運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続 壺中天・瓢箪仙人 1
続 壺中天・瓢箪仙人 2
続 壺中天・瓢箪仙人 3
続 壺中天・瓢箪仙人 4
続 壺中天・瓢箪仙人 5
続 壺中天・瓢箪仙人 6
続 壺中天・瓢箪仙人 7
続 壺中天・瓢箪仙人 8
続 壺中天・瓢箪仙人 9
続 壺中天・瓢箪仙人 10
続 壺中天・瓢箪仙人 11
続 壺中天・瓢箪仙人 12
続 壺中天・瓢箪仙人 13
続 壺中天・瓢箪仙人 14
続 壺中天・瓢箪仙人 15
続 壺中天・瓢箪仙人 16
続 壺中天・瓢箪仙人 17
続 壺中天・瓢箪仙人 18
続 壺中天・瓢箪仙人 19
続 壺中天・瓢箪仙人 20
続 壺中天・瓢箪仙人 21
続 壺中天・瓢箪仙人 22
続 壺中天・瓢箪仙人 23
続 壺中天・瓢箪仙人 24
続 壺中天・瓢箪仙人 25
続 壺中天・瓢箪仙人 26
続 壺中天・瓢箪仙人 27
続 壺中天・瓢箪仙人 28
続 壺中天・瓢箪仙人 29
続 壺中天・瓢箪仙人 30
続 壺中天・瓢箪仙人 31
続 壺中天・瓢箪仙人 32
続 壺中天・瓢箪仙人 33
続 壺中天・瓢箪仙人 34
続 壺中天・瓢箪仙人 35
続 壺中天・瓢箪仙人 36
続 壺中天・瓢箪仙人 37
続 壺中天・瓢箪仙人 38
続 壺中天・瓢箪仙人 39
続 壺中天・瓢箪仙人 40
続 壺中天・瓢箪仙人 41
続 壺中天・瓢箪仙人 42
続 壺中天・瓢箪仙人 43
続 壺中天・瓢箪仙人 44
続 壺中天・瓢箪仙人 45
続 壺中天・瓢箪仙人 46
続 壺中天・瓢箪仙人 47
続 壺中天・瓢箪仙人 48
続 壺中天・瓢箪仙人 49
続 壺中天・瓢箪仙人 50
続 壺中天・瓢箪仙人 51
続 壺中天・瓢箪仙人 52
続 壺中天・瓢箪仙人 53
続 壺中天・瓢箪仙人 54
続 壺中天・瓢箪仙人 55
続 壺中天・瓢箪仙人 56
続 壺中天・瓢箪仙人 57
続 壺中天・瓢箪仙人 58
続 壺中天・瓢箪仙人 59
続 壺中天・瓢箪仙人 60
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 続 壺中天・瓢箪仙人 7
続 壺中天・瓢箪仙人 7

自己の善と言うのがある。人間の心の裡には、善いことをしたいという願望がある。悪いことをしたいと言う願望は起こらないが、善いことをしたいという願望は時として頭を擡(もた)げる。偽善の誘惑である。この誘惑に魅入られると、人は誰も、一時的にではあるが善いことをしたいと思い、競って善いことに殺到する。

 その思惑の中には、皆が善いことをすれば、きっと善い世の中が出来上がるに違いないと思うからである。人類の歴史を見ると、善いことをしたと言う記録はゴマンとある。
 しかしゴマンとありながら、結局、善い世の中は一度たりとも出現しなかった。
 何故だろう。

 それは「自己の善」であったからである。
 自己満足の善であった。善いことをしたと自分だけが得意になって思い込み、それは人を押しのけての自分だけの巧妙手柄に奔走した偽善であった。こうした自己満足の善が、他方で人を傷付け害しているのである。そういう偽善に、あなたは気付かないだろうか。何処かで見掛けないだろうか。そう言う善に鼻を突いたことがないだろうか。
 エエカッコシーの目立ちたがり屋の自己満足である。


●X階級

 用人・兵頭仁介氏は次の切り出した。
 「如何でございましょう?……よく検討なされましたか」
 皿に盛られ、刻まれた刺身の鯛になるか、または危峰の「頂門の一針」になれと言うことだろうか。
 だが、私には出来ない相談だ。しかし話術の妙は、言葉に含む粘着性の絡みで、簡単には逃れないようになっている。意図まで、思想までもが、浸透して迫って来るのである。光透波
(ことば)の重みである。
 言葉は音声としての音でない。話術の言葉は呪詛が掛かっていて、内側に染み入る浸透力がある。
 例えば、呪えば人はそれだけで害される。重みのある言葉には要注意である。時として呪詛が掛けられているからだ。言葉には呪いの掛かったものがある。

 「それは私が猟られたということでしょうか?……」
 だが、兵頭氏の言質
(げんち)を得た訳でない。何か意図を含んでいる。
 「いかようにも……お採
(と)りください」
 いい言い逃れに聴こえる。含みまで持たせているが、後日、私に証拠になる尻尾を掴まれないように言葉を濁している。それだけ話術に長けている。
 「確かに猟られはしましたが……」皮肉を込めて、反語の畏力
(いりょく)で切り返してみた。
 「自分は同胞を害するほど愚かではありません」巧く逃げ切っている。
 「?…………」解せないと思った。
 私は蹂躙
(じゅうりん)されたのではなかったか……。この場に隔離されたのではなかったのか。
 「しかし、人間に不慮の事故は付きもの……、これに何の不都合がありましょう」釘を刺すことは忘れていないようだ。しかし窘
(たしな)める意味も含んである。一つの咎(とが)めであり、また悩ましである。
 「なにせ私は一介の素浪人。どういう資格がありましょう」
 約束も誓約もしないと言う意味を臭わせた。少しでもその素振りを示せば、思う壷で畳み掛けて来て、言葉は人間を縛ってしまうからだ。言葉には「咒
(じゅ)」が掛かっていること忘れてはなるまい。安易な返事や相槌は実に恐ろしいのである。この咒の恐ろしさを知らずに、搦め捕られて蹂躙される人は少なくない。

