運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 42

新しいものが半年もすると時代遅れになって古く見える人と、古いものを見るたびに、新しくなったと検(み)る人と、果たして、どちらの心が伸びている人でろうか。
 日進月歩で、新旧が交代して行く世の中にあって、このことをよくよく考えたいものである。


●あと三日

 夕鶴儀仗隊のお披露目まで、あと三日……。また津村隊が野戦に出て行くのも、あと三日後……。
 愈々
(いよいよ)「戦機は熟せり」という感じになった。そして津村陽平の瀉瓶(しゃびょう)も、“何とか格好がついた”という感じであるが、それはあくまで速習指導であった。どうしても、付け焼き刃的なところが否めない。
 またそれだけ、周りは、時の動きに合わせて慌ただしくなっていたのである。
 先見の明を持つ者なら、この戦争で連合国相手に勝とうなどと、大それた考えは持っていなかった。負け戦は出来るだけ早く終結させて、戦後の主導権を握ることが先決であった。既に、この動きで終戦工作を謀り、戦後の復興に向けての利権争いが、昭和19年半ば頃から起こっていた。
 本土決戦はあくまでタテマエだった。この利権争奪戦に参加するためには、隠し資金の所在を逸早く誰よりも先に知らねばならぬ。それを元手に戦後、どれだけ利が貪れるかが、将軍や提督らに肝心事であった。
 経済に明るい者なら、本土決戦をタテマエに、国庫から巨額の軍資金を拠出させ、それを敗戦以前に前倒しする策を謀る。そのために様々な利害が絡み、この時期から動きが慌ただしくなっていた。それは敗戦を確実なものとして捉えていたからだ。
 しかし徹底交戦の戦争強硬派には、この動きが見えなかった。彼らは経済に疎
(うと)かったからである。ただ血に猛り狂って阿修羅のように闘う以外、能がなかった。智に欠けたていた。教養不在と言うべきか。

 この時代背景の中で、一方では瀉瓶の任務を帯びた兵頭仁介が奮闘していた。この御仁、数少ない大陸での実戦経験を持った一人であった。その経験を生かして、遊撃戦闘を夕鶴隊員の教練に当たっていた。このオヤジ、大陸飯場で飯を喰ってきた苦労人である。大陸苦労人が、メガホン片手に我鳴
(がな)り立てていた。
 兵頭の指導はあくまで「苦労人主義」である。何事も苦労することにより、身に付くと信じていた。
 苦労、つまり体験を通じてのみ、法則を法則として会得出来るもの考え、それは自他不二から生まれることに尽きるとしていた。苦労人ゆえにである。

 兵頭教官の射撃指導である。これが内地の居るときの最後の指導なのである。あと三日すれば、津村隊の副官として野戦に出て行く。
 この大陸苦労人は、射撃を射撃するに当り、「眼・心・手」の一致を説いた。
 射撃では、照準をする眼の働きが何よりも大事だが、その場合、眼を補うのは指の働きであり、引金を締める指の動きは同時に心にも繋がり、自分の気持ちがピッタリ一致していなければならない。この状態は無意識の裡
(うち)に、弾丸が飛び出すことが理想とされた。あたかも自動的……というような無意識である。念を介さない意念をともわない感覚である。そこから、眼・心・手の一致で発射される弾である。

 兵頭教官は夕鶴隊員を五人ずつの四組に分けて、一組ごとに「そら!照準が出来た」と我鳴り立て、「引金
Trigger/引鉄)を引け!」と示唆する。「今!」の刹那(せつな)を教えるのである。
 照準が出来たとは、目標に向かう視線の方向を見定め、自分の眼と小銃の先の照準器が重なり合って、一致したとき、これを「照準が出来た」という。その瞬間に引金を引くのである。引く刹那を弾かせる。
 引金の引き方は、心に意識して、意念で指を動かすとタイミングを外す。刹那を逸する。意識が勝ち過ぎるからである。こういうのを、軍隊では「ガク引き」といって戒めた。
 「ガク引き」をすると、弾が反れる。指が、腕や肩まで動かしてしまうからだ。一番悪い見本のようなものである。一小技術に固執するからである。小手先ならぬ、指先の小業
(こわざ)などと言って戒めた。

 これに反して、無念無想になる。自己を無くす。意を捨てる。すると状況が一変する。
 気持ちを逸
(はや)らせず、落ち着かせて、じっと照準をしながら(集中する)、右手をジリジリと握りしめて行うと、発射された弾丸は意外にも的を射抜くものである。その場合、喩え照準が狂っていたとしても、肩の力が抜けているため、的を射抜く確率が高くなる。意外に当たるものだ。
 射撃では自分の意識を強く働かせて、無理な小細工をすると的を外す。これは禁物である。
 大事なのは自他不二である。広大無辺な心の深部から湧き上がる「無」に至ることである。自分の弾く小銃を分離して、別々に考えないことである。銃と吾
(われ)が一体になっていると想念する。自他離別でない。自他同根である。
 その意味では、わが心の意図の範疇
(はんちゅう)にあり、意で小銃を動かすと、差別的な念が濃厚になる。
 心が動きがそのまま銃に連動される。意念射撃は結局、命中率を下げる。

 こうした軍隊時代の話を、私は若い頃、よく聞かされたことがある。
 私は18歳の時に道場を開き、このとき既に五十人ほど門弟が居たが、その大半は軍隊体験者だった。
 特攻隊の生き残りの人も何人か居た。そう言う人の話を、この時代、よく聴いたと言うか、聴かされたものである。何かにつけ、道場談義がいつの間にか軍隊時代の話へ移行し、いつしか小銃の射撃練習をした初年兵時代の話になっている。その話の中で、小銃
(主に三八式歩兵銃)の扱い方や軍用拳銃の話になって、何かしら興味をそそられたものである。
 全くの裏話がだ、昭和30年代から40年初頭にかけて、軍隊時代の南部拳銃やモーゼル拳銃を隠し持っている人から現物を見せてもらって、実砲無しで取り扱いを習って事があるし、また近くには米軍キャンプもあったから、そこで米国軍人が乗る車輛
(左ハンドルの外車のドアの内側には物入れのポケットがあった。その中に拳銃などを放り込んでいる。将校用の車には多かった)から、コルトなどの拳銃を盗み出した同年代の者から、その種の軍用拳銃を見せてもらったことがあった。米兵は盗まれても届けないことが多かった。
 また闇では、カービン銃が当時の金で、5万円ほどで売られていた。そういう物も随分見たものである。今とは時代が大いに違っていた。したがって、更に二十年も前に遡
(さかのぼ)れば、大戦末期か終戦直後のことで、こうした頃は、この種の武器は意外にも入手が簡単だったことを覚えている。
 また高校・大学時代、教師や教授の殆どが軍隊経験者であった。授業や講義の合間にその経験談を聴かされたものである。私の頃は、世は全共闘の時代であった。世が革命一色に染まろうとした時代であった。世は左側に煽られた時代であった。それでいて、ゴルフもボーリングも流行前のことであり、スポーツと言えば相撲に野球にプロレスくらいしかなかった。要するに娯楽が少なかったのである。このため、私の道場も意外に流行
(はや)り、連日(当時は日曜日を除く毎日午後5時より10時まで)五十人くらいの門弟で賑(にぎ)わっていた。その当時の見聞に基づいて、かつての記憶を辿りつつ、この小説も書いている次第である。

