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続々 壺中天・瓢箪仙人 8

『三国志』に出て来る諸葛孔明と馬謖(ばしょく)の対話である。
 「用兵の道は、敵の心を改むるのが上策である。敵の城を攻むるは下策。どうか上策を採って敵の心を攻めるようにしては如何でしょうか」
 こう進言した者が居た。部下の馬謖
である。
 馬謖の言に孔明は大いに共鳴をした。同感だと言った。
 また孔明も、南蛮未開の民に対し、仁者の道をもって戦いに臨むつもりであったからだ。
 綿密な打ち合わせのもと、計画通りに仁者の策で敵の心に攻め入った。敵陣に近付いた後、「敵将の孟獲を生け捕りにせよ」の指令を発し、部下が孟獲
(もうかく)を生け捕りにすると、孔明は敵将孟獲に問うた。
 「この陣立てはどうか?」孔明は訊いた。
 「先ほどの戦いでは、わが方の欠点が何処にあったか、分らなかった。それゆえ不覚をとった。ところが、こうして陣立てを見せてもらえば、『高がこの程度なら』と思った。勝つのは容易
(たやす)いことだ」と、孟獲は豪語した。
 「成る程、そうか。ではこの者を放してやれ」部下に命じた。
 孔明は折角捕えた孟獲を放して、敵陣へ帰陣させたのである。
 孟獲は再び用意周到なる策を立て、再び蜀軍目指して攻め込んで来た。自信満々の策である。

 だが、孔明はまた孟獲を易々と捕えてしまった。そのうえ再び自軍の陣営を披露した。
 充分に見せてから、また放してやったのである。
 こうして孔明は七たび捕え、七たび孟獲を解き放してやったのである。
 そして七回捕えられた孟獲は、今度ばかりは解かれても、何故か孔明の許
(もと)を離れようとせず、次のように吐露した。
 「あなたは神の如き人だ。南人は二度とあなたに背くようなことは致すまい」
 これが有名な「七擒七縦
(しちきん‐しちしょう)」である。この策法により、南蛮の諸族を遂に心服させてしまったのである。
 人間の胆識の妙は、ここにあると言えよう。

 人間は知識だけでは駄目である。知識を智慧に変換した、まず見識が大事である。これが会得出来れば、一ランク上の胆識を会得出来れば、人は幾らでも蹤
(つ)いて来るものである。下駄を預けたい人間とは胆識を会得した人間界の手練(てだれ)であった。


●羆大明神

 神の怒りは出来るだけ小さくしたい。怒こらせて憤怒の型は採(と)りたくない。津村陽平の願いだった。
 だが、この願懸けは北方の“羆
(ひぐま)大明神”には通じるだろうか。あまりにも相手が大き過ぎる。
 関東軍内部にも侵入し、参謀どもは羆大明神に心を揺さぶられているのである。
 関東軍第二課
(情報担当)は赤子同然だった。諜報と工作に無知だった。満洲国保安局治安分室は情報を担当しながらも、お役所仕事に明け暮れていた。官僚然として書類主義だった。この点はナチス独逸の書類主義と酷似する。書面で記されることを有り難がるのである。そのうえ検挙第一主義であった。
 そのため非合法的な秘密戦の展開するまでの組織にはなっていなかった。権力で抑え込むだけであった。この盲点を羆大明神
Sovet/ソビエト社会主義共和国連邦の革命指導機関の政治的基盤)は早々と見抜いていた。やがて関東軍は盲点を衝かれて、満洲国の国境を破られ、侵入を許すことになる。

 一方、情報を担当して憲兵隊や警察に対して、指令を下す治安分室では、権力による工作が殆ど功をなしていないことに気付かなかった。相変わらず検挙第一主義であった。容姿者を徹底的に締め上げる。挙げ句の果てに拷問死に至らしめる。無辜の人間まで無実の罪で検挙され、半殺しの目に遭わせる。時には暴力が過ぎて殺すこともあった。徒労に終わる暴力に明け暮れていた。そしてこれを改めようとしなかった。旧態依然の愚かな遣り方に固執したのである。愚に陥る典型と言えた。
 併せて、変更や修正に対し決断が鈍いとどうなるか。歴史を見れば歴然であろう。
 日本人の習性の多くには、一旦環境に馴染むとそれに腰を落ち着けてしまうことである。底の安堵し、胡座をかいてしまう。これが決断の鈍さに拍車を掛ける。
 したがって官僚主義に陥ると、改正や改革を好まない鈍重な体質になってしまうのである。そのうち礼儀も忘れてしまう。礼儀を忘れれば、仁を致すことも忘れ、顛沛時
(てんぱい‐じ)に備えることも忘れる。咄嗟に対処出来なくなる。満洲国境が容易に破られたのは、顛沛時の対処する仁を忘れたからである。この意味では愚者だった。愚者のこうした愚を、敵から突かれて敗北するのである。老獪(ろうかい)で狡猾(こうかつ)なる羆大明神は関東軍のこの愚を能(よ)く検(み)ていた。

 関東軍は下級将兵に精鋭を養っても、情報が漏洩しているのでは、秘密戦では負けていることになる。その負けた余波が、いま津村ほか三人やエア・ガール五人に及ぼうとしていたのである。
 当時は国際連合軍の米英ばかりでなく、友軍の中にも敵が居たのである。明治以来の官憲は、体質の老朽化のために無辜
(むこ)の市民には禍(わざわい)にもなったのである。
 また憲兵隊や特高警察は敵の諜報員を検挙し、弾圧することしか念頭にない。これでは蜥蜴
(とかげ)の尻尾切りだった。やたら痛めつけて履かせるだけの暴力に終始した。

