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続々 壺中天・瓢箪仙人 13

現代の不可解な考え方に、「生きる」ということを、長生きをすること、金を掛けることに集約しているようだが、果たして生きるということは、それだけにあるのだろうか。
 これでは余りにも「生」を愚弄
(ぐろう)し、しいては「死」まで冒涜(ぼうとく)する結果になりはしないか。
 そもそも人間の「死」は尊厳されるべきものであったが、「生」がこうまで軽くなっては、「死」も軽々しいものになってしまうであろう。
 果たして、かつて存在した「老いて学べば、死して朽ちず」は何処に消えてしまったのだろうか。


●炙り出し

 その日の夕刻、吉田と津村は猪口の案内で、ある屋敷に招かれていた。この三人は陽が暮れても、人が寝静まったあとでも、未(ま)だその日の一日が終わらない連中である。彼らは一件落着に一息つく間もなく、次の計画に取り懸かっていた。
 「極秘の話である」錆びた嗄
(しわが)れ聲(こえ)である。
 切り出したのは、機関長の甘木正広少将だった。

 この密談に加わっているのは、甘木少将と吉田毅、それに津村陽平であった。末席には猪口敬三がいた。この晩、猪口は軍服姿で、腕に白地に赤文字で右から読む“憲兵”と記した腕章を嵌めていた。まさに官憲の姿であった。

 煽り屋・猪口はなかなか忙しい。
 この漢、普段は満映の映画監督の猪口敬三で、エキストラを遣って操る煽り屋あるが、時として奉天憲兵隊の猪口憲兵曹長であり、また、ある時は満洲の地での水先案内人としての誘導者の任務を負う。
 更には、領事館警察員手帳を出して、奉天総領事館警察員を名乗る。いろいろな貌をもって、一人四役をこなす化け物役者である。
 よくよく考えれば、そもそも猪口敬三という姓名が本名かどうかも分らない。戸籍を捨てた漢である。名前ぐらい、如何ようにも変えられるし、年齢が53歳というのも怪しい。この年齢よりも若いかも知れないし、そうでないかも知れない。ただはっきりしていることは、性別が男ということだけだった。情報謀略機関に属する人間の特長である。
 何しろ彼は、軍席簿を二重に持つ、もと「羽機関」の諜報員であった。

 経歴には「羽機関」の機関長・羽垣維四郎少佐
(当時30歳)に随行して、昭和15年にベルリンまで行った漢である。そのとき猪口は49歳であった。そこで宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルス仕込みのプロパガンダ工作術を習った。その工作術の一つとして、いま『月下の翼』の映画を制作している。巧妙に策を弄(ろう)したプロパガンダ映画である。
 また彼は、満洲では哈爾濱支局の『梟の眼』に所属していた。
 幾つもの貌を持つ変化
(へんげ)自在の諜報員である。ここから奉天憲兵隊に送り込まれた。したがって身分も本名も、また戸籍も捨てた漢で、猪口敬三と言うのは偽銘である。
 更に、軍席簿にある憲兵曹長というのも階級詐称であった。
 そして「羽機関」に属していたことから、一介の下士官などではない。二重の階級を持つ情報将校である。闇を暗躍する秘密戦士なのである。だが工作活動に当たり、一等下がって下士官を偽っていた。それが泣く子も黙る鬼の憲兵曹長・猪口敬三なのである。
 しかし年齢的には些
(いささ)か歳を食っていた。53歳の老兵である。だが老兵も偽装かも知れない。その五十オヤジの第一の任務は煽動を目的とする煽り屋であった。そして次ぎなる任務は、土竜と狐の炙(あぶ)り出しであった。炙り出して逮捕する。これが第二の任務であった。今その任務の続行中であった。


 ─────面々はその夜、甘木少将の屋敷に招かれていた。茶室に籠
(こも)って密談を交わしていた。
 『タカ』の指令は、満洲国が未
(ま)だ手駒として生きているうちに、次ぎなる策を立てようとしていた。
 満洲国が崩壊すれば、有効な手駒自体が死ぬのでなく、『タカ』の生命も絶たれる。機能全体が生命反応はしなくなり、併せて、津村が企んでいる“山こかし”も不発に終わる。
 三頭が、当座の策を弄
(ろう)するために、角を付き合わせての密談である。

 「哈爾濱
(ハルビン)から新京に赴く際、おぬしは陶頼昭(とうらいしょう)駅付近で、紅白両軍の小競り合いだけでなく、そこで高粱(こうりゃん)畑を偽装(camouflage)した、夥(おびただ)しい芥子が栽培しているのを観たであろう?」
 布袋さまが津村陽平に訊いた。
 「少しばかり」と相槌を打った。
 「また阿片
(あへん)が巧妙な武器であることも知っておろう」
 「はあッ」《御尤もです》というような相槌だった。
 「あれが、やがて満洲の日本人にも蔓延
(まんえん)するは必定。既にその兆候が見え始めた。これまでの上海経由だけでなく、満洲の阿片密売市場も猛威を揮い始めている。かなりの中毒患者も居るようだ。国が崩壊するとき、麻薬が蔓延(はびこ)るのは、古今東西、歴史を検(み)れば顕著である」
 布袋さまは、これを懸念していた。それは単に杞憂
(きゆう)と言うものではない。真に心を砕いているのである。
 麻薬の蔓延は、単に天佑を頼りにしたところで、沈静化はしない。人間自身が防止しなければならない。
 こう聴いて、直ぐに思い浮かべる事柄がローマ帝国の崩壊である。快楽と麻薬の絡みは明白である。この種の薬物は人間の欲望をエスカレートさせるのである。

 一つの文明、一つの国家が亡びる時には、背後に性の快楽に現
(うつつ)を抜かす現実と、これに絡む麻薬の存在が挙げられる。更には、芸術の名を借りる淫らな音楽や、烈しい拍節(beat)の利いた飛び跳ねる音楽や西洋風の舞踏(dance)である。日本風に言えば、幕末に流行った「ええじゃないか」である。これはまさに舞いではなく、飛び跳ねるダンスだった。精神を刺戟し、興奮させるものであった。
 「ええじゃないか」は幕末、東海・近畿地方を中心に起こった大衆的狂乱である。乱痴気
(らんちき)騒ぎである。このダンスに理性などない。農村にあった御蔭参(おかげ‐まい)りの俗信仰の悪しき伝統を基盤とし、慶応三年(1867)八月頃から東海地方を発端とし、翌年四月頃にには近畿や四国地方に伝搬し、更には信州方面等に猛烈な勢いで広がった。
 この地方では神社の神符などが降下したのを契機として、「ええじゃないか」の囃子
(はやし)をもった唄を三味線などに合わせて高唱しながら、民衆は集団で乱舞したのである。倒幕運動が行われていた時期であり、民衆誘導の策としての「世直し」的な様相を呈するものであった。烈しい拍節で飛び跳ねた。ダンスしたのである。一つの洗脳術と考えられる。大衆の脳に楔(くさび)を打ち込むためである。
 この強い揚音
(accent)を以て、音の強調点で脳を破壊するのである。

