運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
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続々 壺中天・瓢箪仙人 10

時務とは読んで字の如く「時」を指し、時は「時機」でもある。瞬時と言うことが課せられる。緊急事態である。
 その時、その場の、突然発生した特異点的な異常事態に対し、如何に処理をするかが時務なのである。
 発生した異常事態を、「生きた問題」として捉え、これを即時に処理しなければならない。その処理能力を時務と言う。
 元の曾先之撰の『十八史略』には「時務を知るは俊傑
(しゅんけつ)にあり」とある。並みより優れた人物を指す。
 初学者の読本として、十七史に、宋史を加えた「十八史」を摘録してた書である。

 特異点的な異常事態の発生を、どう処理するか。どうしたら短期にそれが解決できるか。
 この解決策を齎すものは、根幹にはその人の人格や教養、信念や決断、度量や伎倆がなければならない。多大な経験と体験を積んでいなければならない。
 問題解決に当り、机上の空論では解決策は見出せない。また頭を抱えて苦悩しても、打開策は見えて来ない。更に、悪戯に悲憤したり憤慨したり、たが迷っているばかりでは現実の問題を何一つ解決できない。したがって、揺れ動く優柔不断の輩
(やから)は、少なくとも「俊傑」とは言い難い。胆識者でないということだ。

 優柔不断なる輩は、ただ肉の目や小手先の知識に振り回されて、惑わされ、揺さぶられているだけに過ぎないのである。この種の輩は、数値主義者にも多く検
(み)ることが出来る。肝心なる実体を検らずに、ただ数字の字図らだけを追い掛けているのである。
 また、ミクロ的な細分や分析だけで終わり、検査に終始することも少なくない。検査で、直面する問題を解決できないのは至極当然のことであろう。

 つまり俊傑とは、有事に対して適切な決断が出来、現実問題を処理して行く能力をもった人のことを言うのである。ゆえに、この能力の人を「時務を知るは俊傑にあり」と言ったのである。

 (写真は当時見たものと無関係で、平成27年10月10日、陸上自衛隊西部方面隊駐屯地の目達原駐屯地上空で筆者撮影)


●鵺計画

 時代は急速に逼迫していた。悪化方向に傾いていた。
 では、その元兇は何か。
 一つの権力の愚行に辿り着く。
 武力偏重では国運を危うくする。だが日本は、ナチス独逸の版図拡大と、相次ぐ快進撃の軍事的勝利に完全に幻惑されていた。武力をもって、米国との緊張は軍事的に解決出来ると思い込んでいた。

 だが武力作戦では無益な殺生を積み重ねることになり、有害無益な殺人謀略にも繋がってしまう。悲劇は拡大するばかりである。その拡大に殺された側の恨みが、怨念となって歴史に刻まれて行く。それを何とか阻止しなければ、日本民族末代までの恥となる。恥の汚点が永遠と歴史の中で語り継がれて行く。
 権力でも武力でも、用い方を誤ればその無知・傲慢は歴史に恥を晒
(さら)すことになる。これでは万民の平和は訪れない。武力作戦偏重主義の愚行に留めを刺さねば……。
 愚行に留めを刺す。智を駆使し秘密戦を通じて、そのように工作する。
 既に論じたがイソップ寓話の『北風と太陽』である。
 太陽の暖かさ。その恵み。
 これが智謀であり、その裏には「惻隠
(そくいん)の心」がある。弱者に対して憫(あわれ)みや労り、相手の気持ちを思う温情や人生の機微、武士道の根底には惻隠が在(あ)ねばならない。
 人の人たる所以
(ゆえん)は、他人(ひと)の不憫(ふびん)を知って始めて、人間の「格」が確立される。それには暖かさが要(い)る。太陽のような暖かさである。弱者を労り、温情にきすことが『タカ』計画の主旨であった。そのために秘密戦士は闇を暗躍する。闇を照らす太陽の光を知るが故である。

 平民が遺伝子の中で持ち慣れない武力を持つと恐ろしい。
 背景には、佐官どもの独断専行と下克上の弊風は猛威となって大旋風を起こし、これが大戦末期の本土決戦へと繋がるのである。階級的には大尉・少佐・中佐の参謀本部課員が陸大卒業時の恩賜風を吹かせて、例えば支那駐屯軍の将官や参謀長らを、夜中でも叩き起こして、一方的に主戦論を煽り立てるのである。これは国そのものを危うい方向に導いたのではなかったか。大陸の戦火がそれを雄弁に物語っている。
 庶民・平民でも人間であることには変わりない。四民平等。士農工商の身分観念は一切無し。一見、理想社会の平等の概念で溢れているように思える。
 ところが平民が権力を握ると恐ろしい。昨今の官僚主義の、底辺末端の顕微鏡下の微生物を見れば分る。その微生物は、官僚の眼にはどのように映っているか。
 このとき、手駒とする底辺の微生物をどのように動かしたか、それを観測すれば分ることであろう。
 一握りのエリートは万事抜かり無く、何喰わぬ貌をして、険悪で恐ろしい手を打って国民を戦争へと駆り立てた。またその後遺症が、大戦末期まで継続されていたのではないか。

 庶民・平民であっても、福沢諭吉の『学問のすゝめ』によって、国民の誰もが認める「三大難関校」を突破して一度
(ひとたび)官僚の地位を得ると、人間はこのように底辺・庶民の微生物を、赤紙一枚で酷使し、人命を軽視するのである。本来ならば、庶民・平民こそ、庶民の味方でなければならなかったのではないか。
 平民の能力は、名も無い庶民には還元されなかった。平民官僚に利益配分されただけである。
 平民官僚の有能が結局、権力として使われて、庶民が酷使される実情を生んだ。彼らに握られた、庶民で構築された手駒は兵役で酷使され、消耗品として遣われた。
 やがて負け戦が込むと、平民の感傷主義は、“滅びの美学”に傾く。惻隠など一切無し。
 そもそも高文官試験で難関を突破した平民官僚の遺伝記憶の中に、惻隠は皆無であるからだ。武士道皆無である。これは日本人全体が尚武の民でないからだ。尚武の民の存在は、全体の圧倒的少数に過ぎない。

