運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 33

かつて「錬成」という言葉があった。
 特に戦前から戦中に懸けて、指導する側と指導される側が一緒になって実行・実動しようではないかという目的をもって、この時期には盛んに「錬成」と云う言葉が用いられた。
 錬成の言葉の中には知・情・意の統一体として、人間を錬成していくことを目指した。

 人間錬成は、従来の知力優先の教育から、「道」に付いて教えたものであり、監視者が居なくとも、正しく人間として、機能し得る自由自在の人間教育を目指したものであった。
 人間教育には知・情・意の一丸となった錬成であり、創造発見の喜びを味合わせるものであった。建設者になるのである。

 しかし、民主主義デモクラシーの世は、錬成など後回しにし、知力のみを追い掛けて、知・情・意のバランスが大きく崩れ、甚だしく拮抗を失ってしまった。単に人間を、知の鋳型
(いがた)に嵌め込んで行くだけである。


●認識票

 老兵が応召により集められていた。弾除け要員である。人間防波堤である。基礎教練を受け、やがて武装して野戦に出て行く。
 だが教練は施せる年齢ではなかった。老いた上に身体障害者まで混じっていた。隊列行進など、ろくにできなかった。そういう身体能力は退化していた。敵弾に当たるために、また命を張って防波堤にするために掻き集められた老兵である。この老兵には楕円形の真鍮板
(しんちゅう‐ばん)が配られていた。
 敵弾に斃
(たお)れた場合、屍体が何者かを識別するためである。交付目的は、屍体の確認だけであった。この真鍮板を「認識票」と呼んだ。認識票には番号が打ち込まれ、非常な即物性の意味合いを含んでいた。側面には残酷な響きが漂っていた。
 これが配られると、もはや人生の前途は断たれる。冷たい死への予言を下されたようなものである。また、青い畳の上での死も、断たれることになる。遠い戦地の中で斃
(たお)れて行くことになる。死は、そういう死しか残されていなかった。
 この認識票を貰った老兵の一人が呟
(つぶや)いた。

 「有り難や、これで死に損なわずに、迷わずに、一直線に冥土へ行けるわい」
 実に皮肉なことを言った。
 そして、横に老兵が同じようなことを認識ようを掲げて吐露した。
 「これこそ靖国の門鑑じゃ、有り難や……」
 周囲はこの言葉に吊られて、冷たい嗤
(わら)いが起こった。死を覚悟した嗤いであった。
 この当時の男の平均年齢が42、3歳である。戦死するからである。自分の年齢を平均年齢から差し引いて行く分か長ければ、残りは余生である。その余生すら、嗤い飛ばした観すらあった。
 老兵部隊の軍服は粗末だった。
 継ぎ接ぎだらけの兵に配給された使い古しの、昭和13年以前
(この年に陸軍は軍服を改正)の軍服であり、帯革もなく、帯革の代わりに、腰に藁縄(わらなわ)を巻いていた。それが一層貧素にした。兵隊の姿とは言い難かった。
 更には軍靴の配給はなく、幾分ましな者でも穴空きだらけの地下足袋であり、多くは草鞋であった。そして銃剣の代わりに、同じ長さに切った竹の棒を腰に吊るしていた。
 略帽も穴空きの粗末さで、ただ二等兵の星一つの布の階級章だけが、ボロな軍服の上に真新しかった。軍服と真新しい階級章との何と言うアンバランス。もはや滑稽を通り越していた。
 何を以て、軍隊と言うのだろう。

 幹部候補生として将校教育を受けていた津村陽平には、帰隊早々開墾隊の班長としての役が押し付けられ、班員は40歳から65歳までの老兵だった。平均年令は52.5歳である。
 世界の軍隊の中で、兵隊の年齢が52歳を超えた兵士が徴兵されたというのは、この時代の日本陸軍だけであろう。更に組織抵抗できるような体力は持ち合わせず、前線行きの前の任務は、自らが若い命のために耕作地を開墾することであった。老いて自らは肥料
(こやし)になることが暗黙の命令であった。そのために毎日、牛馬の如く使役されていた。
 開墾班は25名であった。老兵ばかりである。

 老兵は作業道具として鶴嘴
(つるはし)が先ず与えられ、これを小銃に取って返す。これで荒れた原野を耕して切株や石などを取り除き、更には鍬(くわ)で耕し、農作物の苗を植え付けられるように切り拓いて行く。
 老兵の任務はそれが至上命令だった。老いたりと雖
(いえど)も、自らの老後に不平を言わず遵(しが)わねばならない。
 老兵に割り当てられた兵舎は、粗末な掘建て小屋だった。
 内部は節穴ばかりの羽目板で覆われ、電燈がなくとも昼間は穴から光が射し込んで、まさに貧者のあばら屋だった。
 開墾班には以前15名ほどが寝泊まりしていたが、前の住民は戦場に送られ、それと入れ替わりに老兵の宿舎となった。

斜辺を耕して開墾作業をする高等女学校生。(「昭和史」破局への道・昭和18〜19年。毎日新聞社篇より) 農作物などの「南瓜作り」を薦める女子宣伝挺身隊。(「昭和史」破局への道・昭和18〜19年。毎日新聞社篇より)

 早朝3時の起床ラッパを聞いて起き、夜は9時の消灯ラッパの合図で一日のリズムが定められ、小銃を担いで走り回る教練だけは免除されていた。その代わり、早朝から夕刻の陽が沈むまで、開墾という重労働が課せられていた。囚人に課せられた重労働を髣髴とさせた。
 ラッパを聞いて飛び起き、隊伍を組み作業場に向かい、また昼時は、正午に昼食ラッパが鳴る。それを聴いて糧食班へと向かう。
 しかし此処では朝夕の点呼はなく、また不寝番すら立たない。作業が終われば全員崩れるように寝る。その繰り返しの毎日だった。老いた躰は夜だけでも休める以外なかった。細やかな休息であった。

 開墾場は「一日も早く」という至上命令が出ていた。
 老兵は、まず此処で、第一次の使役をされ、第二次として戦場で弾除けになる二段構えの使役が自らに課せられた命令である。一次で使役され、二次で弾除けにあって必死せよという。決死でなく、必死である。
 そもそも軍隊には、決死隊は組織されても、必死隊は組織されたことが無かった。それを老兵の肉弾をもって必死せよという。何と理不尽なと思う。
 老兵には、航空機による特攻隊以下の扱いが命ぜられていた。老いて、みな無名戦士として死んで逝く。その前途が克明に漂っていた。残された人生は弾除けになって死ぬことだけだった。それが老いた躰に課せられた命令である。

