運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 29

現象人間界の原理原則は体験によって、得た法則に最後の磨きが掛けられる。この最後に磨きを掛けた法則の会得者こそ、またその法則を法則と観じないまま身に付けた人こそ、それは真の苦労人といえる。
 その行き着いた先は「自他不二」の慈愛である。結局そこに辿り着く。自他同根である。


●七度擒えて七度縦す

 津村陽平は陸軍病院へと運ばれた。表面上は瀕死の重傷だった。もう少しで殺されるところだった。
 近代以降の社会を「近代市民社会」と言う。その意味では中世も、市民社会を形成していた。そして現代は勿論のことである。
 故に江戸期には、日本は軍隊は存在しなかったが、この泰平の世の平和ボケ時代を経由して、明治期には富国強兵の名の許に、日本は近代市民社会になるために軍隊を組織した。
 市民社会と定義した場合は、広義には、最小単位の構成員は「一人の市民」である。一市民によって社会を形成する。

 では市民と、ただの人間とはどこが違うのだろう。
 定理は、法律に従って生活をしている人間を「市民」と言う。なかでも、近代市民社会は市民が自分達で制定した法律によって運営する社会構造をもつ。大日本帝国憲法下でも、現憲法下でも、基本的には、法は市民が制定した憲法というタテマエを踏み、これを「法の支配」と言う。
 では何ゆえ、法律が必要なのか。
 市民社会では「もめごと」がつきものである。市民社会が紛争をはじめとする諍
(いさか)いが起こる。そこで近代市民社会では、紛争や諍いが起こった場合、法に照らし合わせて解決する手段を選択した。
 法に遵えば、弱い者でも正しいと主張すれば、その権利は保護される。したがってこの社会では、人員構成は市民と市民の関係は法律で定められている。万一、市民同士に紛争や諍いが起こった場合、最終的には裁判によって決着を図る。法に照らし合わせ、どちらが正しいか判断する場所が裁判所である。

 法に支配が確立された市民社会では、人間と人間の間に何らかに暴力が生じた場合、これは個人は介入してはならない。介入は国家がする。これは不法や不合理な支配関係も、存在してはならない。一人ひとりの市民は人間として国民として尊重されるべきものとされる。貧富の差によって、差別してはならない。
 そのため市民社会では、暴力装置を一ヵ所に集中した。それが国家であり、国家は暴力を物理的においても独占するのである。そして暴力を施行する場合、100%、法に基づいている場合が原則となる。暴力を閣下に集中し、それを法の下でコントロールするのが近代市民社会の大原則である。
 つまり国家とは、市民が集まって市民社会のために意思的決定と実行を行う機関である。それゆえ、国家が市民の自由や権利を暴力で犯してはならない。そうした暴力に歯止めを掛けるために、憲法やその他の諸法律があるのであって、これをもって国家行動をコントロールした。これを法の支配と言う。国家は権力の名で、その暴力を個人に施行・実行してはならない。

 国家を暴力という観点から見ると、そこには二つの機能がある。
 一つは国家が、市民社会内部の社会秩序を守る機能であり、法律を破って他の市民の権利を侵害する市民がいる場合、侵害した市民を逮捕し、拘束して取調べる。そのため市民の安全を守るために必要最低限度の暴力を行使する。この機能を果たすのが警察である。
 あと一つは、国家が外部の勢力に対して市民社会を守る機能で、例えば公海上では海賊の一団に襲われた場合や、日本人居住区で匪賊
(ひぞく)に襲われた場合などであり、徒党を組んで出没し、殺人ならびに掠奪を事とする組織的な盗賊に襲われた場合である。こういう徒党を組み組織化された夜盗が暗躍した場合は、これまで折角築いた市民社会が滅茶苦茶にされてしまう。襲撃における組織的な暴力に懸かれば、警察力では太刀打ち出来ない。そこで平時から養っていた戦争職人としてのプロが必要となる。この準備を普段から行って「百年兵を練る」ことで、市民社会を防衛する機能を有しているのが軍隊である。警察と軍隊は、これほどの違いがある。

 では警察と憲兵はどう違うか。
 憲兵も同じ軍事警察を司りる兵科である。また、その軍人を「憲兵」という。
 旧日本軍では明治14年
(1881)に設置され、陸軍大臣麾下の陸軍省に属し、陸海軍の軍事警察および軍隊に関する行政警察ならびに司法警察をも司った。のち次第に権限を拡大して、思想弾圧など国民生活全体をも監視するようになった。この監視下において尋問の際、拷問が暗黙の了解として罷(まか)り通っていた。

 警察と憲兵。
 一見同じような機能を有するが、警察は司法警察でない。警察は国家権力をもって国民に命令し、強制する作用する行政警察である。主目的は社会秩序の維持である。
 つまり憲兵とは司法権に基づき、犯罪事実を捜査し犯人を逮捕し、証拠を収集することを目的とする国家の作用を有している。この点が、明らかに警察と異なっていることである。

 津村陽平は拷問による烈しい暴行を受けた。官憲の尋問と思考段階での暴行は殺人にまで及ぶことはある。
 『蟹工船』で有名なプロレタリア作家の小林多喜二は官憲の拷問によって虐殺された。無政府主義者の大杉栄は関東大震災の際、憲兵大尉甘粕正彦により、妻伊藤野枝らと共に殺害されている。しかし拷問加害者は、何れも微罰ですんだ。無罪放免に近い形で放免されている。
 更に不思議なのは、大逆事件で、その関係者に死罪ありとする考え方で、26名が大逆罪で起訴、無関係者を含め24名が死刑を宣告された。この事件は、明治天皇暗殺計画の発覚に伴う弾圧事件である。幸徳事件とも言う。
 明治43年
(1910)に一部の社会主義者の天皇暗殺計画を理由に多くの社会主義者ならびに無政府主義者が検挙された事件である。翌一月に、幸徳秋水・宮下太吉・管野スガ・大石誠之助・新村忠雄・奥宮健之ら12名が処刑されている。幸徳秋水は中江兆民に師事し、万朝報の記者として日露戦争に反対した。また幸徳秋水は『平民社』を起こしたことでも知られる。
 大逆事件の時、平沼騏一郎は大審院次席検事であった。
 この事件は異例の速さで公判ならびに刑執行がはかられた。平沼は論告求刑で「動機は信念なり」とした。そして司法官僚の平沼は、大逆事件を踏み台にして大審院検事局検事総長、第35代内閣総理大臣への道を歩くことになる。

