運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続 壺中天・瓢箪仙人 1
続 壺中天・瓢箪仙人 2
続 壺中天・瓢箪仙人 3
続 壺中天・瓢箪仙人 4
続 壺中天・瓢箪仙人 5
続 壺中天・瓢箪仙人 6
続 壺中天・瓢箪仙人 7
続 壺中天・瓢箪仙人 8
続 壺中天・瓢箪仙人 9
続 壺中天・瓢箪仙人 10
続 壺中天・瓢箪仙人 11
続 壺中天・瓢箪仙人 12
続 壺中天・瓢箪仙人 13
続 壺中天・瓢箪仙人 14
続 壺中天・瓢箪仙人 15
続 壺中天・瓢箪仙人 16
続 壺中天・瓢箪仙人 17
続 壺中天・瓢箪仙人 18
続 壺中天・瓢箪仙人 19
続 壺中天・瓢箪仙人 20
続 壺中天・瓢箪仙人 21
続 壺中天・瓢箪仙人 22
続 壺中天・瓢箪仙人 23
続 壺中天・瓢箪仙人 24
続 壺中天・瓢箪仙人 25
続 壺中天・瓢箪仙人 26
続 壺中天・瓢箪仙人 27
続 壺中天・瓢箪仙人 28
続 壺中天・瓢箪仙人 29
続 壺中天・瓢箪仙人 30
続 壺中天・瓢箪仙人 31
続 壺中天・瓢箪仙人 32
続 壺中天・瓢箪仙人 33
続 壺中天・瓢箪仙人 34
続 壺中天・瓢箪仙人 35
続 壺中天・瓢箪仙人 36
続 壺中天・瓢箪仙人 37
続 壺中天・瓢箪仙人 38
続 壺中天・瓢箪仙人 39
続 壺中天・瓢箪仙人 40
続 壺中天・瓢箪仙人 41
続 壺中天・瓢箪仙人 42
続 壺中天・瓢箪仙人 43
続 壺中天・瓢箪仙人 44
続 壺中天・瓢箪仙人 45
続 壺中天・瓢箪仙人 46
続 壺中天・瓢箪仙人 47
続 壺中天・瓢箪仙人 48
続 壺中天・瓢箪仙人 49
続 壺中天・瓢箪仙人 50
続 壺中天・瓢箪仙人 51
続 壺中天・瓢箪仙人 52
続 壺中天・瓢箪仙人 53
続 壺中天・瓢箪仙人 54
続 壺中天・瓢箪仙人 55
続 壺中天・瓢箪仙人 56
続 壺中天・瓢箪仙人 57
続 壺中天・瓢箪仙人 58
続 壺中天・瓢箪仙人 59
続 壺中天・瓢箪仙人 60
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 続 壺中天・瓢箪仙人 22
続 壺中天・瓢箪仙人 22

暗雲垂れ込める時代。人々は、どう生きるかを模索していた。
 誰もが破局に向かう暗い時代を生きていた。
 敗色の色濃いく顕われ、一般庶民は戦争指導者から聾桟敷
(つんぼさじき)に置かれ、負け戦など聴かされなかったが、物資の欠乏などから、負けが深まることを肌で敏感に感じ取っていた。


●狂人論

 当時の日本人が“怠惰の精神”に傾き始めたのは、栄光ある日本海軍が昭和17年(1942)6月5日から7日に掛けてのミッドウェーで大敗北を期したときからであった。
 ズルズルと虎口に惹
(ひ)かれ、負け将棋で、もう一番、もう一番を遣らされた上に、雪辱(せつじょく)は遂に拭えぬまま、これまでの華々しい陸海軍の快進撃は帳消しになる事態を招いていた。
 そして世論に昏
(く)い翳(かげ)りを投げ掛けるものがあった。
 日本は、この民族が始まって以来の、白村江の戦の大敗北を上回る大敗北を演じていた。

 663年、白村江で「日本ならびに百済連合軍」と「唐ならびに新羅連合軍」との間に行われた海戦で、日本は百済軍とともに大敗北した。そのため百済が亡んだのは歴史の知るところである。戦争は、負ければ国が亡ぶことにも通じる。日本は亡びはしなかったが、多大なる損害を受けたのである。日本は疲弊した。
 だがミッドウェーでは、この大敗北を更に上回った。空母による航空戦での三次元立体戦争は、その翳
りが他の感情にも連鎖反応を起こしていた。物資が欠乏し、ろくに食べ物が無くなれば、人間は投げやりになる。
 この空母による航空戦に敗れた時から、奇妙な「人生哲学」が巷
(ちまた)に溢れ出した。誰もが、いい加減になるのである。そしてこの怠惰主義は、一つの人生哲学にすらなり得るものであった。

 更に指導層や指揮官層に、器
(うつわ)でない者が起用され始めたことである。人望もなければ人徳もない種属が夜郎自大として尊大な態度を執(と)り始める一方、庶民は庶民で事なかれ主義に傾き始めていた。それは軍隊でも顕著であった。かつてのように軍律も保てず、軍規すら守られていない有様であった。
 愚人が、愚将を押
(の)し上げる構造が出来上がりつつあった。
 特に現象として顕われたものは、極端な空想による軍隊官僚の机上の空論であり、その空論が庶民に強制されつつあった。その愚行が「竹槍訓練」である。近代戦を竹槍で戦おうとしているのである。そしてこれが一気の吹き上げ、表面化し始めたのは昭和19年に入ってからであった。
 また老兵が容赦なく召集され始めたときであった。小銃た帯剣などの武器の配給は滞り、実力よりも兵員数でそれを調整しようとしていたからである。また軍服は愚か、軍靴すら不足し、老兵は地下足袋が履ければいい方で、草鞋
(わらじ)の老兵も少なくなかった。武装の配給は、老兵には皆無だった。彼らの役目は弾除けである。消耗品の命にスペアであった。何とも酷い話である。
 消耗戦に入れば、自給力の劣る国は軍需物資の欠乏によって崩壊して行くのである。しかし戦場の現実を知らない者は、この意味が分らない。不足分を精神で補えと言う。近代戦を肉弾で戦えと言う。生命の何たるかが分っていないのである。
 その最たる愚行の押し付けが、インパール戦でなかったか。
 戦争の何たるかを識
(し)らない、無能で功名心だけが旺盛な指揮官が目立つようになる。その下で、下級の将兵は苦戦を強いられ、喘(あえ)ぐことになるのである。

 インパール戦での生き残り兵士に、著者である私自身、何人かの方にお目に掛かったことがある。
 彼らの語る当時の戦争体験談は、語っているうちに次第に興奮して来て最後のは、この作戦の司令官への恨みの念が籠
(こも)って来て、その一人の方は「あんな軍人が、畳の上で死ねると言うのは、何とも悔しい」と涙ながらに吐露したことがある。万余の将兵をむざむざと死なしたからである。人間の命は薄っぺらな召集令状の印刷代程度にしか考えていなかったからである。その見下しの下に、彼(か)の地では「白骨街道」という無慙な現実が生まれた。コヒマから撤退する道々には、下級の日本軍兵士の死体が野晒しにされ、白骨が散乱していたのである。
 こういう現実は、インパールに限らず、ガダルカナル、ニューギニア、更にはシベリア抑留なのにおいて下級の将兵に対する扱いからの命の尊厳が軽視されていたからである。
 人間の命は、あたかも微生物視されていた。これらの戦線では、これまでの戦線と異なり、指揮官の無能によって生死の明暗が極端になっていたからである。つまり、「人間」を理解出来る指揮官が、高級将校の中に殆ど居なくなってしまったからである。
 その元兇になったのが軍隊官僚のという悪癖が齎した禍
(わざわい)であった。その最たる命令が「玉砕」ではなかったか。
 知識だけを集積したような軍隊官僚下での下級の将兵は、単に消耗品であり、その消耗に痛痒も感じない高級軍人が戦争を指導したからである。人間の生命は「物」であった。そのために大義を掲げ、勇ましいことをいい、名分を弄して下級の将兵に叱咤激励する。そして死ねば、物を消費したに過ぎない。この程度の思考である。こういう発想しか抱けない愚者が、軍の首脳に担ぎ出されたからである。

