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続々 壺中天・瓢箪仙人 15

吉田松陰は『陽明学』の「まごころ」を至誠と検(み)ていた。
 この見解は、まさに正しかった。
 既に論じたが、「己に倹にして、人に倹ならず。是を愛という」の示す通りである。
 自分に対して厳しく、更に私生活には切り詰めて、決して贅沢をしない。
 一方、他人に対しては寛大である。切り詰めた生活をせよとは言わない。自分の方が与えても、人には寛大であることを望む。したがって人が蹤
(つ)いて来るのである。

 これが逆に「己に倹
(つづまやか)ならず、人に倹なる」となれば果たしてどうだろう。「是(これ)を吝(ものおしみ)という」と、指弾しているではないか。
 出し惜しみを、「殆
(あや)うい」としているではないか。
 人望を失い、人を失うからである。
 吝嗇
(りんしょく)こそ、人生の最大の敵であり、判断を誤らせるばかりか、自分の命運すら、早々と尽きさせてしまうのである。
 (写真は当時見たものと無関係で、平成27年10月10日、陸上自衛隊西部方面隊駐屯地の目達原駐屯地上空で筆者撮影)


●決死の救出劇

 日章旗を掲げたクルーザー型の動力艇が『空龍』に急接近した。この艇(ふね)には三人が乗艇しいて、艇からは《ワレ接舷ナラビニ乗艇求ム》の手旗信号が送られてきた。果たしてこれは、混じりっけなしの歓迎なのだろうか。
 機長は、接舷ならびに乗艇を許可した。この許可は安易ではなかった。何かを察してのことだった。
 これまでの経緯を考えると、妙に込み入っていて、至る所に仕掛けがあり、それを暴
(あば)くために、アンには一つの意図があった。その心境は“虎穴に入らずんば虎子を得ず”である。仕掛け若しくは罠を暴(あば)こうと言うことであった。

 「投錨(とうびょう)!」機長令である。
 機首に装着されている錨
(いかり)が直ちに降ろされた。
 この機には着水した際、着水地点から流されて移動しないように、長時間留まる時は、投錨機から錨が降ろされる構造になっていた。飛び立つ時には巻き上げて、抜錨
(ばつびょう)できる装置が設置されている。これが機首と艇尾に、それぞれ一基ずつ設置されているのである。
 着水時、東北の牡丹江方向から侵入し、機は西南方向に機首を向けて停泊した。投錨は機首からのみ打ち込まれた。艇尾からは降ろされていない。機が固定されてしまうのを嫌ったからだ。
 鏡泊湖は牡丹江が堰
(せき)止められて出来た湖だが、ゆっくりと東北方向に廻流(かいりゅう)している。水流は動いて回遊しているようだった。
 また発電所付近は堤防のような水路の堰となって、湖水があたかもナイアガラの滝のようになって瀑布
(ばくふ)しているのである。つまりこの湖は堰止め湖であるにも関わらず、回遊する水流が起こっているのである。長時間停泊においては、投錨は適切な措置であったといえる。

 このとき石窪元海軍兵曹長が妙なこと言った。
 「自分ら水上機パイロットは最終点は陸
(おか)です。着水時は借りの場所。警戒を怠ってはなりません」
 尤
(もっと)もな言である。着水した箇所は動いていて、その場所が不動の場所でないからである。不安定という意味がある。動いているため投錨時は敵への警戒と哨戒の任が大事であることを言ったのである。
 これを直ぐに理解したアンは「総員、管制配備!」を命令した。持ち場に就いて、見張りを厳にし、万全な態勢を図ることだった。それは「斥候
(ものみ)を怠るな」という意味でもある。
 更に副操縦士の向井田陸軍上等兵に命じて、機内通話の電話回線を開かせ、各員は持ち場を離れることなく受話器でコックピット間の連絡を密にするよう命じたのであった。

 「通信士より機長へ。暗号電報であります」航空通信士の加納信也である。
 「読め」
 「発、タカ。宛ヌエ。《狐ノ塔カラ黒真珠ハ取リ返シタカ》であります」
 タカとは指令者のことであり、ヌエとは『空龍』の指揮官のことである。
 これを聴いて、アンは狐?……そして黒真珠?……の二つの暗号文に疑問を抱いた。
 暗号であるから、一読しても解らない。通信士の言った暗号文朗読が機内に流れ、乗員は今の暗号内容を聴いたのである。
 「キャサリン。これ、どう思う?」キャサリンは暗号解読の専門家で、また数学者である。
 「塔は何かの二階建て以上の建物で、そこに誰かが匿われているか、あるいは幽閉されている……、じゃないかしら」
 「では、狐は?」
 これに直ぐに即応したのが、ミヤ・スコロモスカだった。彼女は満洲国治安局諜報員でる。
 「それはソ連狐のことです」
 この場所にソ連の工作員がいるという意味であった。


 ─────これより数分前である。
 鏡泊湖に着水して、佳奈が猛スピードで近寄るクルーザー型の動力艇が日章旗を掲げて接近している旨を報告し、次に良子が艇尾展望台に急ぎ、舟艇から手旗信号を読んで、再び持ち場に戻るときであった。
 「あのッ……。お嬢さま、いいでしょうか」佳奈が良子に訊いた。
 「やめてよ、佳奈。こんなところで、お嬢さまはないでしょ。人に聴かれたら拙
(まず)いじゃないの。満洲くんだりまできて、鷹司の侍女官役まで遣らなくていいのよ」良子の家は宮家だったからである。そして佳奈は鷹司家の侍女官だった。
 二人は『臨時徴用令』で第三十五師団
(関東)佐倉歩兵二百二十一聯隊に徴用され、任務で、いま満州国に来ていた。
 「では、班長殿」
 「それもちょっと変ね。何かあったの?」
 「訝
(おか)しいと思うのです」佳奈が頸を捻った。
 「なにが訝しいの?」
 「あのクルーザーですよ」
 「どういうこと?」
 「あの舟艇、なにか訝しい」
 「訝しいって?」
 「あれは確か……、わたしの記憶に間違いないければ、ソ連が鹵獲
(ろかく)した日本海軍の内火艇か、あるいは日ソ中立条約に基づく、日本からの援ソ物資か?……と思います」
 「内火艇?……つまり内火艇というと、内燃機関を搭載した小型艇
(launch)のことねェ」

 この当時の日本海軍では、内火艇の“内火”とは内燃機関の舟艇をこのように呼称していた。小型舟で4屯から20屯クラスの武装艇である。
 「そうです。あの艇は内火艇の舟形フロート部分だと思います。原
(もと)は二式軽戦車の土台を流用したもので、これにフロートを付けた水陸両用艇だったものを、今はフローロ部分に櫓楼台やぐら‐ろうだい/屋根のある建物)を付けたものかと思われます」
 「詳しいわね。では、下の土台
(二式軽戦車)はどうしたの?」
 室瀬佳奈は、陸軍参謀本部にタイピストとして出仕している明大女子部英文の中川和津子と山田昌子から、海外の軍事情報などを聴かされていた。また彼女たちも、参謀本部で本部課員たちが話す内容を自然の小耳に挟むのであった。それを、時として帰宿した後、気心の知れた連中に話題にすることがあった。佳奈には彼女たちの話す内容が、自然と大脳皮質に記憶された。あるいは佳奈に故意に聴かせていたのかも知れない。
 この二人から、「あなたは虚空蔵菩薩にたいね」と言われたことがあった。記憶の宝庫という意味である。
 虚空蔵菩薩
(梵名アーカーシャガルバ)とは、虚空のように広大無辺の福徳と智慧を蔵して、衆生(しゅじょう)の諸願を成就させる菩薩のことである。広大な宇宙のような無限の智慧と限りない慈悲を持つ菩薩である。胎蔵界曼荼羅(たいぞうかい‐まんだら)虚空蔵院の主尊で、智慧の宝剣を顕し、無尽蔵の記憶の庫(くら)を指す。おそらくこの二人は、佳奈の記憶力の凄さを買っていたのであろう。
 そのため佳奈は、兵器や敵国情報に自然と通じてしまったのである。