 しかし、思想犯と言う思想上の考えが、治安維持法に触れたとする犯罪は社会に対する全体的な秩序に大影響を与えたとも思えず、果たしてこれが「死に価する罪」であるか実に不可解なことである。あるいは官憲の見せしめのための、単に犯罪予防の措置であろうか。
 人の思考とか趣味とか、あるいは思想とかは年齢を経ることにより変化するものである。その変化段階をもって治安維持に触れたと確信することも、また不可解であり、これを死をもって罰するというのも何処が釈然としないものがある。殺人などのように被害者やその家族の遺恨の念が、そこには無いからである。恨み骨髄という心の蟠
(わだかま)りがなく、ただ漠然とした治安維持に触れたというだけで、死刑とは、これ如何にとなる。


 ─────津村陽平はこれまでの経緯を考えていた。それを反芻
(はんすう)していた。なぜ拷問される羽目になったのかと。
 自らの足で聯隊に行った。そこで令状なしでは通さぬと衛兵が言った。それで踵を返した。木陰で暫く休んだ。そこへ警官が来た。
 木陰で休んでいる津村の姿を、警官は「戦時だぞ、戦時!……。この非国民め!」と咎
(とが)めた。咎めるだけでなく、派出所へと連行された。それは挙動不審者だったからだろうか。
 単に身形
(みなり)が見窄(みすぼ)らしく、小人(こびと)然として背が低かったためであろうか。
 警官の推測では、何処かの見世物小屋からでも逃げ出したのではないか、程度だった。これだけで留置所に拘置された。後に理不尽の遭遇する。

 警官は名前、住所、生年月日、職業を言えと立板に水……のように訊く。矢継ぎ早に訊かれても、切り返して答える気がしなくなった。そして、これが今後の元凶となった。収監される羽目になった。警官は職務権限において質問をしたのであろうか、津村は余りの理不尽に答える気持ちを失っていた。以後、黙秘する。「完全黙秘」する……と。これが情熱的信念となってしまった。威信に掛けた細やかな抵抗だったのか……。
 言いたくないこと、答えたくないことは、黙秘権を遣ってもいいと法治国家のルールになっている。
 答えなかった。それで「監置零号」として扱われた。黙秘権を遣ったからである。
 黙秘権は、しかし官憲を逆撫でをした。

 普通、行政警察が被疑者や容疑者を逮捕し、人定質問
【註】氏名・本籍・住居・職業・生年月日などを尋ねること)を最初にするのであるが、これに黙秘権を遣った場合、その取調官は質問して口を開かせなかったことに無能呼ばわりされ、上司から大変な叱責を喰らう。そこで何が何んでもとなって、遂には黙秘権を使えなくしてしまう心理戦を企てるのである。これは暴力以外の心理拷問である。したがって、黙秘権は有名無実の存在となる。
 そんなものは最初からないのである。法律用語のみ存在するのである。黙秘権を自ら執行しようとして、これを最後まで遣い通した者は殆ど皆無と言ってよかった。必ず落されてしまう。口を割るのが取調べおいての尋問技術である。
 その技術をもってしても、津村陽平は落ちなかったのである。口を割らせることが出来なかった。

 次に派出所長である巡査部長の大橋から問われた。しかし答えなかった。それで津村は一方的な暴力で張り倒され、蹴られ、貌まで踏み潰された。顔面、血だらけになった。それでも答えない。何度も貌を蹴られ、踏み潰され歪
(いびつ)に変形した。
 だが貝が口を閉ざしたように頑
(かたくな)に答えない。それだけの理由で此処まで発展してしまった。警官が面子にこだわったのだろうか。そして監置零号となった。
 その挙げ句が、陸軍刑務所に送られることになった。ここでは最前線に出す「ならず者部隊」の編成が急がれていた。弾除けの混成部隊である。敵弾に当たることを使命とする部隊であった。
 その要員に組み込まれようとしていた。
 しかし看守は、点呼にも正坐せず、口も閉ざしたまま、何も言わないという監置零号に興味を抱いた。こういう人間を、尋問者は是非口を割らせてやりたいという欲望と執念を持っている。自分の問うたことには、素直に何でも答えて欲しいという権力の横暴がある。看守はその欲望に駆られた。
 そこで、“半殺しの拷問実験に遣ってやる”となった。躰に電流を流して、これまでの一切を自白させてやるとなった。自白強要の拷問術である。

 津村陽平を革手錠で椅子に縛り付けて、両方の小指の爪の中に5寸大の畳針を無理矢理に差し込まれた。そして電流の導通である。一気に巨大な電流を流されたために感電した。全身烈しい痙攣を起こし、遂に急激な衝撃で気を失ってしまった。関節の節々には感電の跡が出ていた。それだけ強烈な大容量が流された。
 拷問者は、一旦電源を落し、水を掛け、竹刀で叩きまくる。肌が裂
(さけ)け、至る所が破れて血が噴き出していた。津村は肉片のように転がっていた。腕や脚の関節部には感電跡が顕われ、破れていた。
 そのうえに拷問者は「気合いが足りん。簡単に気を失うな!」と喚き、更に水を掛ける方と、竹刀で叩くのと交互にやる。水を掛け、次に肌が破れるまで叩く。徹底的に叩く。拷問は極度に達した。
 「起きんぞ」
 「少しばかり強過ぎたか」
 「拙
(まず)いですなァ」となった。
 その後、軍医が来て看守職三人とは一蓮托生の仲間であることが分った。

 更に、この四人が、津村の女房を強姦し、言語に絶する淫らな悪戯をし、その女房を崖の下に投げ捨てたと猥談的に吐露したのを聴いたのである。首謀者は隣村の山田郷の貧乏百姓の次男坊で、現在看守長で憲兵曹長の川原という漢だった。
 一蓮托生の仲間の四人が猥談混じりに話しているのを確かに聴いたのである。この四人は神をも恐れぬ人間だった。猟奇の世界に生きていた。猟奇の世界に性の悦楽を求めていた。そこに執念を燃やす人間だった。四人の猥談混じりに告白する話の内容から、これを津村は聴いたのである。
 その内容は、近年犯罪心理学での主力になりつつある『犯罪環境論』を覆す内容だった。
 犯罪は劣悪な環境から起こる。犯罪の起こる確率からいえば確かにそうに違いない。
 ところが、これは今日の物質的な豊かさにあっても、必ず貧困とか教育の不備から犯罪が起こっているとは限らない。それ以外からも起こっている。これは必ずしも環境には結びつかない。
 だが、此処にいる四人は決して劣悪な環境の中にいるのではない。軍医は医師であるし、憲兵三人は司法の捜査及び執行者である。逮捕権まで持つ。
 なぜ、こうした貧困なる環境とは異なる人間が強姦殺人を起こすのか……、それを津村はおかしいと思うのであった。