 例えば、大人物と話す時は、一言一句までもが安易に喋れない。慎重に話さねばならない。それ自体で、今後の運命が決定されてしまうからである。話術の搦め捕る粘着性の効果である。
 普通、一般人はこの粘着性について余り考えず、安易な言葉で羅列を飾っている。ところが、これは軽薄世界の表だけのことである。これが裏に入れば、闇の世界ではこう言う曖昧
(あいまい)は存在しない。この世界でも、何処か追い詰めて行く白か黒か、是か否かの何れかしかないのである。グレーなど決してない。この世に中途半端は存在しないのである。しかし、このどっちつかずで徹底しない態度を頼みの綱として希望的観測を抱く現代人も多いようだ。咒(じゅ)の怕さを知らないからである。

 簡単な裏世界の話術を、例えば実戦心理術で解説してみよう。
 これは「人間の軽率」と「その程度」を検
(み)る話術である。
 「近頃は不景気の風が吹いて、私たち庶民は生活がままなりませんね」と問い掛けて来た人が居たとして、その真意には「階級の丈を計る」魂胆があったとしよう。そして一方、問い掛けられた方は、こう言う不景気風が吹いているのにも関わらず、“そこそこ”で“まあまあ”の生活をしていて、自分ではそんなに景気が悪いと思っていない一部上場企業に勤める中間管理職だったとしよう。

 さて、この相槌をどう打つか。
 例えば、無視する。しかし、そうすればお高く止まっているように映るので「そうですね」と返事する。
 さて、最後の語尾の「ね」である。「そうです」と答えるのと、「そうですね」と答えるのは正反対の意味を持つ。これは「yes」と「no」の開きがある。否定と採られてしまう場合がある。
 「そうですね」は「そうじゃない」ともとれ、話術の術者はそう検る。これはカモになるか、そうでないかの人間の弱点を突く話術である。「そうです」は断定だが、「そうですね」は疑いを含む否定と検
(み)る。
 最近は「yes」と言えばいいものを、わざわざ「no」と答える人が殖えている。此処にこそ、「付け入る隙がある」と話術の術者は検
(み)るのである。「yes」で引っ張られるか、「no」で引っ張られるか、その判定の白黒で、その後の自分の人生が違って来る。たったこれだけの質疑応答の中にも、運命を左右する重大な意味が含まれている。これは「虚」を衝(つ)く話術である。美辞麗句(レトリック)で、相手を手玉に取る心理技術である。

 こうした応用編は、社会の至る所で繰り広げられている。
 一般社会でごく普通に見掛ける“なあなあ”の表社会から見れば、恐ろしいほどの禁欲的
(ストイック)なのが裏社会なのである。したがって一言一句に凄い意志力が込められている。決して軽くない。
 言葉は、かように重い。この重さを知っていていて、現代人は考え、裏を読み、責任をもって回答を下しているのだろうか。

 つい最近も、こういう会話に出くわしたことがあった。
 「わたしが、PCのキーを叩いていてましてね、こういう匿名投稿がありました。それに、あなたの痛烈な批判が書かれていましたよ」
 「それは、何処のページにだ?」
 「それは、まあまあ、いいじゃありませんか。世の中にはいろいろな人がいる。世間には相手にされない人も多い。ところが、あなたは相手にされるから、批判もされるのです」
 おそらく、匿名投稿の言を報せた方は、結局、お茶を濁した形で終了させてしまった。こういう結末に持って行くのなら、匿名投稿を話題にする必要などなかったのである。こう言う会話はサラリーマンの日常に多く見る。そこまで言うなら、“言い出し屁”が自己流の解釈でも註釈でも付けて批判された方を弁護しなければならないからである。身内なら尚更だろう。それを放置しておいてお茶を濁す結末で終わらせれば、逆に言い出し屁が怨まれるだろう。

 この構図を、聞き手は会社役員。語り手は同社の課長級の会社員として、もし、このような会話を、例えば重役会議などで話題にして、最後こうした形でお茶を濁せば、間違いなくその人間は左遷の憂き目を見よう。
 この議題は議事録に記載され、また重役連からが言葉不適切で指弾されよう。怕
(こわ)いのは、外より内なのである。多くのサラリーマンは外面には心掛けているようだが、内に隙を作れば人間の未熟を問われて顛落することがある。言葉の重みを知らないからである。
 私もそういう思慮の足りない会議に出席したことがある。
 更に言及すれば、言い出し屁の対峙者の「あなた」を会社そのものか、会社役員の何れに置き換えて、考えてみれば、より一層言葉にリアルさが出て来よう。
 俚諺に「雉も啼かねば打たれまい」と言うのがある。無用のことを言わなければ、禍いを招かないですむという意味だ。言葉とは念であり、光透波
(ことば)だから、浸透力があると言うことだ。心の裡まで沁み入って来るのである。

 要するに言葉の重さと、自分の喋っている言葉の意味を理解していないのである。それだけ現代は記録に残らない言葉は、斯くもこのように軽々しく遣われているのである。恐ろしいと言えば恐ろしい。
 繰り返すが、言葉にある種の咒が掛かっている。その咒は、「人を呪わば穴二つ」なのである。
 他人をのろって殺そうとすれば、自分もその報いで殺されるから、葬るべき墓穴は二つ必要なことは誰でも知っている筈なのだが、それを敢て遣るバカも多い。
 呪うと言うのは、何も丑三つ時の“呪いの藁人形を五寸釘で打つ込むだけが呪い”の行為ではないのである。言葉でも充分に咒が掛かるのである。咒はいい方にも掛けられるし、悪い方にも掛けられる。
 したがって、受けて抜ける術は、悪い噂も気にせず、抜けて流して、忘れれば済むことである。これだけでその唸
(ねん)は飛ばなくなる。これが抜ける術なのである。

