)でして、さて、みなさんの演劇指導でも、ご教授願いますか……」と暢気なことを言ってみせる。
 「教授は致しません」ぴしゃりと言ったのは沢田であった。
 「それは困りましたなあ……」顎を撫でながら、困った振りをした。役者である。
 「教授は致しませんが、材料を準備します。種々の材料を使って、これから演じるであろう、人生双六の“上がり”までのストーリーを演出して下さい。その演出、あなたご自身で考えて下さい。こちらが用意出来るのは、一切の小道具のみです。筋書きは好きなように、ご自分でどうぞ。お任せします」と沢田。
 沢田の言葉や口調は丁重で、然も敬意の籠ったものだった。これだけの役者が自分で作れない訳がない。
 「ほッ……、解法無しのパズル合わせですか」呆れたように訊く津村。
 「そうです、ご自分で脳漿を搾って下さい。出来るだけ筋書きは面白い方が楽しめます、特に俄芝居では」
 沢田の言は、津村以上に、人を啖っているのかも知れない。
 「物語を自作せよと、おっしゃいますか」些か、やれやれという思いと、驚き気味の津村。
 「出発点は東京羽田飛行場、東京新京直行便で満洲の新京から更に奥へと侵入し、満洲里
(マンチュウリ)までいく。次に北京経由で華北石家荘方面へと下る。このルートに、北京を振り出しに、石家荘・邯鄲・漢口間に京漢線までの約千三百キロ……。つまり……」と沢田が言い掛けたとき、津村は思わず「粤漢(えっかん)打通作戦……」と口走ってしまった。
 これまで小耳に挟んだことを、思わず吐露してしまったのである。その作戦名が、兵頭仁介から見せられた『柳田メモ』にあったからだ。このメモは、参謀本部の柳田奥太郎少将のメモランダムである。
 この間に登場する打通間には「蕋江
しこう/湖南省西部)」という地名が出てきて、かつて聴いたような記憶があった。

 津村は、かつて父から聞いた「ある物語」を連想した。彼
(か)の地での“氷の精”の話であった。山中に棲む氷の妖精の話である。あの山には妖精が居る……。そう言った生前の父の話を思い出した。そんな話を子供の頃、聴いた覚えがあった。父・十朗左衛門は若い頃、大陸を放浪した経験があった。かの地での放浪時代、地元住民から「氷の精」の話を聴き、自らもその山まで行った体験を持っていた。
 それは、新田郷での野党退治の直後の話だったと言う。

 父・十朗左衛門は、祖父・鍵十郎とともに『三尺達磨』の異名を取る神道無念流剣術の達人だった。その達人が、野党退治に、「斬るも切ったり三十六人」をやらかしたのである。
 斬られた野党団は即死が三人、あとは手足を斬り落とされたり、胸や腹や背を断ち割られたりの重傷者であった。だが、野党とて、斬られた恨みはあった。その恨みの難を避けるために、一時期、父・十朗左衛門は大陸を放浪したと言う。熱
(ほとぼ)りが醒めるまでである。明治11年(1878)のことであった。西南の役(明治10年/1877)の一年後の事であった。
 野党団は西南戦争で敗れた“薩摩加勢”の武士崩れであった。この一党が新田郷の山中に棲み付き、時々村を襲い、収穫したばかりの農作物を奪い、村人の家に押し込みを働いては金品を奪い、婦女子を勾引
(かどわか)した。この野党団は自現流の剣をよくした。腕が立つ。そのために警察もお手上げだった。
 草創期の明治新政府は野党退治より、全国の「乱」を鎮めるのに精一杯だった。警察制度の創始者で、大警視の川路利良が難儀した時代である。

 現地の村人の案内で、十朗左衛門は、“雪の妖精”が棲
(す)むと言う『雪峰山』に登った。標高千メートルほどの山で、山中には大きな洞穴があって、そこには昔から妖精が棲んでいるという伝説があった。雪峰山の妖精は美しい娘に化け、山中を通過する漢の旅人を誘惑して洞窟に誘い込み、旅人を魅惑して離さず、洞窟内は途端に金襴豪華な御殿に早変わりし、閨(ねや)に誘われ一夜の歓楽を伴にし、漢は悦楽の余り、忽ち精を抜かれ、そして翌朝になると、漢は精も枯れ果てて、骨の髄までからからに干し上がって死んでいたという。
 津村陽平は、かつて父から子供の頃、そう言う話を聴いたことがあった。