 「キャタピラー部の車体は、湖まで運ぶためだけに遣われたと推測しますが、その部分は谷下から、この堰止め湖の位置に運ぶだけで役目が終わった。あるいはその部位は、その後の保守ならびに管理
(maintenance)が出来ず、舟にするフロート部分だけを、今は使用しているのではないかと思います」
 「いい見解ね。では、あの艇の主
(ぬし)は?」
 「土竜か、狐かも?……」
 「まさか。そんな根も葉もない冗談はよしてよ」
 良子もこのときは、そのように聞き流していた。しかしいま気付くと、あながち冗談なんかでなく《もしかすると》に変わっていたのである。あるいはそうかも知れないと思うのであった。

 「鷹司伍長より、操縦室
(cockpit)へ。急接近の艇(ふね)は日本海軍の内火艇の疑いあり」
 「それはどういうことですか?」アンが訊き返した。
 「日本艇の鹵獲物か、あるいは日本からの援ソ物資では?……と、室瀬兵長の見解です」
 昭和19年7月末、日ソ中立条約は公然と生きていた。ソ連の援ソ物資は英米の連合国側ばかりでなく、日本からも少なからず援ソ物資が送られていた。それを考えれば、この地に日本海軍の二式内火艇があっても不思議でない。しかし、それは誰によって此処に齎されたかと言うことになる。ソ連狐か土竜だろう。
 すると此処の住民には親ソ連が居るのであろうか。あるいは狐が土竜を飼い、土竜が狗を手懐
(て‐なず)けていると言うことであろうか。

 「では、暗号文の黒真珠の意味を皆さんで考えて下さい」
 そのとき佳奈が、はッ?とした。《もしや、美雨
(メイユイ)の瞳を指しているのではないか?》と思ったのである。彼女に瞳は黒真珠のように炯々(けいけい)としていた。だがそれは鋭さのそれではない。彼女独特の慈悲と謙虚に窺われ、更には温情と涵養(かんよう)から来る瞳の徳の潤い烱(ひか)りであった。それがあたかも黒真珠のように映るのである。誇り似たようは輝きがあった。それを佳奈は想った。
 人はすべて遺伝をベースに、そこで育った環境によって作られる。人間形成がされる。その事実は遺伝は動かし難い。しかし環境は、後天の行いで、よくも悪くもなる。
 美雨の場合は、どうだろう?と佳奈は思う。
 美雨は、これまで恐ろしい最悪の環境の中で育った。それでも、悪環境に染まらなかった。つまり俗の中に居て、俗に染まらなかったのである。美雨にはそういう性質があった。これを佳奈は先祖からの遺伝だろうと思った。その遺伝が、彼女の瞳の黒真珠に象徴されていた。

 「黒真珠とは、美雨
の瞳のことではないでしょうか」佳奈が受話器を取って告げた。
 「でも、訝
(おか)しいわね。彼女は昨日憲兵隊に連行されたのでは?……。その娘(こ)が、どうして鏡泊湖に居るのかしら?……」
 「美雨は万宝山の丘陵地の寒村の出で、母親と二人暮らしと聴いていましたが……」
 「万宝山?……。でも鏡泊湖とは方向が違うし……。で、キャサリンはどう思う?」
 「万宝山と鏡泊湖。この二つは、どこか繋がっているように思うのですが」それは繋がるようにした者が居るという意味であった。彼女も未だ思案中であった。
 この報告を聴いて、アンはその共有点を探そうとしたが、泛
(うか)び上がってこなかった。前途は謎の包まれていた。

 「舟艇が接近します」搭乗扉付近にいる良子だった。
 「搭乗扉開放。総員は引き続き哨戒配備を厳にせよ。なお接待員を編制する。川田乗務員を長
(chief)に、ミヤとアニーは乗艇客のお持て成しの用意を」
 それぞれは、自分の持ち場の受話器を取って、「諒解しました」の確認を返答した。この機には調理室が設えてあった。機内食や飲み物が提供出来るのである。

 アンはなおも、この状況の近未来を思索していた。
 接舷と乗艇の選択は果たして間違いだったのか?と。しかし、それにしても訝しいと思うのであった。
 日章旗を掲げた舟艇は、『空龍』が着水と同時に猛スピードで接近して来たのである。これは事前に準備していた行動でなければ、こういう即興は出来ない。ということは、この湖に最初から飛行艇が着水をするということを知っていなければならない。果たしてこれは、単なる情報洩れか、あるいは敢えて、誰かが情報を漏らしているのか?……。
 では何のために?……となる。

 もし情報洩れとなると、誰が洩らしたのか。また、敢
(あ)えて情報を敵陣に漏らしたとすると、その洩らした相手は『タカ』の上層部と言うことになる。それは今日の飛行計画(flight plan)を知る者と言うことになる。その上層部とは『梟の眼』機関長の甘木正広少将か、あるいは、もっと上の誰か……ということになる。
 暗号電の意味は、狐が黒真珠を匿うか、拉致
(らち)して幽閉している。その何(いず)れかだ。
 暗号電では「黒真珠ハ取リ返シタカ」だった。それは、取り返すための任務を謳
(うた)っているのか。
 もし、そうならば、狐の罠に嵌まってみるしかないと思うのだった。しかし、いったい黒真珠は、誰を指すのだろうかと思うのであった。

 アンは機内回線を通じて、もう一度キャサリンに訊いた。
 「キャサリン。黒真珠の意味、解読できた?」
 「もしかすると、同じ瞳を持つ人では」と直ぐに返事が来た。
 「すると、美雨の母親……ということかしら?」
 「そう考えられます」
 「では、どうして万宝山と鏡泊湖の位置関係を説明するの?」
 「それは簡単ですよ。此処まで、何者かによって連れて来られたからです」
 「というと、美雨の母親はもう万宝山に居なくて、今は鏡泊湖に居るということなの?」
 「ご名答」
 アンの肚が据わった。ますます“虎穴に入らずんば虎子を得ず”を確信した。乗り込むべきである。彼女はそう思う。
 「これより機内電話回線を封止する」
 この指示は、報告は直接担当者の耳許で囁
(ささや)けという意味だった。

 動力艇は『空龍』の左舷乗降口にスピードを落として接舷した。この機には左舷に乗降口が二ヵ所ある。前部と中央部である。その乗降口の中央の水密扉が開けられた。艇の発動機は低速回転をして接舷準備を始め、鉤竿
(かぎざお)で艇の引き寄せに懸かった。
 機内に湖特有のやさしい風、これまで忘れかけていた懐かしい風、潤いある暖かい風、そして青い空が一度に入り込んで来た。暫
(しばら)く忘れていた懐かしさが訪れた。水村山郭の風景である。
 左舷乗降口に居た良子は、思わず《本当に今日はいい天気……》と思って、背伸びしてみたいような衝動に駆られていた。風光明媚
(ふうこう‐めいび)とは、こう言う景色を言うのだろう。彼女はそう思った。

