運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 16

世に苦労人と云う言葉がある。この言葉は、実践によって世の中の酸いも甘いもよく噛み分けた人のことを言う。かような人は知識力がなくても、理路整然として物を言うことが出来ないにしても、その断片語がよく肯綮(こうけい)にあたり、事を処理して、寔に鮮やかな手際を見せるものである。


第五章 闇からの追跡者


●最後の貧士の客好き

 師走に入った。余すところ半月弱である。習志野滞在期間は、もう十日と少しになった。
 12月半ばを過ぎた頃、真弓の叔母である鷹司良子
(たかどう‐ながこ)氏から手紙が届いていた。それは配達証明付きの特別送達であった。手紙には姪の真弓のことが書かれていた。最近は見違えるように元気になったことの感謝の手紙であった。筆文字で、流れるような美しい行書が書かれていた。和歌文字である。
 この手紙には、家内と、また越後獅子の上原小夜子と勅使河原恭子のことまで書かれていた。真弓は塾での講師が楽しいと言うことまで述べられていた。生き生きとしていると形容されていた。

 拝啓 曽川先生様

 晩秋の候 水も朝夕肌にしみますおり、ご家族の皆様はいかがお過ごしでしょうか。
 わたくしども鷹司家、この近日をふりかえって、今は感無量でございます。
 先生とは最初お遭い致してから、もうかれこれ三月ほどが流れました。月日の経つのは早いものでございます。
 さて、姪の真弓のことでございます。また、曽川先生に奇しき縁でお遭いして以来、日増しに健康を取り戻しその変化が目の当たりに感じます。これもひとえに先生と奥さまのお力添えの御陰だと深く感謝しております。

 かつて津村陽平先生が、わたくし宅に御出でた際、名指しではお名前をおっしゃいませんでしたが、習志野の地で、世にも稀な、拮抗申し分ない荒ぶる魂を鎮め得る変性女子と変性男子が居ると言うことを申されました。既に二度お会いしていると言うことでした。津村先生のお言葉を、一つの恃みの綱として手繰りの法を教わり、蜘蛛の網に掛かって頂きました。また津村先生のお言葉では、既に曽川先生はこれまで何度も地獄を見て来ており、その馭すその法がお有りとか。また智があるとか。如何でございましょう。
 間違っておりましょうか。
 このご無礼平にお赦し下さいませ。

 とにかく真弓は、今が愉しゅうございます。塾の生徒さんとも楽しく語らい毎日生き生きしております。真弓の喜々とした顔を見たのは、もう何年振りでございましょう。もう久しく見ておりませんでした。婚礼前の昔に戻ったようでございます。
 時折、話に出ます、愉しいと。
 それは塾の生徒さんでしょうか、それとも先生でしょか、あるいは高校生のお嬢さま方のお二人としょうか。語らうことが、本当に楽しいと申しており、大学卒業して以来、十年ほどに時間が経過しておりますが、かつての高校時代などの教科書やテキストなどを引っ張り出し、勉学に励んでいる由、担当日には朝から何やら勉強を遣り直している有様、あのような生き生きとした張りのある姪の顔をみたのは久しぶりのことでございます。

 わたくしども鷹司家は、凡そ七百年ほど前より、裏の宮家として影の易断に仕えて参りました。暗躍の徒を放ち、間諜につとめ、その世界で国体を護って参りましが昨今の騒々しい世の中、内外が入り乱れ、水面下で暗闘を繰り返している由、その中にまた津村先生も外圧と戦い、当家の守護に一肌脱いで頂いております。
 したがって、これから先の針路を模索し、出来るだけ争わず波風た立てず、平穏を願いつつ、この難局をどう切り開いて行くかを苦慮しているところでございます。ところが、こうした折り、ついに意中人有りの志を抱いた方に邂逅致したのでございます。お力をお貸し下さいませ。
 先生は、大旆を如何お考えでしょうか。
 依って以て死すべくして而して生きで御座いましょうか、それとも以て生くべきして而して死すの何れのお方で御座いましょうか。
 では奥さまに宜しくお伝え下さいませ。

かしこ          

鷹司家当主名代 鷹司良子      


 意味深長であった。最後の問いは言外(げんがい)に意味があるのだろうか。文面を読んで、確かに感謝の言葉を述べているのだが、また依頼書にも思えるのである。況
(ま)して、津村老人のことを明確に述べていないし、姪の真弓の過去も言い尽くしているとは言い難かった。ただ協力もしくは助勢を依頼・嘆願していることは分る。
 だが分らないこともある。
 この文章で挙げられているのは変性女子
へんせい‐にょし/躰が陽で魂が陰の肉男霊女)は私であり、変性男子へんせい‐なんし/躰が陰で魂が陽の肉女霊男)は家内であろうか。また拮抗と言うから、それがほぼ相半ばして均等した陰陽の「瑞霊(いつたま)と厳霊(みずたま)」ということであろうか。更には霊的にも一対の夫婦なのだろうか。
 つまり現世の肉体夫婦ということだけでなく、霊統夫婦と言うことなのだろうか。そういう霊統夫婦から陽気が発散していると言うことだろうか。
 これが病んだ疾病に触れる。そこに浄化が起こる。そういう暗示がしない訳でもない。何かに触れて一旦は汚された魂が活性化している……、そう捉えてもいいのだろうか。
 では、陽気に接することを臨んでいるのか。しかし、どう言う方法で遣るのか。例えば眼力治療のような方法なのか。あるいは陽気を放射するのか。今は不明である。方法が分らない。そんなことは何一つ書かれていない。

 世の生活スタイルに「陽気暮らし」というのがある。
 毎日朗らかに感謝して暮らす日常を実践すれば、心は自ずと朗らかになる。これは心の霧を霽
(は)らす生き方である。
 考えれば家内は朗らかな人間だった。窮地に追い込まれても、滅多に立腹することはなかった。最悪の土壇場でも、食べ物が欠乏しても、何かと陽気を振りまいていた。それが笑顔だった。いつもニコニコしていた。
 その笑顔が綺麗と言われたことがある。この後にも、多くに人から言われた。笑顔にはそう言う浄化作用があるのだろうか。陽気に触れて、人は変わることもあるという。その陽気は、単なるへらへら可笑しくの苦悩を通してからの陽気でないと駄目だ。苦悩と言う濾過器
(ろかき)を通した陽気でないと駄目なのである。