 昭和19年
(1944)粤漢(えっかん)打通作戦を展開するにあたり、4月17日から12月10日に懸けて、第十二軍を基幹と日本軍精鋭の十四万八千名をもって、南下と北上双方の「一号作戦」(大陸打通作戦で、前半の京漢作戦「コ号作戦「と後半の湘桂作戦「ト号作戦」に大別)が開始された。
 武漢
(第十一軍・横山勇中将)から粤漢鉄道沿いに南下し、湖南省の長沙、衡陽(こうよう)を占領、広州(第十二軍・内山英太郎中将)から北上した日本軍と合流して、更に広西省の桂林・柳州を陥落させた。これにより、日本軍の宿願であった大陸の南北縦断(大陸打通)が完成したように見えた。局部戦では日本が勝ったとように映る。
 その「一号作戦」の目的は、大成功を納めたように映る。その目的は湖南省・江西省・広西省など、華南一帯にある米国の航空基地
【註】このとき米軍には空軍は日本と同じように存在しなかった。ちなみにB29は米国陸軍の爆撃機である)を叩くことであった。そして叩き、奪還した。戦史家の中にも、局部戦では大勝利を納めたと評価する人も少なくない。作戦立案者の服部卓四郎大佐の卓逸を評価する人も少なくない。
 だが、日本全体の戦略から言えば、殆ど意味のないことであった。
 前門の虎を片付けずに、後門の狼を片付けようとしたからである。現にサイパンは「前門の虎」であった。
 事実、6月15日にサイパン島に米軍が上陸し、7月7日にはサイパン島玉砕した。米軍はサイパン島基地から日本空襲開始した。その意味では、華南一帯の米軍航空基地は叩いてみ意味薄であった。日本空襲がサイパンからの方が確実であったからである。ルーズベルトの関心は、蒋介石が諭したこの地で日本軍を叩くという策から遠退いた。蒋介石の策は、もはや興味薄であった。その意味でも、逆に言えば、一時的に日本軍は一局面において、大勝利を納めたように映る。しかし大東亜戦争を大局的に見て、此処に精鋭部隊を投入した意味は、殆どなかった言えよう。

 後に、日本軍が取り掛かった変更作戦を『蕋江
(しこう)作戦』【註】この作戦は老河口作戦と併せて昭和20年1月29日実施)と言う。つまり「一号作戦」で、日本軍は衡陽周辺にあったB29の発進基地である桂林・柳州の奪還は成功のように映ったが、実は米軍の航空本拠地は衡陽から西に250kmも離れた蕋江に移動されていた。
 また、この位置は首都重慶から370km南東に離れた場所であった。日本軍は偶像を追った観がある。
 さて、この物語の時代設定は、それ以前の第一次衡陽攻撃
(6月22日)から第二次衡陽攻撃(7月15日)のまでの、内地においての「よりよい負け方をする戦」をテーマに置いている。当時の戦史でなく、小説であることをご了承願いたい。

 日本軍の当初の作戦計画は蕋江と貴陽攻略に一ヵ月。蕋江・貴陽から重慶・成都攻略に一ヵ月半。その後、四川省全域の主要都市を手中するのに全行程で五ヵ月もあれば充分と踏んでいた。それを目論み、日本軍は密かに再編制を企て、衡陽と蕋江の中間点である邵陽
(しょうよう)に主力を集結を始めた。日本軍は衡陽・邵陽間の道路工事を開始した。その間にトラックの往来が激化した。これを知った蒋介石は、日本軍の第一目的は蕋江であることを見破り、蕋江守備隊を七万人に増強した。
 邵陽から蕋江までは直線距離として170kmである。その途中に難所の標高千メートル以上もある雪峰山がある。この目的を達成するには、この山岳地帯を踏破しなければならない。
 この山を現地の人達は「九索
(きゅうそう)を仰向けに置いた山」と形容した。麻雀の牌の「九索」のような模様に、台地上の山頂付近は深い溝のような谷があって、何本も並んで通っているからである。この地形は攻めるに難しく、守るに有利な地形であった。日本軍は此処で、速戦即決を目指している。そのため、日本軍は敢えて、この山岳部の中央突破を図ろうとするのである。

 この中央突破を図る九ヵ月前のことである。
 津村陽平は「蕋江」の地名から、即座に『粤漢打通作戦』を想起したのである。この作戦名が、柳田奥太郎少将のメモランダムにあったからである。そして、蕋江と聴いて「雪峰山」を想起したのである。あの「美しい女に化ける妖精」がいるという山中の洞窟である。
 津村陽平の脳裡には、蕋江そして雪峰山の名が付き纏った。近いうちに行かねばならぬ羽目になるだろうと柳田奥太郎少将のメモランダムの『柳田メモ』から想ったのである。そこには「一号作戦」の全貌が記されていた。