 ただ不思議に感じるのは、当時はかくも武器が世に溢れていたのに、人口も多かったのに、犯罪は今よりも少なかったことだ。現代に至るほど、人間の精神性や道義などは、かつてに比べて退化したのかも知れない。
 現代人が五十年、百年前の人に比べて、退化しているのをつくづく感じる次第である。現代人ほど、精神的には退化している足跡を見る思いである。

 話を戻す。
 銃手も小銃も、また標的も、状況に溶け込んで一体になる……。この条件において命中率が高まる。
 兵頭教官はこれを「主客一如」の境地と教えた。自他に、境界線を引いてはならないと教えた。自他を無くせと教えた。比較例でいうと、射止めたやろうと才気走って、功を焦る兵士より、のんびりと焦らず、気楽に引金を引く方が、上手と言われる所以
(ゆえん)は、このためである。
 それが「眼・心・手」の一致であった。才気走って、力んでは駄目である。威力の大きい小銃ほど、力んではならない。力んで肩や腕に力が入ると、腕を折りかねない。そういう力んだ状態で、標的に命中させるなどは至難の業である。力の入った状態では無理と言っていい。
 物理的にいって、作用と反作用の関係は常に等しい。互いに釣り合っている。
 射撃の場合、衝撃を吸収して弾丸を狙ったところに、命中させるには、綿に似た筋肉の柔らかさが必要なのである。小銃の扱いに長けると、力むことはせず、発射時に小銃の衝撃を抜くためにリラックス状態となる。
 更に作用と反作用のコツを掴むと、銃床を無理に肩に充てる必要は無い。腕のみで撃てるようになる。そうすることで、小銃の衝撃を、躰全体で吸収するコツを得る。その極意は、躰を無反動に馴染ませることだ。

 では、そのコツはどのように掴むか。
 錬磨の功を積む以外ない。馴染むまで反復する。つまり、これが苦労人である。
 射撃とは異なるが、手裏剣の場合も「万打自得
(まんだ‐じとく)」といって、ひたすら手裏剣を打って、自らで会得する以外、そのコツを掴むことは出来ない。そこに苦労人としての体験が物を言うのである。机上の空論では、コツは掴み取れない。評論家のレベル、研究家のレベルでは、実に程遠いのである。体験する以外無く、苦労人であるかそうでないかでその明暗を分ける。
 斯くして、評論家のレベル、研究家のレベルで仮に、気分だけが無念無想になり得たとしても、また小銃と的が一如になり得たと思い込んでも、それは真の主客一如でない。疑似に過ぎない。
 万物を司る現象界の法則は、論理では説き明かせない。その法則が真が偽かは、法則をしみじみ味わって苦労する以外ないのである。実戦経験を積むことである。
 兵頭教官は、大陸で実戦苦労人として、苦渋の体験を積み重ねた「錬磨の主」のような人物であった。この主は「自他不二」を知る。

 兵頭教官の横には、副官の特務班長の鮫島良雄軍曹
(鬼ザメ)が付いている。更にその周りに、得点計算の伍長助勤の兵長が四人付いている。そして何故か、鬼ザメの横には橋爪太一等兵が付いている。このオヤジ、ただ夕鶴隊を少女歌劇団を鑑賞するような気持ちで張り付いている。これまで眠っていた遅咲きの色情が開花した。単純アノミーに陥っていたオヤジは、自分の論理が正しさを押し通す強硬主張者であった。それが、三竦みの権勢構図から抜け出して、今は少女歌劇団を鑑賞していた。松竹か宝塚の歌劇団趣味があるようだ。
 「なかなか遣るなあ……」オヤジの感想である。激戦地さながらの、十字砲火への称賛である。
 少女歌劇団が、派手に自動小銃を撃ちまくっている。それだけに、このオヤジにしてみれば実戦さながらに硝煙が上がる演習が、実に壮観に映るのである。根は単純である。それが、時として単純アノミーに陥る。
 性格的短所だが、時として長所に変化する。三竦みを演じて談判する。根は交渉屋かも知れない。そしてこの度の津村隊の野戦行きに、このオヤジも交渉屋として随行するのである。戦場の十字砲火を夢見ていた。
 しかし兵頭教官は、それどころではない。厳命されていた瀉瓶で頭は一杯である。テーマが「壺中天あり」だったからだ。津村陽平はとんでもない課題を授けた。それに応えなければならない。その一念である。
 注ぎ込んでも、巧く注ぎ得ただろうか?と自身で思う。小器用な、単なる鉄砲打ちでは困るのだ。個人闘技のレベルでは困るのである。それを、実戦を通じて戦場の酸いも甘いも、よく噛み分けているからだ。
 全体の有機的機能があってはじめて、夕鶴遊撃隊は「常山の蛇」になる。津村の言う“壺中天あり”とは、そういうものでなかったか。蛇は天を見上げる壺中にあり。それを想起しつつ、遊撃展開を教練していた。

 「成績上位、五番以内は?」兵頭が聴いた。
 そう訊かれた鮫島軍曹は、「高得点の室瀬佳奈を筆頭に、二位の青木文恵、三位の児島智子、四位の向井田恵子、五位の鷹司良子であります」と、成績順に諳
(そら)んじていたことを答えた。
 「室瀬佳奈の初見は?」
 「狙撃兵向きであります」
 「では、最下位から五番までは?」
 「どん尻は島崎ゆり、ケツから二番は谷久留美、同三番は山田昌子、同四番は副島ふみ、同五番は押坂陽子であります」
 「このどん尻、五名の初見を述べよ」
 「特に島崎候補生の場合は、偏っているんですなァ。ぶれて弾んでいると言うか、幼いと言うか、標的が近付くと躊躇
(ちゅうちょ)して気後れし、遠くに離れると一変して命中率が急によくなる。実に奇妙な性格をしているようです。そして他四名は可もなく不可もなく、普通という程度でしょう。無理にこじつければ、“常々綺羅(きら)の晴着なし”というところでしょうか」
 「鮫島軍曹、妙な言葉知っているな?」感心して訊いた。
 「はあ、いつも……」と言いかけて、きらびやかに映る夕鶴隊を常々そのような眼で見ていたようだ。
 「この島崎候補生の遣い道は?」
 「そうですなァ、小銃擲弾器
(てきだんき)を付け、遠い敵に対して、小銃からの手榴弾の投擲(とうてき)が適当と思われます……」
 「まさに、命中率のいい室瀬候補生と島崎候補生は、遠くの敵に対して裏表の関係で、二人ともアウトレンジ向きだな」
 「さようと存じます。おわり」この“おわり”は、意見具申の総てを言い終えたという意味である。
 小銃擲弾器
とは、小銃の銃口部分に手榴弾を装着し、その手榴弾を出来るだけ遠くに射出する装置である。
 このタイプには91式擲弾
(50mm)、91式発煙弾、3式擲弾(40mm)、2式対戦車擲弾(30mm)、2式夕弾対戦車擲弾(40mm)、それに日本軍独特の工夫開発による100式擲弾器があり、これには99式手榴弾(40mm)が使われ、実弾も手榴弾も同時に発射出来るという勝れた擲弾器であった。
 手榴弾は、手に握って投げても、せいぜい肩のいい男子で50mから60mというところであろう。
 ところが、擲弾器を装着して発射すれば、その二倍以上の距離を飛ばすことが出来る。上方分角の射角は、45度で200m以上の遠距離を擲弾する。併せて爆発までの秒時を計算し、これを4秒から5秒と検る。

