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続々 壺中天・瓢箪仙人 19

かつて剣豪・宮本武蔵は、「神仏は尊ぶべども恃(たの)まず」といった。これは正しい。
 この心境は神仏を前にして、実に正しい。故に武蔵はこれを生涯貫徹し、わが身を滅ぼすことはなかった。身の程を知り、誤らなかったのである。
 一方、二千五百年前の孔子はどうだったか。
 孔子は最後に、このようなことを言っている。
 「天、予を喪
(ほろ)ぼせり」と。
 これは死を目前にしての嘆きだろう。

 孔子の吐露
(とろ)は、死を目前にして一種の嘆きとなった。もっと長生き出来ると思っていたのであろう。そのうえ、自らの奉じている礼法は天意に通じていると信じていたのであろう。しかし、これまで想起していた実際は違った。
 天は、天命は孔子の確信すらも撥ね付けたのである。人間の勝手な思い込みを撥
(は)ね付けたのである。そして孔子は勝手な思い込みから、それを天が罰したのである。それが、予を喪ぼせりの言葉になった。享年七十三。

 だが人生七十、古来稀
(まれ)なりという時代であったから、73年の生涯は長寿であったと言えよう。また、二千五百年前の聖人であるから、その生涯は長寿で祝福されたであろう。
 しかし、孔子も見逃したことがある。何故なら、人が「生きる」ということは、ただ長寿にこだわることが生きると言うことでなかった筈だ。よく生きたということは、長寿をまっとうしたと言うことでなく、善悪綯い交ぜで、清濁併せ呑んで、その総てに「よく生きた」と言う足跡があれば、まさに生きる意味で、よく生きたと言えるのである。
 長寿にこだわれば、天は何らかの形で代償を求めるようだ。

 かの孔子すら、遂には天から代償を求められて喪んだ。孔子は罰せられたのである。
 何とも天意とは、神意とは凄まじいものである。頼み事をして、現世ご利益を願うと、最後は己の身を以て贖
(あがな)わねばならないのである。あるいは己の身一つ投げ出して足りるのだろうか。天は己の身一つを差し出すことで、それだけで満足するのだろうか。

 人生の折り返し点を超えたら、老子流に飄々と坂道を下って行くことも、またこだわったり、金・物・色に執着する生き方から解放されてもいいのではないか。孔子流の上り坂の人生道は、もう必要あるまい。総てを任せて、淡々とすればいい。
 陰から始まり、陽に至る。絶頂期である。しかし絶頂期は束の間のことで、長く留め置くことは出来ない。やがて去って行く。此処からは陽が陰に戻る時期を顕している。もとの鞘に戻ればいいのである。悩むこともないし、煩
(わずら)うこともない。


●送り狼

 尾(つ)けられている……。津村陽平の勘である。
 勘は時には濃密に働き、時には稀薄
(きはく)になる。稀薄になると尾行されていることすら気付かない。
 だが送り狼の気配を感じる今、津村の勘は濃厚に警戒度最高のシグナルを鳴らしていた。近くに居る。窺っている。それも人の命を奪おうとする獣のような動きをする狼。そして狡猾
(こうかつ)への警戒であった。

 人間は人の命を奪おうとするとき、獣のような猛々しさと、獰猛
(どうもう)さと、残忍さが必要である。
 何しろ、殺そうとするのである。殺人を働こうとするのである。本来殺人は無意識では殺
(や)れないし、突発的に人殺しが出来るわけでない。多くは遺恨から起こる。命を狙うという意念がある。そこに窺う殺気が起こるのである。そういう殺気を、勘の働く人間には敏感に感じるものである。それは防衛本能から起こる動物的な生存本能でもある。
 人間を含む哺乳類は深層心理の本能に、「生きたい」と願う思念は常に働いている。願望である。切なる願望である。
 この感性は現代人においては、安全神話の中で退化し、古代人から連綿として続いた防衛本能は埋もれてしまったが、人間を除く動物については、この本能が旺盛である。四ツ足の性
(さが)と言うものである。
 哺乳動物全般には、地下を通じて伝わって来る殺される恐怖を敏感に感じるものである。

 例えば、屠殺場に向かう牛や豚やその他の四ツ足が、屠殺されるその日、深い悲しみに沈むという。殺されては厭だと、屠殺場まで向かう運搬車の連れ去られる過程の中で涙をこぼす。殺される恐怖を殺される前から観じているからである。
 人間と性を同じくする哺乳動物の意識下の深層には“地下のトンネル”というものがあって、このトンネルを通じて、殺気を感じる機能がある。したがって人間でも、勘の優れた者は殺気を感じる。殺意の念を場の空気から読む。
 人間の発する殺気は、辺りの空気を震撼させ、心を戦慄させるだけでなく、恐怖の深層には、その恐怖は地下のトンネルを通じて襲って来るものである。殺気のシグナルは、此処から発信している。これを精神的進化の中で古代人たちは身に付けていた。何代も懸かって、大陸を移動する過程でこれを見に付けた。大地は何処までも続き、地下に意識のトンネルがあること知った。人間が陸地を移動してきた所以である。

 尾けられている。訝
(おか)しい……。
 その危険に想い至らなかったわけでない。地下のトンネルを通じて、まざまざと感じ取っていた。
 先ずは地上を離れて、一旦、樹に登るか……。その危険を充分に承知した上での賭
(か)けをしてみた。
 だが、これが賭けといえるものか。賭けをするなどと、そういう意識が津村にあったわけでない。
 自分でも、それは怪しいと思うが、念のためにということで樹に登ってみたのである。
 重蔵と伴にである。尾行者を遣り過ごすためである。そのうえ相手は細作
(しのび)である。それも手練(てだれ)である。細作はあたかも軟体動物のように地面を蠕動(ぜんどう)しながら、悟られないように絶えず形を変えていた。這(は)う動きは音を消した巧妙な動きである。武術にも屈伸・膝折を深くして「這い」という移動法があることは、よく知られることである。
 その細作を躱
(かわ)す。普段からその備えはしてあった。常に備えていた。

 津村は音の出る靴の類
(たぐい)は履かない。地下足袋もである。蒸れ易い地下足袋は履かない。遠出は移動はいつも草鞋(わらじ)である。草鞋の効果を充分に知り尽くしていた。音を消す効果が大だからだ。岩場では苔(こけ)を踏んでも滑らない。湿地帯や沢も横断出来る。何しろ足に馴染んで蒸れ難く、沢を歩いて濡れ手も直ぐに乾くし、乾けば爽快になる。
 かの漂泊の俳人・種田山頭火も草鞋の利点を幾つか挙げ、草鞋と地下足袋の違いを克明に論じている。山頭火の挙げた草鞋の利点は、まず蒸れないことであった。

 話を戻す。
 山道でも街中でも、人を巻く場合、少しばかり手間取る。特に細作から尾行された場合はである。
 ゆえに、姿を晦
(くら)ます隠行之術を遣うという手もあった。だが同行者の重蔵は、その術者でない。
 そこで、樹に登って、ひとまず様子を検
(み)ることにした。それにしても訝(おか)しい?……と思う。
 興安嶺に向かう二人の行動が、何故か、以前から見張られていて、まるで俟
(ま)っていたような追跡の巧妙さが腑(ふ)に落ちないのであった。何ゆえか?と思う。だが今さら穿鑿(せんさく)しても詮無(せん‐な)いことであった。