 妻は何故、強姦され、辱
(はずかし)めを受け、殺されなければならなかったのか。
 単に不運だったのか。美貌が不運を招いたのか。あるいは盲だったから、それに付け込んで犯しても、貌を知られないという理由から強姦されたのか。
 これを津村は、「血」に絡む何かがあると検
(み)た。
 人間は時として、先祖の黒い血を受け継いで生まれて来ることがある。それが猟奇趣味に疾る。表面は善人だが、中身に猟奇の陰性因子を抱えている。この陰性因子が時として陽性に代わり、頭を擡
(もた)げることがある。その結果、犯行に及んだのだろうか?……と思うのである。
 赦し難いことだが、しかし、ではどうするか?……となる。
 犯罪は犯行の恐ろしさを分らせ、矯正し、教育し、ある程度は修正できよう。しかし、黒い血は修正できるのか。果たして矯正できるのか。


 ─────彼は陸軍病院の寝台にボロ屑
(くず)のように横たわったまま、詩を口遊(ずさ)んでいた。気の向くままであった。
 済んだことは忘れる主義の人間だったかも知れない。しかし決して底抜けの楽天家であった訳でない。
 一応、注意深く考える思慮はあったし、暴行を受けたことへの恨みはあった。それを超越して、今は詩を口遊んでいた。津村陽平はこの詩が好きだった。

 朋(とも)よ、大和の朋よ。
 よく聴きなさい、風の囁きを、
 耳を澄まして、小さな吐息を聴くように。
 あなたの本質は善からなる空なるもの。
 色も形も無い、そして物質でもない。
 よく聴きなさい、朋よ。
 あなたの意識は無限の広がりをもって永遠に繋がっている。
 それは輝く光に繋がっている。
 色を、形を持たない意識を、あなたの心として認識しているように。

 朋よ、大和の朋よ、よく聴きなさい。
 慈愛に溢れた人格を、その神の人格を、あなたが自らの背中に背負っている。
 七度擒
(とら)えて七度縦(はな)す。
 大和の朋よ。よく聴きなさい。
 過ちは寛大に赦そう。
 あたたの背負った神に免じて、赦そうじゃないか。
 生きることも死ぬことも、寛大に赦して、
 欲張らずに、神に一歩だけ近付こう。
 朋よ、大和の朋よ。
 七度捕えて赦そう。そして一歩、神に近付こう。

 そして、津村は好きな名言が、もう一つあった。
 「神の前に、神と共に、神なしに生きる」という神学者のディトリッヒ・ボンヘッファーの無神論者のような名言である。

 小説『三国志演義』には、諸葛孔明が率いる蜀軍が瘴気
しょうき/熱病を起こさせる山川の悪気)に冒されながらも辛苦の行軍を遣って退け、禿竜洞(ちょくりゅうどう)に猛獲を打ったときのことが描かれている。
 このとき孔明の主力部隊は、馬忠軍と李恢
(りかく)軍と合流して猛獲の本拠地を叩く手筈になっていた。そのとき孔明は計画通り「敵将猛獲をを生け捕りにせよ」と命を下した。
 部下は捕らえた猛獲を、孔明の前に引っ立てた。そして猛獲に、蜀軍の陣形をみせてやり問い掛けた。
 「この陣立てを、どう思うか」と孔明は猛獲に問うた。
 猛獲答えて曰く「今しがたの戦いでは、欠点が何処にあるが分らなかった。斯くして負けた。だが、こうして陣立てを見せてもらったが、成る程、この程度なら勝つのは容易
(たやすい)い」と猛獲が豪語した。
 すると孔明は「よし、ではこの者を放してやれ」と命じて放した。放ったのは、これが一回目だった。
 孔明は笑って猛獲を帰らせたのである。その後、猛獲は再び募兵して孔明に戦いを挑んだ。しかし、また捕らえられてしまった。

 これも孔明は猛獲を生け捕っては、蜀軍の陣形を披露した。そして解き放つ。この、捕らえて解き放つことを七度行ったのである。
 猛獲も七度挑むが、安易に生け捕られるばかりではなかった。それなりの策を立て、智慧を搾って攻め入るのである。何度か、蜀軍をあわやというところまで追い込みながら、しかし最後は敗れてしまったのである。
 そして、七回目である。このときも、際どいところまで蜀軍を攻め立て、勇戦ぶりをみせたが、やはり猛獲は生け捕られてしまった。
 だが、今度ばかりは孔明の許
(もと)を離れようとしなかった。解き放たれたが、去ろうとしなかった。

 そして猛獲は言う。
 「あなたは、生まれつきの神のような鬼才を持つ方です。南人は二度と背くようなことをしますまい」
 猛獲は「公は天威なり」と尊敬の言を述べ、南蛮の王として之を言わしめ、孔明はこの有名な「七擒七縦
(ななきん‐ななしょう)」の法によって南蛮の諸族を心服させることが出来たのである。
 そこに「小能
(よ)く大を制す」の妙があった。命を奪わずに動きだけを制した。
 ちなみに「柔よく剛を制す」は、何も明治以降に始まった柔道の専売特許でない。そもそも、「柔」という言葉は、道教に由来する教えであり、老荘の哲学に出て来る道教思想である。
 この言葉を諸葛孔明は知っていたに違いない。


 ─────後日、津村陽平が殺されかけたことを『タカ』計画のメンバーは、初めて知った。知ってびっくり仰天した。
 だが津村は、誰が遣ったか、決して明かさなかった。問われても答えなかった。自分で明かさなくとも、この智慧者のメンバーなら、犯人は簡単に捕まえてしまうだろう。それは時間の問題だった。
 夕鶴隊の主任教官はアン・スミス・サトウ少佐だった。
 アンは津村を必要とした。何か奥義のようなこと知っていると思った。
 思うに、津村陽平の猫のような身のこなし。素早い身の動き。的確な洞察と鋭い見識。そして胆識から発する豪胆な態度。これを、是非必要だと言う。この術を、夕鶴隊に必要だという。敵地での山岳戦などをそう呈しているのだろうか。