 斯くして小銃射撃の順位が発表され、上位半分と下位半分が分けられ、上位者は状況造り奔り、下位者は鬼ザメこと鮫島軍曹のお説教を聞くことになった。
 ちなみに、上位の六番から十番までは
(6番)中川和津子、(7番)有村緑、(8番)鳴海絹恵、(9番)宇喜田しず、(10番)長尾梅子の順であった。十一番から十五番までは(11番)児島智子、(12番)成沢あい、(13番)清水克子、(14番)佐久間ちえ、(15番)守屋久美であった。


 ─────十番から二十番までは、『小銃万歳』を遣らされる。説教組のお仕置きである。これは鬼ザメの一種の趣味であった。
 直立不動のまま100式自動短銃を頭上まで掲げさせて、そのまま10分間静止するというものであった。
 この静止時間に、鬼ザメは有難いお説教?を喰らわせる。これをシゴキと思っていない。愛情である。自分なりの理屈がある。それも、懇々と言って聴かせる。それは説法の域である。ために10分が15分になる。
 それは換言すれば、軍隊の持つ厳格な規律は辛うじて現存しているということであった。その現存があるから上官は部下に叱咤激励することができる。崩壊していれば、説教を垂れる方もバカバカしくて遣ってはいられない。聴く耳を持たぬもの相手に、一人芝居は遣ってはいられないのである。馬の耳に念仏である。
 しかし夕鶴隊には、かつての気風が残っていた。崩壊して行く軍隊にあって、軍紀は統制され、この集団には人間生活のほぼ完成された機能美が保持されていた。
 また任務時と、それ以外のけじめが明確にされ、軍令と軍政が分離した文民が統制された生活空間とその構造を持っていた。軍令と軍政が分離すればこそ、その関係は同じ人間としての立場が対等になる。
 兵役、つまり任務に就いている間は、下級兵士は上官の命令に遵う義務があるが、一旦陽が暮れて兵舎
(営舎)に戻って来ると、一兵卒も将校も、また将軍すらも対等だいう思想が貫かれていた。
 それゆえ教官の指示にはよく従った。人間としての尊厳が機能している条件において、この婦人部隊は戦闘において絶大な力を発揮するのである。短所に眼を瞑り、長所を活かす教練が功を奏していた。
 教官は人間生活における行動様式に、危険と思えば、それに的確な示唆を与える。それを素直に聞いて生活の誤りを訂正する。戦場では一番大事なことであった。下位組の十名は、素直に頭を垂れ、鬼ザメの説教を喰らっていた。
 では、その有難い説教とは如何なるものか。
 鬼ザメは持論を吼
(ほ)えた。
 「射撃を理解する上で、まず小銃の性能を理解することだ。この理解無くして、あるいは性能を無視し、特長を無視して、銃と一如になることを怠った場合、それは例えば、人間同士でもお互いを知り得ずして、幾ら交際ばかり長く続けたとしても、これでは親しめる訳はなかろう。つまりだ、小銃もこれと同じである」
 鬼ザメは小銃に搦
(から)めて、人生論を一発かませていた。そして、その理解度を確認するために、逆に質問を投げ掛けたりする。
 「島崎候補生、理解で来たか」と訊くのを忘れない。
 「はい、教官殿。お互いを理解するために、仲良くしなさいということですね」と小銃を頭上に掲げた島崎ゆり。彼女は3,700gもある100式自動短銃が重くて仕方ない。早く降ろしたい。
 「そうだ、これを理解するには銃と仲良くならねばならん。己を捨て、どうしたら、お互いに活かすことが出来るか、よく考えてみることだ」鬼ザメは悠長なことを言う。
 「仲良くなり、活かすとして、それは何処まででしょうか」と島崎。
 「なに?!……、限度を示せと言うか。あのなァ……、射撃はなァ、小銃の性能や的の形状や、それに天候が加味される。また状況の環境によって変化が起こる故、まずそういう総ての状況を判断した上で、その中に自己を没入せしめ、次に随順せしめ、一切を自己のものとすることだ。そのためには、練りに練って、練り通すところに境地の『開』がある。これは、相手を奪うことでなく、相手を活かすことにも通じる……」
 「まるでお釈迦さまみたい……」と、この小娘、早く苦痛から解放されたいために口から出任せを言う。
 オヤジは小娘の「お釈迦さまみたい」の一言が痛く気に入ったらしい。更に能弁になって、言は容易には止まらない。次第に熱を帯び、宗教懸かりはじめた。説教苦労人であった。

 「要するに、自然と一体になる……ということが、自己のものにするということで、自分だけが結構な暮らしをしていては駄目ということでしょうか……」と島崎ゆりの、能弁オヤジへの駄目押し。
 「お前、仏道的な講釈を垂れるようになったなァ。それをだなァ、仏道では成仏と言うんだ。つまりだ、小さな自己が死んで、大きな自己に生まれ変わる。これが再生だ。その気持ちで訓練に励んでもらいたい」
 鬼ザメは島崎ゆりに感動すら覚えている。
 信心深いこのオヤジは、射撃を通じて「菩薩行」の域にあった。眼・心・手の一致の悦に入っていた。
 こう考えて来ると、高
(たか)が射撃と言うが、射撃という技術を通じて、宗教のような人生の大事を、その悦の妙境に至り、その根底には体験主義によって培われた練りに練った苦労の跡が見られた。
 鬼ザメこと鮫島軍曹も、猛々しい鬼の一面ばかりでなく、一人また、日々精進するの苦労人であった。
 「あのッ……教官殿、もう降ろしても宜しいでしょうか」小娘は一秒も速く苦痛から解放されたかった。
 「ああ、構わん」鬼ザメは酷くご満悦であった。
 右代表としてこのオヤジに、一言付け加えるならば、『日々の生活においてコツコツと努力を重ね、自らに策
(むち)を打つものは幸いである』との、一節を付け加えてやりたい。


 ─────上位組は中間以上を維持出来たからと言って、それで終わった訳でない。儀礼の下準備のために掛け回る。遣らねばならないことは他に幾らでもある。夕鶴儀仗隊のお披露目が、あと三日後と迫った。
 食糧難の時代、一般来賓者への無料配布する食糧の確保である。こうしたことも、一人二役の裏方として遣らねばならない。状況を造る。何処からか食糧を掻き集めて来なければならないのである。