 その背景には、昭和十年代からの現役主義の置き土産があった。
 そのうえ激戦地では、下令される命令が理不尽であった。部下に死守せよと下令しながら、指揮官は早々と逃げ出す卑怯な真似をする者が続出したからである。もう、これだけで部下は蹤
(つ)いてこない。人間性や人格面のそれらの総てを見抜かれていた。人間の底が見えていたのである。本来は隠れるべき筈の愚者が表舞台に擡頭(たいとう)して、日本と言う国家を好き勝手に牛耳り始めたからである。
 例えば、海軍の水交社
(すいこうしゃ)とか、陸軍の偕行社(かいこうしゃ)の“自称エリート”という不可解な人物の登場である。日本を私物化し、国家横領を企んだ連中である。
 彼らは愛すべき底辺の日本の国民を、まるで多数の微生物を検
(み)るような目で残忍に激戦地に赴かせ、自分らは弾の飛んで来ない場所にいて、この安全圏と言う温室の中で温々と手足を伸ばしていた。
 一般国民を微生物視する彼らにとって、微生物が死のうが生きようが、彼等にとっては何の痛痒
(つうよう)も感じないことであった。何処までも、人間の命は「その他大勢の底辺の微生物」だったのである。

 その顕著な例が、敵前逃亡という指揮官自体がやらかす愚行である。尊大で、夜郎自大で、常に武勇を吹き捲くり勇ましいこれまでの武勇伝並べ立てつつも、自分だけは早々と逃げ出す類の指導者である。
 その指導者の実像を知り抜く下級の下士官・兵も少なくなかった。
 また、特に男に言えることなのだが、下は必ず上を検
(み)る。その真偽のほどを検る。そして検た結果、どうするか。

 昭和17年半ば以降、簡単に捕虜になったり、敵前逃亡する将兵が急増する。しかし、これが昭和19年頃になると、酷くなり“怠惰の精神”とともに、戦線離脱を企てることを平気で実行する者が出始めた。
 戦線離脱、つまり敵前逃亡であるが、これは死刑となる重罪である。死刑相当分が妥当と以前は考えられていた。ところが、これは一変し始める。
 例えばこの頃から日頃は武勇・尚武を尊び勇ましいことばかりを言っていた将官・佐官クラスの高級将校が敵前逃亡と言う事態を企てつつも、何もその非を罰されないことであった。ここまで種が見えてしまったら、もう下はいうことを聞かないだろう。夜郎自大の裏側も見えてしまっているからだ。
 激戦地と言う戦場に踏み止まろうなどの気は決して起こらなくなる。

 そこで敵前逃亡を謀
(はか)る。
 どうせ戦場に踏み止まって激戦を繰り広げても、火力に勝る方から攻撃されれば、敵前逃亡で死刑であろうが、死守して陣地ごと吹き飛ぼうが、どっちみい同じ死ぬ運命にある。
 そして、どうせ死ぬなら……となって逃亡し、妻子とともに同じ場所で死にたいと考えるのである。
 激戦地で最後の一兵になるまで、一人で死ぬという死に方は望まないのである。
 時代は、既に戦々恐々ではなく、本来の厳しさから免れようとする狡猾な方が勝って来る。それが軍隊の生活面でも顕著になり始めていた。初年兵教育は不能化し始めていたのである。この頃になると歩行行進も、敬礼動作も、また基礎訓練も殆ど行われなくなり、内務や営内では朝夕の点呼もなく、不寝番
(ふしんばん)も姿を消していた。したがって初年兵と言うのが、ただ使い古した軍服を着ただけの、戦争では殆ど遣い物にならない木偶の坊か藁人形であった。これでは敗戦前に勝負は決まっていたと言えよう。それなのに、なぜ赤ん坊までを戦闘員と看做(みな)し、広島長崎に原子爆弾投下を行わねばならかったのだろうか。そして、これこそ顕著な戦争犯罪ではなかったのか。
 しかし人類世界に、この戦争犯罪を断固として裁き切る正義は存在していない。むしろ国際政治において、それは正しかったとする考え方が大多数意見である。
 昭和19年と言うのは、日本がその縮図の中に巻き込まれ、人体実験として“自称エリート”に牛耳られようとするときであった。“自称エリート”は、同じ日本語を喋りながらも、日本人の意識はなかった。
 彼らは日本人ではなく、地球を一つと考える“ワンワールド人”であった。日本の国体も、更には日本語と言う古来から連綿として続いた言霊も崩壊させて憚
(はばか)らない“ワンワールド人”であった。


 ─────相変わらず、鷹司友悳と沢田次郎は角を付き合わせていた。
 「鷹司さん、これが私の示すスタッフの最低限度のリストです。本日より二日以内に集めて下さい」
 「うム?……、これは!……」鷹司友悳は、たいそう驚いて聲
(こえ)を上げた。
 二日以内でしょよとは、余りにも早急過ぎるからである。しかし、この知恵袋が此処まで急がせるのは、訳あってのことであろと思う。
 「昨日、あなたは『七度擒
(とら)えて七度縦(はな)す』と言った筈です。あなたの担当は実務で、私はその実行者に過ぎない。既にわれわれば、あなたが『タカ』計画を持ち出した時から覚悟が出来ていた筈です」
 沢田は鷹司に、『タカ』計画の趣旨を忘れたのですか、と詰め寄りたかった。

 鷹司友悳が沢田次郎に持ち出したのは、ナチス独逸の宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの国民啓蒙並びに宣伝効果のその術の最も威力ある現象を知りぬいたハイデルベルク大学の哲学博士の博士号を持つ、この人間の才能に着目したからである。そして、ナチス独逸が何故あれほど躍進したかを分析したのである。
 それは儀式めいた軍列行進に秘訣があると検
(みたのである。鷹司は独逸駐留武官だったとき、他の欧州の軍隊を調査して廻り、軍楽の持つ意味の大きさを知ったからである。
 鷹司は思った。人間を鼓舞し、勇気を奮い立たせるものは何かを考えた。
 ナチス独逸の場合は、ヒトラーが信奉したリヒャルト・ワーグナーだった。ヒトラーはワーグナーこそ、ナチス独逸に栄光を齎す音楽家であると確信した。ワーグナーの行進曲にこそ、第三帝国の繁栄と躍進のリズムがあると、ヒトラー自身が独自の霊的感覚で捕えたのである。そしてこれが、ヨーゼフ・ゲッペルスの異能と結びついた。
 国民を鼓舞し、奮い立たせるのはこれしかないと確信したのである。ナチス党はこれにより大きく躍進し、同時ドイツ国民から圧倒的な支持を得たのである。鷹司友悳はこのように分析したのである。この分析結果が『タカ』計画を立ち上げたのである。
 そこで彼は、予々
(かねがね)特異なる鬼才を持つ、陸軍法務官の資格をもち、憲兵中尉だった沢田次郎にこの話を持ち掛けたのである。沢田はこの話に乗った。

