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続々 壺中天・瓢箪仙人 1
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続々 壺中天・瓢箪仙人 18

人は誰にでも、怕(こわ)い目に遭(あ)いながら奮闘を強いられる時期が、人生には何度か登場する。孤軍奮闘をする。
 それ自体は、それを自分の定めと思えば、それに慣れていくだけの「耐性」を身につければいいとして、最も辛いのは、今まで味方と思っていた者から裏切られたり騙されたりすることである。
 このときばかりは、辛いと思うより、悲しいと思うのである。
 その悲しさは、裏切った者、騙した者にも半分分けてやりたいような、そういう悲しさに襲われることがある。
 人生に裏切り者や騙す者がいるのは、世の常であるが、それを承知した上で、こうした輩
(やから)の出る事は悲しいことである。
 そしてその悲しさの源泉は、「否定」されたことにあるからだ。


●吉凶は日によらず人による

 日本人が想念する“国際化の波”は、戦後近年に起こった出来事と思いがちだが、既に戦前、それも幕末の開国の頃から始まっている。これが克明になり出したのは明治二十年代(1887)初頭、帝政ロシアが不凍港を需(もと)めて南下政策を打ち出した頃からだった。シベリア鉄道敷設、更には浦塩斯徳Vladivostok/ウラジヴォストーク。日本海に臨む海軍基地でシベリア鉄道の終着駅)軍港設置拡充など、露国は急ピッチで日本を目指して南下政策を執り始めていた。
 これを時の明治政府は由々しき事態と検
(み)て、北海道開拓や中央道開鑿(かいさく)で軍事道路の工事を急いだ。これが一日遅れれば、一日分露国に敗(ひ)けをとる。時代はこの懸念に取り憑かれていた。

 また遡
(さかのぼ)ること五百年くらい前、韃靼国(だったん‐こく)からの日本渡来にも大きな危機感と懸念を抱いていた。北からの恐れである。韃靼国とは後のモンゴル民族全体を指すが日本人のとっては異人であり、モンゴル系の一部族の塔塔児(タタール)を指す。
 明代には北方に逃れた元朝の後裔
(こうえい)の北元(明軍のため1368年中国本土を追われ、モンゴル高原に退いてからの元の政府)に対する明人でもあり、また、南ロシア一帯に居住した土耳古(トルコ)人も、もとモンゴルの治下にあった関係から、その中に含めることもある。この民族の北元が韃靼海峡を渡って日本に渡来した。応永(1390/南北期の北朝・後小松天皇朝の明徳)から応仁(1467)に掛けての頃と言う。
 韃靼海峡とは旧称の間宮海峡のことであり、露国極東の樺太
(サハリン)北部とシベリア東岸との間にある海峡である。あるいは日本海を渡って能登辺りに上陸した。能登地方では、韃靼からの異人が遣って来ると、恐れの余りに家を捨てて逃げたという。

 日本人にとって国際化と言えば、異文化に接した韃靼の異人が渡来した頃からあり、近現代では大正7年
から11年(1918〜22)に懸けてのシベリア出兵の頃である。
 なお鎌倉期、元の軍隊が日本に来襲した事件の元寇
(文久及び弘安)は国際化に含まない。血を始めとして、文化などが交わらなかったからだ。

 第一次世界大戦が始まったとき、日本は中国大陸への進出を窺っていた。シベリア出兵はチェコ・スロヴァキア
(Czech and Slovakia)軍救援の大義名目のもとに、日本が米国・英国・仏蘭西(フランス)・伊太利亜(イタリア)などとともにロシア革命に干渉を目的とした事件である。その一年前にロシア革命が起こった。
 日本の出兵の切っ掛けは、英米仏からチェコ・スロヴァキア
(スラヴ系のチェコ人・スロヴァキア人が1918年オーストリア・ハンガリー帝国からチェコスロヴァキア共和国として独立)の救援を求められたことであった。このときチェコはオーストリア・ハンガリー帝国とで交戦しており、独立を宣言したが、のちに露国に降服している。そして革命が起こった。
 一方この当時、露国は独逸と単独で講和条約を結んでいた。そのためチェコは孤立したのである。その後、チェコ軍は極東に向かい、シベリア経由で浦塩斯徳
(ウラジヴォストーク)から船で帰国しようと考えたが、ソ連軍に遮られ、これを日本軍が救出することになる。
 この武力干渉部隊は、ソ連から検
(み)て反革命軍と位置づけられた。その後も日本の軍隊は、他国が撤退した後も単独駐留したが、これは失敗に終わった。しかしこの足跡には、チェコ軍は露国と戦うために出てきてユーラシア大陸を流浪した後、極東に達して日本軍と出遭っているのである。また日本人も欧州人にシベリアにおいて接することになる。このとき日本は連合国の一員であった。国際政治の舞台に立たされ、このときが日本にとって国際化の始まりであった。また、これが日本の転換時であった。
 斯
(か)くして日露戦争(日本と帝政ロシアとが満州・朝鮮の制覇を争った戦争)後、ポーツマス条約により、日本の韓国における権益の確認、関東州の租借権および長春・旅順間の鉄道の譲渡、樺太南半の割譲などの権益として、やがて満洲国の建国にまで発展して行く。
 昭和7年
(1932)、もと清の宣統帝であった愛新覚羅儀(あいしんかふら‐ふぎ)を執政として満洲国を建国、昭和9年(1934)に溥儀が皇帝に即位する。この国の寿命は、僅か昭和20年までの十三年間である。

 満洲国は二十世紀の人類の様々な欲望か絡んでいた。単に日本と中国だけの問題ではない。この国はソ連が北から窺っており、西から欧州全土に散ったユダヤ人が日本とは異なる国家を造ろうとしていた。既に国際化の様相を呈していた。
 この国際化の中で、歴史には埋もれてしまっているが朝鮮族が一枚噛んでいた。万宝山事件を始めとして、中国吉林省の朝鮮に接する図們江
ともん‐こう/豆満江)支流の流域の間島では朝鮮・満洲・ソ連の三国が接していたため国境問題と匪賊問題が持ち上がっていた。そして新京・吉林・延吉の鉄路上、また新京・牡丹江・図們を囲む鉄路の中に鏡泊湖があった。更に新京・白城子の鉄路間には新京市から30kmくらいの地に万宝山があった。
 この深部に韃靼国の極東に向かう思惑があったものと思われる。異人が目指すは日本列島だった。

 能登地方、また東北の日本海側より、更には丹後山地や山陰路には奇妙な言い伝えと風習があった。共通項は京の模倣値と思われた。ある幻術である。これは韃靼の異人が持ち込まれたものとも言われる。
 この地方に伝わる『風土記』によれば、爐
(ろ)に豆をひと掴み投げ入れる。爐の豆は爆(は)ぜる。爆ぜて豆が空中に飛び跳ねると、それは小さな武者となった。その武者は東西に分かれて、東軍と西軍になる。東西の軍は命を賭(と)して狂暴かつ死に物狂いの戦いを始める。異人の用いた幻術ともいう。この幻術はやがて京に上り、東西の武将が魅入られることになる。言い伝えである。
 その幻想が現実となった。歴史の中で現象となった。応仁の乱である。