 一方、開墾作業は老体には辛い重労働であった。
 残酷なことは、一日のノルマが課せられていて、達成出来なければ全隊責任となり、それが夜間にも持ち越されたことである。他からの同情は無い。老いた者は、そういう死に方をすべきだと言う、「爺
(じじい)は早く死ね。長々と生き残って若者の食糧を奪うな」という残酷な『姥捨論』が、当然のように罷(まか)り通っていた。その度に、班長の津村陽平に皺寄せが掛かった。彼に直面する難題は、老いの責任まで課せられているのである。
 津村陽平は人情に富む。弱者を放っておけない。
 老いた弱い班員を庇
(かば)った。その前に出て庇った。
 斃
(たお)れた老兵に代わって二倍働く。休ませて自らが使役される方に廻る。しかし開墾作業は遅々として進まなかった。その度に、巡回の将校と副官と開墾計画者が廻って来て、作業が遅いことに叱責を喰らい、副官の幹部候補生上がりの21、2歳の若僧の少尉から殴り倒された。それでも津村陽平は立ち上がって、殴られるままであった。打たれても、まず立ち上がる。津村の信念だった。
 それを、老兵の誰もが、鋭い眼で「呪」の眼を向けて威嚇し、《何だ、この異様な年寄りどもの眼は……》と虞
(おそ)れをなした。次第に怕(こわ)さを増す。それで少尉は慌てて巡回将校とともに引き揚げて行くという醜態を曝すのであった。人生経験の少なさであった。
 この現実を、此処に津村陽平を引っ張り出した『タカ』計画の立案者や実行者たちは、どう検
(み)ていたのだろうか。

 この様子を遠くで遠望している者達がいた。
 「もう赦さぬ!」
 「まァ、俟って下さい」
 沢田次郎は鷹司友悳を制した。
 「しかし沢田君……」
 「心配はご無用。まァ、黙った見ていて下さい。津村陽平はそんなにヤワじゃありませんよ」
 「どういう意味ですか」
 「あの若い将校は東京帝大経済学部の学徒出身者で、幹部候補生上りの少尉です。かつて橋爪太の愛弟子だそうです。表面上は帝国陸軍の少尉の軍服を着て日本人で御座いと澄ましていますが、あれは日系二世の米国人です。その戸籍を入手し、内務省を通じて利敵行為をした証拠を掴んでおります」
 「米国のスパイということですか?」
 沢田の“人誑
(ひと‐たら)し”と、その活用法は鷹司も心得ていた。この人誑しは、毒を自分の薬にも変えてしまう効能術でもあった。
 「彼奴
(きゃつ)らは津村陽平を重要人物として探(さぐ)っています。今の、津村に対する制裁も、その確認でしょう。如何なる人物か、マークしてその実情を探ったと思えます。それを分った上で、ただ殴られていたのでしょう」
 「では、この聯隊にも、他に日系のスパイが潜り込んでいるということですか」
 「日本は既に負けるように仕込まれているのです。日米開戦以前に負け戦の罠は仕掛けられたと言うべきでしょう。そもそも、何ゆえ最初に、お家芸の立体航空戦の手の裡
(うち)を明かして、真珠湾奇襲作戦を企てねばならんのです?」
 沢田は《これ自体が不可解ではないか》と問うたのである。
 「手品の種明しを一番最初に見せ付けた?……ということでしょうか」
 「こういう手品は、手品で無くなります」
 「つまりィ……、開戦前に連合国側の間者が入り込んでいて、日本側の何者かを通じて、工作をしていたということですか」
 「そのように考えられます」
 「それを知っていて泳がせていると言うことですか?」
 「津村陽平は神出鬼没。何処にでも耳と眼をもって、その臭いすら嗅ぐ……。まさに小さな巨人です」
 「その巨人を、われわれはこれまで随分と粗末にして来た……という事でしょうか」
 「人間はそもそも、神や仏は粗末にするものですよ。その結果、神風の吹く神国を、これまで粗末に扱ってしまった……」

 そのときである。
 そこへ東京憲兵隊のサイドカーが、けたたましい音を立てて後込んで来た。その後ろの憲兵隊の軍用トラックが憲兵10名ほどを荷台に載せて続いていた。
 サイドカーから下士官が降りて来た。曹長の階級に腕に憲兵の腕章をしていた。
 憲兵隊を指揮する曹長は、私服の沢田次郎に敬礼して、幹候生が屯する司令所へと向かった。
 「今の少尉を逮捕するのですか」
 「それだけではない、大きな鼠は他にも居ます。幹候生の中にも、兵の中にも……」
 諜報者は味方陣営と思える中にも入り込んで来ていた。これまで思想弾圧などで抑圧されていた者が、日本の負けを逸早く悟れば、内側から城門を開き、敵に侵入を遣り易くすることも企てる者も出て来るのである。
 だがこうした者に限り、自分では買国行為た利敵行為は一切働いておらず、自らの行動は正義であると確信しているのである。

 「それを内通したのは誰ですか」
 「橋爪太です。自らはアメリカ共産党員と言って憚りません。しかし、中々の狸。自分では夜郎自大の古兵を自称して、そのポーズで、鮫島良雄と伴に内部を探っていたのです。そこで幹候生の中や、その出身者に日系が居ることに気付いた。彼らは日本軍の軍服こそ着ていますが、米国の情報機関に属する諜報員です」
 「とんでもないところに間者
(スパイ)を送り込んだものだ。日本人の貌で、日本語を話し、帝国陸軍の軍服を着ている。表面から見れば、疑う余地はゼロ。全く恐るべき手段で間者を送り込んで来た。いやはや、負け戦を強いられるもの当然と言うべきか……」鷹司は呆れたように相槌を打った。
 それは同時に参謀本部の甘さであった。
 「日本軍は情報戦に甘過ぎましたよ、考え方が幼稚です。今もその延長線上にあります」

 当時の日本人的考えは、武勇一点張りで、間諜という情報戦には実に疎かったのである。更に情報戦に疎いばかりでなく、まんまと工作されて極秘情報までもを文化人らが外に漏らしていることに、殆ど感知出来ずに居た。
 その典型が、近衛文麿に近付き、政府筋の極秘情報を朝日新聞記者の尾崎秀実が入手して、ドイツ人新聞記者でソ連赤軍諜報員のリヒャルト・ゾルゲに漏洩させ、独逸経由でソ連に売り渡した行為に気付かず、それが以降、日本が負け戦を戦う羽目となるのである。戦争は何も対戦国の米英と戦うばかりではなく、昭和16年4月に交わした日ソ中立条約の相手国や日独で交わした同盟国と戦う羽目になっていたのである。その懸念や予測、更には戦争遂行の戦争目的まで不在で当時の日本は戦っていたのである。そこまで深く探求し得なかったのである。二次元平面的戦術は得意としたが、三次元立体的な戦略までは何のビジョンも描けなかった。
 特に日本陸軍は、西洋気触れの不完全帰納法に信頼を寄せて、その信頼において作戦が練られていたと言うことである。これが机上の空論の最たるものであった。陸軍のソ連よりの発想は異常と言えた。
 その異常性をもって、名を戦争を継続させているのである。
 だがその皺寄せは、底辺の国民や下級兵士に及ぶのは当然のことであった。


