運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続 壺中天・瓢箪仙人 1
続 壺中天・瓢箪仙人 2
続 壺中天・瓢箪仙人 3
続 壺中天・瓢箪仙人 4
続 壺中天・瓢箪仙人 5
続 壺中天・瓢箪仙人 6
続 壺中天・瓢箪仙人 7
続 壺中天・瓢箪仙人 8
続 壺中天・瓢箪仙人 9
続 壺中天・瓢箪仙人 10
続 壺中天・瓢箪仙人 11
続 壺中天・瓢箪仙人 12
続 壺中天・瓢箪仙人 13
続 壺中天・瓢箪仙人 14
続 壺中天・瓢箪仙人 15
続 壺中天・瓢箪仙人 16
続 壺中天・瓢箪仙人 17
続 壺中天・瓢箪仙人 18
続 壺中天・瓢箪仙人 19
続 壺中天・瓢箪仙人 20
続 壺中天・瓢箪仙人 21
続 壺中天・瓢箪仙人 22
続 壺中天・瓢箪仙人 23
続 壺中天・瓢箪仙人 24
続 壺中天・瓢箪仙人 25
続 壺中天・瓢箪仙人 26
続 壺中天・瓢箪仙人 27
続 壺中天・瓢箪仙人 28
続 壺中天・瓢箪仙人 29
続 壺中天・瓢箪仙人 30
続 壺中天・瓢箪仙人 31
続 壺中天・瓢箪仙人 32
続 壺中天・瓢箪仙人 33
続 壺中天・瓢箪仙人 34
続 壺中天・瓢箪仙人 35
続 壺中天・瓢箪仙人 36
続 壺中天・瓢箪仙人 37
続 壺中天・瓢箪仙人 38
続 壺中天・瓢箪仙人 39
続 壺中天・瓢箪仙人 40
続 壺中天・瓢箪仙人 41
続 壺中天・瓢箪仙人 42
続 壺中天・瓢箪仙人 43
続 壺中天・瓢箪仙人 44
続 壺中天・瓢箪仙人 45
続 壺中天・瓢箪仙人 46
続 壺中天・瓢箪仙人 47
続 壺中天・瓢箪仙人 48
続 壺中天・瓢箪仙人 49
続 壺中天・瓢箪仙人 50
続 壺中天・瓢箪仙人 51
続 壺中天・瓢箪仙人 52
続 壺中天・瓢箪仙人 53
続 壺中天・瓢箪仙人 54
続 壺中天・瓢箪仙人 55
続 壺中天・瓢箪仙人 56
続 壺中天・瓢箪仙人 57
続 壺中天・瓢箪仙人 58
続 壺中天・瓢箪仙人 59
続 壺中天・瓢箪仙人 60
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 続 壺中天・瓢箪仙人 36
続 壺中天・瓢箪仙人 36

天は人間に何かを教えている。天は何も言わなくても、何かを教えてくれていて、天から学ぶものは多くある。
 孔子は七十歳になったとき、「心の欲する所に従い、矩
(のり)を踰(こ)えず」と言ったが、矩は“差金”のことであり、法則と言う意味である。それは、自在であり、かつ放恣(ほうし)にならない精神がある。そこに人生の到達領域がある。

 それはまた人間に反応する。天地が冥
(くら)いから自分も冥い。
 天は大雨を降らせ、颱風に苦しみ、あるいは高温多湿で温暖化を招き、地は地表の物を大きく揺らして、人間が難儀を強いられる。
 人民は天災によって天下の民は苦しむ。しかし、果たしてそれは天災と言えるのか。
 天下を治める権力者が、慎まぬからではないのか。

 人は夕日に、夕焼け空に、何らかの哀愁を感じる。それは沈む夕日の中に明日への希望が横たわっているのではないか。
 あるいは夕陽
(せきよう)の中に、何らかの希望以外の不安があるのではないのか。明日、陽は昇るのだろうか。そういう不安があるとき、没落も暗示している場合がある。その意味で夕日は、「未来信号」かも知れない。燈台と同じように二つの意味を持っている。一つは希望、もう一つは危険に警戒せよと言う暗示である。

 もし人間が、この二つの意味のうち、一つだけしか解らないと言うのでは、未来はおそらく人間を笑顔をもって迎えてはくれないであろう。
 夕日は明日への希望とともに、明日を警戒する暗示すら含んでいるのである。そしてそれに日々、注視できれば幸いである。


●夕陽(せきよう)の影法師

 津村陽平は落花生を能(よ)く作る。その腕前は名人級であった。農事に通じていたからである。百姓の何たるかを知っていた。
 落花生はマメ科の一年生作物であり、ボリビアなどアンデス地域の原産である。
 世界中に広く栽培され、豆類では大豆に次ぐものである。インドや中国地方で多く栽培されている。
 日本には十八に世紀初め中国から渡来した。特長としては匍匐性
(ほふくせい)と立性とがある。
 この作物は開花して受精後、子房の柄が長く下に延び、地下に入って蛹
(さなぎ)のような繭(まゆ)の形の莢果(きょうか)を結ぶ。種子は脂肪に富んで、食用として最適である。栄養価が高く携帯食にも便利である。
 また、油を採ることも出来る。その呼称は中国渡来のものであるため、南京豆といい、またピーナッツともいい、あるいは唐人豆ともいう。
 落花生栽培は、関東の地には敵した作物で、千葉や茨城にかけてこれを栽培する農民や趣味人は多い。用途が広いからだ。
 大戦当時は、携帯栄養食として落花生は貴重品とされた。
 また落花生は換金作物としてその価値観が高かった。弱った躰の滋養にもなるからである。
 しかし、これは換金して売るためでない。命を張った糧
(かて)であった。そこに肉体が生かされる源泉があった。それを少量日々頂く。

 換金を自給自足して、余剰分を金に変えるという換金作物の考え方が支配的になると、金を追う農業へと変化しはじめる。現金収入を目的とした換金作物の起源を思い起こせば、金銭至上主義は人間を変えて行くものである。経済流通が起こるが、バータ貿易制から換金制へと変えて行く。百姓は金に注目する。それも、いい方には変えない。悪い方へと変化させる。そこに人間の低空飛行がある。

 斯
(か)くして、農民は素朴さを失った時代が、敗戦後の日本を襲ったのは、よく知られるところである。
 百姓が、換金作物に手を出した瞬間である。
 そのとき、何が起こったか、津村陽平はその悲しむべき実体を見て来たからである。
 それは悲しいことであった。
 津村陽平は、悲しむべき事実を知っている。
 農民が純朴な、かつ朴訥
(ぼくとつ)な百姓精神を忘れて傲慢に成り下がった時期である。草食性の穏やかな大人しい者が、肉食獣のように振る舞った時期であった。
 敗戦直後の日本に地において、その傲慢
(ごうまん)を見た。下克上とも思える傲慢である。併せて旧秩序が崩壊する。
 首都圏などに住む人々は、僅かに焼け残った衣類などを田舎の農村にもって行き、農民に芋と交換して欲しいと懇願し、その懇願のために長い列が続いた。田舎に向かう、買い出し列車がいつも超満員であった。
 また一方で、米を狙う闇やも暗躍した。問屋然として札束を鞄にした闇屋は、トラックを東西南北に奔らせて荒稼ぎしていた。