 現に眼力治療と言うものが存在する以上、疾病者がその治癒の眼に充てられ、眼だけの施術で治癒力が働くと言う現象である。笑顔か、それに伴う陽気で、病んだ魂が癒されることはあるかも知れない。
 するとすると「霊統夫婦」の存在を報
(しら)せたのは、暁闇(ぎょうあん)を告げる聲(こえ)の持ち主で、これを発したのは、かの津村老人となる。おそらくそうだろう。苦悩する鷹司良子氏に、その事を告げたに違いない。津村老人は世にも稀な「霊統夫婦」が居ると証(あか)したのかも知れない。
 そうなると夫婦と言うのは、性の同居人でもなく、セックスフレンドでもないことになる。もっと深い深層部で霊的に繋がる「魂の触れ合い」がなければならぬ。だが、昨今はこの箇所を軽視する傾向がある。
 もしや、この老人は霊統夫婦を知らせるために、難儀の民に反応して哭
(な)く金鷄(きんけい)か……。

 暗い時代、この鶏
(とり)が曙(あけぼの)を報せて先ず哭なければ、次に多くの鶏がこれに応じて哭く「あけのとり」の役、またはその術を遣う導師か……。
 するとこの老人は、仙道の達人と言うことにもなる。老師である。
 単に仙道ではない。仙道房中術の太長老である。その奥義を知っていることにもなる。回春復活の法までを含む総てをである。
 その可能性はある。既に桜の樹の下で、私たちの夫婦の霊的相性を見たからである。それを拮抗が採れた霊統夫婦の検
(み)たのだろうか。そうなると瑞霊(いつたま)と、厳霊(みずたま)の「二霊二魂の一対」で一体と為(な)すのだろう。そこから発する陽気を欲しているのかも知れない。これを「陽気照射」ともいう。
 しかしこの霊統夫婦は幾ら拮抗が採れ、相半ばして均等した陰陽を条件下に置いていても、欠点がある。
 まず私が「超」を付けていいくらいの極楽トンボである。また家内は感情家で、異能の力をもった霊媒体質であっても、これまで心因性ショックで度々毀
(こわ)されている。疵(きず)の入ったガラス細工然である。
 またガラス細工は周期的に躁鬱を繰り返す。鬱のときは眠る。魂が眠る。機能しない。生きた人形になる。
 こういう二霊二魂の一対で一体と為すこの種が、どこまで役に立つのか。甚だ疑問である。
 もし、津村老人が曙を報せる金鷄として哭いたのなら、この疑問に答えてもらわねばならない。
 真弓の疾病の根元を癒すのは、先ずこれに対してからの回答を必要とする。

 更に、まだ問題もある。
 もしそうだとして、奇妙なことを聴いた、あの「麝香
(じゃこう)の間」で兵頭氏が語った敵前逃亡の話も、日米両方の権力筋からの監視の眼も、何となく結びついて来るし、闇の中の暗躍の走狗というのも朧(おぼろ)げながらに見えて来る。それに「とうとう関わってしまいましたな」の意味が、漠然とではあるが、輪郭を帯びてくる。果たしてこれは、私が釈迦の掌の上で乱舞をする構図なのか。
 それにしても、最後の問い掛けが釈然としない。これを如何に解するか。
 一種の問い掛けと言うより謎掛けである。複雑な何かに絡んだ重要な謎があるように思う。しかし、こうした文章は、何か火急を知らせる危機感を伝えているようにも思えるのである。何処かの勢力と対峙するだけでなく、今もなお暗闘を演じているのであろうか。世の中には謎掛けが多い。裏を読まねばならない。
 そうなると、もう私の力ではどうにもならない。個人で集団に挑むことは出来ない。それでは100%の負け戦となる。果たしてこの修羅場を切り抜ける方法はあるのか。
 結局、関わったよ言うより、意図的に猟られたような何かが存在するのである。それが今以て解
(げ)せないのであった。しかし解せないことをやがて忘れる。極楽トンボの陽気暮らしだった。

 さて、習志野滞在中に“貧士の客好き”を遣れるのは、これが最後の日だ。陽気暮らしの最終日である。
 私は「貧にして盃を交わし、享
(もてな)すを能(あた)わず。而(しか)も、余、客を好む。われ清貧にして赤貧で非ず。清にして濁に非ず」の『酔古堂剣掃』の「貧して楽しむ」と、『論語』の「貧乏問答」を模して招待しようと考えていた客に葉書で招待状を送った。最後の付け加えは、「われ清貧にして赤貧で非ず。清にして濁に非ず」は、私の独断である。
 意味が理解出来なければ暗号のような言葉の羅列である。ある程度の「隠れた部分の読み」がないと、その意味は分らない。そして、これが最後と付け置いた。
 すると此処に、敏なる数名の客が集まってくれた。それぞれに酒や肴
(さかな)を持参して集まった。総て安物である。庶民の貧乏人風情に高級なる食材が手に入る訳がない。それに中にはタダ酒呑みも居た。
 何故彼らが参集したのか。
 私は常々、同じ貧乏でも、そのレベルの違いに貧乏の質があることを説いていた。貧乏にも赤貧と清貧があることを論じていた。徳なき者の貧乏は赤貧であり、徳のある者は原憲のように清貧である。私は貧しても、胸を張って毅然とした原憲の生き態
(ざま)とその姿勢が好きだった。少しも貧乏を羞(はじ)じる様子がなかったからである。
 また十六世紀初め、日本を訪れたフランシスコ・ザビエルは日本の武士の清貧なる生き方に感動して、母国に手紙を送っている。
 「日本人はキリスト教国の人民には持っていない一つの特質がある。それは武士がいなに貧しくとも、その貧しい武士が、富裕な人々から富豪と同様に尊敬されていることだ。彼らは武士、平民を問わず、貧しさを恥だとは思う者は一人も以下なった」
 果たして、今日の日本に外国人から尊敬されている日本人は居るか。おそらく貧しくとも尊敬されている日本人など、現代には一人もいまい。幸福の価値観、毅然と胸を張る価値観は、合理的な考え方でビジネスを展開する経済分野のみ得意とするところであって、人間的にはこの時代の人民に較べて、上回っている現代人など一人もいないからである。胸を張るのは、いい服を着て、いい車に乗っている限りの条件下である。それを逸すれば、現代人には何も残らない。物質はやがて朽ちるものだ。