 艇がエンジンを停止した。その後『空龍』の真横にぴったり接舷され、艇から路板
みちいた/渡し板)が延べられ、機の乗降口に架られた。そして乗降口の両端にある把手フックに、手摺代わりのロープが張られた。
 艇からは、シルクハットにモーニング姿の老人が路板を渡るところであった。老人は久々の日の丸を観て、感に耐えないという表情であった。しかし、それは素振りだろうか。70歳前後の小柄な老人だった。
 その老人の付添え人が、湖水に顛落
(てんらく)しないように手を取っている。老人は確(しっか)りとした足取りで渡り終えて機内へと入った。
 連れの者は一人が後に付き、もう一人は艇に残ったままであった。彼らは赤く日焼けした貌で、目深に戦闘帽を被っている。そのため貌の表情はよく分らなかった。あるいは貌を見られたくないのかも知れない。

 老人は機内に入って先ず、まず徐
(おもむろ)にシルクハットを脱いだ。
 居並ぶエアガールたちは、愛想のいい笑みを泛べて客人を機内に向かえた。
 老人と付添えの青年は機内に案内されて、その内装に驚いたように眼を丸くしていた。これが日本の飛行艇なのかと言う驚愕の貌だった。
 「いや〜、これは驚いた。まるで御殿のようで、まさに『あじあ號』の特等席ですなァ」と驚嘆しながら、「自分はこの地域の自治区長で自警団団長の早乙女均
(さおとめ‐ひとし)であります」と名乗ったのである。更にその言に続いて、「あのッ、この飛行艇の司令官殿はおられますかな?」と訊いたのである。
 「先ずはこちらへ」川田民絵が客人と付添えの青年を艇尾展望室へと案内した。
 老人は展望室に入って、更に驚嘆したような聲
(こえ)を上げた。
 「結構な貴賓室を備えた大きな飛行艇ですなァ」
 「本機は旅客機で御座います」川田が説明した。
 二式大艇改だが、戦闘をするための飛行機ではない。それを川田は強調したのである。
 老人は恐る恐る総革張りのソファーに、シルクハットを膝においてゆっくりと腰を沈めた。しかし、青年はソファには坐らず、老人の後ろに立って、身辺護衛人
(bodyguard)のポーズを崩さなかった。

 エアガールたちは、最初“湖の真中に勝手に着水したことへの苦情だろうか”と最初に思ったのである。それぞれは“区長さんの苦情”と最初考えてみた。
 しかし直ぐにそれは否定された。
 モーニングにシルクハットでは、苦情が余りにも、この場にそぐわない。一種の歓迎だろうか、それとも何かの陳情だろうかと思うのであった。何
(いず)れを考えても、この動きは早過ぎると思うのである。何か魂胆があるのだろうか。
 老人に付添って乗艇してきたのは、日本人以外の東洋人の青年であった。目付きが鋭く、隙のない漢のように思われた。この青年を横から観察したミヤ・スコロモスカは、自分と同じような闇の匂いがすると感じ取っていた。満人のソ連から送られた逆スパイか、それとも間島辺りに棲む朝鮮人かと思うのであった。どうも味方ではないように思うのである。とすると、これは何かの罠であろう。それも、歓迎を模した巧妙な罠?……ではと。
 あり得るかも知れないと彼女は思った。

 早乙女と名乗る老人が青年に付き添われて、エアガール三人と艇尾の展望室に移動した際、他の乗務員は一旦操縦室に籠
(こも)った。内輪の秘密会議である。
 「これって、なにか訝
(おか)しいと思いませんか?」と、それぞれの貌を窺いながらアンが訊いた。
 「どこが訝しいというのです。おそらく、われわれの歓迎でしょう」航空通信士の加納信也である。
 「そうでしょうか?」アンが切り返した。
 「と言われますと?」その根拠を訊きたいと航空機関士の明石洋之は迫った。
 「機長。あれ、見てください。まずいですよ」副操縦士の向井田亮介だった。
 そういわれて、全員が湖面に視線を走らせた。
 「あッ!あんなこと始めた。これでは飛び発
(た)てません」鳥居元海軍一等飛行兵曹だった。《とうとう奴さんらは、本性を現したか》という瞳に怒りを滾(たぎ)らせた言い方である。

 それは『空龍』の周囲に、対岸から出て来た漁師のような集団が小舟群を走らせ、浮標繋留索
(ふひょう‐けいりゅうさく/buoy wire rope)を張り始めていたからである。浮標は約3m間隔で取り付けられ、繋留で連結されていた。これでは飛行艇は離水できない。飛行を妨害しているのである。狂暴無慙な蛮行。まるで飛行機ごと拉致(らち)されたという感じであった。
 「着水早々、これですか」アンが吐露した。
 「どうします、機長?」《こんなことされては困ったものだ》と向井田が言った。
 「ここは一つ、この地域の人の歓迎だと思えば、別に肚も立ちませんわ」
 「あれが歓迎だなんて、そんな呑気に構えていいのですか?」優男の鳥居一飛曹だった。
 「ねえ、ぼく……。こういうとき、ぼくだったら、どういう奇手が出て来るかしら?」アンが験
(ため)すように訊いた。
 この言葉の裏には、《きみは東大出のお利口さんなんでしょ。そして、独逸に留学経験も持っているんでしょ。航続距離アップの燃料タンク改造に関する論文を書いて、ゲーリング元帥から騎士十字勲章を授かったんでしょ。海軍省の赤煉瓦向きの頭脳から、さて何が出て来るのかしら?》という意味が含んでいた。
 「ぼくの見解としては、方位、風速、偏差、開距離、自速、針路交角など、あらゆる必要データに従えば、『これでは離水できませんよ』などと言ったら、少佐殿の誘導尋問の掌の上で躍らされる孫悟空になってしまいます。結局、莫迦扱いです。しかし、そう思われるのも悔しい限りですなあ……」
 「そこで、ぼくはどうしたらいいと思う?」アンが赤煉瓦向きの優等生を茶化すように訊いた。

 「一つ手があります。この機の機首には20mm自動速射砲1門が搭載されています。この砲は連装式で、自動的に対象物に照準を合わせて、内視式の赤外線で標的を捕捉し、独立射撃することが出来ます。これまでとは違う改良型です。機の前方を塞ぐ浮標と索をこれで撃ち破り、その隙
(すき)に発動機全開で湖面から離水するという手はどうでしょうか?」
 「その手は、奇手とは言い難いわね。まァ、百点満点中50点というところかしら。合格点とは言い難い、立派な赤点です。何故かと言うと、だいたい機関砲の砲弾が、一体どこにあるというの?……。本機は丸腰の試験飛行ですよ」
 「ああッ……」《そうだった、やはり駄目か……》という嘆きを発し、鳥居一飛曹は頭を抱えた。

 吉報を齎した少女がいた。
 「あのォ……」と遠慮気味に切り出したのは佳奈だった。
 「なあに?」
 「わたし、昨日ですね。美雨の件で満映の監督さんから、彼女が馘
(くび)だと叱られて、津村先生から取りなしてもらった後ですねェ。そのあと監督さんから、《困ったことがあったら、この御守袋を開けろ》と言われて預かっているんです。それまでずっと首に掛けていろといわれました」
 これを聴いて、アンはそのとき、津村の説得で、猪口を鎮
(しず)めたのではないかという気がするが、それにしても……と思うのであった。そもそも猪口という漢の正体が解らないのであった。

