運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
続 壺中天・瓢箪仙人 1
続 壺中天・瓢箪仙人 2
続 壺中天・瓢箪仙人 3
続 壺中天・瓢箪仙人 4
続 壺中天・瓢箪仙人 5
続 壺中天・瓢箪仙人 6
続 壺中天・瓢箪仙人 7
続 壺中天・瓢箪仙人 8
続 壺中天・瓢箪仙人 9
続 壺中天・瓢箪仙人 10
続 壺中天・瓢箪仙人 11
続 壺中天・瓢箪仙人 12
続 壺中天・瓢箪仙人 13
続 壺中天・瓢箪仙人 14
続 壺中天・瓢箪仙人 15
続 壺中天・瓢箪仙人 16
続 壺中天・瓢箪仙人 17
続 壺中天・瓢箪仙人 18
続 壺中天・瓢箪仙人 19
続 壺中天・瓢箪仙人 20
続 壺中天・瓢箪仙人 21
続 壺中天・瓢箪仙人 22
続 壺中天・瓢箪仙人 23
続 壺中天・瓢箪仙人 24
続 壺中天・瓢箪仙人 25
続 壺中天・瓢箪仙人 26
続 壺中天・瓢箪仙人 27
続 壺中天・瓢箪仙人 28
続 壺中天・瓢箪仙人 29
続 壺中天・瓢箪仙人 30
続 壺中天・瓢箪仙人 31
続 壺中天・瓢箪仙人 32
続 壺中天・瓢箪仙人 33
続 壺中天・瓢箪仙人 34
続 壺中天・瓢箪仙人 35
続 壺中天・瓢箪仙人 36
続 壺中天・瓢箪仙人 37
続 壺中天・瓢箪仙人 38
続 壺中天・瓢箪仙人 39
続 壺中天・瓢箪仙人 40
続 壺中天・瓢箪仙人 41
続 壺中天・瓢箪仙人 42
続 壺中天・瓢箪仙人 43
続 壺中天・瓢箪仙人 44
続 壺中天・瓢箪仙人 45
続 壺中天・瓢箪仙人 46
続 壺中天・瓢箪仙人 47
続 壺中天・瓢箪仙人 48
続 壺中天・瓢箪仙人 49
続 壺中天・瓢箪仙人 50
続 壺中天・瓢箪仙人 51
続 壺中天・瓢箪仙人 52
続 壺中天・瓢箪仙人 53
続 壺中天・瓢箪仙人 54
続 壺中天・瓢箪仙人 55
続 壺中天・瓢箪仙人 56
続 壺中天・瓢箪仙人 57
続 壺中天・瓢箪仙人 58
続 壺中天・瓢箪仙人 59
続 壺中天・瓢箪仙人 60
home > 壺中天・瓢箪仙人 > 続 壺中天・瓢箪仙人 6
続 壺中天・瓢箪仙人 6

巴日本陽明学派の祖・中江藤樹は学問について、次のようなことを言っている。
 「それ学は、人に下ることを学ぶものなり。人の父たることを学ばずして、子たることを学び、師たることを学ばずして弟子たることを学ぶ。自ら高ぶるにあらず、人より推して尊ぶなり」と。

 昨今は国民の利益とか公共のために自らを省み、また自らを責めるという人を、とんと見なくなった。その最たるは口先の徒に成り下がった行政や司法の官憲に多く見ことが出来る。
 この人達の中で、常に心を虚しくして、よく学ぶ人を見ることは殆どない。人の上に立つことばかりを目論んでいる。またそれは民間の運命共同体の組織の中にも見られる。ここの連中も、常に企てることは、人の上に立つことばかりである。

 人間はこの世に生まれ堕
(お)ち、生を享けて以来、誰に教わらずとも、人に勝ち、人の上に立ち、人を従える気持ちだけを強く抱くようになる。そのくせ、真に人に勝ち、人の上に立つだけの資質を備えているかと言えば甚だ疑わしい。そういう人は極めて稀(まれ)である。
 では、何故そういう現実を招くのか。

 人に譲り、人を先に行かせることを知らないからだ。我先にと、人を押しのけて、自分が先に出ようとするからだ。
 自分が人の上に立ち、心から尊敬される人物を目指しているのなら、先ず自らを低くし、人の下に立つことを学ばねばならない。
 これを学ばずして、真に人の上に立つことは出来ない。


●鷹司家用人・兵頭仁介

 「麝香(じゃこう)の間」に居た。仕出しのお造りに、箸をつけようとしたとき、ある人が遣って来た。
 鷹司家
(仮名)の用人という人であった。その人の名を兵頭仁介(仮名)という。また、この御仁は此処の支配人でもあった。この建造物を『金鷹館(きんようかん)(仮名)というらしい。金鵄、金鷄と並んで金鷹である。
 いったい金の鷹とは、どういう意味だろうか?……。
 私の知っている俚諺
(りげん)に「鷹は餓えても穂はつまず」というのがある。信念を失わない人は、窮しても不義の財を貪らないことの喩(たと)えであり、それは少しばかり、腐っても鯛に似ていないか……。勝手な想いである。

 用人とは江戸期、大名家や旗本家で家老の次席に位置し、庶務などを担当した職名である。事務を執り仕切る職務担当者を言う。
 出された名刺には一切大袈裟な肩書きなどは付いておらず、氏名だけであった。住所すら記載されず、和紙に漆
(うるし)で印刷されていた。役職や肩書きがないので、実にシンプルだが、能(よ)く検(み)ると非常に凝った名刺であった。そして、これまでに見たことのない人の組織に触れたような畏(おそ)れを受けたことを、特に印象的に憶えている。
 虞
(おそ)れと言うか、戦慄(せんりつ)するような畏敬への虞れであった。畏れるものの存在である。そういう存在感のある人は、役職も肩書きも一切省き、人物本位で勝負する。会社と言う組織体のネームバリューなど無用だった。人間の持つ価値観は知名度無用である。大物は名前を売り、役職も肩書きも売らない。

 これまでに肩書きのない名刺とか、住所が示されてない名刺は、ただの一度も見たことがなかった。
 だが、この人は高位であるにもかかわらず、所属名や組織名も記載されていなかった。これ自体が虞れのような怕
(こわ)さを持っていた。
 高が名刺と言うが、一枚の名刺からこのような恐怖を感じたことは、これまで一度もなかった。
 「用人」と名乗った人は、存在感が滲
(にじ)み出ている人であり、齢(よわい)は八十前後と思われた。そして鷹司家の歴史と血筋について、次のように語ってくれた。

 鷹司家は幕末の文人・渡辺崋山
(わたなべ‐かざん)の遠縁に当たる旧家で、また崋山の主家筋に当たる三宅家とも血筋だと言うことであった。
 渡辺家は三河田原藩の家老で、崋山は江戸後期の儒学者であり、陽朱陰王と評された佐藤一斎に学んだ人である。崋山は、また画家であり洋学者であった。画は谷文晁
(たに‐ぶんちょう)の門に学び、西洋画法を取り入れて独自の様式を完成した人で、その絵のタッチは鋭い筆致で写実的な肖像画を描いたことで知られる。崋山の弟子の作で、有名な肖像画として知られる『佐藤一斎像』は椿椿山(つば‐ききざん)が描いたものである。椿山は渡辺崋山に学んだ。
 崋山は幕府の攘夷策を責めた『慎機論』を著したが、「蛮社の獄」
【註】天保十年(1839)江戸幕府が渡辺崋山・高野長英・小関三英らの蘭学者に加えた言論弾圧事件)に連座し、郷国に蟄居中に自刃した。三河田原藩は愛知県南部渥美半島を領有した一万二千五石の小藩で、三河田原藩の中屋敷は両国辺りにあったという。
 鷹堂家は渡辺崋山とも繋がり、また三河国田原藩の第十一代藩主・三宅康直
(みやけ‐やすなお)とも繋がっていると言う。
 私が渡辺崋山で印象的なのは、個人的なことだが、愛知県渥美郡のわが流の門人M君が、婚礼の際、渡辺崋山神社で挙式を上げたとき、神社の展示物などで、崋山の人となりを知った。M君の父君から崋山の人となりを聴かされ、この当時のことをよく覚えている。平成7年頃ではなかったかと思う。

