運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続 壺中天・瓢箪仙人 1
続 壺中天・瓢箪仙人 2
続 壺中天・瓢箪仙人 3
続 壺中天・瓢箪仙人 4
続 壺中天・瓢箪仙人 5
続 壺中天・瓢箪仙人 6
続 壺中天・瓢箪仙人 7
続 壺中天・瓢箪仙人 8
続 壺中天・瓢箪仙人 9
続 壺中天・瓢箪仙人 10
続 壺中天・瓢箪仙人 11
続 壺中天・瓢箪仙人 12
続 壺中天・瓢箪仙人 13
続 壺中天・瓢箪仙人 14
続 壺中天・瓢箪仙人 15
続 壺中天・瓢箪仙人 16
続 壺中天・瓢箪仙人 17
続 壺中天・瓢箪仙人 18
続 壺中天・瓢箪仙人 19
続 壺中天・瓢箪仙人 20
続 壺中天・瓢箪仙人 21
続 壺中天・瓢箪仙人 22
続 壺中天・瓢箪仙人 23
続 壺中天・瓢箪仙人 24
続 壺中天・瓢箪仙人 25
続 壺中天・瓢箪仙人 26
続 壺中天・瓢箪仙人 27
続 壺中天・瓢箪仙人 28
続 壺中天・瓢箪仙人 29
続 壺中天・瓢箪仙人 30
続 壺中天・瓢箪仙人 31
続 壺中天・瓢箪仙人 32
続 壺中天・瓢箪仙人 33
続 壺中天・瓢箪仙人 34
続 壺中天・瓢箪仙人 35
続 壺中天・瓢箪仙人 36
続 壺中天・瓢箪仙人 37
続 壺中天・瓢箪仙人 38
続 壺中天・瓢箪仙人 39
続 壺中天・瓢箪仙人 40
続 壺中天・瓢箪仙人 41
続 壺中天・瓢箪仙人 42
続 壺中天・瓢箪仙人 43
続 壺中天・瓢箪仙人 44
続 壺中天・瓢箪仙人 45
続 壺中天・瓢箪仙人 46
続 壺中天・瓢箪仙人 47
続 壺中天・瓢箪仙人 48
続 壺中天・瓢箪仙人 49
続 壺中天・瓢箪仙人 50
続 壺中天・瓢箪仙人 51
続 壺中天・瓢箪仙人 52
続 壺中天・瓢箪仙人 53
続 壺中天・瓢箪仙人 54
続 壺中天・瓢箪仙人 55
続 壺中天・瓢箪仙人 56
続 壺中天・瓢箪仙人 57
続 壺中天・瓢箪仙人 58
続 壺中天・瓢箪仙人 59
続 壺中天・瓢箪仙人 60
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 続 壺中天・瓢箪仙人 26
続 壺中天・瓢箪仙人 26

民衆を導く自由の女神(画/ウジェーヌ・ドラクロワ)
 1789〜99年、フランスではブルジョア革命が起こった。
 革命の主旨はブルボン王朝の積年の失政、啓蒙思想の影響、第三身分
(平民)の台頭などを要因として発生した革命である。
 また封建的な旧制度と絶対王政を打倒を目的とした。その時の革命をモチーフにした画が、ドラクロアの『民衆を導く自由の女神』である。1830年の作で、フランス7月革命を主題としている。

 “自由の女神”のみが、広場の白い石に縛
(しば)られて、身動きもせず、革命広場に残った。自由の女神は、人間どもの野蛮で、愚かしい行為を見過ごし、永遠の彼方を、厳しい眼で見遣(や)っている。「自由」をテーマにして行われる“革命”の名を、自由の女神は知らない。また知る由(よし)もない。


●怠惰の精神

 昭和19年に入ると、日本は片っ端から「募兵」を遣り始めた。日本の負けは濃厚になり始めていた。
 B29の編隊が度々東京上空に姿を顕すようになった。
 一方、南方方面戦域ではガダルカナルを占領した米機動部隊はマーシャル諸島を陥落させた後、パタオ島に来襲した。これを避けるために日本連合艦隊司令部は古賀峯一司令長官をはじめ、ミンダナオ島のダバオへ赴く途中、悪天候のため遭難して行方不明になり、のち戦死が確認された。山本五十六につぐ二人目の連合艦隊司令長官の戦死であった。そして、世の中全体が軍事色一色に染まった。

 その染まり方は異常でもあった。これまで「聖戦完遂」とか「祖国愛」などの言葉に対して抵抗を覚える連中までもが、徐々に変貌し始め、ここまで逼迫すれば、いい加減な平和主義は姿を消し始めた。
 頑
(かたくな)に抵抗し続ける者は、一部の特殊な少数の例外者を除き、国民の殆どは、自らの変質に自覚もないまま、軍国日本に運命を託すようになった。また、時代はそのように染め上げずにはおかない状態へと突入していた。
 戦争の怕
(こわ)さや恐怖は、空襲による被害や物質の欠乏による難儀の中にあるのではあるまいか。国民の生活の苦難の中にあるのではあるまいか。不足する難儀に中に次のパニックを誘発し、次々に連鎖が起こるのである。戦争状態に筒入する危険信号である。

 当時の多くの日本国民の中には、内心は戦争を嫌いながらも、国民の精神はいつの間にか、軍国一辺倒へと急角度で傾いていった。こうした日常生活の非日常が圧屈作用を起こせば、また全体主義へと偏る人間心理が働くのである。
 こうした恐ろしさを避けるためには、単純な言い方で“戦争を起こさぬことが一番”なのだが、政治はそう簡単には戦争を起こさないような方向へとは変貌出来ないのである。その構築法が、人類はまだ発見出来ていない。更に起こした後に、それを終熄させることが中々困難なのである。
 手遅れだと気付いた時には、もやは間に合わない。先の大戦も同じだった。

 「日増しに悪化の一途にあります」沢田次郎が吐露した。
 それは焦りであろうが、これは対米戦のみならず、対独関係の見直しを考えてのことであった。
 「あなたの懸念しているのは、ナチス独逸からの中国
(蒋介石の中華民国政府)への武器輸出に関してのことですね?」
 鷹司友悳が深いところを察して訊いた。大東亜戦争は単に日米戦ということだけではなかったのである。
 背後には日中戦争を仕掛けたナチス独逸が絡んでいた。
 「日独間に関しての中国への武器輸出への抗議です」
 日本は中国に武器輸出する独逸の遣り方に烈しく抗議した。
 当時、中国では独逸が中国軍へ武器の輸出をしていたのである。しかし、昭和戦史の中で独逸が中華民国政府を扶
(たす)けて、日本を窮地に追い込めていたことは余り知られていない。