 数日後、初年兵教育を任されていた特務班に、新兵が送られて来た。みな特別応召である。
 班長は鮫島良雄軍曹であり、その副官が橋爪太一等兵であった。この橋爪が三竦みの関係を構築して、中々よく役立つのである。元官憲という横柄オヤジには異様な効力を発揮した。
 集められたのは合計7名であった。どう考えても初年兵とは言い難かった。「弾除け要員」である。精鋭の消耗を惜しんで「弾除け要員」を召集したのである。しかし、この「弾除け要員」が、これまでとは少し違っているのである。橋爪太一等兵の勘で、元官憲と感じたのである。橋爪は元官憲に異様な虐待の執念を燃やすアノミー漢だった。
 一人は五十半ばの兵役には耐えられそうにも無いオヤジと、その他2名に、他の集団は近頃まで、楽な兵科の軍歴であったと思える五十オヤジに三十漢、更に2名は、ほぼ同年に近い漢であった。そして、この7名は初年兵でありながら、些か態度が太かった。こういうのを橋爪は、とことん憎く思った。このオヤジ、こういうのを見ると、直ぐに切れる。その、切れることを正義と思い込んでいる奇妙な誤認識を、人間形成の中で刷り込み、それが異様な信念になっていた。心理戦に奇異振りを発揮した。

 「聴け!自分は橋爪一等兵である!お前らを一人前に鍛え上げ、十字砲火の最前線に送り出す。これが本官の任務である!」
 わざわざ「十字砲火の最前線」という言葉を使って、また脅すのである。
 自らを侠気と思い込み、すっかり将校気取りで吼
(ほ)えて、何とも勇ましいことをいう。これが、このオヤジのトレードマークだった。更にこのオヤジ、鮫島軍曹からブローニングを預かっている。それに「言うことを聞かぬやつは射殺してもかまん」という、お墨付きまで貰っている。
 しかし、この漢にも秩序はある。
 決して見境が無いという訳でない。一番嫌いなのが官憲であった。それに無連帯からなるアノミー現象が加わる。その先、どう転ずるか想像に難くない。それも、上官と部下の関係においてのアノミー現象だったら、どうなるか。併せて、立場の逆転である。これまで虐げられていた者は急に強くなる。立場が逆転する。

 「貴様らの中で警官、前へ出ろ!」と震撼させるほどの怒声で吼える。
 しかし誰も出ない。出れば、橋爪の形相から半殺しの目に遭うことは分っているからだ。それは、これまで自分らが遣ってきたことの裏返しだったからである。
 このオヤジは、単純アノミーに陥っていた。異様性や兇暴性が姿を顕した。抑えられない。それにこの人間関係に三竦み現象が発生していた。行くところまで行くだろう。

 橋爪は一人の漢の前に立った。そして顳
(こめ)かみに拳銃の銃口を突き付けた。
 「脅しではないぞ!」
 「自分は警官ではありません」漢は震えていた。
 橋爪のような漢は直ぐに引金を引くことを、これまでの経験から知っているからである。
 「貴様、何だった?」
 「け……、憲兵であります……」
 「それで悪事働いて、降格されて、此処に来たということか」オヤジはニヤリを嗤
(わら)った。悪魔の微笑みのように。
 「……………」
 「名前、何と言う?」
 「川原であります」
 「好きだぜ、元憲兵の川原さんよ……」すっかりワルの捨てが身に付いて、脅しの台詞を吐く。
 「……………」
 「本官は元憲兵が好きなんだ。もしかすると、貴様の趣味と一致しているかも知れんなァ……、あとで確
(しっか)り楽しもうぜ」オヤジは下品になっていた。
 集められた7名は、橋爪の趣味の下品さを思っただけで震えた。それは今までの自分の悪行の数々の裏替えしを思ったからである。つい先ほどまで、橋爪的立場の加害者であったからだ。
 人間は、立場が変われば、どんな残酷も遣って退けることを知っていた。それが、いま立場の逆転になって自分に及ぼうとしているのである。
 それを悪夢と思った。

 悪夢は立場の逆転で、人間現象界では幾らでも転がっているからである。それは実に皮肉だった。これは権力の座から滑り落ちた猿にしか分らないことであった。権力を握った猿は、一旦権力の座から滑り落ちれば、猿以下の生き物にされる。人間界の縮図が此処にもあった。それが権力との「立場の逆転」である。
 この逆転を企んで、闇に暗躍する黒子集団がある。だが何処の誰か分らず、闇の中に溶ける集団である。
 そしてこの集団は、時として『要視察人』の切り札を遣い、神出鬼没である。
 鬼神のように忽
(たちま)ち現れたり、隠れたりして、所在は不明である。出没の変幻自在な術を遣うことである。
 こうして掻き集められた7人も、『要視察人』に猟られたのであろう。

 人間界に生息する生き物は、みな不憫
(ふびん)であった。人生の争奪戦に勝利し、先んじて人を制し、相思相愛のよき伴侶に巡り会い、人の羨(うらや)む豪邸に棲み、社会的にもある程度の地位に付き、見るからに幸せそうで、それなりに成功し、金を掴んだ人間でも、それなりの不憫は抱えているものである。
 人生則ち「プラス・マイナス=ゼロ」なのである。ゼロで総て帳尻が合っている。ただ異なるのは、経験や体験の現実の地獄譚を経由したか否かに懸かるのである。
 したがって、苦労人は苦労人なりに、また楽天家は楽天家なりに、利益者は利益者なりに、損得なしに、最後にはぴたりと帳尻が合っているのである。
 天網恢々疎にして漏らさず……。死の土壇場には、そこに「帳尻合わせ」が起こる。


 ─────津村陽平が突然、陸軍病院から姿を消した。それで騒然となった。捜索しなければならない。
 『タカ』計画準備委員会・指導会議の指導層が緊急会議を開いた。七人の上位メンバーである。それに赤城赤嶺神社の神主・林昭三郎の爺さまが加わっていた。『ホテル笹山』で、午後9時である。