 私たち、表社会に生息する庶民は、安易な言葉に操られて、日常の中を生活している。それは思考の短絡、牽強附会
(けんきょう‐ふかい)の社会を出現させる元兇を招いた。
 したがって多くの人は、非日常の本当の怕
(こわ)さを知らない。それゆえ例えば、マスコミの無責任な発言とか、無思考の何ら配慮のない言葉に惑乱されてその軽薄世界に取り込まれて行く。これこそが、今日の抜き差しならぬ実情を招き、一握りの支配階級に対し、その他大勢の日常者が奉仕する虐(しいた)げられた中間位置の被支配階級の構図を作り出したのである。
 つまり、中間位置の被支配階級は搾取される階級なのである。
 隠れて見えない世界、裏の世界、闇の世界は、総て言葉で成り立っている。言葉に重みのある言霊世界なのである。それゆえ一言一句が重要な意味を持つ。則
(すなわ)ちこの世は、この重要さを知るか知らないかで、支配階級に入るのか、被支配階級に組み入れられるのか、この分岐点となるのである。
 言葉の重要性は此処にある。言葉として吐かれた約束事も、口から出た安易な一時凌ぎは絶対に赦されないのである。
 古美術界の世界でも、約束厳守である。口約束でも守らない者や不履行者は、その後、二度とこの世界では喰って行けなくなる。こういう約束違反を「ションベンをした」として蔑む。
 サラリーマンなどが飲み屋で、一夜の閨を魂胆に芸妓
(ホステス嬢や酌婦)に嘘をつくような発言をすれば、この世界では永久に追放され、出入禁止となり、二度と市場には戻れないのである。

 「それは、ご謙遜でしょう」兵頭氏が言った。
 何処までも持ち上げる気で居るらしい。いい気にして酔わせるらしい。
 「ここまで影の部分に触れれば、今さら逃げ出すことは不可能でしょう」
 私は、短い会話の言葉の中から、話術で仕掛けようとする策に思い至った。この御仁は、一旦力を与えておいて、同時に力を吸い取る話術を得意としているようだ。取り込む時のテクニックである。
 「お誘いしているだけで、強制は致しておりません。自分は用人として、事務的なお取り次ぎをしたまでのこと。その権限は自分にはありません」
 まさに飴と鞭の、鞭をくれておいてからの飴の切り返しであろうか。
 裏の世界とか、頂点の最上層とか、奥の院と言う世界は、総て、たった一言の言葉からこの全世界を支配しているのである。

 「では、津村老人に遭
(あ)わせて下さい」
 「さあ?……、小隊長殿は、今どこに居
(お)られますやら……」
 「消息は不明なのですか」
 「何しろ、あの方は権力筋から付け狙われておしますからなァ……、それに隠行の術を遣われる……」
 それは、例えばCIAなどの巨大諜報機関からなのであろうか。一体如何なる重大情報を握っていると言うのであろうか。私の戦慄した直感からは《あなたも、こうなったら同じ穴の狢
(むじな)ですぞ》と言わんばかりだった。後戻りは赦されないのである。この戦慄に震えた。
 「誰からです?……と訊けば、それは愚問でしょうか」
 「さようです……、としかお答えできません」
 この御仁は、こう言う簡単な誘導尋問には掛からないだろう。
 「例えば、習志野なんかに居たりして?……」
 この釜掛けには掛からなかった。表情一つ変えなかった。
 私は貌の変化から、何かを探ろうとしたが、さすがにこれくらいの人物となると中々の狸であった。簡単に尻尾は出さない。同じ狸でも、私より役者が数段上である。
 「では、自分はこれで……。あとは、お嬢さまがお相手をなさいます……」
 用人の兵頭氏は頭を下げて、部屋から下がって行った。
 今度は真弓が蠱惑に懸かる。二段構えの蠱惑戦術なのだろうか。

 しかし、この出遭いは、何とも奇妙であった。
 私は戦後民主主義という、アメリカ主導型のデモクラシーについて考えてみた。
 なぜ民主主義と言わず、わざわざ「戦後」の語句を付けて、デモクラシーと標榜するのだろうか。それは日本独特の詭弁を弄
(ろう)する“一国平和主義”に酷似していないか。どうも、肝心なところには庶民を圏外に押しやって「目眩(め‐くら)まし策」を設けているようである。
 戦前・戦中、朝日新聞をはじめとする大手新聞は挙
(こぞ)って戦争を国民に煽った。戦争礼賛だった。
 そして純粋無垢な庶民はまんまと煽
(あ)られ、戦争に同意した。更に報道機関は力を得て、不況の打開策は戦争以外ないと煽った。

 だが敗戦で、今度は180度方向転換して、左に傾いてしまった。
 この構造の裏には、明治以来、西洋から持ち込まれた「善悪二元論」があるからだ。
 明治維新前、開国の担い手は日本人ではなく外圧であり、張本人はアメリカだった。その理論構成はプロテスタンニズムと十八世紀の啓蒙思想という二種の最も単純な二元論であった。そして大東亜戦争敗北は、則ち第二の開国であり、GHQ
General Headquarters/連合国軍総司令部)の民政局の役人のニューディーラーであった。
 この役人構成は米軍の軍服を付けた将官級や佐官級の役人で、連合国軍最高司令官のッカーサーの意向で動くアシュケナジー・ユダヤ人
【註】アブラハム以来の血縁をもたず、またその末裔でもなく、セム族とは無関係な、白人の肌を持つ、西暦千年頃にユダヤ教徒に改宗したカザール人。米国では僅か1%を占め、他の大勢の米国人に多大な影響を与えるエスタブリッシュメントの国際ユダヤ金融資本勢力)らで構成されていた。
 彼らの用い戦後の日本政策は、ニューディール式改革案で、アジアの野蛮国を心行くまで実験しようと企む夢に燃えていた。これは日本に原爆を投下する時のマンハッタン原爆計画に参加した科学者同等の夢に燃える企みだった。
 ところが、敗戦国にはこの裏地場は一切隠されたのである。
 その最中、一方で、日本の過去の歴史を断罪する策が用いられ、その策に進歩的と自称する連中を走狗に遣うことを思い付いた。
 つまり進歩的文化人によって、古いものを否定し、新しいものに従順する勢力を、報道機関を巻き込んでこの策を遂行したのである。新聞などの報道機関も左寄りになる以外、生き残す術
(すべ)はなかった。
 こうしてニューディーラー勢力は、利用出来る者は総て利用したのである。
 極端に報道上の文字や言葉は、戦後見解の修正が書き添えられた。

