運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 27

古代人達は今日のように、多大な科学力は持ち得なかったであろうが、自然界に月が及ぼす関係くらいは知っていた筈だ。
 そのうえ海の汐の満ち引きほどは克明に顕われないが、月が引力によって大地を引っ張っていることも充分に知っていた。
 それは巨木の伐採においてである。

 古代人は、巨木の伐採をいつ行うか、それを知っていた。月の引く力は、満月と新月とは異なる。これは海の汐の干満を考えればいいであろう。満月と時は、海の水が引っ張られる。これを同じように満月の夜の樹木も、樹内部の水分が上に引っ張られるのである。
 つまり、天に引かれる。天に吸い上げられるのである。
 逆に新月の時は、地に引っ張られる。地に引っ張られたときは樹内部の水分が下に引かれる。
 ゆえに巨木などの樹をいつ切ったら乾燥が早いか知っていたのである。おそらく満月の日に樹をきることはしないだろう。必ず、新月を狙って伐採した。新月こそ、樹内部の水分が減少するからである。

 一方現代人は、月や星には日常生活において余り、取り立てて考えることは無いようである。これも明治期に、暦が太陰暦から太陽暦に変わったからであろう。

 かつて人間の行動は太陰暦に則していた。暦に合わせての種蒔きも、そういう行動に一つであったり、また太陰暦を遣って天文官が主君に上疏なども行っている。
 更に、月の力が最も強大となるのは月と太陽と地球とが直列になったとき、満月と新月においては『易経』でいう「陰陽極端の日」であるため、地上では余すところ無く月の影響下に置かれた。
 そして、その力を知ることは、また、特に満月の力を礼して呪能することされ可能だったと言う。


●丹薬

 いい月の出た晩のことであった。
 更待月
ふけまちづき/二十日月といい、陰暦20日頃をいう)の頃であったろうか。
 一台の軍用車輛が爆走していた。車は「九五式小型乗用車」である。軍所有の国産車であった。
 陸軍の小型軍用乗用車であり、通称もしくは愛称は『くろがね四起
(よんき)』と呼称された。その国産が月夜を疾っていた。
 この小型車は不整地走行性能に富んだ機動性を持ち、偵察時の「斥候」または連絡等の「伝令」に用い、更に「幹部要員の輸送」を目的とした車両である。定員は2〜4人であり、日本初の国産実用型の四輪駆動車として『東急くろがね工業』が、後の沖縄戦を想起して開発したものである。
 年式は1939年以降のもので4人乗りのフェートン型。排気量が1400ccである。助手席には軽機関銃の九六式軽機関銃ならびに九九式軽機関銃の装備を可能として設計されていた。オフロード四駆車である。

 カーキ色の塗装された軍用車が一路、新田郷庄屋の堀川作右衛門宅に向けて爆走中であった。
 運転者はアン・スミス・サトウ少佐で、助手席には鷹司良子候補生が坐り、後部座席はキャサリン・スミス少尉と室瀬佳奈候補生が乗っていた。アン教官は何故良子と佳奈の二人を指名したか分らないが、これから先の起こることを想像していたのかも知れない。
 こうした車輛も、沢田次郎の智慧の一捻りから融通を付けたものであろう。こうした車輛を沢田は動きが慌ただしくなることを計算して、それらに併せた行動が起こっているようだった。機動性を重視するために、聯隊本部と行き来の都合上、現在は名を『ホテル笹山』に改めた。この場所を起点として行動範囲の稼動を考えてのことだったのであろう。教官陣は機動性があって動き易いのである。
 また、屋号変更は他の目的もあった。海外の宿泊人を考えてのことであった。
 憲兵側からする『視察人』、更には視察される側の『要視察人』の効力は徐々に威力を増し、その思惑の背景に『タカ』計画の立案者の鷹司友悳と実行者の沢田次郎が深く関与していることは言うまでもない。

 時間は午後8時に前後であった。
 「いいお月さま……」佳奈が後部座席から吐露した。
 「更待月ころでしょうか……」と助手席の良子が答えた。
 「更待月と言うと、二十日頃のでしょうか。綺麗でしょうね……」とキャサリン。
 四人は婦人部隊の軍服でなく、兵営内時間であるから、それぞれに私服であった。私物は本来禁止の筈の軍隊であるが、この時代は私物の基準は曖昧になっていたから、訓練が終わった兵営内では自由であった。そういう時間帯での夜間行動と言うか、この夜はアンの一存で行動しているようだった。
 勿論、アンの目的は津村陽平に会うことであった。先ず庄屋屋敷に赴いた。そこから先、庄屋の堀川作右衛門から津村宅を案内してもらうことになる。
 堀川作右衛門は厩
(うまや)から馬を引き立ててきて、それに跨がり「わしの後を蹤(つ)いてきなされ」と言うのであった。騎乗の庄屋が先を案内するのである。その後を追って『くろがね四起』が疾る。夜道、エンジンが唸りを上げる。奥地へ奥地へと入る。徐々に険しくなり、道が細くなる。しかし四駆車の威力である。

 目的地に到着した。だが驚くことに、津村陽平が玄関前で直立不動で待ち構えていた。
 あたかも「孔門七十子」の一人原憲が、「孔門十哲」に数えられる子貢を待ち構える姿であった。津村の家は草深い、まさに山奥の草庵であった。
 津村は来訪者一行を迎えたのである。直立不動で桃の木の杖をついていた。道教では、桃の木は魔除けの威力があり、破魔と信じられているからだ。
 矮男
(ことこ)は粗末なボロを纏ったような衣服を着て、破れた布靴を履いていたが、破れが酷くて、足の指は食み出していた。彼が極貧であることは一目瞭然であった。絵を売らない画家、否、絵の売れない画家は極貧であった。
 しかしボロい服も、破れ靴も少しも恥じるところがなかった。それが毅然としていることから、奇妙な威圧があり、その凛
(りん)とした態度の中に、良子は一瞬、夕鶴隊創設期に言った、沢田次郎の三つの誓いである『毅然・清潔・淑女』の言葉に思い当たった。

 あのとき誰かが「清潔と淑女は、何となく分る気がします。だけど毅然の意味が今一つピンと来ません」と質問した者が居たが、これに沢田が答えて曰
(いわく)く「毅然の意味ですか、そうですね。分り易く言えば、落込んだときや悲しいとき、また苦しいとき、更には絶望を感じてどうしようもなくなったときに、姿勢を正して胸を張ることでしょうか。
 例えばせでねェ、フランス革命時のマリー・アントワネットを考えてみて下さい。
 彼女はギロチンの断頭台に上る時に、めそめそしたり、怖じけたり、足が震えたり、あるいは誰かの手を借りて断頭台の階段を上ったでしょうか。胸を張り、王家の気品を失わず、断頭台への手摺を、あたかも指でピアノの鍵盤を叩くように昇って行ったと言います。さすがマリア・テレジアの姫君です。
 つまり毅然とは、絶望に瀕しても、動ぜず、ご自分の生きた足跡に有終の美を飾ることです。前途に塞がる絶望に対し、絶望に激しく抵抗することにのみ、絶望を覆すことが出来るのです。それ以上のことは、誘導のようになってしまいますので、皆さんご自身が、自前主義とは何かを考えてみて下さい……」と言った。