 「近頃、どうも蜈蚣
(むかで)が騒がしい。風雲急を告げている……」と爺さまが言う。
 急げという意味だろう。
 「爺さん、具体的に言えよ」と沢田。
 「神託は暗号と同じ。審神者
(さにわ)に任す……。どうじゃ、審神者」
 爺さまは審神者のキャサリン・スミス少尉を指名した。
 「天津金木
(あまつ‐かなぎ)の置座(おきぐら)は『北』と出ました」
 「それは、北海道方面ということなのだろうか」と陸軍参謀本部少佐の来栖恒雄が訊いた。
 「いや、違う。この国、つまり、神国日本から検
(み)た北は、単に東西南北から判断した北ではないぞ。
 天から見た北は東西が裏返しになり、しかし北は、北斗七星が同じ方向を指して変わらぬ如く、その北は変わらぬ。やつは北に去った……」
 「どういうことです?」アン教官。
 「北に居ると申しておる」
 「では、具体的にどこですか」
 「こやつ、探すのが、ちょいと難しぞ。骨が折れる、何しろ神出鬼没。その昔、拙者は津村十朗左衛門と、その息子に遭
(あ)ったことがある」
 「どこでだ?」と沢田次郎。
 「そもそも、こやつは粗末に扱ってはならぬ人間だった」
 「分っとる。訊いているのは何処でだ?ということだ」と沢田。
 「ちと嶮
(けわ)しいぞ」
 「だから、何処だ!」
 「拙者の持参した蜈蚣は、赤城山南山麓の神の遣い。それが何かを騒いで報せている。赤城山の神が、北と言っておる!」
 「よし、分った」
 「分ったと言うが、ちょいと難儀だぞ。それに少しばかり、記紀神話の謎解きもな……」
 爺さまの言った『記紀』とは、古事記と日本書紀とを併せた略称で、こう呼ぶ。
 「まさか××岳というのではあるまいな」
 「そのまさかだったら、どうする?」と爺さまは下眼遣いで言う。
 「そうなのか?」と沢田。
 「神託は北と出た。蜈蚣が方向を示した。それにだ、やつはただの人間でないぞ」
 「どういう意味だ?」
 「仙人の修行を積んでいる。あやつ親父の津村十朗左衛門の直伝を受けている……、神出鬼没だ」
 「探しに行きます」アン教官。
 「見つからんかも知れんぞ」
 「では、その昔……、その親子に出会ったのは何処ですか」
 「××中腹。此処に拙者ら古神道集団、総勢25名が錬成会に参加していて、悪天候で山中で遭難した。それで津村親子に危ういところを扶
(たす)けて貰った。それ以来、借りを作ったままじゃ。拙者はもう直、十朗左衛門と地獄で会うが、おぬしらは、まだ死ぬ歳でもあるまい……」
 「探しに行きます」とアン。
 「死ぬぞ」
 「死ねば、それまでです。併せて、よりよい負け方をする日本も世界地図から消えましょう」
 「おぬし、女だてらに怕いこと言うなァ」
 「野外訓練のつもりで、夕鶴隊全員でお迎えに参ります」
 「うン……、それも悪くなかろう。ところで、津村親子の泣き所、知っておるか?」
 「なんです?」
 「あの親子、絵に溺れることじゃ……」
 「分りました」
 「おぬしらが、重そうな乳房かかえて、迎えに行けば、もしかすると、その気になるかも知れんな……、絵じゃ。さて、拙者は疲れた。何しろ生
(お)い先短いからのう。
 これで、今日はお暇する……。ここまで智慧を授けた、あとはおぬしらで解決しろ」
 そう言って、爺さまは床へと去った。その去り際、独り言のように「こうなる前に、あの価値がなんで解らなんだ……、釣り損ねた魚は大きいと言うであろうか……」と半分嗤い、半分吐露しつつ去って行った。

 「どうします、鷹司さん。計画の首領はあなただ」と沢田。
 「あと一日で、六月です。もう直、雨期です。その前に解決して下さい。ところで、サトウ少佐、何処まで出来上がっていますか」と来栖。
 「九九式短小銃で、あとは百式短機関銃ならびに九二式重機関銃をはじめとする銃器の射撃と操作です」
 「完全武装で夕鶴隊を山岳訓練してみますか、われわれには余り時間がありません」と鷹司。
 「しかし、完全武装となると、これは重装備ですぞ。約25kgから30kgはありますぞ、女では……」と言い掛かって、反論的に兵頭准尉。
 「これから任地は大陸奥地への侵入です。ここで挫折するようでは、この計画自体が根底から崩れます」
 「では、どう言う作戦を立てますか」と鷹司。
 「まず、空からです」
 「降下回数は?」
 「一度もありません。しかし明日から三日後に、降下出来るように解決します」
 鷹司友悳はこれに対して「無謀とか」「大丈夫ですか」と訊かなかった。訊いても仕方がない。大丈夫でなければ、そこでこの作戦は総て挫折する。蛇足的な発言は控えた。
 「沢田君はどう思います?」
 「賭けるしかないでしょう、サトウ少佐を信じて」
 「来栖君は?」
 「第一段階の、その程度の関門を通過出来ないようでは、その先には、浮かぶ瀬もありません。これに命を賭けるべきでしょう」
 「では、決定しましょう。教官並びに助勤
(助教)は明日から夕鶴隊中心に強化訓練をして下さい」
 「日程は?」とアン。
 「夕鶴隊の実戦訓練開始日は、三日後の6月×日とします。併せて、計画は各部署で同時進行します」
 緊急会議は終了した。強硬突破の構えであった。


 ─────アンはキャサリンの他に、良子と佳奈を呼んだ。更待月のいい月の出た晩に、津村陽平宅を訪ねたメンバーを揃えたのである。
 「三日後、津村伍長を探しに行きます」とアン。
 「探しに行くって言っても、あの方、陸軍病院に入院していたのでは?」と良子。
 津村は兵務局で古い軍席簿は発見され、大正13年入営し、昭和元年までの二年間、兵役をしていた痕跡はだ出てきた。当時は兵長の階級がなかった。
 したがって応召の兵役期間は、先任上等兵は伍長助勤であるから、階級は伍長でありこの度の「召集令状」を持参して捜索に出掛けるのである。
 「忽然と消えました」とアン。
 「消えたって?」と良子。
 「それが消えたんです」
 「捜索に出か掛けます、赤城山に……」とキャサリンが答えた。《どこに?》と訊かれる前に答えた。
 「そこで、探す方法です。それに意見を求めたいのです、あなた達の観察眼で」とアン。
 「状況判断ですか」と良子。
 「あの方の性格を分析して、何処にいるかを」とアン。
 「室瀬さん、どうでしょう?」
 「えッ?……、変なおじさんの分析ですか、とにかく変でした。遠慮知らずというか、無礼というか、見ていて唖然としました。それから考えると、とても変な場所に居るのではないでしょうか」と佳奈。
 「見たままの素直な考えですね。その、あなたが唖然とした気持ちで、さて、あの方の居る場所と言ったら何処でしょ、想像してみて下さい」とアン。
 「わたし、最初このおじさん、頭が変なのかしらと思いました。変な人が考え付くとしたら、結局、常識では考えられないようなところにいるのではないでしょうか、常人では考え付かないようなところに」と佳奈。
 「例えば?」とキャサリン。
 「例えばですね、屋内に居るとしても、天井とか、床下とか。そして屋外としたら、木の上とか……」
 「おもしろい発想ですね」とアン。
 「わたしは、冬山では、兄から雪洞を掘ると聞きました。そこは寒い外気を遮断して、露営
(ビバーク)には持って来いですって。しかし、今は夏時間。雪はありません、そこで洞窟などではと?……」と良子。