 同行者がいると、尾行を巻くために木登り程度の発想しか浮んで来ない。遣り過ごす策しか出て来ない。それでも先ずは、敵に備えるために俯瞰
(ふかん)を第一義とする。鳥瞰(ちょうかん)の如き眼で、高所にあがり広範囲を観察せねばならない。

 津村が背負う笈
(おい)には、登攀用の“鉤縄(かぎなわ)”が掛けてある。岩や塀や樹に登るためである。それに出立ちは、網代笠を被り、鹿の角に枇杷の仙人杖と腰瓢箪、履物は消音のための草鞋である。重蔵も同じような恰好だが、猟師の姿である。ただ鉄砲だけをもっていない。菅笠に草鞋、そして旅の必需品を風呂敷に包み、背中に斜めに掛けている。手には護身杖として弓杖を持っている。重蔵も一応は戦う。
 万一の場合は、鉤縄を使って樹に登り、様子を検
(み)て状況判断し、追跡者を観察する。遁走に一掬(いっきく)の希(のぞ)みもない分けではないが、対峙すれば決して逃げない。踏み止まって神経戦に出る。そのように幼少時から父・十朗左衛門から仕込まれていた。あるいは、そのような体質に生まれついているのかも知れない。勘のレーダーが能(よ)く働く漢であった。
 この漢は太古からの、古代人が誰でも身に付けていた唯識派が説く阿頼耶識
(あらやしき)を退化させていないのである。観じるのである。
 樹の上で神経戦を演じるには、それなりの準備を整えていた。精神的準備もあった。また特長として、何処ででも寝れる体質に改造していた。地べたや岩盤の上だけでなく、樹の上でも寝れるのである。寝る訓練の賜物である。寝ることにおいて一つの才能を持っていた。短眠術を会得していた。短時間で熟睡し、寝ていない他の時間は総て活動時間である。眠気が襲わないときは夜中でも歩行し、徘徊して見聞して廻る。
 この漢、寝る時間はせいぜい3、4時間程度で熟睡する。熟睡してその日の疲れは翌日まで持ち越さない。眠りは深い。まさに寝る訓練の成果であり、短眠術を心得ている術者の妙であった。

 笈の中には、戦場食を蔵し、表面を味噌で炙
(あぶ)った握り飯があり、焼いた餅が油紙【註】餅を焼いて油紙に包めば硬くならない)に包んであり、また逸品物の腰瓢箪には微酔(ほろ‐よ)う程度の丹薬酒が入っている。
 丹薬酒とは練丹のことで、寝かせて醸造した酒のことである。老酒
(ラオチュウ)のようなものだ。それに薬草から採った丹(甘草、桂皮、梅の実、干し納豆、落花生など豆類の成分)を加える。いつでも何処でも好きにかっ喰らう。朱漆の盃に受けて呑む。天下の風流人である。
 津村は酒の微酔いで、動きが調子付く漢であった。一杯入ると調子付く。動きか軽快になる。
 だが様子見は、策としては一時的なものだ。長く通用するわけでない。
 だが、いま悩んでも仕方ない。悩まされてもだ。
 先のことは先のことである。いま心配することでない。それに重蔵は道案内人だった。山岳を知悉
(ちしつ)している。その才は捨て難い。羅針盤のような漢である。山中で方向感覚を狂わせない漢である。

 樹に登って小半刻
(こはんこく)ほど経った。細作は姿を消していた。もう、その匂いすらしなかった。
 果たして去ったのか……。些か疑念が残る。それに、妙な雲行きは未
(いま)だに消えていない。消えずに漂っていた。
 何よりも細作は、動きに匂いを嗅ぎ付ける気配を漂わせていた。細作は豹のようにしなやかで、山猫のように動きは忍びやかで、更には蛇を想わせる執念深さを持っていた。それなりに猟の智恵があり狡猾
(こうかつ)である。要するに手強いのである。一筋縄でいかないのである。
 では、そもそもなぜ尾行されているのか。
 これ自体が腑に落ちなかった。なぜ命を狙われているのか、それとも、別の何かがあるのか?……。果たして情報洩れか。あるいは故意に洩らされているのか。とすると、囮の役を遣らされているのか。疑念はいろいろあった。
 何れにしても、狙われれば一方的な殺戮
(さつりく)になるだろう。だが細作は、あたかも殺しを愉しみにしているように思える。そのように観じる。狩猟家(hunter)が猟りをするようにである。そうなると殺戮以外にあり得まい。人間狩りを趣味にする愛好者か。何とも趣味が悪かった。

 「陽平さん、どうするね?」
 重蔵はこのまま、此処に居ることは好きでないようだ。樹の上である。
 彼は樹の上を得意としない。得意は地上を歩くことであった。健脚に物を言わせて、山岳に居住する“またぎ”のように一日何十里も歩くことであった。もともと重蔵は猟師であった。連山を踏破する強靭な足を持っている。山岳に知悉する漢である。

 「さて、どうするか……。どちらでもいいが」
 「その、どちらでもいいが困る。行くのか、留まるのか、早く決めてくれ」
 「樹の上はあきたか?」
 「ああ、もう沢山だ。地上に降りたい」
 「さて……」背を大木に預けて、懐手
(ふところ‐で)で思案する真似をした。
 「それが困る。変なものを手に入れたから狙われているんだ」それは奇妙な仏像のことを指していた。
 「そうかも知れん」津村は小手を翳
(かざ)して辺りを検(み)た。気配を窺おうとした。
 この漢は、気配を読み、状況を鑑
(み)ることが出来る。
 「手に入れた仏像は、何とも奇妙なものじゃないか。抱き合った仏像だ。エロも甚だしい。そのエロ仏像を百圓もの大枚を叩
(はた)いて入手するとはどういう気だ?」
 「わしの趣味だ」
 「なんだと!」
 「怒るな」
 「いったい何だね、それは?」
 「仏像だよ」
 「ああ、わかっている。だが手にした仏像は、今まで一度も見たことがない。どうして斯
(か)くも、おどろおどろしい恰好をしているんだ。気味が悪い。本当に仏か?それとも猟奇(りょうき)の類か?」
 重蔵はこの仏を気味が悪いと言っいるのである。それを「なぜだ?」と訊いている。男女が絡んで媾
(まぐあ)い、合体しているからである。
 これだけで、津村の持っている仏像が尋常なものでないことが分る。尋常でないから、狙われるだけの、敵からすれば殺しの動機になり得るかも知れない。恐ろしいものを入手した。重蔵はそう思っている。