 「確かにそう言ったのですね、困ったことがあったらと?……」アンが訊き返した。
 「はい」
 「確かに、いま困っているわよねェ、あのぼくのように頭を抱えて……」と言って、鳥居の方を顎
(あご)でしゃくった。
 「そうです、困っています」
 「じゃあ、開けましょう」
 佳奈が首から御守袋を外して開けと中から一本の鍵が出て来た。
 「鍵です」これは何の鍵だろう?……と佳奈は思った。
 「それ、鍵ねェ……。どこの鍵かしら?」
 「あッ!それは武器庫の鍵です。武器庫は、ぼくが設置場所を決めたから、これがコックピット前部の自動速射砲射手の坐下部にあります。しかし離陸前、砲弾は誰かが装填したのかな?……」《あるいは、それ以前から装填されていたのか?》と鳥居は首を捻るのであった。《しかし、なんで満映の監督が?……》と思うのであった。
 更に奇妙なことがある。
 それは『月下の翼』と題したポロパがンダ映画を、昨日まで集中して撮影していたのに、今日はどうしたことかと思うのである。深夜、スパイ騒ぎあったにせよ、あれは奇妙な捕り物騒ぎであった。関係した担当者の頸を挿
(す)げ替えれば済むことである。それがどうしたことか、今日は全くカメラが廻ってない。撮影を予定にも含んでいない。また此処にはスタッフたちを随行もしていない。これ自体が奇妙であった。
 この先、どういうシナリオが用意されているのだろう。アンはその推理に思考を巡らした。

 「でも、鍵は武器庫の鍵でしょ?」
 「サトウ少佐殿。満映の猪口さんという人は、いったい何者なんでしょう?」副操縦士の向井田が頸を捻るように訊いた。不可解だと言う貌だった。
 「さあ、何者なんでしょうね。しかし小物ではなさそうね……」
 「どういう意味です?」航空機関士の明石だった。
 「だいたい、こういう手の込んだ仕掛けを考えるんですもの。策に通じていなければ、こういうことは出来ませんわ。わたしたちは戦争をしていることを忘れてはなりません。しかし自ら進んで戦争をしたい訳ではありません。むしろこの戦争に歯止めを掛け、早期戦争終結のために、いま戦っているのです」
 「では、これは何かの意図あって、故意に仕掛けられたというんですか?!」烈しい口調の航空通信士の加納であった。
 「そうらしいわね。皆さんで智慧を出し合って推理してみて下さい。いい答えが出たら教えて下さいね」
 アンは呑気というか、楽しんでいるというか、他人事
(ひとごと)のように言うのであった。そして思うのであった。もしこの問を津村陽平が考えた策だとしたら、この設問に対して、どう解答を下すか思考してみたのである。
 そしてアンは思う。《おもしろい応用問題だわ。これに答えを出せというのですね、先生》と、心の裡
(うち)で問うていた。
 津村と猪口は、ふたりでワンセットなのか、あるいは利害が一致して、こうい手の込んだ策を考えるのか、それを模索していた。これまでのモグラ叩きに、ここで一応の一区切りを付けようとする肚であるようだ。

 そのときである。操縦室のドアをノックした者が居た。
 「どうぞ」
 「機長。先ほど乗艇された自治区長の早乙女さまが、機長に是非ご面会を希望されております。いかが致しましょう?」川田民絵だった。
 「面会の旨、諒解したことを伝えて下さい」
 「では、そのようにお伝えします」
 川田が去った後、アンが次のように告げた。
 それは貌を曇らせ、押し黙ってしまった操縦室に居る全員にである。
 「では、皆さん、これより管制態勢をいっそう厳に。宜しいですね」念を押した。
 「はい!」一斉の返事であった。
 アンは佳奈を連れ立って、艇尾展望室へと向かった。佳奈という記憶の倉に期待しているのである。

 展望室である。
 「機長、来られました」川田が告げた。
 老人は席から立って直立不動になり、深々とお辞儀して、「自分はこの地域の自治区長の早乙女均であります」と、上官に喋るような言葉使いだった。
 「本機の機長、アン・スミス・サトウ少佐です」
 「これはこれは……」老人は驚いたように返答をした。
 機長が、機長に相応しからぬ女性であったからだ。あるいはアンの金髪を観て、敵性外国人と思ったのだろうか。それに階級が少佐であることにも驚いた。日本の軍隊に女の少佐がいるのだろうかと思ったようだ。
 部屋に到着していたとき、老人と身辺護衛人
(bodyguard)の青年には、レストラン風のコーヒーと茶菓子が振る舞われていた。室内の空調も快適に保たれていた。
 「この地域の塔か、何かの場所に住まわれている方で、黒真珠のような眼の瞳を持った女性を、ご存知ありませんか」
 アンがいきなり訊いた。
 「黒真珠のような眼の女
(おなご)の方ですか。はて、どなたでしたでしょうかなァ」老人は思い出そうとする振りをした。そして直ぐに後ろの青年に「おい、お前、知らんか?」と尋ねた。
 「それは、もしかすると……、塔といえばロシア正教会の礼拝堂しかなく、あの附設の孤児院に居るシスターのような女性が、そういう眼をした人だったかも知れません」と、何かを隠すように、ぽつりぽつり言うのであった。

 これからが、老人の熱弁の始まりだった。俟
(ま)ってましたと言わんばかりである。
 「そこに行かれるのなら、ご案内しましょう。そこで、交換条件と行っては不躾でありますが、自分どもの話も、一つ聴いては貰えないでしょうか」と、初対面でありながら、交換条件を臭わせて、このような話を切り出したのである。
 「どういう、お話でしょう?」
 アンはこのとき無理難題な話かも知れないと予測した。それには厄介事が孕
(はら)んでいるようだった。
 「この土地は隠棲
(いんせい)として、晩年を過ごすにはいいところです。しかし若者にとっては、神様から見放されたよう土地です。そこで、実はですなァ……」と、言い難そうに切り出しの言葉を探し、早乙女老人の脳裡は、次に如何なる言葉をもって如何にして口説くか、それを模索しているようだった。
 一方で、その口調は妙に畏
(かしこ)まり過ぎていた。
 このような言葉の後に続くのは、何かをお強請
(ねだ)りし、更には厄介ごとの依頼なのである。しかし聴いてみるしかない。
 「一応、お伺いしましょう」