 近年の音楽で強弱標語の「∧」や「<」などアクセント記号が多いのは、強調点を表現するための惑乱策の一つである。つまり麻薬と同じように、刺戟を需
(もと)めて酔うために、常習性を誘発させる。ハードな音楽にはこのように、脳を破壊する策としても遣われることもある。音楽に名を借りた麻薬的な惑乱と常習性の策であり、洗脳に盛んに用いられた。
 分列行進や集会場などでは、民衆を鼓舞する洗脳術として、音楽のそうした面が巧みに利用される。また、それに自覚症状を感じさせないところに音楽洗脳の意図がある。
 例えば新興宗教などで、太鼓を叩いて洗脳する遣り方も、またスポーツ大会でロック音楽を鳴らして、選手と観客の共通刺戟をアピールしたり、あるいは集団でスクラムを組みインターナショナルを声高らかに歌う行動なども、つまりは音楽で、人間が音によく反応するという習性を利用したものである。
 荒々しいマーチのような音楽、あるいは拳を振り上げて足を踏み鳴らすようなロック音楽は、麻薬的な常習化させる効果があるからだ。人は、五官をコントロールされれば、見事に制御されてしまうのである。
 かの孔子も、「楽
(がく)」を挙げ、これか音楽のことで、周代の天子の舞楽の音とともに躍る「八イツ」の舞いを『論語』(八イツ)に記している。

 人間は刺戟を需
(もと)める生き物である。
 単調な生き方や平和など、平穏が長く続くと、これまで築き上げて来た文化や文明を壊してみたいという誘惑に駆られる。平和が長く続くと、見慣れた普段が厭
(いや)になるのである。退屈凌ぎに危険な火遊びがしたくなる。その火遊びの一つに、危険ドラックが挙げられるのである。

 「あたかも、河豚
(ふぐ)の毒に痺(しび)れてみたいと言う誘惑ですかな……」津村が吐露した。
 「そういう誘惑が、西欧と東欧から遣って来た。今や満洲の地が変化しつつある。よくも悪くも、やがて変化を余儀なくされる」
 布袋さまは、この構図、歴史の何処かの一コマに似ていないかと、ふと思ったのである。そして、はたと気付いた。
 そうだ!この地にも抗日と言う「ええじゃないか」運動が起こるのではないか?……と。
 その影が射し始めたと、ふと思った。
 影は、実体がなければ射し込む筈はない。
 その実体が闇の中で蠢
(うごめ)いているように思うのであった。

 「もうじき、来ますな」
 それは長い先のことではないという津村の相槌であった。恐れるものの到来を付けた。
 「何とか、負け戦が込む前に決着を付けておきたいものです」吉田だった。侵攻の懸念である。
 彼のプランには、烈しい抗日運動と露国の土竜や狐が、満洲を食い荒らす前に、戦後の復興策を急いでおかねばならないという意味である。食い荒らされてからでは遅いのである。
 更に『満洲プラン』なるものがあった。
 それは日本の戦後を復興させる場合に、その都市計画のモデルが満洲国だったからである。この形式を、日本に持ち込みたいという意図を持っていた。
 「食い荒らされる前に、とにかく急ごう」布袋さまが促した。

  阿片は、「鴉片
(あへん)」とも書く。
 ケシの未熟な果殻に傷をつけた時に分泌する乳状液を乾燥して得たゴム様物質で、モルヒネ、コデイン、パパベリン、ノスカピンなど種々のアルカロイド
【註】主に高等植物体中に存在する、窒素を含む複雑な塩基性有機化合物の総称であり、ニコチン・モルヒネ・コカイン・キニーネ・カフェイン・エフェドリン・クラーレなど多数のものが知られている)を含み、鎮痛や催眠作用を呈する薬物である。
 ハシシュこそが、アサシン
assassin/暗殺者)、あるいはアサシネーションassassination/暗殺)の語源となったとされている。しかし、一方、「山の老人」が遣った不思議な媚薬のハシシュはアサシンの語源となったと言う説には反論もある。

 では、ハシシュの正体は何か。
 ハシシュは、インド大麻の咲き始めた花の先端部から得られる樹脂である。麻はクワ科の一年生草であり、中央アジアを原産地とし、この植物は雌雄異株である。雌雄異株とは同種の植物の場合をいい、雌花だけを生じる雌株と雄花だけを生じる雄株との区別のあるもので、例えばイチョウやカラスウリなどである。
 ハシシュは英語ではヘンプ
(heaven)という。「天国」という意味である。甘美な言葉の響きを持つ。既に言葉自体で酔う。
 この植物は、場所や気候によって変種をつくり、例えば北ヨーロッパや東南アジアの麻は、もともと繊維植物として広く栽培され、種子から採取した油なども利用されていた。
 ところが、中央アジア高原やギリシャ、イラン、北アフリカ、インドなどでの麻は、草丈が低く、繊維植物としては栽培されていない。この変種をインド大麻と言うのである。また、大麻とは、「麻」を薬として遣う時の呼び名である。
 インド大麻から採取された樹脂は、板状あるいは棒状に加工され、ハシシュ
(インドではチャラスという)として利用されるが、雌株の花が咲きはじめた頃、採取されて草頂部は刻まれ、バング(bhang)としてタバコに混ぜられる。これがマリファナ(marihuana)である。

 マリファナの精神作用については、多くの研究報告があり、また文献も多い。マリファナの作用として、最も顕著に顕われるのは、精神的緊張の解除と、陶酔感である。しかしその作用は、個々人の性格や教養、環境や雰囲気、あるいは期待感によって大きく異なり、ある時は多幸感に浸るが、ある時は逆に、不安感に苛
(さい)まされ、恐怖心を露(あらわ)にすることが報告されている。
 こうした状態において、一般には暗示に掛かり易く、狂信的な行動を示すことは、その昔、イスマイリ派の若者達の暗殺行動と結びつく。マリファナが体内に取り込まれると、全般的に言って感覚が敏感になり、特に視覚は敏感にある。色彩が鮮明となり、残像が延長する。物の形などに歪
(ゆが)みが生じ、壁のシミが人の顔に見えたりする。あるいは空の雲が、神の姿となって顕われる。
 これを大量に用いると、幻覚が生じ、音を視覚的に感じ、音楽が絵になったり、思考することが形となって顕われる。また、身体が空中に浮遊したり、手足が縮んだり、五体がバラバラになったり、様々な異様な現象が顕われて来る。