 「米を分けて下さい」
 「芋を売って頂けませんか」
 都会から買い出しに来た人々は、地べたに這
(は)い蹲(つくば)りながら農民に懇願した。
 このような買い出しに来た聲
(こえ)に答えて、人情ある農民もいた。男気を見せた百姓もいた。懇願に答える人情家もいた。不憫(ふびん)と思った。
 しかし、大半はそう言う農民ばかりでなかった。不憫に思ったのは、一部の人情家のみだった。
 表面は農民だが、昭和22年
(1947)から25年の民主化の一貫として行われた農地改革(国が地主から強制買収して小作人に安価で売り渡し、この結果、旧小作農の経済状態は改善され、地主階級は崩壊した)で、少しばかり傲慢(ごうまん)になった百姓衆の中には、自分の百姓の本分も忘れ、悪質な旦那衆に成り下がる者も少なくなかった。
 米や芋を買い求める女性達に、交換する物だけでなく、モンペまで脱がせて女体を好き放題に貪った。少しばかり容姿端麗で器量がよければ、米や芋をちらせつかせながら「モンペを脱げ」と迫った。秩序のない弱肉強食の世界が、そこでは演じられていた。
 敗戦後の日本の「痴」の部分には、この種属の弱肉強食があった。子や孫に誇れない「痴」であり、自慢出来ない「恥」であった。こういう「痴」や「恥」を抱えた者が、子や孫に「いい地球状態にしておいて、後世に残す」などと、恥知らずの豪語は出来ないであろう。豪語は豪語に過ぎない。

 秩序が崩壊すると、どの民族も、何処の国民も、此処まで、弱肉強食の上に胡座
(あぐら)をかいて恥知らずになる。恥知らずと無縁でない。色情について理性を失った状態を「痴」という。その最たるものが痴情であった。
 戦争に負けたとは謂
(い)え、胸を張れるものでなかった。

 負け戦、それも広島・長崎にまで人類初の原子爆弾まで投下され、日本列島は主要都市の殆どが焦土と化した上に戦争の傷跡は余りにも深く、多くの人心を麻痺させてしまったのである。
 しかし悲劇は、それだけで終わらなかった。
 少しばかりの器量よしが、田舎に米や芋を買いに出掛けてモンペまで脱がされるのなら、都会の漢達は芋で腹を満たし、芋焼酎を心の憂さを払う玉箒
(たまばはき)にした。玉箒とは、酒をかっ喰らえば心配を払い除くからいう異称から、酒を呑んで憂さ晴らしすることをこう言う。
 芋焼酎は、メチルアルコールに較べれば安全で、当時は高級品であった。また、芋の“とろみ”は飴の代用品ともなり、芋飴なるものが登場する。
 芋は、茹
(ゆ)で芋、焼き芋などが主要駅に登場し、戦後の闇市の風物詩となった。バラック建ての路地を人がごった返す風景である。
 風物詩と言えば聞こえがいいが、そこは底辺の微生物が生き残るための修羅場であった。それも残酷なの形容が相応しい修羅場であった。

 更に、敗戦直後
【註】筆者はあえて、日本の戦後は敗戦から始まり、秩序が崩壊したと言う意味で終戦直後という言葉は用いない)、読者諸氏は、日本の敗戦を機に「女子奉仕隊」とか「女子挺身隊」【註】敗戦直後に遣われた「挺身」の意味は、女性が自分の身を投げ出して占領軍の言いなりになることを言う)という占領軍の生贄にされた婦女子が居たことを知っているだろうか。
 彼女らは皇族や華族ならびに財閥令嬢、政府高官や陸海軍の将官令嬢らの貞操を守るために生贄
(いけにえ)として組織された女子の奉仕隊で、占領軍の性欲の捌け口として「下の世話」を専ら遣らされた悲劇の部隊であった。
 この生贄挺身隊の要請が内務省
【註】明治6年(1873)設置、昭和22年(1947)廃止)通達で出されたと言う。庶民の子女は戦時だけでなく、敗戦後にも酷使され使役されたのである。生贄の女体として捧げられる、無慙(むざん)な家畜であった。
 つまり、戦争に負けるとは、併せてこう言う地獄も体験することであった。敗戦責任を論ずるなら、敗戦に伴って敗戦後の生地獄についても、当然、責任は課せられるだろう。特に非戦闘員の死傷については戦争指導達の過失について陸軍参謀本部も海軍軍令部も、その責任を負わねばならない。
 だが未だに、この「敗戦責任」はとられていない。
 先の大戦の戦争指導者達は、頬っ被りしたまま、この責任について何ら語りもしないし、沈黙したまま善人面して戦後、安穏とした生活を送った。

 敗戦責任……。
 多くの日本国民は、このことを余り議論したがらない。国民裁判の嫌いもない。ある勢力の圧力と宣伝に屈したまま、これについて口を開こうとしない。
 特に大東亜戦争指導者の「敗戦責任」の追求をした場合、日本には勝つチャンスは何度もあった筈である。
 敗戦原因を探ると、大敗にしたのは、軍上層部
(特に海軍)の官僚的無能無策や利敵行為っぷりによる日本側の墓穴掘りであった。大東亜戦争は、オウンゴール(自殺点)の連打によって、日本は、あの弱かった米国ごときに負けたのである。見掛け倒しの張り子の虎に負けたのである。
 「日本は物量で負けた」というのは大ウソである。進歩的文化人らの戦後の捏造分析である。戦争の途中の昭和17年半ばまでは、日本海軍の物量はアメリカ海軍を圧倒してた。だが不思議にも、不可解にも、戦況は逆転してしまう。単に偶然であったとは思えない。内部に間者がいたことにも、情報筋は発見出来なかった。機密情報が漏洩していたのである。それも戦争指導層の連中からである。このときこの層に新世界秩序を信奉する信奉者がいた。また、そのように取り計らった形跡が強い。海軍水交社の連中だどうだったか。疑うべきだろう。
 したがって、日本海軍の敗戦責任は重い。敗戦責任の所在を明らかにする事こそが、戦没者への最高の「慰霊」にして「ご供養」だと、私は信じるのである。

 一方、かつての激戦地に行って、戦没者の「ご遺骨の収容活動」をされてる方達がいらっしゃる。
 ご遺骨の「収集」だと、「ゴミ収集」みたいなものに成り下がるので、ご遺骨の「収容」が正しい。
 この、ご遺骨収容活動こそ、戦没者への最高の「慰霊にして、ご供養」だと、主張されてる方達がいらっしゃる。私も、つづくそう思う。
 「敗戦責任者の追求」は、戦没者への「慰霊」でも「ご供養」でもないと思う。
 だが敗戦責任者の追求は一体、何なのか?
 声を大にして言うのは「敗戦責任者の追求」は、戦没者への「鎮魂」であるからだ。
 つまり敗戦責任の所在を明確にして、山本五十六みたいな無能無策な指揮官達の信償必罰を明確にすることこそが、戦没者への最高の「鎮魂」であると信ずるのである。まず日米開戦の責任は重大であろう。そもそもフリーメーソン33位階のルーズヴェルトの意図を汲んで、その策に乗った責任は軽ろかろ
う筈がない。

 さで、話を戻す。
 落花生の種蒔きは千葉や茨城などの中間地では、五月から六月初旬に行い、植え付けは六月半ばから七月初旬頃である。そして種蒔きから収穫までは約五ヵ月である。落花生は高温で、日当りのいい場所を好む作物である。その作付けに津村は通じていた。
 また落花生は、仙道における食餌法の健康食であり、これを「地丹法」という。
 地丹法は本来は仙道の行法には欠かせないもので、例えば正坐して風・火・薬を用いる場合、精を一旦気に戻し、更に気を神
(しん)に戻す。
 この場合、風とは「呼吸」であり、火とは「意念」であり、薬とは「陽気」である。