 またこうした参集して来る客は、私のように、世間の狂い始めた以上に、白眼超然として無視することが出来なくなり、自分でも癪
(しゃく)にさわる社会が気になって仕方のない連中だった。
 彼らは私並みの貧乏でありながら、貧乏を承知で、何も持っていないくせに、矢鱈に酒を呑ませる性癖を持っていたように思う。そういう一面を苦笑しながらも遣って来て、議論したがるのである。私はそれが嬉しくて、つい無理をして、「もっと呑め、もっと呑め」を遣る。こうして同類が、わが家には肩を聳
(そび)やかして押し掛けて来るのである。いつからそういうことを始めたのか定かではないが、もうこう言うことは結婚する以前の、十代後半頃から始まって居たのではあるまいか。人が来ると矢鱈(やたら)嬉しいのである。

 そして結婚後も、こうした家の女房と言うのは、何かと遣繰りが巧く、貧乏でも客を物ではなく、心で持て成す意味を理解しているものである。したがって、その家の妻君に嫌われていないと分ると、また次回も押し掛けて来るのである。大抵こうした家の女房はよく出来たもので、こうしたことは一円の得にもならず、また苦労の割には殆ど報いられることがないのに、結構満足して楽しんでいるのである。
 特に習志野時代は、家内は何の見返りも求めず、持て成して笑顔を振りまいていたから、次回も押し掛けようと思ったのかも知れない。昨今ではこう言う女房は、殆ど日本から姿を消している。他人が家に遣って来たり、宿泊されることを非常に嫌がるのである。個人主義が幅を利かせている証拠であろう。
 昨今のわが家の定義とは、自分ら夫婦と子供達だけのマイホームである。此処に他人が入り込むことを非常に嫌うのである。

 これは平成3年当時も顕著になり始めていて、例えば自分の家に客を招き、遅くなれば客を泊めると言うことを嫌うようになっていた。今では、他人が家を訪問することを快く思わない家が多い。況
(ま)して、一生報いられることがないなどとなれば、損得勘定で動く世の中では、そういうことは余り遣りたがらない。
 社会を全体的に見回すのでなく、部分的に細分化して個別単位で捉え、個人を何処までも大切にするのである。個人主義の特長である。
 私自身は大した人物でもないし、どちらかというとつまらぬ方の部類だろう。そのつまらぬ男の家に、客が押し寄せて来るのは面白い。そしてつまらぬ男は、たまたま金を持たせると、本屋に出掛けて行って、財布を叩いて本を買って来るから、普通の女房だったら絶対に面白くない筈だ。更には貧士の客好きときている。
 女房も、余程出来ていると言うより、人間学を学んで、人間そのものを理解していなくはならない。人間をペット視するようなレベルでは、到底人間学は学びきれないである。

 『論語』の「貧乏問答」に孔子と子貢との問答がある。

子貢曰(いわ)く「貧にして諂(へつら)うことなく、富みて驕(おご)ることなきは如何(いかん)」と。
子曰く「可なり。未だ、貧にして楽しみ、富みて礼を好む者には若
(し)かざるなり」と。  

 子貢が「先生、貧しくとも卑屈にならず、人に諂ったりなどしない、また金持ちになっても少しも威張るところがないというのは如何でしょうか」と訊くと、孔子は「悪くないが、貧しくても道を楽しみ、富んでも礼を好むというのには及ばない」と言っている。つまり「貧して楽しむ」の奥の奥が、どういうものか逆に子貢に問うたのである。
 それは、同じ貧乏でも赤貧が上か、清貧が上かと。孔子はただ貧しいだけで徳がなければ赤貧といい、徳のある貧乏を清貧と定義したのである。
 私の場合は、更に赤貧の下に濁貧があるのではないかと思うのである。濁貧とは心も貧しいが、物に対する考え方までもが貧しくなると言う意味である。貧するとこうなる。濁貧になるのではないかと思うのである。
 私は貧士の客好きであったから、わが家に文武の士を招き、議論し、問答するのが好きだった。白熱すれば夜明けまで論戦したことがあった。この間、家内も寝らずに酒肴の穂接
(ほ‐つぎ)ぎをして付き合う。そして最後は論戦が混戦しても、私の独断と偏見で『西郷派大東流馬術構想』はどうだ!……と迫るのである。
 大抵これで興醒めして、各自が家路に就く。当時、この理解者は家内ただ一人だった。
 この日も議論が白熱し、様々な物議が入り乱れて混戦気味であった。そこで酒が切れた。
 ついに「酒屋を叩き起こして酒買って来い」になるのもしばしばだった。こうなると何人かは、櫛の歯が抜けるように一人二人減って来る。ついに酔い潰れた数人が寝込むことになり、朝まで居残って、二日酔いの頭を抱えつつ始発電車で帰宅の途に就くのである。