 かつて忍び集団の中に、「変幻の術」を遣う「志能備衆
(しのび‐しゅう)」が居たとされるが、この集団は幻術を操って、火を吹いたり、自分の五体をバラバラにしたり、空中に浮遊したりの術を見せた。細作(しのび)の術である。細作とは工作の意味を持つ。この術を用いる背後には、香(こう)の煙りの中に大麻の媚薬を練り込み、煙りを室内の一部から流し込んで燻(くゆ)らせ、被術者に幻覚を起こさせたものと思われる。
 その為、古来より宗教団体や秘密結社はこの薬物を用い、麻酔分析をして、時には強い暗示性を利用して、殺人やテロ行為を強要して来たのである。麻薬で酔わせ甘美に誘惑するのである。イスラム教
(イスラーム)やユダヤ教も、またカトリックの一部の教団も、この伝統を持つものがある。

 徳川時代、キリスト教は禁制の憂
(う)き目にあった。そのため非合法的な地下活動を開始する。
 こうした信仰者を切支丹
(きりしたん)と言った。
 切支丹信仰は、デウスを最高神とする信仰で、それは天にあって、宇宙を主宰する神、デウスへの信仰であり、デウスの掟
(おきて)をそむく事を戒める信仰であった。デウスは天帝とも云われるが、仏教では帝釈天(たいしゃく‐てん)を意味する。

 さて切支丹は、最初「吉利支丹
(きりしたん)」と書かれていたが、禁教後は「鬼理死丹」や「切死丹」などと書き改められ、また、徳川五代将軍・綱吉以後は「吉」を避けて、切支丹と記したのである。
 この宗教は、天文十八年
(1549)イエズス会の修道士フランシスコ・デ・ザビエルらが日本に伝えたカトリック教で、その信徒は南蛮宗(なんばんしゅう)と呼ばれた。
 キリシタンが布教の方便として用いたものは、理化学応用や医術などの西洋技術で、当時は魔術と看做
(みな)され、転じてこの術者は魔術師と称された。また魔術師はバテレンと呼ばれ、これは一方で魔導師の意味を持つ。
 バテレンという呼び名は、元々ポルトガル語の神父の意味で、江戸時代は「伴天連
(バテレン)」とか、「破天連」の文字が当てられた。これはキリスト教が日本に伝来した時の、宣教に従事した司祭への別名もであった。

 理化学応用や医術などと言えば、尤もらしい聴こえるが、いつの世の宗教にもしばしば布教のために薬物が遣われることは珍しくない。現に、魔術師はバテレンと呼ばれた。徳川幕府のキリシタン弾圧は、この側面にもあったとされる。麻薬とは無縁であるまい。


 ─────茶室での密談は、核心に迫り始めた。
 「今日後午後、満人の少女・美雨
(メイユイ)を扶(たす)けたそうですね」と、吉田が津村に訊いた。猪口から報告が行っているようだった。
 「それがなにか?」
 「あの娘、実はM資金に関係があるかも知れません。万宝山事件をご存知ですか?」
 「些かですが……」
 「では話が早い。万宝山の事について話を始めましょう」吉田はこう切り出した。
 そして津村は、吉田の話を聴いていると、何かしら共通点が多々泛
(うか)び上がって来たのである。

 津村は星野周作と満洲里で出遭い、一夜を斉斉哈爾
(チチハル)の宿で過ごした際、星野から一生を捧げて蒐集した調査記録の記録帳を受け取っていた。この記録帳には、日露戦争開戦前からの調査記録であり、ソビエトの経緯やその後の政権についてのことなどが記載されていた。星野は当初、沖禎介とともに東清鉄道を破壊するため、ロシア軍の『東方輸送妨害作戦』の挺身隊を組織に参加するなどして日本陸軍の探偵を勤め、自らが暗躍したことも記していた。
 明治37年
(1904)、日露宣戦布告に際しては、沖は在清の日本人同志らとともに、日本陸軍の特務機関に属し、以降の校務は門人に托して、自らは東清鉄道を破壊するため、ロシア軍の『東方輸送妨害作戦』の挺身隊を組織した。星野はその頃、沖と知り合い、その組織に加わった。つまり、沖とともに、日本軍の探偵になったのである。

 彼らは喇嘛僧
(ラマ‐そう)を装い、北京を発(た)って、蒙古不毛の地へと至り、更にロシア領まで潜入していた。五十有余日を経て、漸(ようや)く目的の任務も遂行できて、あと一歩と言うところでロシア国境軍の巡邏隊に捕獲された。
 そのとき星野は、その難を逃れて再び清国に舞い戻り、斉斉哈爾
(チチハル)の製鉄業者の孫熈英(そん‐きえい)に匿われた。やがて沖禎介が哈爾濱郊外で銃殺されことを知る。星野はその後も、ロシア官憲から『東方輸送妨害作戦』の挺身隊の一味として追われていた。
 しかし奇
(く)しくも、孫熈英(そん‐きえい)に匿われ、日露戦争が明治38年に終結すると、孫熈英の娘・美麗(びれい)を娶(ためと)り、美麗ともに満洲鉄道付近の長春(満洲国建国以降、新京と改まる)に棲み付く。そのとき生まれたのが娘の齢姫(れいひ)だった。星野は娘を連れて、一時日本にも帰国している。その時の齢姫の名が鈴江だった。
 だがその後も、星野の暗躍は続いた。満洲を縦横に暗躍し、東欧や中近東まで暗躍の足は伸びていた。
 そして、ある「M」に辿り着いた。

 万宝山は新京郊外西北30kmにある農耕に適した丘陵地であった。
 万宝山に行くには京白線で、新京からの列車で白城子
(はくじょうし)まで線路が延びている。その路線間、新京を出発して寛城子かんじょうし/かつては寛城子信号場・寛城子層操車場。何れも昭和18年11月廃止)・小合隆(しょうごうりゅう)、そして次の駅が万宝山(当時用いられた字は萬寳山)である。
 津村が星野から渡された記録帳を読んだとき、記載事項には「M」の文字が矢鱈
(やたら)多かったことを記憶している。「M」とは、何かを穿鑿(せんさく)した。
 確かに満洲の「満」もMだし、当時、旧漢字で著された萬寳山
(ほうまんざん)の「萬」もMである。だが、この「M」の文字が、何を意味するかは不明であった。

 満洲国の農作物には、タバコとともに大麻が含まれていた。
 この地方での農作物は水稲・小麦・高粱
(コーリャン)・大豆・小豆・蔬菜(そさい)類などや綿やジュートとともに、大麻も名産品になっていた。当時、大麻の精製技術が未熟であったから、阿片に迫る麻薬としての効果は薄く、そのために公認された農作物だったのである。
 大麻は、日本では古くから注連縄
(しめなわ)や祓い具(おはらい)として、神事の際に用いられてきた。
 例えば穢
(けが)れを祓う紙垂(しで)は、古くは麻の枝葉や麻布であった。神職がお祓いに使う大幣(おおぬさ)は、大麻とも書き、麻の糸を使用している。
 だが大麻は、神事の祓い具としてだけに留まらなかった。薬物効果があったからだ。
 この農作物は、万宝山の丘陵地帯でも盛んに栽培されていた。大麻は湿地帯を好む。栽培するには適度な水がいる。利水問題は、大麻が絡んでいるようだった。