 「ソ連、朝鮮、そして満洲の国境付近に小さな開墾地があります。その利権は、しかし今や奪われようとしています。その権益を守るために、われわれは自警団は防衛のための近々蹶起
(けっき)しますが、そのときに開墾地の上空を日章旗を掲げるこの鵬(おおとり)のような日本の飛行機で、その頭上を掠(かす)めてもらえますまいか」
 「それは致しかねます。わたくしには権限がありません。もし、どうしてもというのなら、日本政府か満州国政府の諒解を取り付けて下さい。如何にわたしくしを説得されようと、それを受諾する余地は、ただの1%もありません」と断乎言い放った。
 「まあまあ、そう仰らずに。先ずはわれわれの話を聴いて頂けませんか、少佐殿」老人は更に、執拗に能弁に任せて、今から人を魅了させずにはおかない言葉の羅列を並べ、真摯
(しんし)に熱弁を揮うらしい。
 早乙女老人は鏡泊湖南東地域の日本人開拓民ならびに朝鮮人開拓民の自治区長である。それに地域の自警団長である。この地域に約五千六百名の両民族の人々がいて、約千四百世帯が暮らしているという。その住人の東南のソ連側に突出した地域の一部の住人が、横暴なソ連人によって食糧や金品を奪われ、時には婦女子が攫
(さら)われるという悲惨な目に遭(あ)っているというのである。それを救うために、一度、盗賊団の棲んでいる匪賊地域の頭上を『空龍』で二度三度旋回して欲しいと言うのであった。しかしこれは明らかにソ連領への領空侵犯であった。こういう願いは聞く訳にはいかない。

 「幾らそう申されても、わたくしには、その権限がありません」
 「どうしても駄目でしょうか。自分はこれまで、満州国政府庁に度々足を運んで、この酷い有様に対して何とかして欲しいと陳情を行ってきましたが、満朝政府の役人は、誰も臆病で優柔不断でした。一向に動こうとしません。そういう状態が、また匪賊団を付け上がらせる結果となってしまいました。
 次に関東軍の軍庁にも足を運びましたが、色好
(いろ‐よ)い返事を頂けませんでした。軍は自分達で処理をせよという肚で、軍が、いま動くのは賢明でないと言うのです。軍隊官僚の彼らは、奉職して以来、自らの失点ばかりを恐れています。実にお役所的で、暫く俟てで終わりです。われわれのような、威嚇(いかく)の兵器も武器も所持しない農民が、どうして匪賊を黙らせることが出来るでしょう。好き放題にされるばかりです。
 われわれは、少佐殿には想像も付かない恐ろしい悪と戦って居るのですぞ。お分かりでしょうか。どうか、われわれの切なるこの心境、お察し下さい」
 「それについては、何ともお気の毒です」アンには、それ以外の言葉は思い浮かばなかった。

 「少佐殿、いいですか。これは日本人居留民全体の生命と安全に関わる重大な問題です。われわれを見捨てないで下さい。もし此処に移住し、生涯を賭
(か)けて、われわれが築き上げて来た努力の跡は粉砕されるばかりです。そもそも大東亜とか、五族共和とかは、いったい誰のためのものなのでしょうか!」それは訴えと言うより、切ないほどの悲しさが籠(こも)っていた。
 哀切に申し述べ、ひしひしと言上し、その語り口は巧妙だった。聞き方によっては、血が滲
(にじ)むような愛惜の叫びと聴こえなくもない。
 この老人は、したたかな演技派男優だった。年季の入った老獪
(ろうかい)な役者だった。本人は、自らの役に酔って、惚れ込んでいるらしい。心技体の総てが一致していた。名優というべきか。
 もしかすると、腹の底では嗤
(わら)っているのではないかと思えなくもなかった。そして、もし嗤っているとするならば、この老人だけでなく、老人の身辺警護に付添って、後ろに立っている東洋人の青年も同じであったろう。
 アンはややともすると、老人の語り口に同情を覚え、ふと引き込まれそうになった。それが真摯だけに、余計に取り込まれそうになるのである。

 「ご老人、わたくしの事情もお汲取り下さい。この場で離着水訓練終了後、直ちに飛行基地の戻る命令を行けております。わたしたち飛行機乗りのとっては重大な任務を、その後も負わされております。わたくしが、ご老人の願いを聞き届けて動けば、私兵の蛮行と指弾されます。愚行ならともかく、蛮行となれば、日本軍の恥を世界に晒
(さら)すことになります。どうか、この辺のところを……」
 早乙女老人は、更に貌を紅潮させてせて言った。
 「でありましょうが」《そこを何とか……》という懇願の表情を崩さなかった。
 結局ふたりは暫
(しばら)く同じ主張を繰り返していた。老人が懇願し、アンが突っ撥(ば)ねる。その遣り取りが相互に続いただけであった。

 「ソ連との国境付近には領空侵犯を厳にして、完全武装した
哨戒機が飛んでいる可能性もあります。領空侵犯した場合は旅客機と雖(いえど)も撃墜されても文句は言えません。更にこの蛮行が、ソ連との日米参戦へと繋がる懸念もあります。わたしどもは軍用機を運航して来たのでなく、旅客機を空輸して来たの過ぎません。
 この湖で離着水訓練をして、その後、新京飛行場に戻るだけの飛行計画しか許されておりません。
 到底、ソ連国境付近まで飛行し、領空侵犯を侵すことは、わたくし個人の、権限枠内に収められるものではありません。大型の飛行艇が、ソ連軍の哨戒機が展開する中、それを潜り抜けて飛んで行き、再び戻って来るのは完全に不可能です」
 「どうしても駄目でしょうか」と、窺うような眼で訊いた。その眼は射竦
(い‐すく)めるような鋭い眼であった。強い烱(ひか)りを放った眼であった。

 「ええ、駄目です。わたくしにはその権限がありません。わたしが答えられる問題ではないことをご理解下さい。ところで、あの浮標
繋留索は如何なることでしょうか?!」
 アンは機が索で包囲されたことを強い調子で指弾した。
 「ああ、あれですか。あれは、あなた方を住民たちが、大いに歓待しているとご理解下さい」それは説得に応じるまで居て欲しいという意味と同義だった。
 ここまで言う老人に、何を言っても無駄であろう。アンはそう捉えたのである。あの索は歓待どころか、飛行艇を丸ごと拉致
(らち)した索であった。『空龍』は丸ごと生け捕られたのである。
 「随分と変わった歓待ですこと」と皮肉ぽく言った。
 「もし、聞き届けて頂ければ、あれを早々に取り払っても宜しゅう御座いますが……」そう言って、にたっと笑ったようだ。
 「それは取引でしょうか?」
 「いえいえ、決してそういう訳ではありません。これは自分達の切なる願いとご解釈下さい。危害を加える気持ちは毛頭ありません。ただ、われわれは誰からも見捨てられて悲しいので御座いますよ。困窮の果て、このような手しか使えないことが……。
 誰一人、われわれの悲劇を顧みようとしない。誰一人、われわれの苦悩を知ろうとしない。何と、この世は薄情でしょう。少佐殿、あなたも“誰一人”の、そのお一人なのでしょうか」老人は熱弁のすえ心を抉
(えぐ)るように訊いた。
 早乙女老人の話術は巧みだった。訴えるように、演説調で語り、人を魅了して止まない口調で追い込み、逃げられないようにして、封じ込めてしまう巧妙な話術である。何と凄まじいものであろうか。
 老人は、ああ言えば、こう言うという巧みな話術の持ち主である。

 「……………」アンは言葉の逃げ場を失っていた。完全に老人の言に煽られていた。
 このように追い込まれてしまえば、言葉の接
(つ)ぎ穂に困り、結局逃げ場を失ってしまうのである。アンは逃げ路を探すために、言葉が脳細胞の中で混乱し始めていた。追い込まれた果てに、断るにも、断りようが直截的でないことに気付いた。巧妙に搦(から)め捕られたといってよかった。老人に、上手く為(し)て遣られたという感じであった。
 だが老人の必死の懇願に答えれば、否でも応でもソ連と戦争に関わることになる。ソ連との対日参戦を早めるだけである。絶対に聞き入れられない懇願であった。断乎断る以外ない。