 参謀肩章を誇らし気に吊るし、エリートを自負する軍隊官僚からは何の奇策も生まれず、エリート集団は旧懐以前の古い考えに取り憑かれていた。その典型が検挙第一主義であった。こうした愚が充満すると、やがて自縛の罠に嵌まることになる。強迫観念から、自分で自分の頸
(くび)を絞めることになる。柔軟な発想はゼロになる。奇手など出て来ない。
 結局、逮捕した工作員を逆利用して再教育し、再び敵の陣営に放つという策まで考え付かなかった。これだけで既に秘密戦は負けていたといえよう。
 また秘密戦においては心理科学の面で完全に心情を読む術策が欠落していた。
 斯
(か)くあれば、勝てる戦争も勝てる訳がなかった。
 また負け方も、有利に負ける負け方があったであろうが、それが出来ないのは、軍隊官僚の鈍重さに欠陥があった。そしてその鈍重さは、結局広島市民や長崎市民の頭上に火の雨、則ち米国の策に嵌まり原子爆弾の投下を許すことになったのである。


 ─────そこは雑人溜りだった。此処は新京市を碁盤の目で見れば、敵中突破を試みる中宮であった。
 亀山勝巳は疾
(はし)った。ロケ隊に危険を報(しら)せるためである。満洲映画社のロケ隊はクランクインの真っ最中であった。次々にカットが撮られていた。
 「猪口曹長!撮影中止、撮影を中止しろ!」亀山が大声で叫んだ。
 「なんでしょう?……」知らない振りをして恍けている。
 「襲撃だ!いいか敵襲だぞ!」亀山が危急を報せた。
 「えッ?なんでしょう?」何処までも恍
(とぼ)ける。
 「だから、襲撃だ!」再度念を押す。
 だが、煽り屋はこの中止を聴く訳もない。これこそ千載一遇の、またとないチャンスと捉えているからだ。
 「敵襲?……。それは大いに結構、結構……」
 煽り屋は助手に命じて、ロケに蹤
(つ)いて廻っているトラックの荷台に積載していた小型カメラと録音機を用意させた。米海軍のダック事件以来、柳の下の二匹目の泥鰌を企てているからである。もしかすると、ドキュメントとして最高傑作が撮れるかも知れないと窺っているのである。
 五人のエア・ガールを向こうに廻して、敵の刺客が襲えば、その絵は最高のものとなる。またとないチャンスと検
(み)て、その対策を企てているのである。プロパガンダの大作映画を撮るつもりでいるらしい。こう言う時になると煽り屋は冴える。信じられぬくらい澄明(ちょうめい)になる。狡猾(こうかつ)なる理知が広がり、何でも煽るのである。

 「来た!」津村が思わず吐露した。
 そして中枢の五人に接近し楯となった。だが、もう遅かった。エキストラの数人が狙撃されたのである。犠牲者が出た。辺
(あたり)は騒然となっていた。
 だが、煽り屋は中止するどころか嬉々とした。その喜びようは異常者のようにも見える。
 「おい!煽り屋」時機を告げた。危機が迫っていたからだ。
 「なんでしょう?」
 「疾るぞ」疾らないかぎり、割りの合わぬことで命を粗末にする結果となる。失って死ぬかも知れない。
 「はッ!」煽り屋が異常を察知した。「今」を知ったのである。
 この漢は状況に敏であり、そのうえ聡く、然
(しか)も決断が早かった。時々刻々と変化する時機を読む。
 「少佐殿。襲撃です」
 アンに襲撃を告げた。
 彼女はこれまでの撮影が順調に行っているばかりと思っていたのである。だが違った。異常が起こりつつあった。
 「襲撃ですって?」
 彼女は未だエキストラの数人が狙撃されたことを知らなかった。大勢でへし合い込み合って、歓迎ムードの映像ばかりを撮られていると思い込んでいたのである。羆の襲撃を知らないでいた。羆は満人スパイを捕らえて逆利用して満洲国に送り込んで来ている。便衣隊として抗日分子を標榜し、街中で発砲するなどはお手の物であった。そのように騒乱を企てるように訓練を受けている。一旦、発砲騒ぎが企てられると、これを阻止することは不可能に近かった。連鎖的に挑発を企てるからだ。
 阻止すれば、逆に挑発を扶
(たす)けることになる。便衣隊と対峙(たいじ)しても、自らは攻撃はせず、ただ防禦して、降り懸る災難を受け流して、ひたすら忍従することであった。
 だが此処でもたついていると、不穏の波及の輪は一層大きくなり、恐怖感に襲われるばかりである。
 既にエキストラに護られているという優越感は失われ、形勢は変化していた。こうなると、煽り屋・猪口の策は威力を失い、異怪な類
(たぐい)の攻めに遭(あ)うことになる。悠長に構える暇などない。恐怖感に取り憑かれる前に、身の安全を図らねばならない。命あっての物種である。

 「これから疾しります。自分に蹤
(つ)いて来て下さい」
 津村の周りには吉田をはじめ、亀山と兵頭が居た。二人は拳銃を抜いている。吉田以外は抜いていた。迎え撃つことも辞さないポーズである。女優陣や撮影隊を逃がし、自らは踏み止まって闘う覚悟だった。
 兵頭の異様に大きい馬賊銃のモーゼルは単に目立つばかりでなく、今が緊急時と悟ったのである。此処でくたばる訳にも行かないと思ったのだろう。その道案内に吉田が立った。自らが率いて、警戒を厳重にするためである。
 「此処からは最も危険な雑人溜りです。命の保証はしません。死にたくなければ蹤いて来て下さい。所持品は総て捨てて下さい」

