運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 35

殺人や事故。それは月の影響を無視して語れない。
 転換期の人々に、月は密接な相関関係を持っているからである。
 科学現象に、もはや絶対的な真理はないからである。現象界で起こる相対現象は、自然的なものと超自然的なものとが存在し、区別する意味が失われてしまっている。相互間に時空を超えた事象が起こっているからである。

 例えば、こう言うのはどうか。
 海底の岩石の上で赤い、うすのろ部分が活動し、それは触手として小さな羽状毛を動かす多毛虫。この多毛虫が繁殖するとき、幽かな月光によって調整される。

 あるいは女性が妊娠するとき、その人が生まれたとき、月相に委ねられる。万物は「宇宙の合図」に併せ待って呼吸し、反応し、反発し、迎合し、呼応し、衝突し、怒り、鎮まり、そして死ぬ……。
 これをナンセンスと採るか、ショッキングと採るか、あるいはインパクトを受けて生命反応の不思議と採るか……。
 背後には、月の影響が絡んでいるように見える。


●伝達

 夜が白む前、月下を歩く影が二つあった。その影の一つが「あッ、あれは?……」と声を発した。
 津村陽平は、月下で人が倒れているのを遥か前方に見た。
 それはあたかも月の魔力を髣髴とさせた。月との相関関係を思わせた。因果関係があるように見えた。
 その刹那、ふと思った。
 殺人鬼が人を殺すには、持って来いの月か……と。そして月を見上げた。蠱
(こ)が騒ぐような月。怪しいと思う……。蠱が反応する月……。そのように映った。
 人が倒れている……。何か対称的であった。
 おそらく行き斃
(たお)れの類であるまい。人が倒れているのは殺人か傷害の何れかであろう。
 それはまた、月に特定の関係があるのかも知れない。あるいは月齢による仕業
(しわざ)か……。それに刺客が絡んだとも見える。
 見えない何かを、そう検
(み)た。

 津村は月下の夜道を帰隊する途中であった。
 開墾班班長で開墾と苗付けを命令されている津村は所用として、兵頭上等兵一人を伴い、新田郷の庄屋・堀川作右衛門から種芋を貰うために立寄り、それを貰って帰る途中であった。背負った背嚢と、肩の左右に振り分けた雑嚢の中には種芋がぎっしり詰まっていた。
 こういう場合も、下級兵士は自らで「状況を造らされる」のである。
 物資難の折り、非常時の無言の命令であった。理不尽だとぼやいても仕方がないことであり、言うだけ無駄であった。そして体裁だけは、状況が造れたのである。
 状況を造る……。
 物資難が襲った大戦末期の奇妙な軍隊用語だった。

 「人が!……」と、兵頭も同じ聲
(こえ)を上げた。
 この道は人通りの少ない、周囲には民家なの殆どない場所である。荒涼とした場所である。何でこう言うところに人が倒れているのか?と思ったのである。普段から人気のないところであった。
 津村は駆け寄った。
 白絹の上から血が流れていた。血が月下に煌々
(こうこう)と照らされていた。
 「これはいかん!」そう叫んで、斃
れた人へと近付いた。
 「肩口から出血しています」と兵頭。
 兵頭は首に掛けている笛子
(ホイッスル)を吹こうとした。それを津村は「俟て!」と制したのである。
 「これは、斬られたなッ……」
 「あッ!この人は?……、神主の林さんではないか」
 兵頭が驚きの聲を上げた。
 「なに!」
 津村の頭には奇妙なことが巡った。津村自身も修羅場を数えきれぬくらい潜って来て経験を持っている。
 敵が待ち伏せしていたり、敵意が接近すれば、その気配を嗅ぐ。その意味では斬られた老人もそれくらいの探知力はあろう。それを無抵抗のまま斬られている。また不意を突かれたような痕跡もない。それを有無も言わさず斬っている。意図ある者の仕業だった。

 こういう場合、斬られたことは、出来るだけ知られない方がいい。意図あって斬られたのである。刺客の仕業
(しわざ)は明らかだった。
 最近、聯隊近くで、たびたび人が斬られるという事件が起こっていたからである。そこで、夜間の所用で出歩く場合は笛子を吹くことになっていた。だが、そうすると犯人を付け上がらせる。総てが後手にも廻る。恐怖を煽るだけである。更に解決の糸口は見えなくなる。泳がせる必要があった。
 咄嗟の場合、まず笛子自体を吹くことが無理だろう。複数なら、そのうちの誰かが吹けるが、単独ならば吹こうとした途端に斬られるだろう。
 痕跡から検
(み)て、刺客の性別も分らない。男か女かも分らないのである。だが臭いからして女のような気がする。

 「近くに『ホテル笹山』があります。疾
(はし)って担げば……」
 「いや、動かさん方がいい。まずは止血を」
 「班長どの、とにかく自分は報せてきます」
 兵頭の言い方は隠密裏にという意味である。何処までも他者に知られないようにである。そうした場合を心得ている。
 「それまで持てばいいが、おそらく持つまい……」《無理だろう……》と、希望的観測をしない津村。
 兵頭は背負った背嚢と左右の雑嚢を置いて疾った。思いもよらぬ緊急事態である。

 斃
(たお)れた老人は、まだ完全には事切れてなかった。幽かに生きていた。そして老人は、津村陽平の軍服を持てる力で掴んで、津村の貌を見ながら、「あんたは?……」と弱々しい掠れ聲(こえ)で訊いた。老人は津村に気付いたのである。誰か分ったのである。
 「そうです、自分は津村十朗左衛門の子であります。しかし、今は喋らない方がいい。自分は、口を少し動きだけで喋ろうとする言葉が分ります。心を投じて下されば、幽かな口の動きでも読みます」
 津村陽平は、自分がそう言う行法をした人間であることが言いたかった。分れば、幸いであると思った。

 老人はこっくりと頷
(うなず)いた。《そうさせてもらう》という意味だ。
 「これを……」と、老人は手に握りしめた物があった。
 「あッ!これは……」
 津村は昔を思い出した。
 老人は幽かに口を動かし始めた。もごもごと動かすが、津村にはよく分る。
 「あんたの親父殿から拝領された鉄扇じゃよ……。いま返す時が来た……」
 「……………」津村は《待って下さい》と言いたかった。
 《いま返す時が来た》は、訣別を告げる言葉であったからだ。早まってはならないと言う意味である。

 老人は言葉を続けた。老人の脳裡には、次の場面を待っているような言葉であった。
 「十朗左衛門、地獄で俟
(ま)っておれよ。いま逝くからなァ……」
 そう言って、唇が幽かに動かしただけであった。
 「いま逝く……」が、津村の心に妙に響いた。老人は既に、生死の境を彷徨っているのである。
 津村も、老人が何を言おうとしているのか分る。言いたいことが分る。
 老人は訣別を告げている。今が別れのときであることを知らせている。
 津村にも、その鉄扇には見覚えがあった。この鉄扇には中央に『夢』の一文字が書かれている。
 その謂
(いわ)れも知っている。
 『夢』の一文字は、世間でよく言う「人生夢の如し」という、感傷的な意味ではない。『夢』の一文字は禅にも通じ、また老荘思想とも一致する「後に何も残さない」という意味である。津村は、老人は“後に何も残さない”という身の始末を願っていると検
(み)たのである。
 夢の一文字は、父の好きな言葉でもあった。