 昭和19年当時の日本政府と軍部は“滅びの美学”に酔っていた。どこまでも醒めあらぬ酔っぱらい劇を演じていた。未だ“井の中の蛙”状態の、陸軍参謀本部の戦争継続強硬の方針と真っ向から対峙
(たいじ)する。
 『タカ』計画工作は、この愚に留めを刺す。秘密戦を通じた愚行集団への挑戦であった。
 また『梟の眼』はそういう戦争を煽る強硬派とは、真っ向から対峙する諜報勢力であった。

 向き合うは明治維新以来の反平民勢力である。平民軍隊官僚に対峙する平安期以来の公家勢力である。武装非戦論と戦争早期終結を掲げる。
 対峙構造は武力一辺倒で、対外進出で国威を高めようとする立場を執
(と)る平民軍隊官僚に対して、智謀で武力を封じ込める。非戦と兼愛を掲げる意味では、墨家(ぼっか)に酷似する。この勢力に『タカ』計画が投入された。この度の大戦では国民の兼愛を説き、早期終戦の画策を企てる。まず、戦争は止めねばならない。国民を根絶やしにして、何が国家だ、民族だとなる。帝国主義・植民地主義を煽る国際化主義の断乎阻止。
 地球を欲望で膨張させてはならないのである。その挙げ句に滅びの美学で、総てが死に絶えてはならないのである。

 権力者の思惑で動かされる官僚主義。
 この官僚主義は、当時、軍隊官僚の中に歴然と存在していた。その延長上に高級試験制度があり、今でも日本人が尊敬する対象は、容易に突破出来ぬ難しい試験に合格した人である。戦前戦中を通じて、国家を運営する高級官僚と陸海軍の佐官級ならびに将官級の軍人には殆ど批判を加えた人は居なかった。明治大正昭和を通じて、新聞は政治家と実業家には罵詈雑言
(ばり‐ぞうごん)を投げ付けたが、参謀肩章を吊った軍隊官僚には一言も批判を加えなかった。参謀肩章は一握りの頂点のエリートで、一般の日本国民から見た陸海軍の参謀は雲の上の人であった。陸軍参謀本部や海軍軍令部に入るには、何れも陸軍大学校や海軍大学校を首席やそれに近い順番序列で卒業せねばならなかった。恩賜組である。国家の頭脳とされた。
 現在、かつての帝国陸海軍は消え去ったが、未だに日本の最難関は国家公務員採用I種試験である。日本の多くの国民は、その試験の合格者に対して殆ど批判の眼を向けないのである。
 この構図は戦中を通じて、「一億火の玉」を強要した軍隊官僚と酷似するようである。再び、滅びの美学に酔い痴
(し)れる酔っぱらい劇を強要するかも知れない。

 武装非戦論……。
 これが一つの兵器を生み出した。『空龍』である。第一号機として試作品が完成した。しかしそれを操る者が居ない。適任者がこれまで居なかった。そこで『タカ』はある人材に行き着いた。埋もれ、闇に葬られ、無慙に潰えようとしていた人材である。
 『タカ』の実行者は、国家転覆罪で死刑の判決を受けて、死刑執行を俟つばかりの元英国空軍少佐のアン・スミス・サトウに目を付けた。併せて、治安維持法違反で無期懲役の判決をうけた妹のキャサリン・スミスにも目を付けた。この姉妹を手に入れようとした。英国ロイヤルファミリーの二人の姫である。
 実行者は陸軍刑務官で『要視察人』のお墨付きを持つ憲兵将校の沢田次郎であった。府中刑務所で服役していた二人の姫を救出して、『タカ』のメンバーに加えたのである。
 いま彼女たちが、満洲国の新京飛行場に居るのは『タカ』の指令によるものであった。

 四発の大型飛行艇が朝の明澄
(めいちょう)な光に、神々しく輝いていた。あたかも『荘子』(逍遥遊)に出て来る気宇壮大な未来を孕(はら)んだ鵬(おおとり)のように映る。
 「これに大枚の金を賭けましたか」津村が『空龍』を見上げて妙なことを言った。
 しかし一方で、四発大型飛行艇の
大きさに圧倒されている。
 「そのようですわ」アンが相槌を打った。
 「しかし博奕打ちが、金を賭
(か)けるようにはいきますまい」『空龍』を見上げて言う。
 「そのように言われると、鵬を前に何だか賭け事をしている賭博師のようにも聴こえますわ。あたかもギャンブル狂のように……」
 「少佐殿は賭博師ですか」鎌を掛けて突っ込んでみた。
 「G・P・U
(ゲー・ペー・ウー)のパヴロフ・カウフマンとのポーカーのことを言っているのですか?」
 「そのように聴こえますか?」空恍
(そら‐とぼ)けていう。
 「いやァ、今度は少佐殿が、何を賭けて勝負をするかと思いましてね」興味津々である。
 「厭なお言葉……」
 「そのように採
(と)られましたか」
 「わたくし、これを操縦するのに命を賭けておりますわ」
 「素晴らしいですなァ、敬服します」
 「それって、なにか皮肉のように聴こえますわ」
 「僭越
(せんえつ)ながら、わが輩は少佐殿がてっきり運命を賭けていると思いましたよ」
 アンはこの言葉が胸にぐさっと来たようである。わが命などと言う、その程度のものを賭けて勝負するのかと問われたように感じたからだ。
 「では先生に、お訊きします」
 「何でしょうか」
 「先生は、では、何を賭けよと仰りたいのです?!」語尾を荒げて訊いた。
 「まァ、負け戦が連続している今日この頃です。野暮なことは訊きますまい。しかしですなァ、負け将棋をもう一番もう一番と繰り返す軍部に、負け将棋を止める勇気がないことは、些か残念に思いませんか。
 そしてもっと残念なのは、負け将棋をしている棋士に、将棋を止めさせる勇気のない傍観者が居るのは、もっと残念だと思いませんか」
 「えッ?……」
 「わが輩が、大法螺
(おお‐ぼら)を吹いて“山こかし”をしてみせるというのは、ただ見ているだけの傍観者になることが、どうも居心地が悪くて、尻が落ち着かんのです。ここは大法螺でも吹いて、運命を賭けて、ひと勝負するのも一興だと思いましてなァ。しかし、大法螺とは言え、大法螺で片付けられるのも些か無念。法螺吹きは最後まで法螺貝を吹いていたいものです」
 「先生はおもしろいことを言われますのね」