 「それは駄目です!」煽り屋が断乎反対した。
 「なぜだ」吉田が烈しく切り返した。
 「撮影は未だに継続中です。所持品もハイヒールも蹴らないで下さい。五人は淑女ですぞ、淑女!」
 「こんな時に淑女ですって?バカな!」
 「そうです、淑女。淑女が荷物まで捨てて、履いているハイヒールまで蹴っては、プロパガンダ映画は撮れますまい。総てが水の泡に消え失せます。最後まで淑女でお願いします!」
 「この期
(ご)に及んでもか!」喝破した。
 「そうであります!自分は毅然とした淑女像を収めたいのです。この緊急時に及んでも、マリーアントワネットのような女性の毅然とした絵が欲しいのです。ここで荷を捨て、ハイヒールを蹴って、まさか津村少尉殿のように、草鞋に履き替えては疾ってはせっかくの淑女像が台無しです」
 煽り屋は思っていることをはっきりと言った。全く譲る気がない。
 この漢はしばしば合理的で無いことを言う。不条理を通そうとする。
 だが、このまま逃げるように疾っては絵になるまい。
 仮に、後に映画となって封切られたとき、観客者は命からがら、形
(なり)振り構わず逃げ出す女優群を観ては失望するだろう。木戸銭を返せと言い出すかも知れない。女優の袖が破れ、膝を擦(す)りむき、貌や五体の至る所が朱(あけ)に染まり、それでも最後まで闘志を失わない、激戦地で勇戦の女性戦士像に惜しみない拍手喝采を送るだろう。

 「聞くところによると、あなたたち夕鶴隊の三つの誓は『毅然・清潔・淑女』と言うではありませんか。この地で倒れようと、最後までこの誓を厳守して頂きたいのです。人間には命以上に大事なものがあると、自分は信じております」決意と言うか、監督魂というか……、凄まじい感覚を持っていた。彼は彼なりに、些か道を説いたのである。
 監督としては最後まで毅然とした女優であって欲しいのだ。そのために、最初から台本がないのである。突発時の偶然に期待しているのである。これを考えれば、今がその場面での遭遇であった。
 絶好の舞台も時機も、総ていま此処にある。この危険な場所に総て存在しているのである。無駄な金を掛けて疑似セットなど作る手間は省けていた。
 もしかすると、煽り屋の脳裡
(のうり)にある台本は、多くの台詞を含まない、最も自然な、夕鶴隊の三つの誓の『毅然・清潔・淑女』の言葉だけかも知れない。それを表現してくれと言っているのであろう。
 「それもそうだ」津村は、戯
(おど)けて相槌を打った。
 確かに一利ある。顛沛時も慌てない。咄嗟にも対応できる。これこそが淑女と言うものである。

 またこれを履行させるために、此処に居る女優の一人や二人、あるいは全員を死に至らせても構わないと言うのであろう。異常である。それだけに、この映画に賭ける意気込みと信念が凄まじかった。そして全員、この言葉に押されてしまった。

 女五人は三つの誓の『毅然・清潔・淑女』を、胸に新たに輝き始めた。今まで、この事を忘れていて、これを再認識してようであった。
 「三つの誓い、忘れるところでした」
 「ご理解頂いて、光栄であります」煽り屋は恐縮した。
 「わたしたちは監督に従います。総てをお任せします。最後まで、わたしたちは淑女の役を演じます。みなさん、外野や周りの騒擾に振り回されず、夕鶴隊員の誇りに懸けて、最後まで胸を張って女優としての任務を果たしましょう。わたしたちの、今のこの姿、何れ全国の映画館で封切られます。見られても、恥ずかしくないようにしましょうね」
 「はい!」五人の元気な返事だった。
 五人は途端に容
(かたち)を改めた。志操(しそう)を高きに置いたのである。決意である。
 彼女達は三つと誓の『毅然・清潔・淑女』の精神を胸に新たにした。そして、これがプロパガンダ映画である以上、各自が《自分達は全世界から見られているのだ》と言う自覚をした。そう悟る以外なかった。

 「先生、よき方策をお聞かせ下さい」アンが懇願するように言った。
 「では、わが輩が護衛役として、露払いをして道を拓
(ひら)きましょう」凛(りん)として答えた。
 「みんな、いいこと。わたしたちは、吉田さんに蹤いて疾るわよ、あとは先生にお任せして。そして三つの誓いを果たしましょう。それも、気品高く。あたかもマリー・アントワネットのように……。
 いいですね。胸を張りましょう。前屈みになったり、構えては駄目ですよ」アンが皆を励ました。
 「はい!」女五人が声を揃えた。
 闇の中から影が動いた。
 「小隊長殿、来ましたぜ」兵頭がモーゼルを構えた。
 「どこだ?!」
 「前方800m先!」この漢は眼がいい。
 夜目の利くのは津村や、極端の眼のいい室瀬佳奈にも劣らない。夜戦に馴れている。銃撃戦に慣れていた。兵頭には戦場で鍛えた炯眼
(けいがん)があった。敵を見る目は鋭い。
 「よし、それは片付ける。あとは吉田さんに続け。わしは後から追う。さあ、行け」まるで子供を叱るように言った。
 「はッ!」

 段取りが決まったところで“では!”とった。全員の手打ちが終わった。此処で生きるも死ぬも、全員納得尽
(ずく)である。
 「参集したエキストラは、担当者が充分な礼とともに、此処までの撮影とします。さて、われわれは疾しりますか。カメラと録音、蹤いて来い、遅れをとるな!」煽り屋の厳命が下った。
 「では、みなさん。疾しりますぞ、よろしいかな。くれぐれも躓
(つまず)いて転ばないように」それは《転けた絵を撮られたら恥ずかしいですぞ》という言い方であった。
 「はい!」全員承知であった。生きるも死ぬも一致した返事であった。
 それは満洲映画社のスタッフも同じであったろう。スタッフらは、鬼監督の冷酷無比?をよく知っているようだった。
 吉田と亀山が先頭を切った。先鋒のなって駆けた。
 煽り屋もサムライであったが、またエア・ガールに扮した女性達もサムライであった。
 津村は、これをいい構図だと思った。もし、手元に画材一式を持っていたら、「全員一致・生死一如」の絵を描いただろうか。