 この当時、半ば常識化されつつあった軍隊用語で言う「状況造り」に駆り出されるのである。農家の前で鉄鉢
(てっぱつ)を手に行乞僧の如き、涙ぐまし行脚(あんぎゃ)を遣る。農家の軒先を乞い歩く。その段取りで、この十名は営門に差し掛かったところであった。
 そこに衛兵と年配オヤジが烈しく遣り合っている場面を見た。
 トラックの運転者が有村緑。助手が長尾梅子。あと八名は、荷台の乗って営門を出るところであった。そういう場面で、衛兵と年配オヤジの問答に遭遇した。
 この時代を回想する。
 かつての軍隊の神聖視は失われていた。国民の多くが、軍隊は神聖なところを思い込んでいた理想郷はものの見事に崩れていた。兵隊は闇米を買って飢えを凌
(しの)ぐ有様であった。敗北に至るプロセスには、内側から崩壊して行くと言う現象が顕われる。聡い者は「これで日本は亡びる」と予測した時代だ。
 これを、少なくとも昭和12、3年当時の軍隊に戻さねば、和平に持ち込むにも、この態
(ざま)では結局足許を見られるのがオチである。有利な、よりよい負け方をするには程遠いものになる。よりよい負け方をするには軍隊自体が毅然とした形で現存しており、「まだ余裕がある」という物質的精神的余力を残していなければならない。遣い果たしてないという「余力」である。剣術で言えば残心である。反撃に備える心である。
 口先だけで「七生報国」などと唱えていても、それが軍からの強制では、実体がバレてしまうのである。個々人の堅固な精神構造が朽ち果てていないというのが問題であった。その強靭
(きょうじん)さが問われる。

 しかし現実は、精神構造云々も、「腹が減っては戦が出来ん」のである。
 兵士は「状況造り」で農家の前をうろつく。闇米を買って飢えを凌ぐ。日本の軍隊の兵士が、自己負担で食糧を購入するなどの話は、これまで一度も聞いたことがなかったからである。そのうえ闇米を買った時点でその米は私物である。その私物を、軍隊は暗黙の了解で、見て見ぬ振りをしていたのである。

 だが、軍隊に私物が持ち込まれれば、これまでの軍隊の伝統は崩壊せざるを得ない。兵隊が飢えを凌ぐのに闇米を買うなどは、今までに無かったし、また兵営の辺りに農民が闇米を売り歩くなども無かった。
 これ自体が異常であった。こういう異常事態が起これば内部崩壊したのも同じである。それは同時に、軍隊の誇りも崩壊する。例を尚
(たっと)ぶお国柄が崩壊する。
 その崩壊は、絶対に服従と言う日本軍の伝統が、根底から覆される異常事態であった。
 戦争指導者達はこの異常事態に殆ど気付かず、気付いていても感知しない鈍感振りであった。
 だが、現実には人間界というところは、斯
(か)くも過酷な相を持つ世界なのである。それを身をもって知らねば、指導者はその資格を失う。官僚主義の傲慢では、やがて人心を失うのである。
 強硬論を打ち立て、闘争を好んでばかりいては、反対者を蹂躙
(じゅうりん)したり、抑圧しても、そこから騒擾(そうじょう)の亀裂が起こる。歴史認識が欠如した教養力では、この愚に陥り易い。
 先の大戦の戦争指導者には、教養が欠落した軍人が多かった。それは、換言すればサムライ不在ということであった。戦争屋と言う専門ばかりに偏れば、見える世界も狭窄的
(きょうさく‐てき)になる。全体像が見えずして、体系のみを追求する思考では大局を見失う。昭和陸海軍の軍隊官僚には、その悪しき慣習を引き摺った跡が見られた。


 ─────日本軍の伝統が覆されはじめた。その異常事態が、聯隊の営門で一悶着
(ひともんちゃく)起こっていた。衛兵と一般市民の言い争いであった。その市民のオヤジは大八車に米俵を乗せ、それを馬で牽(ひ)いて来ていた。

 「おい、そこのおじさん。闇米の押し売り駄目なんだよ、禁止されている。さあ、帰った帰った……」衛兵は強引に門前払いを喰らわせようとしてた。
 「わしは闇米売りでない。自前の米持参で、入隊しに来たんだ」
 この話を衛兵は、冗談半分に聞き流した。
 「なにを馬鹿な……」衛兵はオヤジを相手にせず、早く失せろという感じだった。
 「わしはなあ、米を持参して、おまけに鍋釜も持参。それに軍服、軍帽、軍靴まで総て自前。わしはこの聯隊の津村隊に入隊したいんじゃ。入隊は自ら望んでの熱望だ。希望じゃないぞ、分るか熱望だ。第一志望の熱望だ」
 「そういわれても困るんだよなァ……」
 入営するのに、食糧も衣服も自前など聴いたことがないから衛兵は相手にしない。
 「わしは、新田郷の庄屋兼村長の堀川作右衛門、52歳。老婆心ながら、わが身体に鞭打って、入隊を熱望しとるんだ。それも、米の持参金付きでのう。この荷車の米は、入隊させて頂くための、わしの持参金だ。
 いいか、よう聴け。わしはなァ、この聯隊の津村隊に入隊するために、米を持参金にして、嫁入りするんじゃ……」と喚くが、衛兵は頭のいかれたオヤジくらいにしか思っていない

 「はァ?……」衛兵は、愈々このオヤジはおかしいと検
(み)た。何だか怪しい。病院行きか……。
 連日、兵士達は空腹に苦しめられていた。兵士は一日の食糧のことを、軍隊用語で『給料』という。その給料は、一日南瓜半分というときもある。麦混じりの米など滅多に出て来ない。給金が日々低下している。
 そこへ、米持参で入隊するなどと言う話は、前代未聞のことであった。物乞いが横行する時代、こういう類が顕われると、疑いたくもあり、また、ついに頭まで殺
(や)られたかとなる。

 そういう問答に、上位組の一行は出くわしたのである。
 この衛兵は、いつもだったらトラックに乗って出掛けて行く夕鶴隊の面々に「状況を造りに行くんかい?」と訊いて、冷やかし半分で見送ってくれる。冷やかし半分で、悪態の一つも突く。
 「お姉ちゃんらは、今日も状況を造りに行くんかい?……。女サムライとて、腹が減っては戦が出来んらしいな」とニタニタしながら訊くのだが、今日はそれどころではなかった。営門で、誰かと揉
(も)めていた。
 「衛兵のおじさん、どうしたの?」誰かが訊いた。
 「どうもこうもない。このおっさんが入隊したいと言うんだ。それもだなァ……、爺さまばかりが集まった津村隊にだと……。ちと、頭が訝
(おか)しいのじゃろう。『伝票』でも持って、医務室に行った方がいいのと違うかのう」と衛兵は妙なことを言い出した。
 「そういうときはね。お大事に……と言ってやるのよ」と、別の誰かが揶揄するように言った。
 「あんた、綺麗な顔に似合わず、随分といけずなこというんだなァ」と呆れたように言う衛兵。
 「衛兵のおじさん、覚えておいて。美人はみんな意地が悪いのよ」と、また誰かが揄
(から)かった。
 その言葉に釣られて、荷台の面々がくすくすと嗤
(わら)った。