 さて、鷹司家に戻ろう。
 用人の兵頭仁介氏によれば、鷹司家の当主は旧宮家の一つである明治祖初期の伏見宮邦家親王の第四王子朝彦親王が創始した久邇宮
(くにのみや)家とも繋がり、また鷹司家の用人の話では、その血筋でもあると言う。宮家に通じる公家だと言う。
 当時、私はそれを判定する能力はなく、血脈はよく分からないが、そういう血筋であるらしい。こうした話しを繋ぎ合わせて行くと、真弓と言う女性は、その血を引く末裔
(まつえい)と言うことになる。

 鷹司真弓
(仮名)……。
 しかし、この女性がよく分らない。
 奇
(く)しく縁(えにし)での巡り遇いで、邂逅(かいこう)した女性である。だが、この邂逅を奇というには余りにも因縁じみていた。連綿とした伝統を持ちながら、一方で「血の勝負師」の賭(か)けのようなものが漂っていたからだ。そして現時点では、まだ血のことがよく分らない。
 それにも関わらず私の血腥
(ち‐なまぐ)い、わが先祖の「何か」と反応しているのだろうか。
 京都の公家の血には、血統と霊統と、応仁の乱以降の伝統というものが複雑に入り交じり、歴史を感じさせるだけでなく、家柄に現代の妖怪化が起こっているのではないかと思うのである。旧家自体に、血腥さい何かがあるように思えてならないからだ。
 ことのき、何が何だかさっぱり分からない、水面下の渦
(うず)の中に引き込まれて行くような懸念を感じ始めていた。それが側面に、血の翳(かげ)りとして漂っているように思えた。拡散する血でなく、濃度を増す血である。血を薄めるのではなく、濃いくしている血である。近親結婚を思わせるそういう血である。

 一笑に付されるのを怖れずに言えば、互いの腹霊
(はらだま)に棲む霊的な狐が血に関わっているのではないかと思えるところがある。その血には、霊的なものも濃厚である。その種のものが、何か、霊的に反応しているように思える。それをひしひしと直感するのである。
 現実には存在する筈がないと一蹴される狐である。それが腹霊
(はらだま)に納まって、何らかの影響を与えている。そう感じる。狐の霊と言えば、「金毛九尾」が有名である。九尾の妖狐は、悪しき霊的存在だった。
 平安時代末期に鳥羽上皇に仕えた二尾、あるいは九尾の狐が化けたという伝説上の絶世の美女を「玉藻御前
(たまもごぜん)」といった。勿論、伝説上の事である。
 しかし……と言いたくなる。
 世にも稀
(まれ)な絶世の美女なのである。
 私の知る限りに知識で論ずれば、最初、玉藻御前は藻女
(みずくめ)と呼ばれ、子に恵まれない夫婦の手で大切に育てられ、美しく成長した。美女の誉(ほま)れが高かった。
 十八歳で宮中で仕え、のちに鳥羽上皇に仕える女官となって玉藻前
(たまものまえ)と名乗った。また、その美貌と博識から、次第に鳥羽上皇に寵愛(ちょうあい)され、契りを結ぶこととなる。よく知られる「金毛九尾伝説」である。
 私は、ふと真弓の美貌とその白蝋のような肌に重ねた。

 思えば、金毛九尾伝説のようなことは、現代にも似たような現象は起こっていないのか。
 また、そこには肉の眼では確認出来ない直霊的な「影」の部分も渦巻いているように思える。不穏なものが蠢
(うごめ)いている。闇の存在である。
 表の現象界の「裏」である。影の暗躍である。闇に蠢く「何か」である。闇に溶けて、貌を窺い知ることができないものである。
 この「何か」に、これまでにない怕さを感じ、戦慄を抱くのである。
 その戦慄の一つに、真弓の話術がある。その話術はまた媚術であり、これは蠱惑する妖艶さが漂っていた。
 その妖艶さが何の不思議もないように影響力を行使しているのである。呪術者のそれと酷似している。

 普通、大抵の男は妖艶ある女性から蠱惑されれば骨抜きになり、その場で直ちに優柔になり、反撥心や敵愾心
(てきがいしん)は一挙に和らいでしまう。剛の者を自称するする輩に多い。
 だが、私は子供の頃からの環境上、美女に誘惑されない体質を持っていた。赤面することがない。そういう中で育ったからである。知らぬままに免疫を付けていたのかも知れない。この赤面しない図々しさを、真弓は「恥ずかしいという感覚が毀
(こわ)れている」と抜かしおった。
 毀れていても結構だ。降
(くだ)るより増しである。
 したがって、真弓には安易には降らない。降れば、総てが崩壊する。
 私自身の立命が崩壊する。毅然
(きぜん)が崩れる。
 だが、世に自分の誇りの拠
(よ)り所である立命を、早々と蠱惑され崩壊させている人間は多い。

 兵頭仁介氏は、このような話をはじめた。
 「実は自分は、先の大戦末期、華北石家荘におりました」
 「すると、もしや?……」
 「そうです、あの瓢箪部隊に居たのです……」
 「では『夢』の旗印の?……」
 「旗印のことまで、よくご存知ですねェ。では津村小隊長殿をご存知なのですか」
 「知っているというほどではありまいりませんが、何度かお合いして……」
 「さようでしたか」
 「あなたが、あの部隊に居たということは?……」
 「自分は召集前は京都で、ある中学校
(旧制中学)の教師をしておりました。四十歳のときの召集です。自分は教師を遣る前は、長く軍隊で飯を喰っていました。予備役組です。ところが、まさかこの歳で?……と思っても見ませんでした」
 「あのご老人は津村さんと言うのですか」
 「津村陽平
(仮名)さまです」
 しかし、どうも話に辻褄
(つじつま)が合わない箇所が出て来る。この人は「長く軍隊で飯を喰って来た」と言った。
 しかし、ではこの人の軍隊時代の階級は何なのか。津村と名乗る老人は、当時、幹部候補生出身で見習い少尉と言った。では、この御仁は、当時どういう地位・身分の人だったのだろうか。
 「あなたは、いま予備役と申されましたねェ。当時の模様を津村さんからお窺いした時は、部下は津村さんを除けば、次席は上等兵と言うことだと聴きまましたが……」
 「三人のうち、その一人が私です」
 「しかし上等兵のままで、長い間、飯を喰ったと言う話は、一度も聴いたことがありませんが、一体何年居たのでしょうか」
 「21歳からですので、かれこれ二十年ほど居たでしょうか」
 「二十年も居て上等兵ですか」
 「予備役に入った当時は特務曹長でした」
 この言葉が奇妙に響いたのである。曹長が何故上等兵に降格されたのか、何か事情がありそうだった。
 「実は自分は小隊長殿が幹候時代、予備士官学校で射撃の教官をしておりました。教官時代の教え子です」
 何とも奇妙なことを言う。
 「では、津村老人が言われた38式歩兵銃を荷なう三人の上等兵のうちの、お一方だったのですか」
 「そうです。当時や予備役にあって、その後、中学の教師をしておりました。ところが、老兵の私にも赤紙が来ました。配属先は予備士官学校でした」
 「日本が負け戦を遣っている時期とは言え、私には分らないことが多過ぎます」
 思うままの疑問をぶつけみた。私は戦後生まれの“戦争を知らない子供達”の団塊の世代だった。
 それに、もっと分らないのは、特務曹長だった人が、何ゆえ上等兵に降格されたのだろうか。何か事情がありそうである。