 ─────開墾班は難儀を強いられていた。
 以前の住民のように怠ける者は居なかったが、大半は老兵である。食糧がない上に、老いた躰には重労働は不向きであった。
 躰の動きが若者のように機敏に迅速に動けないのである。仕方の無いことであった。それに略帽としての軍帽は被っているが、炎天下では役に立たなかった。軍帽の帽垂
ぼうたれ/帽子の後部に同色の布垂を付けたもの)は付けているが、炎天下では後頭部を灼(や)き、首筋を灼いて、日中の作業は過酷を極めた。
 そのうえ老兵には官給品の水筒がなかった。班長の津村だけに兵隊用の至る所がへこんだ粗悪の水筒が与えられているだけだった。班員が水を飲むときは、飼葉桶
(かいばおけ)に井戸水を汲みに行き、それを瓢箪手酌(ひょうたん‐てじゃく)で掬(すく)って飲む有様で、老兵には人間扱いどころか、兵隊扱いされていなかった。農事使役の、老いた馬車馬然であった。
 ちなみに飼葉桶とは、馬の餌やりで、飼葉を入れて牛馬に食わせるための桶のことである。
 この桶に水を汲み、老兵はそこから水を飲む。牛馬かそれ以下の扱いだった。更に食糧も老兵だけに一般の兵隊より半分以上も減らされ、益々弱って行くだけであった。

 昭和19年5月以降の流れを追って見よう。
 此処には重要な時代の転機、運命の転機が記されている。近現代史の転機の特長であろう。つまり特異点になり得るものであった。

昭和19年3月31日 パラオ大空襲の際、海軍乙事件で「あ号作戦」の元になる「新Z号作戦」計画書など最重要軍事機密が米軍に渡る不祥事が起こる。後にマリアナ沖海戦の敗北の要因となる。

昭和19年5月5日

防衛司令部令公布。
 〃  5月12日 大日本教育会発足。
 〃  5月17日 女子挺身隊結成率7%と低迷で、警視庁、再度召集状発送。
 〃  5月27日 粤漢(えっかん)打通作戦開始。本作戦は服部卓四郎・大本営陸軍部作戦課長が企画立案し敢行。
 〃  6月15日 米軍。サイパン島上陸。
 〃  6月16日 米軍のB29重爆撃機、中国の基地から北九州工業地帯空襲。
 〃  6月19日 マリアナ沖海戦で日本海軍は空母3隻、航空機395機を失う。
 〃  6月23日 北海道洞爺湖湖畔で大噴火、昭和新山誕生。
 〃  7月7日 サイパン島玉砕。米軍、サイパン島基地から日本空襲開始。
 〃  7月8日 インパール作戦、全員撤退命令。死者3万人、戦傷病者4万5千人。
 〃  7月11日 国民学校高等科、中等学校低学年にも学徒勤労動員に決定。
 〃  7月13日 木戸幸一内大臣、東条首相に大臣と参謀総長・軍令部総長の分離ならびに海相更迭、重臣入閣を指示。
 〃  7月14日 東条、参謀総長を辞任。
 〃  7月18日 東条内閣総辞職。
 〃  7月19日
     〜22日
東北・北陸・熊本で大豪雨。酒田で223mmの記録的豪雨。
死者行方不明88人。
 〃  7月21日 米軍、グアム島上陸。8月10日同島の日本軍守備隊1万8千人玉砕。
 〃  7月22日 小磯国昭内閣成立。
 〃  7月24日 米軍、テニアン島上陸。8月3日同島の日本軍守備隊8千人玉砕。
 〃 10月23日 23〜25日にかけて日本海軍と米海軍・濠海軍からなる連合国軍とのフィリピン周辺海域でレイテ沖海戦。レイテ突入作戦とも言われ、栗田艦隊が謎の反転をする。大東亜戦争最大の謎の一つとされる。
 〃  12月7日 東南海大地震。マグニチュード8の烈震。名古屋をはじめとして東海地方の重工業に大被害。死者1223人。全壊家屋2万6千130戸。津波流失3千59戸。しかし他地方の日本国民には知らされず。

 昭和19年のこの時期、誰もが滅びの中に居た。破局に向かう日本の中に居た。
 戦争指導者たちの愚が招いた結果が、このような悲惨な状況を作っていた。必ずしも無謀な戦争に挑み、米国との物量の差に問題があるのではなかった。幾多の作戦の失敗による。指揮官の見識のなさにあった。
 したがって負け将棋を、もう一番、もう一番……の愚だけは避けなければならなかった。
 だが、動き出した戦争への巨大な車輪は、容易には止めることが出来ない。止めるには、始める際の軍資金の数倍以上の金を必要とした。
 そのうえ負け戦が込んで来ると、物資の欠乏が極端化して来る。食糧が無くなり、また人命の軽視も甚だしくなる。

 軍隊では軍規が徐々に失われ、軍律も崩壊に向かう。階級も有って無いが如しになる。初年兵も古兵の区別もない。兵と下士官の大まかな違いはあっても、兵隊は無階級の中に居た。上官を見ても敬礼すらしないのである。例えば、初年兵と上等兵との区別も曖昧であった。更には応召の上等兵と、兵長や伍長とも同じで伍長助勤者との区別もあった無いが如しであった。互いが気易く物を言い、軍隊言葉など存在しなかった。
 昭和19年のこの当時、余談ながら応召部隊では、二等兵と半年前に応召された古兵はむろんのこと、上等兵も、更には下士官との間にさえ、階級の区別は殆ど無視されてしまう。階級など存在しなくなる。
 認識票を配られた兵隊においては、それぞれが死を前にするのであるから、押し並べて一個の番号付きの単位でしかなくなる。死を誰もが自覚すると、死の前には誰もが平等であることを悟ることになる。
 勇者も、懦夫も、また貧富の差もなく、身分や家柄の差もなく、一個の番号付きの単位となる。

 この聯隊には、新たに老兵や身体障害者も含めて、約二千名前後の応召兵が居た。
 ところが、この応召兵は日々を教練されることも無く、ただ聯隊の中の兵舎に隔離され、連日何もすることが無かった。時折、教官と名の付く軍曹・曹長・准尉らが声を枯らして怒鳴ると言う程度であった。組織行動する意欲を喪失していたのである。弛み切って戦意すら喪失していた。その喪失は、諦めから来るものであろうか。