 「双身仏という。男女の絡み合いの仏像だ。歓喜天双身仏という。詳細を述べれば、男天魔王と女天十一面観音の歓喜仏だ」
 淡々と言う津村の言葉を、重蔵は頸
(くび)を傾(かし)げた。
 「その仏に、どういう意味がある?」
 「人は、いずれ滅ぶもの。必ず朽ち果てる」
 「だろうな」
 「人は儚
(はかな)い。人生はあっけなく終わり、まさに夢の如しだ。瞬きするように、直ぐに潰える。長いようで短い人生、時間の中で徐々に肉体を滅ぼして行く。滅ぶ人間なるが故に、わが身に情念を募らせる。愛欲もまた然(しか)り。限りある命の保身本能は、人を愛着(あいじゃく)へと向かわせる。そこに、ひたすら媾合(こうごう)への愛執を奔(は)らせる。妄執もまた然り。肉愛である。肉欲である。その欲に執念を燃やせば、渇愛(かつあい)となる。
 それゆえ人は、仏の中に不老不死を求めずには居
(お)られず、併せて、男女の肉愛も、永遠に時間の中に封じ込めたいと願うもの。いっときも長く留めておきたいと需(もと)めるもの。
 この願望が、斯
(か)くも不思議な男女の抱き合った歓喜の像を作り上げた。男が陽で、女が陰。重ねて男女二根での交会仏(こうえ‐ぶつ)。狂惜しいまでに需め合うのも、また情念ゆえにだ」
 「そういうものかのう、わしにはよく分らんが……」
 「人の肉欲も情愛も憎悪も、血や肉、皮膚や垢も、糞尿に至るまで、更には人の心の善悪も、総てのものをひっくるめて肯
(よし)とする。“肯”と書いて、“あえて”と読み、これを承知した上で“よし”とする。
 そしてこれは、愛は清らかなものとする『理趣経』の世界に辿り着く……」
 「陽平さん、あんた博学だよ」と感心するように重蔵が言った。
 それは彼が、人体によって描かれた曼荼羅図
(まんだら‐ず)を想起したからであった。

 『理趣経』を「般若波羅蜜多理趣品
(はんにゃ‐はらみた‐りしゅぼん)」ともいう。ここで言う「品(ぼん)」は一部を分けたと解釈し、“経典の一部”を指す。そして密教では、この経典の母体を『金剛頂経』ともいう。
 また般若波羅蜜多
(はんにゃ‐はらみた)とは、智慧(ちえ)で溢れていることで、波羅蜜多とは、完成、熟達、通暁の境地を云い、現実界の生死輪廻の此岸から、理想界の涅槃(ねはん)の彼岸に到達するという意味だ。理想郷の意味でもある。
 理想郷に向かう為に、この智慧を「愛の行動」に移し、男女が二根交会をすることを、「うま味のある理趣
(りしゅ)」という意味だ。
 『理趣経』では、この理趣を“物事の道理”と説いている。つまり“事”の分けを説き、そこに男女の道理があるとしているのである。
 では、その道理とは何か。
 欲を矢に譬
(たと)えて箭(はし)らせる……。この行為を菩薩の位という。

 『理趣経』には、「欲箭
(よくせん)」と云う言葉で提起され、“欲箭清浄句是菩提位”とあり、人間の欲、男女の欲、その眼で見る“いい女”あるいは“いい男”の互いの性欲もまた菩提の位であるとしている。
 その挙げ句、寝てみたいとなる。互いの肉体に触れ、互いに求め合い、抱き合い、目合
(まぐあ)う。交会(こうえ)に及ぶ。これも菩薩の位であり、愛に縛られ、搦め捕られ、雁字搦めになってのたうつ。どうしようもない情念を滾らせる。狂惜しいばかりになる。求め合って渇愛にまで及ぶ。前後の見境がないまでに狂う。狂って狂う。これも菩薩の位といっているのである。肯(よし)である。
 しかし、狂えば「溺れる」という落し穴がある。陥穽
(かんせい)がある。陥穽を避け切れるようでは、魂まで滅ぼしてしまう。滅んでは菩薩の位は得られない。そこで「ほどほど」にという、「留まり」が必要になって来る。
 『理趣経』の説くところは、男女が交会で媾
(まぐあ)い、そこに生ずる悦(よろこ)びと踊躍(ゆやく)は尊いものだが、色・聲・馨・味・触の五欲は遠ざけるものでなく、節度をおくことによって、清らかな菩薩の境地に辿り着くとしているのである。節度を外せば、真言立川流が説くように、最後は髑髏(どくろ)である。
 教示する髑髏は“過ぎたるは猶
(なお)及ばざるが如し”で、いま一歩で踏み止まるか、そのまま快楽に任せて顛落(てんらく)するかの境目を顕すメッセージである。このメッセージを解して、総てのものは「菩薩のように清らかである」となる。これを無視して、菩薩はあり得ない。安易に『理趣経』を、100%悦楽の書と解するべきでない。読み間違えば大変なことになる。ゆえに歓喜二天を著した。

 『理趣経』の冒頭には“妙適清浄句
(みょうてき‐しょうじょう‐く)、是(こ)れ菩薩の位(くらい)なり”とある。
 この箇所も、読むには重要な解し方がある。注意が必要である。
 男女の交会も“肯
(よし)”である。媾うことも“肯”なのである。“肯”を悦楽的に読むべきでない。読み間違いは身を滅ぼす。遣り過ぎれば、髑髏の結末が俟(ま)っている。髑髏は死の象徴である。何事も過ぎれば俟っている。

 その言葉を、かつて陽平の父・十朗左衛門から聴かされて覚えていたからである。
 「重蔵よ、生命
(いのち)を侮(あなど)るなよ」
 確かに十朗左衛門がそう言ったことを憶
(おぼ)えている。生きとし生けるものの命を軽く見るなよということを学んだ。
 命あるものが生きているということは、大変な事なのである。このこと事態が罪であるからだ。それは凄まじいに一言に尽きた。生きるとは、そういうことであった。それは食物連鎖が明確にしている。自らが生きるために他者を啖
(く)う。
 重蔵はかつて、食物連鎖から諸行無常を観じたことがあった。因縁を想ったことがあった。哀れである。
 それは喰うか喰われるかの関係である。
 喰うは、また人間を啖
うこともであった。
 一匹の虫がカエルに喰われる態
(さま)である。それは強者が弱者を啖うことに似ていないか。虫を啖ったカエルは蛇に啖われた。蛇は大猪に啖われた。その大猪を猟師が鉄砲で撃つ。撃って猟る。
 では撃った人間は誰から猟られるのか。
 猟師である重蔵は、では次は、誰から自分が啖われるのか……。それを想った。
 大自然の摂理の「巡り」を想い、諸行無常のさまを想った。そこに生きとし生けるものの不憫
(ふびん)を悟った。果敢なさを教えられた。

 更に重蔵は十朗左衛門から、諭すように教わったことがある。
 「自分が貪
(むさぼ)った分だけ、他者から貪られる。迷惑を掛けた分だけ、迷惑を掛けられる。世話になった分だけ、世話をさせられる。世の中は総てが反映するようになっている」という因果だった。これを聴かされて、因果は反映するという仕組みを教わったのである。
 貪ぼって、貪られた者から恨みを買う。恨みは想念となって、やがて自分の跳ね返って来る。貪ることは遣るべきではない。
 喰わねばならないことがあっても、喰うのは、自分が必要とする最低限度の分だけにする。喰い過ぎない。
 今日に、明日の分は必要としない。今日一日、今の分だけという教えを学んだ。同時に貪る愚を悟ったのである。そして他者から検
(み)て、「美味いもの」とは、自分自身も含まれるのではないかという「巡り」を知るのである。喰ったものは、何れ喰われる。巡りである。大自然の摂理である。

