運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続 壺中天・瓢箪仙人 14

幽霊噺をするときには、気を付けなければならないことがある。
 防衛結界の空間隔離の陣を張ることだ。
 この種の話は、単なる世間話などをするために集まったのではないからである。空間隔離の結界の陣とは、生体よりも幽体を低次元の霊的な魑魅魍魎
(ちみ‐もうりょう)から防衛しなければならない。いわば空間隔離の「礼」と磁場の「礼」である。

 一般に簡単に出来ることは、悪霊退散の祈願をもって、朱書の護符を書き、室内四方に札を貼ることである。
 朱書は「急々如律令」の五文字で、これは漢代の公文書の末筆の文字であり、意味は法令に従って速やかに行なえという「おかみの言葉」である。もともとは「神の文字」らしい。
 護符は東晋初期の道士・葛洪
(かっこう)の著書『抱朴子』に記載されたもので、遅くとも四世紀頃には存在し、日本では平安時代に伝わっている。

 図では、五人だったのでセイマン・五芒星に人を配し、寒い時期だったので石油ストーブを中央に置き夜咄をした。講談者
(主)は北にわが身を置いて、聴者を五芒星の頂点位置に配した。また、香を焚くことを忘れてはならない。
【註】「家」は家内、「真」は真弓、「上」は上原小夜子、「手」は勅使河原恭子の四人の女性のこと)


●血物語に色取られた現代の牡丹燈籠考

 『血物語』を更に続けた。人間の持つ血の悍(おぞま)しさである。この悍しさは時代が代わり、人が代わっても連綿と未来永劫まで続いて行くことであろう。その解決に出口が見えない。人が金・物・色に振り回されている間は永遠に続くことであろう。その継続は「血」という保因の陰性の中に隠れている。その保因者は機会さえあれば、いつ表面に出て来ても不思議でないのである。
 この血について、更に話を進めたのである。
 幽霊話は、保因者間の格闘でもあるからだ。
 私の噺
(はなし)を聴くために、周囲には女ども四人が居た。ちなみに「はなし」は単なる会話の話でなく、耳に新しい珍しい噺を聴くから噺であり、「咄」とか「噺」とも書き、噺の解字は「口」+「新」で、耳新しい話の意である。

 「さて、お立ち会い……。
 中国版『牡丹燈記』は、三遊亭円朝がこれに人情噺
(ばなし)を搦(から)め創作した速記本の『牡丹燈籠』である。また歌舞伎などでは『怪異談牡丹燈籠』の題で登場している。
 この話も最初一目惚れから始まる。
 色恋沙汰は、とにかく最初は一目惚れから起こる。惚れた腫れたから起こる。
 心が、一目見ることから何かに反応し、過去の忘れた記憶を想い出すからであろう。恋愛劇の始まりは此処から起こる。この理解、宜しいでしょうか」
 「過去の忘れた記憶の何かとは、どういうことですか?……」おぼこ娘の勅使河原恭子。

 「それはね、ギリシャ神話などに出て来る話では、もともと男女は一体だったと言う。この一体は、肉体が一体と言うことではないんだよ、つまり男女の肉体を為す、心が一体だったと言うんだ。
 ところが、あるとき一体だった心が二つに分離し、男体には分離した片割れの心、そして女体には同じくもう一方の分離した心が男女とも肉体のそれぞれに納まり、また肉体のそれぞれは自由気ままに動き廻り、互い離ればなれになってしまったという。そして男体の心はその肉体をもって、かつて分離してしまった片割れの心を捜して旅をしたという。恋愛とは、かつて一緒だった、心の片割れを捜し求めて、旅をする人生ドラマというらしい……」
 「そのように説明されると、何だかロマンチックですねェ……」とおぼこ娘。