 「あの時代の混乱期、非常に難しい時期で、随分おかしなことが起こっていましたよ。誰もが混乱しておりましたからね。その時期にあって、津村小隊長殿は一風変わった人でした。状況判断が的確であり、夢を信じる人でした。自分らに新たな希望を与えたのです。とにかく見識だけでなく、胆識がありましたなァ。また天命を信頼する人でした。それは孔子の学で言う天命でなく、どこか老荘的でした。天命を心から信頼し切っていました。信用ではありませんぞ、信頼ですぞ」
 これは天に下駄を預けた《他力一乗》ともとれる。下駄を預ける以上、他力一乗を信じなければどうにもならない。
 「私には、信用と信頼は同じように聴こえますが……」
 「違います、それは違いますぞ。信用は、例えば理論上の仮説を信じるなどの場合に遣われますが、信頼は心から信じて下駄を預けることです」
 「下駄を預けるですか……、その違い、分るような気がします」
 「自分達が下駄を預けたからこそ、それに答え、天命を信頼して隊員全員を一兵も失うこともなく日本の連れ戻してくれました」
 「しかし、一人残されたと聴きますが……」
 「それは違います。確かに一名、負傷して捕虜にはなりましたが、これには事情があります。そのことをお聞きになりませんでしたか?」
 「その辺は何も……。ただ、その人の希望で置いて行っただけだと……」
 「負傷兵の一名は、全部隊の殿
(しんがり)と勤めたのです。それには、避けられない必然的な緊急事態が発生したからです。単に骨折が、その場に居残った理由ではありません」
 「?…………」聴いていて、唖然となり始めていた。
 益々、話が込み入って行くようだった。
 聴いている私も、当時混乱期にあって、ある種のどさくさが起こっているとは感じていたが、それでもまだ秩序はあった筈だ。その秩序が壊されていたようにも聴こえる。
 だが、何か釈然としないところがある。事情を訊くしかない。

 「わが部隊の直ぐ後ろには、後続部隊が居たのです」
 「後続部隊?……」
 「女子学徒の挺身隊です」
 聴いて、何と?……と思った。
 「女子学徒の挺身隊というと?……。例えば沖縄戦での『ひめゆり部隊』のような救護班ですか」
 「違います。愛国婦人会と日本女子大生の混成の戦闘部隊です。この挺身隊は小銃のみならず、92式重機関銃一梃で武装した自分ら以上に重武装をした女子学徒の戦闘隊です。いわば本隊の殿
です」
 「女子挺身隊が殿を勤めていたのですか?……、女性が殿ですか!」私は驚きの余りに二度も訊き返した。
 こんな話は一度も聞いたことがなかったからである。私は団塊の世代であり、18歳の時に道場を開いた。この道場には軍隊経験を持つ年配者も多く通っていた。しかしこの人達から、女子挺身隊の話は聴いたことがあるが、学徒出身の戦闘部隊という話は聞いたことがなかった。それだけに驚いたのである。あれから20年以上が過ぎていたからである。
 「そうです」兵頭氏は毅然と言い放った。
 これまでの私の戦争観は、男が第一線の激戦地に居て、女は銃後を荷なうとばかり思っていた。女性の戦闘部隊が先の大戦に存在したと言う話は聞いたことがなかった。ところが近年の調査によると当時、女子の狙撃兵がいたり、陣地を死守するために重機関銃で武装し、男以上に勇戦したという話を、何人かの人から聞いたことがある。
 もしかすると彼女らは、戦史の影に隠れているが、戦場では男以上に勇猛に戦ったのかも知れない。
 かのアマゾネスのように……。
 アマゾネスとかアマゾンといえば、その意味はギリシャ語から来ていて、戦闘と狩りを好み、弓をひくのに邪魔な右の乳房を切除する慣わしだったと聞く。またギリシャ神話によれば、女戦士から成る部族で、小アジア北東部に住み、ペンテシレイアなどの女王に率いられて戦ったとある。
 女性が先の大戦末期、勇戦したと言う話は多々あるようだ。
 『黄土の道』
(秀栄書房/1999年発行)という書を著した今井欣之助氏の本【註】サブタイトルは「中華人民共和国獄中二十六年」)には、愛国婦人会の女性戦士が八路軍相手に機関銃を撃って死守する話が出て来る。これもおそらく殿(しんがり)であろう。
 この隙に高級将校らが戦わずして敗走したとなると、まさに軍規に照らし合わせれば敵前逃亡である。
 しかし、将官や佐官の高級将校らが敵前逃亡を図って、何ら恥じることもなかったと言う。また、そう言う軍紀違反を処罰する軍法会議は一度も開廷されなかったと言う。先任の悪癖が一部の部署に蔓延
(はびこ)っていたことを窺わせる。
 満洲にソ連が「日ソ中立条約」の不延長を通告して、対日戦に参戦し国境を破って進攻したとき、関東軍の高級将校の一部は満洲飛行場に殺到し、日本行きの飛行機を火急に手配させ、臨時便を強要したと言う。
 何処かこの辺にも、軍隊官僚の理不尽を感じるのである。

 人間現象界のこの世界を地上に、「はじめ」を作ったのは女性である。
 老子が言うように、世界の始まりは女性の女根から始まった。蓮華の池に棲む龍が剣の男根に巻き付き、男根は嬉しくなって、喜びの雨に一雫
(ひとしずく)を垂らしたと言う。
 総ては女性の池から始まった。時として、この龍は絡み付く剣を需
(もと)めて空中を飛行する。

 「その中に当時日本女子大生の鷹司良子
(ながこ)さまがおりました。わが鷹司家の大奥様です」
 「あの大女将は鷹司良子という方なのですか……」
 どこかで聴いたことのある名前だぞ……。
 もしかすると皇太后所縁
(ゆかり)の御仁では?……と思うのであった。
 すると、あの大女将は京都出身か……。今まで掴めなかった「雲の上」の雲を掴み、何か漠然とした輪郭が分りかけて来た。大女将には、何となく言葉の端々に京都訛が感じられて来たからである。
 では、鷹司家の当主は誰なのか?……。一瞬、私の脳裡に「影の易断政府」の総帥を髣髴とさせた。
 現在の私の底辺レベルでは、理解し難い人達に接しているようだった。そして、この連中はいったい何者かのかと思うのであった。

 私は最初、あの数寄屋造りの『ひさご花』を訪れ、私を「書生さん」と呼んだ老婦人に「お名前は?」と問われて、私は「通り雨で、雨宿りをした行き摺りです。行き摺りに名前など要りますか」と言って、名乗ることはしなかった。最初のイメージー通り「書生」で押し通した。また老女将も、自分の名すら告げることはなかった。双方が行き摺りであった。通り雨で雨宿りをした行き摺りであった。
 また飲み屋通いでは、よくある矢鱈
(やたら)名刺を出して威張りたがるその種の人間ではなかった。
 敗軍の将に、どうして兵を語る資格があろう。“負け組”の自分を売り込むことが厭になっていた。名前など無用の男だった。
 会社を潰し、世間にも顔向け出来ず、金融庁の官報に載って、悪名は全国を回遊しているのである。悪評名高い。何ゆえ悪党が名を乗る必要があろう。全国指名手配は名前を名乗る資格すらないのである。私には後ろ盾になるネームバリューも、肩書きすらもなかった。そういうものは必要でなかった。天下の素浪人には名乗る名前すらないのである。
 それがどうして、底辺に白羽の矢が立ったのか。金融庁の官報に悪名が掲げられ、日本全国津々浦々まで回遊させている「信用ゼロ」の私に、訳の分からない事を依頼したのか?……。何とも解せないことであった。

