運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 38

人間と動物の違いはどこにあるのだろう。
 人間は、自分以外の他人のために死ぬことも出来る。その打ち消し難きは、他人のために、自ら総てを投げ出して、自分が犠牲となる自己の存在である。人間と動物の違うところである。

 一方で社会が、その社会のシステムが如何に進化しようと、完全なる理想の社会に到達しない限り、自己と社会のために渾然一体とはなり得ない。何故なら、全体の自己を包摂
(ほうせつ)しうるほど人間社会は完成されていないからである。未(いま)だに、その発展途上である。

 したがって、理想社会が完成し、同時に自己が完成せざる限りにおいて、他人と自己の関係において、総ての対立を消失するに至らないのである。如何に熱烈なる社会改革者と雖
(いえど)も、此処に確執があることを認識するであろう。


●プロパガンダ

 炎天下、20輛の『くろがね四起(よんき)(九五式小型乗用車)が勢揃いしていた。何れも新車である。
 後部座席は取り外されて、九二式重機関銃が据え付けられていた。運転教官は車輛運搬担当の正木信吾
(陸軍伍長)である。
 「これから運転指導をする」正木伍長は大声を張り上げていた。
 そこに薄めのカーキ色の夏季用防暑服
(上:長袖開襟シャツ。下:スカートの夏季ユニホーム)を着た夕鶴隊20名と、主任教官のアン・スミス・サトウ少佐とキャサリン・スミス少尉の22名がいた。全員、夏季用の茶色皮の帯革と茶色皮の拳銃ホルダーに納まったブローニングM1922拳銃で軽武装している。拳銃には、いつでも発射可能状態にして、8.00粍(ミリ)拳銃弾が装填(そうてん)されている。装弾数は弾倉に10発装弾(うち薬莢室1発)している。
 この拳銃は、M1910に較べて、銃身も25mm延長され、その全長は113mmと長い。それだけ威力も大きい。弾数も二発多く装填出来る。
 勤務中は夕鶴隊員は帯革をしたまま任に就く。そして朝晩、拳銃点検が行われる。
 また、昭和16年11月頃まで、将校用の護身拳銃として、M1910は民間では一般の銃砲店や陸軍偕行社
(かいこうしゃ)の酒保部(売店)で販売していた。

 しかしブローニングM1922は英国経由でしか入手できなかった。日本では入手困難であり、これらは沢田貿易商会が上海経由で送られて来る特別軍需品扱いで、夕鶴隊の教官並びに隊員に配給されていた。そういう拳銃で軽武装した夕鶴隊員らは、これから車輛の運転を教わろうとしていた。
 彼女達は単に乗用車が運転出来ると言う程度でなく、大型トラックまでも運転出来る技術を身につけるのである。あるいは遊撃戦を展開する上で、敵の鹵獲
(ろかく)車輛を運転する羽目にならないとも限らない。あらゆる車輛を乗りこなす訓練を受けていた。
 当時の車は、ハンドルも重い。今日のようにパワー・ステアリングなどではない。そのために高度な運転技術がいる。霊的な勘と運動神経もいる。
 教官は正木伍長の他に、伍長助勤の上等兵が五人ついていた。正木伍長を始め、他の五人の上等兵も、まだ昭和12、3年当時の気風を残した下士官ならびに助教であった。かつての“殴る軍隊の気風”を残し、それなりの規律があった。

 しかし、今はそんなものはない。昭和19年7月現在には、かつての気風は失われ、一階級でも位
(くらい)の上の方が、気分次第で下の者を殴り放題であった。更に下士官と兵の格差では、殴るにも度が過ぎていた。
 ただ感情に任せて殴るだけであった。この時代の軍隊は野蛮な飯場の荒くれ者の世界に成り下がっていた。
 その中で、輜重部隊の正木伍長と、その部下の五人の上等兵助教は昭和12、3年当時の気風を留めおき、規律の厳しさを残し、立居振る舞いに美しさがあり、日本流のサムライであった。それだけに、心服をする上士を知っていた。部下の支持は強く、正木伍長の言うことを道理と感じている。正木は孤独なる下士官ではなかった。心服する部下が多く居た。

 20輛の『くろがね四起
(よんき)』が勢揃いした前で、正木伍長は聲(こえ)を張り上げて、運転席前方の計器その他についての説明に余念がなかった。それは若い女性に囲まれているからではない。女の前で、エエカッコシーをする類(たぐい)ではなかった。正木本人の、人となりであった。この漢の本性であった。この漢は、人物誠実であった。他には何もない。裏表がないのである。
 正木伍長は最初、このように説明した。

 「車は、アクセルを踏んで疾しり、ブレーキを踏んで停まる。力が欲しい時にはアクセルを踏んでエンジンの回転数を上げる。それを踏むと気化器の絞り弁が開き、回転数が増加して加速する。つまり車は加速する。
 次にクラッチとは連軸器のことである。この連軸器とは、一直線上にある二つの軸の一方から他方へ動力を任意に断続して伝える装置のことっだ。これだけの構造である。他には何もない。これが、ABC順に並んでいる。この三つ
を躰に叩き込んで、車を運転すればいい。運転は頭でするのではない。躰で自在に動かせ。
 では、全体を五班に分ける。助教について各員は運転を開始せよ。運転が巧いかそうでないかは、その者の才による」
 それを傍
(そば)で聞いていた教官のアンもキャサリンも車は運転出来る。
 しかし、『くろがね四起」は四輪駆動車である。四駆に乗るのは初めてである。マニアル車でもクラッチの切り替えはある。また当時は、オートマ車などはない。総てクラッチで切り替える。その限りにおいて四駆車はクラッチのスムーズな切り替えが、巧いか下手かの別れ目となる。打
(ぶ)ち込み方だ。彼女らはその構造に興味があった。この『くろがね四起』は日本の国産車である。
 この車は当時でも珍しい走行性を持ち、平地のみならず、丘地や岩盤の上も走行可能である。遊撃戦には好都合であった。小回りが利き、その運動性もいい。そのうえ九二式重機関銃で武装している。今風で言う沙漠を疾るディーゼルエンジンを搭載した馬力のあるランド・クルーザーにも引けを取らず、丘陵などを縦横に駆け巡れる。

 夕鶴隊員は、一人に一台任せられ遊撃戦体勢を執りながら、実戦さながらに小高い丘に駆け上がり、またそこから一気に下る高等技術を訓練していた。まさに車の分列行進で、それは併せて、「常山の蛇」のように動き廻らねばならない。単に一台だけが曠野
(こうや)を疾走するのでない。敵前を有機生命体的に駆け回り、全車輛が「常山の蛇」になるのである。これこそが、アン・スミス・サトウ少佐の意図するところであった。

 車、一台一台は、最小単位の細胞であり、各細胞と連携して一つの動きをする。
 常山に住む「卒然
(そつぜん)」という両頭の蛇は、首・胴・尾が連携して動く。その動きを四輪駆動の『くろがね四起』で再現する。首・胴・尾となって連動する遊撃法を模索して、車を動かすのである。
 そして、この「動き」が効力を発揮する場合は、それぞれが細胞の一部として有機生命体的に働いた場合に限り、有力な効力を発揮するのである。したがって個々人、一つ一つが部品として優秀でも、連携出来ない場合は、単に無機物である。
 武術でも、三位一体などの考え方があり、三者を縒り合わせることで効力を得るという戦闘思想があるが、それは個人の場合であり、近代戦における組織戦では個人格技は殆ど意味がない。
 つまり組織戦とは三・五・七・九などの奇数の人数を用いて「常山の蛇」の動きをすることにある。
 これは、一つの目的を達成するための分業化ではない。同時進行で、それぞれが巧妙に自在に、有機生命体として動かねばならない。したがって『くろがね四起』は、三・五・七・九の奇数台数をもって時機
(とき)に変化し、それぞれで異なった、あたかも「常山の蛇」の動きをする。