 美味いものを喰う。
 これは残酷で、罪深いことではないのか。重蔵はそう感得した。
 四ツ足の肉
(しし)を喰う……。獣肉を啖(く)う。食用にするために、鳥獣魚の肉を喰(うら)らう。それも美味いと言う理由からである。それは正しいのか?……。遂にそうなった。
 ゆえに生きて居ること自体に、啖わねばならぬ罪深さを悟った。その頃から、重蔵の人生観が変わった。人間性にも変化が見られた。
 以降の重蔵は見事に、弱肉強食の世界から解脱したのである。弱者の肉を啖ってはならぬ。愚かだから啖ってはならぬ。啖われればそこに不憫
(ふびん)がある。物の哀れがある。その悟りに辿り着いて、人間は清浄無垢になるのではないか。清浄無垢の心にこそ、清らかな泉が湧き出ているのではないか。自然の摂理である。

 愛は清らかなもの……。確かにそうだろうと重蔵は想った。
 想えばこの戦争も、覇者になったところで、永遠にその坐を維持することは出来ない。奪ったところで、やがて奪い返される。そこに怨みの念が入る。遺恨が起こる。やがて何者かに啖われるだろう。
 違うか?となった。
 重蔵の脳裡には不気味な恫喝
(どうかつ)が響き渡った。聴いて怯(おび)えが兆(きざ)した。
 《もう、よかろう。お前は獣を殺し過ぎた。充分だろう。なぜ殺す。なぜ同じ性
(さが)を持つ四ツ足の命を奪う。獣にだってそれなりの心はあるぞ。お前はあと時、それを気付いた。それで命拾いをした。
 もしあの時、大猪を撃っておれば、おれが今度はお前を啖ってやろうと思うておった》不気味か聲
(こえ)で嗤(わら)ったような気がした。
 この聲は、いったい誰の声だろうか?と思うのであった。


 ─────半日ほど前のことである。二人は寧福寺
(ねいふく‐じ)を訪ねた。喇嘛寺である。八世紀頃から連綿と続く寺であると言う。ここ寧福寺は、更に西域の古都の八大寺院と称される承徳や赤峰や朝陽にある俗称大仏寺と称される普寧寺(ふねい‐じ)と所縁(ゆかり)があるという古い喇嘛寺であり、シルクロードの延長上に建立された寺と聴く。星野周作の記録帳には、そのように説明されていた。
 津村陽平はこの寺を喇嘛教の僧侶・暢伊仙
(ちょう‐いせん)と言う名で訪れていた。満洲国の旅券ではその名で登録されているからである。このとき潤沢な金を所持していた。預り金を含めて八百圓を懐にしていた。津村にしては持ち馴れぬ大金である。潤沢な活動資金を得ていた。総ては『梟の眼』から提供されていた。
 門前玄関で、ある人物の紹介状を差し出し、某
(なにがし)かの拝観料を納めた。壱角白銅硬貨などの小銭でない。太っ腹で壱拾圓札を拝観料にした。午前4時のことである。
 寺の朝は早い。午前3時には寺の一日が始まる。活動が開始されている。そういう時間に喇嘛寺を訪ねても無礼にはならない。むしろ無礼は午後を廻った夕食後の夕時である。寺に夕食は午後4時。それを廻ると拝観は無礼とされる。無礼にならないのは午前4時から約12時間である。
 さて、始めての寺を訪ねた場合は、本来拝観料を払うものである。

 儒教の影響の大きい大陸の寺では、この料金支払いは礼儀であり、その後の寺での扱いからが違って来る。
 日本ではこうした礼儀を守らず、頬っ被りして足許を見られ、寺の執事からは軽くあしらわれ、門前払いを喰らう拝観者が居るが、これは某かの拝観料をケチるからである。吝嗇家
(りんしょく‐か)の末路である。吝嗇家は、自分では得をしたように考えがちだが、大きな輪から見れば、他人(ひと)から検(み)て、蔑みの末路を極めているだけである。ケチは益々深まるばかりである。そして人望を失う。信頼もされない。

 一方で、地獄の沙汰も金次第というが、この沙汰は、一節には三途
(さんず)の川の渡し賃は六文といい、この金子(きんす)をケチって死後、地獄に落され、此処から抜け出せずに留まってしまう者もいると言う。沙汰次第で、つまりその人間の品格と品位を、地獄の裁判で験されているのである。木戸銭と思えばいい。
 また、死後の世界などあり得ないと割り切っている徹底した唯物論者なら、それはそれで結構なことで、そう言う人は、渡し賃も無用であるばかりでなく、寺院を訪問する必要もないし、葬式も墓も必要なかろう。更に祈りなども必要ない。
 例えば、友人か身内かわが子が、山や海で遭難して「どうか無事で還って来ますように」と祈る資格は無いと言うことである。徹底した、中途半端でない唯物論者なら、それが出来る筈だ。もし心配なら、別の次元で遣ればいい。一言でも祈れば、無神論者の化けの皮が剥
(は)がれる。

 この世は喜怒哀楽の世界である。
 木戸銭はつまり“喜怒銭”であり、これが喜びとなるか怒りとなるかは、その人次第と言うのである。求める方がケチなのか、頬っ被りする方がケチなのか、それもその人の受け取り方である。しかし、タダはいけないことは疑いようもないことだ。双方、摩擦を起こさないためには、拝観料と言う木戸銭は払った方が無難である。喜怒の「怒」だけが、露になって波風を立てても無駄なエネルギーを使うことになる。
 また、訪問先が寺院でなく個人の家であっても、某かの手土産を下げて行くことが礼儀である。無視するとその後の扱いからが違って来る。玄関での立ち話で、早々に追い返されることもあるからだ。それは、一種の礼儀知らずとして扱われたからだ。結局、タダより高いものはないと言うことになる。

 余談だが、手土産を下げて行くと、相手の人物を評定することも出来る。受け取る側の如何ほどの人物かが伝わって来る。これは下げて行く方も、受け取る方も、ともに人間が験され鑑
(み)られているのである。
 手土産を下げて行って、受け取る側から「これはなんだ?」と不審がられる場合もあるし、手ぶらで行って「なんだ手ぶらか」と心中で蔑まれる場合もある。ともに人間が鑑られているのである。前者は「この世の中は金が総てではない」と豪語してそれを一心に思い込んでいる人で、後者は「お貰いが好きな人」である。
 何れもケチが過ぎれば足許を見られる。