 足利将軍家および管領
(かんれい)畠山と斯波(しば)両家の相続問題が起こった。
 畠山政長は畠山持国の養子となったが、持国に実子・義就が生まれたことで、家督を争い、細川勝元の助けを得て、結果的には応仁の乱の発端を作った。また、斯波義廉
(よしかど)は、斯波氏の家督を義敏(よしとし)と争い、応仁の乱の原因を作った。義敏は義健の死後、家督を継いだが、家臣の圧力により退けられた。しかし再び家督を回復したが、その地位をめぐって義廉と争い、応仁の乱の起因を作った。これを機に歴史は目紛しく変化する。戦国時代の幕開けである。時代は下克上へと変化して行く。

 東軍の細川勝元と西軍の山名宗全とが、それぞれ諸大名を引き連れて京都に上り、ここを舞台に大乱を起こした。京はあたかも火が燃え盛る爐と化し、東西の武者は爆ぜる豆であり、遂に戦乱の巷となった。戦国時代の始まりである。
 戦
(いくさ)は、人間の野心と欲望から起こったことだった。それぞれの野心家は、あるいは韃靼の幻術に魅せられたのか。
 災いは鬼門
(艮(うしとら)で東北を指す)より出る。日本からの大陸の東北部には満洲の曠野があり、その先には露国があった。この構図をユーラシア大陸まで広げると、どうなるだろうか。

 ロシア……。“おそろしや”とも言われた。満洲国を虎視眈々と狙っていた。日露戦争からの遺恨を日本に抱いていた。
 満洲国には様々な国際的なスパイ団が潜入していた。こうしたスパイ団に、日本の官憲は無知であった。複雑な絡み合いのスパイ天国の構図が理解できなかった。欧州のユダヤ人は満洲に「河豚計画」を持ち込もうとしていた。狼の被害から守ろうとする羊小屋建設である。あるいは高い塀を設けた牧場か……。
 ナチス独逸に迫害された欧州からのユダヤ難民が雪崩れ込んでいた。
 羆はそれを眺めていたが、別に見逃した訳でない。遠隔操作で狐を遣い、狐は地元の土竜を遣った。改造された満人のみならず、日本語を喋る韃靼の異人もいた。狐の手先となった。走狗として地下を暗躍することになる。

 『易』でも、「吉凶は日によらず人による」という。
 あるいは「吉凶は人によりて日によらず」言って、吉日に悪をなすに、必ず凶なり。悪日に善を行うに必ず吉なりと言うのは、つまり、無常変易の境にあるこの世は、流転変化の世界であり、そこに棲
(す)む人間は心を持っているが、その心は常に不安定で、そこから出るものは総て夢幻である。一時でも安定して変わらないものはないし、何事も不変なものはない。志は半ばにして遂げられず、野望は人の心であって不安定なものである。したがって物はみな、幻化なのである。
 それは総て幻術師によって作り出されたものであり、幻と化、則
(すなわ)ち幻術によって作りだされた実体のないものなのである。
 言い伝えによれば、韃靼の異人がいた。その異人は幻術を能
(よ)くしたとある。そして幻術に魅(み)せられた者は躍ったのである。あるいは躍らされたのである。

 間島は図們江支流の国境の街である。
 欧州からの玄関口に当たる満洲里や、牡丹江・綏芬河
(すいふんが)は東満における対ソ最前線の国境の街になっていた。当時、間島・満洲里・綏芬河は何れも、人口の半分以上がソ連人などをはじめとした人種の入り混じる国際人(cosmopolitan)の街であった。
 一口に、コスモポリタニズム
(cosmopolitanism)といえば聞こえがいいが、世界市民という国家や民族を超越して、全人類を同胞と看做す思想は、要するにワン・ワールド主義者の思う壷であり、そこは人類に自覚症状を与えない人間牧場で管理される地球ということになる。国際化とは既にこの時代に登場していた。
 昨今の国際化の余韻
(よいん)はこの頃からの影であり、その影は、1949年のソ連のユダヤ人攻撃のキャンペーンとなってコスモポリタニズム批判へと繋がって行く。ユダヤ人の学者や文化人を「根なしのコスモポリタン」と非難し、多数の逮捕を出して、ソ連では彼らが投獄され、あるいは粛清されたのである。これは裏側にワン・ワールド主義者の画策があった。

 世界を一つの地球国家と看做す。全人類を同胞と看做す。グローバリズム
(globalism)のはしりである。
 国家や国境を越えて地球全体を一体として捉え、世界市民の世を作り出す。背景には国民主義を捨てて、諸国家は垣根を無くし協同を目指して国際主義へを導く。これがワン・ワールド主義者の世界政府樹立の新世界秩序だった。また通商構造として、国を超えて地球規模で交流や通商が拡大することを目指すグローバリゼーション
(globalization)が世界全体を覆うことになった。経済政策優先を第一に掲げている。
 耳障りとしては聞こえがよく、世界市民主義、四海同胞主義、万民主義、公民主義など様々な美辞麗句が並べ立てられている。
 だが、この世界政府をいったい誰が統括するのか、その権力者は如何なる人物なのか、一言も述べられていない。おそらく意図的に、人為的に一握りのエリート群が出現するだろう。

 もし、このような世界が、一握りのエリートによって支配されたとき、この世界政府形体は永遠に統治されるように盤石を極めるだろう。日本人を含む、普通の一般市民は永遠に人権を奪われ、奴隷化され、厳しい監視の眼に晒されるだろう。現に、国民を監視する総背番号制が確立され、更に犯罪防止と言う名目で巧妙な法律に施行が目論まれている。
 そして恐るべきは、このような国家が一度確立されると、強大な国際連合軍という軍隊と、内部警察機構により監視が厳重になり、一般市民による変革は、もはや絶望的になり、その国民は階級化され、機能化され、結局、家畜化されることになるのである。まさに人間牧場の管理システムであった。このシステム下には巨大な経済組織が絡んでいる。途方もない、天文学的数字の金融を動かせる経済組織である。

 戦前・戦中においては、この実験所が満洲国・哈爾濱に設定されていた。黒龍江省・吉林省・遼寧省・熱河省を支配し、更に港としては国外地の北から浦塩斯徳
(ウラジヴォストーク)・旅順・上海と南下する。裡には亡命白系ロシア人がいて満人や漢人、朝鮮人やユダヤ人がいて棲み付き、それを表面上は日本人が牛耳る。まさにコスモポリタンの国際都市に相応しく、人種の坩堝(るつぼ)だった。
 しかし、弱点はソ連と国境を接していて、満洲からソ連に入ることは難しかったが、ソ連から満洲に入るのは簡単であった。斯
(か)くして人間の欲望が入り乱れる。

 民族、王朝、国家、企業あるいは組織は対外的には強大化を押し進め、内部的には監視の眼を強め、同時に財力と情報を独占し、他者の弱味を握り、堅固なものを構築しようとする。そのために歴史を目紛しく変化させて来たのである。その変化の根底にあるものは人間の欲望である。
 支配者はその欲望を満足させ続けるために、富の収奪と独占を図る。一方、被支配者は、その立場の逆転を狙って、それに拘泥することに執念を燃やす。その原動力も、また欲望である。満洲国ではその欲望が、露骨に燃えた。傀儡
(かいらい)も人間の欲望から起こり、傀儡が逆手にとられてプロパガンダに利用された。