 しかし当時の大手新聞が、当然のように戦争に奔るように国民を煽ったことは忘れてはなるまい。
 その時の煽り方は、戦前・戦中とは正反対であった。その頃は、多くの日本人に対し新聞報道では「アメリカの民主主義は統一の欠く政治、アメリカの国民性から来る明朗な生活は贅沢、自由は道徳の頽廃の社会」と決め付けた。他社の新聞でも、そう報じられていた。その報道に従い、国民の大半はそう信じて来た。
 そして戦争突入には多くの国民が賛成し、「欲しがりません勝つまでは」を実行したというより、そのように煽動者
(アジテーター)によって煽られたのである。

 ところが敗戦の結果、180度裏返ってしまったのである。煽動者は鉾先を替え、煽る媒体を急変させた。
 これは国民に浪費と混乱を齎した。無責任な報道犯罪の元兇である。
 そもそも、この世の中の無秩序と過ちと悪の始まりは、煽動者によって画策されたものでなかったか。
 民主主義は人類最高の政治システム、贅沢は美徳、自由奔放は人間の素直な顕われとなってしまった。大半の戦後の日本国民が諸手を上げて賛成した。これ自体も「どこか訝
(おか)しいぞ」と思うのである。
 この訝しさには、背後に国民を操作し、煽動する勢力が居るからである。宣伝を通じて世界を操作する走狗がいる。言論工作員であり、思想工作員である。複雑で、多様化され、単純でなくなってしまった現代社会では至る所に様々な専門家がいるのである。


 ─────さて、これからどうするか……。
 勿論、仲間になる気などない。飼育されることを好まない。この世界の家畜でない。
 一言付け加えるが、この世は一方で「家畜世界」になっている。その最たるものが、サラリーマンの「社畜化」である。自らが家畜になることにより、会社員は、会社役員に奉仕することで生活の糧
(かて)を得る。
 この巧妙さに仕組まれたマジックの現実があることを忘れてはなるまい。
 これが運命共同体での上下の階級を作り、身分を隔てた。

 況
(ま)して私の場合、危険この上もない危峰の「頂門の一針」にはなれない。そういう器でない。運命共同体の中で、家畜として使役されたくない。貧しても、自由が何より。
 そう思うと、これまでの事が、何だかバカバカしくなって来た。ここまでに至るプロセスに、高が素浪人一匹、何と手の込んだことを企てたものだと呆れもした。実に手の込んだ遣り口だった。あるいは狙われ、今も何処からか監視されているのだろうか。何かそのような眼を背中に感じる。
 更に深読みすると、底辺の微生物の命は、何者かと差し替える生贄にされる豚だろうか。その懸念もある。確かにその気配を感じていた。現に臓器売買は、差し替えの最たるものでないか。
 もう、人間の肉体そのものが商品価値を生む。売買の対象になり始めている。底辺の微生物の肉体は、差し替えのために重要なビジネス媒体となり、商品として重要視されている。
 暗黒世界では、現代の人肉商売が罷
(まか)り通っているようだ。専門の解体屋までいると言う。そして、商品を監視する眼が烱(ひか)る。
 この時代、ないとは言えない。

 もしかすると、此処を取り囲む外部からだけでなく、内部にも間者の眼を感じ始めた。何か付け回されているような、そういう炯眼
(けいがん)を始終背中で感じるのである。睨まれているような、鋭い眼を感じるのである。それは官憲か、あるいは人肉臓器商売のバイヤーか……。
 こうなったら仕方ない。思い悩んでも仕方ない。
 ごろんと横になってみた。腕枕で天井を見上げ、これまでことを反芻
(はんすう)してみた。言葉の一言一句を思い返していた。
 まず、天井を見詰める。穴の空くように睨みつける。こんなことで回答は出て来る訳はないが、果たしてこれ以外のポーズがあるだろうか。

 人間は時として、ごろんとひっくり返り、腕枕で天井を見上げることがある。特に男の場合、こういうポーズと採
(と)ることが多い。無性に思考を巡らす。
 私もご多分に洩れず、ごろんとひっくり返り、腕枕で天井を見上げることがあった。そういう場合、いつも家内が寄って来て「何を考えているの?」と、よく訊かれたものである。
 この質問は、夫婦でも恋人間でも、愛情があるからであろう。相手に慈しみを感じているからであろう。
 ところが、こういうポーズを採っても、何ら興味を見せない妻君が居る。近頃は多い。夫婦別姓は、夫婦が分裂していることだ。セックスだけの同居人として、同じ屋根の下に居るだけである。そういう動物的な繋がりを持つ夫婦も多いようだ。
 夫婦仲が冷えきっている場合、こういう質問は出て来ない。亭主が何を考えようと勝手である。女房の知った事ではない。
 似非
(えせ)恋人関係の肉愛の仲なら、況(ま)してこういう話し掛けは行われない。肉以外に、心や魂の交わりがないからである。そういうものに興味を持たない。ただ快楽だけを追い求めて、男女間での享楽主義の追求ならば、労りの言葉一つも出て来るまい。当事者同士は唯物論的官能を貪っているからである。
 また、更年期に入った女房側からも出て来るまい。亭主を一瞥
(いちべつ)し、「好きに遣れ」と見下しただけで、かつての熱はすっかり冷めている。恋愛の成れの果てには、こういう興醒めも襲って来る。
 更に浮気が発覚して、不倫現象の結末から、女房は女房で、自らの女根には、此処に入る男根を選
(よ)り好みし、入って来た男根を放すまいとして、時として、すったもんだの結果は実に哀れである。結局はまた、その男根は別の女根に滑り込む。
 大人の恋愛といえば体裁がいいが、つまり不倫連鎖である。それで家族中が大騒ぎする。何と言う男女の悲喜劇だろう。この悲喜劇は、特に女性を興醒めさせる。そしてその反動が起こり、次に女房の方が堂々と不倫に奔る。既に亭主の浮気で公認済みであるからだ。
 そういう醒めた仲になって以降、決して「何を考えているの?」などの言葉は出て来ない。

 さて、私の気に掛ることは、津村老人が、何か知らない巨大な組織の重要問題に関わる重要人物であるということだ。それに、解
(げ)せないのが、事実無根の敵前逃亡である。理不尽な話である。
 あのとき老人から『夢』一文字の希望は聴いたが、敵前逃亡の話は聞かなかった。また、話の内容から、その形跡すら窺われなかった。では敵前逃亡は捏造されたのか。
 それも戦後に捏造されたのか。戦い済んでの捏造か。その懸念があろう。
 証拠など作ればいいと言った。幾らでも製造出来るのである。そう、兵頭氏は言った。
 しかし私の信じるところは、あの瓢箪である。それを二ヵ所で見ている。これは何を意味しているのか。
 これは考えても分らない。また発音やスペルの知らない英単語を考え続けて捻り出すようなものである。