 「あなたのことは総て調査済みです、曽川先生……」
 この御仁は完全に私の身元調査をして、私の素性など、とことん調べ尽くしているようだった。
 「私は、先生と名乗れるほど偉くもないし、また人から先生と呼ばれて喜ぶほどバカでもない……」
 「これはまた、面白いことを言われなさる……、噂通りのお方……」
 噂通りとは、また妙なことを言う。そう言う噂が流れているのか、あるいは悪名が知れ渡った天下の大悪党とでも言いたいのだろうか。
 「後続部隊のことを、詳しく聴かせて頂けませんか」
 「貧弱な武装のわが隊は帰国後、敵前逃亡を疑われました」
 この言葉を聴いて、驚いたと言うより唖然とした。
 「敵前逃亡?……、一体どういうことです?」
 「全員に無傷で帰国したからです、無事に祖国の土を踏んだからです」
 「無事に無傷で、帰国してはいけないのですか」
 どうしてだろう?……と思う。底辺の末端は、無事で無傷だといけないのか。
 草莽
(そうもう)の臣は、大の虫のために犠牲にならねばならぬのか。訝(おか)しい。納得いかない。それは何処か訝(おか)しい……。どうして無事に祖国の土を踏んではいけないのか。
 これでは底辺の微生物は、同じ命でありながら、大の虫の生贄なのか。同じ生命で、どう違うと言うのだ。
 人間の命は地球よりも重いと云ったあれは嘘か!……。単に煽動者のキャッチコピーか!……。

 「後続部隊に多数の死傷者が出たからです。女子挺身隊の殿
(しんがり)は、わが部隊のためでなく、本隊の殿を下令され、そこで死守を厳命されていたのかも知れません。その懸念がある。そもそもこの撤収作戦は、まず自分らの老兵隊が捨て石となり、本隊高級将校連の先鋒として人身御供になる。そして本隊は将兵に護衛された将校連を通過させる。最後は殿が勇戦して、敵の追跡を阻止する。本隊は頭脳だから、損することなく無事撤退するという作戦だったかも知れません。おそらく、そうだったでしょう」
 「酷い話ですね」
 「明治以来、この国では列強に感化され、富国強兵政策の中に、底辺の草を消費する国家運営の思想が生まれましたからねェ」
 「なぜ草莽の民を粗末にするのです?」
 「草は消耗品です。草の本分を弁
(わきま)えよということでしょうか。そのうえ津村隊は『夢』の一文字を掲げた。だが草を嗤(わら)った。相手にしなかった。ここまでは可(よ)しとしましょう。ところが、問題はこれから先です」
 「何が問題だったのです?」
 「本隊に半数以上の死傷者が出ましたからねェ、それに将校連にも。当然敵中突破、夜襲決行を下令された部隊は本来ならば、捨て石としてその地で死守し、玉砕しておかねばならなかったからです。それを全員無事に……などということは絶対に赦されません。死ぬべき者は、死ななければならならいのです。生き残っては駄目なのです。だから死ぬべき者が『夢』を掲げたことを嗤ったのでしょう。夢は、希望を髣髴とさせますからねェ……」
 その嗤いは、底辺の微生物然が掲げた「夢」だったから起こったのか!……。何と不条理だろうか。
 この不条理、断じて赦せん!……。そう思うのである。軍隊官僚の理不尽ではないか。国家が一握りの官僚によって牛耳られているのは今も昔も変わりない。
 「何と理不尽な……」
 「この世とは、もともと理不尽な世界です。ろくでもないところです。そこで生を享けた人間は理不尽の中で生きる以外、方法はないのです。あるとすれば変える以外ありません」
 「しかしキスカ島では、日本の守備隊
(海軍陸戦隊)は第五艦隊によって全員撤退したではありませんか!」詰め寄るように訊いた。
 「あれは海軍だから赦されたのです。キスカは、そりゃァ美談にもなりますよ。日本人は日露戦争時の日本海海戦でも、また真珠湾でも、敵の不意を突き、義経の鵯越えも演じ、正成の千早城も演じ、信長の桶狭間も総て海軍が演じましたからね。国民は最初から海軍に好意的な考えをもっていました。海軍判官贔屓です。
 ところが、陸軍は随分怨まれましたからね。戦前・戦中・戦後も、一貫して
海軍の善玉説、陸軍の悪玉説は有名ですよ。そういう構図が日米開戦前に作られて、裏では米国側と暗黙の取り決めがありました。結局、陸軍は海軍の水交社などの欧米礼賛組に、まんまと為(し)て遣られ、事実無根の天下の大悪党に仕立て上げられていました。この中を巧く泳ぎ渡った者は、陸軍では偕行社の一握りの高級軍人のエリートだけですよ。
 既にこの頃になると、高級将校らの中には、明治以来の日本の国家形体の中に官僚主義があって、その官僚どもが国家を横領したという側面を見抜き、次に、それを軍隊エリトーらが横領して、現役と新旧交替を図ったのです。言わば、一部のエリートのための利権です。
 開戦前にも、その最中にも、インスパイアされ欧米に靡
(なび)く勢力です」
 「インスパイアというと啓発とか啓蒙されて魂を売ったと言うことですか」私は即座に海軍の水交社と陸軍の偕行社を思い浮かべた。
 「思想工作されたんです、敵の走狗になって……。欧米の代理人です」
 「それも巧妙に暗示をかけられたため、半永久的に意のままに操られる。そして、その自覚症状を感じないというやつですか……」
 「だから売国奴は質
(たち)が悪いのです。自分の行為を正義と信じ切っている。絶対だと言う使命感を持っている。魂を売ったことに気付かないのです」
 「それは日本の機密情報の海軍の漏洩組ですか?……、例えば海軍の『乙作戦計画書』などの?……」

 パラオにあった海軍の連合艦隊司令部首脳は米機動部隊の襲撃を恐れ、大型飛行艇2機に分乗してフィリピンのダバオ基地に移動することになった。そのとき悪天候で古賀長官機が遭難し、福留参謀長機はミンダナオ島近くの海に不時着した。不時着組は米将校が指揮するフィリピンゲリラに捕まって捕虜になった。そして重要な機密情報の『乙作戦計画書』が盗まれる大事件が起こった。だが海軍首脳は、福留参謀長を無罪放免にして、更には終戦時には、福留繁を第十九方面艦隊司令長官として栄達させて、シンガポールで無事終戦を迎えた。無傷で日本に復員している。戦後は日本政府から高額な軍人恩給を給付されている。
 また、これと似たことは陸軍にもあった。フィリピン第四航空軍の軍司令官だった冨永恭次は、米軍上陸を恐れて台湾に敵前逃亡し、台北温泉でのんびりと温泉の湯に浸っていた。そしてこの敵前逃亡は無罪放免。
 また当時、無事に部隊員を日本に連れ復
(かえ)り、旗印の『夢』を実現した津村陽平元見習い少尉は、敵前逃亡の廉(かど)で恩給即座に停止、そのうえ戦犯容疑の濡れ衣で死刑。
 この構図には、いったい何が働いていたのだろうか。