 「そうでしょうか。
 わが輩は幼少の頃、父から日本海海戦の東郷平八郎元帥のことを散々聴かされました。父は寝ても醒めても東郷元帥だった。何故かと言うと、この提督はある人から『この海戦で敗れたらどうなるか』と訊かされたそうです。そこで『私は一度もそんなことは考えたことがない』と明言したそうです。
 負けたらどうなるか?と訊かれて、負けることなど考えて勝負をするのは愚行と言うもの。勝負師としては失格。真物
(ほんもの)の勝負師なら、最初から負けることなどは微塵も考えなくて宜しいのです。
 つまり、己
(おの)が安っぽい一命を賭けずに、国の運命を賭ける。血の勝負師は、国家の運命を賭けて勝負するものではないでしょうか。
 もし負けたらどうするか?……。その時は、皇国の興廃を、つまり運命を賭けてする決戦である以上、負けた場合は、皇国は地球上から消滅するだけです。世界地図から、日本と言う国がなくなるだけです。
 事前に、何ゆえ命を賭けてやる勝負に、負けを意識する必要がどこにありましょう。
 運命を賭けてやる以上、敗れないこと以外に、その可能性はないのです。したがって少佐殿は、こいつ
(二式大艇改の『空龍』を指して)を日本に向けて飛ばして、国運を賭けてそれを遂行したときの事だけを考えればいいのです。運命として残された路(みち)は、他に何処にありましょう。
 血の勝負師は、血を賭けて勝負をするもの。そしてそれで命を落としたとする。しかしそれは、運命の結果に過ぎますまい。その結果を、何ゆえ人間が考えねばならないでしょうか。
 運命、則
(すなわ)ち天命は、人間側はどうこうすることは出来ないのです。また人間側にも責任がない。結果を齎すのは天の方です、人間じゃない」

 「貴重なご意見ですわ。わたくしにとっては、目から鱗と申しましょう。
 先生。この『空龍』というのは賭け金が、一機当り約21億2千4百万円だそうです。皇国の興廃を賭けて勝負する金額としては如何思われます?」
 「兵器を遣うのは人間です。操縦者が未熟ならば高いでしょうし、熟練ならば安いと言えましょうなァ」
 「そのように言われますと、些か苦悶
(くもん)してしまいますわ」
 「わが『津村流陽明武鑑』の術には、戒めとして、智者でさえ智に奢
(おご)れば智に溺れるとし、危機の脱し方について、任せる時には任せよとあります」
 「任せる?……」
 「はははァ……」と一笑してから「それはですなァ、思い患
(わずら)うなということですよ」と、彼女の心悸(しんき)を労することを制したのである。
 「思い患うな?……ですか?」
 「さよう、あの娘のように」
 「あの娘?……」
 「ほら、この満人のあの娘」顎
(あご)でしゃくって、いま室瀬佳奈と笑いを交えて話している満洲映画社の化粧係のスタッフの少女を指したのである。その少女は、おそらく室瀬佳奈と同じくらいの年齢であろう。歳の頃は13、4に映る。
 この映画社には満人の少女は四人いたが、その中でも最年少であるらしい。すっかりと佳奈とは仲好しになっているように見受けられた。黒真珠のような瞳を持つ利発な娘であった。
 二人は休憩時間を憩いのひと時として過ごしていた。仕事の時は無言で、言付けられたことを次々に間断なく捌き、きびきびと働く少女であった。四人のうちで、日本語がよく出来る娘だった。

 「任せているのですね、あの娘(こ)
 「さよう。労多く、酬
(むく)われないことを、些かも気にせず無邪気です。実に天真爛漫です」
 「わたくしも、斯く、ああ在りたいと思いますわ」
 「賭け金を張った以上、勝負師としては、運命に任せて、以降、思い悩むことはありますまい」
 「それを聴いて、少しばかり気が軽くなりましたわ。やはり、なんとかなるものですねェ。
 ところで先生。今から機内をご案内致しますが、どうされます?」
 アンは既に技術将校や整備関係者から詳細な説明を受けて、殆どを把握しているようだった。

 「わが輩は飛行機乗りではない。案内され、また計器類を細々と説明されても、これまでの商売が商売で、全く絵が売れない絵描きをしておりましたからな。さて……」
 「では、その売れない絵描きの眼で、点検なさって助言を一言」
 「絵描きの眼ですか、それも売れない絵描きの眼で。おもしろそうですなァ」
 こう返事して、アンの跡に従った。
 画家は、青い制服が似合う彼女のほっそりとした後ろ姿を凝視しつつ、のこのこと蹤
(つ)いて行った。
 タラップを昇り、機内へと案内されたときも、彼女を画家の眼で見ていた。モデルと機内背景という構図の組合せである。
 「ほーッ、結構なものですなァ」感歎の声を上げた。
 「この内装、満鉄の車輛部の作ですって。あの『あじあ號』の特等席を手掛けたチームが、これを内装したと聴いています」
 「いや、そういうことではない。少佐殿の姿が、この風景によく似合う。あくまで画家の眼ですがね。
 かのルノアール大先生だったら、一も二もなく、少佐殿に即モデルを依頼するでしょうな。
 一方、わが輩めは、些か気が咎
(とが)める……」
 「どうしてですか」
 「この空間から冷然と見下されているようで……」
 「?…………」
 「わが輩如きは、ここは場違いと言うものです」
 津村は、この機が空飛ぶ応接間と聴いたからである。貧者の絵の売れない絵描きには無縁の場所だった。
 「他に言うことは御座いませんの?」
 「では、便所は何処ですかな?」
 「?…………」
 「わが輩は歳の所為
(せい)か、涙腺だけではなく、最近は尿道線まで弛みっぱなしで便所が近いのです」
 「まァ」呆れたという感じだった。
 斯くして機内見学は終わったのである。