 寧福寺の筆頭僧・凰蓮
(おうれん)から茶室に通された。紹介者の話では、凰蓮は次期管長という。若手実力者という。その実力者からの接待客扱いである。これは門前で大枚の壱拾圓札の拝観料を払った見返りか。
 人間とは、善きものなり。金で態度が急変するから分り易い。訊けば、知らないことまで親切・丁寧に教えてくれる。何事もスムーズに摩擦なく流れる方がいい。そもそも礼は、摩擦を無くすための護身術である。護身術は人の心理の裡側にあり。暴力をもっての格闘のみが護身術でない。
 香木が焚
(た)かれた茶室の中はほの暗く、闇の中にあった。闇は玄の世界である。わざとそうしているよにも思われる。
 玄とは大自然の始祖である。万物は此処から生まれた。
 道教の説く、黒の世界である。ぼんやりと暗く見える黒絽
(くろ)ほど深い。ゆえに「微(び)」という。微は幽(かす)かで霞(かす)む。この霞を「妙(みょう)」という。
 玄は黒の世界である。北を位置する。北は玄武
(げんぶ)が司る。玄武は四神の一柱である。青竜・朱雀・白虎と共に天の四方を司る。玄は五行説で北方に配し、水の神で、亀に蛇の巻きついた姿に表している。
 『抱朴子』
(晋の葛洪(かっこう)が著した仙道書。内篇は神仙の法を説き、外篇は道徳ならびに政治を論ずる。内外篇8巻72篇。317年成る)の第一巻の「暢玄(ちょうげん)」の一節に記されている内容である。

 「玄」について、『老子』では天地以前の存在として挙げられ、これを玄道としている。
 仙道は、玄を知り、己のものとして使う道を玄道といい、またこれが仙道であるとしているのである。
 茶室でのほの暗い闇。透明な暗黒の闇であった。その闇は、見るだけの視界の明るさがあり、それが眼に見えてこそ、はじめて何も見えない闇も、暗黒も視ることが出来るのである。
 人の視界には、ただ無いとか、在
(あ)る、更には失って無いという「失」の表現があるが、この失の直中にあるときですら、それを無いという意識で視ているのである。これを「無(む)」といい、「空(くう)」とは別の意味を持つ。
 つまり、これは玄道世界を顕すものである。その闇の中で小さな音が響いていた。
 茶室の外では唐松
(からまつ)の梢(こずえ)が風に哭(な)いていたが、どうもその音ではなさそうだ。囲炉裏に掛けた鉄瓶の滾(たぎ)る音である。小さな一間、おおよそ六畳ばかり。狭い空間だ。
 結局その世界の空間が、のちに四畳半となり、三畳となり、二畳となって、遂には一畳の茶室まで登場している。
 寺の茶室には囲炉裏が切られ、炉の中で樫
(かし)の炭が赫(あか)く熾(おこ)っていた。鉄瓶がシュンシュンと喘(あえ)ぐような音を立てていた。聞き方によっては、男女が睦み合い、媾い、二根交会(こうえ)の際の、婦女子の善がり聲(ごえ)に聴こえなくもない。あるいは歓喜の吐息か……。

 だが茶室内は些か異様であった。娑婆との結界があるからだった。
 しめやかであるが、人の官能をそそる妙な馨
(かお)りである。その妙なるものが室内に溶け込んでいた。
 沈香は沈香だがそれにしても妙である。沈香は普通、ジンチョウゲ科の常緑高木から採取しされる。天然香料である。原木は木質が堅く、水に沈むことから「沈
(じん)」という。光沢のある黒色の沈香を「黒沈香」といい、伽羅(きゃら)といい、この原木は高級調度品などにも用いる。
 茶室には伽羅を基
(base)に、ほか数種類の香木が混ぜ合わされ、嗅ぐ者に官能をそそる企みが仕掛けられていた。これに酔わせる企みである。企みには、人体に影響を及ぼすようで、緊張した肉体を柔らかくし、然も刺戟を催し、ゆったりとした気分を齎すが、その反面、卑猥な妄想に奔らせる仕掛けがあった。
 それに茶室の掛けられた軸が、何とも淫らである。
 男尊と女尊の絡み合いが露骨に描かれていた。交会
する歓喜双仏の一幅(いっぷく)である。単なる春画でなかった。そういう次元を超越していた。見るほどに酔う。極彩色(ごくさい‐しき)で描かれていて、性の歓喜の凄まじい迫力があった。

 この画像を描いた絵具には蛍光を発する特殊な鉱物が含まれていると見えて、歓喜双仏の図は、何とも見る者を乱れさせ、淫らにさせて酔わせる力を持っていた。一種の宗教画であろうが、画像全体が闇の中で、ぼうっとした燐光
(りんこう)を放っていた。強烈な凄みがあった。それだけに、見る者を卑猥(ひわい)なる妄想へと駆り立てるようであった。その燐光は画像に描かれた男女二尊が味わっているが如き、同じ悦の感覚に至らせるのである。この人体曼荼羅を見詰めて酔うと、愉悦に浸るだけでなく、脳を灼(や)き、自らも狂って乱れてしまうそうであった。脳を灼くとはそう言うことである。そして脳とは、人体の頭蓋骨の内部にある中枢神経系の主要部と言うことだけではないのである。脳は人体の総てを支配する。手足や五臓六腑、それに隅々の尖端や爪先までも脳の一部の発露として捉え、脳が変化したものと検(み)るのである。
 逆に言えば、手足を刺戟して肌の存在を知り、触感に刺戟を与えると言うことは、脳に刺戟を与えることなのである。性器も然
(しか)り。性器は聖域の代物である。特に女性器は世界で一番尊い。
 また眼と鼻の五官のうち、視覚と臭覚を制しようとする。従えさせようとする……。これこそ脳が肉体全体を支配する所以である。
 それに、囲炉裏に掛けられた鉄瓶の湯の沸く音が、奇妙な相乗効果を齎し、喘
(あえ)ぎのように聴こえて、いつしか耳までとろかせて、酔わせてしまう甘美を誘うものである。あたかも桃源郷に誘われたような錯覚を起こすのである。奇妙この上もなかった。
 この茶室には、僧の凰蓮と津村と重蔵の三人がいた。

 「酔うなよ」津村は重蔵に注意を促した。
 「?…………」妙な貌をした。意味が釈然としない。
 しかし重蔵は、乱れ始めたのは、僧の白い足に、女を見ていたようだ。この僧は性別がはっきりしない。女のように見えた。もし男なら、限りなく女に近い男であった。僧には“あやかし”のような美しい怪しさがあった。美しさで取り込んでしまう艶
(なまめ)かしさが目許に顕われていた。躙(にじ)り寄って来るような蠱惑(こわく)を観じた。微睡(まどろ)むような眠気を誘い、既に惑わしているのかも知れない。