 「さよう。そこで、宣伝のために画策する……」
 「何を画策するのです?」
 「戦争そのものを画策するのです。戦争するにはタダでは出来ませんからねェ。多くの軍資金を必要とします。その画策に二元論を仕立てるのです」
 「善悪二元論ですか」
 「善悪二元論は西洋文明の伝統ですからねェ。自分らの底辺まで悪玉説の槍玉に挙げられ、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い構図を作り、その対象にされました。そういう訳で、わが部隊は敵前逃亡の事実無根をの見せしめにされたのです」
 日本は明治維新以来西洋が雪崩込んで来て、この思想に汚染された。この呪縛から、現代も抜け出せずにいる。
 「随分酷い話ですねェ」
 「全員無事になどと、陸軍にあっては、そういう奇蹟を人々は信じません。この考え方は戦前からありました。自分たちは末端の兵隊でありましたから、詮議の憂き目には遭
(あ)いませんでしたが、小隊長殿は敵前逃亡罪で収監されたのです」
 「どこにです?」
 「最初、敵前逃亡容疑で東京憲兵隊から陸軍刑務所に投獄され、昭和20年10月17日まで皇道大本
(大本弾圧)と同じように大審院での東京拘置所で……。このとき大赦令によって無罪となりましたが、それは日本政府の下した判断であり、釈放も束の間、次の詮議はGHQの民政局から戦争犯罪の容疑として獄房へと移ります……」
 あたかも津村老人の波瀾万丈の人生を思わせた。その人生の数奇な運命を不憫に思った。気の毒に思った。
 「日本だけでなく、アメリカにも収監されたのですか」
 これれまで、こんな話は一度も聞いたことがなかった。
 「戦犯の人身御供です、手土産代わりの……。売られたのです」
 つまり戦犯容疑者に仕立て上げられたと言うことである。
 「戦犯と言っても何の容疑です?」
 「そんなものありませんよ、後から作ればいい。罪があったかなかっかたでない、容疑者は最初から犯罪者なのです。だから後から罪は幾らでも作れる」
 「幾らでも作れるといっても?……」
 「華北石家荘方面の駐屯軍は、日中戦争が始まった頃から駐屯してましてね、これ、どういうことか分りますか?……」
 「つまり、軍部による中国人の反日猟りですか」
 「さよう。片っ端から連行して来て、即銃殺です」
 「何故です?」
 「反日戦線を戦う更衣隊
こういたい/民間人に化けて反日ゲリラを企てる)容疑です。片っ端から連行しては、男女構わず処刑していましたよ」
 「それは戦争犯罪ではないですか、国際法では禁止されています」
 「そう、禁止されている。しかし勲章を貰うことばかり考えていた旅団長以下、高級将校らは、この愚行を重ねていました」
 「後から容疑を作るという意味、お分かりですか」
 「戦犯容疑を後から作るのですか?……。日本のような法治国家が犯罪の如何に関わらず、後から捏造するのですか!」私は呆れて頓狂な声を上げた。
 「如何なる犯罪も、あるいは冤罪も含めて、100%捏造されてないと言えますか。言えますまい。戦争反罪なら、なおのこと。罪状は後から作れば宜しい……」
 「その容疑者に、幹候上がりの津村さんが人身御供にされたのですか?……。第一、あの人は大戦末期の召集兵ではありませんか。その前は日本に居て、画家をしていたと聴きます」
 「作れば、そういうことは幾らでも捏造出来ます。そもそも敗戦国日本を処罰する極東国際軍事裁判自体が捏造ではありませんか」
 「東京裁判と言うやつですか?……」
 「しかし小隊長殿は不死身でした」
 「それで、判決は何だったのですか?」
 「死刑です、上告なしの」
 「死刑?……。それで結審したと言うことですか」
 国際連合軍の巨大な権力に津村老人は粛清されつつあった。今も継続されていることを知った。この巨大な欧米組織の傲岸
(ごうがん)な手段を憎んだ。人間の殺傷与奪の権を握り、その酷薄な権利によって底辺の微生物の命を弄(もてあそ)ぶ。これには沈黙する訳にはいくまい。赦す訳にはいくまい。
 「だが小隊長殿は、そういう言い掛かりに屈する人ではありませんよ。何しろ神出鬼没の術を心得ておりましたからなァ。収監された監獄から、易々と逃げ果
(お)せたのです」
 私は《何と?……、監獄を脱走したままと言うのか……》と思った。
 この老人が容易に姿を顕さない理由が、これで釈然として来た。それを鷹司家では庇護しているのかも知れない。しかし、その庇護すら津村老人は辞退して、自由に生きている。何と痛快なことか。
 自分の身を自分で決着付ける、まさに自前主義だった。

 「いま神出鬼没の術と言われましたが、では、その術を何処で会得されたのです?」
 「よくは存じませんが、おそらく東京憲兵隊での収監時の陸軍刑務所では?……といわれています。
 何者かに嵌められ、戦犯容疑として売られたのでしょう。それはある筋からの情報ですから、はっきりとは分りませんし、小隊長殿も語ろうとはしません。このことについては沈黙したままです」
 「沈黙は誰かを庇
(かば)ってのことでしょうか」
 「わかりません。収監時に誰かと接触したとは小耳に挟んでおりますが、それ以上のことは一切不明です」
 やはり、あの老人は、何かの術を会得しているという確信が生まれた。それに、誰かを庇っているとしたらどうなるか。それは敵の目を惹き付け、庇った者の正体を隠しているという事だろうか。
 「しかし、敵前逃亡とは妙な話ですねェ……」
 「厳しかったのは、陸軍刑務所より、戦後の米軍の戦争犯罪容疑者の独房だったと聴いております。激しい拷問があったとも言います、執拗なまでに。今もその追求や穿鑿
(せんさく)があり、日本の権力筋も、また米国諜報機関の追跡が執拗に繰り返されていると聴きます。米軍の軍事法廷では死刑は恩赦もなく、時効もないのです。未だに日本は戦争を終結させおりません。敗戦国日本の負け戦はまだ継続中です」
 それで姿を隠したのか。なるほど……と思う。
 「えッ!この戦後にですか?……。しかし終戦から、もう46年も経っていますよ」
 マスコミなどでは、当時は「もやは戦後ではない」と豪語された時代である。この豪語が、実は巧妙な煽動工作だったのか。
 この頃、「欧米のエージェント」
【註】日本国内のにいる日本国籍を持つ三国人。かつては芸能界やスポーツ界に多く居た。現在はそれに併せて政財界人や報道陣、科学者や専門家にも多く散在)という言葉が盛んに遣われていた。

 「それは戦後生まれの現代日本人の感覚からでしょう。当時参戦した自分達には、まだ戦後は訪れていません。権力側の追求は続いています。その影を未だに引き摺っているのです」
 「どういうことでしょう?」
 「小隊長殿は重大問題として、影の事実を知っているからです」
 「影の事実とは?……」
 「先生も此処までおいでた方だ。もう隠し立ては致しますまい……」
 「重大問題というのは?……」
 「素性です」
 「素性と言うと?」
 「血です」
 「血とは血縁とか血脈と言うことですか」
 「そうです。自分達は影の宮家なのです、鷹司家はそういう何代も続いた家です。米国の影がちらつく、影の易断政府と対峙する一族です。先祖代々、国民の利益のために働く使命を追わされています。普段は闇に潜む草です、草莽
(そうもう)の臣です。
 しかし事あれば、浮上して勇戦します。この臣が裏の闇を担当します、一方、表は文人が担当し、双方は表裏になっています双方の鬩
(せめ)ぎ合いと言えばご理解出来ますでしょうか」
 では、津村老人が知る重大問題とは血に纏
(まつわ)る秘密なのだろうか。鷹司家は血に重大な問題を抱えた一族なのか。想像は次々に連鎖する。

 これは私が、かつて鹿児島の旧家の“伊集院家”で訊いた神秘科学と神秘主義の表裏を指すのだろうか。
 つまり東洋と西洋の対峙を指すのだろうか。その背景や水面下で飽くなき暗躍と鎬
(しのぎ)を削るような暗闘が起こってるということだろうか。それに血が絡む……、そういうことだろうか。
 あるいは、私の勝手な想像から起こった陰謀説的な妄想なのだろうか。何とも釈然としない。
 しかし日本は大東亜戦争敗北とともに隷属国家の道を選択した。
 日本占領連合国軍最高司令官として、厚木基地に降り立ったダグラス・マッカーサーはフリーメーソン最高位階の33階級であったことは有名である。
 彼が日本上陸とともに、かつての東京にあった元海軍水交社の建物を使用してフリーメーソン東京支部を立ち上げた。マッカーサーの目的は日本の国体を徹底的に破壊し尽くすことであった。日本精神と伝統的な民族性を破壊し、日本人の霊的神性を曇らせ眠らせることであった。フリーメーソン隷属国家としての日本を作るのが目的だった。そのためにフリーメーソン結社員の幣原喜重郎を首相に据え、内閣を組閣させた。その間、日本国憲法の草案に取り掛からせて、教育基本法の制定や天皇の人間宣言などの行事を一巡させ、日本の旧体制を根本から破壊し、フリーメーソンの理想とする新体制を作り上げた。
 しかし、これに抗
(あらが)う勢力が居るらしい。