 「確かにあの方だったら、木の上に居るかも知れないし、洞窟の中かも知れません。しかし限られた時間で一つ一つ探すのは大変です。そこで、わたし、いつも林のお爺ちゃんといるでしょ。何となく、お爺ちゃんの考え方と似ているのではないかと思うのです。同じ考え方で想像を巡らせば、何かその中に答があるのではと思うの。それでねェ、別れ際にお爺ちゃん変なこと言ったでしょ、覚えている?」とキャサリンが促した。
 「確か、重そうな乳房、抱えて迎えに行けば、もしかすると、その気になるかも知れんな……でしょ。変な言い方かも知れないけど、何か気になる……。どう思います、鷹司さん?」とアン。
 「兄ったら、それも子供の時の話ですけど、ドラクロアの『民衆を導く自由の女神』ってありますよね。
 あの絵を見て、女神は人間なのだろか、それとも本当の神だろうかって……。
 もし人間だとして、胸丸出しで、能
(よ)く、ブラブラさせて走れるなァ……なんで変なこと言うんです。片方の乳房を出して、素足で、死体の上を走ったり……。だから、あれはきっと神なんだと……。
 そのときは子供でしたから深く考えませんでしたが、今はその意味、何となく分ります」
 「それで、お爺ちゃん、あんあな変なこと言ったのですね」とキャサリン。
 「どう、変なの?」とアン。
 「いっそのこと、遭難でもしてみますか」とキャサリン。
 「えッ?……遭難!」と良子が驚いた。
 既に、発想が切り替わっているのである。高度な話術のテクニックだった。被術者は、切り替えて蹤
(つ)いて行かねば置き去りにされる。

 「ということは、つまり、向こうの方から出て来るかも知れないわねェ。女ばかりが山の中で22人も遭難すれば、もしかすると、もしかするかも知れませんねェ。それに、お爺ちゃん言ったでしょ、神道集団総勢25名が錬成会に参加していて、山中で遭難したとき、扶
(たす)けてもらったと。もしかすると、もしかするかも……」とアン。
 「いっそのこと、遭難しに行きましょ。遭難したら捨て置けない筈です」とキャサリン。
 「でも、遭難と言う言葉、まずいので、天の磐戸、つまり『天の岩屋戸作戦』とでも名付けましょうか」
 「天の岩屋戸作戦ですか?……」と佳奈。意味が分からずにいた。

 「鷹司さん。天の岩屋戸の話を説明して上げて下さい」
 「えッえッ?……、それはですね、神話にある天照大御神
(あまてらす‐おおみかみ)が素戔嗚尊(すさのお‐の‐みこと)の暴状を怒り、天の岩屋に籠もったため、天地が常闇とこやみとなった。群神が相談して種々の物を飾り、天児屋根命(あまのこやね‐の‐みこと)が祝詞を奏し天鈿女命(あまのうずめ‐の‐みこと)が舞ったところ、大神が出てきて、世が再び明るくなった。
 北半球で冬至に太陽の力が弱まり復活する型の神話で、『古事記』にある『是に天照大御神見畏みて、天の岩屋戸を開きてさしこもり坐
(ま)しき』の一節にちなんだものと……」
 「よく分りました。つまり遭難したら、あの変なおじさんが扉を自分から開けて扶
(たす)けに出て来るのですね。こちらから探さずに、向こうから、わざわざ出て来て、捜索の扉を開けてくれるから、つまり『天の岩屋戸作戦』ですね」と機転を利かして、佳奈。
 「でも、実際に行って遭難しないと出てきてくれません」とキャサリン。
 しかし奇蹟に期待しなければ、無事出遭え、連れて帰って来るという可能性は極めて低かった。低いが、無謀だとは微塵も思っていない。

 奇蹟が起これば、小でも大を制することが出来る。小兵をもって大敵に勝つ。
 世界の戦史を調べてみると、どんな無謀な戦争でも負けると決まってはいない。勝つ筈の無い戦いに勝つ場合がある。では、どういう場合か。
 奇蹟が起こった場合である。
 先の大戦の戦史を振り替えれば、今日ではあの戦い、つまり大東亜戦争を“暴虎馮河の愚”と位置づけ、それを米国との物量の差で比較し、それが今や定説となっている。比較分析においても、先の大戦の主戦論強硬派の日本陸軍であっても、日米の国力比を1対20、あるいは1対25に置き、更にこれに超大国の英国が加われば、そこ比は1対30以上と分析している。どう考えても無謀としか言いようがない。
 しかし、無謀といわれる国力比でも、その勝敗の行方は確実に分っていることは何もない。
 斯くして、『天の岩屋戸作戦』が始まった。目的地降下まであと3日……。


 ─────そもそも、昭和の戦略家であった石原莞爾ですら、「日露戦争は負ける戦争であった」と言い、この重要発言に、当時耳を貸す日本人はいなかった。日清・日露の戦いの連戦連勝の夢に酔い痴れた日本国民は耳を貸そうとしなかった。つまり、勝った日露戦争の「敗因」に付いて研究していれば、先の大戦、則ち大東亜戦争には、負けることはなかったであろう。
 更に言及すれば、軍隊官僚の夜郎自大ならびに、陸軍参謀本部の悪い習慣であった「下克上」である。
 陸軍参謀本部では、課員にしても課長にしても、上司を一つ超えて敵対者が部長であっても自分の意見を述べてよいことが悪しき習慣が蔓延
(はびこ)っていた。つまり、昭和陸軍の中には、佐官級の高級将校の発言力が増していたのである。下克上的発言が強硬さを増し、これが下克上としての弊風となっていた。上司の戦闘思想は佐官の若手に抑えられた。