 ─────室瀬佳奈と笑いを交えて話している満人の少女の名は美雨
(メイユイ)といった。彼女は新京市郊外の万宝山(まんぽうざん)の河畔の寒村出身と言う。
 「佳奈ちゃんのお仕事、女優さん、それともエア・ガールさん?」
 「えッ!お仕事?……」佳奈はこう訊かれて少し驚いたようだった。まさかこの娘に正体を明かす訳にはいかない。
 「ねェ、どっち?」
 「今はエア・ガールに扮する女優さんかしら」
 「どこから来たの?」
 「東京から」
 「東京って、新京とどっちが都会?」
 「新京は満洲の大都会と聞いているから、こっちの方かな。美雨ちゃんはどこの生まれ?」
 「わたし、万宝山の寒村で育ったの。でも景色はよくて、新京郊外にある河畔の小高い丘陵地よ」
 「わたしは東京の下町生まれだから、丘陵地のことは余り知らない」
 「だったら、まだ学生さんよね。佳奈ちゃん、どこの学校?」
 「東京の共立女子高等学校よ」
 「へッ……、高等女学校。凄いんだね。わたし、小学校もろくに出てないの。一年生のとき、最初の半年通っただけで直ぐに辞めてしまったわ。家、貧乏だったから」
 「そのあとは?」
 「新京に出てきて下働きなどをして、家にお給金を仕送りしていた。そして十歳の時に満映
(満洲映画)の今の監督さんに拾われて、ずっと働いているの。女優さんのお世話して」
 「家族、何人?」
 「私とお母さんだけ」
 「たった二人だけ?お父さん居ないの?」
 「私がずっと小さいとき、万宝山の事件で死んじゃった」
 「えッ!死んだ?……」
 この事件は昭和6年
(1931)に起こった事件である。発端は水利問題である。中国東北地方長春郊外の万宝山付近で、朝鮮人入植者と中国農民との衝突事件である。これを機に、朝鮮各地では中国人に対する報復暴動が発生した。満州事変前のことであり、日本の対中強硬論が、これを切っ掛けに勢いづけた事件である。日本の大陸進出は、この事件に端を発している。

 「本当は殺されたの」深刻なことを言った。
 「殺された……」佳奈に烈しい衝撃が疾った。美雨の父親は殺されたという事実。どう受け止めればいいのだろう。
 「佳奈ちゃんは何人?」
 「お母さんとお婆ちゃんは東京御徒町。お父さんは今、硫黄島に守備隊に居る。そしてお爺ちゃんは60歳過ぎて徴兵されちゃった。哈爾濱に居るの」
 「みんな離ればなれね、寂しくない?」
 「さあ、どうかな」
 「佳奈ちゃんと一緒に居る、二人の外人のお姉さん、あの人たち、だあれ?」
 「わたしの先生」
 「もう一人のお姉さんも?」
 「あの方は大学生」
 「佳奈ちゃんって、周りにはみんな偉い人ばかりね。そしたらよ、あの変なお坊さんのような小さなオジさんはだあれ?」
 「あの方は、とても偉い人なの」
 「じゃあ、喇嘛のお坊さん?」
 「そうかも知れない。徳の高い方なの」
 「わたし、てっきり、新疆
(ウイグル)辺りの崑崙山(こんろんさん)から来た仙人と思っちゃった。ねえねえ佳奈ちゃん。あのお坊さん、どこか福禄寿に似ていない?」それは頭の大きいことを言っているのだろう。
 「ほんとほんと。美雨ちゃん、おもしろいこというね」と言ってくすっと笑った。
 「おかしいでしょ」
 「でも美雨ちゃん。日本語、うまいね」
 「監督さんに教わったの」
 この二人の少女は休憩時間の一時、互いに水を得た魚のように愉しく語らっていた。
 「そうなの」
 「でもね、監督さんの本当の正体はね、奉天憲兵隊の怕い憲兵さんなのよ。佳奈ちゃん、知ってた?」
 「ううん。それ、誰から聞いたの?」
 「満映の他の人が言っていた……」
 この話を聴いて、佳奈は背筋に冷たいものを感じ、再び戦争の中に引き戻されていた。


 ─────初期段階の離着陸訓練が開始された。申し分のない飛行テスト日和である。搭乗員は搭乗員名簿にある選抜された十名である。
 格納庫に駐機していた二式大艇改『空龍』に、クルー全員が乗り込んで持ち場に着いた。
 アン・スミス・サトウ少佐が機長席に着いた。彼女は満洲映画社が用意した女性パイロット用の紺色の制服に同色のフライトキャップを被っていた。肩章と袖章には、機長を顕す金筋の四本線がきらめいている。
 副操縦士はこれまで逓信省の郵便連絡の双発低翼機を運航していた陸軍上等兵の向井田亮介である。彼は負け戦が込んで、人員不足から、大戦末期、軍に徴用された52歳の老兵である。『タカ』から呼ばれる前は、陸軍の複葉連絡機に乗っていた。
 コックピットクルーは、それぞれが持ち場に着座していた。
 航空機関士は大日本航空の搭乗員の明石洋之、航空通信士は同じく大日本航空の可能信也、そして航法員は海軍一等飛行兵曹の鳥居元である。
 また客室乗務員はキャサリンスミス少尉を主任として、世話係が鷹司良子伍長、室瀬佳奈兵長、アニー・セミョーノヴァ兵長並、調理師並びに世話係がミヤ・スコロモスカだった。
 このクルーに、取扱説明をする鳴海信吾技術少佐と犬塚勉技術大尉が同乗する。
 またコックピットには、テスト飛行を前に、キャサリンが副操縦士の観察者
(observer)として特別に付添っているのである。彼女がこの役を引き受けたのは、オックスフォード卒後、民間航空防衛隊ATA/航空機輸送補助部隊の女性パイロット隊)に所属した経験を買われてのことである。彼女はATAを経て婦人士官を志し、陸軍少尉として、英国陸軍航空隊の輸送部隊に籍を置き、四発爆撃機の空輸操縦を担当していた。
 コックピットクルー全員はフライトキャップの上に、小型マイク付きのヘッドホーンを装着している。