 「そういう“おぼこ”的感情の中に、日本版『怪異談牡丹燈籠』の噺は始まる……。
 噺は、飯島の娘お露の死霊が、牡丹灯籠を提げて恋人新三郎のもとに通うという筋なんだがね。
 舞台の時代設定は『寛保三年の四月十一日、まだ東京を江戸と申しました頃』と始まり、そして場所はと言うと、『湯島天神の社
(やしろ)にて聖徳太子の御祭礼を致しまして、その時大層参詣の人が出て群集(ぐんじゆ)雑沓を極めました。こゝに本郷三丁目に藤村屋(ふじむらや)新兵衛といふ刀屋がございまして、その店先には良い代物が列べてある所を、通りかゝりました一人のお侍は、年の頃二十一、二とも覚(おぼ)しく、色あくまで白く、眉毛秀で、目元きりゝつとして、少し癇癪(かんしゃく)持と見え、鬢の毛をぐうつと吊り上げて結はせ、立派なお羽織に、結構なお袴を着け、雪駄を穿(は)いて前に立ち、背後(うしろ)に浅葱(あさぎ)の法被に梵天帯を締め、真鍮巻の木刀を差したる中間(ちゅうげん)が附添ひ、この『藤新(ふじしん)』の店先へ立寄つて腰を掛け、列べてある刀を眺めて、侍『亭主や、其処の黒糸だか紺糸だか知れんが、あの黒い色の刀柄(つか)に南蛮鉄の鍔(つば)が附いた刀は誠に善(よ)さゝうな品だな、ちよつとお見せ』となる。
 その『ちよつとお見せ』と言ったのは、飯島平太郎
(のちの平左衞門)であり、刀屋の店先で酒乱の浪人・黒川孝藏に絡まれて斬り殺すところから始まる。
 最初、平太郎と名乗った漢
(おとこ)はその後、家督相続して飯島平左衛門を名乗る。身分は旗本である。また剣術の達人である。家督を継いで結婚、そして娘のお露が生まれた。
 平左衛門は過去に、浪人の黒川孝蔵なる人物を酒に絡んだ無礼者として斬り捨てている。そもそも刀屋の店先での殺生の因縁を抱えている。それから歳月が流れた。
 娘お露も十六になった。しかし、お露は母亡き後の父親の妾お国との仲がしっくり行かない。お国のワルぶりを肌の違いで感じ取っていたのであろう。そこで一計を案じた父平左衛門は、お露には、お米という下女をつけて柳島の寮に別居させる。このお米は『牡丹燈記』の金蓮にあたる。
 あるとき、お露のいる寮に飯島家出入りの医者・山本志丈なる者が、美男の浪人の萩原新三郎を連れて訪れることになる。この新三郎は喬にあたる。麗卿が喬に背の君を求めた如く、お露は新三郎に一目惚れする。またこの漢も、お露が忘れられなくなる。
 双方、今では考えられない、プラトニックラブで生前は肉愛を交えず、純潔を守り通すだけである。生前、お露は能
(よ)く処女を守ったといえよう。また、新三郎も純情・純潔なるお露の処女を無慙に散らさなかったのは見上げた根性である。この漢、ここまではなかなかの天然記念物的存在である」