 日本側では当時の武者小路大使が政治局長のエルンスト・フォン・ヴァイツセッカーに中国への武器輸出を禁ずるよう抗議した。更に武者小路公共大使は「中国での日本の行動は防共協定の趣旨に従ったものだ」と言い、ヴァイツセッカーはこれに対し「日本の軍事行動は中国側の共産勢力を強めるばかりで、逆に中国をソ連側に押しやっている結果になっているではないか」と日本側の抗議を牽制したのである。
 更に不可解なのは「ゆめゆめ独逸の国防大臣が日本軍の勝利を信じることがあってはならない」と『極秘報告書』を駐華大使のオスカール・トラウマンに提出したことだった。
 結局この構図から、ヒトラーの腹は表面的ポーズとして日本との友好関係を維持する姿勢をみせながら、もう一方では、これまで通り中国への武器輸出を続けて利益を得るというを企てていた。明らかに背信行為を働いていた。この背信行為自体に、日本側は殆ど気付いていなかった。無自覚であった。
 つまり日中戦争は、独逸が仕組んだのである。
 ヒトラーには、東洋人蔑視の冷ややかな意識があり、「漁父の利」を企てているのは明らかであった。
 日本と中国は、ヒトラーの掌の上で踊らされていたのである。

 それを鷹司友悳は、沢田次郎に「日増しに悪化の一途にある」と吐露したのである。そして沢田も対独関係の見直しを考えなければと、そのことについて智慧を絞っていた。対米戦のみならず、対独関係も見直さねば戦争は早期終結させることは出来なかった。この時代、日本は日独防共協定も抜本的な見直しが必要になっていた。
 しかし、国民に見える現実は、単に対米戦への困窮だけだった。背後には独逸が絡んでいることには全く及びもつかず、この戦争は日独防共協定によって同盟関係を作り、更にソ連に至っては、日ソ中立条約によって日本ソ連間は中立条約で守られていると信じていたのである。
 国民は英米とだけ戦えばいいと思い込んでいるのだった。
 だが現実には、裏にこのような水面下の仕掛けがあった。敵は英米のみならず、日独防共協定によって同盟関係を結んでいる独逸に対しても、また日ソ中立条約によって日本ソ連間は中立条約で守られていると信じたソ連も、その正体は日本の敵だったのである。つまり大東亜戦争は、日本は海外からは、日本一国で世界を相手にした戦争を戦っていたのである。
 そして何故、此処まで日本が世界を相手にしなければならない窮地に追い込まれたかを、鷹司友悳と沢田次郎は分析し始めたのである。終結を企てるのなら、この原点に立ち戻って再考する必要があった。一国が勇ましく、潔く戦っても済むと言うものではなかった。

 まず日米戦の原因になったものは何か。ハル・ノートである。あれは何だったか?……となった。
 果たして「威嚇」であったと気付いた。威嚇の初期条件が、ハル・ノートだった。
 ハル・ノートを日本に突き付けたとき、米大統領ルーズヴェルトにせよ、米国務長ハルにせよ、これがこのまま日本政府に受け入れられるとは、夢にも思っていなかったのである。
 ハル・ノートは狆
(ちん)の遠吠えのようなものだった。この狆の遠吠えが理解出来たならば、他にも打つ手は幾らでもあったのである。
 ルーズヴェルトを分析すれば、米国内でのこの大統領の評判と地位たるものは惨憺たるもので、ニューデール政策を引っ提げて登場したはいいが、このオヤジは全く経済が分っていなかった。
 ケインジアン的政策と、アダム・スミスら古典派経済学者の間を行きつ戻りつで、彼の政策は一定の価値感すら打ち立てることが出来なかった。米国経済は一進一退で、ヒトラーの比ではなかった。
 ヒトラー政権は1933年、政権を取るや忽
(たちまり)ちのうちに完全雇用を達成してしまったのである。
 そのため米国民は、ルーズヴェルトに対する不満は大きかった。
 アメリカ共産党というのはニューディーラーで構成された集団で、保守的な土壌では感覚的に受け入れない集団であったのである。盲点は此処にあったが、日本はこれを突くことが出来なかった。此処を突けば脆くも崩れたのである。そしてルーズヴェルトの人気たるや最低であった。米国輿論は、決して戦争に傾いておらずむしろ反戦的な動きをしていた。この点も、日本は利用することが出来なかった。旧態依然の一国主義だった。この体質は、戦後の至っても変わることはなかった。
 現に今日の“一国平和主義”は、その最たるものであろう。

 以後、戦局の激化に伴い、この年の前後に掛けて兵員の消耗率が著しく高まったのである。これを補うために朝鮮や台湾にも徴兵制を布
(し)いた。また学生生徒の徴兵猶予も全面的に停止された。そしてこの年の1月には、学生の猶予は完全に停止となった。
 既に昭和18年10月2日には18歳に徴兵年齢を引き下げ、翌年10月18日になると17歳に引き下げた。兵員増強のために新法令が次々に実施されてた。兵員消耗率は陸海軍とも著しくなり始めていた。
 そして19年5月半ばには「恐ろしいほど」と形容していいような、年配の老兵の一団が遣って来た。
 どう検
(み)でも大半は50歳を過ぎている老兵だった。
 中には左右の足の長さが違う身体障害者まで混じったいた。隊列行進をしても、思うように行進すらままならないのである。
 では、何故このような老兵が召集されたのか。

 彼らの任務は「弾除け要員」であった。
 精鋭の消耗を惜しんで「弾除け要員」を召集したのである。この残酷な発想は、戦争指導者のどこから起こったのか。
 このとき一個分隊12名に対し、老兵の弾除け部隊には、旧式の三八式歩兵銃の支給は僅かに三梃なのである。そして帯剣
(一般には牛蒡剣と呼称)は皆無である。各自は直径4〜6cmほどの青竹を帯剣の長さに切り、腰に紐(ほも)で吊るすのである。子供なチャンバラ道具であった。兵士のそれではなく、“兵隊ごっこ”の領域だった。
 武器の配給がこの態
(ざま)であったから、勿論軍靴の配給もない。手製の草鞋を代用品としたのである。
 そして軍服は至る所が継ぎ接ぎだらけのボロを引き摺ったような古い軍服を着せられていた。紛れもなく初年兵である。老いて組織抵抗が出来るとは思えない初年兵である。そして老兵に出来るといったら、敵弾をわが身に受け、弾除けになるくらいでしかなかった。その弾除けの値段が一銭五厘だったのだろうか。

 この『一銭五厘』は戦後誤解されたことであったが、当時の官製葉書の値段が一銭五厘だった。その一銭五厘の葉書をもって郵送で召集令状が届いたようなイメージが持たれたが、それは正しくない。
 この一銭五厘は、「僅か一銭五厘の葉書代金にしか相当しない」という意味の侮蔑語である。召集令状は一銭五厘の製作費で作られたとか、一銭五厘の官製葉書で召集令状が届いたという分け出ない。実際に召集令状が郵便葉書で届くことはなかった。
 召集令状は各行政区の兵事課官吏の手で、一枚一枚直接の自宅まで赴き手渡されたものである。
 また「赤紙」と言われる所以は、令状用紙の色が薄いピンクか懸かった紙に印刷されていたからである。したがって配達も無料であるし、また印刷代が一枚につき一銭五厘懸かったという訳でもない。単にこの頃、一般日本国民の大衆と言う微生物的な存在は、高が一銭五厘程度の価しかなかったという意味である。
 そして令状は、被招集者の本籍地である実家に届けられた。そのため本籍地から離れている場合は、実家から令状は速達便で転送されたのである。