 常山の蛇は、頭を攻撃されると、それに応じて尻尾が巻き返して反撃して来る。反対に、尻尾に攻撃を加えると、頭が巻き返しにかかる。また
中央が叩かれると、頭と尻尾が、両方から一斉攻撃を始める。
 この比喩
(ひゆ)の通り、それを車で遣る。これを遊撃戦の戦闘基本に置いた。
 斯
(か)くして、毛沢東が言う「一を以て十に当り、十を以て一に当たる」が成るのである。
 但し、この思想は戦闘においての遊撃戦
(ゲリラ戦)を言うのであって、物造りの思想ではない。
 単に「資本家のロープで資本家を吊るすだけ」であり、鹵獲
(ろかく)した物で戦う意味からすれば「元手いらず」だが、これは物を造るのではなく、破壊することだけにしか通用しない。物造りとなると、そうはいかない。壊すより、造る方が難しいからである。

 戦時でも、科学者や技術者は前作品を叩き台にして、次に如何なる次作品を造るかにあった。同じ物を何年も使っていられないからである。つまり武器を始めとして、戦車や軍用車輛、飛行機や軍艦は賞味期限と言うより、「消費期限」と言うものがあるからである。武器も時間とともに古くなる。
 古いと、性能に格差が出る。幾ら腕がいいからと言っても最新鋭の物に敗れるからである。旧式の物は、最新鋭の物に敗れ去る。科学の進歩や技術の進歩は、偏にこの中に包含されている。
 日本の敗戦の原因の一つに、一つの作品が一人の天才によって作り出されてベストセラーになれば、それを半永久的に使い続けたことである。こうなるとベストセラーがやがてロングセラーになって、次のベストセラーを作り出さなくなる。改良はあっても、旧態依然のベストセラーに縋ろうとする。そうなると、三年前のベストセラーは、三年後には旧式のものになっている。その顕著な例が『零戦』だった。
 『零戦』は日本海軍でベストセラーになったため、次ぎなる『紫雷』を改良して、プロペラ機では最高傑作といわれた『紫電改』が出来るのが大戦末期であった。遅過ぎたのである。あるいは『零戦』がロングセラーになり過ぎたのである。

 もともと『くろがね四起」は四輪駆動車は、沖縄戦で使うと考えれいたらしい。しかしその実現には至らなかった。
 戦争をするには軍資金がいる。
 軍資金の手当に遅れると、のちの武器や弾薬が調達出来なくなり、あと残された戦い方となると、万歳突撃のような、人海戦術になり、死体の山を築くだけである。それを防ぐには、潤沢な軍資金がいる。ある程度の武器弾薬が必要であり、また車輛などについても最新式で、敵の物より群を抜いていなければならない。その辺に、戦うための消耗戦における手当を必要とするのである。竹槍訓練と精神主義だけでは近代戦には勝てないのである。また兵や下士官が優秀でも、それを指揮する指揮官が無能では、勝てないのである。
 近代戦は、また消耗戦であった。戦争をするには、潤沢な軍資金と量産システムと、知将の才がいる。
 したがって、人命だけを消耗させても勝てないのである。命は何処までも命であり、物ではないし、物は何処まで追求しても命にはなり得ない。有機生命体と、無機物との違いである。

 『くろがね四起』を三・五・七・九の奇数台数によって、「常山の蛇」の動きをする。野山や浅瀬の河川を縦横に、軽快に動き廻る。それがアン・スミス・サトウ少佐の発想であり、戦闘目的であった。
 「常山の蛇」の有機生命体的な思想を津村陽平が、これまで以上に、より具体的に説いた。津村は道教的思想をもって小国寡民
(かみん)の遊撃戦機能を説き、また相対界は拡大・膨脹の作用に対して、それに反作用する求心・収縮する現象界の理(ことわり)を説いたのである。
 津村の自然観は、「自然は一個の有機的生命体で、本来は分割出来ないものである」と主張した。
 だが人間は科学力と称して、してはならないものを、相対的な二つのものに分割し、二つを四つに、四つを八つにと分割して、細分化・専門化して、その研究の精密さに対し、一方自然の方は、二倍、四倍、八倍と完全性を失って行くと論破したのである。

 しかし津村の論に、体系科学を持ち出して、アン・スミス・サトウ少佐これに反論を加えた。
 拝師の礼を執りながらも、『津村論』に彼女は反論を加えて、次のように述べた。
 「でも先生。人間が人間を観て、人間が判断する場合、物の実在を確かめ、かつ、そう信じているものが人間ですわ。人間が見て判断するのですから、もちろん主観が加わらないとは申しません。しかし、人間には物を考える思考力があり、主観を離れて客観的に物事を見ることも出来ますわ。そして、これまで帰納的実験と判断を繰り返しながら、万物を関連的に、体系的に、相互作用の中で捉えてきました。それが決して間違いなかったことは、空に飛行機が飛び、地上で車が疾る。更には海には船が行く……。これは文明の現実の姿を立証したことになりませんこと?」とアン。

 「しかしです。これまでの人間が齎した文明を顧みて、それを検
(み)た場合、何処かで、それが狂っているとすれば、それを狂わせた人智も、何処かで狂っていた、となりはしますまいか」
 「だから、体系的な科学性というものが重要な問題になってきます。体系こそ、科学を立証するもので、自然科学をはじめとする加速度的な急進のお陰で人間は、あらゆること知り得たのではまりませんこと?」
 「果たしてそうだろうか。より多く、より大きく、より良いものをと考えは発想は、誰もが文明を進化させたと信じている。これはむしろ、自然を壊して、損になる方が多かったのではありますまいか。
 そしてです。科学は未だに不完全帰納法の範疇
(はんちゅう)を出ない!」津村は毅然として言い放った。
 「だから立証実験をしているのでは?……」
 「その元兇が、大東亜戦争における日本の戦争の遣り方で、西洋の帝国主義や植民地主義を真似したことではありますまいか。
 つまり、日本人の戦争観は、廟算
(びょうさん)を誤ったといえるでしょう。そもそも『八紘一宇』の大義名分だけで勝てる筈がない。大義名分は時として弱点を補うでしょうが、最もオーソドックスな、『敵を知り己を知る』という点を見逃したことでありましょう」
 「押しの一手、強気の一手で、ごり押しの強硬論では勝てないと言うことですね」

 「さよう!……。
 正と奇、静と動に組合せによる戦略と戦術が必要であり、単に強引に押しまくる正攻法では勝てますまい。
 あなたは、武田信玄の『風林火山』を知っておられるか。あれは、正と奇、静と動を巧みに組み合わせた戦略と戦術。いま、あなたが一番欲しておるものではありますかいか」
 「それは、つまり兵は詐
(さ)をもちて立つということでしょうか」
 「兵は詭道
(きどう)なりの奇言は、そもそもそこにあります。『孫子の兵法』は、藕糸(ぐうし)の部分が多く、字面を追っただけでは理解できない。隠れた部分を読んでこそ、有機生命体になり得る。それは科学的体系でない。体系では見えて来ない、隠れた部分を持つ。ゆえに体系的には理解し得ない。
 これは、科学的体系を至上としては、発想が貧しくなります。なぜなら体系を追うと、肝心なる藕糸
が見えますまい。この藕糸の譬喩(ひゆ)は、蓮華(はす)の根の下の地下に伸びる隠れた糸を見逃すことになってしまいます」
 「藕糸の絶えざるが如しですか……」
 「つまりです。有機体イコール科学的体系ではないはず!……」と津村は鋭く迫った。
 「西洋科学は、先生の目から見て貧し過ぎますか?」
 「東洋には科学的体系の中に納まりきれない物が無数にある。人は……、人間は……、その匂いを嗅ぐことが出来る生き物……。
 よろしいか、物事を正しく見るには、赤子の無垢な直観の眼で見るしかない。つまりその眼は、分別しない眼で、自然をそのままの状態で視ている。これこそが、一つの統一体と言えるのではありますまいか。
 その完全なる統一体を赤子は無垢
(むく)の眼でそのまま見ている……。そのときに『常山の蛇』は自然のままに動き、互いに自然のままに補い、防禦し合う。科学は、未だに不完全帰納法からなっていることを見逃してはなりますまい」
 「先生の仰りたいこと、確かに承りました。お言葉の数々、有難く頂戴致しました」