 ─────もし、国境の街・間島上空を両翼に日章旗を付けた『空龍』が旋回したら、どうなっていたであろうか。
 ソ連側から見れば領空侵犯である。高射砲で打ち落とされても、戦闘機の緊急出撃
(scramble)で撃墜されても文句は言えないだけでなく、重大な国際法違反となり、一挙に対日参戦に及んでいたかも知れない。
 『空龍』は離着水訓練のために鏡泊湖に降りた。
 しかしこの訓練予定は、着水以前に何者かによって洩らされていた。それを事前に知ったからこそ、日章旗を掲げたクルーザー型の動力艇が近付き、艇から二人が『空龍』への乗艇を求めてきた。奇妙な二人だった。
 乗艇させた途端、浮標繋留索で“通せん坊”を喰らった。手回しがよ過ぎた。
 索を撤去する条件は、早乙女なる老人から匪賊地域の頭上を『空龍』で二度三度旋回して欲しいと言うことであった。明らかにソ連領への領空侵犯であった。こういう依頼は聞く訳にはいかない。
 アン・スミス・サトウ少佐はこれを拒んだ。もし遣れば、ソ連に対日参戦を早めるだけであった。
 これは対日参戦への嗾
(けしか)けだった。ソ連狐が匪賊問題に絡ませて、早乙女なる老人は巧妙な熱弁を揮って工作を仕掛けたことになる。

 老人の話では、鏡泊湖南東地域の日本人開拓民ならびに朝鮮人開拓民の自治区長である。それに地域の自警団長である。この地域に約五千六百名の両民族の人々がいて、約千四百世帯が暮らしているという。その住人の東南のソ連側に突出した地域の一部の住人が、横暴なソ連人によって食糧や金品を奪われ、時には婦女子が攫
(さら)われるという悲惨な目に遭(あ)っているというのである。それを救うために、一度、盗賊団の棲んでいる匪賊地域を牽制するという。その地域は国境は三ヵ所接した間島上空だった。日本の威厳を誇示することは結局は挑発になることであった。そして飛来と同時に、この話が持ち込まれたのである。

 老人は病んでいた。誇大妄想と売名妄想……。そうしたものに憑
(つ)かれていた。
 しかしである。
 こうしたこと事態を総て含めて、何者かが先に暗躍していた。手の込んだ策を用いた。
 あるいは情報漏洩者は敢えて、このような手の込んだ策を仕組んで、『空龍』を離着水訓練と称して鏡泊湖に向かわせたのだろうか。

 また、老人の背後には黒幕的人物
(fixer)がいることが分った。ロシア正教会のヨシフ神父から、これまで謎に包まれていた“正体暴き”の糸口の発端を聴いた。密偵ゴロの存在があることも知った。脅し屋である。
 この組織は、美少女だけでなく、美少年を飼うという人間牧場を持っていた。つまりこの牧場が、ヨシフ神父が名義貸しをしていた孤児院であった。ここで飼育された少年を“お稚児さん”といった。競
(せ)りに掛けられ、やがて何処かに売られて行くのである。
 早乙女な老人と孟檠は人買いであり、恐ろしい組織の一員であった。

 昭和13年
(1938)3月1日の『朝日新聞』南鮮版には、次のような記事が載った。

 貴婦人を装ふ誘拐魔

─────男女四名を手下に使ひ全鮮から小娘廿八名を誘拐─────

 京城府内の周旋屋を転々盥(たらい)廻しに誘拐した娘の周旋料を稼いでゐた魔の手が鍾路署に検挙され府内の周旋業者を續々(ぞくぞく)召喚取調べ中であるは首魁は慶尚北道山城面李權植(りげんしょく)妻金福順(35年)で同人は夫を捨てゝ京城(けいじょう/ソウル)に出奔、美貌の同女は常に貴婦人を装つて情婦大邱(だいきゅう/テグ)南山町李槇玉(44年)ほか四名の男女を使って昭和十四年十二月三十一日大邱驛の待合室から連れ出した大邱生れ李斗順(當時17年)ほか全鮮にわたり小娘二十八を誘拐し、首魁自ら京城府内の周旋屋に出没。小娘を盥廻しに転々して前記李斗順ら最初十五圓で黄金町某に売られた身代金は二十四軒目の最後の周旋屋で百五十圓に売られてゐた。


 この背景には半島の農村の貧しい娘らが標的にされ、隙を作れば次々に誘拐されていた。
 この組織に絡んでいたのが、ロシア正教会のヨシフ神父の話によれば、密偵ゴロの早乙女と孟檠というのである。この証言は孤児院の保母代わりの江静との話からも一致した。ただ孟檠の名が瞿
(く)という苗字と一致するのか不明であった。孟檠の名は“M”と称されるだけだった。

 老人は最初、鏡泊湖南東地域の日本人開拓民ならびに朝鮮人開拓民の自治区長であることを名乗った。
 加えて、この地域には約五千六百名の両開拓民の人々がいて、約千四百世帯が暮らしていると言った。
 仮にこの話が正しいとしよう。しかし此処に棲む東南地域の一部の住民が、横暴なソ連人によって食糧や金品を奪われ、婦女子が攫
(さら)われるという悲惨な事件、は、果たして事実か。調査した訳でない。迂闊に乗れない話であった。
 婦女子は攫われた後、何処に連れて行かれるのだろう。
 果たして横暴なソ連人によって食糧や金品を奪われているというのは、何を意味するものなのだろうか。
 更に匪賊の行動原理は、背後に欲望があることは明白だが、その欲望の中でも匪賊の支配者が潜在意識的欲望に満足出来ない場合は、その時点で強盗団になって住民を襲うのか。その襲う場合、手っ取り早い方法は武装して武力を使った方が効率的である。簡単に脅しに屈する。では背後には何が画策されているのか。
 そこで、こういう新聞記事があった。『朝日新聞』南鮮版の昭和14年
(1939)3月15日号である。

 二十五名は帰る

─────匪賊に拉致された一団─────

 十二日未明咸北対岸大馬鹿溝で匪首金日成の率ゐる匪団に拉致さてた百四十名のうち二十五名(内地人一名、朝鮮人十三名、満人九名、白系露人二名)は大馬鹿溝本部より西北方五里の一三三高地で露営し十二日午前六時釈放され、同十一時ごろ帰還した。
 釈放された人々の話によれば、匪団は百五十名から成り、うち武装した婦女子七、八名を交わってゐるとのことであるがこの国境治安緊迫のため部落民は避難して警戒中である。


 この記事によれば、匪賊に首領は金日成で、日本人を拉致していたことが分る。朝鮮半島では戦前から外国人を拉致監禁することが常識化していることを、この記事は示している。
 こうした最中、カルト宗教の犯罪も起こっており、その最たる教団に「白々教
(はくはく‐きょう)」が挙げられる。この教団は異常集団であった。
 異常者は自分を異常であると思わない。異常なる幻術から起こる幻覚に取り憑かれても、その渦中にある時は、幻覚を幻覚とは思わない。もし第三者が幻覚だと指摘すれば、これを必死になって抵抗し、打ち消す。それが幻覚だと知るのは醒めてからである。
 この教団は日本統治時代、朝鮮半島に存在したカルト教団である。しかし信者殺害で、朝鮮半島のみならず日本列島内地、更には満洲を含む大日本帝国全土を震撼させた。

 教祖・全庭云によれば、韓国元号光武6年
(1902)に東学の信徒だった全庭云が、金剛山で修行を行い、悟りを開いたと称して、最初「白道教」の名で布教活動したのが発端である。全庭云の説法は「同教団の定められた呪文を口誦し礼拝すれば、無病息災、不老長寿、神仙となり得べし」と教え、その信者獲得の手口は、なぜか満洲国で一世を風靡した在家裡によく似ている。
 布教主はおそらく祈祷性精神病なのだろう。あるいは梅毒で死亡しているから、脳性梅毒の罹病からか。