 沢田は鷹司の話を直ぐに理解した。理解して、今の、現在の日本の状況を考えて、最も最短距離で宣伝効果の期待で策は何かと智慧を絞った。その結果、女子学徒の中から、特に学力優秀かつ心身健康で、身体能力がある20名の女子を集めて教育することであった。だがこの教育の中には、宣伝効果ととも、戦争を早期に終結させる策をも含まれた二段構えの計画が『タカ』計画にはあったのである。以降、これを『タカ』と呼称するようになる。
 沢田は思う。
 戦争を終わらせるには、開戦する以上に金が掛かる。つまり軍資金がなければ、戦争は終結出来ない。軍資金に窮してダラダラ戦争を続けると、国力が疲弊するばかりで、疲弊の最後には和解も出来なくなり、賠償金すら払えなくなって国家破綻が生ずる。もう、そのとき、国はないのである。
 彼は思う。
 日本人の馬鹿者どもは、「国破れて山河在り……」などと、二言目にはこれを言うが、果たして戦争に敗れて一体何処に山河が存在するのだろうと。もうそのときは「兎追いしふるさと」も「荒城の月」を仰げる城趾跡ないのである。
 平成の世の今風に言えば「みかんの花咲く丘」すらもないのである。
 国が敗れれば、もうそこは敵の国であり、国と言う存在自体、日本は世界地図から消えてしまうのではないかと。果たして何処に「国破れて山河在り……」などという悠長な感傷が存在しよう……と。
 これまでの日本人は日清・日露で負け知らずの快進撃の結果、辛うじて戦勝国として、大日本帝国を維持して来た。だが、今は違う。負け戦を演じている。日増しに負けが堆積している。兵は疲弊していた。
 この状態に、国が敗れても果たして山河が、それ以降も存在するのかと。
 甘いと思う。

 一旦戦争に負けると、山や川はおろか、国家や民族としての纏まりさえも失われてしまうのである。その纏まりのなさが、この時代顕著になり始めていた。
 欧州では「国が敗れれば、麗しき山河も、みな敵のもの」というのが常識であり、また日本以外の世界もこの常識にしたかって国家が運営され、国際政治が行われているのである。
 これは逆に言うと、近代市民社会というのは、自分達を護ってくれる軍隊があっての物種であり、軍隊に対し深い信頼と尊敬に意識がなければこの社会な成り立たないではないかと。
 かのフランス国歌の『ラ・マルセイエーズ』は、祖国防衛のために進軍する義勇軍の歌ではないか。またアメリカ国歌の『星条旗よ永遠なれ』は独立戦争での弾丸に斃
(たお)れた愛国者の歌ではなかったか……。
 人間界は、敵国を打ち破り、その敗戦国を世界地図に残してくれる戦勝国は殆ど存在しないではないか。歴史はそれを何よりも雄弁に物語っているではないかと。
 そして、更に国が残る方法があるとしたら、戦争に勝つか、あるいは負けるにしても、上手に負けて、国民と言う根は残しておかねばならないと切に思うのである。だが、前者の方法での存続でのチャンスは既に失われており、残るは後者の方法以外なかった。このままズルズルと戦争をしてしまっては、上手に負けるチャンスすら失われる。
 更には世界地図から日本が消え、もう国は永遠に復活することはないと懸念していたのである。

 「しかし、二日とは……」と苦渋に満ちた貌をした。
 「これでも遠慮して、二日と申し上げているのです。流石に一日と言えば気が引けますからね。値引きする心痛、お察し下さい」
 「しかし、君はとんでもないことを考え付く漢
(おとこ)だ。そこに恐怖すら感じる。まさに毒薬ですよ。
 実は、君のそうした毒に触れて、もう半分は麻痺している。しかしその毒の痺れが、何とも心地よい。
 だが私もそれほど馬鹿ではない。君の二日以内は、私に発破を掛ける君の巧妙なマジックだろ。
 しかし、そのマジックを見てもらいたいと思うのも偽わざる気持ちです。今度は私に、答案を見せろということでしょうか、沢田君」
 「あなたも鋭い人だ。私のマジックの手の裡
(うち)を、もう読んでいる……」
 「君も、私に読ませるように、このマジックを仕掛けている。先に種明しをして、再びマジックを再現しようとする。しかし、幾ら種明しをしても、決してそれが再現出来ないことを君は百も処置している。地球に起こる地球現象が、過去にも未来にも、絶対に起こらないことを知っている。相対界の生きとし生けるものの宿命を知っている。つまり、カオスの何たるかを知っている。私は、そう検
(み)ていますが、違いますか」

 「私は、あなたの『七度擒えて七度縦す』の気宇壮大な夢に一枚噛んだだっけだ、その夢を見てみたいと思っただけですよ。そこで、夢を見るためにも、夢は見るだけの仕掛けが要
(い)ります。あなたの気宇壮大な夢には大掛かりな仕掛けが要ります、その仕掛けなくして、この夢は見ることが出来ません」
 「いいでしょ、夢は君ととも共有しましょう。二人は同志です。
 しかし、君はとんでもないところ目を付けるものですねェ。ここに挙げられた、例えばキャサリン・スミスと言う英国人女性は無期が確定され、現在府中で服役中です。この女性にどう言う理由で、何をさせようと考えているのですか。その種を半分だけ教えてもらってマジックを遣ってもらうと、見る方も愉しみが二倍になりますが……」
 「私はね、鷹司さん。二倍なんてケチなことはしませんよ。三倍にも四倍にもして、この面白いマジックをご覧にいれますよ。
 アン・スミス・サトウ。27歳。もと英国空軍のテストパイロット。空軍少佐。
 スーパーマリン社のスピットファイアのテストパイロットの経験があります。凛々しくて勇敢な女性です。
 私が女子戦闘部隊を組織しようと考えたのも、このズバ抜けた身体能力と頭脳を持つこの女性の存在を知ったらです。
 私は10歳からケンブリッジを終えるまでの約10年間、この国の女王陛下のロイヤルとは何か……を見てきました。この国に根付くものは伝統です。
 エリザベス女王がオランダの独立を支援し、更にスペインの無敵艦隊を撃滅したときから、更にはチューダー朝最後の王の伝統に基づいているのです。それに治世45年と言う長さも、その後に影響を与えて来た。
 アン・スミス・サトウも、そういうロイヤルファミリの中で育った女性です。
 彼女の良人
(おっと)は日本人の貿易商の佐藤信夫氏で、氏はまた私の養父の友人でもあります。
 鷹司少佐……。
 ここまで半分種明しすれば、もう仕掛けは半分ったも同然ではありますまいか?……」

 「実に君らしいことを考える。参謀本部を引っ張り出して、私を動かして憲兵隊にも圧力を掛ける。そして君はその命令を待って悠々と彼女を釈放させ、この夢の舞台に一枚噛ませる……というところでしょうか」
 「中らずと雖
(いえど)も遠からずですなァ。もう負け戦を仕掛けて、早期終結を果たさねばなりません。
 ナチス独逸
(ドイツ)発の信管『ペーバークリップ作戦』元本が、もう米国着で到着し、かの国では物理学者らを集めて『マンハッタン原爆計画』が実行に移されようとしています。
 これは王手
(おうて)ですよ。これをあなたは、次の一手で、どう躱(かわ)しますか?……」
 「この赤色の調査書は、実に刺戟的ですね」