 「ご老人、安心して下さい。いま扶
(たす)けが参ります」
 「気休めはいい……」
 老人は自分が、どういう状態であるか知っているのだ。
 術を極めた術者は、損害を受けた場合、それをどの程度か、自身で点検すると言う。身体の何処にどれだけ被害が出たか、それを自分の裡側
(うちがわ)から点検すると言う。それだけに気休めは無用と言うところだろうか。
 「暫く、お俟ちを……」
 「もう俟てぬ」
 「お気を強く……」
 「いや、娑婆での長居は、もうこれ以上無用」
 「どうしても逝ってしまわれますか」
 惜しむような訊き方を津村はしていた。
 「長居は無用」
 「下手人は?」
 「女だ」それは、刺客は女と言う意味である。
 「女?……」
 訊き返すと、そうだというふうに頷いた。
 「月下美人……」
 「月下美人とは?」
 「そういう臭いを持った女、それも小娘のような女。むざむざと斬られて、何と、ざまのないことよ」と悔恨に似たようなことを呟いた。
 津村は、《本当に小娘なのだろうか?》と思った。老人には小娘のように見えただけではあるまいか。
 そのように見える女に、津村は心当たりがあった。遠い昔のことである。そう言う女を知っていた。

  一方で老人は、わが死を知られたくないと思っているようだった。
 「わが死を報すな、隠してくれ……」そのように口を幽かに動かした。
 それは、《まだ生きているように見せ掛けてくれ》という懇願であった。何が得策か教えているのである。最後の力を振り絞ってという感じであった。
 後に何も残さない……。それが夢の一文字にあったのである。
 夢には、生も死も痕跡を一切残さないのである。
 「わかりました」
 「うん……」安堵したように頷いた。
 老人は安堵していた。ふと、安堵した表情になっていた。託す者が顕われて、この漢なら託せると思ったのだろ。安堵
(あんど)の頷きだった。頷くだけであった。
 そして、事切れたのである。

 「もし、ご老人……」
 そう言ったときには、林昭三郎は見事に死んでいた。
 伝達は済んだという貌で死んでいた。その貌は安堵の貌だった。願いは聞き届けられたからである。
 津村は、はッとして老人に敬礼した。
 それから10分ほどして、一台のオースチンが急行した。そして中から三人が慌ただしく降りて来た。
 道案内をした兵頭と、沢田、それに運転士の憲兵の併せて三人であった。奇しくも、それ以外に誰にもこの事件のことを報せなかったのだろう。兵頭仁介の賢明なところであった。
 メンバーの動揺を防ぐためである。全員に知らすのは拙
(まず)い、そう思ったのである。状況判断をよくしたと言えよう。
 そして奇
(く)しくも、ホテルに向かう途中で、沢田の乗る車に出遭ったのである。

 「亡くなられたのですか!……」兵頭仁介は愕然として訊いた。
 「いま息を引き取られた」
 「……………」兵頭は言葉がなかった。それには複雑な思いがあったのだろう。
 「遺言通り、遺体を隠す」
 津村の信念であった。津村には全体像が見えていたからである。
 死んだことは内外に隠さねばならない。戦時である。非日常である。のんびりと葬儀の通知など出来る時期でない。殺されたのだ。暗殺された。事件である。事件は知っている少数だけで秘密にしておればいい。
 「では、どこに?」兵頭が訊いた。
 「まず開墾地に運ぶ。隠さねばなりますまい」津村の判断である。
 「それが得策でしょう」沢田次郎の意見であった。
 沢田は冷静と言うより、冷徹だった。冷めた眼で、第三者のように客観視した見方であった。この状況をよく見ていたと言えよう。
 沢田は、津村のこの案を止めなかった。
 沢田自身、林昭三郎の死は、暫
(しばら)く隠しておきたいと考えたからである。内輪にも知られたくないと思ったからである。沢田は世の中で、自分と同じような策を考える人間が、自分以外にもいることに気付いたようだ。
 この状況から判断して、老人の死を隠すことを適当と考えていた。おそらく沢田のことであろうから、鷹司にも来栖にも、暫くは隠すだろう。
 とにかく時間稼ぎに、今は隠さねばならなかった。そうしないと、沢田自身のマジックが遣えなくなる。沢田には自身が手品師である自負があるのだ。
 内輪をいま動揺させることは適当でない。無駄な穿鑿
(せんさく)にエネルギーを奪われる。そうなると、前進より後進に変化し、過ぎた過去に、負のエネルギーが働く。これは適当でない。動揺は無用だった。機転のいい判断である。

 林老人の死を見たのは、津村と兵頭、そして沢田と、その運転士の憲兵のみの四人だけである。暫くはこれを極秘裏にして隠しておきたかった。同時に敵を欺くためである。
 敵はわが陣営に潜入し、侵蝕しつつあるのである。侵される末期を思った。
 然
(しか)して今、これを報せてしまうと、大きな鼠を捕らえ損なうからである。林昭三郎は刺客に襲われて死んだとするより、「一命を取り留めた」とする方が効果的であったからだ。生きている状況を作り出さねばならなかった。そのように遺言を残して、林老人は死んだのである。

 また状況判断からして「大鼠が動き出した」と沢田は検た。そして津村の判断は適切であった。
 その証拠に、林昭三郎は斬り殺された。だが、それは暫く伏せておきたい。生きているとしておきたい。消息結果は不明にしておきたい。況
(ま)して葬儀など無用である。
 葬儀が行われない……。
 これは、まだ生きていると判断するであろう。その意味は、敵も焦り始めると判断したのである。その判断に必ず「動き」が起こる。二度目の襲撃が起こる。それが狙い眼だった。虚を衝くチャンスである。
 そのために林老人は、咄嗟
(とっさ)の判断から死ぬ間際、「隠してくれ」と懇願したのである。その願いは充分に聞き届けられた。大きな鼠を捕まえるには、もう一度襲わせることであった。
 では、誰が襲われるのか。
 津村自身である。
 その発見者が襲われる。自分が囮になる。そういう構図を作ろうとした。発見者こそ、その後の消息を知るからである。策としては、いい策と言えた。今日でも、囮捜査にこの手が遣われる。
 もう一度来る……。
 これが、遣り損なった構図である。遣り損ないのこだわる。敵の心理である。
 では、敵はなぜ止
(とど)めを刺さなかったのか。疑問点は此処にあった。