 「それ、ちょっと大袈裟ではありませんか」と上原小夜子。
 「大袈裟ではない。お露の乙女の夢を毀
(こわ)さなかったからだ」
 「毀さなかったって、どういうことです?」と同じく上原。
 「いいか、“おぼこ”ちゃんも、よく聴き給え。乙女の夢と言うのはねェ。処女のまま嫁に行くことだ。
 少なくとも、日本では戦争に負けて、アメリカ式の自由恋愛が雪崩れ込んで、男女が一時間後には寝てしまうという物体現象が起こる前までは、誰もが純粋だった。純情潔白だった。今の腐った、清潔とか潔白を安易に口にする政治家以上に、それは純真で穢れの無いものだった。少なくとも、日本でも敗戦後、昭和30年代くらいまではそうであったのではなかろうか。
 特に戦前・戦中には『天国に結ぶ恋』
(昭和7年、五所平之助監督作品)などもあって、青年男女の既婚者は、童貞のまま、処女のまま、純愛のために心中するのだ。二人の仲は清かった……のだ。
 『天国に結ぶ恋』とはねェ、坂田山心中事件を題材にしたストーリーで、“おぼろ月夜に死体愛撫”と新聞紙上を賑
(にぎあ)わせた死体盗難の猟奇的部分には一切触れず、良い面ばかりをみせて、看板スターによるロマンチックなメロドラマに仕立てあげた。そして商業主義に乗った。ただ驚くべきは、この映画の影響で、映画を鑑賞しながら映画館の中で自殺を図る人が出たという。まァ、それだけ、当時の日本の若い男女は、プラトニックラブの恋愛劇を夢見ていたのだろうね。
 また、こうした背景には、エロ、グロ、ナンセンス、政党政治の腐敗に伴うテロ事件などと、騒然とし時代であったからこそ、この種は流行したのかも知れない。
 まァ、こういう設定で、お露と新三郎の仲を察すると、分り易いだろう。
 つまり、筋書きは互いに恋い焦がれるのである。だが、お露は新三郎を慕って焦がれ死にする。また下女のお米も、お露のあとを追う。しかし、お米の心理は、何故あとを追ったか些か不明。この年増、よく分らん。
 お露の死を知った新三郎は、病んで塞ぎ込む。引き蘢
(こも)りを起こす。引き蘢りでうじうじする。
 そして新三郎は、お露を夢に見る。夢の中で逢い引きする。これが後の念になる。
 “想う”という言葉がある。また“思う”というものがある。
 想うとは“想像”することである。
 “思い遣れば則ち至る”である。これはただ漠然と想うのではない。思うのである。
 この世の現象界では、想像することは、行動することと同じなのである。強く念じて思うことは、思ったことを行動して、後で履行するだけなのである。思うと想うの大きな違いは、思いは想いほを散漫で弱くなく、常に心に思って考え続ける思念に通じるのである。
 新三郎はお露を思った。心で思った。それを夢に見た。思うことで思考が深まった。やがてそれが霊夢となり、次元の異なったところ、つまり幽顕界で逢い引きが行われるのである。
 あるとき、新三郎は伴蔵と釣りに出かけた。そこでお露の香箱の蓋
(ふた)を拾う。そこからお露のことを想い出し、悶々とする日々が始まる。そういう最中に、怪奇現象が起こる……」
 「どんな?……」とおぼこ娘。
 「誰もが寝静まった八ツ時、何処からともなく下駄の音がする、カランコロンカランコロン……と。それも夜の夜中に。だが、ゲゲゲの鬼太郎の登場じゃないよ。この噺にゲゲゲの鬼太郎は登場にない」
 「揄
(から)かわずに先へ……」と家内。

 「この夜は冴え渡る十三夜の月の晩のことであった。しかし、この月夜時間は、呪い掛けの、草木も眠る丑三つ時
(午前2時から2時半)ではないようだ。
 物語の創作者・三遊亭円朝の此処での表現は『上野の夜の八ツの鐘がボーンと忍ヶ岡の池に響き……』とあるから、八ツは、現代の午前2時頃で丑三つ時の少し前だろう。
 そして、『牡丹燈記』も『牡丹燈籠』も、月夜の晩であることに注目されたし……」
 「そこに何か共通点があるのですか」と真弓。
 「そう、両者の噺には『月夜』という共通点がある。月が介在しないと、物語は始まらないんだ」
 「どうしてです?」と再び真弓。
 「それは月のサイクルに、人の生死が絡んでいることが挙げられる。月と水、月と死や不死の身体的精神的な影響を齎しているからなェ。
 八ツは夜半を九つに分け、一刻を終わるごとに九ツ
(子の刻、今の午前か午後の零時頃)・八ツ(丑の刻、今の午前か午後の2時頃)・七ツ(寅の刻で、今の午前か午後の4時頃)・六ツ(卯の刻、今の午前か午後の6時頃)・五ツ(辰の刻、今の午前か午後の8時頃)・四ツ(巳の刻、今の午前か午後の10時頃)として、正午を再び九つとして四ツに至る区分している。これは太陰暦による月が東から昇り、西に沈むまでの月の位置を顕している。特に月の移動がほぼ真ん丸で、移動して行く時間は、十三夜(旧暦で毎月13日)から十五夜(旧暦で毎月15日)・十六夜いざよい/旧暦で毎月13日でいい月の日が終わった既望(きぼう)を顕す)までで、以降は立待月(たちまちづき)・居待月(いまちづき)・寝待月(ねまちづき)・二十日月(はつかづき)と、月は欠けて行く。作者は“月のよい晩”を設定して物語を作る傾向にある。したがって、月下でなければならないのです。
 さて、この晩、夜も更けて、天に月が輝いている頃、何処からか下駄の音がする。カランコロンカランコロンと下駄の音がする。この音にこそ、蠱惑の設定がある。蠱は月夜に怪しく蠢
(うごめ)く。闇夜では、物語にはなりませんからね。
 しかし、この月夜。新三郎はどうも眠れない。野郎は深草形の団扇を片手に蚊を追いながら、そのとき、ふと月下に生垣の外を通る女の二人連れを見たのである。そのうち一人は、三十ほど年頃で大丸髷の人柄のよさそうな年増。この女、いま流行の縮緬細工の牡丹や芍薬
(しゃくやく)などの花の付いた燈籠を提げ、その後に十七、八と思える美女が続く。月下の美女ですよ。これ、『牡丹燈記』とそっくり……。
 三遊亭円朝は生垣の前を燈籠を提げて通り過ぎる二人の女があったとしている。あの、『毎日がもやもや・むんむんの喬は家で燻
(くすぶ)り、ふと門前にぼんやりと佇(たたず)んでいたとき、その前を一人の侍女が提げる双頭の牡丹燈籠の後に、一人の美女が続いていた。十五夜の満月の夜である』と、この場面です。
 普通、霊的なものが姿を顕すの言うのは、真夜中より宵の口からが多いが、その時間帯は、街に人影が疎らになる頃から、やがて一人去り二人去って人影が無くなった時間の方が出る時間としては、よりリアルだがどうだろう。この時間は陰陽が入れ替わる凪
(なぎ)の時間である。人々は門の内側、戸の裡側に閉じ籠る。夜を迎えんとする時刻である。魑魅魍魎(ちみ‐もうりょう)はこういう時間帯に集中すると言う。
 時代劇などで、夜の居酒屋などが登場するが、あれは完全なる時代考証の誤りだろう。
 電燈のない時代、あのように出歩く人間は殆ど居なかった。夜、地域を徘徊
(はいかい)するのは火の用心の夜回り程度であり、江戸時代は出店も、蕎麦屋や握り寿司屋程度であり、一膳飯屋も夜遅くまでと言うのは稀(まれ)であったらしい」