直 接 業 務 に 関 す る 調 査 リ ス ト

No 氏    名 性別 年齢 罪状・判決 現在の所在 身分・職業 特 技



4
アン・スミス・サトウ
キャサリン・スミス
林 昭三郎
植村 宗次



27歳
24歳
60歳
35歳
国家転覆罪・死刑
治安維持法・無期
不敬罪誣告罪・無期
治安維持法・無期
府中刑務所
府中刑務所
特高警察拘置所
府中刑務所
元英国空軍少佐
元少尉・大学講師
古神道神主
元海軍軍医大尉
パイロット
暗号解読
異能者
医療技術

 「このメンバーは刺激的であるばかりでなく、いわば時代の転換期に顕われる狂人です。これから時代は大きく変化します。この変化に平気で耐え得る人間は、狂人でなければなりません」
 「君の特異な『狂人論』ですね。さて、一番最初にリストアップされているアン・スミス・サトウは、何を担当させるのです?」
 「彼女を『タカ』計画の主任教官に据えます。彼女の思想に基づき、一切を一任します」
 「それほど、信頼出来る人物ですか」
 「死刑を宣告されても、顔色一つ変えなかった。あたかもマリー・アントワネットのように胸を張り毅然としていた。それを確かめに、何度も刑務所を訪ね、熱っぽく説いて彼女から同意を得ました」
 「スミス姉妹は二人とも軍歴を持っていますが、どうして日本に滞在出来るのです?」
 「アン・スミス・サトウは、結婚と同時に、日本に帰化しています。日本国籍を持つ、歴
(れっき)とした日本人です。
 また妹のキャサリン・スミスは、お茶の水女子大で数学の講師をしていました。戦前から日本に居るので、当然日本の『高文官令』に基づき、在日する権利が認められます。何の問題もありません」
 「実に上手い盲点を衝
(つ)いたものですねェ」
 「彼女ら二人は有能な女性です。また日本にとっても有用な女性です。
 アン・スミス・サトウとキャサリン・スミスは軍事顧問として、軍席簿に陸軍航空士官学校教官として少佐と少尉の階級で登録をしました」
 「君はどこからどこまで、抜かりがないですね、慎重だ」
 「しかし、『タカ』を発動するのは、それ相当の軍資金が要ります。今その策を捻っています」
 「私は駐留武官補佐官だったとき、ドイツでゲッペルス博士の国民操縦法を見ました。彼の宣伝相としての才能はナチス独逸を、全ドイツ国民に、最も効率よく効果的に啓蒙したことです。
 そのときの啓蒙効果には、まず友軍の勇ましさ、凛々
(りり)しさ、そして、この二つに目を向けさせるには何が最も効果的かを知り抜いていて、儀式の大事を重んじたのです。つまり、儀礼の重要性を充分に把握していたと言えるでしょう。
 これは同時に、軍に協力的でない人まで惹
(ひ)き付けてしまう。だから世界の軍隊は、必ず軍列行進を内外に見せ付け、勇ましさと凛々しさをアピールする。
 また、これは自国民だけが見ている訳でありませんからね、その国に潜入した諜報員たちも、その実力のほどを軍列行進の中で確認する。行進一つで、その軍隊の結束度を計ることが出来ますからねェ。
 これは抑止力になります。単に戦車や大砲や軍艦を持っていると言うだけでな駄目です。それを操作するのは人間ですからね。人間の連帯感や信頼感、それに時々刻々と変化する状況判断も、人間の才が物を言うですから、そこの国民を検
(み)れば、実力まで分ってしまいます。これだけは虚飾で来ません」
 「だが、見せ付けるには金が要ることも念頭に置いていて下さい」
 「分っております。そこで、では君の手の裡
(うち)を拝見と生きましょうか」

 「これまで私が臨時で担任をしておりましたが、一切をアン・スミス・サトウとキャサリン・スミスの彼女らの手腕に任せます。その間、私は『貸し』のあるところから、集金をして参らねばなりません。
 取り敢えず、まず養父・沢田翔洋から英国輸入品の物資を、一旦香港並びに上海経由で輸送させ、上海から日本の潜水艦で横須賀まで輜重させるルートを確保しました。勿論これは非合法でが税関は買収済みです。
 更に養父の沢田貿易商会より、250万円の寄附を約束させました。また、あなたの父上の所持する鷹司財閥からも、120万円の寄附の同意を頂いております。
 また、非合法の輜重ルートは、軍の極秘便で、横須賀より本日到着分を輸送させます。養父の考えそうなことです。明日には付くでしょう。この中には武器弾薬も含まれております。これで当座は凌げるでしょう。
 なお、『笹山旅館』は、わが方で借り上げております。
 但し、店舗賃貸を結んで借り上げましたので、そのまま営業をして頂くために、わが方が一時期、この旅館の営業を代行します。その際、従業員の給与その他はあくまでも経営ですので、それ相当の経営者と言うことで本聯隊に上等兵として召集された、もと帝国ホテルの支配人だった小松原光男を此処の総支配人にして、一切の経営を任せる予定です。大使館や財閥周りの客引きは、憲兵特権の『要視察人』の尋問を兼ねて、私が遣ります」