 精を気に戻せば、まず若返りに通じ、肉体的にもタフになる。津村が矮男
(こおとこ)でありながらバイタリティーのある底力を発揮するのは、豆類で製造した丹薬に秘訣があった。丹薬を用いると超人的な頑張りを発揮出来るのである。食事法によって肉体力を強化し、全身に健康力を齎し、体質を良好にする目的をもって、老兵ばかりが集まった、この部隊の体質強化を図ることが津村の目的であった。
 老兵隊に支給される食糧は少ない。かつての兵隊に支給される「一日、米六合」の配給など過去の幻影に過ぎなかった。
 更には、カボチャの四つ切りの1/4とか、ジャガイモ2個とかサツマイモ2個、あるいはキュウリや茄子の何れを5本ずつで、これが一日分の食糧なども過去の幻影だった。老兵に多過ぎるということで1/3に減らされていた。また将校以上が喰らっていた麦混じりの米の飯などは、殆どお目に掛かれない。
 老兵は開墾作業という重労働で使役されながら、家畜以下の生活をしていた。酷いものである。彼らはまさに目前に死を控えた「老畜」と看做されていたのである。

 その根本に丹薬を置いていたのである。不老長寿であり、「性」の強化にあった。性が強化されれば、老いたりと雖
(いえど)も簡単には殺(や)られない。抗(あらが)える。
 仙道の丹薬を食餌法として、健康剤として用いれば、老いた躰も再び蘇る。精気を帯びる。その一つが落花生から採った油であり、この油とともに落花生を数粒、食事時に食する。そしてこの「油」を津村は丹薬と称した。
 『津村流の製丹法』では一旦落花生を茹
(ゆ)で、その種子を圧搾(あっさく)して得る不乾性油のもので、油の色は無職に近く、また臭いも無臭であった。また、この油は疵口などに軟膏(なんこう)としても用いることが出来る万能薬であった。
 これを開墾班の老兵達に食餌法として実践させたのである。
 食餌法とは、今日に考えられているような単なる病人食ではない。減らすことを主眼に置いた「マイナスの栄養学」である。
 一般に腹八分と言う。腹八分は腹八分なりの功徳があろう。
 しかしそれ以上のものでない。腹八分では「マイナスの栄養学」にはならない。マイナスの栄養学は、減らすことに意味を持つ。人生の折り返し点まで生きたら、次は減らすことに心掛ける。マイナス療法である。

 そこで、津村陽平は考えた。
 仙道の食餌法を通じて、「腹六分」に踏み切った。少食・粗食の少量の糧を感謝して頂く。それだけの実践である。当然そこにも腹八分以上の功徳がでる。
 腹六分の功徳は、腹八分を飽食と感じる者だけが理解しうる功徳である。それは、みだりに飢えた、空きっ腹を抱える者の前で説かれる功徳でない。この道、つまり仙道を知らない方士擬きが、民衆の前で耐乏生活を説き、しばしば言葉の使用を誤って、効果を逆にしている悲しむべき事態を指すのではない。知る者が知る仙道実践法だった。
 津村の考えは、此処に居る26人を纏
(まと)めて、みな仙人にすることであった。
 これで26人の仙人が出来ると考え、食餌法と丹薬飲用を始めたのである。それが功を奏していた。老いても元気だった。
 あたかも、かつて長寿村と称された、高齢になっても農事作業が出来る健康体を持った山梨の棡原
(ゆずりはら)の老人の如きであった。粗衣粗食を旨とした身土不二(しんど‐ふじ)の実践であった。穀菜食を主とし、肉食を嗜(たしな)まない。牛乳などの乳製品を飲用しない。そういうものは人に廻す。人に譲る。

 津村が班長を務める開墾班は、粗末なバラックの作業小屋の宿舎に26名ほどが寝泊まりしていた。そしてそこには仙人のような老人が26人でき上がった。
 兵舎と言うには悍
(おぞま)しかった。貧弱だった。まるで奴隸部屋である。
 物資がないとこのようになるのは仕方ないが、しかし物資や食糧はあるところにはあったのである。それを戦争指導層は、「これだけしかない」と言い続け、「贅沢は敵だ」などのスローガンで国民に対して権謀術数を使っていたのである。
 ところが仙人26人はその意を介さない。淡々と飄々
(ひょうひょう)と元気であった。

 早朝3時の起床ラッパを聞いて起き、夜は9時の消灯ラッパの合図で一日のリズムが定められ、小銃を担いで走り回る教練だけは免除されていた。その代わり、早朝から夕刻の陽が沈むまで、開墾という重労働が課せられている。
 ラッパを聞いて飛び起き、隊伍を組み作業場に向かい、また昼時は、正午に昼食ラッパが鳴る。それを聴いて糧食班へと向かう。
 しかし此処では朝夕の点呼はなく、また不寝番すら立たない。作業が終われば全員崩れるように寝る。その繰り返しの毎日だった。この老兵集団は、朝早くから夜遅くまで開墾作業をする。

 開墾場は「一日も早く」という至上命令が出ていた。そのうえ僅か26人程度では、聯隊全体を賄
(まかな)えるだけの食糧を作り出すには到底人手が足りない。この矛盾を抱えて、開墾班は黙々と作業を続けるのであるが、班員全員が重労働に絶えられるだけの健康体という訳ではない。平均年齢五十半ばである。教練をして兵隊を遣るには歳を取り過ぎている。戦場で駆け回る身体能力は失われている。
 また、樹の根を掘り起こすには、専ら鶴嘴
(つるはし)に頼り、また根が顕われたら、その下に大木を差し込んで梃子(てこ)の原理で浮かし、引き抜いてしまう。この大半を津村は、ほかを休ませ、自分一人で遣っていたのである。それぞれが仙人然と雖(いえど)も、津村とはキャリヤが違う。そこで余剰エネルギーは津村が総て引き受ける。津村は自分の丹力を、不足分に振り当てた。
 しかしそのうち、二人、三人と、何人かが、津村の重労働に加勢する老兵が加わって来た。これは丹薬の御陰であった。精気が、老いた躰に蘇ったからである。津村は、こうして戦えるだけの戦士を外に示さないまま養っていたのである。
 何れ野戦に出て行かなければならない。九分九厘、外地の送られるだろう。それも後方支援などではなく、第一線の矢面にである。むざむざと弾除けにされるには惜しかった。生かしたい。津村は指揮官としてその不憫を思ったのである。

 開墾班で作業する老兵達は、みな上半身は裸である。それはボロの軍服しか配給されないと言うこともあったが、ボロを纏っていては動き辛い。袴下に草鞋履きである。班長の津村とて、同じであった。彼らと同じように働く。それ以上に働いてみせる。その源が食餌法にあった。
 老兵部隊は、いつしか穀物菜食の半自給自足状態を維持出来るようになっていた。
 物資難、食糧難の時代、兵員食は半分以下に削られていた。老いた身に、若者並みの食事量は必要ないだろうと思われていた。そこで津村が考え出したのが「仙人食」であった。一日の食物摂取500キロカロリー程度で肉体が維持出来る食餌法であった。
 徴用されながら兵隊に支給される食糧を減らされるのであるから、それに併せて肉体自体も作り替えなければならない。それが「仙人食」であった。老兵には、肉や魚の肉類は一切ない。飼葉桶
(かいばおけ)に芋・南瓜(かぼちゃ)・キュウリなどを盛られてそれで終わりである。それ以外与えられない。

 しかしこの逆境に耐えなければならなかった。兵隊としての生活費をゼロに近付けなければならない。その上で開墾地に農作物を作り、大半は糧食班が持っていってしまう。残ったのは僅かだ。
 これを26人で分配する。少量だが、創意工夫すれば生き抜く方法はあったし、500キロカロリー程度でも生き抜くことが出来る。日々が半断食状態であった。半断食しているのであるから、身も軽快である。これまで体内に蓄積していた老人特有の老廃物も排泄し始め、一日中、袴下一枚、褌一枚で畑の中を走り回り、生き抜く術を覚えてしまっていたのである。
 原野を切り拓く。切り株を掘り起こして開墾地に変える。巨石を取り除き、作物が植えられるようにする。
 実に重労働であった。重役である。
 あたかも明治期、網走刑務所の囚人達に課せられた北海道開拓の重労働を髣髴とさせた。十人中、七人は死ぬと言う重労働である。そういう重労働を、此処では開墾班の歳老いた者がしていた。
 しかし老兵隊員は、よく耐えた。これまでの重労働で、一人を失っていたが、以降そういう病死人は一人も出ていない。