 人間現象界には、この世界が当然現象を起こす以上、総ては働きかけを起こす。現象は自然体で、自然の摂理のまま変化を起こすものでない。作用に対して、常に反作用が伴う。
 歴史書などでは、栄枯盛衰は自然体から変化したように記されている。一見すれば、歴史は自然の成り行きと思えてしまう。しかしその見解は短見であろう。
 また近現代史などでも、十八世紀頃から、一つの流脈によって人工的に導かれたとしている。だがそれは何も十八世紀頃に突如、降って湧いたように擡頭
(たいとう)した訳ではあるまい。もっと以前からあった筈だ。
 近代に起こった訳でない。克明になり出しなのがルネサンス以降であろう。十三世紀から十五世紀の中葉に掛けて、一つの流脈により、ある意図を持った隠微な集団が水面下で暗躍していた。
 この時代から、神から人間への転換があった。人文主義はそれを克明に顕してる。
 神中心の中世文化から人間中心の近代文化への転換の端緒をなした時代であった。それを文芸復興あるいは学芸復興という。思想改革の革新運動が始まったときだった。これは革新的な意図をもって、人間が歴史に関与して変形させることが出来る確信したときであった。此処から人間と神の摺れ違いが起こったのである。

 私は「影の宮家」と聴いて、すぐ土御門家を連想した。
 この流れには、村上源氏流と安倍氏流とがある。そして近世神道の一派の土御門泰福が思い当たった。
 土御門神道は土御門泰福が山崎闇斎の教えを受けて、その理論を体系づけ、門人保井算哲
(渋川春海)によって大成した神道である。
 陰陽道と神道とを習合したものであり、安倍神道、または安家
(あんけ)神道、更には天社神道ともいう。単に近世神道というだけでなく、影の宮家に関わっていた集団とも言う。
 そもそも陰陽道は古代中国の陰陽五行説に基づいて、天文・暦数・卜筮
(ぼくぜい)・卜地などを用いる方術であり、大宝令(大宝元年(701)刑部(おさかべ)親王・藤原不比等ら編で、ただちに施行され、天智朝以来の法典編纂事業の大成で、養老律令施行まで、律令国家盛期の基本法典となった)に規定があり、陰陽寮が置かれた。これが次第に俗信化し、宮廷・公家の日常を物忌・方違えなどの禁忌で左右することになる。平安中期以後、賀茂氏や安倍氏の両氏が分掌したことで知られる。
 「では津村老人は、重大問題に関わる重要人物と言うことですか?」
 「収監時、伝承されたからです」
 「収監時、伝承された?……」
 何を伝えられたと言うのだろうか。

 私はこれを聞いて、直ぐに観相家・水野南北
みずの‐なんぼく/江戸時代中期の観相学の大家。「節食開運説」を提唱したことで知られる。1760〜1834)ことを思い出した。伝承に特異なものがあったからである。
 南北は、大阪の「阿波座
(あわざ)」の芝居小屋の座付作者、小埜文章(おの‐の‐ぶんしょう)の子として生まれた。だが幼くして両親を亡くし、親に縁が薄い人であった。後に、知り合いの錠前師の鍛冶屋に引き取られ、鍵屋熊太(がきや‐くまた)の異名をとった。錠前に詳しかったと言う。
 熊太の少年時代は非常に素行が悪く、盗人を働いて、入牢を度々経験している。この素行の悪さは、二十歳代まで続き、出獄後、ある町易者
(見相易者または占卜者)から「剣難の相で、あと一年の命」と易断(指摘)され、これに深く悩んでしまう。結局、悩み抜いた末、禅寺を訪ね、そこの住職から「一年間、麦と大豆だけの食事にせよ」と助言を受け、それを固く守り実行すると、見る見る間に「剣難(けんなん)の相」が消え失せたという。この時点で「神懸かった」のかも知れない。異能者としての能力を発揮したと言う。
 以降、南北はこれを機に人間が変わったようになり、諸国行脚
(しょこく‐あんぎゃ)の修行の旅に出た。日本の至る所を遍歴した。多くの著名人を訪ね歩いた。そ研究書は『南北相学』として今日に残されている。
 南北の残した研究と、その教えは目を見張るものがあり、弟子の吐菩加美
(とぼかみ)神道の井上正鐡や、高嶋易断開祖の高嶋嘉右衛門(たかしま‐かえもん)にも継承され、修養団(神道系)の蓮沼門三(はすぬま‐もんぞう)や、生長の家初代総裁の谷口雅春(たにぐち‐まさはる)らに大きな影響を与えた。
 特に修養団の財界人への影響は今でも大きい。著名か財界人は何らかの形で関係を持っているようだ。修養団は宗教団体でないことから、官憲にも目を付けられることはなかった。
 この影響自体に、何か特異な伝承を感じるからである。伝承者は総て日本では重要人物としての多大な影響力を持っていたからである。
 なぜ、このように影響力が大きかったのだろう。伝承された方が、日本の極秘なる影の部分に接したからであろうか。
 しかし大戦中、影響者の中には不敬罪として収監されたともいう。その獄中で接触した人が居るらしい。

 兵頭仁介氏の話から、私は津村老人の重大問題に関わる重要人物を、ふと連想したのである。
 この老人は隠行の術を遣うらしい。道教の仙術者かも知れない。達人の域に達した人であろう。
 かつて大女将が言った「樽の中」という意味が、段々分かって来たような気がした。老人は既に仙人なのである。何処か人為を超越したところがあった。

 「ところで、先生。自分達の仲間にお入りになりませんか」
 「仲間にですか?……」不審に思った。
 「欧米の影の易断政府に抗
(あらが)ってみませんか?……」
 廻り持った言い方であった。
 「?…………」
 この御仁は私に、あたかも福音伝道の使徒として促しているのだろうか、かのパウロのように……。
 「人生意気に感じるという言葉があるではありませんか」
 この人は熱血漢や情熱家と言うより、今の時代を憂える“滾
(たぎ)る人”のようであった。老齢期のラストスパートに賭けているのかも知れない。その滾りを沸々と感じたのである。
 「はあ……」
 「そう、思いませんか」
 「はあ……」
 「人間は、人の意気に感じて行動する生き物です。金銭や名誉は問題外であるということです。先生も自分らと共に人生を意気に感じてみませんか、自分達と一緒に……」それを望むように促した。滾
(たぎ)った人になれと言うのだろうか。
 「はあ……」私の相槌
(あいづち)が、自然と怪しくなった。
 「またですぞ。中国の名言には古くから『士は己
(おのれ)を知る者の為(ため)に死す』と、言うのがあるではありませんか、己を知る者のために。どうでし、そう思いませんか!」更に迫った。そして一段と声が大きくなった。
 「はあ……」覇気のない返事をしていた。取り込まれても困るからである。無力の私には何もすることが出来ないからである。
 この御仁には、何が何でも私を取り込まずにはおかない執念のようなものがあった。この畳み掛けは、何だろう。
 そして極みは「先生は『権門、上
(かみ)に奢(おど)れども……』という一節をご存知でしょうか」と迫るように訊くのである。
 「昭和維新の歌の一節ですか?……。そのあとは確か……、国を憂うる誠なく……でしたよね」
 「では、その先はご存知でしょうか?」
 「さあ……」首を捻った。
 「財閥、富を誇れども、社稷
(しゃしょく)を憂うる誠なく……ですよ」
 「社稷ですか……」
 私は、ふと『淮南子』
(人間訓)の一節の、「社稷の祭が絶えて空しい跡となる、則ち国家が滅びる……」のその危機感とともに、「社稷墟となる」の言葉を思い出していた。
 ところが、相槌を打てば、それを合図に、引き摺り込まれよう。なまじっか鷹の爪は見せるべきでない。隠すが賢明と考えた。
 「先生は昭和48年は、どうでしたか?」
 私に当時を思い起こさせるらしい。そして、精神構造は頽廃した日本人の現状を、どう感じているのか引き出すらしい。話術であろう。