──── 『空龍』運航搭乗員名簿 ────
姓 名 性別 年齢 役割・担当 階  級 経歴または所属
アン・スミス・サトウ 27歳 機 長 陸軍少佐 テストパイロット
向井田 亮介 52歳 副操縦士 陸軍上等兵 逓信省飛行搭乗員
明石 洋之 40歳 航空機関士 航空会社搭乗員 大日本航空
加納 信也 42歳 航空通信士 航空会社搭乗員 大日本航空
鳥居  元 24歳 航法員 海軍一等飛行兵曹 日本海軍新京航空隊
キャサリン・スミス 24歳 主任世話係 陸軍少尉 数学者・夕鶴隊教官
鷹司 良子 20歳 客室乗務員 陸軍伍長 日本女子大・鶴隊員
室瀬 佳奈 14歳 客室乗務員 陸軍兵長 共立女子・鶴隊員
アニー・セミョーノヴァ 22歳 客室乗務員 陸軍兵長並 ミュンヘン大学院・鶴隊員
10 ミヤ・スコロモスカ 25歳 調理師 満洲国職員 満洲国治安局諜報員

 飛行機の前輪下では車輪止めが外され、牽引する車輛が連結されていた。
 『空龍』は牽引車に曳
(ひ)かれて格納庫から外の姿を顕した。もう直、南天に差し掛かろうとする陽の光を浴びて艶やかに機体の飴色掛かったグレートの塗装と真っ赤な日章旗が神々しく浮き上がっていた。鵬は大空を飛行する準備を整え、巨大な四発飛行艇は、先ず滑走路手前の離陸待機エリアまで牽引されて行った。
 整備員が速やかに停止した車輪の位置に、車輪止めの固定木を充
(あ)てた。これから発動機のテストをして調子を検(み)る。
 高翼の左右両側には二機ずつ、合計四機の三菱火星22型を改良して強力なハ43型改
(星形複列18気筒)が搭載されている。離昇時にはこれまでの1,850馬力から2,050馬力にアップされた発動機である。
 プロペラは六枚翅で推進力を増強し、最高時速270ノット
(500km/h)、そして高度8千7百m程の上空を航行するように改良されている。だが、あくまで設計段階の机上での計算である。実際にはそれ以下か、それ以上かは未(ま)だはっきりしない。
 現象界では計画通り、設計通りに、誤差を極小にして要求通りの結果が出るとは何の保証もない。誤差が大きいのか少ないのかも、それ自体がはっきりしない。実際にテスト飛行をしてからでないと、正確な結果は出て来ないのである。

 太陽の南中に差し掛かろうとする滑走路の片隅に、鵬が翼を休めているように映る。高翼の飛行艇がそのように映る。
 この機は飛行艇でありながら、二式大艇のように両翼に着水時のフロートは外に出ていない。陸上に居るときは、第一発動機と第四発動機の下に格納されているのである。フロートが出るのは着水時のみである。
 航空機関士は燃料計に目を遣って、主タンク燃料計と翼内燃料計を確認する。そして『空龍』は、本日は試験飛行ということで、1,500リットルだけを呑み込んでいる。本来ならば優に4,000リットルを呑む。
 航空燃料はオクタン価92である。だが米軍の航空機はオクタン価100を使っている。精製能力の違いである。そして日本の場合、多少精製が悪いでも発動機は動くと言う節約指向がある。またオクタン価92は飛んで行った先が仮に先進工業国以外でも友好国であれば、比較的に入手し易いという利点があった。

 機の前方や車輪近くでは整備長が、地上クルーの整備員らに指示を与えていた。そして整備員たちは、離陸を前にきりきり舞いして動き廻っていた。
 コックピットでは、アン独自の英国式の「H(油圧系)(トリマー)(スロットル調整)(混合気系)(ピッチ系)(燃料系)」で始まる点検が行われていた。これが終わった後に、副操縦士が聲
(こえ)を出して同じように指を差して点検をするのである。

 いよいよ歴史的瞬間が始まった。
 「点検準備完了!」副操縦士が聲を発した。
 「発動機廻せ!」機長が命じた。
 イナーシャ・スターター
(内燃機関の起動装置)の回転音が響き始め最大となる。
 「コンタクト!」このように指令を発する瞬間、アンは震えるような興奮と感動を覚えるのである。
 発動機軸と慣性機動機が直結された。
 『空龍』は離陸待機エリアで停止したまま、まだ車輪止めが外されていない。
 星形複列18気筒のハ43型改の発動機に火が入り、爆発音とともに、六枚翅のプロペラが四発とも同時に回転を始めた。このときスロットル・レバーが僅かに解放された。プロペラの回転を追うように発動機軸も回転を始めたのである。排気ガスを吹いて軽快な爆発音が響き始めた。
 「吸入圧力計」副操縦士が聲を出して確認を求める。
 「吸入圧力計、チェック!」これを航空機関士が指先で辿って確認済みの復唱と返答する。
 「燃料計」
 「燃料計、チェック!」
 「油圧計」
 「油圧計、チェック!」
 「油温計」
 「油温計、チェック!」
 「回転計」
 「回転計、チェック!」
 「筒温計」
 「筒温計、チェック!」
 順に言い終わると、燃料混合レバーとスロットル
throttle/絞り弁)の操作に掛かった。
 「発動機の調子を確認せよ」
 「発動機、異常なし!」指を差して確認を伝える。
 「操縦装置を操作せよ」操縦装置の効き具合を点検するのである。
 「はッ!」
 「これより発動機テストをする」
 機長の一声で発動機テストが開始された。
 燃料噴射装置の操作に掛かった。
 「ブースト計と回転計の目盛りを確認せよ」
 「ブースト計と回転計、異常なし!」
 「発電器を確認せよ」
 「発電器、異常なし!」
 「車輪脚とフラップの動作と油圧の確認をせよ」
 「車輪脚とフラップの動作と油圧、ともに異常なし!」

 「電波探知機を確認せよ」機長は航空通信士に命じた。
 「電探に異常なし!」スコープに顕われる波形の波を読んで乱れがないことを確信した。
 「無線電話の回線を開け」
 「スイッチ・オン!」
 「音声具合をチェックせよ」
 「音声至って良好」
 そう言い終わると、直ぐに管制室からの無線電話が入った。