 在家裡は紅卍会と同じような関東軍に寄附を惜しまない宗教結社であったが、白道教は一万人以上の信者を獲得したのち、奢った。これはオウム真理教が東京都の宗教法人を取得して以来の奢りによく似ている。こうなると、あとは転げ墜ちるだけである。全庭云はこれらの信者から金銭を寄附させて、自らの生活資金に充てる一方、若い女性信者約六十人を篭絡して妾
(めかけ)にした。
 新興宗教でよく見掛ける幹部の構図である。肉欲剥き出しの酒池肉林の構図である。一部の新興宗教では入信するためには“五日間の奉仕期間が必要”などという。奉仕期間とは性交を意味し、性交によって、信者を精神的に縛り上げ、骨抜きにするためである。従わず迎合しない女性信者は、一室に監禁されて酷い折檻
(せっかん)を受ける。暴力を見せしめにして戦慄(せんりつ)させる。定期的な見せしめが儀式化する。儀式のたびに絶対服従を誓わせる。人買いや人身売買組織の常套手段に酷似する。
 白道教では入信した信者は、土地家屋などの全財産を教団に寄進させた。奪うことに徹した。だが官憲のメスが入り、教団活動は一旦は下火になり、鎮火の様相をみせた。終わったかのように見えた。
 だが、舞台を朝鮮半島から満洲へと、その後を継いだ全龍海が、巧みな話術をもって再び盛り返した。この漢が掲げたスローガンは、「朝鮮独立」だった。抗日を打ち出して朝鮮独立を標榜した。だが、あくまで布教と搾取の手段として使ったに過ぎなかった。

 予言をする。神託を受けたと信者に嘯
(うそぶ)く。
 「近い将来、必ず大洪水が起きる。この洪水で甚大な被害が起こり、多くの人が死ぬ。助かりたければ、いまずぐ白道教に入信せよ」と。
 これを聴いた非信者は狼狽
(うろた)え、入信に先を競った。瞬く間に信者が急増した。カルト教団の定番とも言える搾取説法で、信者を急増させてしまったのである。
 だが天網恢々粗にして洩らさず……。全庭云は大正8年
(1902)に脳性梅毒で死亡した。そしてその後、昭和5年(1930)と昭和7年(1932)にこの教団の殺戮事件が相次いで発覚した。実行犯は十年以上の懲役を喰らった。西大門刑務所などに収監され、これによりこの教団は壊滅したかに思われた。
 だが、同教団の二代目教祖・全龍海はなかなかの食わせ者で事件発覚前に逃走し、教団名をあたらに「白々教」として官憲の眼を躱した。半島や満洲の地で、水面下では人買いもかねて復活することになる。

 密偵ゴロの早乙女と孟檠は、この教団に寄り付いた。
 これまで地下にあったものが、浮上して表面に顕われた。鏡泊湖に歴然と姿を顕した。官憲が捜査に入っても信者に「鎮まれ!落ち着け!」の叱咤で、自身への呪文をもって狼狽える信者を鎮めた。鎮めて惑乱する。呪文をもって恐怖と寛容さで、信者を搦め捕ろうとした。
 だが、これまで盛り上がった幻術による幻覚が、再び戻って来る訳がない。しかし諦めてもいない。再び次の手を考える。それを使おうとする。使ったからと言って、別に罪の意識がある訳でもない。自らは幻術の執行者になるだけであった。そして老人・早乙女が次に託すのは、次世代の自分より若い孟檠と呼ばれた青年であった。
 孟檠は早乙女自身が生み出した幻像だったかも知れないが、次期幻覚の支配者が孟檠だった。幻術を遣うらしい。その幻術が老人の早乙女の口を使って語らせ、殆
(あや)うく搦め捕られる寸前であった。
 殆うしである。
 その幻術を見抜いたのが、ロシア正教会のヨシフ神父だったかも知れない。その懸念が大であることをアンと江静に告げた。そして作為を見抜いた。
 以後、何かが怪しい。計略に嵌まっているような気がする。それは日本を滅ぼす大きな計略と思った。その証拠に、密偵ゴロどもが嗤
(わら)っているような恐怖を感じたのである。
 一時期、塗炭
(とたん)というには生易し過ぎる悲惨極まりない危機に陥れられた。緊張の連続だった。

 だが『空龍』のグルーは、この毒牙の鉾先
(ほこさき)を見事に躱(かわ)した。
 執念のほむらが、未明の闇を劈
(つんざ)いて、最悪の自体は免れた。間一髪と言うところだった。
 昨夜は特別だった。朔
(さく)の夜だった。最も危険な状態を捨身で対処した。闇夜が味方した。鵺(ぬえ)を祝福した。

 内外のスパイが関与する常套手段は、古今東西を問わず金・物・色である。これを小道具に奔走する。その奔走は未だに尽きない。奇妙なことだが、この奔走によって、官憲やその他の組織に、職を求める者に雇用を生んでいるのである。

 ちなみにこの当時、徴兵された一般兵科の上等兵の給与は10円ほどだった。
 ところが憲兵上等兵ともなると、補助憲兵の予備期間が終わると、営外加俸や憲兵加俸が上乗せさせられて50円ほどになる。これは師範学校を出た教員あるいは大学や高等学校を出た者の俸給が45円程度であったから、一般兵科の上等兵の五倍の俸給と言うことになる。官憲の俸給は安いと信じられているが、現在でも実際には工作や防諜などの特殊任務に就けば、一般サラリーマンの五倍以上の俸給をもらっている。この種の職業では奔走と立回り次第で、官憲の身分でありながら高給取りになれるのである。そのため警察官が年功序列
(命を張らねばならない勤務に就くこともあるので勤続年数による俸給制度)で俸給をもらうが、陸海空の自衛隊員はあくまで幹部(将・佐・尉)・曹(会社で言えば正社員、55歳退官)・士(アルバイト社員、一期2年)の階級であり、最下位の士は薄給に甘んじることになる。
 また自衛官は衣食住はタダと信じられているが、衣については制服の洗濯代を徴収され、食については毎月定められた食費代を払い、住については管理費などの名目で薄給から差し引かれ、連絡などを受ける携帯電話の支払いは自分持ち、生命保険代も自腹払いで、警察官
(60歳退官)に較べて大きな開きがある。


 ─────『空龍』は新京飛行場の上空を大きく旋回しながら着陸態勢に入った。
 夜はまだ完全に明けきっていなかった。黎明である。
 飛行場には着陸を示す誘導の燈火照明が点
(とも)され、航空標識灯と滑走路端末標識が泛(うか)び上がっていた。この時間でしか見られない黎明の飛行場が一望出来た。搭乗員は全員、安全固定帯(seat belt)をするように指示が出ている。
 この機は臨時飛来機であったが、航空通信士の周波数調整や音量調整が行われ、航空管制塔からの電話通信の遣り取りは活溌であった。着陸許可は既に出ていた。

 機長以下、コックピットのメンバーは針路を調整しながら、降下態勢を維持ししつつ、滑走路に対して並行に機首を向けるように操作した。
 艇内胴体に収まっていた脚が徐々に伸びて来た。高度は百メートルを切った。目標まであと三キロ程か。
 いよいよ接地する。一定段階を飛ぶように駆け降りて来る。別の表現で言えば、天翔
(あまかけ)るように静々と、更に、より近い喩(たと)えがあるとすれば豹のように精悍で美しい降下であった。
 『空龍』は地面に静かに滑り込んだ。この時代、普通なら飛行機は離着陸しない時代である。この着陸は殆ど手探りも同然だった。しかし下手な戦闘機乗りのように、一度もバウンドすることなく滑らかに着陸態勢に入り、徐々にスピードを落として所定位置に停止した。