 総て津村の智慧と双肩に懸かっていた。
 彼は健康の源を体力主義の求めない。生命力とは体力や筋力ではなく、飲食物による体質改善を図り、内側から、内筋から鍛えた。老人達は蘇っていた。老人の生気があった。衰えていた「精」が蘇っていた。秘訣は落花生であった。回春術にも遣われる妙薬である。
 丹薬として油を絞り、落花生を遣う。津村の考案の丹薬の御陰である。この丹薬は津村家代々の秘伝として伝えられたものである。
 更に、丹薬とともに、毎日「何かを学ぶ」ということを課せた。
 幕末の儒学者・佐藤一斎の『言志四録』の一節にあるように、全員に学ぶことを課せた。
 「少
(わか)くして学べば、壮にして為(な)すあり、壮にして学べば、老いて衰えず。老いて学べば、死して朽ちず」である。ここに「学ぶ」という深い意味がある。それは「学ぶ以外ない」と解することが出来るかも知れない。人は学ぶ中に人生がある。
 吉田松陰式である。誰かが得意分野を論ずる。それを全員で謙虚に聞く。教わる。そして考え、学ぶ。多方面から受け入れ、それを智慧として学ぶ。その智慧が、やがて見識となる。単なる知識でない。見識である。それを学ぶ。そして見識は、その後、胆識に変換される。学はそこまで辿り着いて、真物となるのである。それは知識の集積ではなかった。その範疇
(はんちゅう)を凌駕(りょうが)していた。
 学び続ける者は、老いぬからである。それを津村は、身をもって知っていた。

 此処では、津村の家訓である『夢』一文字が動いていた。それに一縷
(いちる)の望みを託した。
 『夢』の一文字は、世間でよく言う「人生夢の如し」という、感傷的な意味ではない。『夢』の一文字は禅にも通じ、また老荘思想とも一致する「後に何も残さない」という意味である。そういう生き態
(ざま)を老兵達は実践していた。
 そしてその生き態を津村は自然から学んだ。如何にも道教的であった。
 自然は本来、生も死もないからである。大小も、盛衰も、強弱もない。自然は弱肉強食の荒々しい矛盾に満ちたものと騒ぐのは、科学を信奉している者だけである。
 そもそも自然は相対界でない。それ自体で立派に調和している。したがってその調和の中に、正邪もなく、善悪もない。そういうものを区別したのは、人間である。自然は無為
(むい)にして、自然学的法則や体系を作らず、然も草木も、作物も、育ち、よく稔(みの)った。
 津村の遣り方は、自然をコントロールしたり、管理したり監督するものでない。自然に一切を任せた、合理主義とは程遠いものであった。それでいて、よく稔ったのである。一見、八方破れに思える無手勝流で、土のことは土に任せ、草のことは草に任せ、虫のことは虫に任せて、広大無辺、融通無碍の道教的農法を実践していたのである。

 そうした酷使状態の中で、最近、夕刻の五時から二時間ほど、女子学徒の夕鶴隊が加わるようになった。戦闘訓練の一貫である。遊撃隊は戦況に応じて、しばしば自給自足の局面に接するからである。一種のサバイバルであった。
 またそう命じたのがアン・スミス・サトウ少佐であった。自前主義を隊員達に理解させるためである。
 一つの製品が出来上がるまでには、多くの人手を委
(ゆだ)ね、簡単には食卓に並ばないことを学ばせるためである。農事の根本を学ばせるためであった。
 作業をする開墾班と同じように鶴嘴を振るう。
 そこで、鶴嘴の遣い方から津村は教えて行く。力の遣いからである。鶴嘴を持ち上げ、それを地面に喰い込ませる。これが簡単なようで簡単ではない。力の遣い方に無駄があれば容易に持ち上がらないのである。

 夕鶴隊の面々は全員が作業のための白い事業服を着て、頭には日の丸のついた白い鉢巻きをしていた。頸には手拭である。
 履物は足の指の感覚を覚えるために草鞋である。地面に踏ん張るには草鞋がいい。土と接することは、則ち百姓の気持ちが分かるからである。アンも、キャサリンも同じような格好をしていた。
 それぞれは、左胸には自分の階級を顕す階級章と、襟には左右に幹部候補生バッチを付けていた。

 全員を前に、津村は一声を挙げた。
 「鶴嘴を持ち上げるときは、左右の手を大きく開いて間隔を充分に取り、頭の部分に右手、そして左手は剣で言えば、柄後部の鐺部
こじりぶ/先端部)を握って下さい。そうすると楽に持ち上がります。剣術のでの剣を振り上げる要領と全く同じです。
 地面を穿
(うが)つ場合は、重力に逆らわず、落してやればいいのです。この要領が分れば、左右の手を入れ替えても同じように出来ます。皆さんで、それを試して下さい」こう言って、それぞれに穿つ方法を指導して行った。
 しかし、こういう出来のいい女子学徒の中にも、何人かの臍曲がりは居るものである。まず大半が頭の中で考えようとする。そしてまず自己流で挑む。
 人間は男女を問わず、主観に作用される生き物である。20分も経つと、「手に豆ができた」とか「豆が破れて痛い」と苦情を言う者が出てきた。木刀とか竹刀を初めて握って、手に豆が出来ると言うやつである。

 「先生、手に豆ができました」と押坂陽子。
 「先生とは誰ですか?」津村はしゃあしゃあと訊いた。
 「それは、先生のことです」と再び押坂。
 「自分は先生と言われるほど、バカではありません」
 そう言うと、周囲から失笑が起こった。
 とにかく、津村は先生と呼ばれることと、自分の年齢より若く見られることが大嫌いだったのである。正常なる神経をしていた。見掛け倒しの張り子の虎も嫌いで、掛値無しの平凡な等身大のままの自己評価をされることを好んだ。
 「では、何と呼べば宜しいのでしょうか」と真面目に押坂陽子も食い下がって訊く。
 「そうですねェ、親しみを込めて“おいちゃん”とでも呼んで下さい」
 「それは、ちょっと……」彼女は恐縮するように頸を捻って言った。
 「だったら好きなように呼んで下さい」
 「先生!」と押坂。
 「結局そうなりましたか、なんでしょう?」
 「手が痛くて、もうこれ以上握れません」
 「それはそうでしょう」
 「じゃあ、どうしたら?……」
 「放置して下さい。無視して下さい」

 この会話を傍で聞いていたアン教官がくすくす笑い出した。横にいたキャサリン教官も同じだった。彼女達は津村らしいと思ったからである。この二人は日本に居たとき剣道を経験し、有段者であった。
 「先生、手の豆の疵
(きず)、放置しても大丈夫ですか」と島崎ゆり
 「大丈夫です」
 「ここから悪性の黴菌
(ばいきん)が入ったりして、手が腐ったりしませんか」と島崎ゆり。
 「しません」
 「軍医殿に診て貰わなくても大丈夫ですか」と島崎。
 「大丈夫です」
 「腕全体が腐ったりしませんか」と島崎。
 「腐りません」
 津村は全く意に留めなかった。
 「本当ですか」と島崎。
 「そう言うのは放置することです、二、三日で完治します」
 「でも、痛い」と貌をしかめて島崎が言う。それに無視されていることは些か腹立たしい。
 「それは掌の鍛練が足りないからです」
 「えッ?えッ?……」
 島崎は困惑した。
 「では、ここで小休止します」
 津村は一旦全員に小休止を命じた。副官の兵頭仁介が大声を張り上げて「全員小休止!」と怒鳴った。