 生産された大麻はタバコと混ぜて、水タバコのようにして喫煙された。満洲ではこの需要が意外に多かったのである。農民にとっては、かなり儲かる作物であった。この地域では挙
(こぞ)って大麻が栽培された。喫煙者は喫煙によって、多幸感や開放感があるからである。ひと時の憂さ晴らしに浸るようになる。
 大麻栽培と利水問題。
 二つは切り離して考えるべきものではない。何らかの関係性と、背後には利権問題が絡んでいたように思えるのであった。そして、これには個人か絡むのではなく、大掛かりな犯罪組織が絡んでいると推測出来るのであった。

 では利水問題に絡んで、他にどういう争いがあったか。
 此処には、先住民の満人と後から遣って来た入植者の朝鮮人との土地を巡っての争いがあった。租借について揉
(も)めていたのである。
 更に伝統や習慣の違いもあった。それが気候風土の違いにも顕われるのである。
 満人たちは伝統的な“焼き畑農業”の耕作技術を、先祖代々守って来た。満人たちが行った焼き畑農業というのは、入念に土壌を調査した上で、焼き畑を行う場所の選定をする。その後、灼
(や)いたあとの株はそのままにして掘り棒で深い孔(あな)を開け、穀類、根菜類などの多種類の農作物を栽培する。これは自然破壊ではなく、土壌の流出や病害虫を防止しながら行うものである。長い間、この土地に棲(す)んだ経験から行われる土壌改善法である。つまり自然との共存である。
 一方、あとから入って来た朝鮮人の入植者たちは、こうした伝統を無視し、原生林などを大規模な開墾によって自然を破壊していった。この争いの背景には、農業に対する伝統や習慣の違いがあったのである。

 「美雨の母親は、実は靺鞨
(まっかつ)という女真(じょしん)のツングース系民族の首長で、完顔(ワンヤン)部の首長・阿骨打(アクダ)の血筋です。歴史では女真といいますが、黒竜江地方に散在し、唐代以降、女直といいました。
 靺鞨は1115年頃、完顔
部の首長・阿骨打が建国した金国(遼・北宋を滅ぼし、東北・内モンゴル・華北を支配した国家。しかし9世紀にモンゴル軍に亡ぼされた)であり、この国家は爾来(じらい)宋に対抗します。後に清朝を興した満州族も同一民族です。遠くは満洲皇帝・愛新覚羅溥儀あいしんかくら‐ふぎ/宣統帝)と同じ先祖を持つ同根の遠縁に当たります」
 吉田がこれまで調べ上げた情報の触りの部分を述べた。
 「以外ですなあ」津村が相槌
(あいづち)を打った。星野の記録帳から読み覚えのある箇所が、次々に浮上して行ったからである。

 吉田は、更に話を繋いだ。
 「この先祖の歴史は古く、靺鞨は周の粛慎
しゅくしん/中国東北地方の民族であり、隋・唐の勿吉・靺鞨はその後身というが定かでない)、漢・魏のユウロウ、南北朝の勿吉(もっきつ)などはみな旧称で呼ばれ、六世紀の後半にこの名称が起こりました。部族はおおよそ七部族あり、その一つである粟末(ぞくまつ)靺鞨族の支配者・大祚栄だい‐そえい/渤海国の建国者で高王という。今日では高句麗人説と靺鞨人説とがある。唐の則天武后の時、松花江上流の粟末靺鞨族の支配者となり、698年自立して震国王と称した。在位698〜719。生年不明〜719)が中心になって、中国東北地方に渤海国が起こり、また一方、黒水部靺鞨族(安車骨部の西北に住む部族)は、後に女真と称しました。
 唐代となると、渤海郡王に封ぜられ、その文化を模倣して高句麗の旧領地を併せて栄え、727年以来、しばしば日本と通交を持ち、15代で契丹
きったん/4世紀以来、内蒙古シラムレン流域にいた遊牧民で、モンゴル系にツングース系の混血し、遼(契丹)の太祖・耶律阿保機(やりつ‐あぼき)は契丹の八部を統一し、東西の諸部族を従え、大聖大明天皇帝を称して中国本土に侵入した)に滅ぼされています。渤海国は都を黒竜江省寧安市に定め、この都には上京竜泉府以下、五京があったと言われます。
 渤海国は契丹に亡ぼされましたが、女真の一部は難を逃れて満洲国の各地に散った。そして首長の血筋の一部が二つに分れ、一つは万宝山の丘陵地へ、そして他が鏡泊湖
(きょうはく‐こ)の湖岸に隠れ棲み、これまで細々と暮らしてきました」と、調べ上げた内容を論(あげつら)った。

 「だが、万宝山では事件が起こったという訳か」
 「悲運でした。そのとき美雨の母親・江静
(コウセイ)は、満人の先祖・粟末靺鞨族であることが暴かれ、朝鮮人の一党から狙われ、幽閉・監禁されそうになったのです」
 「それでどうなった?」布袋さまである。
 「間一髪でした。その前に救出しました」
 「何処へだ?」
 「鏡泊湖です。これまでの調査で分ったことですが、江静の一族は、もと万宝山の丘陵地帯を支配する大地主だったのです。しかし父親は万宝山事件で負傷し、その傷がもとで昭和7年3月に死亡しています。つまり殺された訳です。美雨は昭和5年の生まれですから、現在14歳ということになります」
 「あれから、もう九年経ったか……」時の流れを想った。

 「あの忌まわしい事件は、江静・美雨母子をどこまでも苦しめることになります。土地は奪われ、特に経済的には極貧に落されます。そういう状況下で細々と凌
(しの)いで来たのです。母親は、最近身の危険を感じていたようです。監禁されるおそれを抱いていたようです。しかし今は保護され、鏡泊湖周辺の日本人の安全な隠れ家に匿っております」

 歴史の中で報じられている万宝山事件は、三姓堡万宝山の丘陵の農耕地について、総て正確に語り継いでいない。大半は左翼史観で論じられ、また自虐史観に基づいている。多くは左巻きの歴史学者によって、日本叩きをやり、論文などを一読すると、論者自身が英雄機取りで、日本人が日本人に押し付ける自虐史観にこだわっていることが明白になる。また、こうした論評が些か鼻に突く。