 その言葉が、まざまざと思い起こされたのである。それを今、目の当たりに見た思いがした。
 毅然とは、津村陽平が執っている「あの姿だ」と思った。そして良子は、こうした姿の津村と、その後も関わって生きて行くことになる。

 津村陽平は今は軍籍から離れた自由人だったが、一方でこの小さな巨人は、野虎
(やこ)的な自由さをもっていた。縛られること、蹂躙(じゅうりん)されることを何よりも嫌う。野虎は自身の自由を得るために妨げる者と格闘する。妨げる者には一切容赦しない。孤高を持して富貴なる精神を確立しようと、抵抗者に徹底的に抗(あらが)う。
 「草深いところへ、少佐どの、自ら御出で頂きまして恐縮です。どうぞ中へ……」津村は招いた。
 草深いなどと称したが、中も草深かった。家の中に草が生えて来ているのである。天井の至る所は破れ、そこからは星空が覗けている。畳という畳は黴
(かび)が生え、物と言える物は殆どなかった。絵を描くと思(おぼ)しき机が一個、20号ほどのキャンバスならびにイーゼル、それに散乱した絵の具類、更には何は入っているか不明の袋が二、三転がっていて、台所を思しき場所には土塊(つちくれ)のような竃(かまど)に鍋が一つと、錆びた釜が一つであった。
 また手製であろうと思われる瓢箪を二つに割った椀と、粗末な竹細工の什器があって、その中には乾涸びた米粒がこびりついているだけだった。
 津村は出向いた五人に「どうぞ、お上がり下さい」と進めた。

 これまでこういう極貧者の生活を知らないキャサリンを除く三人の女性は、あまりの酷さに仰天しているところだった。津村は上がれという。しかし全員がスカートである。上がれば、畳みには黴
が生え、荒筵(あらむしろ)の蒲団には裂けたところから地の藁縄(わらなわ)が飛び出し、そこには蚤、虱はその他の寄生虫が居るかも知れない。それだけに勇気を要する。おそらく、これでは防寒防湿は皆無であろうと思われた。
 このあばら屋然は、「極貧」以外に形容の言葉が無かった。
 庄屋の堀川作右衛門は、かつての津村家を「大した羽振りだったと聞く。しかし明治のご維新で、最下位に顛落してしまいましたんじゃ。しかし腐っても鯛。実にあの一族は誇り高く、毅然としておりましてなァ。
 この辺でも昔は、津村一族と言えば、その武勇も凄かったと聞きます。あの家は、室町以来『奇妙な術』を遣う家元なんですよ。長い伝統があるのですよ」と言った。
 しかし、今はどうだ。この荒れようはどうだ。
 これを表現するにも相応しい形容の語句が思い当たらないのである。一言で云えば「極貧」である。
 これは、腐っても鯛の成れの果てか……。アンはそのようなことを思った。

 「陽平さん、あんた、相変わらずだなァ……」
 その言葉の意味は《相変わらず酷い生活をしているなァ》と同義だろう。
 躊躇している中を、キャサリンだけが靴を脱いで畳に上がった。おそらく黴の生えている畳は、今から夏場に差し掛かるであろうから蚤や虱の類が湧くことは間違いないだろう。しかし津村は意に介す様子がない。
 こういうのを穴居
(けっきょ)暮らしと言うのだろうか。
 しかし、津村は何処までも涼しい貌で澄まし切っていた。豪胆と言うべきか。あるいは狂っていると言うべきか。こんなところで平気で暮らしているのである。
 思えば、一見食わせ者のところもある。不逞
(ふてい)の輩(やから)の一面を持っている。そう思うと、アンは何だか却(かえ)っておかしさを覚えた。
 「さあ、あなた達も遠慮せずに……」と上がることを薦
(すす)めた。

 「陽平さんの凄いところは、並みの人間なら絶対に耐えられない、憂えるべき場所でも、そこが楽天地のように楽しんでしまう特技がありましてなァ、そのくせに『貧士の客好き』と言いましょうか。来客を喜ぶ。
 この人は客好きなんでし。それなりに、人を遇することを知っておりますのじゃ。なあ、陽平さん。いつものあれを振る舞ってはどうじゃな?」と庄屋が促した。
 「分っております」
 陽平はその作業に取り掛かった。竃に火を点
(つ)け、何やら煮始めた。この煮物は豆類を遣った「丹薬」というものであろう。
 仙道の食餌法
(しょくじ‐ほう)によれば、体力増強や体質改善並びに蠱物(まじもの)駆除祓いには、豆類が遣われる。食餌法の原則として、春は鳩麦あるいは数珠玉【註】イネ科の多年草で、花後、苞は骨質となり果実を包む。この珠が数珠玉に似る。ハトムギはこの変種)、夏は緑豆、秋は蓮肉、冬は落花生である。これらを一日2食の食餌として少量を常食とする。
 丹薬は津村家秘伝であり、津村の家を「家元」と言わせる所以であった。この丹薬を用いれば、毎日非常に重い荷物を担ぐ肉体労働者であっても、頭脳を遣う知的労働者であっても、更には躰は大きく一見逞しいが、内実はうすのろで、役立たずのインポテンツの無能者でも立ち所に蘇
(よみがえ)るというものだった。精力を付ける際の極上薬とされた。回春の妙薬でもある。
 来客者に振る舞うためか、津村は、家に内外を駆け回りその準備を始めた。丹薬は乾燥して遣うものと、生薬として遣うものがあり、それを微妙に調合する。例えば、古い瓢箪を灼
(や)いてそれと等量の黄蓮(おうれん)を粉にした物を二匁(に‐もんめ)ほどを調合する丹薬である。これを酒に混ぜて呑む。
 ちなみに、二匁とは約7gを等分にして酒に融かす丹薬をいう。この場合、同時に酒の効用も加わる。それをちびりちびりと舌で転がすように嗜
(たしな)むのである。一気に呑み降すより、舌の上で転がした方が、よく味わえ、よく酔うのである。徐々に効く。真綿で絞めるように効く。桃源郷の幻想、請け合いである。津村は所謂(いわゆる)妙な術を心得ているのである。

 「陽平さん、いつものお任せで恃むよ」
 「だったら、庄屋さんも、お嬢さん達の子守りを暫
(しばら)く頼むよ」
 「ああ、任しときな……」
 「ねえ、キャサリン。あの方、わたし達に子守りですて、随分と人を喰っていると思わない」
 「そうかも……」と、キャサリンおかしくなった。