 この聯隊には召集令状を受け取った老兵が、初年兵として掻き集められていた。
 だが奇妙なことに、この初年兵達に、一向に初年兵教育が行われない。放置されたままである。教練する教官が付いていないのである。ボロ軍服を着せられて放置されているだけである。
 徒歩行進、敬礼動作、そのた基礎訓練などは殆ど行われていないのである。聯隊でも、かつての軍隊とは異なって内務なども、朝夕の点呼はなく、また営内に不寝番を立てることも無くなっていたが、しかし徒歩行進もなく、敬礼動作や総員確認がないのは異常であった。年寄りが単に召集されたという感じであった。
 背後には小銃を担がせたり、徒歩行進を課せるのは酷と言う考え方があったことより、その根底には「弾除け要員」であったことは疑いようもなかった。この老兵部隊の責任者は大正期か明治期後半に軍事教練を受けたと思える五十過ぎの上等兵の階級章をつけたよれよれの老兵であった。

 こうした上等兵の階級を付けた老兵は、既に一度以上召集された経験を持ち、一旦除隊して娑婆に居て、緊急時に臨時召集された過去の亡霊のような集まりだった。したがって老兵で二等兵というのは珍しく、むしろ老兵であるから、軍隊経験者であり、応召された時は上等兵である。二回目以上ということになる。
 除隊満期は下士官・兵並びに幹部候補生で、尉官の階級を持つ者が一旦満期となって娑婆に戻り、再び臨時召集で軍隊に舞い戻って来た場合は召集ではなく、応召なのである。
 しかし、かつてのように戦闘員として召集され、戦々恐々としていた初年兵とは雲泥の相違があり、殆どそう言う緊張は感じられなかった。軍隊生活の厳しさを知らない年寄りの集まりであった。彼らも赤紙一枚で召集されて来た。

 また一方で「怠惰の精神」というのが蔓延り出していた。何もせず、怠けることを旨とするのである。
 例えば、開墾や穴堀などの作業もいい加減で、設計通りに遣らないのである。配給された小銃の番号すら覚えようとせず、ズボラが目立ち始めた。
 老兵は弾除けで召集されたであろうは、それ以外の召集兵は初年兵でありながら、言葉遣いまでが軍隊用語とはごと程遠い娑婆丸出しでありながら、これを注意する古参は殆ど居なかった。
 学徒兵などは自身を「ぼく」と呼称していた。怠惰の精神は蔓延る一方であった。
 今回が始めてではなく、二回目、三回目ということで、下士官・兵の中には、これほど徹底した怠惰であったことは始めてだと嘆く兵も居た。怠惰も、ここまでくれば聖域の境地であり、それは一種の悟り切ったものの哲学ですらあった。
 穴堀をさせても、片脇に鶴嘴
(つるはし)やスコップを放り出したまま動こうともしない初年兵までいた。
 「おい、作業をしろ!」と古参がいっても、「腹が減って動けません」といい、最初から投げ出しているのである。腹が減って……と言われれば、みな同じで、とにかく腹が減っては、こうした作業もできないのであった。そして古参もこれに併せて、「じゃァ、やめるか」となって、全員が怠惰に奔るのである。
 崩壊する軍隊には、このような心理が働くものである。
 人を指揮する将は、自らの兵を喰わせて将なのであり、それが出来なければ将の資格は失われていた。
 一日サツマイモ3個程度では、簡単な作業すら厭になるのである。況
(ま)して「死守せよ」という命令には誰一人従わないだろう。崩壊前夜の構図である。
 また軍隊崩壊の構図の中には、まず年齢が繰り下がることであり、これが末期ともなると、年齢が大幅に繰り上がり、その上弦枠が高くなることである。そして遂には軍隊は、過去の栄光までも跡形もなく打ち砕いてしまうのである。

 昭和19年10月以降、徴兵適例年齢は満17歳に繰り下げたれたが、あくまでも「徴兵」であり、それ以前は「徴用」という形で、語源を微妙に摺り変えて、巧妙な手段で召集令状が乱発されていた。
 現に、満10歳前後の少年兵という陸軍二等兵以前の「赤ベタ」
(星無し)という階級があり、これは陸軍三等兵であった。したがって少年兵の多くは“赤ベタ”という陸軍三等兵の階級で戦闘をしていたのである。
 この少年兵の多くは、武器としては木刀や手榴弾などであり、敵に接近してそこから手榴弾を投擲し、その後、木刀で敵を襲うと言うものであった。しかし女子の竹槍よりは増しと言う程度で、竹槍を含めて、残忍な野蛮的な戦法で、近代戦を闘うという蛮行が基本になりつつあったのである。崩壊前夜の実像である。
 かつての栄光ある日本陸軍の歴史は、おそらく昭和17年くらいまでに終了していた筈である。
 これ以降、「奇手」という戦法は何一つ出て来なかった。
 現に昭和18年10月には、大学や高等学校の学生には、徴兵猶予は撤廃され、この年の12月10日をもって学徒出陣は行われた。戦局は既に退勢化していた。戦闘要員の不足に伴い、女子学徒の中でも狙撃隊や銃剣攻撃を行う銃剣隊が組織され、第一線に配備されて闘いを余儀なくされていた。非常措置である。
 しかし……、と思う。
 これでは発想が貧しいのではないか。

 軍隊官僚の事情の空論で考えそうなことであった。戦闘効果に対して具体性は一切なかった。根拠のない空論であり、その最たるものが女子学徒による竹槍攻撃の発想である。自動小銃を前に、竹槍一本で戦うと言うのであるから、笑止であった。
 更にこれらに加えて、老人や身体障害者の召集である。
 老人や身体障害者にまで、軍服を着せねばならぬ程、当時の日本軍は人的資源が枯渇していたのである。
 もはや軍隊の体裁を整えていなかった。誰が考えても、もう駄目だという気持ちになる。
 海軍は、虎の子の連合艦隊を失い、陸軍では高齢者た重度の身体障害者まで服役を強いていた。
 それに組織抵抗できない、まさに末期現象が顕われていた。
 余談ながら、昭和19年初頭には日本軍は本土決戦
(決号作戦)をハッキリと意識していたらしく、この方針に向かって戦争指導がなされ、したがって備蓄のために、食糧が急激に欠乏し始めたのである。


 ─────鷹司と沢田は、如何に駒を進めるかを話し合っていた。今後のビジョンである。
 「鷹司さん、何故あなたは『タカ』計画を発想したのです?」
 沢田の原点の確認であった。
 「私は子供の頃、ある美術館でフランスの画家ドラクロアの『民衆を導く自由の女神』の絵を見た覚えがあります。この絵が果たして真物なのか模写だったのかは分りませんが、私が恐ろしいほどの感動を覚えましたよ。女神の威力と言うものです。その女神像に畏敬の念すら覚えました。
 それが現在の『夕鶴隊』に繋がりました。逼迫した状況下にも、もしかしたら隠れたところに自由の女神入るのではないかとね。その募兵を君にお願いしたと言う訳です」
 「女神が残れば『根』は残るという訳ですか……」
 根は絶やしてはなるまいというのが、両者の共通した意見であった。