 「重蔵!」叱咤した。
 《酔って油断すると、この空間に魅入られて取り込まれるぞ》という注意である。それは魂を取り込まれるのと同義だった。誘われ、艶下に惑わされる。隙を作れば組み敷かれる。
 重蔵は突然ハッとしたように眼を開き、やがて我
(われ)を取り戻したようである。この叱咤しなければ、そのまま酔わされ、乱れていたかも知れない。
 「愛は清らかなもの……、宜しいじゃありませんか」僧が優しく言った。その聲
はまさに女だった。
 一癖も二癖もあるしたたかな僧であった。一筋縄ではいかない人物のようだ。性別は分らないだけに、妙な妖艶さを漂わせていた。
 「いや、われわれは旅に途中でして」津村が制した。恐るべしと検
(み)ていたのである。
 「それは残念……。では、お茶でも一服」未練そうに吐露した。
 茶が薦められた。こういう場合、遠慮するのは礼儀に反する。さて受けるか。迷うところであった。
 「はあ」
 警戒して遠慮したり、遜
(へりくだ)り過ぎるもの礼儀に反するだけでなく、験(ため)されているようにも感じるものだった。足許まで見透かされる。過ぎれば、小心者と軽蔑される。
 僧が茶を点
(た)てた。水走りの綺麗(きれい)な、流れるような手つきだった。見事なお点前である。それを音も立てずに、すっと差し出した。
 「どうぞ」聲は高からず低からず、まるで玉の転がるような美声だった。
 だが心を見透かされているようでもあった。それが妖艶な目許に顕われていた。
 「では遠慮なく」音を立てて一気の呷
(あお)った。
 「随分とご立派な」僧が感嘆するように言った。
 「結構なお点前でした」
 今度は重蔵に点てた。緊張して堅くなっていた。このオヤジは緊張し過ぎて勃起でもしているのだろうか。態度がカチカチだった。
 「いやァ、わが輩は……」照れるように言った。
 「そう、ご遠慮なさいますな」《長居したところで、捕って喰おうとは思っていませんから》と言わんばかりだった。
 「いやいや、先を急ぎますゆえ」津村が制した。
 「先と申されますと?」
 「これから日本に戻ります」
 「それはそれは」
 「そこで、さっそく例のものを」
 「ああ、そうでしたね。星野周作さまのお預りものでしたね。直ぐに持って参ります、暫くお待ちを」
 僧が席を立った。優しい物言いに、優しい仕種
(しぐさ)。そして優雅な立居振る舞い。僧衣は確かに男物を来ているが、中身は果たして男か女か。この点が釈然としなかった。

 「おい、陽平さん。いまの坊さん、いったい男か女か?」重蔵は僧の妖冶
(ようや)を指摘した。その艶かしく美し過ぎる妖怪じみたところを問うた。
 「男と言えば、男だろうよ」
 「わしには女のように見えたが」
 「じゃあ、女だろうよ」
 「此処は恐ろしい寺だなァ。何だか寒気がして来た」
 「酔ったのだろうよ」
 「こういうところは一刻も早く出たい」悪寒に取り憑かれたような貌をしていた。
 「同感だ」長居は無用という言い方だった。
 こういう会話をしているうちに、僧が厨子塔を持って来た。高さ30cm、直径10cmほどの尖り屋根の舎利塔で、材質は黄楊
(つげ)である。ずっしりとした重みのある厨子だった。
 「これで御座います。さて、これまでの保管料は百圓と聴いておりましたが、いかがなさいましょう?」現金と引き換えであることを促した。
 「いま即金で」津村は人の心を読むように言った。僧も人間であることを知り抜いている。
 「さようでございますか、これはこれは」僧の顔が綻
(ほころ)んだ。妖艶な笑みである。こういう変化を“現金”というのだろうか。あるいは最初の依頼主との約束であろうが、何か利害が絡んでいるようである。
 「では、中を改めさせてもらいます」
 「どうぞ」
 「これは何と!」津村は厨子の扉を開けて驚いた。
 「仏像は象頭人身の化身・男天黒魔王とその妃・十一面観音で御座います。これを星野さまが、此処へ持っていらして保管をお恃
(たの)みしたとき、わたしはまだほんの子供でございました。もうかれこれ二十年前のことでございます」
 「では、星野は二十年前に?」この寺に遣って来たことを訊いたのである。
 「さようでございます。欧州で大層なものを手に入れたと言うことでございました。先代の管長さまから、この仏さまの謂
(いわ)れを聴いたときは、わたくしはまだ十歳でございました。よく分りませんが、爾来(じらい)恐ろしいものと聴かされております」それは滅多に人には口にしてはならないというふうに聴こえた。
 「恐ろしいものとは?」津村はその訳が知りたかった。
 滅多に口には出来ないものだが、拝観料の壱拾圓と保管料の百圓が利いていると見えて、僧は口にした。
 「異民族が題材になっているからです」
 「異民族と申しますと?」
 「突厥
(とっけつ)を、ご存知でしょうか」
 「突厥?」
 「北方の異民族でございます。トルコ系の遊牧民でございます。六世紀の中葉、アルタイ山麓に起こった民族です。かつて此処には柔然
(じゅうぜん)の支配がありました。柔然はモンゴルの地に拠ったモンゴル系の遊牧民族です。東晋の初め、鮮卑の拓跋(たくばつ)氏に隷属し、拓跋氏の南遷後の五世紀初頭、その故地を領しましたが、六世紀中葉、突厥に滅ぼされました。突厥は柔然を破って独立し、その後、伊利可汗(いりあかん)と称しました。突厥はモンゴル高原ならびに中央アジアに大遊牧帝国を建設したのです。しかしそれも束(つか)の間のこと。
 それから僅か四十年後の六世紀後半、こ国は東西に分裂します。そして分裂後の630年以後、今度は唐に征服されました。しかし689年に東突厥が復興して、これが突厥第二帝国です。
 王朝は、滅んでは興るという繰り返しです。しかしまた、744年にウイグルに滅ぼされました。民族や王朝は目紛しく変化し、入れ替わりますがその原動力は人間の醒め得ぬ煩悩の顕われでしょう。消えては興り、興っては消えて行きます。無常の顕われでしょうか……」僧はしんみりと無常観を述べた。

 「一切のものは無常とする観想ですね」
 栄枯盛衰は自然の摂理であるからだ。民族や王朝が自然体である限り、この制約を受けて、一切は自然の成り行きと看做される。
 「唐の玄宗皇帝は、突厥の民を信じてはならないと言われたそうです。先代の管長さまの言われますには、男天黒魔王は突厥人だとのことでした。そして抱かれる十一面観音は唐の身分ある美女とのこと」
 「性の歓喜を、突厥人が貪っている像と言うことですか?!」驚きだった。
 唐の高貴な美女が、突厥の大魔王に弄
(もてあ)ばれている“うねり”を津村は観じた。それは嬲(なぶ)りである。そのうねりが、狂気を宿して肌の表層を疾った感覚を覚えた。仏像の出来からして、その表層には、苛立ちや不安に縺(もつ)れ、恐怖に戦(おのの)きながらも、一方で縺れ合い、干渉し合って、魔王とともに十一面観音は喜悦に入っているのである。何と言う矛盾だろうか。

 「果たしてそのように聴いております。謂
(いわ)れからすると、黒魔王はトルコ系の遊牧民でございます」
 「なんと?……」矛盾が絡むだけに、妖艶というか、何ともその感情が凄まじい。
 また、この仏像を彫った根付師は、それだけ見事な腕をしていたことになる。
 そして、その腕の持ち主は、《人間は何れ滅ぶものよ。その人間が亡びずに、歳も取らず、衰えもせず、死にもせず、不老不死に辿り着こうなどとするのは不自然なものよ。喜悦は今しかないのだ。今を狂わんばかりに燃えればいい。焔のように燃え上がり、悉
(ことごと)く身を灼(や)いて燃え尽くせばいいのだ。人間、高々百年かそこらを生きて、何があろう。今を燃え狂え》と言わんばかりの、烈しく、凄まじいメッセージが、この僅か6cmばかりの歓喜天双身仏に秘められているのを、津村は鋭く観じたのである。
 いったい星野周作はこの双身仏を、どう扱おうとしていたのか、それを想った。内心、恐ろしいものを手に入れたと思うのであった。
 「お帰りの際は、くれぐれもご用心を」
 僧は何か意味ありげなことを言った。そしてその後、送り狼に尾けられることになろうとは。
 このときは未だ夢想だにしなかった。まさか本当に送り狼が顕われるとは……。妙に仕組まれていると思わぬでもなかった。その意味では何故か辻褄があっていた。