 此処で、自棄糞
(やけくそ)で一眠りするか……。
 だいたい此処に居ること事態が訝
(おか)しいのである。しかし悩んでも詮無いことである。先は未(ま)だ長い。もう、このようなバカバカしい手の込んだ芝居と画策は止めにしてもらいたいものだ。だが、家へ還るにしても、この体制下では、簡単に此処からは逃げだせまい。
 猟られたウサギは、あるいは豚と言い換えてもいいだろうが、豚は飼われて肥らされて、あとは啖
(く)われるだけである。それが豚に背負わされた最初からの宿命なのである。
 私はそういうことを考えていた。好きに遣れ……となった。

 ゴロリとひっくり返ったところに真弓が顕われた。
 ところが、この女、庶民とは感性が些か違う。訊くことが外れていた。
 真弓が見た私の捨て寝を、彼女はこう捉えたようだ。
 「何を考えているのです?」ではなく、彼女は「何を追憶しているのです?……」だった。
 これから先の未来を考えているのではなく、過去を反芻
(はんすう)していると検(み)たのだ。追憶していると捉えた。こうなった事への哀れみだろうか。
 いや、そういうセンチメンタリストではあるまい。話術の手練である。屠殺場に引かれて行く豚に、豚の生産者は一々「気の毒だ」などの哀れみは掛けまい。生産者の気になるところは、自分の飼育した豚が、「どれだけの高値で、幾らで売れたか」である。
 普通、何を考えているかは、これから先の未来を案じて訊く言葉である。
 ところが追憶となると、過去に戻る。過去の過ちを思い悩む意味が含まれる。なぜ、そこまで読むのか。
 私は、かつてことを思い出していたからである。心を読んだのだろうか。
 既にこの女とも、深層心理の水面下では、激しい心理戦を展開しているのである。

 腕枕で、聚楽から広がる天井の枡枠
(ますわく)の一枚一枚に描かれた天井画を見ながら、ひと眠りを決め込んだ。自棄糞で寝てやるか……というときである。そういうところに真弓が入って来た。
 そして切り出した開口一番が「何を追憶しているのです?」だった。次に「交渉、巧く決裂出来まして?」だった。
 妙なことを訊く。
 だが私は答えない。

 「そのお貌から察すると、巧く運んだようですね。あるいは躱
(かわ)されまして?……、あの方、先生と同じように中々の狸ですのよ」
 誰が答えてやるものか。
 《それを祝ってくれるのか?……反対だろう》
 「お訊きしてますの?……」
 《訊かれたって、どう答える。ああ、とでも相槌を打てばいいのか……》
 「この枕、お貸し致しましょうか」
 《どんな枕だ?》
 そのように勿体をつけて蠱惑されれば、借りてみたいと思うではないか。これが凡夫の人情ではないか。
 しかし、この牝狐
(めすぎつね)、蠱惑の専門家である。長けた術者である。油断をすると易々と手玉に取られる。
 蠱惑家を評価すれば奸険、凶淫、煽虐、肆毒
(しどく)を恣(ほしいまま)に操り、狐媚によって、私のようなお人好しは簡単に手玉に取られた末、掌の上で、下手なステップを踏んで乱舞するのがオチである。

 「これ、硬枕
(こうちん)と言いますのよ」
 《何だ硬枕とは?……、きっと中国風の焼き物枕だろう》
 「これ、木で出来た硬い枕ですの。だらか硬枕……、ご覧になります?」
 《誰が見てやるものか……》
 「これ、頸椎
(けいつい)を刺戟して、次に矯正しますの」
 《黙れ、白蝋女……》
 「先生って、とんだ狸ですね」
 《俺が狸だと?……。じゃァお前は女狐ではないか。俺はなァ、言っておくが、猟られた豚だ、狡猾な狸じゃない。その辺を間違うな。木登を焚き付けられて、木に這い上がろうとして、結局登れずに滑り墜ちた哀れな豚だ》
 「この枕、別名“仙人枕”と申しますの……」
 《なぬ?……、もしやあの老人の……》
 「邯鄲の夢でも、ご覧になりますか……」
 《妙なことを言う……、少しばかり見てやってもいいか……》好奇心が湧く。
 ひょいとゼンマイ仕掛けの絡繰
(からくり)人形のように起き上がった。白狐の巧みな蠱媚(こび)を浴びて惑わされたか。
 「やっと反応がありましたわね」
 「どれどれ?……」《ちょいと拝見》となって起き上がった。

 「もう、お時間ですわ」
 「何の?……」
 間抜けな心理戦に掛かったものだ。上手くして遣られた。
 「いやだ、あたくしはこれから塾の講師のお仕事ですのよ……、お忘れになって」
 「あれは昨晩限りでは?……」
 「先生は生徒の皆さんに国語担当と仰ったでしょ、言った以上履行してい頂かなくては……」
 ここまで手玉に取られていたのか。
 「それもそうだな……、しかし……」
 「あたくし、何か困らせること申しまして?……」
 「いや……」
 「だったらお時間ですわ。それとも先生は奥さまとの約束、お忘れになりまして?」
 「うム?……」《約束だと……何の?……》
 「奥さまは、帰宅時間を確認されたでしょ、『一杯引っ掛け帰宅するのはよしとして、ご帰宅は午前様でしょうか、それともお昼を廻ってのお晩様でしょうか』と……。先生は午前様でしょうか、それとも明日のお昼を廻っての、お晩様でしょうか?……」
 この女、約束だけは履行するらしい。約束に厳しい人間は、相手だけでなく、自分のも厳しさを課せているのである。上流階級に多い約束履行厳守である。金持ちが何故金持ちになったか、その側面には約束の履行厳守があるのだろう。隠れて見えない裏社会の現実である。