 「その時間帯って、一瞬止まる凪時間に何かがあると言うことですか、それは例えば真空状態のような、そういう空間のことですか?」と畳み掛けるような上原小夜子。
 「いいところに気付きましたねェ。そもそも夕刻とは黄昏時から始まり、子供の歌にある通り、『鴉
(からす)が啼くから帰ろ……』の、あれなのです。この夕焼け時を外して帰宅することはなかった。この時代の人は、太陽と共の起きて働き、太陽と共に寝た。
 夕刻の薄暮れは一日のうちで夜が昼に変わる時刻で、この時刻からは昼に代わって夜が支配的になる。その一瞬の切り替え時刻は「夕暮れ」なのである。人々は夕暮れになると、この時刻を恐れた。街には街灯りなどの設備がないし、街灯としての大燈籠も要所要所を除けば、今日のように至る所にも配置されで居ない。
 また一般家庭でも、この時刻に油を燃やしたり、薪
(まき)で火を起こし燈火にするなどは、裕福な家庭のごく一部の層に限られていた。
 人々は太陽が落ちれば、その日一日は終わりなのである。遅くまで出歩かない。今日とは随分と違う。
 この決まりは、太古の昔から営んだ人間の生活基準であり、人々は夜闇に対して諦めにも似た感情を抱いていたようだ。
 ただ救われたのは月夜の晩であった。新月の朔
(さく)を除く、それぞれの月夜では、日にちごとに呼び名があった。よく知られるのは三日月・弓張月(上弦)・十三夜・十五夜・十六夜・立待月・居待月・寝待月・二十日月・弓張月(下弦)・二十三夜・二十六夜である。此処には朔(下新月)・望(満月)・晦(つごもり)がある。
 夕暮れ……。
 実は、非常に怕い時間帯なのである。黄昏れ迫り、暮れ泥むという時間や意の正体は、美しくある故に、また怕いのである。これは一見、夕陽で美しく感じるが、その時間は短い。直ぐに夜の帳
(とばり)が下りる。そこから起こる時間の変化は早い。
 この時刻は、迷信深い人なら、仕事が終われば家路を急いだ。夕暮れ時は、昼間は隠れて人目に付かないものが競って顕われて来る。魑魅魍魎
が跋扈(ばっこ)し、跳梁(ちょうりょう)をし始める頃となる。
 一昼夜の区分のことで、現今は真夜中
(午前零時)から真昼(午後零時)までを午前、真昼から真夜中までを午後とし、そのおのおのを12等分(または午前・午後を通して24等分)する。昔は、12辰刻法(しんこくほう)が広く行われていた。薄明の時刻(明六つと暮六つ)を標準の時刻に採(と)り、時計を用いて昼夜をそれぞれ6等分した。
 陰陽の切り替わりで言えば、昼は陽であり、夜は陰である。
 夕刻時機
(とき)は、日々刻々を陰陽の交替が行われるのである。陽が陰に交替し、満ち潮が引き潮に代わる。その代わる一瞬に潮が止まる時刻がある。これを「凪(なぎ)」という。
 ほんの一瞬だけ止まる中間時がある。この間断から人智を超えたものが湧き起こる。日本では古くから大凶時
(おおまが‐とき)といわれた。逢魔が刻(おおま‐が‐とき)なのである。魔と出遭う時刻である。
 この時刻には特別な魔力が働く。この時刻は時間と空間が魔力によって、ほんの一瞬、電導状態が起こる。
 このとき真空となる。一瞬停止してしまう。そこに魔が侵入する……」
 「厭だ、聴いていると段々怕くなる」とおぼこ。
 「そうだよ、本当はこの時間帯は“おぼこ”ちゃんのような、赤いほっぺをした可愛い娘は、出歩く時刻ではないんだ、攫
(さら)われるからね。それに“のっぺらぼう”もこの時刻に多い。振り向くと貌がない……」
 「もう、厭だ……」と1オクターブ挙げて、おぼこ。
 怕い怕い……と言いながら、喜ぶのは女の心理であろうか。