 時折、夕鶴隊の分列行進と楽器と歌を用いての儀仗行進が、応召兵の眼を楽しませると言う程度だった。
 元気のいいのは武装した女子遊撃隊だけであった。
 アン教官は夕鶴隊隊員の隊列行進に、きびきびした俊敏な、更にきりりと締まった切れと良さのある動作を加え、それに「爽やかな笑顔」と、見ていての「恰好よさ」をプラスして「見せる宣伝効果」を徹底させようとした。
 隊列行進での脚の上げ方た脚の位置、貌の位置やそれに伴う頭部動作、手の振り方、女性特有の爪先を付いてのその場の足踏み、敬礼を含む徒手動作、靴の踵の鳴らし方や拍子の取り方、前後の切れのある方向転換、散開行進
(散り方)、集結行進(集まり方)、更に隊列行進に用いている100式短機関銃の執銃法の機敏な操法を徹底させていた。これまでの日本にない動作であった。見せるための戦いであった。見せるのは日本国内の留まらず、海外に向けての宣伝効果を狙っていたのである。

 このことを一番能
(よ)く知っていたのは、ナチス独逸の宣伝相ゲッペルス博士であり、国民操縦法の宣伝効果は抜群であった。その効果を利用しつつ、全ドイツ国民に、最も効率よく効果的に全体主義を啓蒙したことであった。
 隊列行進、儀仗行進は儀式としては大きな意味を持っていた。
 特に小銃に関しての捧ゲ銃
(ささげつつ)、擔え銃(になえつつ)などの執銃の操作と動作を、切れ味よくフレッシュに行えと厳しい注文を出すのであった。そして隊員はそれに能(よ)く耐え、よく応えた。
 日本には最後の切り札として、「まだ戦える秘密兵器がある」と言うことを、内外に広く見せ付けることであった。男の有能な兵士は損傷していたからである。
 よりより負け方をするには、「まだ残っているものがある」ということを知らしめる必要があった。この事が必要不可欠な儀仗隊の儀式であった。それには男も女も無い。同格に扱う。
 何処の国でも、近代市民社会を形成する枠には、一糸乱れぬ儀仗隊の儀式が必要なのである。儀式が無くなれば纏まりが無くなって、市民社会としての国家形体が亡びるからである。ゆえに近代市民社会では隊列行進や分列行進をしてみせ、纏まりがあることを内外に示す。甘く見られるのは纏まりが無いからだ。一枚岩である必要がある。これが付け入られない極意であった。
 人間が他の動物と違うことは、儀式をすることである。

 それと、一部の津村陽平の指揮する開墾班25名の鶴嘴
(つるはし)を担いだ老兵部隊であった。
 しかし聯隊兵舎に隔離された応召兵らは、連日閉じ込められてすることも無いから、時には週番下士官が来て嗄れ声で凛冽
(りんれつ)な響きで「演習!」と告げたりする。しかし、初年兵がこれにゼンマイ仕掛けの人形のようにパッと立ち上がったり、機敏な動きをする者は一人もいない。覇気がない。牛が歩くように鈍い。仕方のないことであった。
 結局、全隊が“応召ずれ”といった類で、中年の一等兵が「週番下士官どの、この暑い中を演習遣るのでありますか」などと言い返したりする。これを聴いた週番下士官も、このズボラな一等兵に叱責したり咎
(とが)める訳でもなく、「そう言われれば、そうじゃのう」などといい加減な相打ちを打ったりする。こうなると軍紀も風紀も殆ど皆無であった。日本陸軍は弛(たる)みに弛み切っていた。昭和12、3年当時の、同じ屯営で厳格な中での軍事教練は崩壊していた。あの頃の内務班生活からは想像もし得ないほど腐れ切っていた。
 野戦行きの応召兵集団が、この調子で戦地に向かうのかとなると、既に勝負がついているような感じさえするのであった。勝って生還するのでなく、負けてわが身を戦地に野晒しにする懸念すら窺えた。出戦の前の武者震いとか烈しい緊張などと言うのは消滅して、盛んなるの血気は既に失われていた。


 ─────6月7日。
 奇妙な現象が起きていた。大陸打通作戦である。この作戦を「南部粤漢打通作戦」と言う。日本側作戦名は一号作戦である。本作戦は服部卓四郎
(大佐)大本営陸軍部作戦課長が企画立案し敢行したもので、次のような複数の戦略目的があったという。しかし、変化は起こらず、結果は失敗に終わる。
 作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、計画通りの地域の占領に成功して日本軍が勝利したものの戦略目的は十分には実現できなかった。点と線の占領に過ぎなかったからだ。
 更に中国軍の敗北により、アメリカのルーズベルト大統領の中国に対する認識は変化したことが、戦略的な意味を失っていた。

 併せて通商破壊により、日本の海上交通は被害を受けつつあった。華北と華南を結ぶ京漢鉄道を確保する目的は、南方資源地帯と日本本土を陸上交通路で結ぶという机上の空論こそ無理があり、減少しつつある中国戦線の兵力の機動力を高めて、小兵力での戦線維持を実現する目論見があった。しかし所詮
(しょせん)机上の空論だった。現実はそこまで甘くなかったのである。
 更に6月16日になると、前日にサイパン島上陸を果たした米軍は、この日にB29によって、北九州工業地帯を空襲しているのである。
 「粤漢打通作戦」は失敗に終わる要因は複合結果として、米国の策としてお膳立てされ、次々に日本の負け戦の構図を作り上げていたのである。サイパン上陸まで、あと9日。
 それを前にして粤漢打通作戦を決行したのは、意図的な搦めになっていたのであろうか。
 歴史に、後から言う「もし」というのは起こらない。事実が事実として刻まれるだけである。