 私は、珍本で『邯鄲の夢』の解説書を読んだことがある。独断と偏見を想像が紛れ込んでいたが、その解釈にも一利あった。それは裏社会の「陋規」を扱っている点である。
 それによると、確かに青年・盧生は道士呂翁から「栄華が意のままになる」という不思議な枕を借りて寝たのち、眠りの中で自分の一生の夢を見るのだが、そのストーリーは《科挙に及第して、高官になって次第に立身し、美人の妻を迎えて、子宝にも恵まれ、富貴を極めたが、目覚めると、まだ枕頭
(ちんとう)の黄粱(こうりょう)がまだ煮えないほど短い間の夢であった》という筋書きになっている。だが、盧生はその後、科挙の試験すら受験せずに故郷に帰ってしまうのである。
 つまり、この物語は「夢オチ」になっている。
 一般に知られる物語は、自分の一生が総て分ったから、もう同じことをしなくてもいいと検
(み)るのであるが、盧生はそのスリーリーにしたがって同じことをすれば、現実にも科挙に及第し、高官に登り詰め、美人の妻を迎えて栄耀栄華を極められるのだが、それをしなかったのである。
 また、夢オチになっているから、その先のストーリが書かれていない。オチには先がないのも当然である。
 だが、それに註釈を付けた珍本?があった。

 それによると、盧生は裏社会、つまり表の世界からは決して知ることの出来ない約束の履行厳守に馴染めない何かがあったと言うのである。隠れて見えない世界の厳しさと言うか、恐ろしさと言うか、そういう裏社会である。
 それはこの青年が、自分はそう言うトップにもなれず、また最下位の定点の更に底辺の「X階級」と言われる自由人でもなく、中間に位置する“なあなあ”が似合うと感得したと言うのである。X階級の住人になるのに虞
(おそ)れを抱いたからであると、このような独断的な注釈が付けられていた。
 結局、盧生は頂点に上るのも、最下位の低点になるのも拒み、選んだ選択肢が、結局科挙に及第する道を選ばず、虚しく故郷に帰るという結末に落ち着いたと言うのである。そして盧生は自ら、自由を拒み、制限され制約されて、管理される側の家畜になったと言う。人間牧場の住民になったと言うのである。
 果たして読者諸氏は、どうお考えだろうか。

 ちなみに「X階級」とは、月々の給料所得がない定職を持たない階級のことで、階級から外れた当時の天下の素浪人のような、例えば私を言う。自分の主
(あるじ)は自分なのである。
 だがサラリーマンの場合は、自分の主は自分でない。雇用期間は社畜である以上、その主は雇用主である。
 しかし自分が自分の主であるX階級は、そもそも階級を脱出してしまった道を選択しているのだから、自分を縛るものは何もない。自発的に行動をし、自発的に仕事をする。自立した精神を持っている。
 更に社畜でないから雇用主も居ず、総て自発的に行動して、自発的に仕事をする。気に入らなければ何もしないし、強制されるのも好きではない。

 私の近年のことだが、娘の刀屋を手伝って、この世界で市場の厳しい競争入札の中で生き残るためには、どうしたら生き残るか、負けないか、「負けない境地」を教えている。それゆえ、物書きや大学で非常勤講師や論文添削の他にも、刀屋で「刀装職人」を遣っている。拵師
(こしらえし)である。
 竹光から柄巻、鞘削り等を一人で遣る。
 但し、研ぎと漆塗りを除く範囲である。それで不定期的に仕事の依頼がある。
 大半の依頼者は必ず納期などを訊く。また中には預り書をくれなどという人がいる。だが私は、こういう依頼人の仕事は受けないことにしている。
 仕事をするにも私が主であり、主は依頼者ではない。そういう人には「余所
(よそ)へどうぞ」という。
 すると「あんた、それで生業
(なりわい)を立てているんだろう」と遣り返して来る。
 しかし私は金のために、拵師として生業を立てている訳ではない。気が向けばするし、向かねば断る。その点は人間を検
(み)る。世の中には波調の合わない人間もいるからである。
 特に上から目線で、見下す人間には我慢ならない。傲慢はお断りなのである。対等・同格でいたい。商いでの売買は、そういうものであると感得しているからだ。ゆえに売買は、売主も買主も対等であり、同格にあって始めて売買契約が成り立つ。仕事が終了した暁には、双方が礼の述べ、互いに礼に従い、頭を下げればいいことである。何も昨今流行している米搗バッタのような“お迎え・お見送り商法”は真っ平である。それは、その趣味の人が遣ればいい。

 私の場合は納期期限なし。したがって1週間以内に終えることもあるし、半年以上も俟たせることがある。それでも依頼されれば遣る。出来れば、迷いの多い中途半端な中間階級には関わりたくない。
 そう考えると、どうしても薄利多売はしたくない。またロスチャイルドの始祖のマイヤー・アムシェルの考え方と重なってしまうのである。ユダヤ商法を研究すれば、薄利多売者を相手にせず、一握りの金持ちを相手にする商法である。薄利多売はその煽動の才がある者がすればいいのである。
 私はその才がないから、「X階級」で満足する。それは奇
(く)しくも、原憲のような清貧に結びついてしまうのである。

 つまり「清貧」と、「見えない階級」と言われる超最上級は、同じ次元の世界で生きているのではないかと思うのである。双方を比較すれば、頂点の一劃
(いっかく)と、底辺の一劃は不思議にも符合するのである。
 だが、この階級は多過ぎては困るのである。一握りであるから、全体構造の拮抗が採れるのである。
 特記すべきは、双方が自立した精神をもち、自分の意志で行動や仕事を決定していることである。そういう階級であるから、特定の階級だけにしか通じない言葉遣いも気にすることはなく、何事もその振る舞いは自由である。
 行動も仕事も、自分に惚れ込んだことだけを追求すればいい。これを死ぬその日まで遣るから、その仕事には引退もなく退職もない。死ぬその日まで遣れる。此処が定年のあるサラリーマンや、引退のあるスポーツ選手とは異なる。
 誰かに雇われている訳でないから、世間のサラリーマンにはよくある、自分の仕事を「つまらんもの」と軽蔑したり、月給の奴隷にならなくて済む。「月給の奴隷」という概念は、サラリーマンだけが捉われる概念である。X階級には無用である。それに、淡々と自分の仕事をするから、スポーツ選手のようにスランプなどはない。但し、工夫することには研究を重ね、その謎解きが出来た時は、どの世界にもない職人だけが感じる喜びを感得することが出来る。
 自由という点では、見えない超上流階級の頂点の一劃と、また清貧に甘んじる「X階級」の底辺の一劃とは不思議にも符合するのである。
 私は最下位の底辺の一劃に生息する生き物だった。
 物怖
(ものお)じしない私の性格は、この辺にあるのではないかと思ったりする。
 そうでないと、グリーン車の中で、着物の袖を纏
(まつ)り絎(くげ)してもらうのに、着物を脱いで下半身を丸出しにし、褌一枚にはなれまい。やはりこの辺は、その他大勢の世間さまとは大幅にズレているのかも知れない。