 航空会社の整備員たちがさっそく整備に掛かる。搭乗扉が開けられる直前、移動式ラップが置かれ、扉が開けられた。エア・ガールに続き、子供九人が駆け下りて来た。やりきれない戦争の最中、この光景は幾らまでも人間性を取り戻す一コマのように映った。ひと時の休息である。こういう光景は戦争がなければ見飽きた風景であろう。しかし戦時にしては稀
(まれ)と言うより、異常なことであった。本来戦争には、子供は戦闘員として加わらないからである。
 この機は実質上は旅客機であるが、一部に軍用機の体裁も整えている。機首には九七式20mm自動速射砲を搭載している。現に、離水時も湖面に張り巡らされた浮標繋留索
(buoy wire rope)を破壊した。そういう飛行機から、非戦闘員の子供たちが降りて来たからである。
 そして思えば、今日で三日目の訓練に入っていた。
 この流れを追えば、一見不規則で無軌道な流れの中に取り込まれているようで、実はある者の意志で、スッポリと嵌められ、計画通りの軌道を進んでいるようにも思えるのである。


 ─────これから作戦『鵺』がはじまる。
 搭乗員は指揮所に集まっていた。
 『空龍』が飛び立つにあたり、石窪拓巳
(いしくぼ‐たくみ)元兵曹長が以外なことを言った。退役下士官だがかつて十五試水上戦闘機の試験搭乗員だった。元海軍航空隊のテストパイロットである。十五試水上戦闘機などの水上艇に乗っていた。その経験から飛行艇の海での弱点を述べた。それは魚雷攻撃を受けた場合のことであった。それも夜襲攻撃であった。
 『空龍』は“鵺”の異名で呼ばれる飛行艇であり、その空輸思想で、二式大艇を改造した四発の大型旅客機である。夜間飛行を特異とする飛行艇である。その飛行艇が夜間に、海に着水した場合して、万一攻撃を受けたらどうなるかという問題提起であった。

 例えば、駆逐艦は四隻で一個駆逐隊を編制する。
 この四隻が右前方、左前方、右真横、左真横の四方からより囲み一斉に魚雷を発射した場合、艦船であればどう逃げても逃れようがない。どちらに舵を切っても何れかの魚雷が命中する。駆逐艦は速力35ノット前後で走行する高速艦船である。小型で小回りが利く。潜水艦ハンターとも言われる。
 海面で、もしこの攻撃に遭遇したらどうなるかということであった。また、これと同じように潜水艦で考えて検
(み)てもいい。この魚雷攻撃を受けら場合、飛行艇は離水にもたつけば、どう逃れようとしても、何れかの魚雷が命中する。驚異の同時攻撃である。逃れる術(すべ)はあるのか。

 日本海軍が大鑑巨砲主義のこだわった艦隊決戦思想の信奉者であったために、小回りが利く小型艦からの攻撃を躱す研究に怠慢だったと言うのである。そのため、これまで幾多の二式大艇が攻撃を受け、米軍の餌食になったと言うのである。当時の日本海軍が航空機をどう使ったらよいか。攻撃成果を最高度に引き揚げるためには、どういう戦法が必要であるかは、それなりに研究したが、多方向からの同時攻撃を、どう躱すかについての研究は疎
(うと)かったと言うのである。

 剣術に譬
(たと)えれば、三位一体の件であり、三者は集中攻撃で、それぞれが強敵の一人に当り、この剣士をどう葬るかの異差攻撃の剣であり、三者は一体になりながらも、個々人は全く別の攻撃をもって強者に襲い掛かるのである。一人は斜め前方から横面を狙って襲い掛かり、一人は右斜め後ろから右脇胴を狙って襲い掛かり、更にもう一人は左斜め後ろから左脛を狙って襲い掛かるのである。この三者が呼吸を合わせて同時攻撃を行った場合、最強と謳(うた)われた剣士は、どうやって身を躱すかということになる。
 もし囲まれれば、この輪の中から逃げ出す以外ないが、もし囲いの策に懸かって、一人でも対峙した場合、一人は倒せても、他二人は葬ることが出来るか疑問の余地があろう。
 その検討や研究は、死神のように音もなく、殆ど意志あるものの残忍さをもって、無慈悲に、無制限に攻撃が繰り返されることも念頭に置いていなければならないという、決して避けられない運命との対峙
(たいじ)の仕方であった。
 今宵の運航指揮官であるアン・スミス・サトウ少佐は、これを聴いて、呆然たる意識の打ち拉
(ひし)がれるのを自身で感じ取っていた。
 無限の時が、困窮と苦痛の裡
(うち)に、小刻みに過ぎ去って行く……。そういう無限に感覚に陥り、ただ唖然として暫(しばら)く表情を無くしてしまっていた。
 そして、それはアン一人だけでなく、此処に居た搭乗員すべてが互いに貌を見詰めていた。
 狂ったような角度から襲われる……。それも単に平面ではない。立体攻撃をもって襲われる猛襲である。時代は平面戦争でなく、立体戦争に入っていた。

 石窪元兵曹長は『空龍』が今夜日本に向けて航行するにあたり、三位一体攻撃どころか、四方向から同時攻撃を受けた場合、どうするかを述べたのである。これは何も海ばかりでなく、空においても同じだろう。
 夜間攻撃機を繰り出され、四方向から同時攻撃を受けた場合、どのように躱
(かわ)すかが、今後の課題になったようだ。日本は日本本土の周囲域上空ならびに満洲上空で制空圏を失っていたのである。
 そして最悪は空と海面と海水面下で、同時攻撃をされれば、早期戦争終結のために生産された『空龍』は敢え無くその役目を果たし終えなくなるのである。
 以降、戦争がダラダラと長引き、大本営の戦争強行派の思う壺となって、「滅びの美学」は、日本そのものを完全に亡びさせてしまう懸念があった。この時点に至っては、既に戦争を強行することは、負け将棋以上に愚行でなく、既に蛮行の域に入っていた。これに早期解決の目処をつけなければ、日本は完全に地球上から消滅することになるのである。

 「自分の役割は、ここまでです」と石窪はこう言って、『空龍』搭乗員に別れの言葉を述べた。
 あとは日本に向けて飛ぶ連中に託されたのである。
 満州に派遣された夕鶴隊の四人は、これまでバカンスとは名ばかりの激務の連続だった。これが平時なら、気のきいた者であれば、つぶしのきく間に転職を考えるだろう。転職できないのは五十歳以上の人生の折り返し点を越えた者であろう。だが、今は戦時である。勉学も転職も許されない時代である。また、そう言うことは考えてもいない。
 そのうえ四人の女性は、自身に何かを賭けたい思いに駆り立てられている。
 もし、今、これに賭けなければ、もう賭けるものは永遠に遣って来ないと思っているのである。
 賭けには男女を問わず、何か永遠のロマンに引き摺り込む魅力があるようだ。心の深層には、平凡さの中に埋もれて退屈な生活をしたくないという思いがあって、何かに向かって駆り立てられているのだろう。四人が四人とも、こう言う人生も悪くないと思う。今まさに生きていると思うのである。その「生」は、ただ長生きするだけの「生」ではなく、何かに賭けて生きる「生」だった。