 「班長どの、兇器は何です?……、この鋭い裂き方からして日本刀でしょうか……」と兵頭。
 「いや、違う。逆刀……らしい、あるいは山刀かもなァ……。鋭い刃物だ」と津村。
 「それはどういう得物
(もの)です?」沢田が不思議そうに訊いた。
 「必殺刀です!」
 「必殺刀?……」
 沢田は意味が掴めずに困惑しつつ訊き返した。奇妙な名称だった。これを熊鉤とも言う。尖先
(きっさき)が熊の鉤爪のようになっているからである。
 「おそらく許は福建省辺りの『逆刀造り』で、のちに沖縄にも伝わったという記録もあるようですが……。
 刀法は尖先三寸で、例えば頸
(くび)から肩口に掛けて、その個人が持つ特異な急所を切り裂く。裂かれれば必死!」
 津村に忌憚
(きたん)のない意見である。今は漠然として、敵の正体は掴めずとも、一つの刺客の手順の定理を検(み)た。敵の心理を検た。一つの決まりと、特長を検た。
 それは、次ぎなる手法での襲撃に繋がるものであった。
 「必ず殺すということですね、つまり大陸の屠殺人の仕業ですか」と沢田。
 「逆刀の尖先は、熊の鉤爪
(かぎづめ)のようになっている。それで、素早く薙(な)ぐと、このような疵口(きずぐち)になる……。鋭く肉を抉(えぐ)り、掻(か)く。動脈を裂き、切断する。経穴(ツボ)である欠盆斬りけつぼん‐ぎり/鎖骨上部の窪みの喉下をいい、胸の上に半環状をしている骨を斬って動脈に達する切断法)を正確に切り裂いている。おそらく老人は、痛みはなかった筈です。
 苦しんだ形跡がない。安らかに、夢見心地で逝ったと思われます……」
 だが津村陽平は《それは、むしろ……》と言いたかった。ある意味で、残酷な殺し方であった。死者は、ある種の屈辱を感じたに違いない。下手な哀れみと思ったに違いない。

 老人は鉄扇を握ったまま倒されていた。防禦創
(ぼうぎょそう)がついていなかった。抗った跡がなかった。無抵抗のままだった。それは痛みがなかったからである。
 これは斬られる前に、何らかの術に掛り、自分自身の幻影に斬り結んだ気がしたからである。一瞬、過去の幻を見たのかも知れない。その幻が自分の目の前に蜘蛛の巣で貌を覆ったようになり、その幻影を取り払おうとして斬られた。老人は遠い過去の幻影を一瞬、見せられていたのかも知れない。津村はそう検たのである。

 「あなたは、逆刀の術に通じているのですか?」と沢田が訊いた。
 「逆刀は、日本の物でない。大陸にあったものです」
 「三国人の手練ということですか。つまり大陸の高等訓練を受けた凄腕の屠殺人……」
 沢田は驚嘆するように相槌
(あいづち)を打った。隙を突かれたにしても、防禦出来ないのは、それだけ刺客が手練と言うことであろう。
 日本人に化けて、彼
(か)の地から北上して北京に、そして満洲経由で、高等訓練を受けた間者が日本に続々と潜伏している。そういう者が、いま続々と日本に侵入して来ている。それも、意図も簡単にである。その証拠に、些か腕に覚えのある林昭三郎が斬られた。城門は内側から開かれたからだ。負けが込むとは、国力が全体的に疲弊して来ることであった。やがて、二進も三進もいかなくなった重傷に至る。沢田は、そう即座に感得したのである。
 これは日本一国の「袋叩き構図」であった。

 そのうち、日本は「敗戦」と言う結末を纏
(まと)って、世界から袋叩きに遭う。そう言う日が来る。そう遠くない日が必ず遣って来ると思ったのである。
 現に、1945年7月17日から8月2日のポツダム会談はそれを髣髴とさせる暗示があった。更にその中でも、7月26日のポツダム宣言には、米国、中華民国、英国、後にソ連が参加して、日本に対して発した共同宣言で、それは降伏を勧告し、降伏条件と戦後の対日処理方針とを定めた宣言であった。日本一国への袋叩き宣言とも言えた。
 日本一国は取り残されて、国際連合軍を相手に全敗する。世界を相手にして負ける。大敗北する。
 併せて、後遺症が日本人に半永久的に纏わり付く。戦争後遺症と、合併症の戦争恐怖症に陥る。その呪縛は長らく解けない。暗示に掛けられたままとなる。
 これこそが、下手な負け将棋の、もう一番、もう一番だった。その現実を、いま見た思いだった。
 その証拠に、いま予言者が殺された。負け戦を予言した一介の予言者が殺された。寄って集
(たか)って押し寄せて来ようとしているのである。斯くして袋叩きの構図を見た。それは幻想などではなかった。

 「では……」と沢田は去った。
 後はよしなにという意味である。
 一台のオースチンは月下を避けるように闇に消えた。
 「こちらも行くぞ」
 そう言い終わると、津村陽平は屍体を背負った。こういう現場には長居は無用なのである。
 
津村は疾った……。
 恐ろしい勢いで疾った。まさに疾走という形容である。
 矮男
(こおとこ)は怪力だった。スピードもある。そして猿に似た素早さがあった。更には、不思議なことだが重力を無視した軽快さがあった。鍛練者の軽快さであった。
 その後を、雑嚢を左右に二つずつ振り分け、二つの背嚢を前後に背負った兵頭も蹤
(つ)いて走り出した。
 迅速に動き必要があった。
 林昭三郎が死んだことを見られてはならない。更には、殺された殺人現場を見られてはならないのである。
 いま暫く、生きていることを装いたいからである。
 時間稼ぎをしたいからである。
 あたかも、『死せる孔明生ける仲達を走らす』の状況にしておきたいからである。敵陣営に対し、“刺客は遣り損なった”としておきたいからである。賢明な判断である。機知の利いた判断である。林昭三郎は、死した後も智慧者だった。

 『三国志』
(諸葛亮伝)には、蜀の諸葛孔明と対陣していた魏の司馬懿(仲達)が、孔明の死を聞いて蜀軍を攻撃したところ烈しい反撃に遭(あ)い、孔明の死を「謀略」と思い込んで退却したという故事があり、それに因(ちな)みたいからである。
 いま暫くはそう言う構図を作りたい。敵にそう思わせておきたい。林昭三郎は生きているのである。
 それは『タカ』計画の参加者にも同じだった。
 いま死んだことが発覚すれば、騒然となって、計画すら遂行は覚束無
(おぼつかば‐な)くなるだろう。今は隠す必要があった。そして味方の大半も、知らない方がいい場合もある。敵を騙すには、まず味方を騙しておかねばならない。
 津村陽平はそのように状況判断したのである。


 ─────それから3時間ほど経った。
 開墾地傍の貧弱な作業小屋には、沢田次郎、アン・スミス・サトウ、キャサリン・スミスの三人と、発見者の津村陽平、兵頭仁介の合計五人が集まっていた。隠密裏に集まった。通夜である。密葬である。そしてその後の対策を練った。この密葬に参謀本部員の鷹司友悳と来栖恒雄の二人は外してある。知らせなかった。大きな鼠は参謀本部にいると検
(み)ているからだ。
 今は伏せておかねばならない。暫く味方を欺
(あざむ)いておきたい。
 まず、林昭三郎の遺言に従い「葬式は出してはならぬ」に、全員一致で賛成した。敵を欺
く必要があったからだ。それは、鷹司友悳と来栖恒雄も欺くことであった。二人は参謀本部の人間であるからだ。敵を欺くには味方からである。先ずは、林老人は、赤城赤嶺神社に還(かえ)ったことにする。おそらくその魂は、還っていることだろう。