 伝票……。軍隊用語である。また転用語でもある。それだけに意味不明。
 娑婆人は、この転用語に釈然としない。そもそも「状況を造る」こと自体が、転用語であるため娑婆人は理解し得ない。
 状況を造る……とは、乞食に類する行為である。
 その転用語に合わせて、俗語が氾濫
(はんらん)しているのである。その一つが、伝票という奇妙な言葉であった。軍隊では、娑婆では一切通用しない、しばしば合理的でない言葉が俗語として派生していた。
 伝票とは、躰が思わしく無いことを言う。ずる休みしたいときも、下士官が衛生兵に向かって、「医務室に行く伝票は無いか」などと訊く。それは「資格」や「権利」を指し、また異常者に対して「伝票でも持って軍医に診て貰え」という言葉を遣う。伝票とは奇妙に転用された用語であった。

 「あら、庄屋のおじさん……」思い出したように、中川和津子が荷台から柔和な笑みとともに聲
(こえ)を掛けた。
 「ああッ?、確か、あんたは……」
 「夕鶴隊の中川候補生です」
 庄屋は《あのときの少女歌劇団の……》と言い掛かって、「では、わしがこの兵隊さんに、自主応召しにきたと説明して遣って欲しい。それにだ、わしの家の米蔵を開いて、一粒残らず軍隊に寄附するぞ。これからトラックで取りに来て欲しい」と懇願するようにいった。
 「どうして、そのような心境に?」と和津子が訊いた。
 「わしは、津村少尉に蹤
(つ)いて、兵士として野戦に行くんじゃ」蹤いて行けば、その先に何かがあるように思い込んでいる。斯くして、老兵がまた一人増えたのである。


 ─────『タカ』が発令された。
 もう計画段階でない。『タカ』であった。
 津村陽平は密命を帯びて大陸に渡る。選抜者は、津村陽平を小隊長に、ほか15名であった。その中には勿論、室瀬佳奈の祖父・室瀬泉蔵61歳も含まれていた。また津村少尉の副官として、兵頭仁介上等兵も津村小隊と同行し、指揮官以下総員16名であった。総て老兵であり、任務は「皇国の礎
(いしずえ)」だが、要するに高級将校の弾除けであった。人海戦術で老兵は命を捧げ、命が無慙(むざん)に消耗・浪費される。
 津村小隊の隊員の氏名と年齢は、次の通りである。

             
指揮官
津村陽平(39)少尉(幹候)
軍装:曹長刀・南部拳銃
    鉄帽・図嚢・水筒

職業:画家
副官
1班伍長
五人の長の意)
兵頭仁介(40)上等兵(助勤)
軍装:将校刀・モーゼル拳銃
    弾嚢・背嚢・水筒

職業:元中等学校国語教師
室瀬泉蔵(61)二等兵
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:漆職人
河村啓次郎(47)二等兵
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:貿易商社員
梶野太郎(50)二等兵※1
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:農業(小作)
郡司与一(46)二等兵
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:洋服仕立業
2班伍長五人の長の意)
成田光男(55)上等兵
軍装:銃剣・三八式歩兵銃
    手榴弾・背嚢・水筒

職業:私大教授(考古学)
雪村留治(45)二等兵
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:新聞記者
三村賢治(49)二等兵※2
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:板前
野島源吾(59)二等兵※3
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:宮大工
相川 聡(42)二等兵※4
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:従軍僧侶
3班伍長五人の長の意)
浅沼重吉(59)上等兵
軍装:銃剣・三八式歩兵銃
    手榴弾・背嚢・水筒

職業:満鉄(調査部)退職者
橋爪 太(41)一等兵
軍装:手榴弾・護身拳銃
    背嚢・将校用水筒

職業:東京帝大助教授
佐伯雅夫(56)二等兵※5
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:柔道整復師
松田恭二(45)二等兵
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:作曲家・歌手
堀川作右衛門(52)二等兵
軍装:手榴弾・木刀
    雑嚢・瓢箪水筒

職業:庄屋(名主)
は捕虜経験者で、蒋介石の国民政府軍に、昭和8年〜13年に掛けて捕獲されたことがある。
 階級が二等兵なのは、捕虜になったために降格されたからである。弾除けとして再応召された。

 津村小隊の老兵の平均年齢は50.25歳であった。この年齢で、兵隊として組織抵抗するには、余りにも歳を取り過ぎていた。津村陽平を含めて16人の小隊は、その編制からして異常である。兵隊としての高年齢がそれを物語っていた。
 だが、隊員の15名は津村に下駄を預けている。信頼しきっている。
 隊員は自身が、少しは役目が果たせるだろうかなどとは思ってもいない。ただ津村を信じて、大陸に渡るのである。だが、その行き先すら告げられていない。そのため、この先、わが身がどうなるかについても考えてもいない。考えたところで仕方がない。彼らに心配は無用だった。下駄を預けた以上、心配は無用だった。
 命令に従い、大陸に野戦に行き、任務遂行後は、全員が無事に内地に戻って来る……、それを信じて疑わないのである。

 但し、万一的に捕まり捕虜になった場合、どうなるのか。ただこれだけが憂鬱
(ゆううつ)であった。
 編制された津村隊には、過去に捕虜経験者が五人いた。捕虜になり収容所に送られ、その後に解かれて日本に帰されたが村八分に遭い、地域住民から散々罵声を浴びせられた経験を持っていた。厭な記憶であった。
 収容所に居たときよりも、内地に帰ってからの地域住民の冷ややかな眼と態度に絶えきれなかった。異口同音にして「非国民」と罵られた。家には石が投げ付けられ、窓ガラスが叩き割られ、脅迫の手紙まで届いた。
 また家族まで罵詈雑言を吐かれ、子供は学校で苛められた。

 村八分……。
 住民パワーで仕出かす「苛め」である。苛めは何も子供の世界のものでない。大人の世界にも苛めは横行している。その横行の中でも、甚だしいのは地域住民のパワーで行われる「村八分」とか「所払い」である。
 私も習志野市にいた頃、最後は「習志野所払い」で、棲んでいるところから追い出された経験を持っているので、これが如何に凄まじい仲間外か察しがつく。全員が申し合わせて、その家やその家族、そして取引まで停止して、嫌がらせや妨害をするのである。私的制裁の最たるものであった。