 「この世界の始まりは、老子が言うように女性から始まった。決して男ではない……」
 「老子の言う『玄牝
(げんびん)』ですね。女性器は仁愛や善悪に関係なく、生命を産みますからね。大本には天地自然の根元があって生成力があり、世の中の根元をなしている。あなたの言う『根』ですね」
 「その『根』に儀仗の威力を観じたのは君ですからね。隊列行進並びに分列行進を行うこの中に、大きな宣伝効果と存在価値を高める、それを発見したのは君です」
 「崩壊に向かう、日本をこの辺で食い止めないと、この国は地球上から消えてなくなります。少なくとも伝統や文化は悉く失われてしまうでしょう。そろそろ5月も終盤を迎えました。潤沢な宣伝費を遣って内外にアピールしなければなりません」
 「決行は5月××日」
 「雨天とか、大雨などの異変が起きたら、どうします?」
 「そのときは、この国は亡ぶだけです。外国からは甘く見られるだけでしょう」
 「天に賭
(か)けてみますか?……」
 「それ以外に何かありますか」沢田はそれに総てを賭けるという言い方をした。
 晴天の日の晴れがましい天気に恵まれない限り、その先の日本にも、もう再び晴れがましい日は訪れないのではないかと夢想した。天は自ら助くるものを助く
(Heaven helps those who help themselves.)か……」と。
 沢田には二つの言語が脳裡に浮んだ。これこそ本土決戦を前倒しにした沢田と鷹司の決戦であった。
 出来れば、この優をもって決着をつけたい。

 本土決戦とは、陸海合計約240万人を総動員して戦う決戦である。そのため、大陸方面や半島方面から多数の兵員及び軍需物資を内地へ転用する策であった。
 日本の戦争状態は満洲事変以来、既に15年以上が経っていた。15年間を戦争を続けているのである。
 15年も戦争して、国家財政は逼迫しない訳はない。
 戦争指導者は無能だった。長期化させる事自体に無能を顕していた。この疲弊した状態に重ねて、負け将棋をもう一番繰り返そうとするのである。つまり更に新しく240万を総動員して、日本の青少年を根刮ぎ消耗しようと言うのである。こうなると老人や女子供、更には重度の身体障害者にまで軍服を着せねばならない。
 思考が正常ではないと言えた。
 軍隊官僚の計算で240万人を、どういう計算で弾き出したのだろうか?……。
 これは机上の空論の戯
(ざ)れ言(ごと)であった。軍隊官僚の戦争を知らない戦争観が愚を招いていた。

 そもそも戦争とは暴虎馮河
(ぼうこ‐ひょうが)の発想から生まれる人間の行動律である。また、これまでそのように考えられて来た。しかし、これまでの世界の戦争史の中で、弱勢力が強大な勢力に総て敗退したかというと必ずそうとも限らない。どんな無謀と思えた戦いにも、どんでん返しが起こることを「奇蹟」という名で紹介している。奇蹟が起こることがるのである。したがって大勢力が小勢力を打ち破るとは限らない。
 但し、それには条件がつく。
 奇跡を起こす「根」がなければ奇跡は起こらないのである。

 更に奇蹟は、意志と力を集中させるものがなければ、起こせない。「奇手」である。その意志と力を集中させたものが奇手である。だが先の大戦中は、戦争指導者の中から最後まで「奇手」が出らず仕舞いであった。無慙に負けた。
 神風は吹いていたが、その神風の囁
(ささや)きに耳に傾ける者が皆無であった。ゆえに負けた。
 神国日本には神風は吹いていたのである。戦争指導者の無能ぶりは責められるところである。また当時の日本国民の軽佻浮薄も責められるべきであろう。官民一体となって戦争観は乏しかったのである。
 特に南京陥落時はどうだったか。
 初期段階における支那事変は、盧溝橋を中心とした北支の一部と上海に限られた局地戦であった。
 ところが柳川兵団が杭州湾に上陸することによって、これを機に一挙に中支一帯に波及してしまった。日本の泥沼の中国戦線はここから始まるのである。そして中華国民政府の首都南京を目指して、怒涛のような進撃が開始された。
 斯くして中支方面軍が創設され、松井石根大将が司令官となった。こうなると単に局地戦事件として片付けるわけにはいかず、実質的には中国への宣戦布告であった。これが中国との全面戦争の始まりであった。

 遂に昭和12年
(1937)12月12日日本軍は猛攻により、首都南京を陥落してしまう。
 これが敗戦後、当時の日本軍が中国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵、そして南京城内や周辺地域の一般市民などに対し、殺傷や暴行を行ったとされる事件として南京軍事法廷や極東国際軍事裁判で告訴されることになる。
 そしてその呼称は、南京大虐殺、南京大虐殺事件、南京虐殺事件などである。その中でも、戦時国際法違反が槍玉に挙げられた。
 ではこの元兇は、何処に存在したのか。
 この戦争は、何のための戦争か、その戦争目的な何なのか、全く分らなくなっていたからである。
 しかし南京陥落時、日本国民は気違いのようになって喜んだ。この事実は見逃せまい。日本各地では、一週間に渡り連日提灯行列が行われ、踊り狂ったからである。軽佻浮薄の最たるものであった。
 そして軽佻浮薄に踊り狂う間、日本には統一した国家意識はなく、以降、夢遊病者のように虎口に惹き寄せられて行くのである。日本の戦争指導部は、またこの南京落城をよりよい形で政治的に何の利用も出来なかった。
 本来なら、占領地とか陥落地に長居していてはならないのである。何れにせよ、大兵を江湖の地に展開した以上、その目的は大勝として達せられた。その後は一日も早く撤兵しなければならないのである。長居は無用なのである。
 即座に撤兵する。これこそが、躙
(にじ)り寄る米英の虎口から脱する唯一の方法であった。
 更に寛大な条件をもって和平を講ずるべきであった。歴史的な炯眼
(けいがん)が日本人にあれば、南京攻略は圧勝したのであり、これを示せば撤兵したとしても、何ら日本の弱さを曝したことにはならない。最も優位な形で講和条約が締結できたであろう。
 更に、「トラウマン仲裁」と言う、米英を交渉するには有利な条件が訪れていた。だが、これすら蹴ってしまったのである。血に餓えた将軍どもは、仲裁より泥沼の戦いを選んだ。
 斯くして、好んで自ら元兇を引き寄せたことになる。