 「わたくしには、これから以降も重大な任務を背負っております」
 ミヤはソ連狐と言った。老人は、敢えて対日参戦を早め、一刻も早く日本と満洲を亡ぼすような画策を企んでいるようにも受け止められた。本性は、魂までソ連に売った売国奴だったかも知れない。あるいは逆スパイとして洗脳されたか?……。
 そしてアンは、はたと思うことがあった。それは、これ自体が、もしかすると得体の知れない溝口敬三の手の中で、自らも躍らされているのではないかと思うのであった。思えば、これまで見たことのない巨大な輪の仕組みであった。大きな輪が廻っているのである。その歯車の一つとして自分が組み込まれている。アンはそう思うのであった。

 「宜しい、そこまで言われるのなら。もう、申しますまい。で、黒真珠の眼を持ったご婦人にお逢いされますかな?」と話題を変えた。なかなか巧妙な切り返しであった。痛いところを衝く。是が非でも此処に留め置こうとする魂胆があった。この辺はしたたかである。既に何かの意図と作為が窺われた。
 「お逢いしましょう」毅然として言った。
 「では、道案内をしたいと思いますが、如何でしょう?」上目遣いで窺うような仕種
(しぐさ)をした。アンの肚を読むような仕種であった。
 「もし、そうして頂けるのなら、有難いですわ」
 「さて、そうと決まったら、善は急げです。さっそく参りましょう」
 老人は身辺警護の青年に、それを指示した。

 アンが佳奈と連れ立って、陸
(おか)に向かおうとした際、ミヤがアンの耳許で囁いた。
 「サトウ少佐」
 彼女の眼には《騙
(だま)されてはなりません》という訴えがあった。彼女は満洲国治安局諜報員である。老人の素性はともかく、身辺警護に付添っている青年をソ連狐と見破っていた。何処かで見たような貌だったからである。
 「分ってますわ」こう言ってにっこりとした。《心配しないで》という笑顔のサインだった。

 アンは各員に告げた。
 「皆さんは、これから警戒を厳にして下さい。飛行中もそうですが、着水しているこの状態も、飛行機に搭乗している状態と言えます。搭乗している以上、搭乗員ならびに乗務員は四方に気を配り、眼を凝
(こ)らし続けなければなりません。一瞬も緊張を弛(ゆる)めてはなりません。いいですね」
 この意味は早乙女老人の方が、此処に居るわれわれより三歩先に行っているということを言いたかったようである。一枚も二枚も上を行っているという意味だった。全員は、これに気付いたかどうかとアンは思った。
 「はい!」此処の全員は一斉に返事を揃えた。おそらく意図を読んで、危険が迫っていることに気付いたのだろう。
 しかし、これが何故なアンには虚しかった。全く真意が伝わっていないようであった。隠れた藕糸の見えないところを読んでくれればいいのだが……。アンの全員に対する願いであった。

 「わたしの、これからの副官は室瀬兵長、あなたを任命します。次にスミス少尉は、向井田副操縦士とともに万一の場合、本機の操縦をお願いします。鳥居一飛曹は武器庫の鍵を開け、非常事態に備えて20mm自動速射砲の砲弾を装填をしておいて下さい。これより武装して、総員、緊急配備に付いて頂きます。
 おそらく敵さんは、これから、わたしたちを狐の巣に案内して下さいます。虎穴に入らずんば虎子を得ずといいますが、この場合、狐巣
(こそう)に入らずんば黒真珠を得ずでしょうか。室瀬兵長と二人で、ちょっと出掛けてきますわ。吉報を俟っていて下さい」
 「あのッ……」
 「なあに?、ぼく」
 「あのッ、そんな恰好では……」
 「ご心配ありがとう」
 「なんで、そんな恰好を?……」
 「こっちの方が、あちらさんも、女と検
(み)て安心する筈。そしてわたしたちの制服の下は水着です」
 「なるほど」唸ったよう相槌だった。
 アンは今まで履いていた紺のフライト・スラックスを脱ぎ、同色のスカートに履替えていた。このとき、アンも佳奈もともにスカートだった。いざとなれば脱ぎ捨てて、泳ぐ計算までしている。《丸腰だけど、躰で覚えた泳法という武装があるの》と言わん気であった。

 アンはこういう時、何にせよ、思い案じ、毒づき、くさくさするようなことが如何に心を乱し、平常心を攪乱させてしまうか、よく知り抜いていた。こうなったら、運命の不条理を怨
(うら)んだり、思い悩んでも、何一つ解決しないことを知っていた。思い悩む暇があったら、自然の第一法則である自衛本能を発揮して、逃げずに踏み止まり、難事に取り組む以外ないと信じていた。
 茨の扉は、自らの血を流しながら抉
(こ)じ開けねばならないのである。
 アンは『空龍』を任せて、機を後にするとき、なんとかなると思うのであった。思い悩むことはない。なんとかなる。
 そう思うとこれまで以上に勇気が湧いた。彼女に威厳は微塵
(みじん)も崩れていなかった。

 平時と戦時の違いは、戦時態勢に入った後は、これまでの平時の思考が全く通用しないことである。平時の拘泥
(こうでい)は命取りになる。平時のままでそれに拘泥し、こだわれば、それ自体が禍(わざわい)となる。
 平和慣れした国民は、非日常の戦時態勢を、その状態に突入しても殆ど態勢把握が出来ないのである。
 そもそも一応の備えはあっても、迅速行動と言う意味を理解し得ない。単に一事にこだわり、それから抜け出すことが出来ないのである。
 また防禦
(ぼうぎょ)と言えば、ただ防空壕(shelter)に籠(こも)って、じっとしていればいいと思うだけなのである。その避難所や壕に籠り、禍が通り過ぎるのを俟っているだけである。その壕が安全だと言う保障もないのに、である。
 問題は、戦時は状況の変化に応じて移動が伴うものであるから、常に何処へ逃げるかの避難路や退路を把握しておくことである。一ヵ所にこだわることなく、大局を検
(み)る鳥瞰図的な思考がいるのである。戦場の状況は刻々と変化するからだ。

 果たして、アンはこの状況を鳥瞰図的に観ていたようだ。上空から見る鳥の眼の意識である。あるいは、その眼は夜に暗躍する「鵺の眼」だったかも知れない。もう、その構図だ出来上がっているのであろう。
 夜飛ぶ鳥、鵺……。
 アンはこの鳥が気に入っていた。源頼政伝説によれば、平安京内裏
(だいり)の正殿である紫宸殿(ししん‐でん)上で射取った怪鳥というが、鬼物としてではなく、自分の正体を隠し、闇に溶け込んで正体不明にしてしまうところに魅力を感じたのである。