 昭和6年
(1931)7月2日、満州内陸に位置する新京の西北約30kmの三姓堡万宝山で、朝鮮人農民と満人農民とが、水利の利害より襲撃された事件が起こった。更に満人と朝鮮人との両者の争いに、満洲国公安局や日本の警察官とも、三つ巴(ともえ)になって衝突した事件である。この事件を発端に、朝鮮半島では朝鮮排華事件が発生し、多くの死者・重軽傷者がでた。暴動が起こったのである。

 「この背景に、いったい何があったと思うかね?」
 「それは方術に詳しい、津村さんの解答の方が、的を得ている筈です」吉田が中継をした。
 「では、おぬし、この状況をどう検
(み)る?」布袋さまが、津村に発言を求めた。
 「暴動の構図には必ず、一触即発の不均衡
(unbalance)を企てる煽動者(agitator)が居て、それは組織化されて実行されます。暴動は一人では行えません。したがって、幾ら口達者な煽り屋とても、一人では騒乱から暴力を伴う暴動へとは移行させ得ません。つまり暴動は、先ず感情の昂(たかぶ)りを煽り、次に、暴れずには終わらないという組織的な煽動策がないと暴動は起こりません。騒乱では、単なる騒動です。騒動段階では、まだ理非の判断があります。
 ところが暴動になると、理非が完全に喪
(うしな)われ、破壊、暴行や暴力、放火、掠奪(りゃくだつ)、強姦(ごうかん)、殺人などが発生し、心の暗部に棲(す)む黒い神が顕われ、心の善の神は覆い隠されます。
 覆い隠し、あたかも催眠に酔わされて眠った状態になります。この状態に至ると、単に馬の前にぶら下げられた人参ではなくなります。殺し合いまで発展し、己の命が絶たれるまで続きます。また集団エネルギーが発散されるまで、破壊し尽くされます。そして恐るべきは、これが一時的なものでないことです。時代を経ることです」

 「それは厄介だなあ。つまりそれは、命や暴動に関与するエネルギーが尽きたとしても、完全に終熄
(しゅうそく)することは無いということか」不可解そうに布袋さまが訊いた。
 また“厄介”と言ったのは、人を襲うにしろ、建物を壊すにしろ、余り計画性がなく、気の向くまま手当たり次第暴行の限りを尽くすという混沌
(こんとん)に問題があったからである。
 日頃は温和である人が、忘我になることを恐れたのである。

 「さようで御座います。それは双方に関与した者でなければ分らない心情に深い傷を残し、その傷は触れられる度に怨念化し、殺戮の遺恨として、心の襞
(ひだ)に刻み込まれるからです」
 後になるほど、その傷は深刻化するという意味である。
 「ということは、暴動はそれを起こした双方も、また鎮圧しようとした官憲も、これらの集団が三つ巴になって、つまり神懸かり状態になると言うことか」
 「人間は誰でも、心の深層部に“荒ぶる神”を潜
(ひそ)ませています。荒立つ国つ神で、人に害を与える暴悪の神のことです。この状態は、あたかも人間が神の前で憎しみ合い、殺し合いを演じることになります。
 つまり、これも則
(すなわ)ち、換言すれば祭祀(さいし)なのです。したがって、何を鎮めるかは、ここでは問題外です」意味深長なことを言った。

 「恐ろしいものだなァ。で、この祭祀は如何なる祭祀か」
 「礼に適
(かな)わない祭祀でございます」
 「なに!」
 それは勝手な言い分で行われる独り相撲という意味も含まれている。
 「要約すれば、人間の心の裡
(うち)にあって、心に巣食う神のために行う独り善がり祭祀であって、人間は自分勝手に、非礼なる、また邪(よこしま)なる祭祀を喜んでする生き物。そして我田引水も、此処から発したものです。利水問題は非礼なる邪なるものが起こしたもの……」
 「つまり、それが“荒ぶる神”か!」
 「そうで御座います」
 換言すれば、“荒ぶる神”は妄動
(もうどう)とも言える。理非なき故にである。
 つまり妄動は神に非ず、したがって恨みを抱えた先祖帰りに過ぎない。こうして憑衣
(ひょうい)されたものは恐ろしい。根深いからだ。これらは胸中に居座って除去不能である。心の疾病(しっぺい)に発展する。利水争いもこれに起因している。
 これは古
(いにしえ)の聖人や賢人の刻苦勉励の業績を偽り、無にするものだったからである。

 「という事は、非礼なる人間の幻影は、実は幻
(まぼろし)ということか。そしてその幻は、人間の欲の影であったということか」
 「さようで御座います」
 「では、この影は天上にも天下にも、そもそも存在しないもの……ということか?」
 「ゆえに、天上天下に存在しなければ、天罰も、また瑞兆
(ずいちょう)も啓示されることがありません」
 津村の言いたかったことは、学を好み、礼を習うのを怠れば結末は、こうなると示唆したかったのである。

 「なかなか上手いことを言いよる……」的を得ているという意味だ。
 「おそれいります」
 「考えれば、それもその筈だ。もともと居ない神が、邪礼に応ずるわけもなく、また人間がその聲
(こえ)を聞きたいと思って耳を澄ましても、聴こえる筈がない。勝手に祀(まつ)られた先祖の鬼神(きじん)は、ただ恨みと怒りを募らせるだけとなるのだな?」
 「はい。鬼神を見ることの出来ない人間は、したがって、非礼の何んたるかが分りませんから、いつまでたっても礼を学ぶことが出来ず、また学ぼうともせず、鬼神の、つまり先祖の悲鳴と苦悩を想像し、怨恨
(えんこん)を想いを募らし、その局面だけを拡大して見ることになります」
 恨みの原点を説いた。

 津村は三つ巴の私怨合戦を、学を好み、礼を習うのを怠れば、その結末がどうなるか論
(あげつら)ったのである。礼は、学から始まる論である。この論こそ、造次転沛(ぞうじ‐てんぱい)だろう。僅かな間でも、これは決して忘れてはならないことなのである。それは年齢に関係なく、老いても同じである。
 佐藤一斎は「老いて学べば、死しても朽ちず」と箴言
(しんげん)を述べているではないか。

 満州国に間島
(かんとう)という地方がある。
 豆満江
(とうまんこう)以北の満州にある朝鮮民族居住地を指し、現在の中華人民共和国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で、中心都市は延吉であり、豆満江(全長500kmの中国、露国、北朝鮮の三国に流れる国際河川)を挟んで、北朝鮮と向かい合う地域である。この地域を墾島(こんとう)ともいった。満洲と朝鮮との国境に接した地域である。李朝末期、朝鮮は旱魃(かんばつ)などの自然災害や大飢饉に襲われた。多くの朝鮮人は満州の間島に移住したのである。
 当時、此処には朝鮮人が60人居たいわれるが、表向きは農民であり、また林業に従事した。昼間は真面目を装った農民である。ところが夜になると、農民は匪賊
(ひぞく)に化ける。集団強盗となる。公然と行った。
 礼を知らぬ集団であった。礼を好まない集団であった。