 ─────この夜、奇しくも真弓がいた。彼女は「これ、面白そう。お手伝いしたいわ」と言って居残ってしまった。彼女のこれまでの経験にない、異例の日常だったのだろう。あるいは非日常かも知れない。
 その日、家内の酒肴の手筈や段取りを手伝ってくれたのである。そして夜遅くなり、ついに彼女は帰らずじまいになった。
 この夜の“お開き”は終電がなくなり、午前零時を回ったときだったと思う。あるいは最初から泊まりを覚悟していたのかも知れない。タクシーで帰ればいいものを、それをしなかった。
 夕刻から集まり始め、開始時間は午後六時頃であったろうか。
 塾の授業と重なる時間であり、最初は空いた教室で小さな声で酒の酌み交わしを遣る。そして酔うほどに議論は白熱して来る。
 しかし、八時、九時は宵
(よい)の口である。序盤である。まだ議論するだけ熱を帯びていない。これが過ぎる頃から怪しくなり、声の大きさは徐々に加速度を加え、「静かにして下さい!」とお叱りを受ける。
 時には家内だけでなく、越後獅子からも叱咤が飛ぶことがあった。この日は真弓の声も加わった。
 そして真弓が注意を促すとき「恐れ入りますが、もう少し怒声を鈴虫を哭
(な)くような秋声(しゅせい)に替えて頂けません」と媚術を遣うのである。そのやんわりが、実に効果覿面(こうかて‐きめん)だった。
 即効性がある。暫くは効き目がある。一瞬、お通夜のようになる。媚術の謎掛けが効いたからだ。
 しかし、オヤジの一人が言った。
 「おいおい、いったい秋声って何だ?……」
 「鈴虫が哭くんだから鈴声
(れいせい)だろう」
 「いや違うだろう、秋の風だから北風を報せる風の音だろう」
 「それは違うぞ」
 「なんだと……」
 「秋に吹く北風警報ではない。この風は秋を感じさせる秋の気配だ」
 「いや、それはどうかなァ」
 「あのなあ、六朝および唐宋の中国語に存在した四種の声調、則ちその四種とは平声
(ひょうしょう)・上声(じょうしょう)・去声(きょしょう)・入声(にっしょう)と言うのがある」学者風のオヤジが解説に入った。
 「どういう意味だ?」
 「平声に対し、上・去・入を仄声
(そくせい)といい、近体詩の韻律は、この平仄(しょうそく)によって定められている。現代中国の標準語は北京語だから、声調も第一声で、陰平声。第二声は陽平声。第三声は上声。第四声は去声のこの四種。これはだなァ諸君!、漢詩作法における平字と仄字の韻律に基づく排列の決まりを言うんだ」
 こう言ったオヤジは学者風の東京外国語大中国語科のY助教授だった。
 「それで?……」と売れない作家のF氏が、具体的な回答を迫る。
 この御仁は誤字脱字が多く、編集者から頗
(すこぶ)る評判が悪い。それゆえ仕事の依頼も少ない。今は雑誌などの雑文を書いて、何とか生計(くらし)を立てている。彼を呼ぶと、タダ酒を飲みに遣って来る。そのうえ発言も態度もデカい。不届き千万である。しかし憎めないところもある。
 「中国語の解説と、秋声がどう関係があるんだ?」埼玉県の室町時代から続く寺の日蓮宗O住職である。
 「だからだなあ、説明をしているじゃないか!」Y助教授が声を荒げて切り返す。
 「まあまあ、落ち着いて。よく考えてみよう。まず秋と声だ。この声についてだ」鎮めに掛かったのは、習志野市役所水道局のH係長。50歳過ぎても、まだ係長。天然記念物的窓際の標本だった。
 「だからだなァ、俚諺
(りうげん)にだなあ。『平仄が合わない』と言うのがあるじゃないか」高校社会科教師のN教諭。矢鱈古代中国史に詳しい。それで中国語のY助教授と張り合っている。
 「お前は、俚諺、俚諺と言っても、どう秋声と結びつく。それ、辻褄が合わないと言う意味だろう。もう少し勉強しろ!」こう切り替えしたのは日刊スポーツ新聞のKスポーツ記者。一度私の取材に来て以来、貧士の客好きに応じて遣って来るようになった。
 「なんだきさん、うったたいちゃろか」と、誰かが柄の悪い博多弁になった。この男は同郷の一級建築士で建築士事務所を開いているS君。
 「そげんこと言うたってがくさ、秋声とどげん重なるとや!」これも同郷。私の大学の後輩で現在失業中のM君。しかし失業保険で大凡
(おおよそ)10ヵ月食い繋いでいる。そろその失業保険が切れる頃だろうか。
 「ほんなこて、せからしかァー!」一級建築士のS君が同郷に肩入れする。

 すると再び真弓が顕われて「恐れ入ります。竹林七賢の清談会議の途中とは存じますが、清談会議は清談会議らしく、浮世を離れして頂き、また名利も超越なされて、高尚な談話で終始して頂けません」と、今度はやんわりと諭
(さと)されたのである。
 「なんだなんだ、あれ……。えずかァー」と語尾を引き伸ばして建築士のS君。
 「しかしだ。全く巧いこと言いやがる、実に的を得ている」と下水道工事会社の社長A氏。
 「感心したか。あれ、こんど採用した越後獅子3号」と、そこへ私が割り込んで言う。
 「なんだ?越後獅子3号って?」A社長。
 「いわば秘密兵器」と私。
 「まさか、妲己のような美貌を持ちながら、中身は残忍極まる毒婦じゃあるまいな?」高校教師のN教諭。
 「だから秘密兵器。一度、毒盛られたいいか?」と、私がびびらす。
 「恐ろしい秘密兵器を飼ってるものだなァ。毒など、まっぴらだ……。毒婦は、うちのやつで充分」弁当屋経営のK君。恐妻家で妻君に頭が上がらない。
 「そういうお前、鼻の下一尺。いや三尺だろう。それとも股の下の男根が三尺か?……」と文芸雑誌編集者のT氏が冷やかす。そして笑い声が上がる。
 「まさか……」と照れるK君。
 「もしもだぞ。あの美貌で『尼僧の一物、底無し』と言ったら、まさに慧春尼
(えしゅん‐に)だよなァ」の編集者のT氏。

 この話は、鎌倉期の美貌の尼僧・慧春(小田原最乗寺の尼僧。大変な美人で、また気性の激しい女性であった。最初、余りの美貌に入門を断られ、遂に自分の顔を焼け火箸(ひばし)で焼いて、出家を請うた)が円覚寺(えんがく‐じ)に遣いに出て、その寺の悪戯坊主どもに揄(からか)われる場面である。
 その中の一人の坊主が、そこに通り掛かった慧春を取り囲み、自分の衣の前を剥
(は)ぐって言った。
 「わが一物、長さ三尺。どうだ!驚いたか!」と揄う。すると慧春は高笑いして、同じように衣の前を剥ぐり「たかが三尺、なにしきのこと。尼僧
(に‐そう)が一物、底無し!」と言って唖然とさせ、悪戯坊主どもは度胆を抜かれて青くなり、塞いだ道を直ちに開けたと言う。男勝りの慧春尼の豪胆さである。

 もしかすると真弓も、その類
(たぐい)かも知れない。時に、こういう女傑のような女性が生まれて来る。

 慧春尼の逸話に、「言える、言える……」と相槌を打つのはA社長。
 こうして全員がバカ笑いを合唱する。
 そこへ再び真弓が入って来て「ちゃんと聴こえておりますわよ。清談会議では七賢らしく、もう少し、清いお話をなさいません。それでは清談じゃなくて濁談以下の、愚談を通り越して、猥談じゃありまんこと」と言って引き揚げて行った。
 「おい、おい、なんだなんだ、あの畳み掛け?……」建築士のS君。
 「すげェー、揚げ足取りの名人。全くどうなっているんだ?……」K君。
 「ついでに、慧春尼のように前を開いて『尼僧が一物、底無し!……』と遣ってくれればいいのになァ」
 再び、全員がバカ笑い。
 角を出した真弓が、再び顕われて「猥談会議のみなさま。底無しの怕さが、よくお分りじゃないのでありませんのね。カエルの面に大便もほどほどにさないませ」と、話術で遣り返したのである。完全に怒り心頭に来ていた。
 誰かが「カエルの面に小便ではなく、大便ときやがった……」と吐露して、猥談会議は一先ず中断した。