 林老人の遺体を囲んで協議した。密葬の通夜に相応しい、静かな協議であった。
 遺体は湯村陽平の手で見事に処理され、生々しい傷跡の痕跡はなかった。
 老人は眠っているようであった。そのように津村が弔いの場を作った。人の死の意味を知る漢である。亡骸は丁重に葬る。死者の尊厳を守る。津村の信条であり、生涯を通じた生き方であった。
 生き方は、何も「陽」の華々しさだけでなく、「陰」の部分にも丁重な生き方があっていい。知られざる生き方があっていい。
 人は生まれて、生きて死ぬ。しかし、この単純なことを知る人は少ない。この単純で簡単なことを理解している人は少ない。

 禅には、「自分の食った粥
(かゆ)の茶碗は洗っておけ」というのがある。
 粥を食ったら、その茶碗を洗う。実に単純で簡単なことである。
 ところが、この単純で簡単なことが分らない。ただそれだけのことを複雑しにてしまう。小理屈を付けて難解にし、複雑にしてしまう。現代はそもそも単純であったことを複雑にしてしまった時代だといえよう。
 したがって現代人の多くは「自分の食った粥の茶碗」が洗えない。
 それは何故か。
 食べる物を食べ、食べたらその茶碗は洗う。つまり自分がいま自分で生きて行くこと、いま自分がしなければならないことを自分で遣っておくことなのである。自分のことは自分でする。それだけのことである。
 生まれて、生きること。生きて死ぬこと。それだけを自分で確
(しっか)り遣ればいい。
 それ以外は、出来ないのだからだ。

 人間は生まれて来るときと、死んだときは、人の手を煩
(わずら)わせるからだ。自分一人で生まれることも出来ないし、自分一人で死んで逝くことも出来ない。死した後の屍体は、自身ではどうしようも出来ないのである。人手を煩わせる。その世話になる。そのために、自分で遣るべきことは自分で遣っておく必要がある。
 そこまで世話になってはなるまい。
 赤城赤嶺神社の神主・林昭三郎は享年60であったが、それまで、よく生きたといえよう。予言者としてよく生きた。

 犯人は、津村陽平は大方の検討はついていると言い出した。自分に任せて欲しいと言い出したのである。
 沢田次郎は、「犯人は誰か?」と訊いた。
 「おそらく、あの刀鍛冶だ」と津村は答えた。津村には覚えがあったからである。美貌の刀鍛冶を知っていたからだ。そして最近、辻斬りが出るのは、その所為
(せい)かも知れないと踏んでいたのである。こういう事が出来るのは、おそらくそうだ。
 そして大陸からの間者であった。放置すれば、次々に被害者が出る。捨て置けない。
 津村の肚は、この一切は自らが付ける気で居た。それも気付かれないように、痕跡を残さぬように後始末する必要があった。

 津村は思う。「あの丙午
(ひうのえ‐うま)」と……。
 丙午は、道教から来た干支のことである。丙午は60年に1回巡って来る。その歳に生まれた美貌の刀鍛冶の娘がいたことを知っていた。父・十朗左衛門からも聴かされていたからである。こういう残虐なことが出来るのは“あの女”を除いて他にいないと検
(み)た。
 あの女は、新田郷の村外れに棲む、農鍛冶師の娘だった。
 農鍛冶師は本来、刀剣を鍛練する。しかし農事期になると、刀剣の鍛錬を止め、農事に用いる鍬、鋤、釜などの農具を打つ。そして農閑期になると、等剣の鍛錬を注文の応じて行う。
 そもそも鍛冶師は火の勢いを好む。道教の言い伝えによる。
 道教によれば、火の勢いを強くするために、わざわざ丙午の嫁を娶
(めと)ったとある。



●歴史マジック

 権力の座
(ポスト)に就くと全知全能感に襲われる。権力者の特徴であり、また盲点である。そして自分が神になったような錯覚に陥る。
 この構造は、昭和陸海軍の軍隊官僚も同じだった。
 特に、昭和陸軍の官僚構造には大きな欠陥があった。
 日本陸軍の発展は、まずフランスの始動から始まり、次にアメリカの指導が加わった。その間、日本海軍に限ってはイギリスの指導により、「軍人たる前に紳士であれ」という教えが徹底された。それが長い伝統にもなる。
 ところが陸軍は違った。最初、フランス陸軍を手本として実行し、独仏戦争でフランスが敗れると、直ぐにドイツに切り替えてしまった。強い者のつき、その教えを受けるのは自然の理である。強い者に誰もが靡きたがる。斯くしてフランスからドイツへと乗り換えてしまった。そしてドイツに乗り換えたことで、日清・日露の戦争に勝つことが出来た。

 しかし、大正・昭和と時代が下るごとに明治期まで残っていた武士道的気質が軍人の中から去り、昭和陸軍においては軍隊官僚化されていった。大正そして昭和初期と平和が続くに従い、高級軍人である幹部層は軍隊肥大症に罹り、更に官僚としてエリート意識を持ちはじめ、その結果、戦争強硬論に積極的な方が多くに支持者を得るようになって、下克上まで起こり始める。佐官級の意見が強くなり、この意見が将官の非戦論を退けて行く。そして軍閥が起こり、武装の近代化は二の次になり、陸軍が政治へと介入することになる。その謀略癖が満洲事変を起こし、次に日中戦争に突入することになる。
 これは日本にとって未曾有の戦争体験を、一般国民にまで強要することになるのである。日本列島を焦土に化した元兇である。軍隊官僚が齎した元兇である。

 その一方で、日本陸軍の軍制に大きく関与したのがドイツであり、日本陸軍はドイツ化することでドイツの貢献は少なからずのものがあった。その中でも、現地戦術方式と言うものがあり、この指導はメッケルの弟子達によって日本に齎された。斯くして日本陸軍ではメッケル旋風が吹き荒れた。
 だがメッケル教育も、やがて時代にそぐわないことになり、特に、統帥権独立を盾にプロシア風陸軍の体質の悪い面を模倣して、これがやがて政治に介入するという事態を招いた。
 総じて、メッケル流の教育法が主体であった陸軍大学校では、親独感情が強く、これが陸軍内部にも、ソ連や中国関係者の軍閥を取り込んで、やがて強硬的な派閥を作り出すのである。その結果、穏健派や非戦論派が形
(なり)を潜めることになる。強硬論者に圧倒されたからである。それは猛々しく、凛々(りり)しく、勇ましく映る方が受けた。支持された。
 猛々しく、武勇を巻きちらし、強気で強硬論を押し立てる方が支持されたのである。これこそが、快進撃の独逸に傾き、日・独・伊三国同盟の締結となり、また大東亜戦争への牽引力となって行ったのである。