 「さて、昼と夜の時間の切り替え時に、ほんの一瞬、電導状態が起こる。この電導時に、顕幽界の存在は此処を入口に出入りする。
 人間は自然の生き物の中で最も強い適応能力をもっている。時間は掛かるが、どんな環境下にあっても馴染んでしまう。この環境が直ぐさま生命を奪い取るような条件下でなければ、人間はそれに柔軟に対応し、やがては馴染んでしまうものである。
 では、人間のとって“冥界”なるところは、如何なるところであろうか……。
 冥界とは文字通り“死人の場所”である。これに居着して生きることは可能であろうか?……。
 日本版『牡丹燈籠』の登場人物の新三郎は、お露に慕われて既に死んでいた。野郎はお露の髑髏
(どくろ)を抱いていた。野郎は相当に猟奇趣味ですなァ。そして、その後も冥界での逢い引きを繰り返す。
 斯
(か)くして死人の世界に魅入られれば“轆轤抱き”の常習者となる。
 ここに長居することは致命的であるのだが、いつしか新三郎は、死人の世界に居るお露の虜になっていた。
 この長居は、二度と地上では存在出来ないことは明白であった。
 冥界と言う場所は、自分を忘失してしまった者にとっては、本来、実に居心地が悪いところなのである。
 しかし魅せられ、蠱惑されてしまった者は居心地のよさを、一時的に感じるものなのである。そして、うっかりすると固着し、居着いてしまうのである。それは則
(すなわ)ち、その世界で死ぬと言うことであった。
 だが本性は、人間は寿命までは生きたいと思うものである……」
 「そうですわ、寿命の限り、精一杯生きようとするのが人間の本能ですからねェ……。喩え、死を告知された末期患者だって、それでも生きたいと思いますからね、生に縋
(すが)るのが本性であって、決して自ら意味のない死の空白の中には入って行こうとは考えないし、厭世的にもなりませんわ。本来、自殺願望は厭世的な捨鉢から起こるとされていますが、あれって、人間の我が儘かしら?……」と真弓。