 しかし彼女は、こう言う馬鹿騒ぎが嫌いでないらしい。笑いの渦に接したいのである。
 最初「これ、面白そう」と言ったのは、白熱オヤジの集団に叱咤するのが面白かったか、あるいは話している内容に興味を感じたか……。とにかく、笑いの中に居るのが面白いのである。
 議論に白熱するのは、参加者が会心の友であるからだろう。つまり心友である。単に知っていて、親しいだけの今しか交わらない浅い親友と言うものでない。心を交えた友で、肚を打ち明けて、盃を傾ける友である。
 こう言う友とは気心が通じているため、盃の酒は幾らでも干すことが出来る。これは次元が合っているからである。
 ところが、酒席に同席しながらも、気心の通じない相手だと、うんざりして半分も呑むのが厭になり、言葉も半句喋っただけで続かなくなるものである。周囲に沈黙が漂って来る。
 私はこう言う席上ではだらだらと“付き合い同席”など真っ平御免である。直ぐさま腰を上げて辞退する。
 そしてこうした行動に、自らの身に禍
(わざわい)を招かずに済んだ。重みが垂れる人生の妖怪場からは逃げるに限る。これを我慢して“付き合い同席”すると、あとが大変なことになる。不運が不運を呼ぶ。後は顛落するのみ……。
 運を落す人はこうした惰性に足を掬
(すく)われる。汐時を知らないからだ。そこに人生の警戒点がある。
 こういう話を交えつつ、雑談から入り、雑学を交えて、やがて核心に迫り、安岡正篤先生の言う「腹中有書
(ふくちゅう‐しょあり)」と論じても面白い。これは断片的な知識でなく、もっと確(しっか)りした肚の底に内蔵するべき哲学である。
 だが、最後の貧士の客好きは、時間が飛ぶように早い。気付いたら午前零時を回ってしまう。

 午前零時を回る頃には、もう塾生は殆ど居なくなっている。一方で清談会議?……も長期戦に及ぶと、早々と戦線離脱する者も出て来る。また運悪く、その後も捕まって、酒の肴にされるオヤジも居た。これに家内と真弓の間
(あい)の手が加わって、最後の盛り上がりとなる。
 酒の量が少なくなると、決まって「酒買って来い!」になる。
 この日も私は酩酊に陥っていた。そして「酒屋を叩き起こして酒買って来い」の暴言になる。
 大学時代は、よく部室で部員を集めて、白熱した議論を戦わせた想い出がある。そして最後は、決まって「ヤクルト買って来い」の無理難題だった。
 これを言い付けられた下級生は顔面蒼白になる。
 「こんな時間にヤクルトなんて売っているのだろうか」と心配になるからである。そもそも深夜にヤクルトショップは開いていない。シャッターを閉ざしている。この無理難題は無視すればいいことだが、バカ正直に深夜ヤクルトを買いに行った下級生が居た。そして、こいつがなかなか帰って来ない。心配になって探しに行ったら、この正直者、ヤクルトショップのシャッターを叩いて「すいません、ヤクルト売って下さい」と真剣に挑んでいた。

 このときも、あのバカげた学生時代のことを思い出したのである。
 私が「酒屋を叩き起こして酒買って来い」と喚いたとき、家内が「一回くらいは、自分で行ったらどうですか?」と遣り返された。そこで、「じゃァ俺が買いに行く」となったのである。すっかり酩酊に陥り、出来あがっている。千鳥足で酒を買いに行った。
 しかし酒屋は閉まっていた。仕方がないので自動販売機で酒とビールを買ったのだが、何しろ酩酊である。覚束無
(おぼつか‐な)い足で買って帰る途中、何かに引っ掛かった。躓(つまず)いて、癇癪を起こして蹴っ飛ばしてしまった。だがそれは人間だった。路上生活者のような男が、道端で寝ていたのである。それに足を取られ、蹴ったのである。
 ところが私は、この男がこれまで、わが家で酒を呑んでいた仲間と勘違いして、「おい、そんなところで寝ていると風邪引くぞ」と、叩き起こし、その場に坐り込んで、「まあ、起きて一杯遣れ」となった。そしてワンカップを奨め、ちびりちびり遣り出したのだが、私は肴がないと酒が呑めない質
(たち)である。何とも不便で不経済で、金の懸かる効率の悪い体質をしている。車だったら燃費が悪いから、即廃車だろう。