 ─────山中は夏でも、午後を過ぎると徐々に薄暗くなり、午後2時を回ると、山林の中はかなり薄暗くなる。道が分からなくなり、迷うのである。今日は重蔵が居るからいいようなものを、単独歩行では方向感覚を失う。そのため念には念を入れて、寺を訪問したのが午前4時、出たのが午前5時過ぎだった。余裕を充分にとってあったのである。そして山中で細作に尾行されたのが午前6時。それから30分を経て樹の上で様子見をした。その頃になると、細作は闇に溶けたように姿を消していた。
 「先を急ぐぞ、陽が南中に昇らぬうちに」
 津村陽平が促した。陽は既に顔を出していた。
 昨日、夜が明けきらぬ黎明時に新京を発ち、万宝山の丘陵地では『空龍』が興安嶺連山の上空へと飛び去る巨大な姿を見ている。翼に、日章旗を鮮やかに付けた四発の大型飛行艇が連山の方への飛び去って行った。今宵はあれに乗らねばならない。上空を見上げて、そう誓った。
 本日の夕刻までには戻る予定になっていた。乗り遅れることは許されない。
 何が何でも間に合わねばならない。天狗足に鞭をくれた。途端に加速がついたように早くなった。

 昨日は新京から恐ろしい早さの健脚の歩き詰めて、万宝山を経由し、そこで星野から指示された紹介者・羽田征四郎の紹介状を得て、興安嶺の山中にある喇嘛教の寧福寺の僧を紹介された。羽田を通じて、星野が預けた仏像を受け取るためである。寺の僧に面会を求めるには、羽田の紹介状が必要だったのである。
 羽田はもと日本陸軍の探偵であり、万宝山丘陵地域の朝鮮移民とソ連軍を見張る「草」であり、星野とは露国の東清鉄道を破壊するため、沖禎介らとともに、ロシア軍の『東方輸送妨害作戦』に参加した挺身隊以来の旧友であった。
 万宝山に、寧福寺所縁
(ゆかり)のその羽田征四郎を訪ねた。そして紹介状を認(したた)めてもらった。

 津村と重蔵は、先ず万宝山驛から汽車に乗って白城子
(はくじょうし)まで行き、そこから先の興安驛までは再び健脚の天狗足で連山へと入った。汽車と天狗足とのリレーである。そしてこの日の深夜、寺の門前近くに到着した。だが警戒のために、寧福寺での宿泊は敬遠した。寺に宿泊して、万一の場合は取り返しがつかなくなるからだ。そこで任務が頓挫(とんざ)する。
 今は戦争をしている。土竜も狐も暗躍している。勝手が分からない大きな寺には泊まるべきでない。
 津村も重蔵も、いつでも何処でも露営
(bivouac)できる携帯用天幕を持っている。念には念を入れ、付近で野宿し、午前四時、寧福寺を訪れた。今はその復(かえ)りである。

 これからは一刻も早く白城子驛まで辿り着き、新京行きの汽車の乗らねばならない。仮に予定通りに着いたとして、到着時刻は汽車の遅れを計算していなければならぬから、おそらく午後十一時前後ではないかと見積っていた。また不慮の奇禍
(accident)として、細作や刺客が付け狙らわれる知れない。これまで、持ち馴れぬものを物を持ってるからである。
 持ち物は、星野周作が欧州伊太利亜で壱萬円の大枚を叩いて手に入れたと言うメディチ家所蔵のコレクションである。奇妙な仏像であるだけに謎も多く、またこれ自体が狙われる可能性があった。M資金に絡んでいると思われた。併せて、その証拠に仏像の蓮花坐の台座の下から、小さく折畳まれた奇妙な地図が出て来たからである。それだけに、奪われる災難に遭遇する可能性も大であった。果たして間に合うか。

 津村陽平には一つの使命があった。“山こかし”をすることであった。
 山師の話術を用いて、法螺
(ほら)を吹いてみせる。それも大法螺である。
 大法螺を吹いて、経済界の首領
(don)を巻き込み、早期戦争終結に向かわせることであった。いま此処で挫折する分けにはいかない。一ひねりする工夫が要(い)る。
 首領を巻き込むには、それなりの裏付けが要
る。根拠だ。大物に、世迷い言に乗って踊る馬鹿は居ない。問題点はここであった。何しろ大東亜戦争は、これまでに経験したことのない残酷さで、金の懸かる科学的な近代戦を戦っているからである。
 近代戦は総力戦である。この種の戦いは長期戦であり、然も無限戦争になる恐れがある。金が尽きれば、それで終わりである。したがって下準備として、あるいは予習学習として歴史の教訓に学び、そこに横たわる厳しい現実を注視する必要がある。
 更に近代戦争は、それ自体が総戦力であり、国家の総力、則
(すなわ)ち草莽(そうもう)の一本一草に至るまで総動員し、これ自体を意思統一して戦力化する必要があった。以前の戦争のように、戦争は軍人に任せておけばよいという戦争ではなくなっていた。
 下手をすると、幼児まで戦闘員として駆り出されてしまうのである。また、生まれたばかりの赤子でも、近い将来、戦闘員と看做されてしまう恐れもあった。何も一般市民は、毎晩提灯行列をして「勝った勝った」の愚声を挙げる役回りだけではなかった。近代戦では第一線に立たされることもあるのである。

 だが、当時に日本陸海軍には戦争目的がなかった。戦争についての研究が不足していたのである。
 戦争目的が存在しない死闘は一刻も早く終わらせねばならない。このたびの戦争は、確かに大東亜を掲げて始めたものであったが、昭和17年から作戦司令部は戦争目的を明確に出来ないまま、ズルズルと虎口に引かれるような死闘を演じた。その愚が同年6月5日から7日に掛けて行われたミッドウェー海戦であろう。戦争目的不在の忌まわしい海戦。作戦立案者の愚を晒した海戦だった。
 また真珠湾作戦を始める前も、結局、国交が緊張している中で開戦すべきかどうか、一度も政治的経済的な研究も、戦争についての研究も探求されることはなかった。国家存亡に関して重大な時機に、正しい判断をすることが出来なかったのである。
 この誤りが、戦争終末期、戦勝の目途
(めど)を殆ど失いながら、いたずらに三年八ヶ月に及ぶ歳月の経過に終止符を打つことが出来なかった。だらだらと流れる時代の惰性や、自らの重い腰を持ち上げる自力精神が欠如していた。総てに鈍重であり、書類形式主義に奔り、然も保身に奔るだけで、内実は怠慢だった。時の政治家は無能であった。戦争指導者は無能であった。
 陸軍参謀本部ならびに海軍軍令部は、この度の戦争を西洋流の科学的体系主義で画策し、科学時代の近代戦を一方で、物不足を精神主義で補おうとしていた。物量戦を精神主義で切り抜けようとしていたのである。