 アンは再び『常山の蛇』を考えた。
 正攻法は、数に物を言わせた偶数戦法。
 一方、三・五・七・九の奇数は奇手を用いる奇襲戦法。この違いは大きい。つまり、人民戦線の思想宣伝である。あるいは用いる場合の大義名分である。抑止力は時としてプロパガンダに回帰される場合がある。

 それに関して、1935年にモスクワで開かれた第七回コミンテルン大会における「人民戦線」方式が採用され、このときソビエトは、日本の軍国主義と独逸のナチズムに対し、この両国を「侵略戦争の張本人」と決め付けたことであった。そして、この決定により、そのとき「民主」と云う言葉を持ち出して、両国に対し共同戦闘を呼びかけたのである。
 つまり、五ヵ年計画により、自信をつけたソビエトはシベリアと満洲の国境地帯の防衛と名目で極東赤軍を着々と増強したのである。
 また、この日ソ関係は中国問題で妥協的に日本と接近していた英国との関係を悪化させることになった。それは日本の孤立であった。

 「人民戦線」方式を挙げれば、「スペインの内乱」
(1936〜39)が有名であるが、それ以上に、中国で起こった「西安事件」の方が重要である。
 この事件は、1936年12月12日、共産党軍討伐のため西安に駐屯中の、旧満洲軍閥の張学良麾下
(きか)の東北軍が、南京から督戦にきた蒋介石を監禁した事件である。張学良は内戦をやめて団結、抗日することを要求し、また共産党の周恩来の斡旋もあり、まもなく蒋介石を釈放した。国共合作による「抗日民族統一戦線」の結成の契機となった重要事件である。
 そして蒋介石は、抗日が張学良や中国共産党の主張だけでなく、多数人民の世論であることを知り、張学良の要求を無理矢理呑まされた。この事件は、人民戦線の思想宣伝
(propaganda)の勝利であると言えよう。その結果、以降の蒋介石の国民政府軍は、中国の知日派の対日的な宥和(ゆうわ)政策(appeasement policy)をすっぱり切り落としてしまう。日本が孤立した根本原因であった。日本の悪夢はここから始まった。おまけに大東亜戦争(太平洋戦争)を戦う羽目になる。日本の外務省の無能と日本人の外交音痴が招いたことであった。

 例えば、1938年9月29日のミュンヘン協定で頂点に達したナチス独逸に対して英国のネヴィル・チェンバレン
首相のとった政策などがこれに当たる。これによって第二次世界大戦は一年以上引き延ばされた。
 この策の裏には、独逸の関心をソ連に向けさせる意向があった。そして英国の防備に時間稼ぎをする策であった。英国がスペイン内戦に不介入で通したのも、介入すれば、それが世界大戦の引き金になり、ソ連を喜ばせる結果になると考えたからだ。その結果、第二次世界大戦は一年以上引き延ばされた。
 ところが、日本は中国の知日派の対日宥和政策が打ち切られた。以降、悪化の一途を辿る。背後には、これに中国赤軍が関与して糸を引き、張学良を操り、蒋介石を軟禁するという事件が、つまり仕組まれた西安事件であった。この「人民戦線」方式に、日本は敗れたと言えよう。その裏が読めなかったのである。

 では、このとき毛沢東はどうしたのか。
 注目すべきは、毛沢東が赤軍・人民軍に叩き込んだのは『三大規則』と『注意八項』であった。プロパガンダの戦略である。ゲリラ戦を展開するうえでは、これが欠かせないと検
(み)たのである。流石(さすが)に毛沢東は智慧者だった。
 毛沢東の『三大規則』は次の通りである。

一切の行動は指揮に従う。
大衆から針一本、糸一筋もとらない。
鹵獲品はすべて公のものとする。

 次に『注意八項』は次の通りだが、至って常識的なことを注意している。

八項 毛沢東の『注意八項』 日本の軍隊官僚主義
話は穏やかに。 夜郎自大。威張り腐ってサムライの気風無し。
買い物の支払いは公正に。 華僑に対しての不渡り手形如きの軍票の乱発。
物を借りたら返す。 商船など、一度徴用したら返さない。
物を壊したら弁償する。 物だけでなく、人命まで損傷させた。
人を殴ったり、怒鳴ったりしない。 陸軍省軍務課員の佐藤賢了の「黙れ!」が有名。
農作物を荒らさない。 スイカやメロン等の果物栽培の禁止。
婦人をからかわない。 男尊女卑。慰安婦等、その延長で女性を物質視。
捕虜を苛めない。 辻正信の「バターン死の行進」が雄弁に物語る。

 毛沢東の『三大規則』や『注意八項』には総て常識的なことが述べられている。しかし、この程度のことが実は軍隊では守られないのである。殺気立っている兵士らにとって、『三大規則』と『注意八項』を守ることが非常に難しかった。
 毛沢東に対する人物評価については、ともかくとして、彼は如何に「人民に愛される軍隊」を創るのに苦労したことが、以上によってよく分るというものである。夜郎自大では人民は蹤
(つ)いてこないからだ。
 これに比べて昭和17年以降のミッドウェーで大敗北を帰し、それ以降の日本の陸海軍はどうだったか。
 少なくとも、「国民に愛される陸海軍」ではなかった筈だ。国民の生命を軽視し、無理強いした痕跡が濃厚である。

 昭和陸海軍のように、すっかり軍隊官僚化されてしまった日本軍には、この智慧も、奇手も、最後まで出て来なかった。日本の軍隊は人間不在であった。
 将軍や提督らの人情不在のサムライ不在の、愚将達が戦争指導をしたからである。毛沢東ほどの智慧はなかった。老獪であったが、老練ではなかった。その最たるものは戦争目的不在であった。それは山本五十六の大戦当時の行動原理に如実に顕われている。山本に戦争目的は不在であった。これは日本海海戦を戦った東郷平八郎と、真珠湾を奇襲した山本五十六の違いであった。

 『タカ』計画のメンバーは、軍隊官僚主義の盲点を見抜いていた。
 また、主任教官のアン・スミス・サトウ少佐は同じ轍
(てつ)を二度踏むまいとして創意工夫をしていた。
 『くろがね四起』を三・五・七・九の奇数台数によって、「常山の蛇」の動きをする。
 「常山の蛇」の有機生命体的な思想を津村陽平から教わった。
 指揮車2輛を双頭とし、ほか18輛を首・胴・尾とする。有機生命体的な動きをして組織力を発揮するにはどうするか。そこで、各車両に無線機を取り付け、運転者はヘッドホーンとマイクの一体型の応答器で交信をとる。航空機の無線通信からこれを考えついた。『くろがね四起』には戦闘機と同じ無線を搭載する。また遊撃戦においては小型無線機を個々人が躰の一部として装着する。そして互いに交信を交わしつつ、攻撃を「常山の蛇」のように組織化する。
 これにより「常山の蛇」は、細胞組織として動きを出来るのではないかと検たのである。
 アンは津村陽平の詳細なる『風林火山』の論説からヒントを得たのである。