 「今日は隔離されて、このまま此処で泊まりでは?……」
 「あの……此処、宿屋で御座いませんのよ、それとも長期滞在がご希望でしょうか」
 「今日はこれで解放してくれると言うことですか?……」
 「だって、今日のプランは終了ですもの」
 「そうだったのか……」
 「でも、あたくしには、今日は今日のプラン、明日は明日のプランがありまましてよ……」
 「あの老人を捜し出したということですか」
 「ええ……」
 「何処で?……」
 「余計な穿鑿
(せんさく)は無用です!」ぴしゃりと断られた感じであった。
 鷹司家の使用人に、闇に暗躍する走狗がいて、仙術を心得た津村老人を探し出したと言うのだろうか。
 重大問題については、今日は一言も語らないらしい。何でこんなに喋れない沈黙が連続するのか。
 肝心なところで、誰も彼も口を閉ざしてしまう。何故だろ。
 「……………」
 「あたくしのことならご心配なく、総て叔母が暫く代理を致しますから……」
 それはわが子のことを言っているのであろか。自分の覚悟は、総て完了したと言いたいのだろうか。本格的に足を踏み入れていくらしい。

 では、これから習志野に行くのか。周囲は薄暗くなっていた。
 関東は九州より夕暮れが早く来る。
 この時期、九州ではまだ明るいが、関東では夜の帳
(とばり)が早々と降りる。習志野に棲んで一年以上を過ぎていたが、此処での都会時間は足早に遣って来るようだった。
 どういうコースで習志野に戻るかであった。
 一般的には、東京から総武快速で一気に津田沼まで行き、その間50分弱。津田沼から京成津田沼まで歩いて早足で6分程度、そこから各駅停車で一つ先の大久保まで待ち時間込みで10分程度。しかし通勤客の帰宅コースである。電車は満員である。もみくちゃにされる。エネルギーが少ないと言う真弓は、このもみくちゃに耐えられるのか、その体力はあるのか。
 それに、今日のファッションは昨日と同じか、あるいは変えるのか。どうでもいいことを心配をしていた。



●清規と陋規

 ここで裏社会の「陋規」について説明しておこう。
 世の中には、裏と表の世界がある。表は見えるが、裏か隠されていて、表からは見えない世界である。
 表の世界で演じられる行為や言動には「清規
(せいき)」という社会規範がある。一方その裏側には、裏社会があって、此処での規範は「陋規(ろうき)」といものがある。それぞれの規範である。

 規範とは、規則であり、判断や価値観を指す。したがって表には表の基準があり、裏には裏の基準がある。裏と表では則るべきものが違う。だが何れも守るべきものであり、拠
(よ)るべき手本がある。この手本が崩れると、世の中は怪しくなり、暗澹(あんたん)とし始めるのである。
 その暗澹の因子には不穏が含まれ、今日の社会現象の中で多く見られるようになったものに“善人”の評価基準が畸形
(きけい)してしまったことが上げられる。

 悪を犯す善人、エゴイズムを露にして個人主義に奔走する善人、二枚舌を弄して詐欺を働く善人、人の上前を撥ねる善人、言動が憎々しい善人、何もしない善人面の善人、出来心と称して犯罪を犯す善人、そしてまた嘘をつかない正直な悪人、お人好しの悪人、優しい悪人、不正をしない悪人、可哀想な悪人の善悪が逆転してしまった現代特有の社会現象が出現した。
 人間という生き物はその深層部に予測し難い善悪の可能性を秘めているのである。
 人間が恐ろしくも思え、その一方で怕いと思いながらも信じてしまう。信じながらも、また怕いのは、人間には予想もし難い善悪が綯
(な)い交ぜになった部分があるからだ。

 さて、清規である。
 清規とは、儒教で説いている道徳の学を中心にした行いとその規範であり、例えば親に孝行せよとか、兄弟仲よくとか、人の物は盗むなとか、乱暴狼藉をして婦女子を姦淫するなとかのことであり、社会的な法に抵触しないことの律法である。また道徳である。
 一方、陋規は裏社会の掟であり、例えば、賄賂を受け取るにも賄賂の受け取り方があるとか、喧嘩には喧嘩の仕方があるとか、盗むにしても盗み方があるとか、誅殺するには誅殺する殺し方があるとかの、言うなれば暗黒面
(ダークサイド)の道徳である。裏街道を歩き、闇世界を生きる住民にも、孔子流の「仁義」の世界があるのである。その筋の者も仁義をタテマエにしている。
 しかし、昨今は余りにも陋規を知らない人間が殖えた。

 例えば、賄賂の取り方を知らずに、それを発覚させてしまう間抜けな政治家や各省庁の高級官僚らである。
 この階級は、あまりにも“お坊ちゃま”なのか、陋規の世界を知らな過ぎるのである。ただ、清ければいいと愚かにも信じ切っている。所詮、これでは田中角栄の狸ぶりの偉大さは分るまい。
 田中角栄は、民主主義デモクラシーの構造を、日本では一番熟知した政治家だったのではあるまいか。角栄は、政治家を「国民の御用聞き」と見抜いた。御用聞きは、注文を聞いて回ってそれに答えることが役目であると確信していたのである。つまり、民主主義デモクラシーほど、民主主義政治の中で金の懸かる政治システムはないと見抜いていたのである。
 ところが、欧米支配の国際ユダヤ金融資本に仕掛けられ、ロッキード事件で敢え無く潰えた。あの狸で、この態
(ざま)である。後に福田赳夫もイギリスで釘を刺されたらしい。政治家の大半は欧米の意向に踊る高級奴隷である。如何に、陋規を司る闇の世界の食指が恐ろしいか分るであろう。この世界では、善悪も清濁も超越しているのである。