 全員が疾しり去ったのを確認後、津村は露払いに懸かった。
 いきなり仙人のような矮男
(こおとこ)が飛び出して来て、この奇態に意表を衝かれたのか、敵の反応にやや焦り気味であった。しかし津村は、心の躰も不動心であった。その姿勢や態度は、悠々としたものでえ、何故か大きく見えた。不動の体躯はその場に留まって、無言無動。撫(な)で肩のまま突っ立ったままである。微動にしない。足は、地面を縫(ぬ)うように立っている。だが構えた姿勢は四股立でない。全身の力を抜いてリラックスしている。それが敵に眼に大きく映った。どこまでも自然体である。力みがない。胸を張って機z年としている。何処からでも、いらっしゃいと言うポーズである。腰は落とさず、膝も曲げていない。自然に立っている。
 そして闇の中で、烈しい激突音が混ざり合った。その音の中に、仙人杖の宙を切る音が風を切って、鞭のように撓
(しな)った。杖の撓り音である。鋭い高周波音である。遠くで、遠吠えのように鳴り響いていた。


 ─────雑人溜り……。兵法上から見れば厄介な位置にあった。最大の難所と言えた。
 それは世にも劣悪な環境の中にあった。暗黒の空間であった。その暗黒の入口に、吉田に連れられた全員が立った。此処を通過するのである。

 「静かだ」吉田がぽつりと吐露した。
 「なにか?」
 「実におかしい。辺は火が消えたようになっている。いつもはこうではない。何かがおかしい……、我々の動きを知って、息を潜めているようだ……」足を止めて耳を澄ました。
 「転覆する船から、鼠が逃げ出したのでしょうか?」亀山が訊いた。
 「何か、これまでとは様子が違う」吉田がこう言う以上、この漢はこの辺の地理に詳しいのかも知れない。土地鑑
(とち‐かん)があるようだ。
 「どうしたのでしょう?」
 「さて、どうしたものか。津村流を模して、此処で一休みでもしますか」鎌を掛けるようなこと言った。
 「吉田さん、こんなところで一休み?」
 「あの人だったら、おそらく此処で一休みしますよ。今は焦らず減
(め)り張り付けて、度胸一番、津村さんの来るのを俟ちましょう」緩急を促したのである。

 「吉田さん。その絵、いい。実にいいですなァ」煽り屋だった。この漢の求めていたものは、画像上の物ではなく、人物であった。時間とともに流れる物にはない感慨なのである。
 「おい、きみ!……」亀山が《こういうときに不謹慎だ》と言わんばかりの不作法を制する叱責だった。
 「宜しいのじゃありませんこと、此処で小休止しても。今後の参考にもなるし、追われる者として、追撃戦を知るためには、手頃な演習になりますわ」相変わらず気丈だった。
 「少佐も変わった人ですなァ」呆れたように煽り屋が言う。
 「わたくし、あの先生の教え子ですもの。それにですね、先生は時機の運は如何ともし難いとおっしゃいました。それは事志とは食い違うためです。でも、運の所為
(せい)にする気持ちがありませんわ」
 「カメラ、音声。追え」煽り屋が命じた。
 「えッ?こんな他愛のない会話も収めるのですの?」
 「そうであります。忌憚なく喋っているところが、またいいですなァ」
 「いやだ」一瞬赤面した。
 「あのッ……。わたし、速く疾ったものだから、何だか足首をちょっと傷
(いた)めたみたい……」アニー・セミョーノヴァだった。彼女が少し貌をしかめたのであった。履き慣れないハイヒールがいけなかったのかも知れない。
 「こんなとき、先生が居ればいいのに……」キャサリンだった。
 彼女は津村から失明寸前と治してもらっているからだ。そういう希望を述べたのである。

 そのときである。
 忽然
(こつぜん)と顕われた物体があった。子供のような物体である。
 「誰か、わが輩を呼びましたかなァ?……。しかし先生と言われるほどバカでもありませんが」
 「あッ!」《その聲
(こえ)は?》とキャサリンが不意を突かれたように驚いた。
 「おやおや、エメラルドグリーンのお嬢ちゃん」彼女の眼の色を茶化して言った。画家の眼で検
(み)た感想である。キャサリンの眼に色を闇に烱(ひか)る緑玉石(emerald)と検たのだろうか。アンとキャサリンの似たような貌を眼の色の違いで正確に夜陰の中でも見分けることが出来た。
 そして彼女は津村の姿に気付くと、慌てたようにお辞儀して、意外なる登場に面食らったようだった。その表情が実に初々しく、娘らしかった。少女のような面影を留めていた。一方その態度からは《まさかこんなに速く……、よくご無事で》という感想があったようだ。彼女にしては驚愕
(きょうがく)であった。不死身さに疾風(はやて)を感じたようだ。敵を総て退治してしまったのだろうか。
 津村陽平というこの漢、目前の困難を易々と切り抜けてしまう。それゆえ頼りになる。
 身長
(みのたけ)とは反比例した矮男(こおとこ)が、小さな巨人と言われる所以である。

 「津村さん、無事に戻って来られましたか」吉田がほっと一息を付いた。彼は津村を信頼しきっている。下駄を預けるなら、この漢だと思っている。その信頼は揺るぎもしなかった。
 「どれどれ、治してしんぜよう」
 津村は不遠慮にアニーの足頸
(あしくび)を掴んだ。あッという間である。有無も言わさずにである。そして足頸を裡廻しに回転させて、一気に抑え込んだ。
 「よし、治った」
 「えッ?治ったって……、本当かしら?」
 「立って、足踏みをしてごらんなさい」
 アニーは立って足踏みをした。
 「どうです?」
 「うそ……、痛くない。不思議!」
 「そう、この先生は不思議を起こすのです」キャサリンが眼を治してもらった時のことを思い出して、自慢するように言った。
 「いいですなァ、実にいい……。その絵」一人勝手に一コマの絵を満喫しているのは煽り屋だった。
 「では、余興も此処まで。これからが大変ですぞ、命を張って下さい。そろそろ大勢で来ますぞ」
 それは戦後の日本を背負って命を張れと聴こえなくもない。『タカ』メンバーが戦争の早期終結のために奮闘しているのである。戦後の日本を描いて、巧い負け方を模索しているのであった。