 室瀬佳奈は祖父の泉蔵に駆け寄って、笑顔を泛
(う)かべて訊いた。
 「お爺ちゃん、元気だった?」
 「ああ、元気だったよ。佳奈も元気だったか」
 「うん」
 「それはよかった。ここの班はいい。班長殿が、本当によくして下さる。それに班長殿は絵心がある。わしの瓢箪の絵を見事だと褒めて下さる。ほれ、この瓢箪、見てみい。これまでの、わしの最高傑作じゃ」
 「うわァーッ、凄い。真物
(ほんもの)の蜂みたい……」
 「これを、班長殿は感嘆して下さった」
 「ねえ、お爺ちゃん。これ、ちょっと貸して。見せたい人たちがいるから、いいでしょ?」
 佳奈は瓢箪を持って、夕鶴隊の連中が小休止しているところに疾って行った。そして瓢箪を、みんなに見せながら、泉蔵が腰を降ろしていることを指をさすのである。
 おそらく「あれが、わたしのお爺ちゃんよ……、お爺ちゃんは漆職人なのよ……」などと言っているのであろう。
 全員が起立して、泉蔵にお辞儀した。そしてそれを見た泉蔵も立ち上がり、頭に巻いていた手拭の鉢巻きをとってお辞儀した。
 やがて佳奈が走り戻って来た。

 「お前たちは、どういう訓練を受けているだい?」
 「遊撃隊ですって」
 「なに!遊撃隊だと?……、それは第一線に立って戦闘をすると言うことか!」驚いた問いに訊いた。
 「よく分らない……」
 「しかし、死んじゃァいかんぞ。どんなことがあっても、生き残れ。どういうところで、どういう立場に置かれても、死ぬなよ。絶対に死ぬなよ……」
 「わたし、死ねないの?」
 「そうだ」
 「玉砕したら駄目なの?」
 「そうだ」
 「敵に捕まっても?」
 「そうだ」
 「拷問されて、死にたいと思っても?」
 「そうだ、生き残れ。生きて、この戦争を伝える“生き証人”になってくれ」
 泉蔵は、その後のことが直感的に分かるのであった。それは敗戦国の軍事観である。その軍事観は極めて皮相的であり、実体や事実を突き止めないまま感情論に流されて、幼児化し、かつポピュリズムに発展することを知っていたのである。そうなりと事実は隠されて、敵の思うまま、戦後を操られる。単にヒステリックな聲
(こえ)だけが高くなって、物事を冷静に見る眼を、機会を、その判断基準を失うのである。
 「生き証人に?」
 「それは事件に対し、事変に対し、正しい眼をもってくれという、死に逝く者の願いだ」
 「そんな難しいこと言われても、わたし、分らない」
 「いいか、佳奈。これを見ろ。この、わしが描いた瓢箪に描いた蜂の絵を見ろ」
 「うん、よく描けている」
 「そうだろう、わしは蜂を長らく観察して来た。観察したから此処までのものが出来た。昆虫をよく見る眼がなくて、此処までの写実的な絵は描けない。つまり、物事を確
(しか)と見る眼をもって、この大東亜戦争を見てくれ」
 「分った。わたし、その眼になる」
 「いいか。生きて生きて生き残り、事実を伝えよ。大東亜戦争の事実を伝えよ。わしが検
(み)るところ、そして班長殿の見解からも分るように、この戦争、日本は負ける。必ず負ける……」
 「日本は負けちゃうの?」
 「そうだ、日本は負ける!」
 「本当に負けるの?」
 「そうだ!」
 「神国日本に神風は吹かないの?……。国難来るの今、神風は吹かないの?」
 「神国日本は、いつも神風は吹いているさ。しかし、その神風を聴く、耳を持った指導者がいない。血迷った愚将ばかりでは、勝てる戦争も勝てない。兵が優秀でも、指導者がバカでは勝てないではないか」
 「浮沈戦艦と言われた世界に誇る『戦艦大和』も沈んじゃうの?」
 「沈む!」
 「日本の誇りが、全部沈むの?」
 「ああ、沈む!」
 「じゃァ、お父さんのいる硫黄島の海軍陸戦隊はどうなるの?この島の陸海軍の守備隊はどうなるの?」
 これを聴いて、泉蔵は急に沈鬱
(ちんうつ)な貌になった。
 「……………」
 「ねえ、お爺ちゃん。どうなるの、お父さんは?……、教えて」
 佳奈は祖父の腕を揺するようにして訊いた。
 「それは……」と言いかけて、その先の言葉を呑んだ。玉砕という言葉が脳裡に張り付いていたからだ。
 日本は負け戦を演じていた。陸軍参謀本部と海軍軍令部の軍隊官僚が国を危うくしていた。
 泉蔵は、それだけ戦争指導者が無能無策だったのだと言いたかった。軍隊官僚に、戦争は出来ないと言いたかった。机上の空論の“戦争ごっこ”だけでは勝てないのである。また、この度の戦争の発端も、机上の空論から日本は海軍は動いたではないか。例の「図上演習」というやつである。

 昭和19年7月時点で、一般国民も、聡い者は日本の負け戦を知っていた。誰一人、勝つ戦争を戦っているとは思わなかった。既に昭和12年から15年までの勇壮な日本軍は崩壊していた。その崩壊を逸早く悟ったのが上等兵以上の階級章を付けた
「再徴兵」という連中であった。応召兵の多くは、それを既に知っていた。
 当然、軍紀が乱れる訳である。
 ちなみに敗戦時、喜劇役者
(コメディアン)の古川ロッパは、上野駅で、無態な暴徒と化した復員兵達が列車に乗り込むのに窓から他を押しのけて乗り降りする愚行を見て「だから、日本は戦争に負けるんだ」と嘆いたと言うが、軍紀の乱れは何も敗戦時に起こったことではない。既に昭和19年頃には明確になり始めていたのである。

 「これまでも多くの人が死んだのに……」
 「そうだ、多くが死んだ。しかし、死神はこの程度の死者の数では満足しない。もっと死者を欲している。
 負け戦には死人の山が必要だ。わしは、その死者の山に一つになって、もう直、死ぬだろう。自分で死期が分る。だが、どうせ死ぬのなら、ああ言う班長殿のような人の下で死にたい……。あの人の下なら、安らかに死んで逝けそうな気がする」
 「駄目よ、死ぬなんて」
 「もう、わしも60を廻った。長くはあるまい。それに人生六十年、よく生きた。つくづくそう思う。
 しかし死んでも、わしの魂は不滅だ。そう、班長殿が仰った。この歳になって、まさか徴兵されるとは思ってもいなかったが、この歳になって、いい上官に巡り会えたと思っている。いい人に廻り遭えた」
 それを泉蔵は邂逅
(かいこう)として、孫娘に伝えたかった。
 「津村班長殿って、どういう人?」
 「いい人だよ」
 「それは分るけど、少し頭がおかしいんじゃない、普通の人とは違って、ちょっと変じゃない?」
 14歳の佳奈は最初、津村宅を訪れた際、奇妙な、津村が女性の前にすたすたと遣って来て、しげしげと貌を見ながら、やや不謹慎な面構えになって、その場でごろりと横になったのである。そして右腕で肘枕をし、彼女達を鑑賞をはじめた。豪放磊落
(ごうほう‐らいらく)と言うか、いかてれいると言うか、頭が毀(こわ)れていると言ってもような行動を目(ま)の当たりにしたからである。