 ところが最近、陋規が崩れる現象が起こっている。その最たるものが、振込詐欺などの陋規違反である。
 犯罪者がその陋規を失うと、既に社会は赤信号なのである。これは取り締りを強化しても、撲滅出来ない。
 次にはそれを上回る奥の手が考え出されるからである。これを撲滅するには、当事者そのものを誅殺する以外あるまい。
 更に難解なのは、例えば喧嘩でも、国家間での戦争でも、清規と陋規のすれすれで仲裁するというのが難しいのである。これに失敗すれば、仲裁の交渉人は意味をなさなくなる。交渉人に人物的な魅力がなければ、仲裁不可能である。人間的な魅力をもって、梃
(てこ)入れする技術は難しいのである。
 かつて鼠小僧次郎吉なる、世間では「義賊」と言われた怪盗が居た。義賊であるか否かは別として、この怪盗には、三つの陋規が掲げられ、この次郎吉は厳守した。実に簡単明瞭なことであった。

金を捕られても生活に困らない「中の上以上」の家から盗む。それ以下は絶対に手を出さない。出来れば、上を可(よ)しとする。
盗んだ後、絶対に放火をしない。残忍な火付けは陋規に反するからである。
女人を絶対に犯さない。世には、行きがけの駄賃と言うのがあるが、また「帰りがけの駄賃」と言うのもあるのである。

 だが、次郎吉ほどの義賊?も、遂には命運尽き、御用となった。
 この怪盗の特長は、背が低く身軽で、武家屋敷奥向にのみ忍び入ったという義賊といわれている。
 やがて年貢の納め時が遣って来る。命運付き、天保三年
(1832)打首、獄門に処せられた。
 今日でも、小説・講談・戯曲などで有名である。しかし、有名なのは此処までであり、その先は余り知られていない。
 このときの首斬り役人は「首斬り朝」の異名をとった山田浅右衛門である。

 刑場に引き立てられた次郎吉は、浅右衛門に会うと、ごく親しい友人にでも話すように「この度は、とんだことでお厄介をお懸け致しやす」と挨拶をして、悠々と首の坐に就いた。そこで検死役の役人は定法通りに目隠しをしようとする。ところが次郎吉はこれを拒んで「そいつぁご免蒙りやす」と言って、平然と首を差し出したのである。
 浅右衛門は内心《あっぱれな覚悟》と見て取り、後ろに回り上段に刀を構えるが、どういうわけか、斬り下ろせない。何ゆえかと思い、もう一度構え直す。それでも振り下ろせずに、二度とも失敗してしまう。遂に三度目に構え直すことになる。
 そして浅右衛門は自身を叱咤する。《山田流宗家の浅右衛門ともあろう者が、高が盗賊一匹の首も斬れぬとは何たる醜態……》と自らを叱りつけ、今度は身体事体当たりするように振り下ろして、やっとのこと首を落としたと言うのである。陋規に通じ、これを厳守出来るほどの男は、これほどの迫力があるのである。

 私の知人のその筋の侠客がいる。任侠の年配者である。しかし世間では暴力団と白眼視されている。
 その人が言うには「わしらの若い頃は、堅気の衆には絶対に手を出さなかった。ところが昨今は平気で素人に手を出し、脅し、犯し、殺傷したりする。この世界の仁義も廃れたと言うか、崩壊していますなァ」と、こう言う事を洩らした。
 この御仁の嘆きは、陋規の崩壊に嘆いているのである。この崩壊は笑い話では済まされないだろう。
 人心の荒廃が明確になって来ているからだ。そして暴対法以来、海外からのギャングなどの犯罪集団が雪崩れ込み、日本古来の伝統であった侠客集団が同一視されて、侠客も暴力団も区別がつかないのが実情である。

 かつて古代中国では、清規と陋規の区別が喧しくいられていた。孔子が生きていた時代では、この区別か明確にあって、厳守されていた。孔子の言は、清規と陋規の区別が曖昧になると、やがて崩壊に向かい、世の中は暗澹としてきて大いに乱れ、その文明は崩壊するというのである。
 現代も、その崩壊に向かって驀進中である。

 孔子が論じた天命の清規と陋規の区別に共通している原理原則には「天が見ている、壁が知っている」という言を付け加え、この厳守を怠れば、その者は悪事がバレて、暴露されると言っている。
 普通、悪事は人が見ていないから遣るものだ。だが、その行為が野外であれば「天が見ている」と言い、屋内であれば「壁が知っている」と言うのである。
 唯物論者とか科学的科学の信奉者は、「そんなことはあるものか」と高を括
(くく)るのであろうが、実はそうでもないらしい。やはり、賄賂でも収賄罪を犯す者は、この現象界に、人間以外の肉の眼の監視があろうとは夢にも思っていないからであろう。
 『礼』の世界では、陋規には陋規の礼があると言う。賄賂を貰うにも貰い方があると言う。礼の術者はこれを知ると言う。しかし今日では、陋規の礼を知る者は少ない。

 さて、ここで疑問に思われる読者諸氏も居よう。
 では、陋規を知った上での賄賂の受け取りは「天が見ている、壁が知っている」状況下で、天も見逃し、壁も知らぬ振りをしてくれるのかと。
 そんなことはない。ただ時代が遡っての上の事で、賄賂のとり方は陋規に則ったまでのことであり、昨今ではこの見返りを現金や物財に求めず、権力の座のポストに求める傾向が強く、あるいは国家横領メンバーの末席に加えてもらうなどの便宜を計る無形の賄賂が要求されるようだ。
 これは経路的に探っても証拠不十分でその立証が難しいからである。昨今の賄賂請求は以前にも況
(ま)して巧妙になり、無形に変わったので、有形と違い証拠が殆どなく、また天下り策などのも利用され便宜を計ってもらっているようだ。そこで堂々と年俸と言うものをせしめた方が合理的であるからだ。昨今、賄賂などの贈収賄い事件の政治スキャンダルがパタリと途絶えたのは有形から無形に変わったためである。
 いま利益の配当を貰わなくとも、「利益は後から蹤
(つ)いてくる」というやつである。



  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法