 「陽平さんは、実に物知りでしてねェ、この一族は大抵が智慧者なんです。最初、この人の祖父に当りる津村鍵十郎さまが、谷川の水を曳いてきて、この村に灌漑
(かんがい)をすることを考えて下さった。そして稲作以外に、豆類の作付けを教えて下さった。珍しい豆のことを、大層知っていた。植物学者のような人だった。
 その作り方を村人達は教わったんじゃ。
 大した治世家で、また文の道も大学者でもあったと言う。しかしそれを決して、自慢して内外に公表ことはなかったと言います。
 代官でありながら、威張ったことはなく、また神道無念流剣術の達人で文武両道として知られ、その人が、また素晴らしい絵を描くのじゃよ。陽平さんの今は、この御仁の血を引いておりますようじゃなァ。
 また陽平さんが応召があった翌日、父君の津村十朗左衛門さまが亡くなられた。催し物が終わり、あなた達が引き揚げて直ぐのことじゃった。父君が息を引き取られたのじゃ。
 陽平さんは父君を弔った足で、喪も開けないというのに聯隊へと向かった。陽平さんは実に凄い人ですよ。
 その悲しみを表面では臆面
(おくめん)も顕さない。徹頭徹尾、毅然としたところがある、世に稀(まれ)に見る逸材です……。
 ああ言うのも、父君譲りと言いましょうか。
 わしが子供のときじゃったとき、この辺には、村を襲う野党がおりましてねェ。
 食糧は奪う、女は犯すで酷いものだった。そのために離農する者も多かった。奪って、女を攫
(さら)い、することやること、何でも犯し放題と聴きいてます。ああいうのを匪賊(ひぞく)と言うのでしょうか。無頼の輩(やから)が出没しておったときのことです。
 それがどうでしょう。父君が彼奴
(きゃつ)らを、たった一人で退治してしまいました。明治になって落ちぶれたとはいえ、村人達は父君と、その血筋に深い尊敬を抱いていました。陽平さんも、ああ見えても、村人から尊敬されています。しかし……」とその先の言葉を濁した。

 こう聴いたとき、アンは、寝た切りで夕鶴隊の催し物を見にきた老人のことを思った。老人には、あれが冥土への土産になったのかと思ったのである。間に合って、よかったと思った。
 これまで津村陽平を、少しばかり甘く見ていたところを反省した。
 人間は見掛けから中を窺
(うかが)い知ることは出来ない。体躯の貧弱を嗤い、その嗤いに任せて、中身まで見たように思い込むのは笑止であったことに気付いたのである。そして津村には、見掛けの優しさや細やかさに隠されている見えない部分の中に、想像も付かない図太さと、剛健・豪胆さを裡に潜めいるのであった。
 津村陽平なる人物を表皮から検
(み)れば、一見して、無為徒食の無能の輩(やから)に見える。しかし、そう検てしまうのは短見であろう。
 津村のような隠れた小さな巨人がいるのである。

 「つかぬことをお窺いしますが、津村陽平さんには、奥さまはおいででしたでしょうか」とアン。
 「居りましたよ、それは眼の醒めるような美人でしてなァ。しかし、眼が見えなんだ。生まれつきと言っておりましたなあ……。眼は開いているのじゃが、見えないのです。それに奥さまは筑前琵琶の名手でしてね、琵琶の演奏で陽平さんを支えておりましたよ。陽平さんは中等学校を終えると東京造形美大へと進んだ。その学費も総て、奥さまの琵琶演奏が稼ぎ出していた。東京に出たときも資金面は奥さまが仕送りしていた」
 「それで、奥さまは?」
 「三年前に亡くなられました。陽平さんが、こうした『あばら屋暮らし』を始めたのは、奥さまが亡くなられてからの事じゃった」
 「亡くなられたのは、病気か何かで?……」
 「いえ、崖から落ちての転落死ですよ。それは無慙だった。かなりの高い崖から落ちなさった。奥さまは陽平さんの丹薬造りを手伝っておりましてな。絵を売らない代わりに、丹薬を食餌法として、健康剤として自家製販売しておりました。その手伝いをしているときじゃった。運悪く、絶壁から顛落されなさった。貴重な薬草は人跡未踏
(じんせき‐みとう)の場所に生息しておりますからな、それを追ったのでしょう。実に不運なことじゃった……」
 その言葉は、何か奥歯に物が挟まったような言い方だった。
 これを聴いたキャサリンは、その殺した言葉の奥を考えた。眼の悪い人が絶壁から顛落するようなところに行くのだろうかと疑念を抱いた。何か別の理由があると思った。

 「しかし、陽平さんは谷底に顛落
(てんらく)した奥さまの亡骸を放置しなかった。顛落した場所は千仞(せんじん)の谷でしてなァ……」と言葉を繋いだ。
 「とてもじゃないが人間が降りて行けるようなところでなかった。陽平さんと一緒に、捜索に行った村人達は止めた。危ないから止めとけといった。しかし陽平さんは止めなかった。ロープを遣って降りて行った。危険は覚悟の上でした。命を張って、危険覚悟で降りて行って、奥さまを背負って上がって来た。貌半分は、そりゃァ酷くて、見られたものではなかった。頭蓋が割れ、脳漿
(のうしょう)が飛び散っていた。無慙の一語。
 その崩れた奥さまの貌を修復された。また肩や腕は、複雑骨折をしたり酷い脱臼で捻れに捻れていました。
 それも整復しなさった。躰にこびりついた血糊を丹念に洗い流し、ほぼ元通りに復元しまして、最後は『痛かっただろう』といって、掌で躰を摩ってやったと言います。そして死化粧を施しましてなァ。見事な弔い方じゃった。感動すら覚えましたよ。
 最後は別れを遂げて荼毘
(だび)に付しました。本当に貧しい葬儀でした。泣きたいくらい貧しかった。
 それでも村人達は、陽平さんのその貧しさを嗤
(わら)うことは無かった。奥さまが旅立たれる際、恭しく頭を垂れて見送ってあげたのが、わしらの精一杯の気持ちじゃった。
 だから陽平さんは人情の人として、今でも深く尊敬されていますよ。本当の情けとは、ああ言うのを言うんでしょうなァ。
 そしてですよ、谷に落ちた亡骸は放置出来ません。放置すれば、狐狸やその他の野犬から食い荒らされますからな。それを赦さないために危険も顧みず、断崖を降りて行って、命を張り収容してきましたのじゃ。
 本当に頭が下がりますよ。そこに尊敬の的が集まった。信用に足る人ですよ、いや下駄を預けても、信頼出来る人ですよ。
 荼毘の前の化粧もですな、掌で奥さまの亡骸を全身拭いたと、葬儀を手伝った女子
(おなごし)たちが言っておりました。父君に、よく性格が似た方です、陽平さんは……」
 「お子さまは?」

 「そうそう、一人おりましたなァ。あれはどのくらい前になりますかのう。男の子がおりましてなあ、この子が村でも、二、三歳から神童ぶりを発揮しておりましてなァ。その話が方々でも知れ渡っておりました。
 そこへあるとき大層な富豪の方が訪れましてな、養子にしたいと言いますのじゃ。
 陽平さんが婚礼されたときは、確か14、5歳でしたなあ。そして目癈
(めしい)たる奥さまが、二十代後半でしたかな、おおかたこの夫婦は、男女の年齢の差が15ほど開きがありました。
 そうそう、養子に貰われて行った先は、確か『沢田』とかいう苗字だと聴いております。しかしその後、奥さまも陽平さんも、一度もその家には訪ねて行かなかったといいます。この夫婦は身を切られる思いで、わが子を手放し、あのとき、わが子と永遠の訣別をしたのでしょうなァ……。わしも一緒に村外れまで蹤
(つ)いて行きました。何とも悲しい別れじゃった……」