 「あなたには密使になって頂きます」それは命令であった。その言葉が、冷ややかに伝わって来た。
 斯くして『タカ』が下令された。鷹司友悳の言である。
 津村は、「密使」の一言で大陸の茫洋
(ぼうよう)たる曠野(こうや)が広がった。そのお膳立ては出来ているという。それはまた、心の何処かに何か重苦しい錘をぶら下げ、それを引き摺るような足取りを連想した。
 「完了期限はいつまででありますか」津村は訊いた。
 密使になれと言う。それは希望を訊いているのではない。断れないのである。熱望が条件だろう。それ以外にない。津村としては敢えて断る理由もなかった。自分の周りの人間は、何人かは世を去り、また生き別れもしていた。命を惜しむような年齢ではない。そこで津村は訊いてみた。その任務完了時期を……。

 「終戦まで。いや、戦後も続くかも知れません」と沢田。
 「命令でありますか」
 「いいえ」沢田の冷ややかな聲
(こえ)には、否定の肯定の意味が込められていた。無言の強要である。それは遣れというのと同義だった。
 冷酷な強要に対して、決定的な挙に出た瞬間かも知れない。人生でそんな瞬間があるとしたら、それは今かも知れないと津村は思った。幹部候補生上がりの、よれよれ少尉でも、命令には服従しなければならない。
 「しかし、あなたは断れない。行くしかないでしょう」断定的に言った。
 沢田は総てを見透かして、このようなことを言った。またそういうふうに読んでいる。人に有無も言わせない力が含んでいた。
 果たして行くしかないのである。賭けてみるしかないのである。密使……。いいだろうと思った。
 しかし、果たして密使になれるだろうかとも思う。密使が勤まるのだろうか。また、その資格はあるのか。
 「行きましょう」思わず返答をしていた。
 「総てお膳立てしております」と沢田。
 一切が事前に打ち合わせ済みで、その実行者が、今までいなかったと言う口振りであった。

 「但し、自分はこの物語を密使でなく、“山こかし
(山師)”として役者変更をさせて頂きます」津村は不敵にも嗤った。
 「山こかし?……」鷹司が訊き返した。奇妙な言葉だったからである。
 「要するに、金庫の鍵番を丸め込んで連れて来るまでのこと。そう、踏んでいます、違いましょうか?」総てお見通しという津村の口振りであった。
 「そこまで読んでいましたか」と驚くように言う鷹司。
 「したがって密使では、ちと役者不足でしょう。この場合は、一か八かの勝負師根性が要る。血の勝負師として、腹芸でも披露し、“山こかし”を遣る以外、ありますまい」
 「血の勝負師……、そして“山こかし”……」
 実に奇妙に響く……。“山こかし”という言葉に妙な違和感を覚え、鷹司友悳は口許から眼へと繋がった筋肉を微動させていた。あまりにも“山こかし”という言葉に、奇妙な条件反射を覚えたからだ。
 「死中活あり、壺中天ありです」津村の言は、自分だけの時間、自分だけの世界を持っていないと、哀れ無慙に陥って、死中に活は求められないという意味であった。
 「あたかも項羽の『以て生くべくして而して死す』を髣髴とさせますね」と鷹司。
 「しかし、正解は『以て死すべくして而して生き』です。時代と、四ツに組んで一勝負やって、血の勝負師の意地をご覧にいれましょう」硬直した眼で津村は、鷹司を見た。
 「遂に、隠者は眼を醒まされましたか」と、予想通りと思う沢田。
 「時代が、わが義務を要請するとき、時と場合においてのみ、時代の舞台に登場しなければならないとありますゆえ、終わることを悲しまず、終わることは則
(すなわ)ち始まること。これから時代が始まる……」津村は独り言のように吐露した。
 「流れるままにですか……」沢田が相槌を打った。
 この言葉の中に、二律背反的な深い意味が含まれていた。時代の変化を予測していた。
 そして、沢田は「All ways to begin,don’t grieve to end.……」と仕切り直しの一節を吐露した。