 例えば、佐官級の参謀肩章を付けた若手が、中央部の幕僚を電話で呼び出し、盛んに主戦論を煽るなどの独断専行型の横行である。この当時の陸軍は積極論が極端に突出したため、組織は上意下達が大いに乱れたのである。
 したがって、石原莞爾のような中国戦線の不拡大方針者が現役から葬り去られるという現象である。軍隊官僚の悪しき弊害が起こり始めていたのである。そして、これが昭和13年頃から始まり敗戦の昭和20年頃まで続くのである。
 陸軍内部は主戦論積極論派の強硬論者によって、統制が大いに乱れていたのである。
 これが濃厚になりはじめたのが、昭和13年頃からあり、この年には、総動員法案が議会に提出され、委員会では陸軍省軍務課員の佐藤賢了
(けんりょう)中佐が説明に当たっていたが、野党の野次に対して、佐藤課員は「黙れ!」と叫び、国会は大混乱となった。
 この事件は陸軍の横暴を国民に印象づけることになり、同時に佐藤賢了は、時に有名人となって、日本は中国戦線の泥沼の中に引き込まれて行くのである。それも、裏でナチス独逸が仕掛けているとも知らずに……。

 また、主戦論積極論派は、ナチス独逸と結びついた。裏でそうなっていた。一派は、早くからその情報を知っていて、影では利敵行為を働く悪辣なる国際主義者も居たようだ。そして不可解のは、戦後生き残り、日本の政財界に大きな影響を与えた。大戦当時、参謀肩章をつけていた連中である。
 独逸はこれらの強硬論者を利用して、日本の評判を下落させる策に出て、これを早くより軍事顧問団の中に注入して乱波を放った。彼らを中国に派遣して、日本に敵対心を植え付け、「反日運動」を煽り、心理戦を指導しつつ、国民党軍に長期に亘って軍事援助を行い日本を陥れる策を弄していた。こうして、これまでの中国軍とは打って変わって、急に強くなった。そして独逸が、中国の国防充実に対して手を貸し、暗躍していることに日本陸軍は全く無知であった。

 その根拠は昭和7年
(1932)1月28日に第一次上海事変が勃発した。裏では独逸軍事顧問団が日本との戦いを中華民国軍に指導していた。そしてこの戦い後半には、中華民国軍が独逸ヴェッツェル中将の顧問団が指導してた第87師団と第88師団を投入して来た。
 間接的には独逸軍が日本軍との戦いに関与していた。この構図は日本対独逸の「日独戦争」であった。
 またヴェッツェル中将は軍事に関する戦術だけを指導したが、後のゼークト大将とファルケンハウゼン中将は直接、戦争指導まで関わっていた。然も戦争目的は、「対日敵視政策」と「対日強硬策」を掲げてである。
 そして中華民国軍指導に当り、ゼークト大将とファルケンハウゼン中将らに主旨はこうであった。

 「日本軍に対し、中国軍が強くなるには優秀な武器が必要であろうし、優れた航空機も必要であろう。
 だが独逸国軍における国防軍として仮定し、部隊を編制するならば、まず中国軍は国防軍の動かし方から経験しなければならない。いま最も急務なのは、中国人の一人ひとりに、日本国と日本人に対して、徹底した敵愾心
(てきがいしん)を植え付けることだ」と豪語して、中国人船隊に反日感情を煽った。
 これが「日本敵視政策」となって、反日感情が増して行くのである。巧妙な策に、日本人には予想もしない心理戦であった。この構図は、軍師として独逸軍が智慧を貸し、その実践者が中国軍だった。

 昭和10年
(1937)1月、ファルケンハウゼン中将は、『中国国防基本方針』と題する対日戦略意見書を蒋介石の提出した。
 この内容は「日本が攻撃したとしても、日本は極東に戦略的歩地を求めるソ連に備えねばならず、更には中国に関心を持っている米英とも対立することになり、対立すれば米英とは犬猿の仲になり、こうなるともはや日本は財政的に逼迫をせずを得られない。日本は財政的に、全世界を相手に国際戦争には耐えられない」というもので、ゆえに中国は日本との戦争を長期化すれば、この間に出来るだけ多くの諸外国を介入させればいいと分析した。この主旨に基づいて、日本の孤立ならびに日本の崩壊へと導いたのである。これは壮大なナチス独逸の日本破壊戦略であった。但し、表面上は日独防共協定と軍事同盟の、同盟国のポーズであった。独逸のこのポーズを昭和10年以降、陸軍参謀本部と海軍軍令部では全く分析していなかったのである。

 この主旨に基づいて、盧溝橋事件に関連して、上海で生じた日中両軍の戦闘は、第二次上海事変として昭和12年
(1937)8月13日に始まり、日中戦争として全面戦争へと発展して行く。中国戦線の泥沼化である。
 この泥沼に、日本軍は無慙
(むざん)に溺れることになるのである。

 また海軍では水交社人脈ルートによって、真珠湾奇襲以来、航空機のよる立体戦争の手の裡
(うち)を早々と米英に披露し、国際連合軍の勝利に側面から手を貸した痕跡があった。
 真珠湾奇襲作戦は、戦争の時代変化が立体戦争に突入したことを報せていたのである。
 緒戦の華々しさに較べ、昭和17年のミッドウェー作戦の敗北は、手の裡を早々と種明しで、苦戦したことを何よりも雄弁に物語っていた。敗戦国日本の運命は、このときに決定した。
 あとは局地戦で、些かの勝ちはあったものの、全体的に検
(み)れば、大局も地もよくなかった。
 国民は昭和19年以降、心情では「もう駄目だ」という気持ちと疑いを抱いていた。
 戦争職人たちの現場では、その「もう駄目だ」が、海軍では連合艦隊の総てを失い、また陸軍では重度の身体障害者や、四十代、五十代という戦闘には、殆ど遣い物にならない老兵までもに服役を強いていたからだ。
 それは疑うべきもない末期現象であった。亡びに向かう破局への末期現象だった。

 更に悪いことは、陸海軍とも平時の先任主義であり、米国の戦時切り替えのチェスター・ウィリアム・ニミッツ
(上院の承認を受け、序列28番目の少将から中将を飛ばして大将に昇進)やジョージ・パットン(陸軍少将としてアメリカ第1機甲軍団を指揮し、のちに大胆不敵の陸軍大将と呼称さる)のようには行かなかった。それに輪を掛けて、日本陸海軍の歩調は合わず、戦争指導者の意見は分裂していた。
 陸海軍は此処まで統制が乱れては、底辺に居て徴兵される国民こそいい迷惑だった。この国の軍隊官僚では下克上により、一つの船に船頭多しだった。これで舵取りしても、巧くいく筈はない。官僚で掻き回しても埒があかないのである。末期の現象と言えた。