 しかし、それだけに留まらなかった。
 軍隊官僚に取り憑き、寄生し、貪り、巣食う勢力が外国から侵入したのである。
 欧米の国際連合軍を動かす、東洋人の日本に送り込まれた間者達の水面下の暗躍である。これは佐官級の高級軍人に取り憑くことになる。高級軍人らは権力に酔い痴
(し)れた。
 自覚症状を持たぬまま金・物・色に酔わされた。それが権力と言う甘い密だった。
 その密を吸いながら、権力の坐にいて号令を下すと、もう怕
(こわ)いものは何もなくなる。官僚の傲慢(ごうまん)であろう。その傲慢ゆえに、自身は偉いと言うプライドで思い上がってしまう。
 その思い上がりに、間者が摺
(す)り寄って来る。その間隙(かんげき)を縫(ぬ)って忍び寄って来る。その間に唆(そそのか)しがある。情報交換と言う名目の、情報提供を要求して来る。情報料は「女」である。このプロセスで話を進めれば分り易いだろうか。

 自由恋愛。男女の恋愛……。
 それと情報料との差額は、ほぼ同額であろう。都合のいいことに証拠が残らない。
 こういう都合のいい物品は、金・物・色のうち「色」に含まれるだろう。色に証拠は残らない。恋愛を気取れば賄賂の情報料など証拠は皆無である。
 色の結びつけて、落す。なんと簡単なことであろう。権力の座に居る者の盲点である。
 あるいは麾下
(きか)を掌握する独裁的権力の座(ポスト)である。更には人心抑止力や犯罪防止のシステム導入の購入権限。

 この場合、一般的には金銭や物品によるリベートの見返りであるが、賄賂性があるために権限と言う独裁性を与え、それに酔わせる。有能を持ち上げて酔わせる。仕事が出来る有能の評価は、何と甘味的であろう。
 これこそが盲点を知り尽くした者の仕業である。
 自分の思うままに人を動かす権力には、人は酔い易いものである。これこそ、一つの権力操縦法である。
 この盲点に因果が含ませてある。そして一旦因果を含むと、もうそこから逃れられない。永遠に、死ぬまでその奴隷となる。
 人は組織の権限に酔う。組織の高級なる歯車としてである。
 また人は、男女を問わずこれに酔い易い。恋愛に匹敵する喰らい甘味であり、酔い易いものである。これに酔わされると中々抜け出せない。腐れ縁が続くからだ。斯くして権力には魔が宿る。

 戦後でもこういうケースがあった。1990年代の話である。
 ある飛行隊に人民解放軍のパイロットがいた。このパイロットは軽爆撃機を盗んで台湾の亡命した。軍では逃亡を図ったパイロットを逮捕する計画が立てられた。この計画に女スパイが逃亡したパイロットを追って国外に派遣することが決定された。この女スパイはカナダ国籍を取得しカナダ人に成り済ました。そして、カナダ人が台湾に旅行するという構図を作ったのである。
 彼女は台湾に在住する中国工作員の協力を得ながら、ターゲットに近付いた。何しろ彼女は国内で選抜された美貌の持ち主で、美貌を強力な武器として、英雄気取りで台湾政府から優遇されている逃亡将校に接近していたのである。

 一方、逃亡将校は中国からの命で接近していることに全く気づかなかった。有頂天に舞い上がり、彼女に美脳に酔っていた。ついにプロポーズし、彼女と結婚した。美貌の妻を、わが物に出来たのである。以降、楽しいハネムーンの時期を過ごす。作られた蜜月とも知らずに……。
 斯くして良人
(おっと)は台湾軍の軍務を辞めた。

 この夫婦は、その後の住居を妻の国籍であるカナダに移した。また妻は良人の警戒心を解くことに務めた。
 良人は徐々に警戒心を失いはじめた。追われる身の緊張を解き始めた。安穏
(あんのん)とした生活に馴染んでしまった。その環境が当り前のように思い込むことになった。
 そして妻の次ぎなる工作は、逃亡将校の老母との再会を計画したことであった。
 中国大陸には老母を置き去りにしたまま逃亡したからである。再会のための中国旅行を彼女は妻として計画したのである。此処までの構図は良妻としてのポーズだった。また、親孝行のポーズであった。そして種々の工作の後、中国旅行については中国大使館が身の安全と身分を保証した。
 こうして、良人はまんまと工作員の妻の策略に掛かり、中国旅行に踏み切ったのである。

 逃亡将校とて、老いた母親には会いたかった。親孝行の真似がしてみたかった。故郷に錦を飾るという構図で中国旅行に踏み出したのである。そして故郷である中国大陸に入国すると、同時に逮捕されてしまったのである。以降、収監されたままの哀れな人生を送ることになる。
 その後、逃亡パイロットの運命は定かでないが、おそらく獄に繋がれ、半殺しの責めを受けて、生きていたとしても哀れな末路であったであろう。死んだ方が“増し”と思うような人生が待っていたことであろう。
 以降の責め苦は、逃亡パイロットが死ぬまで続くのである。

 一方妻の方である。
 偽装結婚したもと妻はその後、三階級特進で、ある半島の海軍基地情報部の幹部職にあると言う。日本流で言えば高級軍隊官僚になったと言うことであった。
 斯くして、中国の逃亡や反逆は赦さぬ国家の威信は保たれ、以降それが抑止力として作用したと言う。
 かの国では、夫婦の忠節以上に、国家への忠節が最大優先するようである。

 しかし、スパイ王国・日本ではこの限りでない。意外と甘く、戦前から日本国内に潜伏されることは容易であったと言う。
 おそらく、林昭三郎を葬った女刀鍛冶も、満洲経由で日本に入り込んで来たものと思われた。しかし単独ではない筈だ。多くの協力者がいた筈である。
 侵入の経路を立案したり、そのように教育するのは多数の協力者を必要とする。物事は単に、偶然を装っていても、背後には必然となり得る因縁が絡んでいるからである。
 因縁イコール必然であった。
 この因縁と必然を、津村は、偶然などではなと検
(み)る。必然と検れと、常日頃から父・津村十朗左衛門から教わっていたからだ。現象界に偶然など起こらない。何らかの意味をもって、必然的に現象が起こる。そのように聴かされ、自分でも確信した。運命必然論である。総ての現象には、総てが意味を持つのである。
 津村十朗左衛門は、神道無念流剣術の達人で文武両道の、わが師であった。
 ゆえに、女刀鍛冶は単独行動したのでなく、必然的に陣営間の協力が働き、合意あるいは謀議によって日本に入り込んで来たと検るべきである。必然で起こった。津村はそう検た。