 更に「愛される軍隊」とは?……、というところに至った。
 近代市民社会では軍隊は市民と一体で、愛されなければならない。フランスの『ラ・マルセイエーズ』のように、アメリカの『星条旗よ永遠なれ』のように誰からも愛されなければならない。何れも最初は、祖国防衛に立ち上がった義勇軍の歌であった。憎まれる日の丸では、市民は離れる。遵わぬ。
 物資難の時代である。特に食糧に欠乏している。国民は飢えていた。軍はそれを無視した観が強い。
 アンは、その飢えを、聯隊周辺だけでも改善したいと考えていた。そこで思い至ったのが、屯田兵制度であった。開墾と兵事を両立させることは出来ないか。開墾し、農作物を育て、平等に分配する。それも自らは少なく、他者に多く分配すれば、不平や羨望は和らぐであろう。
 兵士達は連日空腹に苦しめられていた。飢餓状態にあった兵士達は教育隊員と本部隊員の別なく、「公用」の腕章をするでもなく、また外出許可を貰った訳でもないのに、折りある毎に聯隊の外にほっき歩いた。
 無断外出である。咎めても聞く耳は持たなかった。重営倉覚悟で、連日食べ物を求めてほっき歩いた。農家の前に坐り込む。農家の好意を期待しての行動であり、戸口の前を徘徊したのである。
 既に乞食であった。
 大戦末期になると、兵隊の多くは乞食に類する行為を平然としていたのである。そしてこの行為を、兵隊の俗語で「状況を造る」というのであった。
 そして幸いにも、期待が適えば「状況があった」と称したのである。
 だが、この時代にも食糧事情に格差があったことは事実である。

 例えば、この時期に至っても、例えば陸海軍の戦闘機乗りは、他者より、多く食糧を摂り、毎日、民間では贅沢品と思えるような高級な物ばかりを好きなだけ食べていた。飲食物は飲み放題、食べ放題だった。こうしたところにも他者の羨望があった。そのくせ負けてばかりでは、羨望が怨みに変わる。
 同じ航空隊にいても、搭乗員と整備員の食糧格差は大きく、搭乗員に美味いものを出来るだけ多く摂らせ、その分、敵機を撃墜してもらうという魂胆から、同じ兵士でありながら食糧事情が、斯くも違っていた。能力順に食糧が配給されていた。

 一方、地上部隊は搭乗員とは異なり、同じ兵士でありながら、腹一杯、食事を出来ていたのではなかった。
 これは一般民間人で通常に市民の場合、一日、二合三勺の配給米すら遅配状態で、遅配に遅配を重ねる有様であった。多くが、からくも代用食に頼っていた昨今であった。主食の米がないのである。
 更に、老兵に至っては、同じキュウリや南瓜の併せて五、六個が配られ、これを一日分として、主食と副食を食べ分けよと言うのであるから、食糧格差は甚だしいものがあった。誰もが毎日空腹感を抱えながら、飢餓感に襲われる一方、あるところにはあって、軍隊官僚達は肥えていた。
 食糧や贅沢とされた高級待合茶屋などは、参謀本部や陸軍省、あるいは軍令部や海軍省の高級官僚らで毎日盛況であった。あるところにはあった。国民の眼のつかないところには歴然とあったのである。それも贅沢し放題で……。
 それで、何が『贅沢は敵だ!』と言えるのかとなる。

 昭和19年7月半ば頃になると、既に米や麦は殆どなく、庶民には銀シャリなど遠く手の及ばないところにあった。これが本土決戦を想定して、軍部が食糧を備蓄し始めたことによる。この備蓄によって、流通が滞ったのであり、実際に物資が足りなかった訳ではない。それに内務省が『贅沢は敵だ!』とか『一億火の玉』のスローガンを作り出して、国民に強制したのである。決して物がなかった訳でない。あるところにはあった。
 それを特権階級が隠匿した状態になっていた。あたかも、財閥などの特権階級が今日の東電のように、「石油は半年分しかない」とやった訳である。すると権力側は「では節約する以外ない!」となったのである。
 しかし、昭和16年11月の時点には『二年半以上もあった』のである。これが特権階級の企んだことであった。物が無いように見せ掛けて、利権と利益を独占する。特権階級の利権利益主義である。
 この真似を、今度は軍隊官僚が本土決戦を意識して、同じことをしたのである。食糧がない。物資がない。
 この状況を作り出して、利権主義者の真似をした。この結果、当時、食糧難や物資難が何故起こったか、判然として来るだろう。庶民には『贅沢は敵だ!』と豪語しながら、高級将校が通う、当時庶民では到底入れない待合茶屋は営業を行い、軍隊官僚らは役得を貪っていたのである。底辺の庶民や兵卒にとってはにとっては雲の上の世界であった。

 本来、軍隊では、米と麦とを取り混ぜて一日六合は兵食であったが、そういう規定は昔の夢と化していた。
 支給量が、驚くほど極微なのである。あるところにはあり、ないところにはない。圧倒的な飢餓感が、その極端な異差に顕われていた。
 民間人まで戦闘員に加えて、それで『一億火の玉』という。そういうエネルギーはいったい何処から出て来るのだろうか。
 則ち、大戦末期の昭和陸海軍は「誇り」より、「物質」を採ったのである。これも無条件降伏に拍車を掛けたのであった。無能な戦争指導達は、背後の経済効果や流通構造を全く理解していなかった。経済能力ゼロだけで、数字に弱い連中が精神主義で戦おうとしていたのである。これこそが『日本が戦争に勝てない構造』であった。

 開墾班は炎天下、上半身はだか、下は継ぎ接ぎだらけの衣袴
(いこ)で、草鞋を履き、頭は略帽と帽子に取り付けた帽垂だけで鶴嘴を揮っていた。原野開拓であり、まだ鍬で耕作するまでには至っていなかった。その重労働の中に津村陽平もいた。老兵と同じように働く。あるいは二倍、三倍、働く。
 大学出の幹部候補生上がりの将校は、ジュネーブ条約なるものを知っていて、兵隊と将校の違いは、兵隊は労働に従じるが、将校は労働をしなくてもいいことを知っているためか、津村のように重労働をする者は居なかった。だが、津村陽平は兵に混じった働いた。そのために、津村に心服する者も少なくなかった。
 老兵隊が、斯くも過酷な重労働をしていることにないし、これに同情する者は少なかった。むしろ、「爺は肥やしになって早く死んでくれ」という感想を持っている者が大半だった。

 物資難の時代である。あるいは人為的な物資難が作り出された時代であった。そのため食糧事情は極めて悪かった。
 この頃になると、極端な食糧不足から、開墾班に限らず、兵士は教練よりも、農作物の自給自足のために開拓の仕事を多く遣らされて、兵力や組織抵抗をする技術は徐々に失われ始めていた。戦える兵士ではなく、土地を耕す農民になっていた。炎天下、上半身裸での農作業のため、“エツ病”で倒れる者が続出した。
 この病気は日射病または熱射病のことである。軍隊では、この病気を“エツ病”という。老いた兵隊は、この病気で死亡する者も少なくなかった。

 更に見苦しいのは、食糧不足は、上士・下士間を巡って「飯盒の飯が少ないの多いの」と、諍
(いさか)いが起こる。僅かそれだけで、上士が下士を殴る蹴る暴力が起こる。一切の抵抗も赦さずに、殴られ、蹴られる。
 今や日本の軍隊は、労務者の飯場以下の酷い有様であった。
 時により、珍しく南瓜やキュウリや茄子の他に、微量の米麦の粒が支給されることがある。これは何かの記念行事や創立記念日などを祝っての、特別な日に限るもので、こうして支給された僅かばかりの米や麦を巡って飯盒の中の飯の多いの少ないのと、上士・下士間に見苦しい争いが起こるのである。
 誰もが飢餓感に襲われて、誰もが苦労していた。そして下士は自分に支給された僅かな食糧をヘズリ、上司の飯盒に入れるという暗黙の了解があった。あまりにも浅ましい光景が、各部隊に広がっていたのである。更に暴力好きで、思慮に乏しい上士ならば、下士は益々心服しなくなり、命令違反も出て、敵前逃亡を図るという事態が生じていたのである。