 まさに「終わることを悲しまず」である。
 終わることは則ち、始まること、生まれ変わること……を意味する。新生するのだ。これが能動的に、不運の解決策になるかも知れぬ。つまり、問題を提起することが第一の大事。
 提起された問題に対して、取り組むことが第二の大事。
 これ取り組むために、第一の大事に対して、問題を上手く出せば、その中に答がある……。
 仕切り直しとは、生じた難問に先ず頭を抱え苦悩して、仕方ないと思う。仕方ないが、その解決策に、だから、もう一度足り直しだ。仕切り直しを行うことを言う。しかし、不思議なことに、第一の問題段階に解答はある。要は、仕切り直しするか、放置して何もしないかである。終わることは則ち、始まることなのである。
 津村陽平は、これを「これから時代が始まる」と言った。それが取り組み方であり、心構えだった。

 「面倒は、意外にも時間とともに解決して行くのですね」とこれまで沈黙を保っていたアンが言った。
 「さよう」と津村。
 「解決しないと、今頃、面倒に潰されて圧死していますわ。片付くから、こうして生きているんですねェ。負け戦も、仕切り直しすればいいこと。興味深い箴言ですわ」と、これまで沈黙していたアンがいきなり口を挟んだ。あたかも、津村を代弁したように「諦めるな」と響いたように聴こえた。
 「それは中国語で没法子
(メイファズ)……。仕方がない、もう一度、遣り直しだ。終わりを経由して、再び始まる。新たな時代が始まる。一切は流れるままに。そして没法子」と津村が意味ありげに至った。
 「では、流れるままに、流れて頂きましょうか」と沢田。
 「いいでしょ。自然のままに移ろい、そして、あとは消えるのみ。自然こそ、美しく老い、何の人工手段も講じない。だから、美しく死ぬことを、流れのままと訓
(おし)えてくれる。それでいいではありませんか、後に何も残さなければ。また死した後に、ものものしいものがなければ……」と津村。
 「蘊蓄
(うんちく)が深いですな、あなたの仰ることは。名利を思うのは武士に非ず、また名利を思わざるも武士に非す……ですか」と来栖。
 「地位や名誉を求めるのも武士に非ず。またそれらを需
(もと)めないのも武士に非ず。需めないのは嘆かわしいことです。ゆえに、立派な仕事と業績を残したいと思うのなら、それに相応しい地位を要めるのだ妥当。
 だが、その地位は人間が、人間を支配する象徴力に過ぎぬ。換言すれば、これを権力と言う。しかし、権力には毒がある……、お分かりか!」と睨むように言う津村陽平であった。

 「則ち、"poison of powaer
(権力の毒)"ということですか……。人間を麻痺させ、こだわらせ、いつまでも執着したい座席……。それは毒があるから……ということですか」と感慨深そうな来栖。
 「その座席に就くと渇きを覚える。矢鱈
(やたら)に渇きを覚える。それは、権力には塩水が混じっているからです。塩水は飲めば飲むほど渇きを覚える。喉に渇きを覚えれば覚えるほど、渇きが烈しくなって不安と焦燥が起こり、それが後から後から追い掛けて来る。これが権力の実体です」と津村。
 「その実体から起こる渇きを、陸軍省や参謀本部の軍隊官僚どもは覚え、つまり負け将棋をもう一番、もう一番と遣っているということですか……」と鷹司。
 「せめて在原業平
(ありわら‐の‐なりのひら)の『白玉か、何ぞと人の、問ひしとき、露と答へて、消えなましものを』(伊勢物語の『芥川』)という心境くらいは持っておきたいものです。
 人に、白玉かしら、何かしらと訊かれたら、『露』だと答えて、そのまま消えてしまえばよかったと思うように、『夢』の一文字で総てが形がつきます。この一文字は、世間で、よく言う『人生夢の如し』という、感傷的な意味ではありません。夢の一文字は禅にも通じ、また老荘思想とも一致する『後に何も残さない』という意味です。しかしこれを解する人は……さあ、どうでしょうか」と問い掛けるように言う津村。
 「露だと答えて、夢の一文字で形がつく……ですか。中々おもしろいことをいいますね」感心したようにいう来栖の言葉は、もはや独り言を吐露したに近かった。

 斯くして、山こかしの采
(さい)は投げられた。今から仕切り直しである。
 後に何も残さない。そのために仕切り直しをする。
 思えば、昭和12年から長きに渡り戦争を繰り返し、時の戦争指導者は指導力に欠け、歯に衣
(きぬ)を着せた美辞麗句で虚飾し、厳しい現実や負け戦の数々を隠し、言行一致せず、責任を果たすなど全く考えず、権利ばかりを主張して、取るものは取るが、与えるものは鐚(びた)一文与えず、これまで日本国民に何をして来たか……ということを、無能者らは一度でも考えたことがあるのだろうか。権力の毒に犯されたままだった。亡国が見え隠れしていたのである。
 果たして仕切り直しが出来るか、山こかしはそう考えていた。