 また軍部では、自らで終結する自浄作用を持たず、結局、その尻拭いを天皇陛下にさせて終戦となった。
 本来ならば戦争を指導した政府当局者が、まず明治憲法をよく理解し、研究しておく必要があった。戦争に掛かる経費と止める場合の経費の勉強もしておくべきだった。また自ら進んで和平に導くシステムを構築しておくべきだった。政治力で解決出来ない戦争など、最初からするものでない。
 要するに、背後には軍隊官僚が戦争を指導し、急進的緞帳
(どんちょう)役者を模して、表面は剛勇ぶっていても中身は器量が小さく、この種の人間が自己中心的に作戦指導したことに大きな過ちがあったのである。腕力に物を言わせて……という戦争屋のレベルしかなかった。戦争屋の戦争指導では智に欠く。戦闘や戦術の専門家であったのかも知れないが、戦略で物事を考える智謀の将ではなかった。
 更に質
(たち)の悪いことは、日本を盟主にして五族協和を掲げる戦争強行急進主義者が、いつの間にか、急進主義役者に変貌してしまったことだ。こうなると散々流した血の上に、更に無駄な血流を重ねる愚を犯すことは必定である。豪勇は蛮行になって、色褪(いろ‐あ)せる。

 当時の戦争指導者たちの政治的開眼については、アメリカ独立戦争、フランス革命以前の、政治的には非常に低い軍隊官僚どもが、参謀肩章に物を言わせて、あらゆる批判的思想を弾圧し、また奇怪な和製中華思想を混入させて、大陸に侵略行為を営んでいるうちに、その裏に潜む搾取を諸外国に研究され、やがて独逸の研究していた原爆製造はその研究者が米国に易々と買収され、高度の知的水準を端的に顕す原子爆弾まで頭上に浴びる結果になってしまっていた。もし、このとき広島・長崎の原爆に懲
(こ)りず、あと一回、日本の何処かに投下されていれば、日本は完全に地上から跡形もなく絶滅していたであろう。
 戦争はこういう気配を感じつつも、懲りずに、滅びの美学へと驀進
(ばくしん)していた。
 重ねて悪しきことは、このたびの戦争を聖戦と美化し、それを画一化し、強制力で思想を統一した結果、思考に柔軟性を失い、更には融通性を失って、最後の最後まで、奇手の一つも出て来なかった。
 本来の「文武の順」が狂い、武を前面に出し、文を後面に廻してしまったのである。その結果、敗れた。
 当時、三大難関と言われた高等文部官試験や陸軍士官学校・海軍兵学校入学試験のペーパーテストでは、この程度の人間しか、人材を発掘することしかできなかったのである。
 また、陸士並び海兵ではその卒業生のうち、百人前後の中から首席をはじめ五、六番に位置した者をスーパーエリート
(特進組)とし、それに準ずる十数番までの上位者を参謀候補者として陸大や海大へと送った。こうして超エリートが製造されていくのである。左脳記憶力集団である。

 福沢諭吉以来の『学問のすゝめ』のお粗末さ。
 福沢が言った「身分の低い者、あるいは平民でも志あれば、学問で世に立てる」とは、結局、日本の官吏採用試験を、隋代にはじまり清末で廃止した前近代的な“科挙”の世界へと逆戻りさせただけであった。中国では1905年に廃止している。ところが、日本はこれを明治以降採用した。何と言う皮肉か。
 そもそも暗記や計算力を得意とする左脳集団には限界があった。学問を「暗記力」と解釈したところに限界があった。多くを記憶するだけでは学問と言わない。知っているだけである。学問は、知ること事態が、つまり行うことである。知行合一である。机上の空論では学問と言わない。暗記の世界のものだ。
 左脳集団は確かに、ペーパーテストにおいて答案用紙に正確なる答を書くことが出来た。始めから答があるからである。ところが白紙に答を綴
(つづ)るとなると、果たしてどうだったのだろう。
 当時の陸軍参謀本部も海軍軍令部の間違いなく左脳集団だった。科学的体系主義を得意とする、戦争職人としての専門の学を修めた頭脳が揃っていた。だが、それでも負けた。戦争職人は一方で経済の専門家でなかった。金には清潔であったかも知れないが、疎かった。物の値段を知らなかった。その要因は既に述べた。

 戦争をするにも金が掛かるが、戦争を止めるにはもっと金が掛かる。タダではどうすることも出来ないのである。あるいは“滅びの美学”で、根刮ぎ滅ぼしてしまうしかないのである。肉も魂も残らぬ亡国である。
 敗れた場合、戦後の復興のために莫大な金が掛かるからである。この金のことを、当時の軍隊官僚は全く理解していなかった。
 敗戦国の経済状況にハイパーインフレが起こり、国民が餓死するのは、戦争に負けたことに起因し、更にその国民の正常な自己同一性
(identity)まで狂わされる。特長を失い、精神性は崩壊する。昨今の日本人から日本精神が欠落してしまったことは、よく知られるところである。
 個々人の人格や共有する時間的空間的一貫性の認識が抜け落ち、自他の境目や独自性が失われてしまうのである。結局、意思の統一が出来なくなって、多種多様に分裂・拡散してしまうのである。共通の拠
(よ)り所を失うのである。今日の日本社会はこれを如実に顕している。その最たるものが悪しき個人主義である。膨張するだけでなく、見事に分裂した。
 戦争終結。そのために金が要る。無い袖は振れないばかりか、戦争すら止めることが出来ないのである。
 M資金の所在が急がれるところであった。

 戦争は何も敵対国だけを相手にするのではない。敵は外ばかりでなく、裡
(うち)にも居るのである。
 和を以て尊しと為
(な)す……などと遣られると、右脳能力者は異端視されて弾き出される。
 「和」は日本人の好きな言葉だが、良いこと尽くめではない。和が腐敗の中にあっても、糾弾でできず、ひたすら沈黙を保ち、忍従し続けねばならない。和を乱すとは、組織内の協調を乱すとも採られかねない。そうなると、組織人はわが身の保身だけしか考えなくなる。組織が腐って行く構図である。
 その腐って行く実態を肌で観じたのが、吉田毅らの元参謀本部員であり、彼らは早々と追い出されて予備役に廻されてしまった。だがその才を高く評価して取り込んだのが、沢田次郎の養父で伯爵の沢田翔洋だった。
 この構図は大局的に見れば、“陸軍参謀本部や海軍軍令部の戦争強行派の左脳集団”対“
国際経済資本(メジャーズ)に恐れらている沢田翔洋の息の掛かった右脳集団”の対極構図である。
 翔洋は、妖怪・智豹
(ちひょう)の異名で外資に恐れていた。また闇世界で呑鯨(どんげい)の異名を持つ怪物・安積財閥の総帥・安積徳之助(あさか‐とくのすけ)らも加担していた。
 つまり“軍閥保身集団”対“経済智将集団”の対極構図である。



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