 昭和の軍隊で、昔の軍隊と、今の軍隊に“二種類の軍隊”が存在していた。昔の軍隊は日米開戦前の軍隊をいい、今の軍隊は海軍がミッドウェーで大敗北した昭和17年6月以降の軍隊を言う。そしてこの軍隊は、年を重ねるごとに悪くなっていった。
 軍隊とは、もともと闘志を煽るために暴力の好きな集団であり、そう言う世界であった。だが、昔の軍隊は殴るなら殴るだけの規律があった。ところが、今はそんなものはない。
 階級の上の者が気分次第で、気の向くままに下の方を殴り放題であった。ただ感情に任せて理由もなく、ただ殴るだけである。殴られる方も、何で殴られているか分らぬままに殴られる。そして、この時期に入ると、平手打ちなどのビンタではなく、拳で殴る、あるいは蹴るなどであった。更に酷いのになると、棒で殴る。軍刀の鉄の鞘部で殴るなどの、物で殴るのが暗黙の了解になっていて、軍幹部はこれを咎めるどころか、見て見ぬ振りをしていた。戦後も殴られて、精神的肉体的後遺症を抱えた者は少なくなかった。しかし、こうしたことにないして政府は一切謝罪もしないし、それについての損害賠償もしていない。
 作家・城山三郎氏の抗議は、このことを如実に物語るものである。

 もともと初年兵は辛いものであるが、それにしても昔の軍隊は規律があり、その規律は美しく、きびきびしたものであった。また、それだけ張り合いのあるもので、上士と下士の間には「戦友」としての心が通っていたものである。
 ところが、今はそういう心など伴わなかった。下士は、殴られるのが怕いから、おべっかをこく。それは心服してのことでない。暴力に屈しているのである。もう、心が通わぬ時代になっていた。

 一方で、開墾班はそれがなかった。
 老人部隊には、こう言う暴力がなかった。津村陽平がそれを赦さなかったのである。班長の津村が少尉で、他は化石のような古い上等兵が三名、それ以外は二等兵の老兵ばかりだった。
 ただ、開墾班の哀れなところは、自分らに作った農作物の殆どが自分の口には入らなかった。江戸時代の代官領の水呑百姓と同じで、自分の作ったものは、みな上官や役人に持って行かれ、残った量は馬一頭が食べる飼葉桶に一杯だけが25、6人分の一日の食糧であった。食糧は馬の餌入れに入って出された。

 そこで、津村は考えた。聯隊の外に田畠を作って、そこで仙人食を作る。粗食少食で強靭な肉体を造る。その目算が大いにあったのである。
 例えば新田郷の奥地である。その田畠に、夜間聯隊の塀を乗り越え、作物栽培して戻って来るのである。
 この程度ことは、津村にしては苦になることでなく、楽に遣って退けたのである。
 しかし当時、これだけ食糧難で、兵卒は窮地の追い込まれていたのである。
 国民の多くは、決して勝つ戦を戦っているとは、誰一人思っていなかった。だいいち、よれよれの歳老いた兵隊で勝てる訳がない。そういうことは百も承知していた。
 また、本来兵士の外出は許可証が必要な筈なのだが、聯隊本部も今や空きっ腹を抱えた兵士で溢れ、そのうえ聯隊教練場や兵営の周辺には、闇米売りの農民が出没していた。

 農民が、弊の外から「兵隊さん、闇米買わんかい?」と声を掛ける。何処の兵舎でも、そういう闇米売りが横行した。そうした闇米が買えるということは、入会以前から隠し持って入営したことになる。
 日本の軍隊では、食糧、被服費、住宅費の総ては軍側で負担することになっていた。兵士には、そうした金銭は鐚
(びた)一文払わせないのが軍の決まりであった。したがって官給品以外は私物と看做され、そういう物品の所持は厳禁であった。兵士の生活については、軍が徹底的に保証し、またそれが日本の軍隊の伝統的な性格であった。故に、軍側は兵士に要求が出来た。兵士は全面的に服従した。命令も「この陣地を死守せよ」と下されれば、命を張って持ち場の陣地を守った。
 だが、軍が兵士に要求する事自体が崩れ始め、下級の兵は、上士の性格を知り抜いているため、安易には遵わず、また疑いすら抱くようになっていた。もう、昭和12、3年当時の“昔の軍隊”とは、全く違っていたのである。
 自前で揃えるのは、将校以上である。将校は自前で軍服も作り軍帽も作る。軍刀から、長靴や護身用拳銃まで自前で揃えねばならなかった。これか曹長以下の下士官や兵とは違うところであった。

 昭和19年頃になると、兵士は闇米を買っている……。こういう事が日常茶飯事であった。これ自体、異常だった。
 日本の兵士が、自己負担で食糧を購入するなどの話は、これまで、一度も聞いたことがなかったのである。
 それに、二回以上召集された応召兵でありながら、兵士として組織抵抗する軍装を与えず、小銃は手製の木刀で代用させ、銃剣は竹の棒を銃剣の長さに削ってそれとし、帯皮は藁縄を腰に巻かせ、軍靴は地下足袋か草鞋であり、それでどうして戦えと言うのか。
 更に、老兵隊には官品の兵卒の水筒もなく、瓢箪に水を入れてその代用品とし、飯盒もなく、背嚢・雑嚢の類はなく、軍服すらボロ同然の使い古しの継ぎ接ぎであった。

 そもそも兵士が、私物の食糧で日常生活を自己負担で賄
(まかな)うというのは、どう考えても訝(おか)しなことで、これでは軍の伝統は崩壊せざるを得ない。しかし戦争指導者達は、この現状を知ってか知らずか、何の手当もせず放置したままであった。内部から崩壊しつつある事に気付かないでいるようだ。食糧が少なくなり始めると、「節約だ」というふうに奔って、少しでも多く貯め込もうとするのは無能であるからだ。

 兵士が自己負担で、自分の日常の食生活までを支える……。
 そうなると、闇米を買って私物の食糧を持つことになり、それがやがて、私物の精神を生み、日本軍の尤も誇りとする、兵士に命令を絶対に服従させるということが崩壊するのである。日本軍の伝統的な生活は、この時代に至って、根底から覆っていた。日本軍は内部から崩壊し始めていたのである。この状態で、日本は、果たして、よりよい負け方ができるのであろうか。
 しかし、それを懸念したのは殆どいなかった。早期講和を望む者はいても、自軍が内部から崩壊していることに気付く軍人の官僚は少なかった。

 津村はもともと日本の軍隊が好きでなかった。
 しかし軍隊の持つ厳格な性格と、その規律が崩壊しているとなると、これは好き嫌いではなくなってくる。
 これまでの美的な規律性が、闇米買いや、状況を造りに出されるのでは、内部崩壊をせねばならず、そこには腹立たしいまでの悲哀感が襲って来たのである。
 自分で、出来る範囲で、「何とかしなければ……」が、津村陽平を聯隊の外に畑を作って、そこで仙人食を作るのに走らせていたのである。
 軍が遣らなければ自分で遣るしかない。自前主義である。その思想は、沢田次郎にも移入されていたようである。親から子への間接的瀉瓶
(しゃびょう)である。わが子に確(しっか)りと注ぎ込まれていた。
 この「何とかしなければ……」は、アン・スミス・サトウ少佐も同感であった。彼女は夕鶴隊で出来ることはないか、食糧不足を解消して、兵隊が兵隊らしく、軍隊の秩序を取り戻す方法はないかと模索しているところであった。
 この秩序こそ、「日本がよりよい負け方をする、連合国に侮られない唯一の道」と信じ始めていた。
 彼女の心に「倉廩
(そうりん)(み)ちて則(すなわ)ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る」(管子牧民)の言葉が泛(うか)び上がっていた。今風に言えば「衣食足りて礼節を知る」である。まず食事情を豊かにせねばならないと考えた。飢えているから礼節がないのだと思った。
 ピンチはチャンス……。
 これこそプロパガンダ戦略である。夕鶴隊のプロパガンダ戦略にしようと考えた。
 しかし、これは無闇に飢餓者に食べ物を与えることではない。食糧がある状態にして、これを内外に向けて宣伝する。亡国は、国民の飢えから起こるのである。飢えれば、国が亡ぶ。礼節がなくなり、秩序が崩壊するからである。