 津村隊には、かつて野戦に出て行って捕虜になり、私的制裁を受けた者が五人いた。
 彼らの階級は剥奪され、二等兵に降格されていた。しかしこの五人を含めて、津村隊は平均年齢50歳と言う兵隊としては最長老の部隊であったが、津村を含めて、生き死にのことはなるようにしなならないと肚を括っていて、大して気にするふうでもなく、自分の死は自然に任せていた。死に対して不安がっても、どうなるものでもない。その辺は、後に続く者に任せればいい。屍体になった後のことまで気に病むことはない。
 この老兵部隊は、他の野戦に出て行く部隊と違って、陽気で楽観的なのは、部隊員全員が死生観を超越していた。
 老兵達は津村に下駄を預けている以上、死生観を越えて、今後も心は平安であろう。既に安住の地にいた。
 彼ら全員は、津村の説く「夢」の一文字に乗った。津村の説く「夢」の一文字は、世間でよく言う「人生夢の如し」という、感傷的な意味ではない。この夢は禅にも通じ、また老荘思想とも一致する「後に何も残さない」という。
 この夢に、老兵達は一縷
(いちる)の望みを託して、津村に下駄を預け、「夢」を旗印にした一叟の舟に乗ったのである。「同舟相救う」の気持ちが互いに働いたのである。

 一方、津村陽平は密命を托されたとは言え、実体が定かでない不透明に、些かの懸念があった。そもそも公瑞兆
(こう‐ずいちょう)なる人物が、未だによく分らない。
 また、この漢はM資金に絡む瞿孟檠
(仮名/く‐もうけいに繋がりを持つと言う。これ自体で、意図的には不明であり、危険この上も無い。
 易々としてやられる訳でないにしても、隠されたベールの奥が不透明である。奥の院が見えない。
 堀川作右衛門から聞いた話では、瞿孟檠が「貌のない影の皇帝」という。曲者
(くせもの)であるのは間違いない。それだけに、追跡しても簡単には尻尾を出すまい。それは今、東京憲兵隊S分隊が捜査している堀川彦宸(げんしん)こと公瑞兆の全貌も分っていないからである。
 津村としては、様々な思惑が時々刻々と変化しつつ、麻の如く入り乱れての状況下、『タカ』の実行だけが頼りだった。それを祈るだけであった。


 ─────あと三日の枠内で、緻密な大仕掛けを企てるグループがいた。『タカ』の三羽鴉である。大仕掛けの詐欺を働くと言う。標的は、二年半分の石油備蓄を、「半年分しかない」といった秘匿者である。
 昭和19年7月以降から敗戦の昭和20年8月半ばに掛けて、日本の指導層は本土決戦を遣って対米戦に涸れるなどとは微塵
(みじん)も思っていなかった。既に指導層は戦後の日本再開発の計画によって動いていた。負けることを前提にして動いていたのである。つまり、本土決戦のための戦費を約九百億円と見積り、それを前倒しして国庫から払い出させる計画を目論んでいた。勝つために本土決戦をするのではなく、最初から負けることを前提に、最後のひと暴れで、よりよい負け方をしようと目論んだのである。そのために、沖縄戦を本土決戦のためのモデルにしようとする計画も持ち上がっていた。
 大本営陸海軍部は、沖縄戦を本土決戦のミニモデルにして、その計画が研究されていたのである。

 また、一方「よりよい負け方」をするための研究は、他にも官民複合で、陸海軍、官界、財界、ジャーナリズムの大物た予備役軍人らで、研究するグループがあった。このグループを「近衛グループ」と呼んだ。あるいは「昭和研究会」と称した。反東条派である。
 このグループは華族で構成するシンパであり、近衛公爵が音頭取りをし、公爵を中心に組合運動のシンパであり華族の反逆児と言われた伯爵の有馬頼寧
(ありま‐よりやす)や、東京帝大の教授の蝋山政道、大陸浪人の後藤隆之助、牛場友彦、笠信太郎、尾崎秀実(おざき‐ほつみ)、矢部貞治らが名を連ねていた。しかし、尾崎秀実は昭和16年(1941)に、ゾルゲ事件に連座して逮捕、のち19年(1944)に処刑されている。
 ちなみに有馬頼寧は農政研究者としても知られ、立憲政友会の衆議院議員、農相、日本中央競馬会第二代理事長を歴任し、氏は「有馬記念」で有名である。

 この「近衛グループ」は、新国家社会主義的な政治改革を検討していた。また、華族の反逆児・有馬頼寧は後藤文夫らの近衛側近の人物や政友会の中島知久平、民政党の川崎卓吉らと新党結成を計画していた。この計画会議が有馬邸で、定期的に朝方行われていたので、「朝飯会」とか「荻窪会議」などと称された。
 この会議のメンバーが、やがて拡大されて、陸軍の林銑十郎や海軍の末次信正らが参集し、それに迎合する形で官界や財界から大物が集まった。更に、予備役に附された石原莞爾らも参加し、やがて軍部主導の下で、大政翼賛会という形で姿を顕すことになる。
 大政翼賛会は昭和15年10月に、第二次近衛内閣の下で結成された新体制運動で、国民統合組織で、産業報国会・翼賛壮年団・大日本婦人会を統合して、末端組織としては部落会・町内会・隣組をを吸収して膨張・拡大して行く。この組織は敗戦間もない、ナチス独逸が敗北した昭和20年5月に解散して、のちに国民義勇隊に吸収された。

 これと、同時代の昭和19年7月半ば頃の日本軍の状況はどうだったか。
 特に陸軍は、これまで獲得した既得権益を守ることに躍起になっていた。戦争強硬派の佐官級の高級将校は更に戦火拡大策を企てていた。
 この戦争の構図には、戦争を早期終結させようとするグループと戦争強硬派との、「徹底交戦派」対「早期終結講和派」との日本を二分する鬩
(せめ)ぎ合いがあった。
 徹底交戦派に与する者は、庶民平民出身者で構成され、一方、早期終結講和派は華族を中心とする天皇の側近者であった。そして、庶民平民出身者である高級軍人に成り上がった者や、高級官僚に成り上がった者が官僚主義に物を言わせ、庶民平民レベルで国家の権益拡大策を企て戦争続行を主張していたのである。
 それに対して、華族出身者達は戦争を早期終結させ講和を齎そうと奮闘していた。これは何とも皮肉な構図であった。
 昭和12年7月7日の日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」を起点として、日本軍部には下克上の嵐が吹き荒れ始めた。この事件は当日の夜、盧溝橋付近で演習中の日本軍が銃撃を受け、これを不法として翌8日早暁中国軍を攻撃し、両軍の交戦にいたった事件である。これが日中戦争の始まりであった。
 この裏側には「日独防共協定」の締結が絡んでいた。これは「徹底交戦派」を狂奔させることになる。盧溝橋事件の二年前弱のことである。

 参謀本部第二部
(情報)の独逸班長・若松只一中佐は、昭和10年(1935)11月4日、独逸に向けて日本を出発した。防共協定の草案作りである。同年11月25日、独逸は共産主義に反対する草案を作成し、反共産主義からの観点で、英国も味方につける案が打ち出された。
 これはヒトラーの英国と友好関係を築きたいと言う意図があったからである。そしてこの案が、独逸陸軍武官の大島浩
(大佐)にも示された。しかし大島は、示されたものは統帥に属するのとして、駐独大使や海軍武官には知らせなかった。また大島の報告を受けた東京の陸軍中央部も、外務省や海軍省には知らせなかった。協定草案は陸軍の極秘主導で仕切られた。これがゾルゲ事件の間接的要因になる。
 ところがこの草案の話し合いが、ソ連の『タス通信』によって暴露された。