 ─────昭和12、3年当時の厳格で整然として凛々しい帝国陸軍の面影は、この年に至ると、想像もできぬほど弛緩していた。兵士は退廃の中に身を置いていた。士気の低下した烏合の衆の集まりであった。
 そのうえ二度目以上、応召された集団は「野戦行き」という現実に、眼を疑うばかりの退廃を見た。全員が弛み切っていて、応召兵に出戦の前の武者震いとか、緊張感と言うものは皆無だった。戦意など何処にも存在しなかった。兵も下士官も、階級があってもなきに等しかった。上下の垣根が一部では崩壊していた。命令系が曖昧になっていた。
 5月27日、粤漢打通作戦開始。この間、米軍は何を目論んでいたのか。
 その20日後の6月15日、サイパン上陸を企てていたのではないか。
 だが日本側は連動作戦の企てを見抜けなかった。作戦は二次元平面ではなく、三次元立体戦を上回る四次元的発想で、米国側は動いていたのではないか。
 四次元的発想はユダヤ人
【註】アシュケナジーユダヤ人で、ナチスのホロコーストの犠牲になったアシュケナジム。米国では全国民の1%弱を占め、金融などに大きな影響力を持ってTVA開発で知られ、ニューディラーを構成する。後のユダヤ教改宗者のカザール人に近現代の世界史は牛耳られる現実を招いた。一方、イスラエルで二級市民に甘んじ、ディアスポラ(離散)したユダヤ人で、中世以降スペインついで北アフリカなどに移住した人々をセファルディムという)の得意とするところである。単純な日本人の二次元的平面思考では追いつく筈も無かった。
 一口に戦略と言うけれども、二次元的平面思考で、四次元的多重複合思考には太刀打ち出来ない。当時、日本人の数学的発想に四次元的多重複合に太刀打ち出来るものは無かった。つまり、当時の日本人の発想に、例えば、今日で言う経済学の中に流体力学を持ち込んで、金融の流れを測定し、
観測する思考力は無かった。

 CIA
(Central Intelligence Agency)は米大統領直属の中央情報局である。この機関は中央情報局長官によって統括され、米合衆国大統領直属の監督下にある。先進は戦略事務局Office of Strategic Services/OSS)である。
 1947年設立
【註】奇しくもイスラエル建国と創立を同じくする)で、創設期からイスラエル諜報特務庁やイギリス秘密情報部とつながりが深い。国家安全保障会議につながる情報機関である。

 この期間は戦後、日本占領期から、児玉誉士夫、笹川良一、岸信介、田中清玄、笠信太郎、緒方竹虎、正力松太郎、野村吉三郎
(元海軍大将・駐米大使)などを協力者として、何故か旧日本海軍が絡み、揺籃期(ようらん‐き)の自由民主党に活動資金を提供し、心理戦略委員会などの方針に従って、政治及びマスメディアを利用することで知られる。更には、冷戦時代にはアメリカ政府の反共政策に基づき、日本の親米勢力や左翼穏健勢力に秘密資金を提供した。FRBの輪転機で刷り捲ったドル札は、これらの勢力に流れた。
 日本軍の散蒔いた「軍票」ごときではなかった。
 軍票とは、軍用手票の略で、戦地および占領地で、軍隊が通貨の代用として使用する手形のことで「軍用手形」という。多くは不渡りにして頬っ被り……。
 斯くして旧軍人の戦争指導者は、この不渡り手形に誰一人責任を取らなかった。

 当時の陸海軍は情報機関を持っていたが分析力に欠けた。経済分析に詐欺的な手法が用いられることを知らなかった。米国FRBの輪転機で刷り捲ったドル札は国際同盟国並び独逸に散蒔かれている時、日本は律儀にお人好しに、軍用手形の決済に頭を痛めていた。頬っ被りするなら、占領地で早々と不履行すればよかった。これらの少しでも履行をとする中途半端が戦費を圧迫した。
 ために流体力学を知らなかった。水の流れの方程式である。
 波がどのように発生して、どう流れ、どう働くかをの方程式を解明するのが流体力学である。流体の静止および運動の状態について論じる力学である。これは金融にも応用出来る。これを応用して出来たのが金融工学である。
 この工学理論に基づけば、不履行の時期を予測すればよかった。それが出来なかったのは、米国と言う“人造国家
【註】1%弱を占める国家の超富豪の支配形態)”の情報分析が出来なかったからである。

 それに、もう一つ。
 独立独歩の精神の不足していた日本の陸海軍の現実とその実体。
 そもそも鎖国していた徳川期の日本は自給自足が出来る豊かな国であった。米をはじめとする農作物、魚介類など海の幸も山の幸も豊かであった。食糧も足りていたし、日本の国内を運営するには人的資源すら足りていた。此処に米国の砲艦外交が起こり、日本は騒然となった。
 海外事情に詳しい蘭学者らは、日本が阿片戦争の二の舞になると騒いだ。斯くして国内の経済バランスも、外国からものを仕入れないと遣って行けない状態になった。そこで欧米から学んだ。帝国主義・植民地主義だった。
 明治になって日本は様変わりした。欧米の国際政治下の一つ歯車として組み込まれてしまった。まず海軍が欧米製の軍艦を買わされた。その軍艦は石炭で動くと分った。日本には石炭は豊富にあった。
 石炭は豊富だから「これなら遣って行ける」と踏んだ。ところが、石炭が石油に変わった。このエネルギー革命により、日本はその後の目算が立たなくなった。国家戦略に狂いが生じ始めた。思考は平面的であったからだ。二次元的発想によって組み立てられた戦略など、これからは役立つ筈も無かった。

 次世代のエネルギー革命は日本の陸海軍を困惑させた。
 しかしこの困惑の原因が何か?までは分析に無かった。米国の策に嵌まったとは、そこまで考えがいたらなかった。当時、米国では石油発掘により、モータリゼーション
(motorization)という生活の中に自動車が普及するという画期的な発明に沸いていた。この発明は車だけでなく船舶や航空にまで及んだ。これが、軍部が躍起になって石油を探し、その運搬策に頭を痛めることになる。
 一方、日本国内では石油は幾ら探しても出て来なかった。米国から買う以外なかった。海軍では石油が無いと「海軍の独立が出来ない」ことになる。米国から「石油は売らないよ」となれば、日本は成り立たなくなってしまう。
 海軍にとって、日本の海軍ではなく、海軍の中に日本意識しかなかった。陸軍も同じで、陸軍の中の日本であった。日本人のことなど後回しであった。
 大日本帝国は日本人の国でなく、帝国陸軍の大日本帝国であり、また海軍の中の大日本帝国であった。
 そして天皇に絶大な統帥権を与え、それを一度も遣わせなかったことも、帝国陸海軍のための大日本帝国であった。そもそも大本・根本が中心から大きくズレていた。

 陸海軍の発想にあった「石油が無いからこの国は独立出来ない」という意識が、またこの思考が大東亜戦争の敗北を招いた。結局軍部は、「石油が無いから独立出来ない」という米国の策の暗示に掛かり、それを想起しつつ中途半端な戦争をしたから斯くも惨めな敗因が起こり、その暗示は、今日、多くの日本人の間に「戦争恐怖症」あるいは「戦争後遺症」として、今もなお、この尾を曳いている。
 ところが最近の調査によると、日本の石油備蓄量は約二年半分もあったのである。実は備蓄していたのは、東京電力と同じで「備蓄は無い、無い……」と言う。これと同じで、この詭弁に軍隊官僚及び民間人までもがそのように思い込まされてしまったのである。
 もし、大戦当時に「日本には、まだこれだけ石油がありますよ」とオープンにしていれば、ハル・ノートなど最初から突き付けられることはなかったかも知れない。それを備蓄側は「あと六ヵ月分しかない」といい、そこで軍部は慌てて、大々的に「節約キャンペーン」を繰り広げた訳である。
 背景には、陸軍参謀本部と海軍軍令部の「見事に踊らされた」という痕跡が貼り付いていた。これは当時からの「輸入漬け」になっていた妄想と思い込みが齎した元兇であった。