 「君も、面白いことを考えるものだね。次にキャサリン・スミスなる女性は?……」
 「翻訳家で外国の暗号電報解読に役に立ちます。数学者です。彼女の下に、参謀本部からのタイピスト2名を付けて頂きたいと考えますが、その有能な英文タイピストを、こちらに引き抜いて下さい」
 「それは構わないが、空席になった分はどうしますか?」
 「代わりに、わが方から、つまり女子挺身隊から、逆に2名送りつけます。この交換条件で、わが方から2名を出向させ、参謀本部をスパイさせます」
 「参謀本部にスパイがいるのですか」
 「私はそう考えています。日本の国家機密が異様に漏洩している疑いが幾つかあるからです」
 沢田次郎は参謀本部第二部
(情報)に不信の念を抱いていた。
 「それで参謀本部に送り込む2名ですが、誰か考えているのですか」
 「明大女子部の中川和津子と同大学の山田昌子を潜入させます。この特訓を本日より、一週間でマスターさせますが、単にタイピストということでなく、発見した漏洩情報を暗号電報に組み替え、わが方独自のコードで逐一送信させます。そのために暗号解読に詳しい、キャサリン・スミスを遣います」
 「彼女たちはスミス姉妹ということですね。日本語はどうなのです?」
 「全く日本人と同じです。日本生まれでその後、イギリスに渡っていますが、この姉妹はロイヤル・ファミリーなのです。
 但し、妹のキャサリン・スミスは特高警察の拷問により、毒まで呑まされて目を失明しました」
 「どういう罪状で逮捕されたのです。姉のアンの国家転覆罪幇助
(ほうじょ)ということです。おそらくこれは官憲の捏造でしょう」
 「私はこの取り締まった漢を知っています。特高警察の次長をしています。堀川久蔵といいます。
 この漢は東京憲兵隊が、治安維持法と国防保安法の容疑で本日憲兵隊が逮捕します。その後、こちらに護送させ、高文官資格と身分を剥奪
(はくだつ)の上、暫く本聯隊で初年兵をやって貰い、充分に飼い馴らし骨身に滲(し)みた頃、わが方のスタップの一員に加えます」
 「逆スパイですか」
 「内務省の極意情報に、まだ何か隠された悪事が潜んでいると考えているからです。実際にその情報を掴まない限り、よりよく負ける最もいい状態での戦争終結法が分らないからです。国家機密に関する極秘情報は、いまや陸海軍から内務省に移りましたからね。確かに陸海軍は各地に派遣しているそれぞれの駐留武官から重大情報と思えるものは入手していると思われますが、これを分析して利用する技術がないのです。
 情報は入って来ても極秘情報はその信憑性の高い物ほど握り潰されて、それが焼却処分されているのです。
 これでは正確なる情報が入手出来ないのも同然。
 そこで特高警察の次長の堀川を本日包囲し、逮捕した後、憲兵隊の留置所に身柄を確保してその後、こちらに護送します。この漢を締め上げて練兵するのは、特務譚の鮫島軍曹が適任でしょう」
 「君も上手いこと考え付くもんですね。ところでキャサリン・スミスなる女性、どういうふうに遣うのですか、例えば単なる暗号解読のスタッフだけとか、あるいは教官としてとかですか……」
 「勿論、教官としてです。軍隊経験も持っています。
 暗号解読の技術はですねェ、単にその字面らだけ追っても駄目なんです。文面の裏に隠れた、例えば藕糸の繋がりを全体像からマクロ的に解読しないと本当の真意は掴めないのです。それを読めるのがキャサリン・スミスの才能です。そして解読したものが、例えば『神意』に添うもものか、目眩まし騙し情報なのか、ここまで解読出来て本当の情報と言えるのであって、そもそも情報とは、多く掴ませることで、入手した諜報者を攪乱することを目的として流されますからね、いい情報とは表に何か出ていないのです。裏の分らないところに隠されているのです。だからこの解読の真偽にあたり、いま服役中の林昭三郎を参謀本部から、私宛に命令を出し、その命令の執行で、私が始めて動けます」
 「それは大丈夫です」
 「君に本日の午前中までに陸軍法務官宛に発令しております。もう釈放のために動いて下さい」
 「分りました」
 「一つ、訊いてもいいですか、スミス姉妹の妹は、どう言う拷問で失明したのですか」
 「毎日、0.01グラムの大麻を食事の中に混入し、暗示を掛けて麻酔拷問したというですが、その常習性で目を殺
(や)られとのことです。またその症状を発見したのが元海軍軍医大尉の植村信二郎です。私が調査しました。しかし命だけは取り留め、漸(ようや)く恢復(かいふく)したのですが、目は失明しました。彼女とはケンブリッジからの同級生で、私の婚約者でした」
 「なに!婚約者……ですか?……」
 「堀川久蔵にはたっぷりと、これまでのツケを払って頂きます。また、堀川の自称『堀川御殿』と言われた屋敷は差し押さえて、本日付けで、裁判所の競売で売却し、これで得た利益分をこちらに融通させます」
 「それは報復ですか?」
 「違います。キャサリン・スミスは、今はもう婚約者ではありません。婚約は、向こうの方から解約されました。私の目的は堀川を、逆スパイとして再び内務省に放ちます。
 但し、それには改造するための矯正学習が要ります。その為に特務命令を鮫島軍曹に命じます。おそらく彼は此処ぞという異能ぶりを発揮することでしょう。
 私は一切手を出しません」
 鷹司友悳は、沢田次郎が悪魔的な発想をする恐ろしい漢だと思った。
 「君を私の下の置いておくと、私まで君に啖
(く)いそうですね」
 「しかしそういう緊張がある方が、生きていて張り合いがあるのではありませんか。毒蜘蛛を飼って、ご自分の腕の上で這わせるのもいいものですよ。快い緊張が疾って……」
 「毎回、緊張させられるというか、もうこの頃は、緊張させられっぱなしで、すっかり麻痺してしまいましたよ」
 「そこでまた、より強い緊張が欲しいと言う訳ですか。お望みなら、毒薬に続く来るくらいの、その種の緊張を与えても構いませんが……」
 「私の緊張を受け入れる蔵の許容容積は、もう一杯ですよ。暫く詰め込むのを俟って頂かないと……」
 「鷹司さんも、上手いこといいますね」
 「では、私はリストナンバーの1番と2番を払い下げに行って参りますので、後は宜しくお願いします。
 おそらく本日の一三〇〇
(ひとさん‐まるまる)に到着着任致します。彼女たちには一切を報せて、既に了解を得ております。
 また、夕刻には林昭三郎と植村宗次も着任命令を出しております。時間は未定ですが着任致します。
 では、任務に取り掛かりますので……。ではこれを置いて行きます。十分に検討されてみて下さい」

 沢田次郎の出退勤の際は、常に近くに黒塗りの一台のオースチンが停車していて、それにより移動しているのであろうが、おそらくこれは憲兵隊の覆面車輛であろう。
 沢田は『沢田レポート』なるものを残して行った。それを鷹司友悳は暫く見詰めていた。

『沢田レポート』

出演者:女子挺身隊(隊名、現在不明)
友情出演:東京陸軍士官学校儀仗隊
 海軍横須賀海兵団軍楽隊
 陸軍軍楽隊
 以上、出演要請願書をもって各種属の最高責任者に軍用要請。

重要招待者
 1.女子挺身隊父兄ならびにその親族
 2.政府要人
 3.貴族院
 4.陸軍参謀本部
 5.海軍軍令部
 6.財閥役員

宣伝媒体
 1.各新聞社
 2.各映画会社
 3.日本放送協会の実況中継
 4.報道雑誌社

宣伝デザイン
 1.女子挺身隊の軍服
 2.ポスター作製依頼
 3.開催前の提灯評論以来
 4.開催配置作業

啓蒙
 1.音楽をもって上手な負け方を演出
 2.ラジオを通じての国民啓蒙
 3.電気メーカにラジオの普及率を上げるために増産依頼
 4.陸軍内に大本営以外の宣伝部を発足
 5.国民映画作製
 6.中道主義・中心帰一主義・惟神の道
 7.女性の優しさ、愛らしさ、清らかさ、細やかさなどの
 日本女性の美称「大和撫子」の主張

決行日時:昭和19年5月××日、午前11時開会。午後4時閉会。
目的:軍資金調達及びプロパガンダ

 また、本レポート内容の一切は主任教官のアン・スミス・サトウ少佐に了解済みとあった。
 このレポートには、なぜ有能な20歳を上弦として徴用したかの理由が語られ、軍列行進の齎される有用なエッセンスが論じられていた。
 軍部の軍票乱用で紙幣価値が下落したこと。藕糸として、金銭の価値観が低下したことなどの意図も示されていた。更に付け加えて、日本人と欧米人に対する「わが子への思い」の相違も挙げていた。
 日本人の親は「村」と言う単位で物事を考えるため、「わが子への愛着」が大で個人主義。
 欧米人の親は「全体的に検る思考」に優れ、近代市民社会が如何なるものが教育を通じて熟知する。
 これらの心理を踏まえて、親の見るわが子への愛着度のペンションを挙げる意味の重要性をも説いていた。
 これは今日でも、しばしば見られる光景で、例えば隊列行進や運動会一つ挙げても、「あそこに、わが子が出ている……」の意識で、それをビデオや写真に納めるなどの行為である。
 沢田次郎は、報道すると同時に、これを利用しなければと考えた。
 当時の報道には常に「極秘」などの規制が懸かり、負け戦情報や玉砕は闇の中に封じてしまったが、これが裏目に出て、「わが子の消息が分らない」という苛立から、戦後は『舞鶴の母』などの悲劇が起こった。