 この話を聴いて、キャサリンが一瞬はッ!とした。
 もしや次郎が、その貰われていった現在の沢田次郎ではないかと思ったからである。もし、次郎と陽平が父子なら、この親子は永遠に名乗らず仕舞いで終わるだろう。それを悲しいと思った。
 これまでの次郎のとんでもない発想や、奇想天外な行動は、父親の陽平の血を受け継いでいるのかも知れないと思った。むしろ、そう執るべきであろう。
 また一方で、しかしと思う。そもそも沢田という苗字は有り触れている。沢田から聞いた話では、伯爵の沢田翔洋が捨て子を育てたと言う。そうなると話が食い違う。また、身長も極端に違う。
 沢田は優に170cm以上はある。しかし津村陽平は145cm程度で25cm以上も開きがある。親子で此処まで開くものかと思う。しかし母親はどうだったのだろう。もしかすると蚤の夫婦というのもあり得る。
 もし母親の身長が並か、並み以上だったら沢田次郎のような子供が生まれないとも言えない。そう思うと、彼女の心は大いに揺らいだ。庄屋が言った、目癈
(めしい)たる眼の醒めるような美人とは、どういう人だったのだろかと思うのであった。

 だが庄屋は、津村陽平が胎児期に小人症
(こびとしょう)に罹病していることは言わなかった。津村の母親は脳性小児麻痺だったと言う。江戸末期の代官だった津村鍵十郎は、さる大名から拝領妻を仰せつかった。
 この女性は姫君であったが脳性小児麻痺で、躰は小さく智慧足らずで、結局、鍵十郎は押し付けられたような形で婚姻した。しかし妻が障害者と雖
(いえど)も見捨てはしなかった。生まれた子供の十朗左衛門も小さかったという。生まれながらに小人症であった。だが、佝僂(くる)ではなかった。
 周りからは“三尺達磨”などと揶揄されならがも、文武を納めた人であった。父親の鍵十郎を凌ぐ小さな巨人であったと言う。
 鍵十郎は婚姻後、幼児程度の知能しかない妻を能
(よ)く相手にしたと言う。折り紙などがよく出来ると、一緒になって喜び、「上手だ」と褒(ほ)めたと言う。人生の機微を知る武士だった。その父の影響を受けつつ十朗左衛門も育った。躰こそ母親に似て小さいが、中身はサムライであった。陽平の躰が小さいのは、この影響である。

 「さあ、丹薬ですぞ。これを呑めば一切が解決する」と喜々として言う。楽天家でもある。
 一切が解決する……とは、奇妙なことを言うとアンは思った。治るとは言わず、解決すると言った。奇妙な言葉である。
 「陽平さん、あんたは相変わらず落花生を作るの上手だなあ」と庄屋。
 丹薬と共に、茶請けのような形で落花生の笊
(ざる)盛りが並んでいた。
 「貧しては、これが限界です。せっかく草深い山奥まで来て頂いたですからなァ、せめてこれくらいは」
 「うん、これは美味い。今年はよく出来ている」
 庄屋は殻を割って口に放ってから、こう洩らした。
 「しかし。さて、来年となると、どうだか……」津村は思わず反論を吐露した。
 「どういう意味だ?」庄屋が訊き返す。
 「どういう意味もこういう意味も無い。本日、少佐どのは、どういう意図でおいでなされましたかなァ」と意表を突くように訊いた。
 「それは公用か、私用か?と訊いているのでしょうか」とアン。
 「そうです」
 「勿論、私用です。お願いがあって参りましたから……」
 「それはもう一度、軍隊に復帰せよということでしょうか。そうなると、復帰する以外ありますまいなァ」
 「そのように判断して下さって結構です」
 「では本日は、わが輩も、私用とさせて頂くが、宜しいかな」
 「ご自由に」
 「ならば……」を言って、津村陽平は四人の女性の前にすたすたと遣って来て、しげしげと貌を見ながら、やや不謹慎な面構えになって、その場でごろりと横になったのである。そして右腕で肘枕をし、彼女達を鑑賞をはじめた。豪放磊落と言うか、いかてれいると言うか、毀
(こわ)れていると言ってもよかった。
 それぞれに彼女達をしげしげと、相互に見比べつつ、《綺麗なお姐
(ねえ)さん達だ、こうして間近に眺めると、いい回春になるわい……》などと卑しく思って見詰めているのかも知れない。厚かましさというか、豪胆と言うか、礼儀知らずと言うか。このような見られ方をすると、見られている方は腹立たしくなる。
 特に、じろじろと回春の肴
(さかな)にされているかと思えば、余計に……である。

 これに一番驚いたのは、最年少の室瀬佳奈であった。彼女はまだ14歳である。
 彼女の貌には《なになに?……、この遠慮知らずの無礼な、変なおじさん?……》と思ったに違いない。
 わざわざ女性四人の前に来て、ごろりと横たわる奇妙な人間など、一度も見たことがなかったからである。
 意表を突いたというより、まさに矮男は異常者だった。あるいは人を喰ったような、余裕の為
(な)せる心理から起こったのだろうか。それにしても訝(おか)しいと思う。
 とにかく“並み”とは、桁違いにズレていた。

 佳奈は、《このおじさん、頭がおかしいのかしら……》と思ったくらいである。
 アンは、津村の異常ぶりを既に見ている。さして驚くことはなかった。
 しかし良子は佳奈と同じく、奇妙に映った違いない。いままでに、この種の奇異なる人間を見たことがないからである。
 貴人も佳人も無関係と、豪胆に思うこのオヤジ。この矮男
(こおとこ)、些か無礼と思ったことであろう。
 だが、キャサリンは、この矮男をどう見たのだろうか。
 おそらく沢田次郎の行動と重ねて見たのではあるまいか。しかし、見て……と言っても、彼女は拷問されたおりに視力を失っている。何かの物体が動いているのは幽
(かす)かに分るが、行動の一切は確認することは出来ない。しかしその雰囲気といい、厚かましさといい、何処か沢田と同一のものが漂っていた。それを肌で感じるのである。