 その一方で『空龍』は整備に入っていた。
 今晩の「新京発東京行キノ直行便ハ本日、貳参参〇
ふたさん:さんまる/午後11時30分)」の大日本航空Z便に向けてである。
 格納庫では整備作業が行われていた。発動機覆
(cowl)が外され、三菱火星ハ43型改(星形複列18気筒)は剥き出しになっていた。数人の整備員たちが機械に頭を貼付けるように整備にあたっていた。床の上では円筒型の潤滑油冷却器を清掃している者もいたし、取り外した排気管の一本一本を清掃をしている者もいた。床に敷かれた大きなシートの上では、気化器(carburetor)のシリンダー内のガス発生装置を分解し、それらの部品の具合を点検している者もいた。
 彼らの手つきや身のこなしは熟練工のそれであった。此処では万全の整備が行われていた。
 一方、Z便の搭乗員は此処で一旦休憩に入り、しばしの休息をとった。


 ─────その頃、津村陽平と津村隊の軍属の岩村重蔵は、一泊二日で万宝山方面を経由して興安嶺方面に向かい、二日目に入っていた。『空龍』が新京飛行場に舞い戻った頃と時を同じくする。
 津村と岩村は恐ろしく足が速い。何れも健脚である。風のように近付き、風のように去って行く。二人とも一日五十里を歩く天狗足を持っているのである。その天狗足で、二人は興安嶺へと向かった。
 興安嶺は大小の山脈が連峰で東南にのび、大興安嶺は標高千メートルから千四百メートル、小興安嶺は六百メートルから千メートルである。その手前の興安驛から20kmほど離れた丘陵地に居た。旧満洲地図で言うと興安南省である。白城子より白杜線に入る。興安驛を過ぎ阿爾山
(アルシャン)(大興安嶺の南麓)を過ぎて、杜魯爾(トロル)に至り、更に先に進むと外蒙古のノモンハンへと行き着く。此処では関東軍とソ連・モンゴル軍とが国境紛争で交戦し、日本軍は大敗北したところである。歴史には関東軍のモンハン事件と記されている。日本は惨敗し、多くの犠牲を出した事件である。此処で、今は夕鶴隊宿舎の寮母をしている笹山裕子の夫・笹山大二郎少佐も戦死している。

 満洲の夏は短い。
 標高が四〜五百メートルを超えると山腹の樹々は黄色く色づき始める。古木は幾万枚の黄金色
(こがねいろ)の派で彩られる。さながら小判が太陽に照り返したように映る。葉の一枚一枚は、まさに小判と化していた。
 小判の葉は陽に杲々
(こうこう)と跳ね返り、風が吹くと夥(おびただ)しい小判がそよぎ、あたかも黄金の音を立てるかのように砕け散る。陽の光と風がなければ小判の葉は沈黙し、陽が照り、風が吹くと、一斉に騒がしく照り返すのである。
 山の風は、既に秋であった。

 岩村はもと猟師である。山道での足は恐ろしく速い。獣を追って山の中に入り、“マタギ”同然の過酷な生活をし、それで生計
(くらし)を立てていた。獣を捕らえ、その肉を喰らい、皮を剥ぎ、鞣(なめ)して売る商いをしていた。眼もいいし勘もいい。よく稼いだ。稼いだ金で遊郭に繰り出し、豪勢に遊んだ。だが稼いだ金は殺生をした金だった。人間と同じ性(さが)を持つ四ツ足を殺していたのである。
 この殺生を、赤城連峰・黒桧山の山中で、陽平の父・津村十朗左衛門から咎
(とが)められた。

 陽平5歳の時に、父に連れられ黒桧山に入り修行した。
 父は、わが子に一子相伝で、家伝の『津村流陽明武鑑』の方術を教えるためである。「陽明武鑑」は仙術を基盤におく弥和羅
(やわら)の流派であった。
 かの「柔能
(よ)く剛を制す」は元々老子の教えである。道教からきている。何も明治期に嘉納治五郎が創始した講道館柔道の専売特許ではない。嘉納は道教を真似ただけだ。嘉納の学んだ柔術諸流派に老子の教えが存在したわけでない。嘉納の東大閥と政治力が、他武道・他流派の躍進を削ぎ、これを制して、近現代史における柔道の盛会はスポーツ化して普及した結果である。

 津村流は山稽古を特異とする流派である。道場は大自然の天地であった。函物
(はこもの)を構える屋内道場ではなかった。道は天地大自然にある。人智の限られた空間ではない。天地そのものが、道を指導する道場であった。
 その頃、山稽古の最中、黒桧山の猟師の岩村重蔵にであった。重蔵は当時、二十歳になったばかりの若者であった。
 黒桧山の山中で出遭った重蔵は、野袴風の紺の伊賀袴
(いがばかま)を履き、狐狸の毛皮の袖無羽織を着て、筒袖の着物を着ていた。色は黒く、無精髭(ぶしょうひげ)を生やした大男で、太い眉に分厚い唇をしていた。その風体は山賊に見間違うほどであった。
 重蔵の生業は猟師でる。猪をはじめとして鹿、狸、狐、兎などを獲り、時に熊を得物としていた。
 昔ながらに、鉛弾の旧式の火縄銃を遣い、これらは“しし肉屋”に売りに行って換金した。その金で遊郭に繰り出し娼妓
(しょうぎ)を買う。無類の女好きであった。無学だが、頭の回転は早かった。健脚で、それに眼もよかった。得物をよく見る。観察眼がある。その猟は巧みであった。上手く捕らえた。狩猟においては天性の才を持っていた。能(よ)く捕らえ、猟った。そして殺した。
 黒桧山に入ったとき、津村親子は重蔵の猟を見た。しかし綺麗な猟ではなかった。残虐な猟であった。
 大男が風下から得物に近付き、火縄銃を放って猪を射止めていた。見事な大猪であった。それを麻布に包んで背負うところだった。

 「そういう生計を止めたらどうだ」と、十朗左衛門から咎
(とが)めるように言われた。
 それは《これまで充分に殺したのだろ。もうこれ以上殺生を止めよ》と言うことであった。
 これに重蔵は「なに!」と息巻いた。図星されたようで、むきになった。無性に、矮男
(こおとこ)の十朗左衛門に腹が立った。矮男が何を言うかとなった。
 十朗左衛門は目の前の虫を視て、「見ろ、あの虫を……」十朗左衛門が顎
(あご)でしゃくった。
 そこには一匹の虫が蛙に啖
(く)われる瞬間であった。
 頭の回転の早い重蔵は刹那
(せつな)に悟った。今まで見落としているものを悟った。一匹の虫を喰らった蛙はやがて蛇に呑まれよう。そしてその蛇は猪に喰われよう。その猪を自らが鉄砲で撃つ。その猪は、何者かに食されよう。それは自らが啖われることではなかったのか。これこそ廻(めぐ)り合わせというものだと、重蔵は悟った。まさに「輪」でないか。悪循環を繰り返す輪廻の輪でないか。愚かなことだと悟った。
 「どうか、わしを弟子にして下さい」
 重蔵は知らぬ間に平蜘蛛のように這い蹲
(つくば)り、頭を下げていた。額を地面に着けた。瞬時に悔悟したのであろう。これまで幾多の生き物を殺生して来た。それが恐ろしいように思えた。
 「おぬし、命拾いをしたな」
 「確かに……」
 「ならば、この瓢箪を叩いて『般若心経』でも唱えよ」
 十朗左衛門は腰に着けた水筒代わりの瓢箪を惜しげもなく差し出した。
 「こんな高価なものを……」見事な瓢箪に驚いた。
 「構わん。叩いて唱えよ。わが聲
(こえ)と音を神仏の捧げよ」
 「わしは、生涯、このことを忘れますまい」
 斯くして岩村重蔵は津村親子の僕となった。また、これが重蔵との知己であった。