●奇妙な術の漢

 また、年配を含む幹部候補生までが遣って来た。
 此処では、陸軍特別幹部候補生として集められたもので、これまでの満17歳より満40歳までの男子が延長された年齢幅に広げられ、大幅に引き揚げられて、昭和19年に公布されたものであった。
 普通、幹部候補生といえば大学か高等学校で選抜されたり、兵役の教育課程で中隊内でも成績優秀なる上等兵クラスから選抜されて遣ってくるのであるが、老兵の幹部候補生は、年齢が39歳と言うのである。
 もう直40に手の届く小柄な、然
(しか)も身長の低い、以前だったら、幾ら学力優秀でも絶対に入学出来ない「恐ろしく」という形容がピッタリ来る背の低い老兵だった。おそらく身長は150cmあるかどうかも定かでない小柄な老兵だった。とにかくまた年齢的に言って、兵隊になるには歳を食い過ぎていた。

 他は、粒の揃ったと言うか、月並みと言うか、可もなく不可もなく差し障りのない、小グループの中で井の中の蛙と言うような優秀者であったが、この老兵だけは何故かズバ抜けて、大いに、下回っていた。
 優秀と言う箇所が、身体上では何処にも見当たらないのである。誰が考えても、間違って、書類上の手続きの間違いで選抜されたのではないかと思えるような、極めて不適切な体躯をした老兵だった。
 この練兵場に集められたのは総勢27名であった。
 その27名中、もっとも背が低く、躰も貧弱で、考えられないような老兵が、この中に混じっていた。
 この幹部候補生の担当教官をしたのが、兵頭仁介准尉だった。
 兵頭准尉は女子学徒隊『夕鶴部隊』の武器教官でもあった。

 「聴け!、お前達を一人前の将校にするために、一から叩き込んで、お前達を戦場に送り出すのが本官の任務である。今た戦局は逼迫しておる。わが大日本帝国も、お前らもその礎
(いしずえ)となり、御国に命を捧げてもらいたい。この中で、一人も落後することは赦されない。本官を何処までも信じて蹤(つ)いて来てもらいたい。終わり」と在り来たりの訓辞を垂れた。

 兵頭准尉は、一人の恐ろしく背の低い中年オヤジに目を付けた。
 とにかく、ガクンと急に身長が低くなる。横一列横隊は、右から背の高い順に並ぶのだが、整列した幹部候補生の中に、ただ一人年配者で背の低いオヤジがいた。このオヤジは、召集ではなく、応召であった。
 「貴様、名は何と言う」
 「津村陽平であります」直立不動の姿勢で言う。
 「応召であるな?……階級は何だ?」
 「陸軍上等兵であります」
 「教練はいつ受けた」
 「大正13年
(1924)であります」
 「なんと20年前か……。貴様、高等学校出か?」
 「そうであります」
 「身長が莫迦に低いな、幾つある?」
 「四尺三寸九分
(約145cm前後)であります」
 「低いなァ、五尺どころか、四尺五寸にも満たんのか……」と嘆くように言う。
 「小銃は扱えるか」
 「三八式歩兵銃
(明治38年制定)を20年前に扱ったきりであります」
 「何歳か」
 「39であります」
 「ずいぶん歳、喰っているなァ」
 「家族は?」
 「ありません」《先日父親が息を引き取ったが、そのことは伏せた》今さら言って何になろう……。津村陽平はそう思うのであった。
 「志願か」
 「そうであります」
 しかし兵頭准尉は、この小柄な背の低い中年オヤジが、何故か心を惹いたのである。
 「聴け!貴様たちは、ここで三ヵ月間、訓練を受けた後、見習い少尉として前線に赴く」
 「はいッ!」
 それは三ヵ月後に、死ぬかも知れないということと同義だった。覚悟の返事である。
 
 しかし、背が低く、小柄だがこの小男の毅然さは、どうだと兵頭准尉は思うのである。胸を張った直立不動の姿勢の良さ。一体これは何処から湧き起こる生命力なのかと思うのである。
 その毅然さは原憲の凛
(りん)とした姿を想起させたに違いない。
 これまで京都の中等学校で国語の教員をしていた兵頭仁介は、「孔門七十子」の一人に原憲なる人物が居たことに思い当たった。もし、あの原憲は、こうした態度をとっていたのではあるまいかと思うのである。

 孔門十哲に数えられる子貢が、原憲の草庵を訪ねたときのことである。
 子貢は豪華な四頭立ての馬車で乗り付けた。
 原憲の草庵は田舎道の果てにあった。進めば進むほど道幅は狭くなる。もう四頭立ての馬車では通れなくなり、子貢はそこから先歩くことになった。子貢が歩いた先に、粗末なあばら屋があった。
 その前には、原憲は子貢を迎えた。
 その様は、藜
(あかざ)の杖を突き、着古した粗末な衣冠に、破れた履(くつ)からは踵が食み出した有様であったという。だが、原憲は自らの姿を毛ほども恥じる様子はなく、毅然として胸を張り、昔ながらの謹直な態度で、出迎えの礼を返した。

 子貢は、しかし原憲の姿を見て思わず恥ずかしくなった。内心は、いやしくも孔子の高弟でありながら、仮に世は避けて隠遁したとは云え、その姿は何だ!……と一喝するつもりだった。
 ところが、原憲は毅然としていた。

 その原憲に対して子貢はこう言う。
 「あなたは何と病んで
(苦しんで)おられるのか」と嘆息して、妙なことを訊いた。この嘆息に、子貢の痛烈な皮肉と責めがあったことは言うまでもない。
 子貢は原憲に「あなたは病んでいるのか」と訊いたのである。
 仮に世は避けているとはいえ、こんな態
(ざま)でいいのかと訊いたのである。責めたのである。
 それを聴いて原憲は首を振った。依然として凛とした態度を崩さない。
 そして、「財産が無い者を貧しいと言い、道を学びながらそれを行えないことを病む
(苦しむ)という。私は確かに貧しくはあるが、だが、断じて病んでなどいない」と毅然として言い放った。

 更に言及して「世間の目を気にして行動し、周囲に諂
(へつら)う者を友とし、他人に自分が学があること誇り、ただそのためにあなたは学問をして来たのか。教えたことで人から謝礼を取り、そのために人に学問を教え、仁義の心を学問などと偽って、結局、見栄を張って、馬車を立派に飾り立て、見せ掛けの行動で、尊大なる態度で人に学を教授するのか。そういうことは到底、私には出来ない」と指弾するように遣り返し喝破(かっぱ)した。子貢を痛烈に批判したのである。
 原憲の凛としたところこそ、人間の「格」であろう。そこに、人としての高い人格があろう。
 このように痛烈に指弾されて、子貢は自分の態度を大いに恥じ入り、生涯、己のこの発言を悔やんだと言われる。
 これも恥に気付いたのも高い人格であろう。子貢は恥を知っていたからである。
 原憲は、孔子の在
(あ)りし日の毅然とした態度で問うた「恥とは何か」を思い出したに違いない。
 子曰
(しのたまわ)く「恥とは、邦に道あれば穀す。邦に道無きに穀すは恥なり」であろう。