 「あと日本の石備蓄量は約二年半分もある」という、逆に、この「まだあるキャンペーン」でも米英や独逸
(大戦後は多数のナチス将校を招聘して、CIAのソ連東欧での情報収集と工作活動の本格化したことから水面下では繋がっていたと考えられる)に向けてアピールしていたら広島・長崎の悲惨な現実は免れていたかも知らない。そして、日本はこの時からアメリカの奴隷に成り下がっていたのである。これは、今日においてもその延長上にある。
 当時のこの列島では、無能と徒労が空回りしていた。それは事務屋が首相を遣り、参謀総長まで兼務していたから無理もないことだった。メモ魔でしかない事務屋にグランドデザインをする能力は皆無であった。
 これが、日本が戦争に負けた根本要因である。


 ─────津村陽平は時代に、自身の人物像に酷使されていた。
 「それをタダで回答せよというのか!」
 矮男
(こおとこ)は青い眼の女に怒声を上げていた。
 「と、申しますと?……」青い眼はしゃあしゃあと訊く。
 「下手な講談師の講談でも、聴けば木戸銭が必要であろう」
 矮男は渋ったことを言う。
 「出来る限りのことを致します、なんなりと……」
 「では、訊くが、あんた。自分の胸の重さ、感じたことないのか?」
 アン・スミス・サトウ少佐は、矮男が妙なことを訊くと思った。
 《この漢、いったい何かしら。やはり頭がおかしいのかしら……》と思った。
 「それはどういう事でしょう?」
 彼女は津村の意図が見抜けないでいた。

 「だから、あんた。自分の胸の重さ、感じたことないのか?……と訊いておる。
 つまり“ g”だ。重力加速度 g だ。
 自由落下の等加速度直線運動……。それを胸に感じないのかと訊いておる。わが輩は絵描きである。
 変な下心がないとは言わんが、あっても少量。なにしろ絵描きは“見た儲け”があるからのう。だが、そういうことはどうでもいい」
 妙な言い回しだった。
 「つまり……、あなたは絵描きということですよね……」
 「この木戸銭、如何に?……」
 「お支払いしますわ。同じ疑問を抱いた人がもう一人、いましたもの……」
 「うム?……。それはまさか、伯爵の鷹司のことか……。あのドラクロアの『民衆を導く自由の女神』をみての……」
 「その息子さんが言ったそうです」
 「なに!息子?……」
 「あなたの徴用の依頼主・鷹司友悳中佐です」
 「話が段々込み入っていくのう……。この負け戦、正念場に差し掛かるか……。下手を打つと取り返しがつかん、それで回転のいい女子
(おなご)を遣う。末期じゃのう……」
 三つ巴、四つ巴を思った。
 津村は「木戸銭」などと称して、何が言いたかったのだろうか。

 この漢、一方山師的なところがある。性分は山師に他ならない。山師と言う意味合いにおいて、一義的にはそれを限定することは難しいが、実用的な採掘現場での鉱山学的な意味合いを外れて、所謂
(いわゆる)詐欺師という衣裳を纏った非合理性かつ非現実性はでを含み、多義的な複合体のようなイメージまで齎すのである。
 要するに一方で掴みどころがない。言うなれば、本性は正真正銘なる山師かも知れない。それを自分でも否定していないのである。そして、工夫と敷衍
(ふえん)という知的営為は、それを操る人物を必然的に山師の色合いに染め上げるのかも知れなかった。
 この矮男、創意工夫すらその巧み性は、自在に虚実の間を軽々と往復してみせるのである。奇妙な游泳術を身に付けていた。更にはエロティシズムの秘密の領域に透徹し、その眼は画家の眼と言うより、彼のエロティシズムは「エロ」そのものであったかも知れない。このように説明すれは、何となく山師の一面も浮上して来るのではあるまいか。
 そもそも、ドラクロアの『民衆を導く自由の女神』の絵から、重い乳房の行方を案じる人間はそんなに多くいる筈がないのである。これ自体が、エロティシズムでなく、エロであった。
 矮男は、『民衆を導く自由の女神』の丸出しの胸を曝して戦っているようでは、“小回りの遊撃戦は出来ないぞ”と言おうをしていたのであろう。山師的なエロが言わせた言葉だったのだろうか。またそういう発想がなければ、単に見逃してしまう丸出しの乳房で終わるだろう。だかこのエロ師、その重さ、つまり絵の内容から重力を見逃していないのであった。見るものは確
(しっか)り見ていた。

 この時期、日本軍に婦人部隊が創設出来なかったのは、戦時下で、女性の下着が研究されていなかったからである。それに比べ、毛沢東麾下の八路軍の女子遊撃隊は、その研究を終え、前線に女性を繰り出し、多くな戦果を顕し日本軍並びに中華民国軍を大いに悩ませていた。
 その意味では、毛沢東のオヤジも、大したエロ師であろう。
 毛沢東の「一を以て十に当り、十を以て一に当たる」は孫子の兵法だが、その根本に女子遊撃隊を据えたことであった。女子ゲリラは更衣隊などに混じり、民間人に化けて、これまで考えられなかった遊撃戦を展開して事である。
 津村陽平が言いたかったことは『民衆を導く自由の女神』の丸出しの胸を曝して、夕鶴隊も戦うのかという女子改造策を迫ったのである。見える表面だけでなく、根本的な肉体を覆う活動可能な女子戦闘法であった。

 遊撃戦……。
 つまりゲリラ兵は近現代史のベトコン婦人部隊の“タフぶり”からも分る。蛭
(ひる)の居る泥沼を潜行し、野山や山岳地域の三次元進行が烈しい地形を二次元平面盤の上で戦うのかという意味であった。更に湿地帯や高温多雨のジャングル戦である。
 ベトナム戦争は米軍側に困難な地域に女性を投入するという発想がなかった。太平洋戦争の延長をこの時期にも遣っていたのである。
 津村は山岳地で仙道を学んだ。その学から、自らの学んだ「仙人観」で、アンに問うたのである。
 これはヨーロッパにない東洋流の近代戦であった。
 これにより、「一を以て十に当り、十を以て一に当たる」は可能になる。毛沢東は近代戦に女性兵士を投入したことである。
 有名な『白毛女』は中国の現代歌劇の一つである。1945年延安で初演された。
 地主の迫害から白髪になって、山穴に隠れ住む貧農の娘が八路軍に救われ本来の髪を取り戻す話だが、根本には道教的な民間伝説があり、後に集団創作されたものが『白毛女』の物語である。それに八路軍が絡ませ、女性兵士が登場する。道教的な民間伝説の意味合いが強い。