 では、いつの頃からだったか?と、津村陽平は考えた。
 あれは確か……と思い当たることがあった。
 あれは尋常小学校高学年の頃だったと思う。
 村外れの刀鍛冶の家に、少女ながら目鼻立ちがくっきりした美しい少女が満洲から遣って来た。家の者の話では親戚筋だと言う。そしてその少女は刀鍛冶の養子となり、家を継ぐことになる。おそらく親戚筋はあくまでこじつけであろう。偶然を装ったこじつけである。
 人は、このこじつけを直ぐに信用するが、陽平はこれを信用しなかった。偶然を信用してならぬことを、幼少より教わっていたからである。刀鍛冶を家業として、おそらく二代前から計画されたことであろう。そういう構図を作り、世間の眼を定着させてしまうのである。間者が敵地に乗り込んで、根を張るための「草」という考え方である。草は何代か、その地に張り付いて、やがて根を降ろす。帰化の意味を露
(あらわ)にする。そこに土地の者の信用を得る。
 だが実は、此処が不思議なことであった。なぜ女が刀鍛冶にになるか。果たしてこれは偶然だったのか。
 だが、偶然と検
(み)るには短見である。近視眼的である。そのグランドデザインには必然があった。最初から仕組まれていた。

 代々の鍛冶家業を営む鍛冶師の話によれば、養女が「丙午」生まれだったからと言う。
 大陸では、春秋戦国の古き昔から「丙午の日」は火の勢いが盛んで、この日に刀剣を打つと名刀が出来ると信じられていた。道教の影響である。
 鍛冶師にとっては丙午の日こそまたとない家事作業に敵した日であったからだ。この日が60日に1回巡って来る。
 更に、名刀を打たせるには、この干支で生まれた女こそ、火の勢いの強い運勢を持ち、刀剣造りには最も適した刀工になると信じられていた。刀工と言っても、何も女自ら刀剣を鍛える訳でない。そういう職人を使って指示通りに作らせるのである。
 この背景には、総て必然が絡んでいるではないか。女が刀鍛冶になる事自体に、一体何処に偶然が転がっているのか。
 これは刀工に限らず、焼き物師でも同じであった。その代々の窯元を継ぐ人には、女性が継いでいることがある。そして、その当主が丙午の女性なら言う事無しと聴いたこともある。

 私の知人の高取焼の窯元も、当主は女性であり、この女性の指示に従い職人が動く。焼き物も火と密接な関係を持っているからである。登り窯の火力は強い方がいい。
 火を職業として扱う家では、時として女性の当主が顕われる事がある。

 例えば、大陸における刀剣類では、孫子の時代から、丙午の日は火の勢いが強いと信じられ、またこの日に丙午生まれの女性が関係していれば、名刀が出来ると考えられていた。大陸では四世紀頃までそういう考え方が主力であったという。
 『抱朴子』にも「五月の丙午に日、日中を以て、五石を鋳、その銅を下せ」との記載が残っている。
 孫子の刀剣鍛練もこの教えに従っている。

 日本でも奈良時代には、七支刀を始めとして、古代の刀剣や鏡には「丙午の日」というのが盛んに文字として記載されている。
 しかし、明治に入って丙午は、心ない運命学者によって誤って伝えられた。女の勢いが強いと、その亭主まで食い殺すと言う迷信が生まれた。
 明治の丙午との年と言えば、明治39年
(1906)である。つまり、女刀鍛冶は明治39年生まれであり、また津村陽平は明治38年の生まれであった。尋常小学校で同級生が居たとしても辻褄があっていた。
 日本は明治期以来、会見年度で入学時期が定められた。3月31日をもって翌年に会計年度が切り替わる。つまり入学期に“早生まれ”というのがあり、前の年に翌年の早生まれの子供が追加されてしまうのである。

 思い出したように津村は吐露した。
 「女の名前は星野静子……だったか?……」
 そう言う名前に心当たりがあった。
 静子が、少女時代から大した美人であり、よく目立っていた。そういうのを思い出した。
 静子は刀鍛冶の娘であった。その家の養女になっていた。かつて満洲から来たと言う。そう言う噂を聞いていた。更に気に掛ることは、関東軍の参謀本部とも繋がり、満洲には花柳界の芸妓の巣窟があるからだ。情報が筒抜けになることもある。つまり、中華民国軍の間者も八路軍から送られた間者も、そこを経由する。その経由先にナチス独逸がいて、更に延長線上に米国が居たと考えれば、どれも一直線上で繋がる構図すら浮び上がって来る。
 しかし、数奇な運命を辿って単独で日本に遣って来たのか?……。その疑念があった。
 背後には多数の協力者が居よう。これらの協力者の力を借りて、星野静子の運命のシナリオが描かれたのかも知れない。そうなると、この組織だけを考えても秘密結社的で、かなり大きなものと言わねばならない。そう言う組織が日本を包囲しているのである。易々と日本人など搦め捕ってしまう。今日でも有名なのが、大陸や半島のチャイナスクールである。精鋭が続々と養成されている。

 だが、残念ながら日本に入り込んで来る海外からの間者や、間者が国内に潜伏した後、その工作を分析する機関や能力は、日本では貧弱であった。
 ただ一ヵ所、参謀本部には戦時下の大本営から離れて、参謀総長直属の「第四部」という部署があった。この部署は「戦史部」といわれた。
 参謀総長直属には、まず総務部があり、順に作戦を担当する第一部、情報を担当する第二部、運輸通信を担当する第三部、更に無線防諜を担当する第十八班、副官部、陸軍情報部、陸軍管理部と続くが、これらに属さないのが戦史部の第四部であった。

 この部署は、大東亜戦争は「なぜ起こったか」を戦史から分析し、その原因を探求する戦史機関であった。
 この部署の部員に一見風変わりな将校がいた。この将校は、持論だが「歴史にも捏造
(ねつぞう)やマジックは存在する」という考えを持ち、それがマジックである以上、何処かに必ず種が隠されていると検(み)た漢がいた。
 種がある以上、歴史は自然発生的に、自然体で変化するものでないと見て居たのである。特に近現代史は人為的に起こり、おおよそ十八世紀くらいから一つの流脈により、人工的に誘導されているのではないかと疑い始めたのである。
 つまり彼の思うには、歴史は特定の目的をもって、意図的に動かされている。その動きの中に隠微な集団の暗躍があり、その暗躍によって歴史の中に善玉が登場し、あるいは悪玉が登場する。その登場人物は、総て何者かのシナリオ通りに動かされたのではないのか?……、という疑いであった。

 彼が最初に疑ったのは、歴史には宗教的あるいは民族的な要素を孕
(はら)むマジックがあり、これが人為的なものに発展しているのではないかとする歴史人工説であった。自然体による自然発生的な原動力で歴史は動かされているのではないという、これまでの教科書通りの歴史観とは異なる見解を持っていた。
 大東亜戦争は何故起こったか。日米戦は何故起こったか。
 これを探求していくうちに、戦史家の多くが見逃し易く、陥り易い、偶然性と必然性のその区別が曖昧になる事実であった。曖昧になって行く過程に、マジックとしての種があり、その種の中に麻薬性の「何か」があるのではないかと疑い始めたのである。
 尋常ではあり得ないことを疑い、その背景には必ず種がある。マジックの種があると検たのである。