 ─────アンは、心の中で呟
(つぶ)いた。《これは罠だ、紛(まぎ)れもなく……》と。
 アンと佳奈が飛行艇から舟艇に乗り移る時である。
 「そんな、今生の別のような貌をしないで」《安心しなさい》という励ましである。
 「少佐殿。これはぼくが書いた答案用紙です。採点されたら、湖に捨ててて下さい。ぜひ隙を見て速読を」とアンの耳許で囁き、鳥居一飛曹は小さく畳んだ結び文を渡した。
 一方良子は、佳奈に「これ、救急鞄。何かの時に役に立ててちょうだい」と言って、従軍看護婦が肩に掛けるような茶色の鞄を彼女に掛けてやった。その鞄には赤十字のマークが付いていた。
 二人とも、拳銃などの武器は所持していない。丸腰で老人の舟艇に乗ったのである。
 早乙女老人は舟艇の前方の席にアンと佳奈を薦めた。逃げられないようにという意図である。それはアンも承知していた。しかし老人は彼女たち二人を甘く検
(み)ていたようだ。何も出来はしないと高を括(くく)っていたようだ。
 一つ、生け捕って人身売買組織にでも売り飛ばすか。そういう気持ちだった。金髪女に蕾
(つぼみ)の少女。二人の女はセックス奴隷として、いい金になるのかも知れないと踏んでいたようだ。裏では人身売買組織の通じ、人買いの副業(side business)もしているのであろう。

 アンと佳奈が薦められるままに、平行に並んで席に坐った。老人は後ろから見張っている。念には念にと言う意味であろう。警戒心旺盛である。
 席に坐ったアンは貌を前方に向けたまま、佳奈に囁いた。
 「室瀬兵長。貌を横に向けないで、前を見たまま聞いて下さい」
 「はい」
 「今から鳥居一飛曹が、わたしに宛てた恋文を朗読します」と奇妙なことをいった。
 「はい」一瞬奇妙な貌をしたが直ぐに真意を理解した。
 その恋文は、英語で書きなぐられていた。慌てて書いたらしく、筆記体が速記したように乱れていた。

 「今日は朔
(さく)の闇夜ですって。変な、書き出しですこと。《退路を確保しておきます。機から電動巻揚げ機(winch)から極細の鋼索(wire)を五百メートル伸ばし、その先に目標点としてIR(infrared radiation)浮標を浮かべています》だって。つまりIRは、赤外線のことで、赤外線写真の原理の応用ということね。遠距離物体の凝視法とでも言うのかしら。測距儀で位置計算をしているみたいね。
 それで何々……。《浮標には把手が設えてあって、人員収容の移送には石窪兵曹長が担当》ですって。これは機から二百メートルの場所まで、石窪兵曹長が泳いで出迎えするということかしら。
 更に《本機は湖の幅3km付近に着水し、ほぼ中央に停泊。岸まで約1.5km。ぼくの計算が正しければ、いや、正しいのですが、この湖は毎分50cmの速度で左回りに回遊しています》とあるわ。
 《人員を収容し次第、錨を機首から抜錨し、艇尾錨を投錨。この間、機は回流に沿って左回りをして、それに従い180度自然転変。少佐殿以下の人員が乗り移ったことを確認後、スミス少尉が発動機をコンタクト。続いてテイクオフ準備。その際、巻揚げ機で一気に収容します。その後、離水と同時に、前方に仕掛けられた浮標
繋留索buoy wire rope)を、室瀬兵長が20mm自動速射砲で撃破。砲側弾薬手は鷹司伍長。
 救急鞄には消毒薬と称した蛍光塗料あり。合図は救急鞄の中にある電光で合図後、巻揚げ機で引き寄せ、乗員が乗艇と同時に離着滑走。高度三千メートまで急上昇。最後まで、逆順に注意の上、このプラン通りに遂行して下さい》ということを、慌てて書きなぐっています。意味は大体これで分るみたいね。この手順、覚えたかしら?」
 「はい」佳奈は書かれた内容を総て記憶した。
 これからの作戦は、結び文に書かれた策
(脱出作戦)と決定された。

 その時である。老人が後ろから、ちょっかいを出した。
 「何をご覧ですかな、ちょうと拝見」
 「これは見せられません。わたくし個人に宛てたものですから」
 「個人に宛てた?」
 「だって、これ、私への恋文ですもの」
 「恋文だと?」
 「そうで御座いませんこと。恋文は第三者が介入するものではありませんわ」
 「だが、ちょうと拝見」と強引だった。
 「では、そんなに見たければ、どうぞ」アンは意図も簡単に渡してしまった。
 「う〜ッ、これは英語」
 「だから、恋文と申しておりますの。宜しければ、差し上げますわ」
 「恋文なんど、穢
(けが)わらしい。米英の墜落主義の最たるもの!」老人は激怒して、その恋文を湖に投げ捨ててしまった。
 これを見て、アンと佳奈はにっこりと微笑んだ。御丁寧に証拠まで、敵自ら消去したのであるからだ。

 『空龍』は複雑なパーツで組み合わされていた。
 一応、装甲板は持っているが、装甲板取り付けに問題があるように思われた。搭乗者を守る防禦の思想が抜け落ちていたからである。それに接合部にも問題があった。リベット固定である。機体と水上艇としての船底部が雑な繋で、着水時に支障があるように思われた。
 着水した場合の海中からの魚雷攻撃には、攻撃を知らせるソナーが艇底に装備されていたが、実際に着水した場合、魚雷攻撃を受ければ、ひと溜まりもなかった。しかし魚雷だけではない。機銃弾や砲弾にも弱い。機は旅客機で、分厚い装甲板を周囲に巡らせていない。被弾すれば脆弱が浮き彫りになる構造だった。

 軍需物資欠乏の折、シールド部分の防禦は貧弱で、コックピットが敵機から攻撃されれば、ひと溜まりもなかった。機首に20mm自動速射砲1門が搭載した連装式の砲で、自動的に対象物に照準を合わせて、内視式の赤外線で標的を捕捉し、独立射撃するが、標的はあくまで人間が撃つ。
 万一、砲撃するような事態が発生すれば、射手が撃つことになる。その際、銃弾装填を輔佐する助手が必要となる。双方が連携していなければならない。よく訓練された砲側弾薬手が必要なのである。要するに砲撃試験も終えていない、間に合わせ的な飾り物に近かった。多くの懸念を抱えていたのである。その懸念が人命軽視の兵器思想に顕われていた。
 あるいは人命軽視の考えから、人間は消耗品としての価値しかないように扱われていた。海中や海上のみでなく、対空兵装皆無なのである。軍用機としての装備は万全ではなかった。この四発大型飛行艇には、弱点を多く抱えていたのである。


 ─────やがて接岸され、アンと佳奈は陸
(おか)に揚げられた。案内人の意図である。
 老人は黒真珠の瞳を持った女性のところに案内するらしい。自らが先頭に立ち、アンと佳奈の跡を身辺護衛人の青年がガードを固めていた。逃げられないようにの懸念からである。向かうは、1940年代初頭からこの地に棲み付き布教活動を始めていたロシア正教会古儀式派の無僧派の一派である礼拝堂である。此処に改宗した信者たちの居住もあった。その近くに三階建ての鋭角屋根の礼拝堂が、天を衝
(つ)くように聳(そび)えていた。
 そこに、黒真珠の瞳を持った女性がいるというのである。

 到着すると、老人は話を付けに先頭に立って中へと入った。その女性は直ぐに分り、一向の前に出て来た。シスターのような恰好をしていた。
 「あなたは美雨のお母さんですか?」と、アンがいきなり聲
(こえ)を掛けた。
 この女性は日本語を解さない。答えようにも答えようがなかった。そこで警護役の青年が満洲語で訊いた。すると、その女性は首を横に振った。
 「この方ではなかったか」老人が吐露するように言った。
 しかしその女性は、「もしかすると」という言い方で孤児院の方を指した。そして、そこに案内するというのである。孤児院はこの教会の附設の運営であったようだ。
 案内した女性は、数人の子供を世話している二十代後半の女性に「江静
(コウセイ)」と呼びかけた。
 江静と呼ばれた女性は、まさに黒真珠のような瞳をしていた。佳奈が観
(み)て、ひと目で美雨の母親であることが判明した。観想も酷似していた。
 こうして江静に逢えたのはいいが、問題は此処からどうやって連れ出すかであった。それが出来ないように今日は厳重な監視が付くだろう。これをどうやって躱
(かわ)し、監視の眼を潜り抜けるかであった。夜を俟つしかない。今宵は朔(さく)で、闇夜である。抜け出すには闇に乗じてその隙を突く必要があった。