 ─────聯隊練兵場では老兵部隊に、野戦行きの編制が行われていた。
 貧弱な装備をした老兵部隊の横では、複数の学校から集められた女子学徒たちで混合編成された何処かの女子大生らが、五十人ほど集められ、竹槍の訓練を学徒出身の幹部候補生上がりの若い将校
(少尉)から指導を受けていた。将校の軍服は、自前で作られたと思われる新しい仕立てたばかりの将校服を着ていた。
 女子大生の竹槍訓練は、まさに“お遊び”だった。常に笑い声が洩れていた。そして訓練よりも、訓練に名を借りた姦しい話題が交わされていた。彼女達はお喋りが多く、訓練を意味を殆ど理解していなかった。無能な指揮官に教練を受けると、烏合の衆は忽ちこの態
(ざま)であった。また将校自身も、教練の何んであるかを殆ど理解していなかった。目的意識は不在であった。

 一方その横の老兵集団では、野戦行きを指揮する老少佐から訓辞が述べられていた。
 老兵は愈々
(いよいよ)大陸への野戦行きが決定し、演習はいい加減に誤摩化され、終日班内では雑談にふける有様で、訓練には身が入らない。複数回応召された老兵は、誰もが四十に近いかそれ以上で、五十代まで集合させられていた。彼らの話題は、高齢のための満期除隊である。
 つまり間違って応召され、それに伴う早期の召集解除であった。応召され者達の話題は“今度の応召は師団の動員室が計算を間違えて自分らのような歳を食った兵隊を集めてしまった”という事で、直ぐに召集解除になるという希望的観測であった。しかしそれは希望的観測の枠を出るものでなかった。
 話題にするが、それはただの雑談の範疇
(はんちゅう)のものとして聞き流され、説得力には欠けていた。動員室の計算間違いは信憑性に欠けるものであった。

 応召兵の間には、「わしはもう直満期じゃ」と言う者に対し、「満期が間違いだ」と遣り返す同じ応召兵が居て、これを断言して憚
(はばか)らないのは、これまでにも応召歴が豊富な下士官連が多かった。
 その下士官連が言うのである。
 「野戦に出るのだったら、何で家族に面会させんのじゃ。これを考えても、おかしいじゃろうが」といい、「それもそうだな」と相槌を打つのである。
 満期除隊つまり召集解除を根拠にするこの下士官は、これまでの従来の経験から、野戦行きの兵がどのように扱われたか経験を通して行っているのである。しかしその経験も、通用しなくなっていたのが昭和19年に入ってからであった。戦争指導者達は国民を徴兵しつつ、応召兵に無理難題を押し付け、結局老いた者は生贄になれと言わんばかりの命令を下していたからである。

 野戦に出るのに家族との面会謝絶。更には家族や知人に対しての郵便物の停止。更には兵営の外には出さぬという隔離状態の続行。
 驚くべきは身体虚弱者や身体障害者らの即日帰郷の停止であった。
 この日、老いた応召兵に向けての部隊命令が下った。
 これから軍装点検をするという。野戦行きが決定すれば必ず軍装点検が行われる。
 応召兵は戦場に向けての軍装点検を受ける。背嚢を背負い、小銃を手にし、戦闘帽を被り、帯革に銃剣を吊って営庭に整列させられた。それを週番下士官が検
(み)て回る。
 部隊長は随分と歳を食った老少佐であった。
 老少佐に捧ゲ銃
(ささ‐げ‐つつ)をして、各中隊は部隊長を迎えた。
  その後、老少佐は何か訓辞を長々垂れたが、老齢のために何を喋っているか分らないほどだった。編制された将兵自体が、戦うには歳を取り過ぎた老兵集団であった。
 その老兵集団が野戦行きを命じられたのである。
 これまでの歴戦の勇士も、人間的な心情としては、やはり弾の飛んで来ない後方勤務がいいのである。
 老少佐が指揮する野戦行きの部隊は、家族との面会も赦されぬまま、また家族や知人に対しての郵便物の停止されたまま、兵営から一歩も外に出られない状態にされたまま、野戦行きが強行されたのである。
 これからも、こうした強行は日を追うごとに烈しくなって行くことであろう。それが敗戦の昭和20年8月15日まで続くのである。

 この老少佐が指揮する部隊は、出陣式の類
(たぐい)は執り行われず、予定通り野戦へと出発した。出発に当り陸軍礼式による衛兵整列は規定通り行われたが、第三十五師団佐倉歩兵二百二十一聯隊から佐倉の駅舎に行進して向かう途中、進軍ラッパの類は一切吹奏がなかった。気落ちした老兵達の足並みまでもが揃わず歩いていた。
 更には衛門前では、国防婦人会の白襷姿も市民の歓呼の声もなかった。激励の類は一切執り行われなかったのである。駅舎のプラットホームには、特別編成の列車が待ち受け、兵員が乗り込むのを俟っていた。
 将兵が列車に乗り込むと、列車内は「窓を閉めッ!」の車輛長
(階級は曹長)の聲(こえ)がとんだ。

 その聲で、全車輛ブラインドが一切に降ろされた。そのことで車内は騒然となった。
 兵から、謂
(いわ)れのない行動に、どよめきが起こったのである。「何故だ!」という聲が上がった。
 誰もが訝
(おか)しいと思う。
 「訝しいぞ、わしらはいったい何処に運ばれて行くんじゃ?」という疑いが疾った。
 多くは応召兵である。
 これまでに野戦行きは何度か経験している者もいるのである。こう思うのも当然であった。視界を遮られた兵や下士官の不満が漏れた。
 だが断固、外の風景を見るのは禁じられたのである。奇妙な野戦行きであった。訝しいと思うのは、伍長や軍曹の階級を付けている下士官の応召兵へいから洩れはじめたのである。
 この中で一人は聲を荒げて、「弾は何も前からばかりとは限らんぞ。後ろから撃たれることもあるからな。油断するなよ、オレは必ず生きて帰って来て、この作戦を仕組んだやつを後ろから撃ってやる!」と断固言い放った者が居たが、同乗していた二人の憲兵に取り抑えられて、次の駅で引き摺り降ろされ、何処かに連行されて行った。
 車内は静寂になり誰もが沈黙を保った。
 そして応召兵を連行して行った憲兵の背中に向けて「ちくしょう、覚えておれよ」と、日本兵同士が啀
(いが)み合う構図が出来上がりつつあった。
 もう、昭和12、3年当時の厳格たる日本陸軍の面影は微塵
(みじん)も残っていなかった。