 ─────星野鈴江こと、孫齢姫
(そん‐れいひ)は、庄屋宅の離れの一間に匿われたいた。夕闇が迫るときであった。
 この部屋は電燈が来ていないために、夕刻になると薄暗い。縁側の大窓から差し込む陽の角度で、大方の時間は予想がつくが、夕陽
(せきよう)はだいぶんを傾き、黄昏時(たそがれ‐どき)となり、直ぐそこに、もう夜の帷(とばり)が迫っていた。
 「ずっと、そこに坐っておったのか」と作右衛門が心配そうに問い掛けた。
 鈴江はこっくりと頷
(うなず)いた。
 作右衛門は手に石油ランプを提げていた。離れに燈火
(あかり)を持って来たのである。このランプを天井に掛けて、夜はこれで燈火をとる。燃料不足のために、燈火はこうして母屋から持って来るようになっていた。

 「わたし、弱い女でしょうか」
 鈴江は妙なことを訊いた。
 「どうしたのだ、孫齢姫?」
 作右衛門は、普段はこんな貌は見せない女だがと思っていたからである。気丈なるこの女が、これをほど弱々しい表情を見せるのは、実に珍しいことであった。
 「……………」鈴江は答えなかった。その表情には翳
(かげ)りがあった。
 解
(ほつ)れ髪が項(うなじ)に幾筋か垂れていた。そして何故か疲労の色が濃いかった。
 「わしは、お前の親代わりぞ。悩みや心配事があるのなら遠慮せずに、何なりと申してみよ」
 鈴江はそれに小さく唇を微笑ませただけであった。
 しかし、この微笑みは、鈴江が人を斬る前の微笑みであった。斬る相手に対峙し、その前に一瞬見せる冷たい微笑みであった。その媚力は強いといっても、しかしその微笑みは、いつもながらに慌てさせる怕
(こわ)さがあった。これに作右衛門は恐怖を感じた。自らが斬られるような錯覚を抱いたからである。
 「さしたる理由はありませんわ」
 鈴江は冷ややかに言った。
 「しかし二、三日前から少し変だぞ」
 「わたくしは、弱い女でしょうか……」
 鈴江は再び同じことを訊いた。

 「お前が弱いというなら、世間の女どもは、虫けら以下となる。一般には、女は弱いと言われているが、丙午のお前に限っては別格だ。それに男以上に腕も立つ。どうして弱いことがあろう」
 「わたくしも、今までは、そう思っておりました」
 鈴江は太古帯の中に隠している逆刀の柄に手をかけようとした。
 「おい……、一体、な、何の真似だ……」
 作右衛門は一瞬、鈴江の殺意を感じて、額に脂汗を滲
(ひじ)ませた。逆上して啖(く)うかも知れない。
 「何も致しませんわ、けれども……」
 「一体どうした、少し変だぞ」
 「わたし、やはり殺せませんでした。どうしてだったんでしょう……」
 「津村陽平をか?……」
 「わたくし、やはり弱い女なんでしょうか」
 「お前は弱くないと言っておろうが」
 「でも、弱い。どうして、こう弱いんでしょう。あのとき思い切って殺
(や)っておけばよかったのに」
 「お前は弱く何かはない、断じて!」
 作右衛門は鈴江の弱きを否定した。
 「ああッ、分らない……。日本のこの地、わたしをこんなに苦しめますわ。何故でしょう。いったい何故でしょう。このままでは懊悩
(おうのう)してしまう。もう、こんな土地には居たくない。早く母国に帰りたい」
 随分と苛立ったことを言った。彼女は率直過ぎるほど、感情の羅列を並び立てた。
 「分っておる。明日、羽田
(東京)から新京行き(東京・新京直行便)の飛行機(大日本航空)が出る。それで帰えればいい。それで母国の満洲に戻れ」
 「明日?……、明日まで。何と長いことでしょう。このままでは自分を抑えきれずに発狂してしまうそうですわ。もう、こんなところに、一時間でも居たくない……」
 作右衛門は鈴江の自己破壊的な性格を思った。逆上すると危ない面をもっていた。そういう鈴江を、強い言葉で叱りつけていいのかどうか、一瞬躊躇
(ちゅうちょ)したのである。

 「そんな愚痴を零
(こぼ)しても始まらんではないか。新京行きの飛行機は、明日の午後三時。いいか、それまでの我慢するのだ」
 「長過ぎますわ」
 「これでも、明日の午後三時の航空券は工作員全員で協力して、やっとの思いで手に入れたんだぞ。昨今はこういうものを手に入れるのも難しくなった。それも、お前を満洲国の国務院長の李章亀
(い‐しょうっき)閣下の娘に化けさせて、やっとの思いで入手した。その苦労を考えてくれ」
 「それにしても長い。なんと長いこと。長過ぎて、ああッ……、わたし頭がおかしくなりそう……」
 「お前ほどの女が、いったい何があったと言うのだ?」
 「何もなかったから、辛いのです。いっそ、あのとき殺
(や)っておけば、すっきりしたでしょうに」
 鈴江は確かに、何かに苦しんでいた。
 そして鈴江は、あれ以来、一睡もしていないようであった。思い悩んでいた。
 自分のしたことに些か悔やんでいて、手のこんだ気配など残さず、有無も言わさず津村陽平を斬っていれば良かったと思ったくらいである。しかし果たして斬れただろうか。そう簡単には斬ることなど出来ない……と頭
(かぶり)を振った。結局、殺すに至らなかった。
 「何を苦しんでおる?」
 「ああッ、狂おしい……」泣き叫ばんばかりに本心を吐露した。

 「津村陽平に逢ったからか?」
 鈴江は、こっくりと頷
(うなず)いた。
 「あるいは息子の沢田次郎を想ったからか?」
 「どちらも……。やはり、津村に逢うんじゃなかった」と、後悔の臍
(ほぞ)を噛(か)むように言った。
 憂悶
(ゆうもん)が鈴江の神経を苛(さいな)んでいた。後悔を引き摺っていた。
 何よりも、津村が抗
(あらが)わずに、命乞いをしてもいい……とまで言い、また啖(く)われてもいいと言ったことに衝撃を受けたのである。津村は鈴江にとって優し過ぎた。優し過ぎて、暖簾に腕押しだった。
 更にいけなかったことは、わが子の「今」を訊いたことであった。「今どうしているか?」を訊いたことだった。それが彼女を苦しめていた。訊くんじゃなかったと思った。
 わが子は無事に健やかに育ち、成人したことも知った。しかし、それが却
(かえ)って落ち着かなくなったのである。そのことが自分の心を少しずつ侵蝕しているのを知ったのである。それが「狂おしい」という言葉になったのである。