 「陽平さんも、相変わらず変なことする。何か貴人の方が顕われると、こうした格好をするんですなァ。
 そして絵を描かせてくれとせがむですよ、この人の癖でしょうなァ」と庄屋は呆れたように言う。
 良子と佳奈は厭な癖と思う。
 そのとき津村が突然むくむくと起き上がり、無遠慮に、キャサリンの貌を前に以上接近して来て、「うム・うム?……」と不可解なこと遣り始めた。貌がくっかんばかりに接近した。
 「なにか?」キャサリンは思わず訊いた。
 「うム・うム?……、あんたの眼、治るぞ!」と、はた!と直感して言ったのである。
 「えッ!……」彼女は驚いてしまった。
 「これはなァ、眼球下垂といってな、一時的に麻痺を起こして瞼が塞がる病
(やまい)だ。薬物刺戟とか、心因的衝撃とか、あるいは物理的な外圧で麻痺を起こす。ゆえに盲が起こる……」
 「……………」
 「あんた、毒を盛られたのと違うか?……。例えば猛毒の砒素
(ひそ)を毎日少量ずつとか……。
 原子番号33……、窒素族元素の一種。原子量74.92……。化合物半導体の成分として用いる。
 では、わが輩が何故ここまで詳しいか……、これを絵の具に遣う場合があるからだ。これで納得か?」
 「えッ?……」
 「しかし閉じたままでは永久に眼を失う。だが、いま再び丹薬で衝撃を与えれば、治る。必ず治る」
 「本当ですか……」
 「あんた、宗教。なんだ?」
 「クリスチャンです」
 「ならば、メアリー・ベイカー・エディ
Mary Baker Eddy/1866年に法則を発見し、機関新聞『クリスチャン・サイエンス・モニター』を創刊して、内外の学者からも支持を得て、罪・病気は神性の法則(サイエンス)を悟ることによって癒されると主張。1821〜1910)を知らんか」
 「クリスチャン・サイエンス……ですか」
 「さよう」
 「でも……」
 「非科学と疑っておろう?」
 「?…………」
 「信じることだ。いいか、信じよ。今は、わが輩をとことん信じよ。治して遣る。いま此処で治して遣る。
 治りたかったら、あんたが呑もうとして躊躇しているその丹薬、一気に呑むが宜しかろう。即座に治してしんぜよう!」
 キャサリンは、何と大言をいって憚
(はばか)らない輩(やから)と蔑んだかも知れない。
 津村はその様子を直視しつつ、彼女の一切の行動を一つ残らず見ていた。まさに、孔
(あな)が穿(あ)くほど彼女を見詰めていた。その見詰められていること自体、キャサリンには見えないが、視られいることは、肌でひしひしと感じていたのである。
 アンは、これを興味深い実験と思った。
 その証拠に、現に自分も津村から見詰められて、自身の耳朶
(じだ)が知らぬうちに徐々に赧(あか)くなっていくのを覚えたくらいである。それを感じ執っていた。そして、これを良子も佳奈も見ていたのである。
 「……………」
 「さて、どうする!」と鋭く迫るように言う。

 なぜ此処まで迫るのか。
 津村にはキャサリンの思念など、手に取るように分る。簡単に読めるからだ。
 しかし、迷いがあってはならぬ。津村はそう思う。話術でそれを解きほぐしているのである。病は言葉を介して治すことも可能であるからだ。言葉での治癒法は現代でも遣われている。
 そのために言葉に嘘や濁りがあってはならぬ。人は神には何事も隠せないからだ。
 神に偽ることなど赦されない。人は神に対しては裸であらねばならぬ。心を偽り、裸にされることを恐れ、その厳しい叱責に耐えられない者は、神に用事など必要ないのである。神に対して信じる証
(あかし)を訴えるならば、それは真心(まごころ)をもって接しなければならぬ。とことん信じ切ることである。そして一旦信じたならば、その思念を言葉にするということが「言質(げんち)」となり、確約した証拠となり、これは約束した以上、その後、絶対に覆せない。
 被験者は本人の口から実際に言葉として通じさせねばならない。
 言葉は、また強い波動を持つ「光透波
(ことば)」でもある。光透波だけが神との誓いとなる。
 要するに「誓う」ことが大事であり、この誓い無しに、神は何の奇蹟を起こしてくれないのである。
 津村はキャサリン・スミスに言葉で誓わせる手続きを、古神道的な思索法と話術で促し、重んじているだけに過ぎなかった。あとは彼女が誓うか、否かに懸かるだけである。

 「?…………」キャサリンは一瞬の迷いがあった。誓うか、否かに心情が揺れた。
 彼女のような、数学を駆使する科学者からすれば、こういう祈祷行為は非科学の最たるものであったろう。
 しかし、津村はその迷いすら、手に取るように分かった。分るが故に、言葉で明言させねばならなかった。
 「その迷い、気に入った!」
 「?…………」《なんてことを言うの?……》と思った。
 「人間らしくて気に入った!」
 「えッ!」釣り込まれるように返事をしてしまった。
 「汝の信仰、汝を癒せり」
 津村は『福音書』の一節を喋った。
 「その通りにすればいいのですね?」信頼する気持ちになっていた。
 彼女は、津村に下駄を預けてもいいと思った。
 「そうだ!」
 キャサリンは一気に丹薬を呑み干した。
 「信じます……」
 彼女は心情をありのままに吐露した。
 「まだ開けてはならんぞ。眼を閉じていろ、いいと言うまで閉じていろ」
 黙ってその通りにしていた。
 「はい、信じます!」
 「信じろ、信じていろ。ずっと信じろ。ゆめゆめ疑うな」
 「はい!」
 津村は、彼女の《はい!》を、《神と誓ったのだぞ。たった今、誓ったのだぞ!》と、とうとう確約させたことを悟ったのである。
 だが一旦誓った以上、絶対に覆せないと言いたかった。

 「いま丹薬は、躰の中を浄めている。不浄なものを流そうとしている。洗い流している。あたかも汚れを洗い流すようにだ……。不浄なる総てを洗い流している。確信せよ。
 津村の家元の『秘伝丹』!……。穢土
(えど)の地の穢(けが)れを悉(ことごと)く洗い流し、かつ浄め、いま汝は癒されたり!」と喝破するように言った。
 キャサリンは静かに眼を開けた。癒されたと彼女は確信したからである。確信以外残されていなかった。
 眼が開いた。眼が開く。これまで塞がれていた瞼が開いた。そして見えた。視力が戻った。
 この『一大実験』を、この場で、他の面々も確
(しか)と、わが眼で検(み)たのである。
 「お姉さま、見える。もと通りに見える。何もかも見える。嘘のように見える……」
 彼女の身の上に奇蹟が起こっていた。
 「よかったね、キャサリン」手を取り合って喜んだ。
 「キャサリン先生、本当によかったですね」と良子。
 「よかったですね」と佳奈も。

 「陽平さん、あんたが以前から不思議な術を遣うことは知っていた。しかし、今のような凄いの見たの、これが初めてじゃ。こりゃ、明日から村中の評判になるぞ……」
 「いや、評判にはならぬ。何故なら、わが輩は御国
(みくに)に召された」
 「ああ、そうじゃったのう。……ところで、陽平さん、あんた、わしらが到着する前に、外に立って俟っていただろう。あれ、どうして分ったんじゃ?」
 「夜鴉が報せた」
 「あんた、鳥の聲
(こえ)が解るんかのう?」
 「解るような気がする」
 「それで立って俟っていたというのか」
 「俟つのは礼儀であろう……」
 「なるほど。わしらは、あんたのご先祖さまから大層世話になっているかのう。しかし、あんたは、わしらが心から感謝の意を表して貢ぎ物を持って来るが、今まで一回も受け取ったことがない、どうしてじゃ?」
 「心だけで、充分に頂いておる」
 「あんたらしいなァ……」
 「わが家の家訓に、物を貰う行いはない。死に逝く親父の最後の一言は『毅然』だった」
 「あんたは、現代のサムライじゃ。代々の津村家は生涯、奉仕一筋の人だったんじゃなァ」
 しかし津村は、これに返事をしなかった。
 矮男は、外では侮蔑されて生きてきたことであろう。しかし、意に介さない。奉仕者は、そういう小事には意に介さないのである。出来ることは胸を張るだけである。それだけに根拠として、誇れる精神的な玉
(ぎょく)を懐に抱いていなければならない。富貴である。
 キャサリンは津村の黙々とした態度に、沢田次郎を重ねて見ていた。同時に沢田の物怖じしない厚かましさを思った。
 津村は確かに矮男だが、しかし貌には沢田の面影が漂っているように見えた。何処となく似ている……と思うのである。あるいは美人だったと言う目癈
(めしい)たる母親に似ているのかも知れない。