 ─────九五式小型乗用車と軍用車輛に改造されたトヨタKC型トラックが疾っていた。小型車には四人乗り、後方のトラックには運転席に三人、他は荷台に乗っていた。N空挺基地に向けて爆走していた。夕鶴隊である。降下訓練に向かっていた。
 車輛担当は、輜重部隊の伍長・正木信吾だった。そして正木伍長によって、夕鶴隊全員に車輛の運転技術を教えていた。この当時、運転免許などなく、戦前戦中では、車輛販売店で車を買えば、その場で店の店員などが車輛の動かし方を教えてくれ、購入者はある程度乗り方が分ると、そのまま家までのって帰ってよかった。
 当時、車輛には「なん馬力」という表現があることから、一馬力は馬一頭、二馬力は馬二頭という具合に、馬の頭数を顕し、乗用車は一種の馬車と看做され、運転者は馭者
(ぎょしゃ)であった。車の持ち主は、車を自分で運転しないのである。馭者という感覚から、車を動かせる者に任せるのである。この感覚は昭和30年代まであったようだ。

 また軍隊でもトラックなどが乗りこなせれば重宝されて、私の母方の伯父など軍隊時代、輜重部隊にいて、戦後はダンプカーに乗っていた。昭和30年以前であろうか。最寄りの警察から、「免許証を渡すから取りに来い」と言われて、遂に行かずじまいで、昭和40年頃まで運送屋で無免許でダンプに乗っていた。
 しかしそれ以降、無免許を憚
(はば)って大型車輛には乗らず仕舞いであった。いい加減な時代と言えばそれまでだが、免許取得制でなく、技術的に乗れるか否かで、乗れれば車は運転する資格が得れた時代である。
 そういう時代の車がN空挺基地に向けて疾っていた。

 落下傘部隊の最初の訓練は低いところから徐々に上げ10mに迫るのであるが、視界感覚として一番怕いと感じるのは11mと言われている。感覚的にこの高さだ一番怕いと、以前、習志野網武館で私が指導していた頃、習志野空挺団の陸上自衛隊員が何人か来ていたが、彼らの話では一番恐ろしいのは「11m」という高さだということを聴いたことがある。それに平成3年当時、習志野網武館には、習志野空挺団の下瀬上等兵
(陸士長でなく三等陸曹)が居たが、この漢からも聴いたことがある。ビルの高さに換算して、四階建てか五階建ての高さだろう。

 また、昭和五十年代半ば、進龍一が指導する習志野網武館には当時、日大生産工学部の大学院生・高橋秀典君が習いに来ていて、のち彼は海上自衛隊へと進み、幹部候補生から千葉県のある海自基地にいた。その基地には、もう亡くなられた、わが流の岡本邦介皆伝師範とともに、彼に面会に行ったことがある。
 その当時、高橋君は遠洋航海を終え、学生隊から業務配置されていて、P3C対潜哨戒機の研究チームの担当課員の一人になっていた。確か階級は二等海尉だったと思う。その彼に、岡本邦介皆伝師範とともに、彼に面会に行ったことがあった。そこは、かつて旧海軍の航空基地であったと言う。
 衛門に入っての直ぐのところに、旧海軍の落下傘部隊の訓練用降下台の鉄塔があって、特別にお願いして見学させて貰ったことがあった。そして一緒に蹤
(つ)いて来て、私の案内してくれた海曹長が、降下の高さを確か11mと言ったこと覚えている。この11mが、視覚から入ってくる最大の恐怖であるらしい。これは何れも「11m」で一致している。
 この小説のこの箇所は、当時、私の乏しい知識と見聞に基づいて書いているが、違っている場合は、平にご容赦願いたい。

 さて、小説に戻ろう。
 昭和15年になると米国陸軍空挺部隊を参考に研究が始まった。落下傘塔
(遊園地の観覧車を題材としてパラシュート練習場が造られる)での練習を経て、昭和16年には初の有人降下に成功した。こうして陸軍挺進練習部が発足することになる。そしてスマトラ島パレンバンへの降下作戦では、日本陸軍最初の空挺作戦を成功させた。
 降下部隊員は降下台の鉄塔から降下する前、模擬の九七式陸上輸送機の降下口から、降下長は「降下!」と声を掛ければ次々に飛び出すのであるが、降下口には降下長という下士官がいて、その下士官に姓名・階級・住所・所属部隊名を申告して飛び出すのである。その際、降下長は飛び出して行く降下兵の数と、開いたか否かを数える。しかし開くのは100%ではない。また敵陣に降下して帰還する生存率は、僅か5%程度と言われている。
 実際の降下では、降下長が「確認!」と言い放って数えて行く。その後、習志野や宇都宮に陸軍落下傘部隊が誕生することになる。
 模擬訓練としても、落下傘の開いた数を順に「初降下・二降下・三降下・四降下・五降下……」と数え、その間の時間を計る。現実には畳み方が悪くて開かない場合があるからである。

 例えば、物語中の人物を遣っていえば、「鷹司良子、候補生、東京市××番地、夕鶴隊……」と、姓名・階級・住所・所属部隊名を大声で叫び、申告して投下口から飛び出して行く。降下者は総てを信じて、飛び出して行くのである。その間、降下長は間隔が途切れないように、次々に投下員を繰り出し、高さ数百メートルのところから降下させて行く。模擬降下であっても、降下長は実際と同じように時間を計って行く。
 実際には勿論、落下傘が開かないという事故も起こる。その事故も計算の上、「初降下・二降下……」と落下傘が開いた数を数えるのである。
 装備や保守点検を担当するのは落下傘整備隊であるが、最初は自分で最低五回は畳まされるという。最初のうちは慣れずに畳み方が悪い。それで万一の場合、怨むのは自分自身となる。躊躇すると、降下長から突き落とされる。こうして途切れなく、繰り出して行くのである。間が開くと、気流などの影響を受けて降下地点が散らばり、部隊を一つに集結出来ないからである。現場に降下する降下要員と、それを支える整備隊員並びに航空輸送隊員のチームワークに委ねられるのである。そして、この連携したチームワークに一つでも手抜かりがあると、降下員が落命する。間違いなく死ぬ。降下員は死を賭して降下するのである。
 そういう危険と紙一重の中に、夕鶴隊の降下要員の候補生はいた。



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