 ─────女子挺身隊の午前中は、制服縫製のために費やされていた。
 「皆さん、作業の途中ですが、一旦手を休めて聴いて下さい。
 本日の午後一時に、皆さん方の新しい担任の先生が着任します。二名の方が衛門前で出迎えられるようにとの事です。たった今、その連絡を、詰め所で窺いましたので、伝言しておきます」
 被服担当の柿原浩子が言った。
 「えッ?わたしたちの担任は、沢田中尉さんではなかったのですか」
 「なにか、交替されたと言うことですよ。それ以上のことは何も分っておりません。ああ、それから、沢田中尉は、このたび大尉になられたそうです」
 「あッ……、しれじゃあ、沢田中尉さん、今度栄達したんだ。偉くなったのね、何だ、がっかり……」と島崎ゆり。
 「何も分ってないって、年齢なども不明なんですか」とこう訊いた山田昌子は、新任の教官が軍人で漢と思っているからである。彼女に気になるのは、年齢とその人物の性格なのである。此処の全員もそのように考えていた。まさか、沢田次郎が据えたアン・スミス・サトウ少佐だとは夢にも思っていないのである。
 「そうです。だから二名を選出して、衛門前で出迎えられるようにとのお達しです」
 「情報が、これ以上ないと言うことですか」と不安そうの和津子も訊いた。
 「では、伝言を伝えましたよ。では、また作業に取り懸かりましょう。なお、ですね。
 本日付けの至上命令として、わたしに本日中に完成させよとのことで、何か急いでいるとのことを仰せつかっております。では、急ぎますよ」
 「ああッ……、厭
(いや)だな。鮫島軍曹のような怕(こわ)いおじさんだったら……」と島崎ゆり。
 こうして午前中が終わった。

 彼女たちの昼食時のことである。
 「柿原先生が仰ってた衛門前の二名の出迎え、誰がやる?……、遣りたい人、直ちに挙手!」と副島ふみ。
 「わたし、厭だなあ。昨日のおじさんでこりてるもん……」と島崎ゆり。
 「だから、さあ。今度はお子さまランチほか一名がだな、確り出迎えて、昨日の汚名を雪
(そそ)ぐのだ。
 その一名は、お子さまランチで決定として、あと一名は?……。希望者は挙手!」
 「はい……」と心細そうに宇喜田しずが手を挙げた。
 「やりたいのか?」
 「皆さん、嫌がっているようで、わたし小学校しか出ていません。したがって、あまりお役に立っていないのではないかと思い、せめてこういうときにでもと思って……」と宇喜田しず。
 「偉い!……。お子さまランチより実に偉い。では、その厭な役、恃
(たの)むとしよう」と副島ふみ。
 「お姉さんたら、そう言って厭
(いや)なこと、みんな年下に押し付けているんじゃないの」と島崎ゆりが口を尖らす。
 「やかましい、これで決定。一件落着、めでたしめでたし……」と副島ふみ。
 「ついに罠に嵌められたか……」と島崎ゆり。
 「しかし、お子さまランチ以下一名では、なんか心細い。ほか?……」
 「はい。わたしも宇喜田さんと同じで、せめてこういうときにと思っています」と室瀬佳奈。
 「じゃァ、わたしも……」と長尾梅子。
 「偉い!……。とにかく何のかんのと言っても、偉い。これで『お子さまランチ防衛隊』が出来た。頑張って行って来い」
 「お姉さん、ずるい」と島崎ゆりと苦情をいう。
 「そんなことより、お子さまセットらよ。もうじき午後一時だぞ。多分なあ、教官と言うからには、先ずガチガチの軍人で階級は尉官以上だなァ。ビシバシ厳しいかも知れんぞ。軍人さんは、時間に厳しいからなァ。
 原則として5分前精神だ。5分前が正規の約束時間なんだ、覚えておけよ」
 「お姉さん、怕いばかりなくって、案外と物知りなのね。その辺は尊敬しちゃう」と、島崎ゆりが自棄糞で言う。

 「お子さまランチから、そんな世辞を喜ぶ段か。これから、もっと恐ろしいことが起こるぞ。それに何だか慌ただしい。なんだか言っても、日本もそろそろやべえなァ、このぶんじゃ。
 考えてみろ、何故この頃、残業が多い。これみても、なんか急いでいるなァ。いよいよ決戦のとき来るで、戦い近しかな……」
 「そんなになったら……厭だなァ。わたしたち、死んじゃうのかしら、なんだか怕い……」
 島崎ゆりが思っていることをずけずけ言う。
 これを聴いて、良子も、和津子も不安になって緊張が疾った。本当に近いうちに決戦と言う事態が起こるかも知れない。その懸念はある。否定する材料より、肯定する材料で溢れているからだ。全員が、一瞬凍り付いたような貌になった。

 「わたしたちも、グズグズ出来ない。行かなければ……、急ぎましょう」と室瀬佳奈。
 「軍人さんの出迎えだから、最低でも軽武装ね。拳銃と帯革で行かなければね、叱られるかも……」と長尾梅子。
 四人は慌ただしく拳銃を掛け、帯革で固定して衛門へと急いだ。
 「あれ?……。ねえ、誰もいないね」と島崎ゆり。
 「ほんと……」と宇喜田しず。
 「誰もいないねェ……」と室瀬佳奈。
 「怒って帰ったのかしら。ねえ、梅ちゃん、どう思う?」と島崎ゆり。
 「怒って帰ったかもね……」と長尾梅子。
 「そうなると、どうなるのかしら……」と島崎ゆり。
 「もしかしたら……」と長尾梅子。
 「変なこと、想像させないでよ……。佳奈ちゃん、どう思う?……」
 「何だか、怕いなァ……」と室瀬佳奈。
 彼女は新任教官が怕いのではない。もしかすると決戦……という事態が怕いのである。それに恐ろしいほどの不安を感じるのである。
 「誰もいないけど、あれ見てよ。あの二人の女の人、外人さんかしら?……」と宇喜田しず。
 「あの辺を何で、うろついているんだろう……」と室瀬佳奈。
 「ああァ……、衛兵のおじさんが文句を言いに行ったよ。あそこの、モンペの茶色の髪の外人さん、あんなところ、うろついていたら、スパイと間違われるのになァ……。きっと道か、何か探していたのね。
 かわいそう、きっと、衛兵のおじさんから叱られるぞ……」と島崎ゆり。
 「あらッ、衛兵のおじさん、あの二人を連れて来たわよ」と長尾梅子。
 「もう、一人の女のひと、目が見えないみたい……」と室瀬佳奈。
 「遠い他国に来て、それも戦時下で、なんだかかわいそうだなァ。わたしたち以上に可哀想な人、他にも沢山いるのね。みんな戦争が悪いんだわ」と宇喜田しず。
 「それにしても、あの外人さん。衛兵のおじさんに、何か怒鳴っているみたいよ、それも英語で……」と長尾梅子。
 「なんて言ってるの?」と宇喜田しず。
 「わたしには分りません」と長尾梅子。
 「じゃあ、英語で捲し立てているのね」と室瀬佳奈。
 「厭だ、こっちに連れて来た……」と長尾梅子。
 「おじさん、どうしたの?」と島崎ゆり。
 「英語か何かで、早口で喋られて、何を喋っているか、さっぱり分らん」と首を捻りながら困っていた。
 「ゆりちゃん、話してよ。ここは外人さんが来るところじゃないと言ってやりなさいよ」と長尾梅子。
 「だって、わたし……」と島崎ゆり。
 「この中で、英語の得意な人、手を挙げて」よ長尾梅子。
 「誰もいない……」と島崎ゆり。
 「結局、ゆりちゃんが遣りなさいよ」と長尾梅子。
 「えッ?……、わたしが……。結局わたしなの?……。
 では、お言葉に甘えて、わたしが話しを付けましょう。きっちり付けますからね」
 「大丈夫?……ゆりちゃん」と長尾梅子が心配そうに訊く。