 津村は、必ず顕われることは分っていた。
 本国からの指令も、「林昭三郎と津村陽平を抹殺せよ」となっていた。林昭三郎は容易に倒せた。病んだ老人は敵ではなかった。
 しかし津村だけは、どうしても殺せなかった。確
(しっか)り止めを刺すつもりで居たのに、殺すどころか却って、自分の方が精神的には、計り知れぬ打撃を受けてしまったのである。その深い憂悶に襲われ、鈴江の精神状態は不安定になっていた。それどころか、津村陽平に負けたような気になって、その敗北感は、今でも鈴江の心を逆撫(さか‐な)でしているのである。その逆撫でる痛みが、未だに消えないのである。この憂悶の辛さが、その証拠であった。
 泣いて、涙すら流したいのだが、また、思い切り泣き崩れたいのだが、泣くことすら出来ないのである。それが辛く、また忌々
(いまいま)しいのであった。丙午生まれの女の特長だろうか。
 鈴江は心の中で《津村陽平……。もと亭主……。そして次郎の父親……》の言葉が、脳裡
(のうり)に堂々巡りを繰り返していた。それが巡る度に懊悩して、病(つか)れてしまうのであった。


 ─────翌朝7時。津村陽平は新田郷の庄屋屋敷にいた。
 特別野外演習と言うことで、老兵隊25名を引き連れて、庄屋の堀川作右衛門宅にいて、小休止のために縁側を借りていた。復
(かえ)りに芋種を貰う約束になっていたからである。
 そうしたところに、キャサリン・スミス少尉と暗号担当員の霧島祥子の二人が、『くろがね四起』を駆って遅れて到着した。猛スピードである。火急という感じだった。
 「どうしました?スミス少尉」
 「昨日お預かりしました鉄扇に書かれた数字は、思った通り乱数でした。その乱数表を知りたくて、火急につき駆けつけたところです」と津村陽平を捜して駆けつけたようであった。
 「それは自分より、あちらのご婦人の方が詳しい……」と、顎
(あご)でしゃくってみせた。
 津村は、遠くから鈴江が凝視していることを知っていたのである。鈴江の臭いは、津村には直ぐ分る。月下美人であった。
 「あちらのご婦人と申しますと?……」
 キャサリンは辺りを見回しながら訊いた。彼女は《そう言う人、居ないじゃないの……》という訊き方であった。

 火急で駆けつけた『くろがね四起』には、九二式重機関銃が据え付けられた武装車輛である。もちろん九二式重機関銃は、実弾を装填していない。しかし、その姿を見せ付けるだけで充分に威圧があった。
 そのとき丁度、老兵隊は、庄屋屋敷の縁側の軒先を借りて小休止しているところだった。そこにキャサリンが運転する武装した『くろがね四起』が遅れて到着したのである。武装しているだけに、それが何か異様に映った。そして夕鶴隊の女二人は、ブローニングM1922拳銃で軽武装している。拳銃には実砲が装填されていた。いつでも発射可能である。一見すると、物々しい出で立ちであった。あたかも逃亡犯を逮捕しに来たようにも映る。

 この光景を、離れから覗くように視ていた影があった。鈴江である。
 鈴江は最初、津村が部隊を率いて自分を逮捕に来たと思っていた。しかし思い直した。
 心の中で《お爺さんばかりで、何が逮捕ですか。それに武器も持っていない。みな、腰瓢箪に銃剣代わりに竹の棒を提
(さ)げている。あれで、どうして、わたしが逮捕出来るものですか。相手にするのだったら、津村陽平、ただ一人》と、そのように考えていた矢先であった。
 しかし、あとから駆けつけた武装小型乗用車は事情が違った。重機関銃で武装している。これまでの考えを一変しなければならなかった。更に異様だったのは、武装車を運転して来たのが、よく鍛練された筋肉隆々の男達でなく、見るからに華奢
(きゃしゃな)な若い女二人だったからである。
 《これは一体どうなっているの?……》と思ったのである。しかし女二人は拳銃を提げている。女と雖
(いえど)も射撃訓練くらいはしているだろう。甘く見れなかった。

 そして、庄屋の堀川作右衛門も、駆けつけて来た武装の小型乗用車には驚いてしまった。何しろ小型車は重機関銃で武装してる。いったい日本が、いつ女性を募兵して、このような力を蓄えたのかと思った。
 以前聞いた、女性だけの軍隊の正体は、実はこれだったのかと、今更ながらに思い当たったのである。

 彼女達は、最初「状況を造る」ということで新田郷まで来たことがあった。
 彼女らは拳銃で軽武装はしていたものの、それは護身用で、そのときは女性ばかりの歌劇団くらいにしか考えていなかった。てっきり、その種の集団と思っていた。
 だが今、こうして重機関銃を搭載した武装車輛を間近に見せられると、この集団が組織戦闘できる軍隊だと認めざるを得なかった。
 女兵士が軍用車輛を巧みの乗り回し、いつでも交戦出来るこのような組織になっているとは、思いもよらなかったのである。今まで「高が女」と思ったいたのである。
 堀川作右衛門自身も、日本軍に対して、根本的に考えな直さねばと思い始めた。決して侮れないと思ったのである。

 そして鈴江。
 彼女は臆することもなく、津村陽平の前に堂々と姿を顕した。
 それに驚いた作右衛門は「おい、駄目じゃないか。こんなところに出てきては!」と鈴江を叱咤した。
 「逃げも隠れもいたしませんわ。わたしは孫齢姫、かの国の……」と言いかけたとき、「もう言うな!」と作右衛門が叱咤して、彼女を制した。
 一方、津村は鈴江の覚悟を見た思いがした。まだ近くに居ることは分っていた。その視線を感じていたのである。
 「大人しく隠れていればいいものを……」
 津村は思わず吐露した。
 「どうなさいました?津村少尉殿」鈴江は涼しい貌をして言い放った。
 その聲
(こえ)は至って冷静であった。
 「分った、鈴江!」津村には些か、心境穏やかならぬところがあった。
 津村は柄にもなく乱れた。その乱れを鈴江は読んだ。
 このとき《この人は、本当は正直な人なんだ》と彼女は思った。その正直者の漢に、わが子を押し付け、置き去りにして、自分は彼
(か)の国に発った……。その後ろめたさがあった。

 「そちらのお二人さんは、わたくしを逮捕しに来られたんでしょ?……。それも機関砲並みの重機関銃で武装した軍用車で……。わたしく、もう逃げも隠れも致しません、何一つ抵抗致しませんわ」
 そのときキャサリンは、この女性の貌を見て、はッ!とした。聲にならない驚きを発した。
 津村から鈴江と呼ばれた女性が、どこか沢田次郎の面影と重なったからである。
 似ている、あまりにも似ている……と彼女は思ったのである。
 「違います」
 「えッ!……」鈴江は思わす聲を上げた。
 「もし、暗号コードブックをお持ちなら、お教え願いたいのです」
 「わたしが、どうして?……」
 「あなたは、満洲国の国務院長の李章亀
(い‐しょうっき)閣下のお嬢さまで、齢姫さまで御座いましょ?
 少なくとも、本日の羽田
(東京)発・新京飛行場行きの航空券には、そのように登録されております。あなたにお窺いすれば、もしかすると……と思ったまでです」
 キャサリンは鎌を掛けるように言った。