 「そういうことはない。いい人だ、いたって正常。人情に機微を分る人だ。わしの、この手を見てみい」
 祖父の泉蔵は、孫娘の佳奈に自分の掌を見せた。
 「うわーッ、剣道の先生みたいな掌
(てのひら)。それに指も腕も、節だらけで、ごつごつしている……」
 孫の佳奈から見た祖父の手も腕も、松の巨木の枝のように至る所が節くれ立っていた。
 「そうだ、ここまで班長殿は鍛えてくれた。老いても、老いた先の愉しみを教えてくれた。
 いいか、わしらの部隊はもう直、野戦に出る。外地に行く。認識票まで配られ、みんな首に掛けているの分るだろ。しかし、このことは誰にも喋るでないぞ。暫くは黙っていろ」
 「うん」
 「戦争が終わったら、もう一度会おう。もしかしたら、わしは靖国にいるかも知れんがのう……」
 「いやだ、そんなの」
 「人はやがて死ぬ。それは何ぴとも止められん」
 泉蔵は自分の死を見ているのかも知れなかった。
 「お爺ちゃん……」
 佳奈は悲しい貌をした。
 祖父の泉蔵が野戦に出るとは、老人ばかりが集められて防波堤になり、あるいは弾除けになって死ぬことであった。果たして、もう一度会う事があるのか。佳奈の脳裡には、そう言う不安と不審が疾った。
 しかし、一方で安堵もあった。奇妙だが、その部隊長が津村陽平少尉
(本人は承認式を終えていないので、自らは「見習い少尉」と言って憚らない。階級章は准尉であった)であるからだ。少々おかしなところがあっても、生かす智慧を持っているだろう。佳奈はそう思った。
 この奇人の津村なら、生きて全員を損することなく、外地から連れて帰って来るかも知れないと思ったからである。それに一縷
(いちるの)の望みを託した。そして自らも奇異なる、もと英国空軍テストパイロットで、今は陸軍航航空士官学校軍事顧問のアン・スミス・サトウ少佐と、同じくキャサリン・スミス少尉に率いられ遊撃戦を指導されているからである。そういう人の出合いの邂逅(かいこう)を思った。佳奈はまだ年端もいかない少女でありながら、自分の人生を、運命を、自分は仕合せな出遭いがあったと、このとき初めて思ったのである。
 何かに守られている……。彼女の率直な感想であった。

 「いいか、佳奈、よく聴いてくれ。此処に居れるのも、もう一ヵ月もないだろう。わしらは、もう直、野戦に出る。その間に班長殿から、教わることは確
(しっか)りと教わっておれ。信用に価する、いや、班長殿は信頼のおける人だ。下駄を預けてもいい人だ。仙道の名人と言ってもいい。わしのことは、心配ない。
 そこでお前のことだ。いいか死ぬな、どんなっことがあっても死ぬなよ、必ず生き残れ」
 「分ったよ、お爺ちゃん。だから、お爺ちゃんも死なないで……」
 「さて、それは約束できん。なにせ歳だからなァ」
 「お爺ちゃん……」
 「もう直、作業が始まるぞ。お前も持ち場に行け」
 孫にそう諭すように言い、室瀬泉蔵は自分の持ち場に散った。
 その後ろ姿は、今まで佳奈が一度身見たことのないような、痩身でありながら引き締まった赤銅色の祖父の後ろ姿であった。よく鍛えられた躰と思った。果たして、普通の老人にはない、あの松のような節くれだらけの軍鶏のような筋肉が死ののだろうかと思った。それに、動きも今までには見たことのない、敏捷な動きを祖父はしていた。

 夕陽
(せきよう)斜めなり……。夕日は何処までも美しい。誰の影法師も長く尾を曳いていた。

 「各員、作業に掛かれ!」何処からともなく、号令がかかった。
 夕陽の中、老映は散らばり、長い影法師を退いた。そうした夏の夕日を赤く浴びながら、開墾作業が再び黙々と続けられたのである。

 一方、津村。
 「皆さん、作業をしながら聴いて下さい。教えることがあります。まず、同時に二つ以上のことを実践して下さい。例えば、いま作業しながら、同時に講義を受けるという実践です。
 一つのことで、精一杯というのでは、この時代、生き残れません。躰を動かしつつ、併せて講義を受ける。
 かつてソクラテスは散歩しながら、弟子に自説を説いたと言いますが、ここでは散歩はありません。散歩はしませんが労働をします。それも開墾作業です。辛い仕事です。これが実戦です。何しろ戦争をしています。
 皆さんは屯田兵の気持ちで躰を動かし、動かしならら、耳から学んで下さい。皆さんの耳に向かって講義します。したがって散歩より、少し学習状況としては厳しいかも知れません。
 しかし、作業しながら講義を受け、その教わったことが、実戦に役立つとしたら、大きな意味があります。
 戦争をしているのです、一度に二つのことを考える。それを出来るか否かが、その後の生死の明暗を分けます。
 これは教室で聴くことの出来ない、人間の生き残るための哲理の指導です。いま原野を切り拓いて、耕作地に変えている。これが人生の哲理です。人間の生きる意味は此処にあります。しかし欲張ってはならない。これに、生きるための哲理です。
 自分が全部とらずに、四分だけは他の人のために残しておいて下さい。六分でよしとします。
 したがって、自分の肚も、六分でよしとします。腹八分ではありません。腹六分でよしとします。あとの四分は、人のために残しておいて上げて下さい……」
 津村陽平は、一切自分の手は休めず、講義の聲
(こえ)だけを大にして喋り続けた。人間削岩機は鶴嘴を揮って固い岩盤を穿ち、手を、躰を、休めることなく動き続け、更に講義を継続する。一種の超人であった。

 欲張るな。残りの四分は人のために残せと言う。そして自分は幾ら条件よく勝ったとしても、六分の勝ちでよしとする。十分勝ちがはよくないと言う。八分でも駄目と言う。いいのは上限「六分」と言う。奇妙な教えだと思った。
 その教えの中には、敵を追い詰めて窮鼠
(きゅうそ)にするなという意味も含まれていた。窮鼠にすると、必死に立ち向かうからである。そこまで追い詰めてはならないのである。
 敵にも余裕と、逃げ道を残しておくことが、同時にこちらも生かされることであった。窮鼠にすると、結局は共食いの悲劇を招くからである。
 仏道の奥義に「瀉瓶
(しゃびょう)」という古語がある。これを瀉瓶相承(しゃびょう‐そうじょう)という。
 「瀉」とは「そそぐ」と訓
(よ)む。瀉瓶であるから、瓶の中身を悉(ことごと)く注ぎ移すことをいう。
 瓶の水を他の瓶に移し入れるのに譬
(たと)える意味で、仏道の奥義を遺漏(いろう)なく、師から弟子に伝えることをいう。

 更に師が弟子に対し、その見解、その見聞、その伎倆と後に派生した儀法、その見識を余すところ無く、移し伝えて遣ることで、「皆伝
(かいでん)する」という意味をも含む。その子弟相互間においては、教える者と教わる者との魂の触れ合いがあって、閃光(せんこう)を発するような烈しさと深さとが存在する。
 鎌倉中期の曹洞宗の僧に懐奘
(えじょう)という、後に道元に師事した永平寺第二世がいた。懐奘は『正法眼蔵随聞記』を著したことで有名である。
 懐奘は、そもそも道元禅師の侍者であった。
 師匠の道元の挙動を朝から晩まで観察し、併せて師匠の言葉を、一言一句総て覚えているから、始末が悪い一方、かの『随聞記』を著すことができた。つまり、「道元禅師はこのように謂われた」と覚えていてそれを一々記録した。したがって『随聞記』には曖昧
(あいまい)な表現が一つもない。常に断定的に書かれている。それだけ鋭い。