 こうして荒れ果てた、あばら屋の津村家を後にしたのは、それから数時間経ってのことだった。
 帰りの車の中のことである。
 「よかったわね、キャサリン。でも、津村さんの貌、どこか沢田さんに似ていませんか」とアン。
 「そうでしょうか……」
 「背こそ、違えど、何処となくそんな気がするの……」
 「……………」
 「もしかしたら、津村さんの黙々とした、あの地道な態度。どうしても沢田さんに重なってしまうの。そして発想と言うか、思考と言うか、同じような考え方をする人じゃないかと思うのよ、どうかしら?」
 「親子である筈がないでしょ……、全くの別人よ。沢田なんて苗字、何処にでもあるし、ただの思い過ごしです」
 「そうかしら……」
 「眼が見えた今、言うけれど、鷹司さん。あなた、いや、良子さん。わたしを覚えているでしょ?。あのとき確か姉が十歳で、わたしが七歳……。そしてあなたは二、三歳くらいだったかしら。
 あなたの家に居た英国人の二人の姉妹、覚えているでしょ?……」とキャサリン。
 「はい」
 「あれから随分経つけど、能
(よ)く成長されましたね……。嬉しく思います」
 「有り難う御座います」
 「あなたのお兄さまの友悳
(とものり)さまに、わたしたち姉妹、随分と可愛がって頂きましたのよ」
 「幼かったから、それはよく知りませんでした」
 「戦争がなければ、こうした再会はなかったでしょうね……。もっと別の形であって欲しかった……」
 キャサリンは戦争を残念に思うように言うのであった。
 「そう思います……」
 「だから、一日も早く終わらせるために、夕鶴隊は粉骨砕身して戦っているではありませんか」とアン。

 戦争は無い方がいい。極力、戦いは避けた方がいい。あらゆる智慧を搾って、回避する方向に向かって努力を惜しんではならない。しかし不幸にも戦争を始めた以上、戦争状態にある国家間は、政治力で和平に持ち込まねばなるまい。それもあらゆる努力を惜しまずに……。
 そして、戦争はしているときより、戦争が、敗戦で終わったその後の方が恐ろしい。敗戦国の地獄は、ここから始まる。東京裁判然
(しか)りである。幾らでも戦勝国によって敗戦国の悪事が捏造され、近現代史までその猛威に曝されるからである。悪い条件で敗れれば、必ずそうなる。敗れるにしても無条件降伏などすべきでない。戦勝国の思う壷であるからだ。
 先の大戦も、よりよい負け方をして無条件降伏は避けられた筈だ。当時のときの権力者が無条件降伏の元兇を招いたのである。その最たるは戦後処理を誤った幣原喜重郎
(しではら‐きじゅうろう)であろう。

 ちなみにクリスチャン・サイエンスが、「サイエンス」と言われる根拠は何処にあるのか。
 これを「科学」と言わせるだけの根拠があるからである。
 ファンダメンタリスト達は言う。彼らは「総ては『福音書』に書いてある」と。
 この人達は、文字通り、そのまま『福音書』にある通り、福音書に書いてあることを事実である、真実であると信じ、実行する人である。それゆえ重病人が瞬時に治癒されたり……などの実践者を薦める。こういう人達を「ファンダメンタリスト」という。

 米国では1866年頃から、メアリー・エディの発見した法則により、啓典宗教を実践する人達だ。こういう人達を、また「啓典の民」という。啓典を心から信ずる民のことである。
 コーランによれば、トーラーをもつユダヤ教徒、福音書をもつキリスト教徒がこれに含まれ、ムスリムと本質的に同じ信仰の持主とされる。
 しかし、殆ど宗教を持たない日本人はファンダメンタリスト達を信じず、また敬虔なクリスチャンと言われる人達も、実はファンダメンタリストではない。自称“敬虔なクリスチャン”や“俄クリスチャン
”は、単にクリスマスやその他の恒例行事に参加するだけの、例えば“クリスマスのためのクリスチャン”であったり、イースター(復活祭)を恒例イベントとして祝う自称や俄の類(たぐい)のクリスチャンである。信仰など無い。啓典宗教の枠の外に居る。キリスト者のポーズを真似るだけである。似非キリスト教徒の真似人である。
 聖書の奇蹟に関する記載があっても、それを信じている訳でない。むしろ見下し、最初から科学的と云う言葉で否定している。

 つまり、自称クリスチャンは敬虔と称しても、恒例的な宗教儀式に参加する「行事参加の者」である。
 この意味では実践者と天地の差がある。そして聖書解釈の範囲は、聖書に書かれた奇蹟は、何かを象徴した表現だろうくらいにしか受け止めていない。決して深く考えたり、深く読み解いている訳でない。
 したがって日本人の多くは、ファンダメンタリストとは非科学を信じる野蛮人の類とか、そこまで侮蔑しなくとも奇妙な人達と見ている。また、そのように思い込んでいる。現代日本人の思い込み、世界の人種の中でもこれほど烈しい、「科学的」という語句を妄信する人種も珍しいだろう。

 だが、米国ではファンダメンタリストは日本とは全く違う。大半の米国人は特別な人とも思わず、科学的でないという見下した意識すらも持っていない。むしろ社会から尊敬されている人が多い。日本人ほど頑迷ではなく、神の前には素直に心を開く人達なのである。また、クリスチャン・サイエンスは着実に実績を上げ、この研究に参加する自然科学者達も決して少なくない。それくらい米国社会ではファンダメンタリストは大きな影響力を持っているのである。
 「聖書に書いてあることをそのまま実行すればいい」
 ファンダメンタリスト達の主張である。
 したがって、世の常識者や科学者が烈しい批判を加えても、一向に気に掛けない。そもそも「科学的」と称される自然科学の法則自体が、不完全帰納法であることを知りつくしているからである。
 例えば「イエスが水上を歩行した」という話すら、実は寓話と捉えていない。未だに物理法則で確認されていな場所では、重力以外の法則があって、それが物理学者の間では実験されておらず、またそれが違う場所では作動していないと確信しているからである。