 これは戦後に至って日本敗戦後、七十有余年を経て考えても分ることだが、此処には奇妙なマジックが存在していたことが分る。
 マジックであるからこそ、不思議に見える事件が起こる。
 それは「山本五十六軍神説」である。
 なぜ山本五十六だけ、日本敗戦後、七十有余年を経ても「軍神」としての扱いを受けているのか。更に、海軍水交社の流脈を持つ、同じ山本と同じような扱いを受けている米内光政や井上成美も、同様なる海軍の軍神なのか。またそれに纏
(まつわ)る「英雄論」である。
 そしてこれと対称的なのが、日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃していた頃を前後して、マレー半島の最南端のシンガポール攻略の『マレーの虎』と評された山下奉文
(ともゆき)陸軍中将(第25軍司令官としてマレー作戦を指揮をし、のち大将)は敗戦後、極悪人の一人としてマニラの露と消えた。それも天下の悪玉としてである。
 この構図にこそ、実は歴史マジックであり、それには必ず種があるのである。
 そして、そこにこそ、戦中・戦後を通じての「山本五十六軍神説」に奇妙な、多くが必ず見逃してしまうマジックがあり、このマジックによって、当時も、戦後も日本人が正確正常な判断力を麻痺させる盲点と要素が横たわっているのである。

 陸軍参謀本部の第四部に綿貫治
わたぬき‐おさむ/仮名)なる情報将校がいた。
 情報中尉であり、出身は沢田次郎と同じ高等文官出身者である。東京帝大法学部より高等文官として外務省を経由し、参謀本部第四部に配属された。沢田の一期後輩であった。
 「自分は沢田さんが以前から言っていた、マジックには種があることに気付くべきでした。遅過ぎた観があります。真珠湾奇襲作戦に不可解なマジックがあった。それを見逃して来た。つまり、見逃した元兇は何かと考えるに、そこには、われわれが勝った、勝ったと思い込んだ背景に、偶然と必然の区別に疎くなっていたことです」
 「世の中には予言者と言う類が多くいる。しかし予言者の多くの予言が、みな的中する訳がない。そこを考えてみれば分ることだよ」
 「予言が当たるとは、最初から第三者の事象なり予言なりが存在していた……」綿貫は思い当たったように呟いた。
 「その通りだ。ある程度の確率が最初からあったから的中する。真珠湾奇襲作戦は最初から成功する確率が高かった。つまり背後に第三者の協力があった。そう言うことだよ」
 「それに何故気付かなかったんでしょう?……」
 「大半が、偶然と必然の区別の判断も出来なくなって、ただ勝った、勝ったと喜び、一週間も提灯行列をする始末。煽られたと見るべきだよ。煽動者がいた、それも敵国に……。
 如何に、聲
(こえ)を大にして『勝って兜の緒を締めよ』と言っても、そういうものには、聞く耳を持たないのが世論と言うものだ。それに状況を正確に判断することも出来ない、それは歴史の今を判断することも出来ないということだ」
 「ところが、真珠湾の場合、確固たる予言を一年以上も前にしたと言うことですね?」
 綿貫治は念を押すように訊いた。

 「山本五十六は、当時の近衛文磨首相
(1933年貴族院議長で、日中全面戦争期の首相。昭和16年(1941)第3次組閣をしたが、東条陸相の対米主戦論に敗れて辞職)にも日米開戦の暁(あかつき)には、劈頭(えきとう)に真珠湾を奇襲して米国の太平洋艦隊の主力を撃破すると……。
 これだけのことを自信をもって予言している以上、背景にはトリックがあったと言うことだろう。
 つまり、これだけのことを大口を叩いて確固たる自信で論ずる以上、第三者的な大きな制約が出て来る。
 その第一は「なぜ日本は一年以上も前に、米国と開戦するという保証は、いったい何処にあるのか!」と鋭く論破する沢田。

 「そうですね、確かに日米間は良好とは言えなかったが、戦争をすると言う確証はなかった。それを日米開戦とということを前提に話している。必ずしも米国と戦争すると言う保証はなかった筈ですね」
 「更にだ。真珠湾を奇襲しても、狙いを定めた通り、米国太平洋艦隊が勢揃いして撃たせてくれるという保証は何処にもない。この保証の根拠は何処にもないのである」
 「米国海軍は前々から真珠湾の危険性を考えて、主力艦隊をサンディエゴへ移すことを真剣に考えていた。
 確率からいって、真珠湾に勢揃いしているというのは雲を掴むようなことで、確率など限りなくゼロにちかいですね。それなのにその低い確率に総てを掛け、真珠湾記入攻撃を仕掛けたということは?……」
 「つまり、米国内にそうさせたい協力者がいたことだよ」
 「それは……、ルーズベルト……ということですね?」と、恐る恐る訊き返した。
 「他に一体誰がいる!」
 「リメンバー・パールハーバーのスローガンが、完成しますね。米国民の怒りがそれに集中する、見事な世論操作ですね。多くの日本人はこのマジックに気付かなかった。参謀本部も、海軍の軍令部も、この事実を見逃していた……」
 やっと、いま気付いたと言う口振りだった。
 つまり山本予言は、何の力によって真珠湾奇襲作戦を成功させたかと言うことであった。いったい誰の力を借りて、この奇襲は成功したのか。近現代史、特に大東亜戦史には、この疑問が必要である。

 山本に背景には協力者が居たからである。
 それが実現を可能にした。更に、日本海軍の真珠湾機種をハワイ方面の防衛部隊には知らせなかった。そのうえオアフ島の北方海域の哨戒を怠らせた。真珠湾では主力艦隊を二列に並べて、わざわざ航空機攻撃で叩き易いようにした。ここまでセッティングしておけば、日本側も撃ち易く、奇襲は実現可能となる。
 だが、問題はこの程度ではなかった。

 この撃ち易いセッティングに対して真珠湾奇襲は、その第一条件が日米開戦は確実に実行される保証を交換条件に仕掛けた暗躍者が居たからである。一見複雑に見えるトリックも、裏ではルーズベルトが開戦を絶対に欲していたからである。そのために山本五十六を利用し、その協力者を日本側に求めたことであった。
 アメリカ国内に協力者をセッティングするのではなく、日本側に協力者を求めて来たことであった。必ず攻撃して欲しいとの意向を需
(もと)め、仕立て上げ、「リメンバー・パールハーバー」の構図を作らせて、本来ならば困難だった米国議会を参戦へと踏み切らせたことであった。また米国民のポピュリズム(populism)を利用して、感情に奔らせ、これを政治上の道具にしたのである。
 この関係が成立した条件において、日米開戦は現実のものとして保証された訳である。此処まで保証されてしまえば、ルーズベルトと山本五十六の、両国民を戦争へと駆り立てる協力関係は、はじめて隠しきれなくなる真相が見えて来るのである。双方は、フリーメーソンの関係で協力関係にあったと言えよう。