 津村は、いま健脚の重蔵と興安嶺の手前の丘陵地帯にいた。喇嘛教の寺院を訪ねての復
(かえ)りだった。
 ソビエト政権樹立後、帝政ロシア政府の承認を得ていたアルタイ山脈北麓のトゥバ地方の喇嘛教寺院は社会主義体制のもとで殆ど廃絶に等しい状態であり、その一部が興安嶺手前の南麓の丘陵地にあると、星野周作に「記録帳」にはそう記してあった。また同じ内容のことが、重要極秘事項を記した『柳田メモ』にもあった。この共通点を探るべき、万宝山経由でその丘陵地に出向いたのである。その道案内を重蔵に恃
(たの)んだ。
 重蔵は如何なる山も踏破できる強靭
(きょうじん)な足を持っているだけでなく、天性の才として、山での方向感覚に優れていた。霧に覆われた山道にも迷わない。決して方向を狂わせないのである。幾ら天狗足の津村と雖(いえど)も、一人では心許無(こころもと‐な)く、そこで重蔵の登場を願ったのである。
 その成果として、M資金に関しては黒水部靺鞨族に関わりがあることが分った。靺鞨族が鍵を握っているようだった。それは星野の「記録帳」からも明白だった。靺鞨族は渤海国の民の末裔
(まつえい)である。
 渤海国は都を黒竜江省寧安市に定め、この都には上京竜泉府以下、五京があったと言われる。渤海国は契丹に亡ぼされたが、女真の一部は難を逃れて満洲国の各地に散ったという。首長の血筋の一部が二つに分れ、一つは万宝山の丘陵地へ、そして他が鏡泊湖の湖岸に隠れ棲み、これまで細々と血筋を保ったという。その世継ぎの姫が江静
(コウセイ)であり、またその娘の美雨(メイユイ)であった。二人がM資金の鍵という。
 こうして津村はM資金の行方も追っていた。喇嘛教の寺院を訪ねたのは、本命の辿り着くまでの行き掛けの駄賃だったのだろうか。

 「送り狼だ。重蔵、気を付けれ」
 「送り狼だと?」頓狂な聲
(こえ)を上げた。
 「尾
(つ)いて来ている」
 「どこだ?」
 勘のいい重蔵も、津村ほど人間に対して殺気を感じ取ることは出来ないようだ。重蔵は四ツ足に対しての勘は冴えていたが、相手が人間となると些か事情が違った。それに尾行は影の者で、四ツ足とは違う。また津村ほど、武術の腕も持たない。腕力で格闘すれば剛力を発揮して確かに強いが、術は大して使えない。術の面では津村が上であった。そのうえ殺しの術も知らない。過去のことだが、根っからの猟師だった。

 「細作
(しのび)だ」
 「細作だと?」
 「わしら二人を狙っている……」
 津村は先ほどから地面をペタペタと踏む奇妙な音を聴いていた。その音は、眼があるように虎視眈々としていた。
 「なぜ狙われる?」
 「秘密を握っているからだ」
 秘密?……、それはどういう秘密だ?と重蔵は訊かない。訊いても野暮と言うものであった。だから狙われていると悟った。
 「どうする?」
 「暫く樹の上にでも登って遣り過ごすか」これは休憩と言う意味であった。
 要するにこういう場合、左右前後に隠れるのではなく、天地上下に隠れることだが、穴を掘って隠れるには時間がない。そこで樹の上にとなる。
 「ああ、しかし……」
 重蔵は木登りが津村ほど得意ではないのである。左右前後の山や陸
(おか)を踏破し、制覇する足は持っているが、天に向かう高い大きな樹に登るのは余り得意ではなかった。だが一応、登ることは登る。
 「わしの繰り出す縄に掴まれ。先に登る」
 津村は山毛欅
(ぶな)の巨木に取り憑いた。幹の高さは30mもある巨木である。胴回りも3m前後はあるだろう。これを樵(きこり)のように、猿が取り憑いたように、軽やかにひょいひょいと登って行き、5mほど上がって縄を垂れた。これに掴まれと言う意味である。重蔵はそれを伝わって巨木の枝の足場まで来た。

 送り狼……。それも細作という。
 いったい送り狼という言葉が、どこから出て来たかは明確ではないが、“山中などで、人の後を追って来て襲うという狼”というらしい。だが他方の解釈として、狼が鹿などを猟る場合に使われたのではないかと推測する。猟をする狼の心理戦を言っているのであろう。
 狼は足の速い鹿を同じ速度で追うことはない。ただ尾行するだけである。尾
(つ)けて、遠くから窺っているポーズを執(と)る。こうなると鹿は足の物を言わせることはしなくなる。ただ尾いてくる狼が気になるだけである。脚力に自信のある鹿も、狼に尾けられたのでは余裕を無くす。脚力に自身とある生き物は、追われる構図に限り、足の物を言わせることがである。

 ところが、付かず離れずの“ただ尾行するだけ”となると話が違って来る。
 この構図を考えてもらえば直ぐに分ることだ。
 鹿が少し行くと、狼が尾いて来ている。そしてまた、暫く行って後ろを振り向くと、やはり狼が尾いて来ている。精神を悩ます構図である。
 これと同じ戦い方を、当時、抗日運動を展開する八路軍が、日本軍と蒋介石の国民党軍に仕掛けている。
 毛沢東の「一を以て十に当たり、十を以て一に当たる」がこれである。少人数の遊撃隊
(guerrilla)でも、大軍に付かず離れずして、遠くから悩ますのである。日本軍も中国国民党軍も、巧みな心理戦を使う毛沢東の紅軍に敗れたのである。

 鹿は、とにかく狼が気になって仕方ない。尾いてくる狼に注意を集中するが、他の危険には注意を払わなくなる。狼の尾行を警戒することで精一杯なのである。こうなると、仮に人間が目の前を横切っても、気付かないのである。ただ、狼が気になって仕方ない。狼しか見ていない。狼は鹿を尾行して、暫くすると狼は休む。それに合わせて鹿も休む。狼が歩き出すと、鹿も歩き出す。精神的に魅入られるのである。狼の巧妙な心理戦であり、この精神状態は、鹿にとって、まさに恐怖そのものであろう。
 やがて鹿は精神を疲弊し、極度な恐怖で折れてしまう。どうにもならない錯乱状態に陥る。その結果、あっさりと殺
(や)られてしまう。狼のしたたかな心理戦である。

 狼は人を襲うと信じられているが、実際には人を襲うのではなく、草食の四ツ足だけを襲うという。標的は家畜である。人間は襲わないとされる。
 山村地域で、狼にであった人間が経験したと言う話によると、狼が何の目的があるのかは分らないが、人家の近くまで送るという。人間を家の近くまで送って来るというのである。
 おそらく、これが“送り狼”という言葉になったのであろう。したがって狼が、送って人間に危害を加えるなどの話は、実際にはないようだ。あるとしたら別の意味であろう。つまり、飢えた狼と穴の中で、鉢合わせしたときなどである。
 狼は謎の多い生き物であると言う。俗説は多いものの、実際にはその真相は不明なのである。

 津村と重蔵は山毛欅の巨木に取り憑き、8mほどを登り、そこで休憩をした。牽制であり様子見である。
 送り狼は細作という。細作であれば樹にも登ろうが、急所である頭上を丸出しにして、下から登って来る細作は居まい。細作も遣り過ごして、樹の上で静かにしていれば、荒立った動きはみせないものである。その習性を、津村は兵法から学んで、落下の原理をよく心得ていた。