 現に、科学的と称される17世紀以来のニュートンのよる自然科学の重力法則は、確実に物理学者の間で認められているとはいえないのである。その証拠に、未だに「物理学実験」が行われている。これこそが不完全帰納法の最たるものである。諸法則によって「万有引力の法則」は完全なる帰納法には至っていないからだ。
 言及すれば、自然科学と言ったところで、これすらも神が造り賜うたものであるとしているのである。
 それゆえファンダメンタリストは、「科学的」という科学すら、実際には不完全帰納法であることを知っているのである。反論されれば、不完全帰納法は実に脆いのである。
 而して、メアリー・ベイカー・エディの病気治しは『福音書』にある通り行われた。

 一方で、近代医学を考えてみると、この医学こそ、「現代」などの言葉を用いているが、不完全帰納法によって、未だに実験中の医学であることを知っている。したがって臨床例と言う観測も不完全帰納法によって実行されていることは、多くの医者自身が知っていることである。
 確信をもってファンダメンタリストがいう「汝の信仰、汝を癒せり」といって重病人を治癒させたとき、「こんな方法で病気を治したなんて、非科学的だ」と断固反論した医者は殆ど居ないのである。
 医者自身が、現代医学を不完全帰納法で構築させていることを百も知っているからである。本気になってファンダメンタリストに抗議した医師グループも、医学研究団もいないのである。
 非科学的であることを実証するには、否定材料自体に不完全帰納法が存在するからである。現に、聖書の言葉通りに奇蹟が確認された例があるからだ。
 否定するなら、ここから崩して行かなければならないからである。だが人智では不可能であろう。
 クリスチャン・サイエンスの教義は「実在するのは神だけ」であるからだ。病苦が存在するというのは妄想に過ぎないと確信する。

 これは、クリスチャン・サイエンスに限らず、古神道などをはじめとする宗教が光透波を通じて神との「正流」を図ろうとするのはこのためであり、その秘訣は「信じる」の一言にある。
 津村は道教的な教義から、キャサリン・スミスに「信じます」を言わせたに過ぎない。これを「咒」と言うべきか。

 人間現象界では、至る所に「信じる」信仰がある。
 それは、また自分を信じる信仰でもある。
 何年か前、私は知人の自現流を遣っている道場に行ったことがある。その御仁は「己の剣に初太刀の総てを賭ける」と教えてくれた。自分の初太刀をゆめゆめ疑わず、その一太刀に、己が運命を賭ける。ただそれだけと教えてくれたことがある。
 しかし、自分の初太刀が信じれない流派は、初太刀を躱された場合として二之太刀、三之太刀があるのは、結局自分の初太刀を信じず、二之太刀、三之太刀に賭けているのではないか?と、氏は疑念を抱いていた。
 初太刀を軽視して、二之太刀、三之太刀に賭けている。欺瞞というのである。全くその通りだと思う。
 結局、本来は初太刀のみの単純だったものを、何だかんだと理屈をつけて、複雑にしてしまったのではないかと疑いを抱いていた。私も同感である。
 時代が下れば下るほど、最初は単純だったものを、分類化することによって細分化され、分解されて、より複雑にしてしまった観がある。



●緊急会議

 『ホテル笹山』に帰って来たキャサリンを、一番最初に見て驚いたのは、彼女と暗号解読をともに解析している赤嶺神社の神主・林昭三郎だった。
 「おぬし、眼を、どうした?」
 「見えるようになりました」
 「なんと?……、いったい奇蹟でも起こったのか?……」
 「起こりました」
 「なんだとォ!……」
 「津村という人です」
 「津村、津村……。もしかすると、津村十朗左衛門か、まだ彼奴
(きゃつ)は生きておったか……」
 「いえ、津村陽平さんです」
 「陽平……、知らん名じゃのう」
 「津村十朗左衛門さまの息子さんです」
 「なに!十朗左衛門に息子が居たと?……」
 「そうです」
 「思い出したぞ。津村十朗左衛門とその息子。当時、息子は幼児のような小さい子じゃった。小学一、二年生というのに、幼児みたいに小さい躰をしておった。
 確か十朗左衛門は『三尺達磨』と言われておったが、しかし誠の文武の人だった……」
 「そう聴きました」
 「あの小さな親子、生きておったか……」
 「あの方のお父さまは、つい先日亡くなられたそうです」
 「そうか、あの小さな巨人の十朗左衛門が死んだか、惜しまれるのう。しかし、十朗左衛門だけを逝かせないぞ、拙者もそのうち逝く。俟っておれ、あの世でもう一度会おう……。拙者は十朗左衛門に世話になった。
 その世話になった礼を、まだ言ってなかった。あの世で言おう、十朗左衛門!……。地獄で俟っておれよ。拙者も、もう直、地獄に行くぞ……」
 「地獄だなんて怕い……」
 「安心しろ、みんな地獄に行く。天国に行くやつなんて、今は一人もいないぞ。みんな安心して地獄に行けばいい」
 「恐ろしいことを言いますね」
 「では、おぬしは天国に行けるとでも思っているのか?」
 「えッ?……」
 「まァ、ええわ。それよりも、来おったぞ。随分と慌てているようじゃのう」
 「誰のことです?」
 「次郎達じゃ。彼奴ら、泡を食っておるわい。一大事が起こったなァ」
 「どうして解るのです?」
 「蜈蚣が騒いでおる……。あと10分もすれば来るじゃろう。会議室を手配することじゃ」
 「はい、そうします」
 キャサリンは寮母の裕子を呼びに行った。


 ─────夜間の緊急会議。
 会議室に6人が雁首を揃えていた。
 「これを見て下さい」沢田次郎が、一冊の雑誌を円卓テーブルの中央に置いた。
 英語が解る来栖恒雄少佐は既に眼を通したと見えて、何か憤っていた。
 勿論、鷹司友悳も沢田次郎も確認済みである。まだ見てないのはアンとキャサリンであった。
 二人は昭和13年8月発行の米国『ライフ』誌に眼を落した。そこに支那事変の記事が掲載されていたからである。
 「米国が日米戦を考え、その腹を固めたのは昭和16年ではなく、13年頃から始まっていた。中華民国軍の増援強化を見込んでの日米戦開戦を決意した。結局、米国は真珠湾に退役戦前の老朽軍艦をわざわざ攻撃目標にして日本海軍に浮標を叩かせた。奇襲作戦は最初から成功するように仕組まれていたんだ。裏にこんなトリックがあった!」と来栖は、些か怒り心頭気味で言い捨てた。
 「とんだ茶番劇に引き摺るまわされましたねェ」と沢田。
 「うム?……。なになに、『ライフ』誌の伝えるところによれば、日中戦争について『最後に中国
(中華民国軍)が勝つと確信している。中国は何処までも戦い続けられる。中国軍(蒋介石の)は素晴らしい』と独逸軍事顧問団の発言が、堂々と報じられているではありませんか」とアン。
 「そう、これまで日本軍は勝ち続けていた。いや勝たさせてもらった。北京、天津、上海、南京、そして徐州も。日本軍は破竹の勢いで快進撃を続けていた。ところが中華民国軍の軍事顧問のアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将は『ライフ』誌で、日本が絶対負けると断言している。これはファルケンハウゼンが、『ライフ』誌にそう語らせるほど、独逸軍はその後の日本の運命を読んでいたのだろか?……となる」と怒り顔の来栖。
 「そこで、私が想うに『ライフ』誌にこれだけのことを言わせる根拠です。それを探ってみました。すると米国のFRB
(Federal Reserve Bank)が浮かび上がってきた。これを考えると、ヒトラーの失業者対策は余りにも早く独逸経済を救っていると考えたのです。ヒトラーは明らかに金を借りている。それも大借金。
 では、どこからか?……となって、FRBとなった。つまり米国連邦準備委員会制度のドル紙幣の発行権を持つこの『紙屋』や市中銀行群となった。ここからヒトラーは大借金した。そして金を借りている弱味から、中華民国軍にドイツ製の武器を大量に売込み、御丁寧に独逸軍事顧問団を派遣して、日本軍と戦わせる構図を作った。この巧妙なトリックの種明しをすれば、この度の日米戦のシナリオが見えてきます」と沢田。
 実に簡単明瞭で説明した。