 「お前、酒の肴は?」と訊くと、コンビニで買ったような握り飯を差し出して、「これでは?……」というので、「そうかそうか……」になって、坐り込んだまま一個ぺろっと喰ってしまった。
 「もうないか?」と訊くと、「今のが最後でして……」という。
 「一体、お前誰だ?」と訊くと、「自分は一ヵ月頃前から、この辺りの路上で生活しています」と、自分が路上生活者であることを告白したのである。
 「なんだ、そうすると、お前の最後の飯を、俺が喰ってしまったと言うことか。何でそれを早く言わん、知らんで喰ってしまったじゃないか」
 最も遣ってはならないことを遣ってしまった……と言う反省とともに、その男に頭を下げて「すまんことをした、本当にすまんことをした。今から俺のところに来い。この償いはきっとする」といって、無理矢理、わが家に連れて行ったのである。
 もう、この頃、「今のが最後でして……」の言葉にすっかり酔いが醒めてしまって、弱い者に対して働いた行為に、後ろめたさを感じたのである。
 「おい、何か喰わせてくれ」家内に言った。呂律が回らなくなって、言葉が怪しかった。
 「その方、誰です?」
 「道で拾った」
 「それはそれは……」呆れたという貌だった。
 「だがだ。いいか、丁重にだぞ。心から、持て成すんだ、このお方は福の神に違いない。よく日本昔話にあるだろう、姿形
(すがた‐からち)は乞食なれど……というやつだよ。これはきっと名のある神様に違いない」
 「相当、酔ってますね」家内が冷ややかに言った。
 「やかましい!うじゃうじゃ言わずに、酒でも飯でもじゃんじゃん持って来い。今しがた、この神さんに、ご無礼を働いた。寝ているところを蹴っ飛ばしてしまった。神さんの最後の握り飯を食ってしまった。このまま放置しては天罰は当たる。いいか、あるもの全部出してお供えするんだ。福の神さん、あんたは本当の福の神だよな」
 「いいえ自分は、この通りでして……」
 「偉い!神にしてはこの奥床しさが実にいい。やはり名のある神様に違いない。自分を神と言わずに謙遜するところが、また偉い。そうだろ、真弓先生!」
 今度は真弓に振ってみた。
 「やはり大分、酔ってますね……」
 「そんなことはない。素面
(しらふ)とは言わんが、山頭火のように泥酔して、電車なんか止めたりはしてないぞ。その証人は、この福の神さん!そうだろ?」
 「そこまでは、いっておりません」
 呂律の廻らない言葉を吐いていたが、ふと思ったことは《おッ?こいつ山頭火なんて知っているのか》と酩酊状態にある頭で思ったのである。やはり、姿形は乞食なれど……というやつかも知れない。落ちぶれる前はそれなりに学か、教養を持っていたに違いない。
 「ほらみてみろ。証人は、この福の神さん……。福の神がこう言うから間違いなし。神さんは嘘をつかん」
 私は眠かった。無性に眠かった。
 呂律の廻らぬ言葉で喋っていたが、ついに崩れて朝まで寝込んでしまった。

 眼を醒ますと、日は高々と昇っていた。
 時間は午前9時を回っていたようだ。そして真弓と家内が話をしていた。
 私は飛び起きて、「昨日のあの男はどうなった?……。福の神は何処行った?……」と思い、居ないので何処に行ったか訊いてみた。
 「もう、疾
(と)っくに、名のある神様は出て行かれましたよ。神様は朝早いんですって」
 「何処に?」
 「さあ……。でも、くれぐれも宜しくと、お礼申して丁重に挨拶して行かれましたよ」
 「今朝は真弓先生まで、朝復
(かえ)りに付き合わせる羽目になりましたか、何とも申し訳ない……」
 「あたくし、二十歳未満ではありませんの」
 「そうでしょうね」
 「でも、あの方。いたく感謝されて出て行かれましたわ」
 昨日からの、いや、早朝の暁闇頃からの出来事を、二人から聴いた。
 話によると、こうだった。

 青森から出稼ぎで最初、季節労働者をして給料は妻子の許に欠かさず仕送りをしていたという。あるとき同じ仕事仲間に誘われて、競輪が病み付きになり、仕事をほったらかして競輪場通いを遣りだし、お決まりの顛落コースに足を踏み入れたらしい。仕事は解雇され、後に仕事を転々としたが、博奕の虫が言うことを聞かず、気付いたら路上生活者になっていたと言う。窃盗も働いたと言う。
 その後、東京から流れて、習志野くんだりまで来てしまった。そして、この夜の深夜、私と出交
(で‐くわ)したというのである。奇妙な邂逅であったと。  

 「あの方、可哀想なそうな人なんです……」と家内。
 「どう可哀想なんだ?」
 「奥さんと子供さん、郷里に置いたまま三年以上も帰っていないんですって」
 「蒸発と言う訳か」
 「でもね、此処に連れて来られて、持て成しを受けたことを大変感謝して涙流していました」
 「持て成されたことが、そんなに嬉しかったのか」
 「習志野に来る前まで、窃盗で1年半刑務所に収監されていたって」
 「野郎は福の神でなくて、ただの泥棒だったのか……」
 「話を訊いてみるとね。刑務所の図書館に種田山頭火の句集が図書館に置いてあってね、山頭火の邂逅の話に心打たれ、自分も山頭火のように出直し出来るのだろうか、と思ったそうよ」
 「それでか、山頭火のように泥酔して電車なんか止めたりはしてないぞといったら、野郎はそこまでは、いってないと言った理由は。山頭火のことを知っていたからだな」
 「そうです。そして此処で持て成しを受けたことが、まるで、熊本報恩寺の住職の望月義庵さまのようだったと。そしてね、あなたが望月義庵さまのように見えたんですって……」
 それは大袈裟だろう。禅僧のように偉くはない。

 山頭火の物語の中で、山頭火が得度したときの最初の切っ掛けは、熊本で市電を急停車させ、車内の乗客が将棋倒しになり、危うく袋叩きにされるところを友人が仲を取り持ち、その場を急遽
(きゅうきょ)(つくろ)って、山頭火を報恩寺に連れて行ったことから始まる。
 山頭火が出家したのは大正十四年三月のときであった。得度
(とくど)は44歳の頃である。
 この頃、熊本には傑僧として名高い沢木興道がいた。この門にも山頭火は訪れている。しかし山頭火は弟子にはならなかった。沢木興道は自分自身がどうしようもない性格や環境にありながらも、凄まじい意志力で自身を改造した人物である。自らの欠点を意志力で克服してしまったのである。まさに凄まじ修行をした禅僧である。
 一方山頭火と言うと、本性がぐうたらで、酒狂いで、直ぐに自分に負け、楽な方に転んでしまう性格では、沢木興道の門では蹤
(つ)いて行けない。それどころか、相手にもされなかった。
 沢木興道の門には直進型で行動力があり、自力精神が旺盛なる知識人やエリート人が多かった。山頭火など入り込む隙間すらなかった。そこで山頭火は絶望の淵に立たされる。こうした折りに、熊本の市電を止める急停車事件を遣らかすのである。望月義庵和尚は、そういう山頭火の理由も問わず、名前すら訊かず、黙って泊めてやり、食を給したのである。
 この受動的絶対性に、山頭火は深い感動を覚えた。人情の温かさに触れた。このとき総てを捨て、報恩寺に入り、掃除洗濯を始めとして坐禅三昧に明け暮れるようになったのである。まさに邂逅であった。