 この匪賊は中国人の匪賊と違って、実に残忍な略奪をする。そして中国人に対しては、普段は「自分が日本人だ」と威張りちらし、都合のわるい時には朝鮮人に変身する。
 そのため在満朝鮮人と支那人との対立紛争が生じ、中国国民党は「鮮人駆逐令」によって満州から朝鮮人を追い出そうと図る。そのとき行き場を失った朝鮮人は万宝山に入植し、この地に居着いたのである。
 その後、この地では、満人と朝鮮人との紛争が多発し、満人は昭和6年7月に大挙して、朝鮮人農民を襲撃した。
 斯
(か)くして日本は、日本国籍を持つ朝鮮人を保護するために武装警官を出動させた。
 紛争の原因は朝鮮人農民が作った灌漑水路が、満人の所有地を横切ったというものであった。満人は警察に訴え、朝鮮人は日本領事館に応援を求め、その後、両者の睨み合いは激化して行くことになる。
 こうして満人、日本人、朝鮮人が平等に経済活動をして、共存共栄する満洲を目指す幣原喜重郎外相の外交方針は根本から覆ることになる。その結果、幣原外交は行き詰まりを見せた。弱腰外交の典型と言えた。

 またこの頃、満蒙では張作霖の北洋軍閥の流れを汲
(く)む奉天派が猛威を揮い始めていた。その横暴は眼に余った。幣原外交の弱腰が突かれたのである。
 本来ならば、満州事変に至る経緯から日本が条約によって正当な権益を持っていた。しかし、それが無視されて、軍閥の張学良や中国国民党軍が不当な行為を繰り返した。当時の日本の幣原外交は「日支友好」を掲げて弱腰で対応したことに端を発する。このことが以降、軽く見られ、やがて張軍閥は日本だけではなく、ソ連に対しても、北満州の鉄道を強制回収するために、飽くなき紛争を起こしていたのである。この元兇は幣原外交の弱腰に起因する。
 この弱腰は、吉田茂とは対照的であった。

 吉田茂こそは、まさに武断外交の権化
(ごんげ)だった。
 奉天総領事当時、腰抜けの日本政府は言うに及ばず、現地の軍部ですら果たせなかった武断が以降を展開したのである。そのとき吉田茂は、少壮わずか39歳であった。
 更に彼の次代を見る眼は確かだった。当初のナチス独逸の快進撃を一時的なものと検
(み)ていた。そのうち息切れすると読んでいたのである。長期戦に及べば、英国のそこ時からに大敗すると読んでいたのである。それゆえ、そんな独逸と同盟を組んでは危ういと見抜いていた。
 則ち、日本が米英に挑戦するなど以ての外と思っていたのである。況
(ま)して、伊太利亜(イタリア)などは論外だった。これを張り子の虎と検ていた。
 近代史上における伊太利亜が弱いのは定評があった。しかし当時の多くの日本人は、古代ローマの儀式用の棒束や団結を顕すファシズム
(fascism)の正体を知らず、ムッソリーニの赫々(かくかく)たる貧乏から這い上がった成功と、晴れがましい示威運動(demonstration)にまんまと瞞(だま)され、また酔わされた。これはヒトラーも同じだった。この漢はムッソリーニの言に、中世・近世の神聖ローマ帝国を第一帝国、そして仏戦争後に統一したドイツの第二帝国に続く、第三の帝国をイメージしたのである。

 もともと軟弱だった伊太利亜は、ムッソリーニの天才的な詭弁術によって、古代ローマの栄光は復活したと思い込まされてしまったのである。多くは幻惑に誑かされていた。時の日本政府も、軍部も同じだった。
 だが吉田茂は、ムッソリーニの詭弁術に少しも眩惑
(げんわく)されなかった。眼をつける着眼点が違っていたのである。彼が武断外交の権化と言われる所以である。
 ところが、幣原喜重郎はまさに吉田茂と対照的であった。

 斯
(か)くして張軍閥の要求は、次第に猛威を拡大し、且(か)つ激化して行った。その行いの中に、日系工場の強制閉鎖、設備破壊、鉱山採掘の禁止、そして日本人に対する土地貸与の禁止、森林採筏の禁止、鉄道運行妨害、強盗、鉄道施設の略奪、電線の略奪があった。更に、関東軍の駐兵権を無効とする撤兵要求、更には満鉄の接取も要求するに至った。現地の日本人居留民は危機感を募らせた。幣原外交の弱腰姿勢が招いた結果であった。

 更にショッキングなのは、同じ頃に起きた中村大尉殺害事件である。
 中村震太郎大尉は対ソ戦に備えた兵要地誌作成のために、井杉延太郎
(予備曹長)とともに変装して興安嶺(こうあんれい)方面を偵察中に、現地の支那屯墾軍第三師団の関玉衡の兵隊に捕らえられて、壮絶なリンチを受けて殺害され、遺体は無慙(むざん)に燃やされた事件である。
 したがって、満州事変を演出した昭和6年9月に遡れば、万宝事件ならびに中村大尉虐殺事件などが日中紛争である満州事変の引金となったのである。
 この時代背景を理解しておけば、満洲ので序盤から終盤に至る流れの変化が割り易い。

 話を戻す。
 「猪口君。おぬし、この事を以前から知っていたのかね?」布袋さまが訊いた。
 それは美雨
(メイユイ)の母親の江静が、粟末靺鞨族(ぞくまつ‐まっかつ‐ぞく)の首長の血筋で、M資金に関してキーワード的な存在であることを訊いたのである。
 「いえ、調査後のことです」
 「いつのことだ?」
 「それは、ある訴えから始まります。わが諜報班はM資金の探索において奇妙な一族に出くわしました。その結果、浮んだのが、美雨とその母親
(コウセイ)の江静です。この二人の戸籍と過去帳を調べ上げたのです。そして意外なことに行き当たりました。この母子が粟末靺鞨族の首長の血筋だったということです。そこで美雨を探し出して保護しました。
 当初、この娘は奉天界隈の巷陋
(こうろ)の不潔窮まるところを塒(ねぐら)に、乞食同然の極貧の生活を送っていました。この時期、寒村から、職探しに出てきたいたのです。かつての大地主は、土地を奪われて寒村に追いやられ、粗末な掘建て小屋に棲(す)んでいました。万宝山では最下位の生活を余儀なくされ、そりゃあ酷いものでした。動物より増しという極貧です」
 猪口は奉天の街角の一劃
(いっかく)で、途方に暮れて蹲(うずくま)っている少女を視たと言うのである。彼の眼には彼女は迷子の仔犬(こいぬ)のように映ったのかも知れない。
 「職探しに来ていたのか」
 「娘は母親一人残して、奉天に出てきていました。しかし、職はなかなか見つからず、発見された時は乞食同然でした。そのとき奇
(く)しくも、娘を保護するに至りました。以降、満映お抱えということで、美雨を下働きとして雇いました。以上が、これまでの経緯です」
 「それから、どうなった?」