 「来た!」兵頭である。
 「どこだ?」吉田が訊き返す。
 「左右二人ずつと前方三人。またビルの影に一人。トカレフTT33軍用拳銃で武装」佳奈であった。彼女は闇でも視界が明るい。視力に才能があり、夜目が利く。彼女が此処まで詳しいのは、参謀本部にタイピストとして出仕している中川和津子と山田昌子の二人から米英情報、独逸情報、またソ連情報を聴かされていたからである。そのためよく知っていた。それに記憶力もいい。記憶力には恐ろしい能力を持っていた。

 「吉田さん、全員を率いいて雑人溜りを抜けて下さい。地図から観ると、飛行場までは眼と鼻の先。わが輩は此処で、少し柔軟体操でもして食い止めます。では兵頭さん」この漢は、敵との格闘を柔軟体操と抜かしおった。敵を呑んでいた。
 「はッ!」吉田の安堵の返事である。
 「吉田さん、あなたは少佐殿を護って、先鋒を勤めて欲しい」
 「あのッ、お言葉ですが先生」
 「なにか?」
 「わたしたちは夕鶴隊です。遊撃隊員です」
 「それで?」
 「自分のことは自分で出来ます」
 「だが、此処で頭が撃たれると、以降『常山の蛇』も機能しませんからなァ」
 「分りました。お言葉に従います」宥
(なだ)めるのが早い。話術の妙か。
 「兵頭上等兵!」津村は指揮官の顔に変わっていた。
 「はッ!」
 「殿
(しんがり)を務めよ!」
 全員が闇を疾った。夏空の夜が明けきれない下弦の月下
(月齢23.0)だった。

 津村は妙な術を遣う。闇を酔わせる。
 全員が疾ったのを確認して、笈
(おい)から小さな鹿袋を取り出した。これには一種の媚薬が入っていた。それを風に乗せて散布するのである。惚(ほ)れ薬ならぬ、酔わせ薬であった。媚薬が風に乗って燻(くゆ)らすように流れた。あたかも香の煙りが空気にゆらゆらと揺れながら流れて行った。
 1分、2分、3分……と小刻みに時間が流れて行った。そして5分が経った。
 もうそろそろ酔ってもいい頃だが……。そう思ったとき、闇の中から何かが顕われた。目敏
(め‐ざと)く上下させ、闇を凝視した。
 何かが居る……。息を殺して潜んでいる。

 「細作
(しのび)か……。まさか……」独り言(ご)ちた。
 「気付かれましたか」
 「その聲
(こえ)は、まさか……、鈴江か?、なんでお前が……」わが耳を疑うように訊いた。
 鈴江は赤の夏物の半袖のセーターに、紺色のキュロット・スカートを履いていた。馬に乗るためだろうか。それに脚は茶色の長靴だった。腰には米国製のコルト軍用拳銃
(回転弾倉式の連発拳銃)を吊るしていた。その姿に津村は違和感を覚えた。この女も排日の戦士だった。

 「そう、わたしは孫齢姫
(そん‐れいひ)。そして細作。むかし星野鈴江と名乗ったこともった。そして、あなたの女の時もありましたわ」いつか聴いたようなことを喋っていた。だが鈴江は、遂に津村鈴江を名乗らずじまいだった。わが子を捨てた女だった。これに関連して、妻の珠緒の死。総てこの女に因縁を持っていた。生まれながらに忌み嫌うものを抱えていた。

 「今しがた此処を通った者たちはどうなった?」
 「みなさま方は、安全な場所に匿
(かくま)っておりますわ。ご安心なさりませ」
 「何処にだ?」
 「蹤
(つ)いておいでなさい」
 そう言われて、津村は少しばかり硬直した。
 かつては一時期、飽きるほど見慣れた鈴江の表情であったが、大陸に渡って細作になって以来、この女の前に出ると、緊張と警戒心が解けなかった。思わず背筋に冷ややかなものが疾る。それに、組織の下された指令で赤城嶺山神社の神主の林昭三郎を殺害している。いざとなれば、人殺しも辞さないのである。冷酷な一面をもつ女刺客だった。どこかに妖艶を漂わせているだけに始末が悪い。

 「相変わらず、お前には殺気が漂っている……」警戒心を解かない。
 「そんなに緊張なさいますな」
 「わしを啖
(く)うか!」鋭く問うた。
 「そのご懸念無用です。わたし如きは、所詮
(しょせん)あなたさまの敵では御座いますまい」
 しかし津村は警戒を怠らない。何処かに漢を喰い殺す殺気を宿していたからである。
 わが子・次郎の母親としての面と、刺客の面の両方を孕
(はら)みつつも、二重人格的な人間性は、隙を見せれば、襲い掛かって来るかも知れなかった。二面性を持った“牝カマキリ”のような女であった。
 人間の欲望が荒れ狂う大陸の黄土が、この女を、そのように変貌させてしまったのだろうか。
 権力や暴力や闘争、そして金や貴金属や厖大な地下資源。更には労働力や領土……。
 これらは、人間に有無も言わせず、抑え付ける途方もない支配欲を煽り立て、かつ富の収奪と独占欲を構築させる欲望の世界だ。これらを楯
(たて)する特殊な世界だった。島国育ちの日本人には、そのように映る巨大な世界であった。それが満洲であった。人間の欲が躍った黄土の大地。この大地に当時の日本人の夢と野望が舞った。