 「何とかなるわよ。えッと。きゃん・ゆー・すぴぃーく・じゃぱにーず?
(Can you speak Japanese?)
 うム?通じんぞ、どうしてだ?。じゃ、次の手として、わっと・どぅ・うー・どぅ?
(What do you do?)
 うム?……。これも通じん、発音が悪いのかな……。
 では、次として。うえー・あー・ゆー・ふろーむ?
(Where are you from?)……。やはり駄目か。
 じゃァ次は、ふえん・でぃどぅ・ゆー・けいむ・とぅ・じゃぱん?
(When did you come to Japan?)
 やはり通じん、こりゃァ困ったぞ。これじゃ、虎の子がみな玉砕だぞ……。
 えっと、きゃん・あい・あすく・ゆー・ゆあ・ねぃむ?
(Can I ask you your name?)。やはり通じん。
 えっとでは。あー・ゆー・あ……
(Are you a……)、えっと……あと何だったかなァ」と島崎ゆり。
 「How often do you work here? How long have you worked here? Are you a student? What do you study? Do you like your job?」
 「うん、うん?……。いま何といったのかなァ。何か訊かれたのよね、でも速くて分らなかった……」
 「あなたたち、女子候補生の生徒さん?」
 「はい……」と驚いたように長尾梅子。
 「日本語、うまいじゃん」と島崎ゆり。
 「あなた、英語へたね」
 「あははァ……、言われちゃったァ……」面目なさそうに頭を落して悄気
(しょげ)る島崎ゆり。
 「幾ら、今は英語が敵国用語と言ても、そこまで下手では駄目ね。もっと、お勉強しましょうね。でも下手でも、一生懸命、訊いてくれたことは褒
(ほ)めてあげます。わたしは今度、女子学徒隊の担任教官を仰せつかったアン・スミス・サトウ少佐です」
 「えッ?……えッ?……」《そんなァ?……、外人のモンペ姿だったので……》と驚く、島崎ゆり。
 「びっくりさせて、ごめんなさいね。戦時下ですからね……、あなた、お名前は?」
 「あのッ……。島崎ゆりです」
 「名札を見ればそう書いていますね。では、島崎候補生。練兵場教官室に案内して下さい」
 「はい、こちらです。どうぞ……」と恐縮する島崎ゆり。
 「他の皆さんは、姓名を申告して下さい」
 「長尾梅子です」
 「宇喜田しずです」
 「室瀬佳奈です」
 「それでは、長尾候補生、宇喜田候補生、室瀬候補生は授業を兼ねたオリエンテーションをしますので、ゼミの準備をしておいて下さい」
 「はい!」と室瀬佳奈。
 此処では予想し得ないことが起こっていた。室瀬佳奈は、鷹司良子との不思議な繋がりを考え始めていた。

 「大変だ、大変だァ……」長尾梅子らが騒いで教室に戻って来た。
 「おい、どうした?」と副島ふみ。
 「教官の先生が来ました」と宇喜田しず。
 「怕い先生か、それとも優しいか、例えば沢田中尉のように……」
 「さあ?……」と長尾梅子。
 「さあッて……、どういうことだ?」
 「女の先生。アン・スミス・サトウ少佐というんですって……」と室瀬佳奈。
 「変わったな名前だなァ……」
 「貌は外人さんの貌、髪の毛は褐色懸かった金髪で美人。でも日本語は、日本人と全く変わらないし、感じとして、少し厳しそうです」と宇喜田しず。
 「おまえ、案外と観察力があるなァ……」
 「教官は授業を兼ねたオリエンテーションをしますので、ゼミの準備をしておいて下さいって……」と室瀬佳奈。


 ─────午後から授業を兼ねたオリエンテーションであった。
 アン・スミス・サトウ少佐の横にはキャサリン・スミス少尉がいて彼女の目の役割をしていた。更に後ろには副官として、鬼ザメこと鮫島良雄軍曹が従っていた。
 「気を付け!」鬼ザメの怒声一声が響いた。
 全員が席を立ち上がった。
 「教官どのに対して敬礼!」
 この敬礼は室内礼である。上半身を15度倒す。
 「直れ!」
 「では皆さん着席して下さい。わたしはアン・スミス・サトウ少佐です。皆さんたちの教官を務めます。
 いま戦局は逼迫
(ひっぱく)しています。男の人は激戦地へと駆り出され、内地では有能な殿方は少なく、そこで『タカ』プランに呼応して、わたしも皆さんたちのお手伝いをします。
 また、そのお手伝いの協力者として、キャサリン・スミス少尉も皆さんたちに特殊教育を致します」
 アン・スミス・サトウ少佐は着たときとは打って変わって、躰に合った婦人部隊の青紺の制服を着ていた。
 竹の下駄ではなく、黒のハイヒールを履いていた。胸には英国空軍のパイロットであるシルバーバッヂが輝いていた。またキャサリン・スミス少尉は茶色の軍服で英国陸軍の制服であった。こうした衣服類は、沢田次郎の手配でアン・スミス・サトウが『タカ』計画を了解して時点で、用意されていたのであろう。あるいは沢田貿易商会の特殊ルートを使って、既に用意されていたのかも知れない。
 沢田次郎は養父のルートを知り尽くしていた。物を生かして遣うことをしっていた。参謀的な頭脳をしていた。単に知識力があると言うだけでなく。知識をベースにした見識があり、時と毒蜘蛛のような毒に痺れさせる胆識すら兼ね備えていた。
 沢田次郎は、『タカ』計画の夢に、一枚噛んだときから、その暗躍が始まっていた。

 「今から、何を目的にしているか簡略に粗筋を説明します。この実行に第一段階として、皆さんたちの隊列行進を完成させなければなりません。戦争と言うのは組織抵抗ですから、全隊は一つの生き物のように自由自在に動かねばなりません。そのために、軍隊では分列行進を遣るのです。これは運動のお稽古レベルではありません。生き残れるかそうでないか、それはあなた方全員が、一つの一体化した生き物として動けるか否かに懸かります。隊列行進の意味が理解出来ましたか。質問のある方、挙手して発言許可を得て下さい。ありましたらどうぞ」
 「はい!」島崎ゆりが元気よく挙手した。
 「島崎候補生、発言を認めます。どうぞ」
 「教官は女なのにどうして軍人さんなんですか」
 「女が軍人ではいけませんか。イギリスでは女性でも、才能と敵性能力があればパイロットとして戦闘機を操縦する資格を得ます。既にイギリスには空軍があり、そこには女性の軍人が沢山居ます。将校も大学を出ていれば幹部候補生として国防に携わっています。最近はアメリカでも、婦人部隊を増設して兵力を倍増させていますが、では日本ではどうでしょう。
 この戦争では殆ど役に立たない40代、50代の老兵まで駆り立てて居ます。身体が自由に動けず、戦闘員として老朽化している人を使役するなど、愚行と言わねばなりません。
 一億火の玉なら、女性も、第一線で有能な才能を発揮することが赦されていい筈です。
 あなた達のように学力優秀・五体満足・適応力も身体能力まであって、そのうえ、あなた達は他の人に較べて目がいい。眼鏡での矯正視力以上に、肉眼視力が優れている。それは逸早く敵を発見して、それを躱す能力が備わっているということです。
 私は、日本で生まれて日本で育って、その後、英国に渡りましたが、それから結婚して日本にきたら、一番驚いたことに、男と士官学校や大学校の軍官学校に目の悪い、指揮官の能力に欠ける知識力だけで入学してきた学生が多いのには驚かせれました。肉眼視力で、片方の何れかを1.0を切った場合は、その人物は指揮官としては無能なのです。つまり肉眼で、自分の外の世界を見た場合は、別の世界が見えていて、自分の脳に感じる現象は矯正視力で見ている場合とは違って見えているのです。物事が、肉眼では正しく見えず、矯正して見える世界とは違っているということです。
 そういう自分の外の世界がハッキリ分らない人が、ペーパーテストの成績がいいということだけで、日本では官僚になれます。これは知識主義の危ない現象と言えましょう。
 さて、皆さんは視力がいい。それは物事の現象が正しく映っていると言うことです。
 なぜ、この才能を遣わないのでしょう。
 しかし、それに予々疑問を持っている有識者が『タカ』を想起しました。今は立案段階です。
 イギリスでは男も女も、同権なのです。同権とはね、厳密に言えば、レディファーストがアメリカのように存在しないのです。女は壊れ物のように大事に扱うのではなく、同等に扱うものです。
 日本のように箱入りにして、家の床の間に置いて、飾っておく物体ではありません。
 特に最近のような逼迫した戦局では、負け戦ばかり転じて来た無能を退役に更迭して、才能ある者を前へ出せばいいのです。それが出来なければ、国と言う概念は無くなります。もう、あなた帰るべき麗
(うるわ)しき山河は無くなってしまいます。自分たちの心の故郷は、別の国になってしまうのです」
 アン・スミス・サトウ少佐の説明で納得したのか否か、それは分らないが、全員は静かに耳を傾けていた。
 こうして、アン・スミス・サトウ少佐の『戦争終結論』が、彼女たちに沁み入って行くのである。