 「美雨はよく働きました。日本語も日増しに巧くなり、仕事をよく理解するようになりました。
 この親孝行な娘は、自分の給金から自分の生活費を残して、総て毎月母親に送っていたそうです。
 ところが数ヵ月前、美雨が満映から受け取っている筈の給金が、母親の許
(もと)に無事に届いているか、調べて欲しいと訴えたのです。
 そこで調査をしました。調査の結果、総て奪われ、届かず仕舞いでした。別の第三者に奪われていたと考えられます。その後、犯人は総て分りました。犯人は、昼間は農民、夜は匪族の連中です。
 また、匪族にはソ連子飼の狗
(いぬ)も混じっていました。腐肉を食べる一種のハイエナです。ソ連の狐が、狗に取り憑(つ)き、土竜を走狗に遣い、満映内に『狗』の組織を構築され、その後機密事項が漏れるようになりました。
 原因は、次々に人間狩りを行っていたのです。役者の卵に狙いを定めた人攫
(ひと‐さら)いです。人身売買組織です。その魔の手が、やがて美雨にも及び、狙われると察ししました。
 何故なら、母親は猟られて、幽閉さそうになったからです。粟末靺鞨族の首長の血筋というのは、これを買う側にとって、奴隷と併せて売り飛ばせば、大きな利を手に入れられます。暗黒組織は母子ともども猟って、満洲極秘情報の「M」と抱き合わせて、奴隷市場で競りに出す。おそらく高値がつくことが予想されます。そう踏んだのでしょう」
 「なぜ、その娘が狙われると察したのかね?」

 「幽閉・監禁直前の母親の行方を捜していたときです」
 「探索でか」と訊き返した。
 「はい。そのとき分ったことは、満映内部に、敵に通じて媚
(こび)を売る土竜が潜伏していること突き止めました。狗です。狗は母親とともに美雨までもを標的にしていました。猟られる寸前だったと言っていいでしょう。しかしまだ、美雨は……」と言い掛けた。
 それは、美雨は完全に庇護下にないと言うことであった。女優の化粧係として、心境飛行場内の満映スタッフとして働いているからである。そして彼女は、自分の母親が鏡泊湖周辺の日本人の隠れ家に匿われていることを知らない。
 分析すると、背後のは巨大な羆
(ひぐま)がいて、その羆の周りをうろつく狐がいる。この狐は羆に付かず離れずでうろついている。離れ過ぎれば、羆が捉えた獲物のお裾分けに預かることが出来ず、近付き過ぎれば自らが啖(く)われる。そこで付かず離れずを繰り返しつつ、地下に潜った土竜を叩き起こして指令を下す。土竜は暗躍し、腐肉を餌に狗を操る。狗は血の匂いを嗅ぎ分け、ハイエナ擬きの走狗に奔(はし)る。これが、匪族が暗躍する構図である。
 ちなみに走狗を「イヌ」という。匪族のことである。

 こうした地下組織の暗躍も、日本のアジアでの敗戦が確実になりつつあったからであろう。敗者は猟られて好き勝手にされる。匪族が暗躍する当時の時代背景である。
 特にソ連の動きは満洲では活溌になり始めていた。この活発な動きは、何を意味するのか。
 その根底には、ソ連に対日参戦であった。もしソ連が、連合国側に廻って対日参戦すれば、英米だけでも手一杯なのに、ソ連が加われば、その敗戦時期は一層早まろう。ソ連は、対日参戦を絶好の好機と捉えていたからである。
 連合国側はヤルタ会談の準備を始めていた。
 米国のルーズヴェルトと英国のチャーチルは、ソ連のスターリンを加えて、最高指導者会議を企て、独逸敗北後の独逸の管理を、如何にするか話し合うの準備を始めていたのである。この事から考えれば、ソ連の対日開戦は、確実のものと思われた。そしてスターリンの腹積もりは、凍らない港・日本列島を手に入れることであった。
 それだけに、この戦争は早期戦争終結が重要だったのである。

 日本が強硬姿勢で抵抗を続ける限り、講和の条件は弛
(ゆ)むとは考えられないからである。強硬すれば、ますます条件は厳しくなるだろう。このとき日本は講和に持ち込む条件を既に逸していた。
 更にソ連が参戦した場合、日本は、先ず樺太経由で北海道に攻め込まれるだろう。侵攻が進めば、本州東北地方にソ連軍が侵入し、確実に日本は崩壊するだろう。その後の国家再建は、殆ど不可能か、仮に再建が成ったとして、早くとも半世紀以上の年月が懸かると看做されていた。
 何ぶんにも、戦争終結を急がねばならなかった。遅くとも一年未満のうち、である。

 「その土竜は?」布袋さまは所在を訊ねた。
 「突き止めております。瞿孟檠
(く‐もうけい)という男の手下です」
 「なに!」
 その聲
(こえ)は、布袋さまと津村陽平が同時に発していた。
 「人買いの元締です。この男の手下も、満映内の周囲に配置されておりました。漏れる筈のない情報が、最近は次々に漏洩していたからです」
 それは女優の卵のリストであった。新人女優で、本来は表に出ないリストである。しかし卵の女優群は、早期戦争終結のための『タカ』のリストでもあった。狐が土竜を遣い、土竜が狗を遣う“猟の構図”が展開されようとしていた。
 その証拠に、狐の土竜が満洲国の間者を捉え、これを逆スパイにして、満洲へ続々と繰り出しているからである。『タカ』の動きを探るためだ。この土竜は間接的に言って、ソ連の最精鋭軍団の極東第五軍の動きと連動されていた。羆は『タカ』がこの動きを知っているのではないかと懸念している。そして『タカ』も羆の動きを牽制していた。
 この最精鋭軍団が極東に動く……。それを顕すものだった。つまり満洲に攻め込む計画準備を始めていると採るべきなのである。対日参戦を決定させる兆候なのである。ソ連の対日参戦、近し!……。
 その前に早期戦争終結を目指したい。もたついていると、講和が御破算になってしまうのである。