 「何処に匿
(かくま)った?」
 長い地下路を歩かされていた。そこは折れ曲がった回廊
(かいろう)になっていた。
 「もう直ぐで御座います」
 だが、“もう直ぐ”が長かった。どれくらい歩いただろう。しかし、もう直ぐを信じるしかなかった。
 これが巧妙に仕組んだ罠
(わな)であるならば、如何に津村と雖(いえど)も逃れる術(すべ)がない。此処は雑人溜りである。
 阿片
(あへん)患者が闇の中で蠢(うごめ)いているような、所謂(いわゆる)貧民窟(ひんみんくつ)である。環境は劣悪である。人間の最階位の地下空間である。津村は覚悟を決めた。

 「長いなァ……」長さに呆れて吐露した。
 「もう退屈なさいましたか」皮肉たっぷりのことを言う。
 「相変わらずだなァ」
 「雑人溜りですもの、でも怕
(こわ)がる必要は御座いませんわ」
 「お前は怕くないのか?」
 「怕くないのかって、わたしが?もう、慣れましたわ」
 「そうか」
 「久しぶりに逢ったと言うのに、変な会話ですわね」
 「では話を変えよう、次郎の話でもするか。次郎には、お前の鍛えた鋼の独楽
(こま)を渡したよ」
 「その話は止めて下さいまし」
 「耳が痛いか、それとも辛いか」
 「いいえ、そんな訳では。でも、今は聴きたくありません」
 「では、お前の親父殿の星野周作の話でもするか」
 「父の……」
 「つい最近、満洲里で出くわし、今は哈爾濱にいる。一度機会があったら訪ねるといい。随分と老けて歳だが元気だったよ。哈爾濱の日本商工会の職人長屋にいる」
 「そうですか」
 「今までこうした会話はしたことがあったかな」
 「どうでしょ」
 「あったような、なかったような……」
 「一体あなたは満洲に何しにいらしたの?」
 「軍の命令だ」
 「それだけですか?」
 「そうだよ。わしは無用な寄生虫……」
 「ご自分を卑下なさいますな」
 「お前に去られ、珠緒にも去られた。もうすっかり抜け殻だ」
 「寂しいことを言われますのね」
 「誰だこうした?」
 「わたくしとでも?……」
 「違うか?」
 「ところで、珠緒姉さまの殺害犯人は?」
 「突き止めたよ」
 「だあれ?」
 「瞿孟檠
(く‐もうけい)。M資金に絡む貌のない影の皇帝」
 「貌のない影の皇帝?……」
 「そして、配下の公瑞兆
(こう‐ずいちょう)。戸籍上は新田郷の庄屋の堀川作右衛門の弟と偽り、日本名を堀川彦宸(げんしん)という。日本では畏(かしこ)まって農務省の農事技官に収まっているが、正体は人身売買を企てる人買い組織の首領だ。知っているだろう?」
 「存じません」突如顔色が変わった。
 「そうか、よかった。お前に関係なくて……」
 「……………」
 「実行に至った犯人は、陸軍刑務所の看守だった憲兵の川原広太、清川弥吉、渋川光男と軍医の野村睦次。この四人が珠緒の全盲をいいことに四人で犯し、輪姦したのち、崖の上から谷底に向けて投げ落した。珠緒の亡骸は無慙
(むざん)だった。だがこの四人を煽り、指令を出したのは公瑞兆。あるいはその上の瞿孟檠。珠緒は彼奴らの何らかの秘密を知ったらしい。だから輪姦に見せ掛けて殺害を仕組んだ」
 「……………」《なんと惨いことを》という貌をした。
 「わしは瞿孟檠に会わねばならない」
 津村は《満洲に来た目的は、それだったんだよ》と言ってやりたかった。鈴江の顔色の変化から、両名を知っていると推測したのである。
 「なんで、わたしに?……」
 「心当たりがあるかと思って」
 「どうして、わたしが……。存じません!」
 強く否定はしているが、何か知っているようにも思える。
 「そうか……。それにしても長い地下路だ。この長い路、いったい誰が一行を案内した?」
 「わたしの部下です、ソ連の工作員に包囲されていましたので匿いました。余計なことをしたのかしら?」
 「いや」《窮鳥懐に入れば猟師も殺さず……か》と、独り言
(ご)ちた。
 こうした会話をしながら、長い地下路を歩き、数十分ほどの時間が流れただろうか。

 地下路と言っても回廊であり、複雑に曲がりくねった迷路であった。迷路になっているのは、ここが人工的に掘られ、それに外壁と天井が施されているからだ。その施行時期が年代ごとに違っていた。長い歴史が感じられた。それに階段を上下している。香港の九龍城
(クーロン・シティ)に酷似する。
 ちなみに九龍城は清朝が築いた要塞の如きだった。
 それと似たものが、雑人溜りである。満洲建国以来の十三年ほどの年月が流れたスラム建造物であり、構造は複雑な故に、常人では簡単に記憶出来ない。地上のみならず、地下にも居住区があった。一見すれば廃墟にように映る。
 もし堅気が一度紛れ込めば、再び生きて出られないようなところであった。
【註】この物語はフィクションである。実際に「雑人溜り」という貧民窟が新京市内にあった訳でない)

 鈴江は此処の住人なのだろうかと思う。
 大陸とは、鈴江のような女を、斯
(か)くもこのように変貌させてしまう大地なのか。この黄土は、いったい何だろうと思う。
 かつての満洲お菊
【註】日本軍の探偵であった沖禎介の恋人であり、沖が処刑されると女馬賊の頭目なったという。満州某重大事件の張作霖と義兄弟の馬賊を処刑寸前に救ったことで馬賊に身を投じ、女頭目として名が広まるも、実際には謎も多い)といい、東洋のマタハリと言われた川島芳子といい、この大地は人間に王道楽土の理想と野望を夢見させるだけでなく、人間まで大陸用に、斯くも無慙に変形し、畸形(きけい)させてしまうのか。
 その壮大さを思った。気宇壮大なロマンである。この大地は人間も野望を易々と呑んでしまうのである。