 「なかなか真弓先生は核心に迫った、人間の深層心理を分析なさる。その、生に縋ろうとする心理は、実は月の動きと関連しているのですよ。月が人間の心情に様々な影響を与え、心までを支配することがある。
 つまりですなァ、こういう創作劇を創作している作者自身、既に月の影響下にある。そのために、時刻の八ツ時は重要な意味があるのです。八ツ時はその後に、草木も眠る丑三
(うし‐み)つ時を抱えている。
 特に時間区分においては、丑の時を四刻に分かち、その第三に当たる時。およそ今の午前2時から2時半を指しますからなァ。
 そして夜も深まり、八ツ時になって、下駄の音が響き、カランコロン・カランコロンは、その時刻から侵入した死者の亡霊です。ここにこの噺の清聴者は、恐怖と刺戟と痺
(しび)れを感じる。
 更には、生前でもこの感覚ですからなあ、死した後の意識体の感情としては、迷いが起こる。顕幽界は不成仏のものが迷う世界。迷って訴えて来る。そしてカランコロン・カランコロンは一種のラップ音なのである。
 如何でしょうか、充分の怕いでしょうか」
 「そういう怕い噺をする先生の貌の方が、もっと怕い……」と“おぼこ”ちゃん。

 「この異界からの登場は『牡丹燈記』の麗卿
(れいきょう)と金蓮(きんれい)の亡霊に酷似し、日本版『牡丹燈籠』での、まさにお露とお米なのである。この二人を新三郎が視る。
 それいこうのストーリーは『牡丹燈記』に似ている。
 『牡丹燈記』の隣翁は、“人相見”の白翁堂勇斎
(はくおうどう‐ゆうさい)であり、同じ長屋の伴蔵(ともぞう)に分化しているが、伴蔵は隣を覗いてびっくり仰天する。その話の一部始終を同じ店子の人相見の勇斎に話すのである。
 伴蔵は新三郎の下働きで、髑髏
(どくろ)を抱く新三郎の姿が発見する……。
 しかし、分らないことがあります。
 『牡丹燈記』の喬の場合は、死してもまだ生きているようなピチピチした麗卿を抱いています。
 ところが、新三郎は既に白骨化したお露を抱くのです。そこで問題です。これって、お肌的かつ肉感的に言って、挿入した場合、果たして気持ちがいいものでしょうか?」
 「……………」女どもの眼は急に全員が点になった。そして一斉に鋭く私を睨みつける。

 「そういう批判的な眼で見られると、眼の落し場所に困りますなァ」
 「噺を下ネタにすり替えるからです」と家内。
 「何と申しましょうか……、さてさて失礼致しました、いまのは大変な失言です。
 以後、官能的発言は堅く慎み、座布団が飛んで来ないうちに噺を続けさせて頂きます。
 さて、勇斎は萩原新三郎宅を訪ね、死相が出ていると告げる。お露が幽霊であることがわかり、仏像とお札で幽霊封じをする。
 新三郎は亡霊と逢い引きし、閨
(ねや)を伴にしていたからである。それでは命が危ないと言う。
 『このままでは命がない』と教えられた新三郎は、新幡隋院の良石和尚に相談に行く。そして和尚から純金の海音如来を借り受け、魔除けの御札を張るが、のちに伴蔵の裏切りを受け、金無垢の如来は奪われ、御札は剥がされ、お露の侵入を許してしまう。この漢、百両の金で“御札剥し”を請負ったのです。
 お露も遣るものですなァ、こう言う小悪党に、百両の金で請負わせるのですから、この辺は、なかなかしたたかですな。人間の業
(ごう)と言うものでしょうか。
 そして勇斉の言葉には『精気』について論じられる箇所があるのです。
 このオヤジ、『人間と言うものですはなァ』と先ず、精気の何たるかを説明する。
 『生きている人間と言うのは裡
(うち)に陽気盛んな気を有し、それは正しく、澄んで何処までも玄気に、然(しか)も清い……』と。
 しかし、『死ねば陰気が盛んになるから、その気は邪
(よこしま)になり穢(けが)れるものだ』と。
 ゆえに『亡霊と伴に偕老洞穴
(かいろう‐どうけつ)の契(ちぎり)を結べば、例えば寿命が百歳のものでも、それを保ことが出来ず、ために精血を減らし、やがては早死にするものだ』と何処かで聴いて来たような講談師を演ずる。大した役者ですなァ……。
 この箇所を『牡丹燈記』に重ね合わせれば、湖心寺は新幡隋院となり、魏法師は新幡隋院の良石和尚
(りょうせき‐おしょう)となる。
 ここで新三郎は、純金の海音如来を護身の具として貸し与えられ、また御札まで書いて貰う。『それで死霊の禍を避けよ』と教えられる。斯くして亡霊は、新三郎の長屋まで来るが、御札が貼っているため立ち往生して中に入れない。挙げ句に、家を巡りながら嘆くあたりは、一層の悲愴感を与えますなァ……。
 この辺、純情な女心に併せて、したたかさもある一方、立ち往生するなんざァ、亡霊と雖もやはり女」
 「これは、御札の異力が効いているということですね?」と“おぼこ”ちゃん。