 若松只一中佐は、ベルリンに向かうに先立ち、駐日独逸大師館のオイゲン・オット武官だけは伝えた。オット武官は、ディルクセン大使には伝えなかったが、これを大使館出入りの新聞記者リヒャルト・ゾルゲに伝えた。ゾルゲは独逸人新聞記者で、ソ連赤軍の諜報員だった。ゾルゲは、これを直ちにソ連情報部に伝えたのである。
 この波及が、やがて「日独の極秘の話し合い」として、英国の『ニュース・クロニクル』紙からも、すっぱ抜きで暴露された。更には仏国
フランス/仏蘭西)の某左翼系新聞も、このことを報じた。
 これに、更に尾鰭
(おひれ)がついて、「日本はナチズムの宣伝の道具に使われている」という風評が立ち、このとき亜細亜局長であった東郷茂徳はこれを危惧(きぐ)して、「イギリスとの関係を考慮して欲しい」と、防共協定には反対するが、陸軍部内(血の気の多い徹底交戦・強硬緒論を主張する若手の佐官級)の圧倒的多数で締結は強引に推し切られることになる。以降、陸部軍内部には下克上の風が吹く。こうして日本は、やがて世界を相手にして枢軸国になり、日・独・伊の軍事同盟を締結することになる。

 陸大出身者を天保銭組
(陸大出身者は天保銭大のバッチを付けている)という。また首席卒業者を恩賜組という。
 恩賜組の人物評定を行うと、服部卓四郎・辻正信・瀬島龍三らの作戦課員の参謀らは、評定上は先ず私心が無く、企てや作為と言うものが無いように映る。併せて頭が凄く切れ、それなりの勇気も持ち合わせているように見える。
 だが時機
(とき)を検(み)る眼はどうか、時勢を読む勘はどうかとなると、権勢に乗じて、野望を逞しくしたという箇所が浮上して来る。自分に与(くみ)する人間だけを用い、そうでない人間を排除する。陸大天保銭組の服部卓四郎・辻正信・瀬島龍三の人脈は、これを雄弁に物語っている。
 また海軍で見れば、米内光政・山本五十六・井上成美の人脈にも、同じような兆候が克明に顕われている。
 こなると、公儀は無視される。結果的に「国家の安危も略
(ほぼ)、懐(こころ)に介せず」となる。
 しかし、それだけに留まらない。
 遂には「功を貪り、血塗る争いを啓
(ひら)き、寵(ちょう)を怙(たの)み、威を張り、是に愎(もと)(剛愎で人のいうことを無視して遵わず、片意地を張る)、情に任せ、国政を撓他(どうらん)(膠水(にかわみず)につけた革を鉄鎚(かなづち)で打ち固めるの意から、国を破壊する、滅ぼすの意)」となる。地位・名誉・権力を求めて、私心の塊になり国を乱しに懸かる。

 こうした状況下、沢田次郎は口癖のように言う。
 「そりゃァ、そうでしょう。陸大恩賜組は聡明なエリートの集まりでしょう。それは鷹司さんを見ても分ります。しかしです、その聡明な人でも、自分の側近者が、何の文句もいわず、苦言もいわず、直言もせず、そういう類
(たぐい)ばかりを傍(そば)に置いて、調子のいい事ばかりを耳にしてりゃ、幾ら賢人でも、馬鹿になるのが当然ですよ。これこそが権力の落し穴です」と諭すように言う。
 権力を得た人間は麻痺に陥り、やがて墜落する。そして不安と焦燥に襲われる。これを権力の毒という。
 「では、君は自分の悪口を言う連中をどう思う?」と来栖。
 「自分の非の研究材料になります。これまで気付かなかった盲点が見えてきます。併せて修正が出来ます」
 「諂
(へつら)いを避けるには?」次は鷹司。
 「ゴマスリを排除して、耳障りの悪い、苦
(にが)き者を起用して、その者に直言をさせます」
 「わが君のために、死をも辞さぬと豪語する者は?……」と来栖。
 「それこそ諂いです。そういえるのは、死を必要としないときだけです」
 「諂いと直言の区別は?……」と来栖。
 「今風に言えば、『あなたが居なければ、この国は持ちませんよ』などと歯の浮いたことをいう輩です」
 「其の美を挙げて、其の欠を責むる者なかるべし……か……」と、かの五代友厚が親友・大隈重信に、その短所を示した格言の『五箇条』の一節を、鷹司友悳は吐露した。
 「そうです。むしろ短欠を挙げて赤心を示すべし、其の失敬を恕
(じょ)せよ(赦す)です……。争言は、君主に直言して、君主と争う臣ですが、則ち、根底には赤誠があります。一方、諂い者は『一国、争臣なければ殆(あや)うし』を致す徒です」と沢田次郎は自身の見解を述べた。

 佐官どもの独断専行と下克上の弊風は猛威となって大旋風を起こし、これが大戦末期の本土決戦へと繋がるのである。階級的には大尉・少佐・中佐の参謀本部課員が陸大卒業時の恩賜風を吹かせて、例えば支那駐屯軍の将官や参謀長らを、夜中でも叩き起こして、一方的に主戦論を煽り立てるのである。これは国そのものを危うい方向に導いたのではなかったか。大陸の戦火がそれを雄弁に物語っている。

 そして、ソ連の『タス通信』や仏国の“某左翼系新聞”が防共協定締結に向けての日本指弾に入り、協定破棄に向かうと、参謀本部の佐官級の課員が「その調停破棄、待ってくれ」とやり、この時代の佐官級の陸大恩賜組の猛威は凄まじかった。この恩賜組は、その殆どが平安貴族や維新の功労者の華族とは正反対の、庶民・平民出身であったことは、何とも皮肉であった。

 庶民・平民でも人間であることには変わりない。四民平等。士農工商の身分観念は一切無し。一見、理想社会の平等の概念で溢れているように思える。ところが平民が権力を握ると恐ろしい。昨今の官僚主義の、底辺末端の顕微鏡下の微生物を見れば分る。その微生物は、官僚の眼にはどのように映っているか。
 このとき、手駒とする底辺の微生物をどのように動かしたか、それを観測すれば分ることであろう。
 一握りのエリートは万事抜かり無く、何喰わぬ貌をして、険悪で恐ろしい手を打って国民を戦争へと駆り立てた。またその後遺症が、大戦末期まで継続されていたのではないか。