 そう言い放った兵に、下士官上がりの准尉が遣って来て「そんなに怒るなよ。これはなァ、スパイの活動を封じるという策なんだ。いま暫く我慢してくれよ。時期が時期だから仕方あるまい。とにかく我慢だ、我慢」といって応召兵を宥
(なだ)めたのである。
 兵は渋々黙った。だが、この兵は「こんなに隔離された環境で、残酷な仕打ちをされながら、このままで激戦地に行けるか」と怒りを露
(あらわ)にしたことであろう。
 大戦末期には、こうした下級兵士が将校以上の、特に佐官級の高級将校を怨む気持ちが高まり、敗戦後、引き揚げて来る日本の港の各地で、もと二等兵、一等兵の下級の兵が、かつての将校を囲んで、殴る蹴るの暴行が港などで見受けられたと言う。負け戦は、また日本人同士を啀
み合わせていたのである。
 このようにして、日本にはこうした米国を中心とする日本人の日本精神を分裂させる工作が既に大戦末期から日本国内でも、また内地に限らず、外地でも敵国の文化破壊工作が着々と行われていたのである。
 負け戦で恥を上塗りすれば、こうして徹底的に本当の地獄が始まり、地獄は、何も敗戦と同時に襲うのではなく、既に内部には敵国の間者が入り込み、上層部から敗戦画策が展開されていたのである。
 日本精神の危機であった。
 戦争は負ければ、根こそぎ破壊されてしまうのである。それは単に、物質的な損害に留まらず、精神的にも悉
(ことごと)く破壊されてしまうのである。


 ─────『タカ』計画の立案者と、教官として参加した兵頭仁介が話していた。
 「友悳さま、自分に何か?」
 「あなたに、お願いしたいことがあります」
 「何で御座いましょう?」
 「津村陽平を野戦に送り出して、死なすのは惜しい漢と思うからです。あなたが蹤
(つ)いて行ってくれませんか。我々は負け戦を戦っています。負けた国の敗戦後は惨めなものです。戦争はしているときよりも、戦争が終わって、敗戦が決まったときからが本当の地獄です」
 「……………」兵頭は深刻な貌をした。
 「どうですか?」鷹司は念を推す。
 「では、自分に何をしろと?……」
 「もう直、候補生の一部は幹部要員として北支へ移動となり、激戦の地に赴くことになります。それに、もう直、死地の赴く平均年齢50歳前後の老兵が野戦行きとなります。いま開墾班に居る連中です。25名の、何の武装も与えられないまま激戦地に送り出されます」
 「……………」
 兵頭仁介は沈痛な顔を深めた。

 「彼ら老兵に与えられる武器や軍装は殆ど皆無です。裸で野戦行きになります。激戦地に行くのに、彼らに与えられる軍靴もありません。地下足袋の配給があればいい方です。何人かは草鞋を履くかも知れません。殆どは、銃の配給もなく、その他の官品配給はありません。鉄帽すら指揮官が被るくらいで、後の者は略帽だけです。帯革も帯剣もありません。
 せいぜい彼らに与えられるのは、二等兵の階級章くらいなものでしょう。軍服は、これまで遣い廻しして来た継ぎ接ぎだらけのものです。ボロを着たまま、小銃は旧式の三八式歩兵銃の3梃だけです」
 「それでは、最初から死ねと言うも同じではありませんか」
 「そうです、弾除けとして選ばれたのです」
 「選ばれ……」
 「それは選ばれたのではなく、老人ばかりを選んだのではありませんか!」
 「だから、あなたが降格されて、表面上は上等兵として付き従い、補佐役として津村陽平に蹤
(つ)いて行って欲しいのです。私が言う、このまま死なすには惜しい漢の意味は、理解出来ましたでしょうか」
 兵頭准尉は友悳が既に心を見抜いていることを察して、一瞬唖然となったのである。そして、あるいは「見込まれた」と思ったのである。友悳の貌には、苦渋が顕われていたからである。
 「分りました」
 「何も訊かずに行ってもらえますか。北支は厳しいところです。気候的にも平均年齢50歳では彼
(か)の地では苦痛でしょう。耐えきれずに、彼の地で死ぬ兵も出るやも知れません。あなたが行って津村陽平を補佐してくれませんか」
 「みなまで言わずともわかっております。大陸で飯場飯を8年ほど喰って来ました。その経験を生かして終戦まで彼らの命を護りましょう。老兵だからこそ、護ってやりたいのです」
 「出発は半月後か、遅くとも六月下旬頃になります。それと、夕鶴隊に擲弾発射機を装着した銃器操作を完成させてやって下さい。夕鶴隊もあと半年以内に敵陣へと降下します。
 そのうえ『タカ』計画は、資金不足で思うように進んでおりません。しかし六月中旬までには、内外を集めて大望の『儀仗式』へと漕
(こ)ぎ着けそうです。また後日、本聯隊に召集される老兵の一人に、室瀬佳奈の祖父の泉蔵がおります。年齢は60歳です」
 「なんですと!……」
 兵頭准尉は60歳の老兵と聴いて仰天した。戦うには歳を取り過ぎていた。組織抵抗するような肉体は退化していた。その老いた肉体も、また身体障害者の病変した肉体までもを軍部は求め、生贄
(いけにえ)にしようとするのであった。それを兵頭は理不尽なと思ったのである。それは怒りでもあった。
 「だからあなたに、隠密裏に彼らと一緒に蹤
(つ)いて行って、行動をともにして貰いたいのです。老兵隊の中に紛れて……」
 これは兵頭仁介への極秘任務の依頼であった。
 「分りました。無事、終戦時には彼らを一兵も損することなく、日本へ連れて帰ってまいります」
 「それと、あなたに重要極秘事項を預かってもらえませんか。『柳田メモ』というものです。柳田奥太郎少将のメモランダムです。このメモランダムに、津村陽平が絡んでいるのです。
 蹤いて行って貰いたいと言うのは、一つはこの理由からです。
 このメモランダムは、敵の手に渡ってはなりません。それは終戦以降であってもです。米国情報部には絶対に渡してはならないものです。この戦争を仕掛けた暗躍者の一切が事細かに記載されています。万一、私が戦犯で裁かれたとしても、この重要極秘に関しては絶対に伏せておいて下さい。これを知るのは私と沢田君の二人のみです。あるいは津村陽平も関連するかも知れません」
 「命の替えても、お預り致します」
 兵頭准尉は、そのうち友悳が死ぬのではないか?……とこのとき直感し、不吉なものを感じた。




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