 「一応、そういう設定になっていますが、その効力のほどは如何に?……。疑問の持たれるところです。
 さて、世の中には欲に転ぶワルがいるものですなァ。その典型が、同じ長屋に棲む伴蔵。
 この漢、欲に転んで新三郎が新幡隋院の良石和尚から借りた純金の如来盗む。野郎は如来を盗み、御札まで剥がしまう。百両と交換条件にして……。
 大したワルだが、高が百両程度で転ぶなんざァ、所詮小悪党。悪党の中でも、超小悪党……。こういう漢、現代の世では沢山居ますなァ。こう言うのが培養されて繁殖するというのは、世も末を顕しているからです。
 良い子のお嬢ちゃまは成人しても、くれぐれもこの種の計算高い、欲丸出しの小狡い小悪党漢に引っ掛りませぬように。これから充分に世の中を学ばれ、外見や外面に囚われず、“いけ面”だけに騙されることなく、人生勉強とともに、人間勉強も確
(しっか)りして下さいね」
 「はい!」こう元気よく返事したのは“おぼこ”の勅使河原恭子だった。
 周囲から思わず苦笑が漏れる。この娘は、見掛け以上に純情なのだろう。悩殺と純情が同居していた。

 「さて、その結果、新三郎は亡霊にとり殺される。
 この辺から、『牡丹燈記』から離れて行き、殆ど前半の影響は消えて、この因縁話は、遂に「復讐譚」に早変わりする。
 この変化は急に烈しくなりますから、先ずは、ここで登場人物の整理をしておきましょう。
 この後の登場人物は、次の如し。よく整理し、後半の展開を理解しましょう。
 さて登場人物を整理して行く過程で、奇妙なことに気付く。つまり、主役は誰かと言うことである。この辺の展開に、何か奇妙なものを感じませんか。
 『牡丹燈記』では、背の君と言われた美男子・喬と美女の麗卿が主役であり、その金蓮以下は脇役扱いだったが、日本版『怪談牡丹燈籠』は必ずしも美男の新三郎と美女のお露が、一概に主役で無いことが分る。それに引き換え、新三郎など完全に脇役に押しやられている。
 ここが中国版『牡丹燈記』とは異なるところ。
 そして、主役は誰かとなると、飯島家の忠僕・黒川孝助である。後半はこの忠僕が大活躍して、間男の宮邊源次郎を討つ。が、しかし此処までの漕ぎ着けが難儀の連続……。
 また悪党のワル・伴蔵が、何とも狡猾な悪事を働き、女房のお峰を殺しや、医者の山本志丈殺しまで遣る。
 前半は『牡丹燈記』に似るが、後半は仇討ち話であり、黒川孝助と対峙して、ワルの伴蔵が物語を盛り上げている。欲と色と血とで、ドロドロとした人間模様を織りなしている。その色取りに、この小悪党が演出効果を高める。
 評すれば、中国版『牡丹燈記』は幽霊も情が深く、また明るくで愛すべき人物が登場するが、日本版『怪談牡丹燈籠』は登場人物が総勢十九人
(うち女は6人)も登場しながら、幽霊自体も伴蔵の女房のお峰に見られるように怨霊と言う名に相応しく陰湿である。また、お露も付き従う下女のお米も怨霊じみて陰湿である。
 作者の三遊亭円朝は、中国版『牡丹燈記』に張り合って、幽霊と言うものの凄味を、ぞっとする怕さで表現しようとしたのであろうが、それは明るくで愛すべき人物像から逸脱し、欲と色と血とでドロドロとした人間模様を作り出してしまったと言えよう。これも日中の国民性の違いなのだろうか……」
 こうして問い掛けをした。



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