 ─────夕鶴儀仗隊の『お披露目計画』は、大幅に擦
(ず)れ込んでいた。二ヵ月以上も遅れていた。
 計画でも、設計図でも、俗っぽいものはいけない。直ぐにボロが出る。ボロを見透かされたときが怕い。ゆえに綿密性が要る。そこで練り直しだとなった。何事も極めるには「老練」を身に付けねばならない。
 計画予定では5月××日だった。ところが二ヵ月以上も遅れて、7月××日となった。
 これだけ遅れたのは、練り直しがあったからである。
 物事は計画通りには進まない。一応練った筈の設計図でも、再度検討してみれば、これまで見落とした部分の手抜かりが浮上するものである。その種のボロが見えて来る。
 馬脚を現すボロでも、またマジックの種でも、簡単に見破られるものでは話にならない。見破られずに、観客をいつまでも酔わせるところに熟練の腕の見せ所がある。簡単に見破られるものでは、詐欺を働いても、詐欺師失格である。詐術が詐術にならない。

 三羽鴉が謀議をしているとき、「ああッ、こんな俗っぽいものでは……」と、沢田の口から嘆きのような言葉が洩れた。計画書を机に叩き付けるように言う。
 「駄目だ駄目だ、これでは……」鷹司は、自身に腹を立てつつ、皮肉なる冷笑を浮かべていた。
 「これじゃァ、まるっきり種明しをして、直ぐに見破られてしまうマジックをするようなものだ。この部分は根底から見直しだ」となった。沢田次郎の賢明なる鋭敏な頭脳が、嘆きの言葉を吐いていた。
 それは「こんな醜いものでは駄目だ!」激怒するような聲
(こえ)である。その聲は、自分自身に腹を立てていた。醜いとは、「酷い」と云う言葉の形容である。
 如何に綿密に練られた仕掛けでも、相手がその罠を踏み、罠の閉
(と)じるのが一瞬遅れるときがある。罠が閉じるのが遅過ぎれば、易々と逃げられてしまう。踏むと同時に閉じなければならない。装置の敏感度が必要になる。そういう仕掛けを施さねばならない。
 「やはり練り直しだ。根本から再検討してみる必要がある……」怒ったように言う沢田。
 その横に居た来栖から「All ways to begin,don’t grieve to end.」の語が静かに漏れた。
 さあ、今から遣り直しだ。古きに固執しても手遅れとなる。

 この密談の中から、再検討が行われた。何処を修正すべきか検討がなされた。
 併せて軍資金の欠乏状態が深刻だった。資金面が弱い。大口の強力な提供者を募らねばならなかった。そのためには俗っぽいものでは駄目なのである。度肝を抜くものでなければならない。度肝を抜いて、それに酔わせる。これこそ、詐欺師の真骨頂なのだ。詐欺師は小切手、手形、軍票、株券を信用しない。信用するのは金
(ゴールド)である。金のみ国境を越えて信用される国際的な価値力である。
 そのためには細心大胆で、用心深さが必要である。尻尾を掴まれないようにする。危険に対する速やかな反応力が要る。状況判断が的確で迅速なければならない。更には、非が生じた場合の素早い手当……。だが独善的な鈍間
(のろま)では直ぐに馬脚が顕われる。神仙に近い、その境地まで迫らねばならない。
 しかし、それは血みどろの詐術を遣うのではない。錯覚を齎し、戦わずに屈服させる最善の遣りから出なければならない。

 『孫子』で言うなら、「百たび戦って、百たび勝つ」という遣り方を孫子は最良の策として讃えていない。上策ではなく、次に策としている。その言葉が「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり、戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」と有名な言葉で結んでいる。
 策を用いるには「国を挙げて降伏させるのが上策」としている。「戦争の巧みな者は敵兵を屈服させるが、それは実際に戦って屈服させるのではない」とする。これが『計略』にある「上兵は謀を伐
(う)つ、次は交を伐つ」である。換言すれば、「謀攻の法」(謀攻篇)ということになろうか。
 追求すれば、結局「人謀」へと回帰されるのである。
 練り直し。それは「上兵は謀を伐つ」だった。そして沢田次郎の脳裡に、ふと思い浮かんだことは「尊爼折衝
(そんそ‐せっしょう)」だった。
 つまり、賄賂術を遣って宴席に招いて、宴席に居る間に談判して、売込むものは売込み、駆引きと外交手段で最終的には屈服させることであった。戦わずして勝つ上策の要諦である。三羽鴉の仕切り直しであった。


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