 「こちら管制塔。ただ今より離陸を許可する。大日本航空Z便は第一滑走路に向かえ」
 Z便は『空龍』のコードネームである。機密扱いを意味する。
 「Z便は只今より滑走準備に入る」
 機長はコックピット前方に居る整備長に「車輪止め外せ」の手先信号を送る。その信号を受けて整備長は直ぐさま紅白の手旗で指示し、その指示に従い地上員は車輪止め外す。外させた後、折畳んだ手旗を素早く左右に振り機体から離れろの合図を送る。
 機長は整備員全員が機体から離れたのを確認して、離陸開始の準備を指示した。
 「離陸準備よし」
 整備員は、整備長を頭
(かしら)に横一列に整列した。
 機長は手先信号の手を前に倒し、滑走路への進入を合図した。その合図を受けて、整備員たちは機に対して敬礼をした。
 『空龍』は離陸待機エリアからゆっくりと滑走路に向かって動き始めた。発動機が咆哮
(ほうこう)するような唸り声を上げている。重厚で堂々とした動きである。機は滑走路に入って向きを変えた。
 「スロットル全開!」スロットル・レバーが開かれた。
 六枚翅の四発の発動機は猛烈に回転数を上げ、プロペラは一瞬逆回転したように映った。
 これまで抑えていたパワーを解放し、発動機の鼓動音がより一層高まった。機は地面を蹴るように猛然と走行し始めた。
 「テイク・オフ
(take-off)」離陸滑走である。
 コックピット横の防風ガラスの窓に鳴り響いていた風切り音が、しだいに細く高くなって行った。機体は地面からの烈しい凹凸
(おうとつ)の震動を受けて、何度か大きく撓(しな)り、あるいはたわみ、耳障りな軋(きし)み音を発して、軋みが消えたとき轟音を発して『空龍』は地上から離れ、大空に舞い上がっていた。
 「浮いた」感動である。《信じられない……》というように、アンは思わず吐露した。
 巨大な鵬『空龍』が大空に舞い上がったのである。本当に浮き上がったのである。
 この様子を猪口は三台のカメラを駆使して多方向から撮影していたのである。またとないカットだった。これを見ていたスタッフ一同は、離陸から大空に舞い上がる勇壮な姿に惜しみない拍手を送っていた。

 この日の目的は飛行場上空を旋回し、その後、着陸態勢に入って離着陸訓練をすることであった。したがって高度もせいぜい2,000mくらいである。試験飛行が目的であった。
 所謂、飛行機が滑走路に接地し、直ちにまた離陸する動作
(touch and go)を繰り返すのである。
 この日の飛行テストを知っていたのは大日本航空と海軍新京航空隊だけである。知らないのは関東軍飛行空挺団と満洲国軍護国飛行隊であった。この離陸に、特に関東軍飛行空挺団からは、いちゃもんがつくことは眼に言えていた。また、これを一番よく知っていたのは吉田毅であった。
 「奴さんらは、もう直、いちゃもんを付けに遣って来る……」そう零
(こぼ)していたのである。
 これに、「どうします?」と訊いたのは亀山勝巳であった。
 「もう手は打ってある」自信満々に答えた。

 『空龍』は繰り返し飛行場上空を旋回し、更に轟音を響かせながら着陸態勢を執りながら離着陸訓練を繰り返していた。鵬は滑走に車輪を付けたかと思うと、再び空に舞い上がって行った。この訓練に、満洲国軍護国飛行隊の飛行士や地上員は「すごいものだ」と感歎の聲をあげ、他方の関東軍飛行空挺団の団員らは苦々しい貌をしならが「一言も断りなく」と苦虫を噛み潰した表情で空を見上げていた。しかし何れも「大きい」という感想は持ったようである。上空では束の間を戯
(たわむ)れる鵬の滑空が続いていた。そして再び大空に舞い上がったとき、やがて背後に乱流を曳いた。

 一方『空龍』を操縦するアンの胸中はどうであっただろうか。
 彼女は空を飛ぶことへの純粋な感動と興奮、そして飛行機という機械を自在に操る喜びを感じていたに違いない。その喜びの中に、飛行場に辿り着くかでの苦労は一瞬にして吹き飛んでしまうのである。
 機は上空2,000mを旋回しつつ、やがて水平飛行に移った。
 「通信士より機長へ。前方、二時の方向、電探に影あり」
 「影とは?」
 「編隊と思われます」
 電探の波形の波の中に、接近して来る編隊を発見した。
 「何機か」
 「急降下をしています。影は五ないし六。珍しいことですが、編隊飛行の練習に遭遇したようです」
 「接近する影に無線回線を開け。打電文、《大日本航空Z便機長発。編隊長宛。タダイマ本機ハ離着陸訓練中。貴編隊ハ本機ニ急速ニ接近シアリ。異常接近ニ警戒ヲ要ス。貴編隊ノ所属ヲ明ラカニセヨ》以上」
 異常接近でのニアミスへの警戒である。
 通信士は電信機のキーを叩き始めた。その後、即座に返電があった。
 「機長。電話回線を開けと言っています。編隊長は満洲国軍護国飛行隊の権藤上校です。満洲の名物男として豪傑の名を恣
(ほしいまま)にしている方です」
 「権藤上校?」
 「機長はご存知ありませんか。満洲国軍の上校は、日本軍で言えば大佐殿です」
 「では、電話回線を開け」
 「電話回線開きます」
 「こちら大日本航空Z便・機長」
 「これはおったまげた!」
 「何がです?機長が女だからですか」
 「いやいや機長殿。友好国軍に女性機長が居るからです。日本軍もいよいよ女性の登用を始めましたか」
 「ご貴殿は?」
 「本官は満洲国軍護国飛行隊司令の権藤光司上校。あなたの直ぐ真横を飛んでいます」
 「えッ?……」アンは直ぐに、はッ!として横を観た。《何と言う早さ、いつの間に?……》と思う。
 彼女が気付いたとき、戦闘機に乗った髭
(ひげ)が微笑んで、アンに敬礼をした。髭の面構えが、したたかさを帯びていた。余裕である。空の豪傑という名に値した。
 「しかし、それにしても驚いた。二式大艇改『空龍』を、何と女性パイロットが操縦していようとは?」
 「女では、ご不満でしょうか?」
 「いえいえ、尊敬しているのですよ。それにしてもお美しい。青い眼のパイロットとは……」
 「わたしは日本人です。肉体は英国の借り物ですが、魂は日本に帰属します」
 「なかなかいいことを仰る。ところで、あなたの身分は?」
 「わたしはアン・スミス・サトウ少佐。陸軍航空士官学校顧問少佐です」
 「道理で……」
 「なにがです?」
 「道理で陸軍航空士官学校が眼をつける訳だ」
 「わたしは、ただのお飾りです」
 「そうでしょうか、サトウ少佐。では、本編隊はお先に降ろさせてもらいます」
 それは先に着陸体勢に入るということである。そして先に降りて、地上からじっくりと着陸の腕のほどを見せてもらうという意味だろう。
 六機の編隊は三機ずつで中隊を編制している。満洲国軍の一式戦闘機である。日本陸軍のお下がりの『隼』である。隊長機は編隊の前に出て翼を左右に振った。一種の挨拶である。その挨拶にも、したたかさを含んでいた。