 例えば「古人曰
(いわ)く『霧の中を行けば、覚えざるに衣しめる』と。よき人に近付けば、覚えざるによき人となるなり」とか、「君子の力、牛に勝(すぐ)れりと雖(いえど)も牛と争わず。われ法を知れり、かれに勝れたりと思うとも、論じて人を掠(かす)め難ずべからず。もし、真実に学道の人ありて法を問わば、法を惜しむべからず。ために開示すべし。然(しか)れども、三たび、問われて一度答うべし。多言閑語(たげん‐かんご)することなかれ」とか、どの章も断定であり、それはあたかもワザビがピリリと利いていて、快刀乱麻を断つ鋭さをもっている。
 昨今のふやけた学者のように「ああでもない」「こうも思われる」「そうですね」などの、要するにどうでもいい多言を羅列しながら、結局、結論をぼかして断定できないのとは正反対であり、一言一句が肺腑を抉
(えぐ)る鋭さを持ち、かつ心魂に迫ってくるのである。此処には命を張って、教える方も教わる方も、真剣勝負を徹するのである。

 教えに「あやふや」なことがあってはなるまい。
 弟子に訊かれたら「そうですね」の「ね」を付けるような、あやふやでは駄目である。
 「これはこうだ」と断定的でなければならぬ。明確に裁断しなくれはならない。そのために「決定
(けつじょう)」が必要になる。要するに断定する以上「開き直ったもの」を持っていなければならないのである。したがって、発言の一言一句が絶対的になる。

 それを津村陽平は、教室であやふやな、ふやけた言葉を羅列するのでなく、躰を動かしながら、作業の働きを利用して、併せて、二つ以上の同時進行の教え方をしたのである。実学の最たるものであった。

 開墾をするには大地を耕し、原野を切り拓かねばならない。荒地を開拓せねばならない。
 人間削岩機の湯村陽平の鶴嘴が固い大地の表面を穿つ。そこに岩盤に罅
(ひび)を入れる。更に穿つ。岩盤のような固い大地が割れ、細かく砕かれて行く。そして石などを取り除き、平地として耕して行く。その転がった拳大の石を夕鶴隊の女子学徒の“手に豆ができました”という組がそれを運び出し、土を補って平地に作り変えて行く。

 その間に津村は講義の一つも垂れるのである。
 「講義を垂れる条件として、皆さんは手を休めず、目配りを充分にして、また足の動きを疎かにせず、労働をしつつ、耳だけを傾けて下さい。
 1808年、ナポレオンに敗れたプロシアは常備軍を2万2千名に制限されました。こうなると、これまで通り、普通の訓練を遣っていても、永久にフランスを敗ることは出来ません。しかし、そこに一人の天才が顕われました。この天才が参謀総長のシャルンホルスト
Gerhard Johann David von Scharnhorst/ゲルハルト・フォン・シャルンホルスト。プロイセン王国の軍人で、軍制改革者。参謀本部制度の生みの親として知られる。1755〜1813)です。自ら立案して、兵を率いる将校の比率をこれまでの三倍にしました。つまり軍政改革をした訳です。そして、約半世紀の臥薪嘗胆(がしん‐しょうたん)の末、ついに1870年に、ナポレオン三世のフランス軍を完膚なきまでに叩きのめしました。この制度をクリュンパー・システムといいます。
 野戦では中隊長が最も大事です。これがシャルンホルストの思想です。
 これは極論すれば、指揮能力のある中隊長なら、どんな雑兵を与えられても、強兵と化して見事に使いこなすことが出来るのです。そこで、百匹の羊の番犬が一匹の羊を率いるより、百匹の羊を一匹の番犬が羊を率いた方が遥かに効率がいいことになります。
 この場合、羊の群れ全体を率いるのは羊飼いですが、羊飼いの意図方向性を理解して、羊を動かすのは、羊の番犬です。羊全体を動かして、率いる原動力が、どの層にあるかは、それは指揮する中堅と言うことになります。近代戦では中堅が判断し、行動する頭脳戦ということでしょうか。つまり中堅が弛
(たる)んでいては、雑兵(ぞうひょう)は雑兵のままです。兵としての効力を発揮しません。
 では、これについて質問を賜りましょう。どなたでも構いません、さあ、どうぞ」
 人間削岩機は質問を受けつつ、動き続けているのである。

 津村は中堅層の「質」を挙げ、その“質如何”で良くも悪くもなるということを言いたかったのである。
 「方向性とは、嚮
(むか)うところを明瞭にすることでしょうか」と中川和津子。
 「つまり、嚮往
(きょうおう)ということです。指揮官の意図を汲み、中堅の影響力によって、その方向に向いていて、その方向に進んでいるということです。その役目をしているのが、羊飼いの番犬です。つまり羊飼いは番犬の質によって、群れ全体が評価されることです」

 「頭脳戦と言うのは、功詐
(こうさく)無用と言うことでしょうか」と山田昌子。
 「権謀は無策より劣る。功詐は拙誠
(せつせい)にしかず……という箴言(しんげん)があります。虚構は幾ら実際らしく仕込んでも、事実でないことは明白です。権謀術数(けんぼう‐じゅっすう)は遣い方を間違うと、自らが権略に懸かって、味方から疑われる結末を招きます。猪突猛進して目的のために手段を選ばないのでは、犠牲を多くすることになります」
 「それは例えば、孔子が子路の勇気を『暴虎馮河
(ぼうこ‐ひょぷが)』と戒めた意味と同じでしょうか」と鷹司良子。
 「虎と素手で格闘するのは蛮勇。大河を徒歩で渡るのは愚行。そういう戒めが孔子には、愛弟子の子路にはありました。そこで孔子は、このように戒めます。『剛を好みて学を好まざれば、その弊は狂』と……」
 「意味深長ですね。つまり孔子は『事に臨んで懼
(おそ)れ、謀を好んで成る』ことこそ、真の勇気だと諭したのですね」と良子。
 「さすが、あなたはお父上譲りで、お詳しい……」
 「えッ?先生は、父をご存知なのですか?……」
 「自分は絵描きです」
 そう言って、津村は多くは語らなかった。この絵描きと父が、何処かで繋がっていると良子は思った。
 良子は一体この人間削岩機は、何だろう?と思ったのである。奇妙な人間であった。

 「では、番犬としての任務は、逆説的に言えば、言葉少なめに寡黙重厚
(かもく‐じゅうこう)ということでしょうか」と谷久留美。
 「そうです。不言実行で、少なめに言い、多く実行出来ればベストです」

 「では実行者は、外柔内剛ということでしょうか」と成沢あい。
 「外面似菩薩、内心如一の方がいいですね。内面夜叉は頂けません」

 「先生。わたし、お姉さんたちが何を言っていることが、さっぱり分かりません」と島崎ゆり。
 「わたしも、さっぱり……」と長尾梅子。
 更には、室瀬佳奈も、佐久間ちえも、宇喜田しずも、「わたしも」となった。他にもそういう聲
(こえ)が上がっていた。
 「ああ、これはご無礼致しました。参集されている方は、年齢的には幅があるのでしたね。失念しておりました」

 「そうです、お子さま方が混じっています」と詰るように言う副島ふみ。
 「では、もっと簡単に言うならば、同じ目的と同じ方向に向かうのであれば、その同志は長所を評価し、短所を庇
(かば)うということでしょうか。そこに群れの質が出てきます。質とは特色のことです。
 この特色を巧く用いれば、群れ全体は良くなり、用いらざれば悪くなります。
 つまり褒
(ほ)める時には褒め、叱る時には叱る……。そういうことを、中堅がすれば質全体は良くなるということです。要(かなめ)ということでしょうか……」

 「質について、もっと分りやすく教えて下さい」と守屋久美。
 「量より質という言葉があります。これ、分りますでしょうか」
 「はい」という返事が方々から上がった。
 「次に自他不二というものがあります。これは自分も他人も、心の何処かに共通のものを持っているということです。その共通の面において長短が生じますが、長いものと短いものが相互に扶
(たす)け合えば、全体的には良くなります。多いばかりがいいのではありません。能力や才能はそれぞれにあっても、扶け合わなければそれは力となりません。扶け合うように、相互間の補い役というのが中堅と言う意味です」
 「なんか、分ったような、分らないような……」と島崎ゆり。