 「少佐殿。此処で一晩、ゆっくりとお泊まり頂きましょう。飛行艇は無理に復
(かえ)りを急がなくても宜しいでしょう。もう直、陽が暮れます。暗くては飛べますまい。それに、夜間に飛ぶための設備もない。また標識燈火もない。陽が昇るのを待つ以外ないでしょう。今日は此処にお泊まり下さい。
 夕食などは、歓待の意を込めて、われわれが致します。それに目指すご婦人のも逢えたことだし、今日は語らって、昔の知己でも暖めて下さい。最後に断っておきますが、飛行艇は囲んだ浮標
繋留索を外さない限り、絶対の飛べないことを認識しておいて下さい」と捨て台詞のようなことをいった。
 老人には、常に身辺護衛人の青年が張り付いていた。あたかも青年の代弁を老人がしているようだった。
 「充分に承知しております。わたくしたちは籠の鳥ですもの」
 「それが分っていれば宜しい。明日以降については、陽が昇ってからにしましょう。どうぞ、ごゆっくり」
 こういって老人と警護の青年は去って行った。それだけこの周辺は、夜を徹して飛行艇への見張りを厳重にすると言うことであった。その歩哨警戒が厳である余裕すら、ちらつかせたのである。


 ─────三人だけになった。
 「江静さん。あなたの娘の美雨さんのところに、わたしたちと一緒に行きましょう」
 「此処は見張られています。此処からは出られません」江静は日本語が堪能だった。
 「そんなことはありません。湖には飛行艇が停泊しています。いつでも飛び立てます」
 「でも、此処に囚われている子供たちを見捨てて行けません」
 孤児院の子供たちを指していた。
 「子供たち?」
 「此処には、三歳から七歳までの孤児が九人居ます。戦災で親を亡くしたり、遠くから攫
(さら)われて来た子供達です。この子たちを置いて、わたし一人が逃げ出す訳には行きません。子供達は大東亜の子供です。此処に置いては行けません。もし、わたしが逃げたとなると、子供たちは後で酷い仕打ちをされます」
 此処で子供が自警団から飼育されているようなことをいった。
 「では、その子たちも一緒に連れて行きましょう」
 「えッ!どうやって?」
 「湖の真中に飛行艇が停泊しているのが分るでしょ。あれに、隙を見て乗り込むのです。わたしは、あの機の機長のアン・スミス・サトウ少佐、そして隣が室瀬佳奈兵長。あなたを救出に来たのです」
 「わたしを?」
 「子供たちも、そしてあなたも。でも、いま動くのは賢明でありません。暗くなるまで俟ちましょう。それまであなたも、これまで通り振る舞って下さい。そして直ぐに動けるよう、子供たちを一ヵ所に集めておいて下さい」
 「分りました」
 「此処には湖に浮かべる小さな舟かなにか、ありませんか」
 「あそこにドラム缶桴
(いかだ)があります。普段は子供たちの遊び道具です」
 「でも、あれでは目立ち過ぎですねェ」
 「此処の孤児たちはカッパです。全員、泳ぎ達者です。わたしが教えました」
 「では、夜陰に乗じて、気付かれず音を立てずに、静かに泳いで目標点まで行きましょう」
 こうして、これから先の運命が決定されたのである。


 ─────それから暫
(しばら)く経ってのことである。
 老人と日本人居留民と思える何人かが、食事の用意をして遣って来た。これが歓待と言う訳であろうか。
 そこに食事を運んで来た、どの貌にも、まるで催眠術でも掛かったように、みな何かの目論見があって、老人から言い含まれた痕跡があった。歓迎はその目論見と引き換えであるらしい。よく操ったものである。
 一方で平和と反戦を大義名分に謳
(うた)い、声高に正義論をぶち、他方で匪賊討伐を名目に新たな戦争を画策する……。話術の為(な)せる業(わざ)であった。
 その策は、まさに巧妙と言えた。

 「何も御座いませんが、今宵は此処でゆっくり寛いで下さい。さて少佐殿。幸いなことに明日われわれは権益を守るために匪賊討伐を決行します。この計画は数個大隊規模で、一斉に三ヵ所から突入します。
 突入合図は少佐殿の乗って来た日章旗を付けた鵬が、匪賊地域の大空を翔
(かけ)たときです。これまでわれわれは慎重に蹶起のタイミングを計ってきました。少佐殿の飛来は渡り舟でした。大いに感謝致します」
 これまでの熱弁が、裏切りの言に変わった。この熱弁家は、匪賊討伐の蹶起という言葉を遣っているが、これは日本のソ連に対する宣戦布告という意味であり、巧妙な言い回しで、話に平然としてちぐはぐな語句を交えながら、傲岸の表情には一点の戸惑いもなかった。
 権益と言ったが、これは土地の支配関係に併せて、ソ連に働き掛けた買国行為だった。
 辺りは黄昏れていた。長居し過ぎたためか、夕陽は既に西の山の彼方に落ちようとしていた。

 「わたしどもの飛来は、いつご存知でした?」
 「そこはそれ、われわれは広大な情報網を持っています。また、日本人居留民も既に洗脳して、われわれの意図に賛成です」
 「では、匪賊の出没とは?」
 「あれですか、あれはですなァ……」
 「つまり、在りもしない事を捏造
(ねつぞう)したという訳ですか。ご老人は存外と狡(ずる)いのですね。こう言うのを老獪(ろうかい)と言うのかしら」
 「それを聞くと、如何にも自分が売国奴のように聴こえますなァ。しかし国を売れば、売国奴でしょう。だが生憎、自分はもう日本人ではありません。自分は祖国に殉じる愛国者です、わが祖国ソビエトの……」
 この老人は共産党員なのであろう。地下に潜って、この地域で洗脳活動を展開していたのである。

 「お教え頂いて恐縮です。でもご老人は、ソ連礼賛で能
(よ)作っていますが根は立派な日本人ですわ。利敵行為で、ご自身を売ったのです」指弾するように言った。
 「ははははァ……、やっと今ごろ気付きましたか。ちと遅過ぎましたなァ。さて、そこまで分っておいでならば、大いに結構。明日は晴れて手打ちですな」
 「奇蹟みたいなことは、本当は起こりませんのね。一本取られましたわ」
 「いやいや、一本だけではありませんぞ。これからは二本も三本も取られます、負け惜しみもそこまで」
 余裕のあるところを覗かせた。
 老人は引き連れた者に食事の用意をさせ、声高に嗤
(わら)って去って行った。まんまと仕掛けて、手打ちが成ったと思ったのだろう。その嗤いは、相手を遣り込めて、勝ち誇ったような高声(こうしょう)であった。
 辛抱は自制心の問題である。しかしそれに欠ければ、和解は御破算になる。そうなるように最初から仕組んでいたのである。老獪だった。


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