 「あの頃は、オイルショックが起こったときでしょうか。私は当時、刀剣商を遣っておりました。この異変を期に、美術品が急に売れなくなり、私の経営した美術商会は、当時一億円の負債を抱えて倒産しました。あの頃の天のなさる理不尽には随分怨みましたよ、しかし天を怨んでも仕方ないことです。むしろ自分の見通しの甘さを怨むべきでしょうが、若気の至りでした」
 「一方で、この時を『千載一遇のチャンスとか、天、われに味方せり』と憚
(はばか)って、傍若無人に振る舞った輩(やから)が居たのです、ご存知でしたか」
 「いいえ、知りませんでした、愚鈍でしたから。誰が仕掛けたかも及びはつきませんでした」
 私は、当時この変化は自然の摂理に従った自然体で起こったものだと思い込んでいた。背後に仕掛人が居るなどとは夢にも思っていなかった。それだけ甘ちゃんであったのである。私の28歳のときだった。
 「千載一遇のチャンスに付け込んだ輩
が居ました。いたずらに利益追求や過当競争を煽(あお)った煽動者が居ました。経済パニックを仕掛けた者が居ました。欧米の外圧の走狗として……」
 私はこのとき、日本の平成バブルを企てたアメリカのソロモンブラザースの仕掛人を思った。当時の日本人にまんまと一杯喰わせたのである。
 「日本経済は啖
(く)われたのですか、外圧に?……」
 つまり、啖われて魂を金と引き換えに売ったのである。こういう仕掛けは日米合作で、平成バブル以前にもあったようだ。
 「これに抗ったのは少数派でした、良識を持つ……。義憤に燃えたのです」
 「私のような智慧足らずの人間では仕方ありません」
 「そうでしょうか」
 「私は多くは望みません。国民寡民派です」
 「それは小乗的ではありますまいか!」些か指弾するように言った。

 「ただ足るを知るだけです」
 「違う!」兵頭氏は声を荒げた。
 「貧するも羞
(は)ずるに足りず、羞ずべきは是れ貧にして志なきなりです」
 「違う、それは違う!断じて違う!」今にでも飛びかかって喰い付かんばかりだった。
 「私は一介の貧者、何が出来ましょう」
 「今から地上は乱れますぞ、各地で燻
(くすぶ)っている戦争の火種はナショナリズム化して、大きな焔に変貌しますぞ。先生は傍観されますか?」
 下から覗き込むように鋭い視線で訊いた。
 「傍観はしません、日本人ですから」
 「では日本人の意味は、お分りか!……」
 「大和魂」
 「ならば、士は己を知る者の為に死すは、お分かりの筈!」
 「分りません、私には孝を立てずに、死に急ぐ気持ちが分かりません」
 これ以上は問答になる。このままでは激論になる。その愚は避けたい。
 「先生!よく考えてみることですな……、このようなお姿になる前に……」
 この御仁は、まだ箸も付けていない鯛の刺身を指して言うのだった。脅しだろうか。
 私に“社稷の臣”になれと言うのであろうか。「危」である。危峰の頂門の一針になれと言うのか。出来ない相談だった。


 ─────束の間に、こう回想した。
 士は己を知る者の為に死す。本当だろうか……。
 『論語』を研究すれば直ぐ分ることだが、そういう言葉は一行も出ていない。この言葉が出ているのは、司馬遷の『史記』にである。忠孝を重んじる国に、士は己を知る者の為に死すなどということはあり得ない。
 この言葉は、確かに「人生意気に感じさせて止まぬ」という意味だろうが、こういう心情はあまりにも時代的である。特殊なものである。言わば、上が生きて下が死ぬ、あるいは大の虫を生かして、小の虫を殺すに通じないだろうか。小の虫とは底辺に居る微生物である。名も無い庶民である。
 大義名分に偏り過ぎると危ない。殆
(あや)うい。
 偏り過ぎると暗黙の了解とか、不文律が生まれ、それを暗黙で参加させてしまう国家社会主義に繋がって行くからである。その行き着いた先は、どういう理論で武装されてしまうか。その理論武装が恐ろしい。

 つまりこうした社会が出現すると、それは理論的に言えば、国民は従順でなければならず、“お上”には楯を突かず三猿
(見ざる・聞かざる・言わざる)で、総てが封じられてしまうからである。
 例えばである。司法強化で警察力を強めたらどうなるか。全体主義でその方向に傾いたらどうなるか。
 デモクラシーの世の中でも、民主独裁と言うのがある。日本は国会議員の数を減らしつつ、少数の権力階級に民主独裁の権を与えようとしているのではないか。議員を減らすのは、ここに目的があろう。
 なぜ議員数を減らすのか。
 少数エリートの独裁が目的であるからだ。あたかも僅か四百人程度で、日本を好き勝手に思い通りに動かす高級官僚のように……。
 本来、真の民主主義デモクラシーを目指すのなら、国会議員の給料をサラリーマン並みにすれば議員数は減らす必要はないのである。民主主義のルールに随
(したが)い、多種多様的な意見を取り上げ、議論を尽くすべきであろう。それを、意見が分裂して収拾がつかないとするのは、既に国民のための政治でないでない。国民不在のエリート政治である。独裁の匂いが漂う。
 誰もが忘れては行けないことは、軍国主義ですら民主主義の一部であり、その政治システムは選挙で選ばれたからである。
 日本人は、まだ民主独裁の恐ろしさを知らない。
 議員を減らし、一部の連中の目的が利権と一致すれば、恐ろしい事態が起ころう。国民は、国家に国民を殺す権限を委託させることになる。
 これが独裁政治への民主委託である。軍国主義もデモクラシーの一部であるからだ。
 デモクラシーの反対は軍国主義でも社会主義でも共産主義でもない。デモクラシーの反対はシオクラシーである。古代ユダヤのような神主主義である。あるいは賢人による哲人政治である。
 軍国主義もデモクラシーの一部であることを認識しておくべきだ。日本と言うこの国には、明治以来、庶民を聾桟敷にして蔑ろにする構造があるようだ。常にその犠牲になるのが、底辺の私のような微生物だった。
 そして権力筋は、難解な論理で微生物を煙に巻き、話題にすべき論点を直ぐに躱してしまう画策を企てるようである。庶民の気付かない隙間に巧妙な仕掛けが隠されている。民主主義デモクラシーとて、仕掛けとは無縁ではあるまい。

 現に二十世紀初頭の世界大恐慌以降、ドイツでは、民主主義の変形である「民主委託」が起こり、国家社会主義ドイツ労働者党が擡頭
(たいとう)した。ヒトラーを党首としたナチスドイツが誕生した。このナチ党は、公正な選挙により、人民が多数決によって選んだ政党である。公正な選挙に不正はなかった。
 そういう政治基盤が出来上がってしまう。民主独裁……。恐ろしい政治である。国家の意に添わねば粛清される。この恐ろしさを民主主義礼賛者のどれほどの人が知っているであろうか。
 世界中の如何なる民族と雖
(いえど)も、自分を殺す権限を国家に預ける者は居ない。その社会契約から言えば、如何なる犯罪者と雖も、国家が裁判なしに独断で処刑し、人間の命を断つことは赦されないのである。そうなると死刑でも、よく考えれば国家が個人の私怨に介入し、処刑するという制度こそ、国民に対しては反逆ではなかったか。
 更にはこの暴走は、予防医学が今日持て囃
(はや)されているように、「予防」と言う詭弁が用いられて“予防殺人”とか“予防処刑”とかが赦されてしまう。言語道断である。赦すべからず独善である。
 その独善は、死への強制とともに「士は己を知る者の為に死す」の言葉の中に漂っていなかったか。
 それを思料した。