 このとき津村はこんもりした丘陵の山里にある喇嘛寺で、ある奇妙な地図を手に入れていた。
 仏像の蓮花坐と組み合わされたように隠し貼りされていた。入手したものは歓喜
(かんぎ)天双身仏と畳まれた地図であった。地図には何らかのメッセージが込められていたが、今は分らない。後の解読が俟たれた。
 津村陽平は、養父・星野周作が記した「記録帳」を頼りに、ある喇嘛寺を訪れた。
 星野記録には「その喇嘛寺の僧を訪ねよ」とあった。預けたものがあると記していた。それは奇妙な仏像だった。高さ30cm、直径10cmほどの舎利塔を模した黄楊
(つげ)の厨子の中に包まれて、丁寧に安置された仏像であった。
 仏像は高さ6cmほどで、珊瑚
(さんご)・瑪瑙(めのう)・象牙・黄楊・黒水牛の角・獣骨などを組み合わせて一部色漆を塗り、毒々しい原色が施されていた。複雑な仕掛けと彫刻と塗りによって、精巧に作られた男天魔王と女天十一面観音の歓喜天双身仏であった。
 おそらくこれは支那のものでなく、日本人の根付師によって、江戸中期頃に作られたものであろう。

 根付は巾着
(きんちゃく)・煙草入・印籠(いんろう)などを帯に挟んで提げる時、落ちないようにその紐の端につける留め具である。根付の主題は中国の仙道や日本の古典もので、獅子、狼、獏(ばく)、鳳凰、龍、麒麟(きりん)、人形、仙人、三国志などの武勇伝、十二支の動物などに及び、根付であるから総ては小ぶりの細工である。
 それでも高価なものは、金子
(きんす)にして五両前後した。最上作の根付師が彫ったものは十両を超えたという。したがって高さ6cmと言えば、根付としては大振りである。こんな大きな根付があるわけがない。
 だがこの仏像は、根付としては作らたものでない。
 意図は別にあった。
 ある特定の目的をもっていた。誘導があった。
 作は見事だった。複雑に組合せて、根付師の巧みなる細工が施された仏像であった。この種の物を「からくりもの」とか「しくみもの」という。絡繰人形のよなものと思えば分り易いだろう。
 仏像には主題が掲げられていた。それも喇嘛教から採
(と)ったもので、何者かの注文者がいて、故意に作らせたものであることが窺われた。だが明確なる意味は分らなかった。これには解読する作業が必要だった。
 津村陽平は画家である。
 画家の眼から検
(み)て、仏像には何かの意図があって、作者はこれを彫り上げたと鑑(み)たのである。見事だが、意図もある……。そう読んだのである。

 歓喜天は仏教の護法神の一柱である。
 ヒンドゥー教のガネーシャ像が仏教に入ったもので、障害をなす魔神を除去し支配する神とされ、また群集の長
(おさ)であり、富の神を顕し、財宝・子宝・安産を祈るために祀(まつ)られる神である。
 形像は象頭人身で、単身像と妃を伴う男女双身像がある。妃は、十一面観音が魔神としての働きを封じるために現した化身だという。この奇怪なる仏像を日本の根付師が、精巧な細工を施しているのである。
 恐ろしいほど毒々しく、密画的で、女尊と男尊が絡み合う態
(ざま)はリアルで、女陰から男根を伝わって溢れる愛液の滑りも、実に生々しく表現された仏像であった。男尊は自分の腰に抱きついた女尊の女陰を、怒張して黒光する男根で、下から天に向かって深々と貫いていた。
 男尊も女尊も牙を剥き、唇を合わせて引き寄せている。男尊の背後には扇状に多数の腕が広げられ、それぞれの手には独鈷杵
(どっこしょ)や宝珠(ほうじゅ)などの密教の法具類が握られていた。二天の装飾品と言えば梵天(ぼんてん)の首、尻から串刺しにされた人間、数珠つなぎにされた人間の髑髏(どくろ)などの気味の悪いものが纏われていた。二尊の貌は忿怒(ふんぬ)とも、歓喜ともつかぬ観相をしていて、何とも奇妙な違和感を覚える仏像であった。

 星野の「記録帳」には、命令調で〈確固タル礼ヲ尽クシ、金百圓デ払イ受ケヨ〉とあった。百圓と言えば大金である。その大金を星野周作は用意して、記録帳とともに津村に後を託して渡したのである。
 この仏像は星野が以前、欧州伊太利亜
(イタリア)に出向いた際、メディチ家の蒐集品(collection)にあったものを、ある日本の古物商を介して、当時、壱萬圓もの大枚を叩(はた)いて手に入れたものであった。星野の記録帳はそのように記されていた。
 当時の壱萬圓といえば豪邸が買える金額であった。この歓喜天双身仏を欧州で入手し、帰満したあと興安嶺山中の喇嘛寺に預けたと言うのである。百圓は保管料だと言うことであった。
 喇嘛寺の僧は凰蓮
(おうれん)といった。男女の性別がはっきりしない僧であった。弁慶のような白い頭巾を被り、男僧として法衣は纏っているが、男と言うには筋肉の逞しさに欠け、尼僧といえば、衣の下に美貌を隠した女人のようにも見える。眼には光芒(こうぼう)を含み、妖艶なるものを漂わせていた。この僧については後ほど語ることにする。

 さて、メディチ家といえば歴史も古く、ルネサンス期のイタリア・フィレンツェにおいて銀行家であり、伊太利亜だけでなく欧州でも有数の大富豪であり、また政治家として当時、擡頭した旧家である。フィレンツェの実質的な支配者として君臨し、後にトスカーナ大公国の君主となった一族である。
 メディチ家が所有する財力は潤沢であり、多くの芸術家を育てたこともで知られる。
 例えばレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、ボッティチェリなどの多数の芸術家を庇護者
(patron)として支援し、ルネサンスの文化育成に大きな貢献を果たしたことでも知られている。
 だが歓喜天双身仏が、何故メディチ家の蒐集品にあったか不明である。誰によって齎されたのかも皆目検討がつかなかった。そういう記録がない。
 仏像の左右前後を見回した。合わせて天地上下を検
(み)た。そして津村はおや?と思った。蓮華坐の裏には奇妙な地図が、坐と組み合わされたように隠し貼りされていた。底板部の蓮花座を外すと、その中から折畳まれた小さな地図が出て来た。

 津村が満州に来て様々なものを蒐集したが、あとは日本に持ち帰って長けた者に詳細に分析してもらうしかない。津村としては複数の専門家の多角方向からの意見を聞きたいところであった。暗号文もある。これを解読するには、言葉の解読だけでは駄目である。暗号解読に通じた数学者をはじめとして言語学、地文に通じた地理学、考古学、歴史学、心理学、理工学、医学などに通じた幅広い複数の学者から意見を求めなければならなかった。その結果、意見を束ね結論を導かねばならない。古老の智慧も欲しい。単に当てずっぽで生齧
(なま‐かじ)りの素人見解では、難解過ぎて全く歯が立たない代物だった。とにかく難解過ぎた。
 大日本航空Z便の『空龍』は本日午後11時30分に飛び立つ。それまでに新京飛行場に直行することであった。興安驛を経由して一刻も早く、白城子驛に辿り着かねばならなかった。
 だが、山中の復
(かえ)り途(みち)で、細作の送り狼に遭(あ)った。さて、どうする?……となった。


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