 それを知るからこそ、また兵頭仁介は小柄な漢に原憲の影を見たのかも知れない。
 「津村上等兵」
 「はいッ!」
 「蹤
(つ)いて来い」
 兵頭准尉は、他の兵を助勤の兵長の二人に任せ、津村上等兵を従えた。兵頭准尉が津村上等兵を連れて行った先はアン・スミス・サトウ少佐が教練している夕鶴隊の「落下傘降下」の空挺降下訓練であった。
 陸軍では第二次世界大戦時に創設され、通称、挺進部隊、陸軍落下傘部隊、陸軍空挺部隊など称され、愛称は『空の神兵』であり軍歌にも歌われていた。パレンバン空挺作戦が有名であり、蘭印作戦におけるスマトラ島パレンバンへの降下作戦で知られる。装備としては九四式拳銃
(8mm南部弾使用の自動拳銃)を全員に携帯用として支給し、ほか九九式短小銃(半自動化した改造ピダーセン自動小銃)を携帯した。独逸空挺師団の活躍に日本では陸海軍で落下傘部隊が聯隊規模で編成された。

 落下の高さを2m、5m、10mと上げて着地し、膝のバネをクッションにして膝を曲げて衝撃を和らげるための転がる基礎訓練中だった。
 夕鶴隊員は戦闘服
(シールコート・パンツ)に着替えて、順に下のマットの上に着地して転がる訓練を受けていた。靴は降下靴(ジャンプ・ブーツ)であり、頭部は鉄帽でなく、英国パラシュート聯隊と同じワイン色のレットベレーであった。
 降下台の上から、一人ひとり名前を呼ばれた後、手を上げて返事をしたのち降下する。
 「成沢候補生!」と呼ばれたら「はい!」と手を挙げ、マット目掛けて飛び降りる。
 順に「有村候補生!……、副島候補生!……、谷候補生!……、守屋候補生!……、向井田候補生!……、宇喜田候補生!……、清水候補生!……、長尾候補生!……」と20名が次々に続くのである。
 アン教官の戦闘思想の中には、目的地に船舶で乗り付けるのではなく、空から夜陰に乗じて夜間降下を考えていたのである。輸送船での潜入方法は目的地到達の前に撃沈される虞
(おそ)れが大だったからである。
 それに軽装備で目的地に到達することを考えていた。

 その最中に兵頭准尉と津村上等兵が遣って来た。此処で特殊訓練が行われていることは直ぐに悟った。
 一段落したところで「少佐どの、この漢を訓練に加えて頂けますまいか」と持ち掛けた。
 すると「まず見学を……」というので、二人は夕鶴隊員の降下訓練を暫く見ていた。
 津村上等兵は《面白いことをする……》と見ていた。
 そして「遣ってみますか?」となった。
 「はいッ!」と言って軽やかに降下台に向かった。台の階段をひょいひょいと上がって行く。そして軽々と降下し一回転した。それを5m、10mと遣って見せるのである。
 《あの回転は何だろう》と思う。
 アン教官は、この漢のこの降下術は、いったい何だろうと思う。動きが猫だった。鞠のようだった。
 《これは柔道か、あるいはもっと古い弥和羅
(やわら)の受身だろうか……》そう思う。
 果たして一つの術なのか。そうかも知れないと思う。何故なら新田郷の庄屋の堀川作右衛門から「昔は津村一族と言えば、その武勇も凄かったと聞きます。あの家は、奇妙な術を遣う家元なんですよ」と聞いていたからである。
 「奇妙なと言うと?……」
 「あれ、何とか言いましたなあ……。道家の術の何とか言いましたなあ……」と言うのであった。
 この道家の術とは何だろう?……と思う。奇妙な術を遣う家元とは、何だろうと思うのである。


 ─────それから数日が過ぎた。
 五月も余すところ僅かとなった。もう直、梅雨入りして雨期が始まる。
 27名の幹部候補生には兵長の階級章と幹部候補生の五芒星のバッチが配られ、襟部分に装着していた。
 しかし、津村陽平だけ過去の軍籍簿に、上等兵の記録無しとして、暫
(しばら)く二等兵を遣っておけとなった。
 では、幹部候補生となると、それはどうなったのか。
 宙に浮いてしまったのである。資格があるようで、そうでもなく、また無いかと言えばそうでもない。
 宙に浮いて、再度兵務局に問い合わせるから、暫く俟
(ま)てとなった。そこで津村も、二等兵で待機させられ、同期からは二等兵として、小突き回されるのである。
 幹部候補生は営内25名中、上位2、3名が中隊長の推薦状をもって幹部候補生の資格を得て予備将校教育が行われる。ところが、過去の古い召集で除隊満期した大学・高等学校出身者は、上等兵満期除隊の軍席簿の確認をもって、後期幹部候補生の資格を得るようになっていた。津村上等兵は後者のタイプであり、現役の学徒出身者でなかった。そのために兵務局から上がって来た軍席簿に、一切の過去の記録が残っていないのである。
 この漢、自分の階級が何であろうと、気にするような人間でもないし、単に今回の応召に応じただけであった。階級など、どうでもいいことであった。したがって、兵頭准尉は「調査する旨を伝え、暫くは二等兵で我慢しろ……」ということになって、津村陽平の襟章には二等兵の階級章が縫い付けられた。

 それを知って、此処に集められた他の26人は、次第に甘く見るようになり、「ちびのオッサン」などと蔑称され、同期から見下されるように「おまえ」などと侮蔑されるようになっていた。それでも津村は意に介さなかった。
 此処での蔑称は「矮男
(こおとこ)」であった。侮蔑に満ちた名称であった。矮男と書いて「ひきうど」ともいう。
 津村はこうした同期の中で孤立した。しかしその孤立も意に介さない。「こおとこ」であっても、「ひきうど」であっても、どっちでもいい。知った事ではなかった。

 やがて、新田郷の庄屋の堀川作右衛門の広い敷地の練兵場の一部を開墾に遣うという策が用いられ、初年兵並びに幹部候補生の一部から「開墾班員」を出さねばならなかった。
 開墾班では作業道具として鶴嘴
(つるはし)が先ず与えられ、これで荒れた原野を耕して石などを取り除き、更には鍬(くわ)で耕し、農作物の苗を植え付けられるように切り拓いて行く。それが至上命令だった。
 この際、常に幹部候補生からは、津村が「矮男」として名指
(なざ)しで選ばれ、あとは怠け者の怠惰組の数人が嫌々参加するのであった。
 ところが津村だけが異様な働きをみせた。矮男は人間削岩機であった。
 樹の切り株などに出遭うと、この漢が一人で掘り起こし、除去するのである。朝早くなら遅くまで、一人で耕地を耕していたのである。それも驚くべきことに、鶴嘴を固い地面に撃ち込むときは、右なら右、左なら左で片手で楽々と持ち上げ、地面に撃ち込むのである。その姿が、陽が落ちるまで毎日のように見られたのである。
 片手だけで鶴嘴を持ち上げ、それを固い大地に撃ち込む。簡単なようで、意外と難しい。
 それを止めずに、毎日陽が傾いて長い影が引き摺るまで、津村は止めようとしなかった。黙々としたところがあった。
 だが、この黙々は兵隊の任務を果たす黙々で、個人が好んでこの地道は働きをしているのではない。津村は公私混同を間違えぬ漢であった。聯隊命令により、自分の職務を遂行しているだけである。下級兵士として命令に従っているだけだった。命令さえなければ、此処までの働きをしたりはしない。