 庶民・平民であっても、福沢諭吉の『学問のすゝめ』によって、国民の誰もが認める「三大難関校」を突破して一度
(ひとたび)官僚の地位を得ると、人間はこのように底辺・庶民の微生物を、赤紙一枚で酷使し、人命を軽視するのである。本来ならば、庶民・平民こそ、庶民の味方でなければならなかったのではないか。
 その有能が結局、権力として使われて、庶民が酷使される実情を生んだ。彼らに握られた手駒は兵役で酷使された。
 昭和12年に始まった盧溝橋事件からの経緯を考えれば、僅か八年ばかりの歴史の中に、軍隊官僚が目論んだ大東亜戦争の流れが見えて来るではないか。
 この事件が起こったとき、日本陸軍は「三ヵ月で決着をつける」と豪語したものである。これこそ、とんでもない誤算であった。孫子の謂う「小敵の堅
(けん)は大敵の擒(きん)」となった。日本は度(国土の広さ)・量(生産資源力)・数(人口)・称(戦力)の初歩的な算術計算を誤った。このとき負けるべき籤(くじ)を引いてしまっていた。

 軍隊官僚どもは利権を目論んだ。それを頑
(かたくな)に守ろうとした。
 特に大陸においては点移動、線移動で戦線を拡大した。陣取り合戦で面の支配は出来なかった。そもそもその種の利権が目的であったのか。目的ではなく、事の成り行きの結果ではなかったのか。

 世の中には、非の打ち所が無いという者がいる。頭もいいし、才もある。言葉巧みで交際も上手く、弁舌爽やかで何の差し障りも無い。大して大酒も呑まぬし、お行儀が良くて、女漁りもしない。総てが寔
(まこと)にこぢんまりまりと統一されていて、その整いぶりはバランスがとれ、数えるべき短所が殆どない。
 しかし、この評価は「減点主義」から生じたものである。
 その種の人間が官僚には多い。当時の陸大恩賜組も、その種属
(species)だった。
 その種属をじっくり観察すれば、さっぱり旨味がないのが見えて来る。したがって感動も感激もない。
 彼らは何やら忙しそうに働いている。論理を並び立てて、仲間内で小難しい議論を展開し、自身の誇張する論陣を張って大得意になっている。だが、遣っていることと言えば、要するにどうでもいいことなのである。
 念頭にあるのは、いつまでも利権を守り続けることばかりで、それ以外に、何の変化も求めない。
 この種の、どうでもいいことは、誰でも遣れることばかりで、可もなく不可もなくの類であった。国民はこの類に平身低頭し、高額なる俸給を払い続けて来たのである。

 思えば、そんな手合いが幾千万、集まったところで、傾いた状況を変化させ、いい方向に動かすことは出来る訳がないのである。この種属
が時代を動かす力にはなり得ないし、常に欧米の下に序列されて、軽くあしらわれるだけであった。戦略皆無であった。最後の最後まで、奇手の一つも出て来なかった。
 この時代の軍隊官僚に、もっと手応えのある人間を欲したが、そう言う人間は最後まで顕われなかった。
 勿論、手応えのある人間となると、そう言う人物は凡人・凡庸の持ち得ない短所もあるだろう。だが、その短所こそ、またそれが魅力ではなかったか。
 この比較を、日露戦争当時の日本海海戦における東郷平八郎と、真珠湾奇襲攻撃を企てた山本五十六の、両連合艦隊司令長官で比べてみれば、その違いは一目瞭然となる。
 東郷平八郎は、ある人から「日本海海戦で敗れたらどうなるか」と問われた。そのとき東郷は「私はそう言うことは一度も考えたことがない」と答えた。これこそ最高の答で、解答としては大正解であろう。
 皇国の興廃が懸かる大決戦において、負けたらどうなるかなどは考えなくてよい。負けたら、地球の地図から日本が消えるだけである。勝つ場合のことだけを考えておけばいいのである。それ以外に可能性はない。事前に負けることなど考えておく必要はない。

 一方、山本五十六の場合はどうだったか。
 真珠湾奇襲攻撃に失敗すれば、大日本帝国はどうなるかを考えていたのではあるまいか。ハワイまで攻め込むならば、そこを制圧して、総てをもぎ取りに懸かるべきだった。そのままアメリカ本土まで突き進めばよかったのである。しかし、ルーズベルトの度肝を抜く気持ちはなかった。フリーメーソン同士は密約で、ハワイの太平洋艦隊の旧式軍艦を叩くまでであった。その先はない。スクラップ同然の退役間近な老朽艦を叩いて、細やかな露払いをしたに終わった。これは勝利ではなかった。日本が焦土と化す第一歩であった。米国民の反日感情を煽っただけであった。
 以降、米国民は"Remember Pearl Harbor
(真珠湾を忘れるな)" をスローガンに立ち上が、米国民を奮い立たせただけであった。ルーズベルトの策に懸かったと言えよう。
 山本の場合、最初から、東郷平八郎のように不動の信念は持っていなかった。そのために第三次攻撃を加えなかった。それを躊躇
(ちゅうちょ)した。
 つまり、皇国の興廃の懸かる決戦において、六隻の虎の子の空母を惜しんだ。その吝嗇
(ちんしょく)が奇襲作戦司令長官の南雲忠一に感染していた。吝嗇病である。ゆえに南雲長官はそれ以上、攻めなかった。これが第三次攻撃を加えなかった理由である。

 斯くして日本は、大陸での戦争の火種を消さないまま、中途半端な日米開戦に踏み切ったのである。これでは誰が考えても、勝つ戦いを戦っているとは見えない。大東亜戦争の全貌が見えれば、最初から負け戦を、気勢だけで勝つようなポーズで戦っていたのである。国際政治を見れば、日本はどう考えても勝てる訳はなかった。それにも況
(ま)して、戦争指導者が無能揃いだった。
 最高の条件の時
(例、南京攻略直後、真珠湾奇襲直後、シンガポール侵攻直後など)に講和しておけば、強引なる連合国の無条件降伏などあり得なかったのである。広島・長崎の原爆投下もあり得なかったであろう。
 神風は吹いていたが、その幽
(かす)かな神の声を聴く者など、軍隊官僚の中には殆ど居なかったということである。当時の軍隊官僚は「時機(とき)」を知らなかった。時機を逸したのである。そのため、いい気になって奥へと深入りした。利権保守に血迷った。

 この流れをフィードバックしながら、夕鶴隊オフィスの防音完備の会議室では、鷹司友悳と来栖恒雄、それに沢田次郎の三羽鴉が角を付き合わせていた。謀議をする。早期戦争終結の手段を講ずる。何処に刺戟を加えたら効果的か、密談を交わす。
 この中で、華族と言えば、平安時代からの貴族の子爵・鷹司清隆の御曹司の鷹司友悳と、養父で伯爵の沢田翔洋の養子となった沢田次郎の二人で、ウエストポイントに留学経験を持つ来栖恒雄は平民の出であった。
 それぞれは出生は違っていても、固い信頼で結ばれていた。このトライアングルは上辺とか、毛並みにはこだわらず、人間を見、人間を信頼する結束で繋がっていた。三人よれば、普段は平凡であっても、互いの「砥石効果」で智慧が出て来るものである。相談し、謀計を縦横に交わし、徹底的に欺瞞を謀議する。
 まず彼ら三人は、靡
(なび)き易いところを探した。結果が目的でないところを探した。そのターゲットを定めた。兵は詭道なり。己を知らず敵を知らない未熟者は、斯くして欺かれる。


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