 これにより、米国側の今日までの研究結果である。ロバート・A・セオボールド
(米国海軍准将)の説、並びにルーズベルトが対独戦に売国を引き摺り込むために、日本に第一打を撃たせ、議会を承服させたとする論理が証明されるわけである。この構図は、日本人の子孫に、戦争責任を日本人に押しつけたアメリカの戦略をも解明された訳である。
 斯くして日本側から山本五十六を偉大な予言者で協力者とする演繹的手法により、見事にこの構図が解明された訳である。また翻
(ひるがえ)って考えれば、「山本五十六の大予言」は、真珠湾奇襲のセッティングが巧妙だったことから日本人に関して言えば、偶然と必然の区別さえつかないほど、判断力が麻痺させられてしまったのである。
 真珠湾奇襲が成功した事自体は、本来的に考えれば単なる偶然の結果だった筈である。然るに、現実にはそれは必然であったことである。この区別を、此処まで麻痺させたのは何か。
 これこそが多くの日本人が麻痺させられてしまった「山本五十六軍神論」である。山本の軍神としての誇大宣伝を戦後も吹き込まれた結果から、日本人はいつの間にか海軍の善玉論、陸軍の悪玉論に染め上げられてしまい思考力には混乱が来たしたと言うことである。

 日本の焦土に化した日本軍部の戦争指導者の中で、何故か山本五十六だけが戦前戦中にもまして、英雄扱いされ軍神扱いされているのである。先の大戦を題材にした小説や戦史、あるいは映画やテレビドラマで、これらは揃いも揃って、山本五十六に関しては最初から善玉扱いで描き出している。悪玉の部分は微塵も見えてこない。
 そして真珠湾奇襲作戦だけが以上にクローズアップされ、よく考えれば出来過ぎているのだが、果たしてこれは自然の成り行きで起こった事象と言えるだろうか。ゆえに今日でも、とんでもない論理の飛躍まで生じているのである。背景には日本人の考え方に、軍神の遣ることであるから、底辺の凡夫にはどう逆立ちしても適う筈のない至難の業であるが、軍神がする行為自体は意図も簡単に成就すると感じさせ、偶然と必然を区別出来なくしてしまい、これが日本人を麻痺させた元兇であった。大半の日本人はフリーメーソンについて知らなかったからである。

 話を戻す。
 昭和12年
(1937)7月7日の日中戦争の発端となった盧溝橋事件(盧溝橋付近で演習中の日本軍が銃撃を受け、これを不法として翌8日早暁中国軍を攻撃し、両軍の交戦にいたった事件)も、あるいは1939年のドイツ軍のポーランド侵攻を、第二次世界大戦の発火点とする説も、実は東亜ならびに欧州の局地戦の発端と定義されれば成る程と退き下がるしかない。本来ならば、第二次世界大戦の発火点こそ、真珠湾奇襲攻撃に求めなければならないからだ。
 東亜における日本と支那、欧州におけるドイツとポーランド、フランス、イギリスなどの戦争は、日本海軍の真珠湾奇襲により、アメリカを戦争に引き摺り込み、アメリカを接点として東亜の局地戦と欧州の局地戦が合体して世界大戦へと発展した事実であり、この要にはアメリカが浮び上がってくる。
 ところが当時の日本は、この戦史研究に疎かった。つまり日本は疎いまま、そう言う戦争を戦っていたのである。

 なぜ日本だけ極端に遅れて疎
(うと)かったのか。
 押し並べて、当時の日本軍人は、欧米人に較べて教養が極端に欠如していることであった。教養皆無の戦争屋が当時の日本軍人の偽わざる姿であった。本を読まない軍人や歴史から学ばない軍人が多かった。教養の欠如であり、教養が欠如しているからこそ、戦争に抑止力が掛からなかった。多くは感情主義に流れた。
 また欧米の高級軍人に較べて、表面は潔癖であるが感情に流され、また感情で国民を支配しようとした形跡が見られる。そうした一面も敗戦の要因になり得た。更には情報無視も甚だしかった。
 昨今はその反対に、情報過多であり、情報が多くて、選択肢が多過ぎ、その善し悪しと、情報は本来正しいものは一つなのだが、その一つが自身で選別出来なくなって来ている。情報が多いと混乱するのである。

 結局、権威筋の言に流されるのである。多過ぎる情報が選別するのが面倒になる。自分にとってはどうでもいいことになる。それがやがて他人任せになる。現代日本人の特徴である。
 だが、戦前戦中と、昨今に日本人の変わっていない共通点を見出すとするならば、国民を含めて世の中全体が反知性主義で動かされていることである。知性が欠如していることである。知識はあるがそれを遣い切れずに知性が伴わないというやつである。
 そのうえ政治的教養も皆無となれば、結局感情主義に流されることになる。感情主義に流されるから、政治の世界も昨今に見られるようにポピュリズムへと国民全体が煽られ、気付くと第三次世界大戦に突入していたという悪夢が顕われないとも限らない。
 しかし、こうした懸念をしていた人は居て、戦争観は政治的教養が伴わないと正しく見えて来ないということであった。

 汝、眼に誑
(たぶら)かされる。道元禅師の言葉である。
 感情主義者はまた眼に誑かされるものである。その証拠に、金・物・色に弱いと言うことである。
 これは最難関試験合格者
(当時で言うと陸士・海兵・高文官)であっても例外ではない。眼に誑かされる。眼から誘惑される。
 そういう誘惑者が色をもって自由恋愛の形で迫ればこれに抗いきれる者は少ない。誘惑者は天性の才をもって誘惑に掛ける。誑
(たら)し込む。そして重要なポストを占める者は猟られて行く。
 特に猟る場合、天性の才をもった媚を遣う女の媚術は凄まじい。媚は女に備わった本性に基づく生まれながらの才である。二、三歳の幼女ですら、媚びることを知っている。少女でも艶
(まなめ)かしい態度をとって相手に迎合し、阿(おもね)ることくらいは知っている。これは天性のものである。女のみに備わる才である。
 高等訓練を受け、鍛練されれば、その結果は言わずと知れている。猛威は凄まじく、効果覿面である。

 世間慣れした漢でも、少女の媚びに遭えば、簡単に敗れることすらある。そういう話は、古今東西ゴマンとある。その最たるは、殷
(いん)の紂王(ちゅうおう)をまんまと誑し込んだ妲己(だっき)ではなかったか。
 妲己は、周公旦によって用意周到に練られた秘密兵器であった。女が媚を根本から磨き上げて遣えば、その威力たるや、聖人君子など易々と誑かしてしまう。
 また剛の勇者も、媚で惑わし、滅ぼすことが出来る。
 これらを、尚武の国と自称する当時の大日本帝国に、かの地から間者として送り込み、国家の屋台骨を揺るがすことはそんなに難しいことではない。国政を混乱させたり、国家の機密を漏洩させるなどの不祥事は、何らかの形で、背後には女の媚が絡んでいる場合が少なくない。重要ポストに、妖艶なる媚を向ければいいことである。
 古今東西、媚術による国家転覆や危機に至らしめる割合は非常に多いのである。
 敵国内に協力者を得る場合、その迎合を目論む仕掛人は、往々にして媚を用いることはよく知られている。
 これが歴史マジックを仕掛ける場合の根本的な「種」である。
 今なお、日本人は歴史マジックに何ら種が無いように考え、歴史を自然体から起こった事象と思い込み、偶然と必然の区別がつかないのである。



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