 時代はこれまでのナチズムと癒着した反ユダヤ主義が終わろうとして、日本で企てられていた翼賛選挙が終焉
(しゅうえん)を迎えようとしていた。それは満洲国崩壊とともにである。
 ヒトラーに入れ揚げた反ユダヤ主義は崩壊し、次に親ユダヤと反ユダヤとの対立構造は姿を消し、奇妙なる『日本・ユダヤ同祖論』が浮上し、またシオニズムに共感し、満洲各地の至る所で持て囃されていた、羆大明神の擡頭
(たいとう)により、かつてのユダヤ金融資本とフリーメーソンとインターナショナルの三位一体は否定されて、過去のものになりつつあった。
 その中で、日高みほなる女性が居た。
 板垣征四郎の諜報機関に関わる、親ユダヤ的な考え方をする人物である。彼女が板垣に大きな影響を与えたと言われている。また彼女は世界紅卍会と関わりが大きかった。
 世界は国際化に向けて動いていたのである。
 そして彼女は日本陸海軍と国際主義を掲げる世界紅卍会と結びつけ、自らが橋渡しとなって、親猶主義を新京や天津、大連、更には北京などでその運動を展開していた。五族協和の大陸政策にも、労働者階級の国際的提携や団結を主張する社会主義の立場を採る国際主義が入り交じっていた。プロレタリア主義を指す。
 星野鈴江こと孫齢姫が、こうした大陸政策の国際主義に入れ揚げたとしても不思議ではなかった。

 そして今や、仮想敵国であったソ連は、今では特に陸軍参謀本部にあっては、連合国との戦争の仲介者となりつつあったのである。もし、そうなるとソ連が日ソ中立条約を厳守して、ナチス独逸亡き跡、日本と手を組んで連合国と戦うことになる。当時の大本営陸海軍部は、絶対に起こりようのない幻想を抱いていた。そして天皇陛下を満洲にお迎えして、此処で最終戦争を戦うと言うのである。恐ろしいと言うより、滑稽であった。
 昭和19年の半ばを過ぎると、このような奇怪な現象が起こりつつあったのである。
 その頃の雑人溜りである。
 劣悪な環境が、更に悪化することは自然の摂理であった。この動きは、決して逆戻りすることはない。そういう環境に、華北の八路軍や華中の新四軍が雑人溜りに目を付けて、アジト化したのである。此処から紅軍革命を企てても不思議ではないのである。抗日戦には持って来いの舞台であった。

 前方から豹のような動きが迫ったいた。
 「敵か?」
 「ご安心なさいませ。わたしの部下で御座いす」同じ抗日でも便衣隊ではないという意味である。
 「なに!」
 「わたしは八路軍の将校です。そしてアン・スミス・サトウ少佐と、キャサリン・スミス少尉に借りがありますわ。ここで、今その借りをお返し致します」
 「なんだと?」
 「こちらです」
 「ここは?」
 「わたしどものアジトです。危害は加えませんわ、これから、あなたちを新京飛行場まで逃がして差し上げます。此処だと、もう羆は追って来られません。さあ、こちらへ。みなさん、お待ちかねです」

 そこは洞窟のような地下壕だった。
 約10mおきに点
(とも)る裸電球の薄明かりの中、全員無事の安堵の綻(ほころ)ぶ貌があった。
 エア・ガールの五人。吉田、兵頭、亀山。そして猪口と満洲映画社のスタッフ八人。この八人の中に、化粧係の満人の少女が三人含まれていた。こうした少女も遅れを取らず、能
(よ)く走ったと言えた。
 この一行は、今は安全と思える壕の中に居た。雑人溜りの一劃
(いっかく)にある自然の洞窟である。
 此処が鈴江の言うアジト
(隠れ家)なのかも知れない。地下運動の煽動司令部であるらしい。見渡して津村はそう思った。
 この司令部には八路軍の兵士十名ほどが居て、粗末な軍服を着た男女が忙しく動き廻っていた。携帯の武装は日本軍からの鹵獲品であった牛蒡剣
(銃剣)を吊るしていた。貧弱な武器であるが、紅軍革命での闘争材料としては、彼等にとって申し分がないのだろう。
 一行は、八路軍に一時期匿われているような構図になっていた。妙なものである。
 だが、この壕での無事も束の間のことであろう。
 ひと時の平和は、一瞬にして特異点に達して覆される。あたかも時機のフラスコの沸騰した湯が、一気に沸点に達しようとしていた。禍は、藕糸の部分に禍根が隠れている場合がある。だが此処には、ほっと一息つけるような、ひと時の平和があった。

 「小隊長殿、よくご無事で」兵頭が安堵の色をみせた。
 「こちらのご婦人に扶
(たす)けられた」
 「扶けたのではありませんわ。借りた借りを、これから返させて頂くだけです」鈴江が言い放った。
 「そういう事だったのか……」津村は思い返すように納得した。これまでの混乱と麻痺が少しばかり整理できた。
 「そういう事でございます」種明しをするように言った。
 「なるほど」
 「かつて、わたしくを日本の官憲の手から護り、羽田飛行場まで逃がせて頂いた借りを、これから返させて頂きます。特にアン・スミス・サトウ少佐とキャサリン・スミス少尉のご姉妹には多大な借りがありますわ。それをいま……」
 「なるほど……、ということは、危機がまだ過ぎたと言う訳ではないということだな。少なくとも最大の危機は、まだ過ぎてはおらぬ。その危機はこれからかも知れぬ。今までが幸運で、これまでの格闘戦は軽い篭手
(こて)合わせのようなものだった……。そういうことだな」
 「いいえ、この世界と言うものは、原因に応じて反応する現象界。現象界では、危機は人間の想念が自ら招くもの。最大の危機と思った瞬間に、想念が反応して本当の最大の危機に変貌するものです。
 本来、最大の危機も、最少の機機も、そんなものは本当は存在しないのです。ですから、恐怖に足を取られないために、そういうことは考えなくても宜しいのです。いま見えるものだけを観て、見えた分だけ思い致せばいいのです」
 「それを実戦で感得したか、鈴江」迫るように訊いた。
 「困りましたわねェ」
 「だが思い致さぬことも、短見と言うことがある。現象界は時々刻々と変化している。かつての弁証法が正しいとは限らぬ。未だに人間の観測した帰納法は、不完全帰納法の範疇
(はんちゅう)を出ていない。物事には人間の肉の眼で観測出来ない藕糸の部分を宿している」
 「藕糸?……」
 「お前が決して認めようとしない不可視世界の隠れて見えない部分だ。肉の眼で世界の総てが見えて、それが大自然をコントロールしていると考えているのなら、それは不遜
(ふそん)と言うもの」
 「そこまで、わたくしを唯物論者視しておられたのですか!」睨むように反論した。
 「本当の危機は、あの程度で済むものではない。それを思い致すだけ。物思い致す懸念は、通り過ぎてから無事に自らの肉体が安全圏に到達できた後には、幾らでも考えることができる。だが波立つ心のざわめきは未だに静止せず、鎮まらぬ」
 「それが藕糸ですか!」
 「お前は情報将校だろう。そんなことも知らぬのか」
 何か分らないが、二人の話は灼熱し始め、妙に熱を帯び始めた。