 此処を訪れた、いや、無理矢理連れて来た路上生活者の“福の神”氏も食事を給し、一夜の宿を世話したことで邂逅を得たのだろうか。
 「あの方、朝起きたとき、いい貌、なさっていましたよ、先生。まるで仏さまのようでした」
 「しかし、“福の神”の最後のお握りの一個を喰ってしまったからなァ」
 「あの“福の神”さま、鳥辺英一さんというお名前よ。今日から、郷里に戻って、遣り直すんですって」
 「では、“福の神”との目出度い邂逅により、こちらも遣り直すとするか」
 「また今日から忙しくなりますよ、人探しで……」真弓が言った。
 「そういう仕事と言うか……、任務と言うか、爺さま探しの、そんなのがあったなァ……」
 徐々に酔いが溶けて来て、どろりとしていた酩酊の頭が活溌に働き出した。
 「これは、次ぎなる邂逅ですよ」
 「ところで、“福の神”に捧げ物したか」家内に訊いた。
 「ええ、お帰りの際、小さな二段重ねのお重に入れてお弁当を作ってあげて、旅費の一部にもと思って、お布施を差し上げました。いけなかったでしょうか」
 「幾らだ?」
 「わたしと真弓さんとで1万円ずつ、いけなかったかしら」
 「併せて、2万円か。果たして、青森までの乗車券と特急券とグリーン車込みで、2万円程度で足りるだろうか」
 「何もグリーン車なんて乗らなくても……」
 「だがなあ、鈍行の貧民窟はケツが痛いぞ。痔が悪くなったりしないか……。“福の神”が痔瘻
(じろう)では恰好付くまい」
 「なにをトンチンカンなこと言っているんですか。先生って、やはり何処か毀
(こわ)れている……」
 「ああ、どこもここも故障だらけ……、確
(しっか)り毀れて、ネジも外れていますよ」
 「でも、その故障だらけでネジの外れた毀れ方、あたくし、厭ではありませんわ」
 「有り難うよ、真弓先生。拮抗とれずに、正常機能しなくて……」
 「だって、左右対称で整い過ぎていたら、その人の魅力は半減しますもの……」
 「真弓先生は下手物
(げてもの)趣味ですなァ……」
 「あの“福の神”さまね。復
(かえ)り掛けに、硬貨ばかり合計で530円置いて行かれましらよ、これが全財産ですって」家内が言った。
 「なんだと?……、それで受け取ったのか」
 「ええ、どうしてもというから……。逃げるように置いていかれたのですよ」
 「本当にすまんことした……。“福の神”どちらに行った?」
 「だから青森ですって」
 「青森。青森ってどちらだ?」
 「北の方かしら……」
 「北。北ってどっちだ?」
 「磁石持って来て、方角調べましょうか……」

 “福の神”に施したのではない。確かに金は施したが、こちらも仏の心を施された。この御仁は、今は貧しているとは言え、恥を知る人であった。その意味では“福の神”だった。
 この邂逅、《いい因縁で繋がりますように……》私は心の中で頭を下げていた。
 そして“福の神”の浮浪者然とした身形を見下すこともなく、笑顔で持てなした二人の女性にも神が宿っていることを感じたのである。
 福の神の招来は、何も神様然とした見せ掛けにあるのでない。神はそれぞれに個々人の心の中に居るのである。それに気付くか気付かないだけである。気付けば、その人の背後に神を感じよう。それは、かの老人が云った言葉に一致する。

 津村老人は、先の大戦の体験談から「戦場が、日常とは異なる非日常の異常なる環境である事を、わたし自身見逃しておりました。何か目に見えない大きな力で自分が操られ、真実の世界に曳き立てられた気持ちを感じ始めました。炎天下の中を何日も歩き、しかしそれでいて、絶望を感じませんでした」と、非日常の注釈を付け、人が一致団結したとき、それは個人を超えて大きな力になると説いた。
 そして、こうも言った。
 「自分がどんなに浮薄な人間であろうと、その大きな力さえ信じていれば、無闇に天は自分を害する事はないと思うようになりました。
 もし天が害するとしたら、それは天を疑った時だと思いました。生かされていることを感得すると、真の智慧と勇気が生まれ来ます。こんな風に考えるようになったのは、『信じる』と言う信仰でしょうか。
 そういう信仰心があれば、どんな浮薄な人でも、心の乱れや疑念を取り去ることが出来るものです」
 それは神を感じたからであろう。
 その神は外に居る偶像などではなく、自分自身の内側に居る「内なる神」のことである。
 これこそ、神と共にあるのである、神と共に生きる姿なのである。しかしこの神に強請
(ねだ)らず、また現世ご利益を願わず。それが神を尊ぶ心構えである。神と言う存在は、自分の外にあるものでない。自分の裡側(うちがわ)に、自分とともにある存在である。現代人はその事を忘れ、神でも幸せでも、外の眼を奪われて、外にばかり需(もと)めている。これでは見付からない訳だ。

 気の毒な人を見て、一瞬たりとも不憫
(ふびん)に思えば、その人は、もう既に人生の機微を理解し、人情を感得したことになる。
 私の習志野時代の“福の神”連れ込みは、何もこの一回で終わったのではない。大津市瀬田に引っ越した後にも、こう言うことは何度かしたことがある。大津瀬田に居た頃は、よく京都まで出て、馴染みの飲み屋に行って、酒を嗜む習慣があった。それも一軒で終わればいいのだが、数軒ハシゴする。時には茶屋遊びまでした。別に会社の金でこれを遣るのではない。会社の顧問などは遣っていたが、飲み代はそこから引っ張ったりするのでない。常に自分の金であった。
 東京に出た際、劇画家のバロン吉元先生とよく銀座を飲み歩いたこともあったが、このときも自分の金であった。
 そしてバロン先生は「自分の金で遊んでいるのは俺たちだけだ。此処に居る他の連中で、自分の金で飲んでいる者が居たら、お目に掛かりたいものだ」と大声で店中聞こえるようなこと言ったが、“自分の金”族は、一人も居なかったようだ。殆どが接待交際費に引き当てる。こう言う場所では、自前人間が一人もいなかった。要するに、タダ酒で豪遊する。あるいは芸妓の居る料亭で、一夜を過ごし女のタダ乗りをする。