 津村の考えには「これは公務である」という公の立場の命令遂行に、忠実なだけであった。
 普段なら、こうまでして働かないであろう。
 本来は怠け者であるのかも知れない。好きな時に飯を喰い、好きなときに寝て、仕事は生業
(なりわい)である絵を描くのかも知れない。気分次第で、その日一日の行動が決まるのである。好きなことをして自由に生きている漢であった。強制されず、枠や型に嵌められず、応召があるまで自由奔放だったのであろう。
 ところが応召によって駆り出されたものの、今度は兵務局に、過去の軍席簿が残っていないと言う。
 結局宙に浮いたまま、足踏みさせられているのである。

 結局、津村が応召によって駆り出されたのは、間違いのようだなどの噂が同期から立ち始め、「そうだろうとも、あれだけ背の低い矮男が、われわれと同じ幹部候補生に選ばれる訳がない」ということになった。
 しかし、津村も忠実な男であり、はっきりするまで居残って、こうして命令に忠実に職務を全うしているのであった。他が手を休めたり、サボっても、自分は黙々と働くのである。矮男だがサムライであった。
 それも、特異なるところが鶴嘴でも、鍬でも、片手で振り上げ、楽々と地面に撃ち込むのである。

 夕鶴隊の面々も、午後五時を回れば寮に引き揚げて行く。時間が来れば彼女たちは寮に戻って行く。
 ところが、津村はその時間にも黙々と仕事をする。一向に手を休めることはない。左右を交互に使い分けて地面を穿
(うが)って行く。この行為だけで異様と言えた。
 「あの、小さなおじさん、こんなに遅くまで、まだ働いている……」と誰かが洩らした。
 「うわ〜凄い。片手でだけで、鶴嘴振り上げている……」と、また誰かが言う。
 矮男は上半身裸であった。配給の半襦袢がないからである。
 上半身は逞しいしまった、軍鶏
(しゃも)のような筋肉が着いていた。だが盛り盛りというふうでない。
 肩は骨と皮だけであり、剣術家のように撫
(な)で肩で、腹筋と背中の背筋が鋼(はがね)のようだった。内筋を鍛えた漢の肉体であった。小柄だが強靭に違いなかった。しかしそれを自慢するふうでもない。
 津村陽平の西陽を受けた逆光シルエットが、赤い画面の中に黒く描き出され強烈なコントラストを作り、夕陽の中で長い影を曳いた。
 アン・スミス・サトウ少佐は、庄屋の堀川作右衛門が「あの一族は誇り高く、毅然としておりました」という言葉が、再び脳裡に蘇ったのである。彼女は津村を見て「不思議な人……」と思うのであった。


 ─────翌日のことである。
 開墾班は粗末なバラックの作業小屋の宿舎に15名ほどが寝泊まりしている。各自は自分の本隊に戻らず此処で寝起きしている。
 早朝3時の起床ラッパを聞いて起き、夜は9時の消灯ラッパの合図で一日のリズムが定められ、小銃を担いで走り回る教練だけは免除されていた。その代わり、早朝から夕刻の陽が沈むまで、開墾という重労働が課せられている。
 ラッパを聞いて飛び起き、隊伍を組み作業場に向かい、また昼時は、正午に昼食ラッパが鳴る。それを聴いて糧食班へと向かう。
 しかし此処では朝夕の点呼はなく、また不寝番すら立たない。作業が終われば全員崩れるように寝る。その繰り返しの毎日だった。

 開墾場は「一日も早く」という至上命令が出ていた。そのうえ僅か15人では、人手が足りない。
 この矛盾を抱えて、開墾班は黙々と作業を続けるのであるが、班員が全員働き者という訳でない。
 完全に腐って、怠ける者も少なくなく、酷いのになると、何もせずに涼し気な木陰の下で悠々と鼾をかき寝てしまう者すら居た。
 一方樹の根を掘り起こすには、専ら鶴嘴に頼り、また根が顕われたら、その下に大木を差し込んで梃子の原理で浮かし、引き抜いてしまう。この大半を、大方津村は一人で遣っていたのである。
 時々、石橋班長が遣って来て、「頑張っとるか」と聲
(こえ)を掛け、そしてまた何処かに消えて行くのである。15名中、作業をしているのは10名いるか居ないかで、あとの5名はバカバカしくて遣っておれるかという怠惰の衆であった。それゆえ腹も減らないのであるが、その癖いつも腹を空かしてばかりで、食物に餓えていた。
 津村は左手で鶴嘴の柄の一番最短を握り、天に振り上げて、そこから落下の原理で固い地面に向けて鶴嘴の尖端を穿つのである。津村一人で、15人分の作業を賄
(まかな)っているようなものだった。
 朝3時になると飛び起きて、開墾場に急がねばならない。
 この班の班長は「石橋」という伍長だった。
 だが石橋伍長は明らかに指揮者の器でなく、それほど教養もあるようなふうでもなかった。リーダシップはゼロである。
 そして開墾事業について、何らかの計画をもって動いているふうでもなかった。ただ「開墾せよ」という漠然とした命令によって動いているだけであった。
 津村は殆ど水の呑まないし、休みもしない。この漢自体が一つの削岩機であった。人間機械だった。

 時々、視察の将校が農事技官を連れてやって来て、開墾状態の現状を確認しに来る。そのときも津村は黙々と手を休めず働く。そしてこのときばかりは、これまでダラけてサボタージュしていた連中も、また木陰の下で寝ていた怠け者まで、ゼンマイ仕掛けの人形のように飛び起き、鶴嘴や鍬を握って、忙しく作業するポーズだけを執
(と)るのである。

 「大分拓けましたなあ」
 「そろそろ苗の作付けを致しましょうか……」
 将校と技官が、そのような会話を交わして再び去って行く。
 すると大半は手を緩め、怠け者5人は再び木陰の下に潜り込むのである。だが津村だけは、そう言うのを気にも掛けず、ただ黙々と自らの任務を果たすのである。勤勉な漢であった。
 しかしこの勤勉は、命令によって契約されているようなもので、命令がなければ、この漢はここまで励む筋合いはないと思っている。

 本来、鶴嘴は天に持ち上げる場合、例えば右手、で穿つ場合、左手を柄の最短部を確り握り、右手を鶴嘴近くの柄部を握って持ち上げ、天に振り上げてそこらか落下させるようにすれば実に軽々と扱える。土方仕事をした経験がある者なら、この要領は分ろう。
 右の掌は持ち添えるとき、左右の間隔が肩幅大に広がっているのが自然と思ってしまう。
 ところが右の掌は、刃部の近くに掛けて持ち上げれば、楽に軽く上がるのである。
 しかし津村は、その軽々しい動きすら無視して、例えば左手左腕だけで楽々と上段に振り上げ、一気に落下させて固い地面を穿つのである。鶴嘴の落下自体は重力の関係から、地面に鋭く突き刺さり、削岩力を強大にするのである。振り上げ、そして落す。それだけの動作を、津村は黙々と繰り返すのである。
 ときどき手の甲で汗を拭い、また同じ作業を繰り返すのである。
 津村は、少し小休止をしようと思った。腰にぶら下げていた手拭で貌の汗を拭き、傍においていた水筒に手を掛け、その口金を口に持っていって呑もうとした。しかし水は殆ど入っていなかった。
 「空か……」と短く呟いて、また再び鶴嘴を握ろうとした。
 「はい、お水……」
 アン・スミス・サトウ少佐が将校用の水筒を差し出した。
 「少佐どのでありましたか。全く気付きませんでした」
 矮男は彼女には気付かなかったのである。
 「どうそ……」
 「宜しいのでありますか」
 津村は水筒の口金を当てて一口、ごくんと飲み干した。そして水筒を返した。
 「よく精が出ますね」
 二人は炎天下での立ち話もということで、木陰の中に入った。