 そういう島崎ゆりの表情を逸早く察したのか、津村は「島崎ゆりさん、そういうのを何というか知っていますか?」と訊くと、彼女は「さあ?……」と頸
(くび)を捻ると、「狐に摘まれたというのです」と言って、幽かに嗤(わら)ったのである。
 津村は貌と名前を即座に覚えてしまう特技というか、仙道で言う「悟術」を心得ていて、直ぐさまデジタル的に記憶してしまうのである。
 彼女は、自分の名前をフルネームで呼べれたことが、何故か嬉しかった。

 ちなみに私も、かつて女子高校で教員生活をしたことのある経験からいって、女子高生たちは、一部に“落ち零れ”と言う連中がいても、彼女らの中に入って行って、名前をフルネームで呼称することが、最初の接するスキンシップであった。これが無いと生徒と先生、つまり師弟関係が保てないのである。そうなると、その後の矯正も教導も簡単である。フルネームを呼ぶことで、彼女達は耳を傾けるようになるのである。但し、毎回は駄目である。時と場合と、タイミングが肝心である。

 そのとき急に暗雲が垂れ始め、鋭い閃光が疾しり、少しズレて烈しい落雷音が轟
(とどろ)いた。やがて雨が降る。驟雨(しゅうう)の前触れである。辺りが急速に暗くなりだした。
 「全員退避!各自、落雷に注意!」誰かが大聲で喚いている。作業の中断を触れ回っていた。
 部隊員達は鶴嘴などをはじめとした農具を一ヵ所に集めて、数人単位で低いに樹木の下や、農機具置場の小屋などに退避を始めた。
 夕鶴隊も湯村に指示で一先ず兵舎へと移動を始めた。兵舎といっても、バラック建ての共同小屋であった。
 中に入ってから、暫くすると烈しい驟雨となった。粗末な兵舎の屋根を容赦なく大粒の雨が叩き始めた。至る所から雨漏りが始まった。しかし驟雨は長く続かないものである。
 津村陽平と、夕鶴隊の面々のしばしの雨宿りが始まった。

 津村は何を思ったのか、「では、此処で小咄
(こばなし)を一席……」と切り出した。
 「フランスの印象派の画家で、ルノワールという大先生がいました。この人は、こう言いました。しかし憚
(はばか)るところもありまして、聴きたければ語りましょうが、そいうでなければ、本日は未成年の方も居りますゆえ、止めときます。話はこれで終わりです」
 「言い出しておいて、つまらない」
 どこからか不満の声が漏れた。
 「しかし、これはあくまで画家としての見解です。卑猥に考えないで下さい。ルノワール大先生が、そう仰ったのです。それに、些か同意しているだけです」
 「うム?……」と周囲は騒がしくなった。

 「つまりですなァ、人間は歳を取るに従って、人間的には重層的に、単に表面からだけでなく、裏側から、斜め側から多角的に物事を捕らえられるようになります」
 「先生、意味が不明瞭です」大学生の一部の、遣り込め意見であった。
 「これを明確にすれば、些か不都合も出てきます」
 「先生は権威論を仰りたいのですか」鋭い突っ込みが入った。
 「大先生のお言葉を借りれば、これが歳とともに開発されて行く才能でありまして、つまり、その才能の面をもって、ルノワール大先生のようなエロティシズムで、人生観を醸造させていく方法もあると一例を申し上げているのです」
 「では、その小咄、是非ご清聴、致そうではありませんか。どうです、皆さん」と音頭取りをした女子大生がいた。彼女が周囲を焚き付けた。こう言うことをするのは、副島ふみしかいない。
 周囲から「賛成!」の聲が方々で上がった。そして、この賛成!の聲に1オクターブ高かったのは、お子さまランチと揶揄されている島崎ゆりであった。
 「お子さままで、畏
(かしこ)まられては、さて、困りましたなァ……」
 「ぜひ!」
 「いやァ、困りました、そこまで大袈裟になっては……」
 「ぜひ!」徐々にその聲は強くなった。
 「ならば聴かせてしんぜよう。なぜ、絵描きになっかのかを」
 「その動機、是非お訊きしたいわ」
 「尊敬してやまない、ルノワール大先生が、このように有難いお言葉を述べられておられます。『女におっぱいとお尻がなかったら、わたしは絵を描かなかったであろう』と……」
 すると一瞬沈黙が疾しり、やがて辺りは「がやがや」と騒然となり始めた。
 「えッ?えッ?……今、なんといった?。えッ?!……。いやァーだァ〜、いやらしい〜」
 最初、彼女達は自分の耳を最初疑い、次に批判めいた聲を上げた。津村の言葉の意味を理解して指弾が始まったのである。
 その聲の中に、女サムライがいた。

 「要するに先生は、女性にエロティシズムを感じるのでなく、エロ、そのものを感じるのですね!」と鋭く尋問するように迫った。そう尋問するのは副島ふみである。
 「そうです」誘導尋問に懸かったように返事をした。
 そこまで迫られては、進退窮まったのである。言い逃れは出来ない。
 「それで?」尋問者は切り返した。
 「実はですなァ……」
 「何でしょう?」
 《一言で云えないのなら、二言でも三言でも聴きますよ》という構えであった。その聲は、「何なりとどうぞ、どんな申し開きでも窺
(うかが)いましょう」という構えになっていた。

 「女の襟足
(えりあし)の美しさが解らないやつに、絵を描く資格がない。それを品評する資格はない……。
 それが、わが人生観でしょうか……。エロを体得できる資質を備えておりますゆえ……、なにしろ画家ですからねェ」と、空とぼけてみせた。
 津村も小咄と言い出した以上、女サムライからから、揶
(からか)われているのは百も承知している。揄われるのも時にはいい。若返る。同時に会話が楽しめる。しばしの娯楽である。寸劇と思えばいいのである。
 オヤジは禿でも、デブでも、チビでも、総勢22名の若い女性に囲まれるということは、一生のうちで、一度有るか無いかで、殆どは無いであろう。いま「有る」のを、津村は幸せな寸劇と検
(み)た。もう、再び巡って来ないだろう。

 「それはエロティシズムの領域と言うより、エロそのものでねェ?」尋問者は訊き返す。
 「いやァ〜、そこまで筋金入りでは……」
 ここらで、一つテレてみせるしかない。
 「ところ構わず憚
(はばか)りもせず、婦女子の前で、不適切な言葉を弄(もてあそ)ぶは、些(いささ)か山師的ではありませんか!」と厳しい叱責。
 「ご尤もです、ご指摘に異存ありません」
 「正直で宜しい……」と、女サムライから揄う声が上がり、あたりは爆笑に包まれた。
 そうこうしている間に、雨も上がった。
 「さて、梅雨もこれで終わりでしょう」と津村は空を見上げて言った。
 束の間の笑談であった。再び作業がはじまったのである。
 明日からは本格的な夏である。厳しい暑さが襲う。梅雨明けの一コマであった。

 夕陽
(せきよう)斜めなり……。そして、夕陽(せきよう)限りなく好(よ)し……。
 唐代末期の詩人・李商隠
(り‐しょういん)の詩に『楽遊原(らくゆう‐げん)』には、そうある。しかし、それは斜めに傾く夕陽は美しいということだけではない。不吉なものも併せ持っているのである。それが斜陽……。その斜陽は、大日本帝国の斜陽であったかも知れない。
 影は更に長くなっていた。それは夕陽
(せきよう)の長い尾を曳く影法師であった。


<<戻る トップへ戻る 次へ>>


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法