 「では、君は『ライフ』誌を何処で手に入れたんですか」と鷹司。
 「私は何処へ行っても『要視察人』です。参謀本部や陸軍省でも『要視察人』です。しかし『要視察人』が暗躍するのはこういうところばかりじゃない。これまでの6年前の書籍は、古本屋にも沢山在庫を隠しもっています、例えば洋書を扱う『丸善』などにはねェ。在庫の山から6年前の『ライフ』誌を入手しました。
 ところがね、これと同じものが参謀本部にもあった。不思議と思いませんか」と沢田。
 「それは参謀本部に、日本のお騒がせの戦争屋がいたということですか」と鷹司。
 「では、その戦争屋とは誰だね?」と来栖。
 「参謀本部第一部には戦争指導をする第一課と、第三課
【註】作戦、編制、動員。ちなみに編制と編成の違いは、両者は別のもので前者はある特定の組織団体構成の内容を指し、平時編制・戦時編制などといい、後者は幾つかの単位を集結して組織を形成した一個の集団を構成する。例えば混成部隊などである)がある。ここでは河辺虎四郎(大佐)と武藤章(大佐)がそれそれの課長を務めていた。そのときですな、武藤が盧溝橋事件【註】昭和12年(1937)7月7日夜、盧溝橋付近で演習中の日本軍が銃撃を受け、これを不法として翌8日早暁中国軍を攻撃し、両軍の交戦に至る。日中戦争の発端となった事件)が起こった際にこういったそうですよ。『面白いことが始まったね』と。
 これは第一部長の石原莞爾
(少将)と正反対です。また軍務局軍事課長の田中新一(大佐)も、事件の発生を聴いて『来るべきものが遂に来た』と感想を洩らしたと言います。彼らは日中が衝突をすること予め知っていたことになります。これは背後に独逸と繋がっていないと解らない。つまり中華民国軍の裏には、独逸の軍事顧問団が居て、彼らの暗躍を知ってないと解らないことになります。おそらく繋がって情報を貰っていたのでしょう。戦争好きの戦争屋が日本の中にも居たということでしょうか……」と沢田。
 「つまり、陸軍の中でも、最も重要な二つのポストに居た課長が、石原部長と正反対の考え方で戦争を指導してきたということですか?」と呆れたように言う鷹司。
 「そうです、戦争観は分裂していたのです。日本の戦局悪化の元兇には、裏で独逸が絡んでいた」と沢田。
 「初耳です!……」驚嘆する鷹司。
 「そして、彼らは厄介なことが起こったとは考えていない。面白がっていた」と怒り心頭の来栖。

 「わははァ……、ここまで裏のお膳立てが出来ていれば、幾ら優秀なる軍隊でも勝てる訳、ないのう」とこれまでのバカバカさを嗤う林昭三郎。
 「バケツの底に穴が開いていたんじゃない。最初から笊で水を掬っていたんですね」とキャサリン。
 「知らぬは国民ばかりなり……か」と沢田。
 「どうします、沢田君」と鷹司。
 「さて、どうしましょうか……」
 キャサリンは、もし沢田次郎と津村陽平が親子として、津村は、この王手に、どういう手を遣うだろうかと夢想したのである。
 「沢田君。君の頭脳から二三回は脳漿を搾っていい智慧でないのか」と来栖。
 「さて、思い切り、『一億火の玉』で戦意昂揚でも煽ってみますか、ナチス独逸に目標を定めて……」
 「プラン『タカ』の見出しでも、かの国に見せ付けますか」とアン。
 「下手な芝居見るより、なんか、わくわくするのう」と、はしゃぐ林の爺さま。

 当時『ライフ』誌は、盧溝橋事件の二年前、昭和13年8月1日時点で、米国タイム社から大型グラビア週刊誌として創刊された雑誌は、世界中の時間や有名人の私生活、いま話題の政治問題を取り上げ、世界的にも有名なカメラマンが撮影した写真を用いて、全世界に向けて販売し、その部数は優に百万部を超えていた。『ライフ』誌が店頭に並ぶと、米国では直ぐに売り切れた。更には欧州などの海外でも販売されていた。
 その後、二年
(昭和15年以降。日米開戦に伴い16年11月以降は停止)を経て創刊号は日本にも若干入手された。
 つまり日本では僅かであったが、日本以外の地域では多く読まれていた。この内容は昭和15年当時で、世界中でかなり読まれていたことになる。
 盧溝橋事件のその時の模様が『ライフ』誌には掲載され、「中国軍を訓練してきたアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン将軍以下29名の独逸軍事顧問団は引き揚げることになった。独中間では一年に亘る日本の引き揚げ要求に同意し、それ決定された以降、これまでの独逸顧問団に代わり、これから蒋介石が指導することになろう」と、独逸が、中国に深く関わっていたことを世界に向けて配信していた。

 ファルケンハウゼンは中国
(独逸の武器輸出国)の第一の敵を日本軍、第二を共産党軍と考え、日本軍を叩くことこそ、ヒトラーの意の添うと考えていたようだ。中国戦線においての泥沼は独逸が仕組んだものだった。
 これは戦後に至っても長らく知られず、「知らぬは日本人ばかり」だった。
 この将軍は日本の軍隊官僚の融通の利かない脆
(もろ)さを、早くも見抜いていたのかも知れない。
 日本の大日本帝国は民意によって、国民が民主主義デモクラシーの選挙と言うルールに随
(したが)い構築された国家でない。藩閥政治が物語るように、薩長土肥の勢力の国家横領であった。
 一方、ナチス独逸は民主主義デモクラシーのルールに基づき、ナチス党が国民選挙で選ばれて政権を執り、国家・国民を指導した。日本のように、国家を何者かが横領したという影は見られない。ところが日本には影の支配者がいた。この違いは大きいだろう。
 日本は明治維新以来、官僚に国家を横領されていたのであった。今日もその延長線上にある。
 「知らぬは国民ばかり」という構造の中で……。
 大戦末期は、日本人が分けも分らず迷走させられた時代である。



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