 更にである。
 果たして、中国人の偽わざる心情を分析すれば、伝統的に見て、中国史の中で中国人は安易に人のために自分の命を投げ出しただろうか。喩
(たと)え死守を厳命された命令であっても、自ら進んで命を投げ出しただろうか。仕方なく投げ出す場合は、背水の陣が敷かれた時に限りであり、それ以外は将兵が敗走したでではなか。果たして、士は己を知る者の為に死しただろうか。
 彼らの生命観は、儒教に裏打ちされる通り、己の名を挙げるため、あるいは家名を上げるために奮闘し、ひいては父母・祖父母や更には古い先祖霊に対して事
(つか)えんがための命であり、上位者の命令に服従する命ではなかった筈だ。儒教圏では、わが命はただ「孝」の一字にあるのであって、他人のためにあるのではなかった。「孝」の一字に遣われるためにあった。
 すると故事に、「士は己を知る者の為に死す」は極めて怪しくなって来るのである。

 自分を認めてくれる人間のために命を捨てる……。
 これは侠気であり、中国人正体の特質と思い込むのは間違いである。そういうものは持ち合わせていない。
 儒教にも確かに「身を殺して仁を成す」というのがある。こういう場合、一般中国人には適用されない。今日の時代、そういう甘ちゃんは居ない。それは歴史上の偉人に限りである。
 三国時代の蜀の鬼才・諸葛孔明や、また南宋の武将・岳飛、更には南宋末の忠臣とされた文天祥
(ぶん‐てんしょう)らが任侠忠義の偉人として鑽仰(さんぎょう)されるのは、「孝」が血縁によって肉化しているところでは、到底人間の力をもってしてもそれを貫き、遣り通した人物であるからこそ、士は己を知る者の為に死すのであって、一将軍や、上からの強圧的な命令一過では厳守し、死守する事はあり得ない。
 もう一度繰り返すが、士は己を知る者の為に死すことはない。絶対にあり得ない。もしあるとすれば、それは「壮」でなければならず、心意気ではない。
 血気盛んか興奮状態であるときに限る。忿怒
(ふんぬ)のときだ。怒り心頭に来ているときだ。勇壮が維持出来るときだ。だがその持続時間は短い。時間とともに「怒り」は冷めて行くものである。
 これは「情」から見れば、邪
(よこしま)だろう。むしろ血縁を絶やす不孝であろう。結局は不義を働いた事になる。

 かつて、大戦末期にインパール作戦と言うのがあった。インパールはミャンマーとの国境近くにある都市であり、日本軍が進撃しようとして、思うようにならなかった。負け戦の敗走で終わった作戦である。
 敗走・撤退時、日本軍が去った跡の道は「白骨街道」と言われた。このとき下級将校や下士官・兵は、戦後おめおめと生き残った司令官の牟田口廉也に対し「あんな奴が畳の上で死ぬのは何とも悔しい」と呪ったそうである。
 人望も徳も無い将軍のために、人は安易に命は投げ出したりしないものである。
 もし「壮」においては、非常に特殊な場合に限り、人に感動を与える、ような、そういう真に迫ったものがなければならない。
 したがって、こうした場合の名台詞も、晋の予譲
(よじょう)という刺客の言葉ながら、司馬遷は仕方なく『史記』(刺客伝)に記録せねばならないことになった。子譲が、かつて仕えていた恩人である「智伯の仇を討つとき」にいった言葉は、「士は己を知る者の為に死し、女は己を説ぶ者のために容つくる、今、智伯は我を知る」であった。
 心有る男子ならば、自分の真価を認めてくれるならば、その人のために死んでもいいと思い、また女は自身が傍に居て喜んでくれる男がいればこそ、化粧をするものであって、その真価を認めない者には、喩え死んだとしても、その死は「毛よりも軽し」と言った。
 私は果たしてそうかと言いたい。

 それを司馬遷は註釈付きで補足説明している。
 「入固より一死あり、或いは泰山よりも重く、或いは、鴻毛よりも軽きは、用の趨
(おもむ)く所の異なればなり」と。
 つまり「人間の命は、場合によっては重大な意味があるし、ことのおもむくところによれば、とても、軽いことがある」と述懐しているのである。
 それを「命を惜しまない」と結びつけるのは短見である。人間の本性は人の命より、自分の命である。
 かの、楊子の論にある「古の聖徳高き人が深く思索を廻らしたのは、凡
(おおよそ)そ世界に生より貴いものはない」からも分る。楊子の論は徹底した利己主義が説かれ、楊子自身利己主義者だった。今日で言えば不倫奨励の感応主義者と言うところだろうか。あるいは古代中国の唯物論というべきか。その最たる人物が、楊子こと楊朱(ようしゅ)である。

 更に楊子は「そもそも耳、眼、鼻、口、肌の五官は、自らが生を保つために働いているに過ぎない。耳は好い音楽を欲し、眼は美しい色を欲し、鼻は馨
(芬/かぐわしい香りを欲し、口は美味いもの(滋味/うまあじを欲し、肌はなめらから柔肌を欲する。しかし、どの欲望も過度に満足させると生を損なう。そのことが分れば誰も抑えて耳や眼の感覚も欲しないであろう。
 何故なら、生に利があるから欲するのであって、害あるものなら欲しないだろうし、為
(な)さずにおかないだろう」と言及する。それはつまり、天下国家より自分の生き方や生活の方はもっと大事だと言っている。
 天下国家の在り方に利己主義者が、人生意気に感じるもないし、士は己を知る者の為に死すもない。死なない。上位者のご都合主義の、巧い詭弁と採ってしまう。
 そもそも人はどういう性質を持った生き物であろうか。

 士は己を知る者の為に死す……。確かに言葉は勇ましいが、それを今どき実践出来る人間が居るのか。
 果たして人生意気に感じる熱血主義者は居るのか。命を投げ出す熱血漢がいるのか。わが命とは人に差し出すほど軽いものはあるまい。また、地球よりも重たいものでもあるまい。深く追求してみる必要がある。
 何処か訝
(おか)しいぞ……。楊子も確かに訝しいが、この言葉も詭弁(きべん)に聴こえて訝しいぞ……。
 口や言葉に誤摩化されているのではないか。安易に信じてはなるまい。疑ってみる必要がある。
 呪詛の力は働いていないのか。話術の妙に掛かってはいないのか。眼に見えない力が迫っていないのか。貧乏籤を引かされる仕掛けに嵌まったのではないか。それを探って検
(み)る。
 一体この虞
(おそ)れは何だろう。
 庶民が踏み入ってはならあにところに踏み入ったのか。
 祈り以外の力が加わっていないのか。呪いのような力が……。それを考えてみる。

 未知に挑戦して死ぬ……。
 あるいは未知を知って死ねれば、もう思い残すことはないだろう。だが後悔しないのだろうか。
 そもそも此処に辿り着いた因縁は何か。これは死出の旅の道行きなのか。その懸念もある。
 厄介なことは平和裡には終わらないものである。何らかの生贄
(いけにえ)を要求する。義によって助太刀申す以上、それは覚悟しなければならない。
 作用と反作用の働く現象界である。だが覚悟の上での義に、些かの煩悩が起こるとはどうしたことか。
 それは自分自身で克服して行くしかなかった。出来ない者は脱落して行く。それが一切の自己責任を追う社会生活である。他に責任を転嫁することは出来ない。
 総ての作用は反作用として自分の返って来る。覚えておきたい事柄だ。


<<戻る トップへ戻る 次へ>>


  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法