 「本機は今から着陸体勢に入る」機長が発した。
 滑走路の存在と、矢印で方向を示す侵入進路の航空標識および滑走路末端標識を確認した。
 確認後、高度が徐々に下がり始めた。機は滑走路の真上を一度大きく右旋回して、正確に進路を確認し、出来るだけ速度を落として侵入を開始した。
 「車輪の確認急げ」
 副操縦士は管制塔と交信した。
 「管制塔。車輪が出ているかを報告せよ」
 「車輪は出ている、異常なし」
 着陸脚状態を確認した。
 「只今から着陸を開始する」
 機は幾分上昇し、表示ランプは赤から黄色に変わった。やがて青に変わった。空気抵抗が機体を烈しく揺すり始めた。機は頭を上げた姿勢で、慎重に後輪側から着地し、やがて前輪も付けた途端、少しばかり地面の凹凸で弾んだ観があり、そのまま走行して滑り込むように定位置に停止した。
 『空龍』の威厳は寸分も崩れていなかった。


 ─────午後から『空龍』を運航するための計画会議が催された。
 この計画を「鵺
(ぬえ)計画」と言う。
 鳥類で言えば、鵺はトラツグミの異称で、平家物語などから見れば、世阿弥作之の能に出て来る鬼物となっている。更に伝説上の怪獣として、源頼政が紫宸殿上で射取ったとされ、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎に、声はトラツグミに似ていたと言われる。
 “夜”に“鳥”と書いて「ぬえ」という。正体不明の夜に暗躍する鳥であり、その意味では梟に通じるものもあるようだ。
 夜の行動、つまり隠密行動である。正体不明の見えない部分を持つ。それは闇に溶け、夜陰に乗ずるという意味である。

 『タカ』に所属する『空龍』の運航関係者が、一堂に介して飛行プランを練るのである。その航行に関する計画会議であった。会場は大日本航空の格納庫に隣接された簡易集会場である。
 しかし二式大艇改の、この四発大型飛行艇が現実問題として浮上するかの疑念があった。これまで一度も飛行テストをしてないと言う。飛行に関することで一切のデータがなく、信頼できるものは何一つなかった。
 ただ機体を組み立て、豪華な応接間風に内装を施したに過ぎない。
 飛行に関する計器類は装備されているものの、これが正しく機能するかも不明であった。不明の点では、そもそもこの計画自体の成功するか如何な自体が不明であり、「鵺」とはよく言ったものだと、苦笑するに得なかった。考えようではバカバカしくもある。全員が幻に取り憑かれている観も否めなかったのである。

 アン・スミス・サトウ少佐の疑いは、まず「飛ぶのかしら?」という疑念が支配的なのである。
 この疑念に対抗するのが、「搭乗員としては、超がつく初心者です」と憚
(はばか)らず言い放った鳥居元一飛曹(一等飛行兵曹)であった。そしてこの漢の最も変わっているところは、海軍中尉の肩書きと待遇を蹴り、特進で技術将校の道を選ばず、予科練を志望したことである。
 彼が一飛曹の階級に甘んじるのは、世の中は特例で進級する者が居るが、それを一切打ち消して実力こそ、自力自前主義の根本と思っているからである。何も力は武力だけでなく、智も武に勝る力と考えているからである。この漢の言う実力とは、世に言う「文武の序列」に倣
(なら)ったことであった。文は武に勝る。この男の信ずるところである。
 したがって、智力なくして中身が空洞では、所詮
(よせん)張り子の虎だと検(み)ているからである。
 志したのは飛行機乗りだった。飛行士になろうと予科練を志望したのだが、その才能無しと看做されて最初は整備兵に廻された。発動機の内燃機関をいじり回すのは決して嫌いではないが、航空技術者として、わが才能を行かす場所はないかということで、偵察機に必要であった航法員の道を選んだ。
 長距離偵察機や復座索敵機に随伴し、正確に航法する航法計算に異様な才能を見せた。地形図や海上図をこれが高く評価されたのである。その評価は、やがて『梟の眼』の知れるところになった。優男は『タカ』のメンバーに組み込まれた。

 会議のメンバーは『空龍』を操縦するコッピットクルーと客室乗務員ならびに、整備を担当する大日本航空の整備グループの代表者、二式大艇改の改造設計者、電気系や油圧ならびに潤滑油冷却器の改造設計者、空洞風圧実験における実験担当者、滑走路飛行場担当者、万一の場合の戦闘状態になった場合に威嚇として遣われる九七式20mm自動速射砲設置者らの兵器技術の意見交換が必要であった。
 一方、協力支援者は次の通りである。