 そこへ書類を小脇にした軍籍簿係の下士官がやってきた。
 「貴様らの中で、津村陽平は居ないか。津村!……。津村陽平!」と怒鳴っていた。
 「津村は自分であります」矮男は直立不動の姿勢で答えた。
 「貴様が津村か。貴様は過去の軍籍簿が紛失していて、結局上等兵であることが確認できず、わが聯隊本部は本日をもって除隊を命ず!」
 この下士官は傍に将校が居ても、アン・スミス・サトウ少佐を女だと甘く見ていた。
 そして帰り際、「これは失礼致しました、少佐どの」と、いい加減な敬礼をして去っていた。
 これを聞いた津村陽平の態度は豹変した。
 もう自分は兵士として縛られなくていい。何
(いずれ)れ、そのうち再び召集令状は来るであろうが、そのときはそのときで、今は民間人であると思った。たった今、民間人を申渡された。公私の切り替えを素早くしてしまったのである。
 矮男は、今は何一つ自分を縛るものはないと判断した。することと言えば、帰るだけである。

 「ご覧の通り、民間人になりました。では、これでお暇
(いとま)を……」とさばさばとした貌で言う。
 二等兵の階級章をひっぺ剥がし、すたすたとこの場を離れて行くのである。
 「お俟ちなさい、津村さん!」後ろから聲
(こえ)を掛けた。
 「私は民間人です、何者にも束縛も制約されません。少しばかりの荷物をまとめて出て行きます」
 矮男はすたすたと、掘建て小屋の宿舎に戻って行くのである。
 「津村さん、お俟ちなさい!」
 彼女は矮男の後を追った。
 津村は手荷物を整理して小脇に抱えた。小脇に抱えるほどの程度の物しか持っていなかった。
 この時代、普通初年兵であっても、闇米を隠し持って来たり、缶詰などの食品を忍ばせて、私物を持ち込むものだが、津村は私物と言う私物は、何もなかった。小脇に抱え立てるだけのボロ二、三枚であった。
 小屋の中に、アン・スミス・サトウ少佐が入って来た。
 「まだ何か?……」
 「お話がありますの」
 「むさ苦しいところですが、まァ、お掛けになったらどうです」
 彼女が穢い筵席
(えんせき)の上に上品に坐った。

 坐った彼女を津村はまじまじと見詰めた。しかし何も言わない。その見詰めようは執拗で、射るような、悪く言えば下卑
(げひ)の眼に近かった。それは無礼という目付きであった。そのうえ津村は、どっかりと彼女の前に胡座をかいた。実に奇妙な動作であった。命令一つで此処まで豹変してしまったのである。
 ここに彼女は、不可解な疑問を抱かねばならなかった。
 しかし津村は、茫然
(ぼうぜん)と見とれているだけだった。しかし津村の貌は、滅多に物怖じしない貌で、飽きもせずに彼女の貌を見続けている。見詰められているだけで、彼女は気が変になりそうになった。
 庄屋の堀川は、津村の一族は奇妙な術を遣うと言った。その奇妙な術が、これなのだろうかと思った。
 彼女もこれまで、あからさまにこのように漢から注視された覚えがないからである。

 礼儀からすれば、貴人も佳人も、直視すべからざるものであるという子供の頃からの躾をされ、妹のキャサリンとともに、鷹司子爵家ではそのように育てられた。二人はロイヤルファミリーの姫君として、鷹司家では貴人として大事に扱われて来た。そういう貴族としての養育を受けた。
 人は、並みの身分であるならば、貴人に対しても佳人に対しても、一見臆病になるものである。あるいは遠慮気味になって羞恥なりを感じるものである。ところが豹変した津村には、それが全くない。
 一切の躊躇
(ちゅうちょ)いがないのである。
 津村は堂々と、孔
(あな)が穿(あ)くほど彼女を見詰めた。また彼女も、見詰められたまま動けなかった。
 そして彼女は、耳朶が知らぬうちに徐々に赧
(あか)くなっていくのを覚えた。いつもとは違って、貌をやや俯(うつむ)けてしまったのである。
 津村はそれを《かわいい……》と思い、また彼女は彼女で、ここまで、あっけらかんに視線を浴びせ掛ける漢に遭ったことがなかった。

 「気に入った……」津村が吐露した。
 「はい?」ついつり込まれて返事をしてしまった。
 「困ったものだが……」
 「何がお困りですの……」
 「遂に画家としての、もう一人の自分が眼を醒ましおった……。いつもの悪い病気だが……」
 「……………」彼女は貌を赧らめた。
 「気に入った……」
 「……………」
 「兵隊がお払い箱のなった以上、これからは画家としての生業で凌
(しの)がねばならん。あんた、協力してくれんか……」
 「あの、わたしくは……」
 「あんたは綺麗だ。しかし綺麗なだけでない、高貴な生まれをしておる……。姫の家の人だ、その姫を描きたい……」と、あたかも身悶えするように矮男は言う。
 「あの、勘違いしておりませんか」
 「そんなことを云っては駄目だ。ひとが折角、いい気分で姫君を眺めておったのに……。つまらんことで水を指さんでくれ」
 津村の態度は急変し、口の利き方は横柄ですらある。それがまた実に奇妙であった。
 《一体この人はどういう漢なんだろう……》そういう感想しかなかった。
 「……………」
 訳の分からないような変な術、あるいは奇妙な術に掛けられたのだろうかと彼女は思った。
 「さて、お払い箱だ。帰るとするか……」
 津村は立ち上がり、小屋の外へ出て、すたすたと歩き始めた。
 「お俟ちなさい、津村さん!」後を追って叫んだ。
 津村は、手を挙げて《もう結構だ》というふうに手を振って、振り向こうとしなかった。

 彼女は津村と接して、一体これは何だと思う。余裕のある心理が、ああ言う態度をさせるのであろうかと思うのであった。
 生まれて初めての体験と、高が矮男一人とはいえ、津村の後ろ姿に小さな巨人を見たのである。
 此処まで揺さぶられ、心を鷲掴みにされて、簡単に自分を覆してしまった津村陽平とは、如何なる人物かと反芻
(はんすう)するのである。ますます取り憑かれ、却(かえ)って魅入られた観があった。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法