 京都で茶屋で遊んだときも自前だった。そのときに、一人だけ奇妙なと言うか、サムライと言うか、そういう年配者の遊び人を見たことがある。その人とは邂逅的な出遭いをした。
 最初カウンター式の横一列の座敷に入る前に、一旦そこで待機して、芸妓集が横でお相手してくれる。
 このサムライ御仁は、まず着いたら、そこで夕食を食べるのいうのである。それを毎日毎晩、お茶屋で摂ると言う。これだけで莫迦
(ばか)にならない金額である。肚拵えして、本格的に遊びに入ると言うのである。
 訊くと、自前と言う。この人は京都でも大手の呉服問屋の社長さんだった。それに、しみったれてなく、朗らかな態度が、何処となくサラリーマンには感じないサムライを思わせたのである。余裕がある。
 「趣味は何ですか」と、妙なことを訊いたことがあるが、「自前主義」という言葉が返って来たとき、何だか痛快な響きを胸に感じたものである。
 爾来
(じらい)私も自前主義に徹する心構えが出来たように思う。しかし、これを人には強制しない。
 おそらくこう言う趣味が伝染すれば、家庭の中は火の車になり、夫婦不和の原因になろう。自分の胸に仕舞った自前主義でいいのである。それを胸に抱きつつ、時には自前主義を披露するのも悪くない。

 さて、そのときの“福の神”を深夜家に連れて来たときのことだが、飲み屋をハシゴして、暫く鴨川の畔に坐り、迎え酒ならぬ、酔い覚ましの酒を、缶ビールでやっていた。酔い覚ましを遣っていたのだが、その数メートル離れた横に浮浪者が居た。近くの段ボールハウスの住人だろう。
 私はこの御仁に聲
(こえ)を掛けた。
 「一緒に遣りませんか」
 こう声を掛けても返事はしない。しかし無理矢理、横に行って奨めた。
 私は当時、衣服もそれなりの仕立てのオーダー背広を来ていた。量販店のその種ではなかった。遊ぶのもその程度の金があるから遊べるが、印税などで臨時収入などが入ると、直ぐに呑んで一晩で遣ってしまう。家計は不経済甚だしかった。そういう極楽トンボが好き放題遣る。また家内も好き放題遣らせてくれた。

 いつしか浮浪者氏は、悪い癖だが“福の神”に思え、酒を介して、いつしか意気投合してしまうのである。
 投合したが最後、瀬田の家まで連れて行く。それも深夜タクシーで自宅に復
(かえ)り、家内を起こして酒肴の用意をさせる。
 普通、私が京都でドンチャン騒ぎしているときは、いつも寝らずに朝前起きている。その便利を利用して、つい酒肴の用意をさせ、この“福の神”と酒を呑み、昔を語る。その話の中に昔の中に“福の神”の人生があり、その人生譚を聴くのが好きだった。こうした話の中に、人間に顕われる周期的な運が存在していることに気付かされるのである。「そのとき何故?……」という一瞬がある。そして、思うのである。
 この“福の神”氏は、そのとき何故、行動を起こさなかったのだろかと。“福の神”氏は、幸運の女神は前髪だけで、後ろは禿
(はげ)であることに、なぜ気付かなかったのだろか?……と。
 こうした“福の神”氏の話の中に、人生譚のクライマックスが控えているのだが、“福の神”はその波に乗り切れなかったのである。ここをしばしば不憫
(ふびん)と思うのである。
 “福の神”に連れて来ても、家内は厭な貌一つしない。“福の神”が居る間中、持て成す。
 普通、こういう女房は十人中十人、百人中百人、千人中一人いるか居ないか、一万人中一人居るくらいであろう。
 私はこう言うとき酔い潰れて早々と寝込んでしまうのだが、家内は起きていて寝床まで用意して“福の神”の持て成しをしていたように思う。
 そして、私が眼を醒ました時には、もう“福の神”は居ない。
 「どこに行った?」と訊くと、「もう帰って行かれましたよ」という。それも自分の手持ちの、おそらく全財産と思
(おぼ)しき、数百円程度の硬貨を置いて行ったと言うのである。
 「自分はこれだけしかありません。愉しいときを過ごして頂きました」と言って、風のように去ったと言うのである。こう言う話を家内の口から聴くと、非常に嬉しくなるのである。貧してもサムライを観る。
 私は“福の神”から貰った数百円の硬貨を直ぐに神棚に供える。すると暫く金回りがよくなったり、原稿依頼などが飛び込んで来るのである。これを充
(あ)てにして、こう言うことをするのではないが、何か不思議な人生人生現象が起こるようである。「福の神現象」があるように思うのである。それを全くの自然体で遣っているのである。意図的に遣れば意味がないだろう。
 因縁である。奇なる縁
(えにし)である。
 人間は墜ちても、あるいは墜ちた犬でも、恥を知る人がいる。こう言う人は墜ちても再起するだろう。
 恥を知る人にこそ、私は「布施行」を施すべきでないかと思うのである。
 今日の日本は、人間が生きているだけで税金が掛かる国だ。底辺の浮浪者と言う住所不逞で無職の「難儀の草莽」であっても、生きているだけ税金が掛かる。この人達が日々何らかの飲食物を買えば、それだけで立派な納税者である。これだけで国家の底部を支えている立派な草莽の臣である。粗末にしてはなるまい。

 私はこれを勝手に名付けて「福の神への布施行」と称している。
 何も布施行は、威張り腐った坊主どもに施すばかりではあるまい。こういう“福の神”こそ、布施を受ける資格があるのではないかと思うのである。何故こう言う底辺が居るのか。
 それは政治や社会の所為
(せい)ばかりではない。そもそもこの社会に棲んでいる人間そのものに欠陥があるからだ。現代の世を生きる人間自体が全く進化せず、金・物・色の外にばかり眼を奪われているからだ。そこで自他同根の気持ちが生まれず、自他離別の個人主義に奔るのである。経済理論上のでは成り立つ、イギリスの思想家ベンサム(Jeremy Bentham)の「最大多数の最大幸福」の功利主義は、多くの人々に最大の快楽を齎すことは、夢のまた夢であった。こういう別天地は、地球上にこれまで一度も顕われたことがなかった。

 福の神のような、こういう人を見る度に、自分はまだ人間が出来ていないとつくづく思うのである。
 換言すれば、自身の人間修行は、この点にこそ、何か人生を神と共に生きることに大きな意義が存在するのではないかと思うのである。
 自他離別の個人主義から離れ、一瞬でも、他の恵まれない不孝な人を見たら、不憫に思う心が必要と思う。物品を恵まなくても、慈しむ心があればいい。同朋と思う心があればいい。
 そういう慈悲の心があれば幸いである。その人は既に神を感じたのである。




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