 「直ぐに逮捕せよ」
 「瞿
(く)は貌のない影の皇帝です。手下を逮捕したところで、瞿には到達出来ません。猟れるのは狗ばかりです」
 この組織は攫
(さら)った婦女子を売買いするだけでなく、政治世界の暗黒の部分を支配している。人間の最も本質的な闇を構築しているのである。その構造は複雑で、多岐に支配系の触手を伸ばしている。一人を逮捕することで、組織が簡単に崩壊する訳でない。
 当時の構図は、背後に老獪
(ろうかい)で獰猛な羆(ひぐま)がいて、その周りに狡猾(こうかつ)な狐が付かず離れずで遠巻きにし、狐は土竜に何らかの価値のありそうな餌をちらつかせ、土竜は狗に自分の食い残しの腐肉を投げる。狗は、まるで蜜に集(たか)る蝿のように、競ってこれに群がる。巧妙な仕掛けである。
 斯くして走狗の匪族構造の実体が泛
(うか)び上がって来る。

 「そこで……」と切り出したのは、猪口敬三であった。
 この漢は満映の映画監督を模しているが、奉天憲兵隊の憲兵曹長でもあり、また陸軍情報将校であった。本業は諜報員である。
 「なんだね、猪口君」布袋さまが促した。
 「一計を案じました。美雨
の母親・江静(コウセイ)は、いま万宝山の丘陵地に居(お)りません」
 「なに?」
 「移しました」
 保護しているからである。今は保護され、鏡泊湖周辺の日本人の安全な隠れ家に匿われているからである。
 「どういうことだ?」策を訊いているのである。
 「我々が保護して、鏡泊湖湖岸のある所に匿っております。しかし、それでも完璧とは言えません。命に危険が及んでいるからです」
 「如何なる理由からか?」
 「江静が何処かの情報機関とか、犯罪組織とかに掴まってもらっても困るからです」それはソ連狐や土竜だけではないという意味のことを言った。やがて狗が嗅ぎ分けるという意味である。狗は何も腐肉ばかりを喰らうのではない。ときには生きた肉も喰らう。また、その猟の仕方が残忍である。

 「それはソ連の土竜だけではないということか?」
 「そうです。八路軍にも中国国民党軍にも、況
(ま)して、人買い組織だけではありません。問題は、日本の官憲です。彼らは全く秘密戦の何たるかを理解しておりません。もし憲兵隊を始めとして、特高警察などが彼女を捕まえれば、殆ど理由なく、便衣隊の片割れと判断して射殺する恐れもあります。
 そして、最も質
(たち)の悪いのは、右翼や陸軍の戦争強行派の過激分子です。この連中は卑劣で残忍なテロを企てる恐れがあります。もし、元外相だった松岡洋右のお節介が加われば、それが克明になります。この連中は便衣隊以上に警戒を要します」
 松岡洋右は満鉄総裁を経て、近衛内閣のとき外相として、日独伊三国同盟や日ソ中立条約を締結した外務大臣である。日ソ中立条約を締結したとき、スターリンを「西郷隆盛のような人だ」と公言したのは、全くのお門違いもいいところだった。松岡の眼は凡眼だった。いや、愚眼といっていいだろう。
 一見弁舌
(べんぜつ)爽やかで、饒舌(じょうぜつ)な論者と看做されたのは、アメリカ留学時に覚えたコカイン中毒の覚醒症状であると言う。陸軍には圧倒的な人気のあった外務大臣である。コカインで脳が殺(や)られた外相だった。このとき日本人の多くは、松岡の口先を雄弁と捉えたのである。
 かの『韓非子』は「亡徴」の一篇で言う。
 「刑罰は淫乱、法規に忠実がなく、弁舌の巧みなる者を愛してその実力を考えず、見てくれの華麗に溺れてその実効性を顧みない国、そは、亡ぶべきなり」
 松岡が外相に任命されたとき、既に日本は亡徴の気配を漂わせていたのである。

 「バカどもにも困ったものだ」
 「更に、M資金の行方が完全の塞がれてしまいます。検挙のみに血眼になる官憲が愚行を働く前に、江静・美雨母子を庇護し、彼らの眼に触れない所に隠さねばなりません。そして満映に蔓延
(はびこ)る土竜を叩き出して、白日に曝(さら)し炙る必要があります。一刻も有余がなりません。禍根(かこん)は早めに断たれた方が宜(よろ)しいかと」
 「よし分った」
 「土竜は地下に居過ぎたために、白昼の光が苦手です。そこで光と影の両用できる狗が使役されます。しかし狗の害は匪族然で想像に余りあります。時に徒党を組んで出没し、殺人や掠奪を事とします。そして憂慮すべきは、一度この構図が出来ると、徒党は意識せずとも勝手に拡散して行きます。治安はますます悪化の一途を辿ります。そのうえ周囲に暴動することを煽ります。暴動は盲動です。こういう感情誘発は異
民族間に騒擾の情動を齎します。事あるごとに集団催眠のような状態に陥れられます。
 あの忌まわしい利水問題のように……。再び昭和6年の愚を繰り返してはなりますまい。亡国の魔力に酔わせてはなりますまい。今こそ土竜と狗の退治をしておかねば、のちのち禍根を残すことになります」促すように語尾を強めた。
 「直ちに出動せよ」命が下された。

 「では、私めも、大掃除のお手伝いを……」津村が願い出た。
 津村の心境には、朋友知己
(ほうゆう‐ちき)を新たにするものがあった。
 「煽り屋と伴にするか」
 「はァ!」昂然
(こうぜん)と胸を張った。自らも突撃する構えだった。
 「では、さっそく」それは動けという意味だった。暗躍である。まず美雨を保護しなければならない。
 「では、お言葉に甘えまして」
 津村陽平が動く。しかし、どの手で行くか状況次第であった。
 「で、サトウ少佐には何と言いましょう?」吉田である。
 「よしなに」
 「よしなにですか?」呆れたように言った。
 「だったら、いつもの病気が出て、その辺を散歩しているとでも伝えておいて下さい」
 「君は、もう徘徊が始まる歳になったのかね」布袋さまが苦笑気味に訊いた。
 「こういうのを早期痴呆というのでしょうか」と、ふざけてみせた。
 「おもしろいことをいう……」
 斯くして津村の暗躍が始まった。夜陰に乗じて企てを巡らし、敵を操り、味方に方便を用いる場合は整理と順序を定めておく必要があった。状況の変化に、予期せぬことで迂闊
(うかつ)に足を捕られてはならない。

 では矮男
(こおとこ)は、なぜ暗躍するのか。
 気掛かりなことがあった。
 昨日、室瀬佳奈に恃
(たの)まれて、馘(くび)になる寸前の美雨を扶(たす)けたからである。その時の関連を考え、二人の少女の仲を思った。両者には、暖め、繋がる縁があるものを観た。それだけに、扶けを求めたのである。
 一方、監督の猪口も首にする気などさらさらなかったであろうが、佳奈からみれば、この構図が監督に激怒によるものと映ったに違いない。だが実際には違った。そういう役を引き受けただけであった。
 果たして彼女の理解はなるだろうか。
 思えば、人間の思惑はそれぞれに異なり、それぞれは生きながらに、ひどく虚しい戦いを人生で演じているのである。


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