 傍で直立して聞いていた鮫島軍曹も《女にしては、うちの連隊長以上に立派な訓辞を垂れるではないか》と感心して聴いていたのである。何しろ説得力があるのである。決して前置きの長いダラダラとした意味不明のことを喋っているのではないと思ったのである。こういう頭脳の優れた英国人と、いま日本は負け戦を演じているのかと、その欠陥に気付いたようだ。こういう説得力のある将校が、全隊を指揮する英国軍には勝てる筈もなかった。国力の違いよりも、人間の違いを感じたのである。この違いが、日本を負け戦に引き摺っているのかも知れないと思った。
 鮫島軍曹は思った。
 こういう国民と、つまりこう言う国民を率いる国の指導者は、日本の比ではあるまい。もう人間の違いだけで敗れていると言えた。日本がよかったのは、満洲事変までである。以降、戦略家が更迭されて、事務屋が表舞台に出て来た。この事務屋は日本を虎口へと引き摺っている。この戦争の仕組みが下士官の分際であっても分かるような気がした。これでは勝てないと思う。もう万歳突撃だけの精神主義で、勝ちを納める時代は去っていたのである。
 どう考えても勝てない。では、どうするか。勝てないとなったらどうするか。逃げるか。
 負け将棋をもう一番もう一番と遣っていては勝てないのである。
 しかし、この計画を立案した人物は凄い人間であったのだろうと感心するばかりだった。

 20人の候補生たちは、アン・スミス・サトウ少佐を親しみと尊敬を込めて「アン先生」と呼んだ。
 アン教官の話では、戦争は開戦させるときよりも、終戦させる方が、三倍以上のエネルギーが必要だと言ったのである。
 そしてキャサリン・スミス少尉も同じく親しみと尊敬を込めて「キャサリン先生」と呼んだのである。
 一先ず、こうして第一回目のオリエンテーションが終わったのである。
 その後は隊列行進であり、練兵場に向かうことになった。その際、昨日、来栖少佐から預かっていた指揮杖も持って行くように命じられた。
 今からそれを指導するという。

 「あなた、鷹司中佐の妹さんね?」
 「はい」
 「あなたは指揮官ですから、先に教えておきますが、隊列を組むときは、必ずリズムを執って下さい。決してこれを甘く考えては駄目ですよ。このリズムは心臓と連結し、心まで繋がっています。このことを忘れないで下さい。
 最初の一歩はいきなり歩くのではなく、足踏みから始まります。もうそのことは充分に分っていますね。
 さて、今日教えるのは、足踏みからです。
 マーチングバンド、つまり軍楽隊ではドラムが『ダッタン・ダッタン・ダーン・ダン』と鳴り終わって、そこから数えて足踏みをして、『一・二・三・四・五・六・七・八。二・二・三・四・五・六・七・八』と数え終わってから同時に、そこから第一歩を踏み出します。
 八呼吸で二回繰り返します。此処をよく理解しておいて下さい。指揮官はこれだけを心得ておけば、喩え目が見えない人が中に居ても、誘導して一緒に歩くことが出来ます。
 では、整列させて、フルート奏者が居ますね、このフルート群は本来は後方ですが、今日は中間部に置いてみて見て下さい。今のことが理解出来たならば、前方に居なくても指揮者はフルートの音を聴かないでも発進出来る筈です。キャサリンも、今は視力が失われていますが、周囲の気配だけで、また集団の音だけで自由自在に動けます。宜しいですね」
 「はい」
 「さて、皆さんに訂正を行いますよ。いま皆さん達が腰の後ろに廻している拳銃は、右前に持って来て、前盒一つを外し、左側の一つだけにして下さい。二つあっても意味がありません。拳銃の位置は必ず右前です。
 では訂正を行って下さい。では指揮官は出発させて下さい」
 八呼吸で二回繰り返えす……、このことだけが、何故か不思議に脳裡に残った。

 八呼吸で二回を心の中で繰り返しつつ、「全隊〜ィ、速足(はやあし)!」
 ほぼ同時に、前方に指揮棒を直角に下げた。そして直ぐに右肩に戻す。
 全隊は一斉に進んで行った。その間、良子は指揮棒を肩に倒したまま、「いち・いち、いちに・いちに、左右・左右。いち・いち、いちに・いちに、左右・左右。いち・いち、いちに・いちに、左右・左右……」と拍子取りの聲
(こえ)を懸けている。その拍子に合わせて、全隊は推進力を得て、ぐんぐん前へ進んで行く。
 この歩き方は呼吸を、拍子取りで整えて行くのである。心臓の鼓動にも繋がるものだった。
 暫
(しばら)く進むと、指揮者は、指揮棒を真上に掲げて横一文字にして頭上で構え、一旦肩に掛けるように倒し、再び指揮棒を斜め上に上げる。これを見てフルート奏者は演奏の始まりを知る。今まで小脇に抱えていたフルートを機敏に口に持っていって演奏準備を始める。
 その間も、「いち・いち、いちに・いちに、左右・左右。いち・いち、いちに・いちに、左右・左右……」の拍子取りが行われている。
 その状態で、斜め上に指揮棒を上げたまま、宙で一回円を描き、「全隊〜ィ、月の沙漠!」と言い放って、再び中斜めに肩に付ける。指揮者は心の中で常に拍子取りを忘れない。それは、きびきびとした敏捷な動作であった。
 フルートの二重奏と合唱は、一番
(4)から二番(4)、その間は伴奏のみで、三番(4)から四番(6)まで歌い終わると、後奏はフルート演奏が終わる頃、指揮者は再び指揮棒を真上に掲げて横一文字に頭上の構え、一旦肩に斜め倒し、再び指揮棒を斜め上に上げ、“終了近し”の合図を後ろに送るのである。
 その合図が伝わると、また斜め上に上げたまま宙で一回円を描き、一斉に合唱は指揮者が肩に斜めに倒した時点で終了して、ピタッと止るのである。
 その間、指揮者は常に、「いち・いち・いちに・いちに、左右・左右、いち・いち・いちに・いちに、左右・左右、いち・いち・いちに・いちに、左右・左右……」と拍子取りをして進んで行くのである。
 そして全隊は練兵場に到着した。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法