 「そうですか、宜しいわ。お教え致しましょう。でも、近頃の日本軍には、あなたのような、よく訓練をされた婦人部隊の将校さんもいらっしゃるのね。わたくし、久しぶりに日本に帰って来て、その変わりように驚きましたわ。
 日本はこのまま、ズルズルと負けるのではないかと思っておりましたのに、婦人部隊?の中に、あなたよのうな、お美しい、青い眼の少尉さんが居るのですもの。それに、もう一人の兵長の階級をつけたお嬢さんも、容姿端麗で、利発そうで、決して負けてはいない……。日本の女性が此処まで変化なされたとは、正直言って驚きです。あなた達お二人は、欧州人のように胸を張って淑女然としていらっしゃる。それにお二人のカーキ色の軍服から、外に折り返された白い襟が、何とも爽やかで眩しいわ。
 いつ日本は、あなた達のような秘密兵器を隠し育てて、秘密裏に準備を進め、次ぎなる作戦を周到に計画していたなんて、まったく思いも及びませんでした。
 わが国の婦人ゲリラ兵のような引き締まった体躯を持ち、頭が良さそうで、スマートに軍服を着こなし、豹のよなしなやかさを身に付け、音もなく敵に忍び寄る。まさに『君子豹変す』ですわね。少しは日本の軍隊を見直しましたわ」
 「これくらいで、驚くには及びません」とキャサリンが自信をもって答えた。
 「つまり、侮れないと言うことですね、劣性とばかり思い込んでいた日本軍を……」
 近いうちに巻き返しが起こる……。それを危惧
(きぐ)した。
 国際連合軍の、日本軍への王手に対し、日本軍は奇手で対抗して来た。そう鈴江は検
(み)たのである。

 「齢姫さま」キャサリンは冷ややかに呼びかけた。
 「はい」
 「あなたの乗る飛行機
(大日本航空)は、本日の羽田(東京空港)発の午後三時……でしたわね?」
 「ええ」
 「そしたら、暗号コードブックを教えて頂いたお礼として、是非お見せしたいものが御座います」
 キャサリンは条件付きで、暗号コードブックの提示を求めた。駆引きである。またこの駆引きは、赤城赤嶺神社・神主の林昭三郎の命との交換の駆引きでもあった。林老人は余命幾許もなかった。しかし、齢姫から斬り殺された。齢姫は敵陣営の細作であった。任務で動いたことである。それに交換条件を暗黙の裡に突き付けていた。

 暗号文は難解な箇所を含んでいる。解読しても、その文章からは文字通りの字面しか現れない。隠れた部分が見えて来ないのである。情報を得ても、字面イコール情報の総てという訳でない。暗号は通常暗号でなく、特別暗号に組み替えられていたからである。
 意味不明……。当然そういう箇所が、翻訳時に出て来る。これには特別暗号のコードブックが要る。
 単語や慣用句に不明な点があり、置き換えた隠語や、おそらくその人種にしか通用しない独特な言葉遣いがあったからである。相互間で事前に決められた高度が不明であった。あるいは数学的に見て、所定のアルゴリズムに従って、複数の文字や、ビットごと置き換えた、より高度なサイファ法ではないかと考えたりしたのである。そうなると、置換や転換で、秘匿通信文は殆どと言っていいほど読めない。
 しかし……、と思うのである。果たしてそうだろうか?……と。
 サイファ法を主流にするほど、かの国は自国の技術が発達しているのだろうか?……と。
 サイファ法はコード法より高度だからだ。依然として、自国で物造りが出来ない発展途上国である。
 したがって、かの国では未だにコード法が主流でないかと検
(み)たのである。そこで、特別暗号のコードブックを教えて欲しいと迫ったのである。

「これで総てが分りますわ」
 鈴江は、この要求を全く拒まず、袂
(たもと)から一冊の小さな黒皮の手帳をキャサリンに差し出した。
 余りにも呆気がなかった。拒みもしなかった。「何と言う従順さだろう」と思わずにはいられなかった。
 果たして、この婦人は普段からこう言う聞き分けのいい人だったのだろうか。キャサリンはそれを疑わずにはいられなかった。あるいは、この婦人に何らかの心境の変化が起きたのだろうか。
 キャサリンは、最初、尋問も辞さない気持ちでいたからだ。余りにも従順過ぎた。
 この原因は何か。
 もし、あるとしたら、津村陽平が絡んでいるのではないか。

 「では、少々おまちを」
 キャサリンは乗って来た四駆に走った。そして無線で夕鶴隊本部を呼び出していた。
 武装を搭載した『くろがね四起』には各車輛に無線機が装備されているのである。
 いつの頃からか、夕鶴隊のアン・スミス・サトウ少佐麾下の26名
(うち2名は外部要員)の女性達は、『夕鶴隊本部要員』と呼ばれるようになっていた。遊撃隊員を含めて、高度な高等技術を身に付けていた。
 そして、キャサリンは戻って来てから、こう言った。
 「今から、あなたを羽田
(東京空港)飛行場まで安全に、わたし達、夕鶴隊が護衛して差し上げます。孫齢姫さま」《これで宜しいかしら……》と彼女は言葉尻を繋ぎたかった。
 指一本、手出し出来ない条件を持ち出して、キャサリンはこれを交換条件にしたのである。搭乗および離陸までの保障である。

 『タカ』計画のメンバー。
 つまり、夕鶴隊本部は既に星野鈴江こと、孫齢姫の情報を掴んでいたようだ。あたかも『孫子の兵法』に出て来る「常山の蛇」として、既に機能しているのである。
 昨日、津村陽平が示した鉄扇に書かれていた暗号数字を、不明な点はあるものの一応解読したのであろう。
 すると林昭三郎は、孫齢姫について、何らかの情報を早くから知っていたことになる。それを、どうして知り得たか?……、それだけが、今のところ謎だった。

 「キャサリン少尉?……」《これは一体どうなっているのだ?》と津村陽平は困惑気味に訊いた。
 津村は余りにも早い展開に驚いたからだ。この早さ……、どうなっているのかと思った。
 情報戦とは、こうしたものを言うのかも知れない。それにしても、あまりにも早い動きであった。そして大戦末期と雖
(いえど)も、情報化の時代が、各国間に押し寄せて来ていると思ったのである。
 そして彼女達の「常山の蛇」も顫動
(ぜんどう)と、うねりを開始し始めていた。

 それから、15分ほどが経過したであろうか。
 行軍徒歩では1時間30分ほど懸かるところを、更に四台の九二式重機関銃で武装した『くろがね四起』と国防色
(カーキ色)に塗装された軍用バス一輛と、後ろに更にもう一台、黒塗りオースチン・4ドアセダンを従えて遣って来たのである。だが、その車には沢田は乗っていなかった。静かな登場であった。
 しかしそれはまだ、序の口に過ぎなかった。
 『くろがね四起』には、二名ずつの夕鶴隊員が乗っていた。驚くことに国防色に塗装されたバスにも、空挺装備をした二班の女子隊員が乗っていた。この二班は、何処かに降下するスケジュールであったのだろう。
 この状況を津村陽平は即座に判断した。これは「見せる」という宣伝効果を狙ったものだったと。
 あたかも「日本の石油の備蓄量は、まだあと2年半もある」というような、余裕を見せたと思った。余裕がなければ、同じ和平講和するにも、不利な条件で敵対国の要求を呑まなければならないからである。

 津村は、これに間違いなく鈴江が反応し、この情報をそのまま敵国の情報筋に流すだろうと思った。そうなれば、やがて「この余裕」が定説になるだろう。そうなると、『タカ』計画は、大かた半分以上が遂行されたことになる。大きな宣伝力と検
(み)たのである。そのために、あえて星野鈴江を逮捕しなかった。鈴江を宣伝材料に使う気で居たのである。その総てが読めた。
 意図的には宣伝効果を上げるための過大評価をさせる意図があった。それを、敵国の間者の孫齢姫と、その協力者の堀川作右衛門に見せ付けているのである。“なるほど……”と津村は思った。
 沢田次郎が、まず考えそうな事であった。その考えが手に取るように分かった。
 そして、一気に沢田次郎の考え方を理解してしまったのである。幼児期、伴に神童と言われた親子同士であった。その共通項は最初から備わったものであった。無言のうちの親子間の以心伝心であった。
 内外に向けてのプロパガンダが、着々と整いつつあった。



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