──── 『空龍』随伴者ならびに支援者名簿 ────
姓 名 性別 年齢 役割・担当 階  級 経歴または所属
吉田  毅 37歳 武器調達 陸軍予備役中佐 沢田貿易哈爾濱支店長
亀山 勝巳 28歳 諜報員 陸軍情報中尉 沢田貿易新京支店商社員
兵頭 仁介 50歳 津村隊副官 陸軍上等兵 元陸軍准尉・元国語教師
津村 陽平 39歳 小隊長 陸軍少尉 画家・津村流陽明武鑑継承者
鳴海 信吾 24歳 技術主任 海軍技術少佐 航空技師
犬塚  勉 20歳 技術設計 海軍技術大尉 航空技師
飛鳥 大造 56歳 会社役員 民間人 大日本航空重役
川原 辰夫 42歳 整備技師 民間人 大日本航空技師
殿山  浩 45歳 電気技師 民間人 大日本航空技師
10 猪口 敬三 53歳 煽り屋 憲兵曹長 奉天憲兵隊、満洲映画社監督
11 甘木 正広 60歳 梟の眼・司令 陸軍少将 機関長・沢田貿易最高顧問
12 山根 耕三 55歳 会社社長 民間人 哈爾濱日本商工会理事・山根興産
13 倉科泰三郎 60歳 会社社長 民間人 新京日本商工会会頭・満洲護国産業
14 権藤 光司 38歳 飛行隊司令 満軍上校(大佐) 満洲国軍護国飛行隊指揮官
15 本木 勝男 48歳 飛行長 民間人 大日本航空管制官
16 川田 民絵 26歳 乗務員指導 民間人 大日本航空乗務員

 鳥居元一飛曹は満洲国新京・横浜港間を最短空路で約1500km強と見積っているが、飛行機は何も最短距離を一直線に飛ぶ訳ではない。天候や大気の状態、地形や海上での気象の変化に応じて迂回
(うかい)する場合もある。したがって燃料も、最短距離分だけがあればいいという訳でない。あるいは気象条件においては、近くの飛行場に緊急着陸しなければならない。
 この予想不可能な急変は、鳥居自身が一番能
(よ)く知っていた。現象界では予期もしない“どんでん返し”が起こるのは世の常であり、至る所に特異点のエアポケットがある。航法員ならば、航行に誤差が生じ、これくらいの予測は確率計算で割り出しているだろう。

 会議では烈しい意見が交わされていた。ここに煽り屋の猪口敬三は午後からの撮影準備で、この席には居なかった。
 さて、本日の飛行テストの批評である。性能テストとしては、ほんの一部が分っただけであった。まだ、飛行艇としての肝心なる着水テストは遣っていない。未解の部分が多く残されていた。
 「あのッ……少佐殿。質問をさせて頂いて宜しいでしょうか」
 「なんなんりと」
 「今し方、少佐殿の経歴を繰り返し読ませて頂きました」
 「気付いたのですが、少佐殿が、わが国でも英国仕込みの優秀なパイロットであることは認めます」
 「それで」
 「かつてはスピット・ファイアー社のテストパイロットであったこともその勇猛さに敬服しております。しかし、懸念する箇所が少なからずあります。もしかすると、少佐殿はサーカス擬きの軽業
(acrobat)が好きでいかと……。
 もし敵機と遭遇して、空中格闘戦を『空龍』で遣られたら、間違いなく空中分解します。経歴の中には高度3500mの高さから、戦闘機が空中分解した折に落下傘で脱出しておりますが、本来の人間の自然落下の高度は300m前後です。そういう軽業師のようなことは、ぼくにはできません。
 『空龍』は戦闘機に乗るのとは訳が違います。くれぐれも背面宙返りなどのアクロバット飛行をしないで頂きたいのです」
 「あのねェ、ぼく。一方的な妄想を逞しくしないでくださらない。発想と妄想の区別はつくでしょ?」
 「自分はこの機を無事、日本に運航させて自らの証を立てたいのです。周りからは、野望のようにも聴こえましょうが」
 「野望と傲慢は違うのよ。あなたのは傲慢です。傲慢が勝ち過ぎていては運航もままならないでしょう」
 「……………」鳥居一飛曹は黙った。

 「あの、自分にも発言を宜しいでしょうか」満洲国軍飛行隊司令の安藤上校が挙手した。
 「どうぞ」
 「今日のサトウ少佐の着陸はお見事でした。まるで空から貴婦人が舞い降りるようで。惚れ惚れと見とれていました。いやはや、恐れ入りました」
 安藤上校は髭の中に貌がある人相で、頭髪を短く刈り、姿勢がよく、唇は意志の強さを物語っていた。敢行鋭く、自信に満ち、深い地勢が感じられた。
 「お褒めに預かって光栄ですわ、安藤大佐殿」わざと“大佐”に力を入れたようだ。
 「しかし、サトウ少佐だったら、戦闘機を振り切るために『空龍』で背面宙返りも遣るかも知れない。しかし、奥の手としてそれも戦術のうち。おおいに結構と思います」
 「では、お言葉に甘えて……」
 「止めて下さい、背面宙返りなど。それに錐揉
(きりも)み急降下もだめです。デリケートな『空龍』を戦闘機のように操縦されては困ります」優男の鳥居一飛曹が猛烈に反対した。
 「ぼくって、神経質なのでね。心配ばかりしていると、ストレスが溜って神経衰弱になっちゃうわよ」
 「お言葉ですが……」と言いかけて言葉が先細りした。その先の発言を控えてしまった。
 ここに口を挟む者がいた。
 「人間、避け難いと知れば、決して修羅場を通るのに恐れたりはしないものです。火と水の試煉
(しれん)の時機と知れば、力まずに向かい合うことが宜しいでしょう。『勇』は武人のみの徳ならず」津村が眼を半眼に伏したまま、思わぬことを吐露した。
 『勇』とは、総ての道を尋ねる人の徳であるからだ。
 人は道を尋ねて、人生を旅しているからである。
 津村陽平が危険な場所に赴くとすれば、それは道を尋ねて歩く、それなりの理由があるからである。
 だが理由を自覚した者が、それにも関わら、目前の難儀を恐れ、これを避けて通ることこそ怯懦
(きょうだ)というものである。真の『勇』とは自覚した者が持つ、心の在(あ)りさまを言うのである。


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