 その時である。何処かで大きな砲撃が響いていた。近くで爆弾が炸裂したような大きな音がした。あるいは既に洞窟の中に何者かが忍び込んでいて、手榴弾の類
(たぐい)を投げ込んで追って来ているのだろうか。
 地面がぐらっと揺れた。天井が崩れる気配を見せ、天井から土埃が降り始めていた。洞窟の内壁ごと破壊して中の人間を生き埋めにするのかも知れない。獰猛な羆だったらするだろう。
 津村はチタで羆の習性の一部を検てきている。あり得ることだ。そのうち洞窟内は酸欠状態になるかも知れない。

 「あのッ……」アンが遠慮気味に聲を掛け、二人の話に割り込んで水を指した。
 彼女としてみれば、近くで炸裂音が響いているのである。気が気でない。危険が迫っているのだ。論争している段ではないのである。
 心境としては《お取り込み中、申し訳ありませんが、そういう、昔の夫婦の痴話喧嘩は余所
(よそ)でやって下さい》と言わん気(げ)であった。追手が洞窟に侵入し、攻撃が始まったのである。

 「さて、そろそろ羆が動き出すか……。今度ばかりは手強いですぞ」
 決して脅した訳でない。津村は心のざわめきの鎮
(しず)まらぬことを吐露していた。
 この壕の中で、動けないまま敵に遮断されてしまうのか。その懸念は充分にある。この漢にしてみれば、藕糸に禍
(わざわい)が屯しているのを観測出来るのである。
 そして、この手強い相手の指揮官は誰なのか。
 この粘着性のしつこさは、おそらくパヴロフ・カウフマン率いるソ連の国家政治保安部のG・P・U
(ゲー・ペー・ウー)だろう。そしてこの部署は、ソ連領に侵入した満洲国軍の満人の間者を捕らえて洗脳し逆スパイとして走狗に仕立て上げ、飼い馴らし、高等訓練を積ませているのである。明らかに高等訓練を受けた者の仕業であった。
 一行だけでなく、このアジト自体も危機が迫っていた。破壊されるかも知れない。
 思えば、数日前の太陽島でのポーカーゲーム以来、アンは忌々しい女として、カウフマンから狙われ続けているのである。そのことを彼女は、いま明確に確認出来なかったのであろう。ポーカーゲームは意外なところで痼
(しこ)りを残していた。人間の欲に絡む恨みは恐ろしい。だが、彼女は欲に絡んで渦巻く、凄まじい怨念を敢(あ)えて無視しているところがあった。

 再び大きな炸裂音がした。天井がぼろぼろ崩れ落ち、土埃が降っている。局地的な地震が起こったようでもあった。洞窟中にいる全員が、ざわめき出した。誰彼に動揺の色が浮んでいた。
 こうした中、どやどやと踏み込んだ漢が居た。
 漢はマカロフMPを手していた。ソ連製の準軍用自動拳銃
(口径は9×18mm、マカロフ弾、装弾数8発)である。
 「でかしたぞ、孫中佐!」漢は喜々として得意満面な貌をしていた。
 ソ連軍の将校の軍服で、少佐の階級を付けていた。ソ連軍の政治将校であろうが、貌は明らかに朝鮮族系の東洋人であった。ロシア族系でない。二十代後半の若僧であった。権力に酔い痴れている貌をしていた。
 「朴
(パク)少佐、俟って下さい。この方たちは……」
 鈴江は庇
(かば)おうとした。

 「説明は要らん。こちらが捕獲する。速やかに渡してもらおう」それはアジトの招き入れた全員を逮捕し、連行すると言う意味である。熱烈な唯物論者らしく、人間を物体視した物の言い方だった。
 「違うんです、この方たちは……」
 「憐憫
(れんびん)を懸けることはなりませんぞ、中佐」
 「この方たちは、わたしの客人です。渡せません」
 「中佐。その権限は、あなたにはない」
 「何
(ど)の面下げて、そうおっしゃいますか!」少なからず怒りが籠(こも)っていた。
 「自分はソ連邦の政治局員である。その権限で、この場の遠慮も顧みない。お分かりか」
 「充分に承知した上で、お渡し出来ないと申し上げております」
 「では、あなたも一緒に逮捕する。同道願いたい」
 「お断りいたします」
 「邪魔立てするか、孫中佐!」
 「わたしは此処の指揮官です」
 「あなたが私より、階級が上であることは存じている。だが私はソビエトの政治局員である。従われよ!」
 「その傲慢
(ごうまん)、少佐の愛されている密舎(ハーレムの意)の奥さまや、お囲いになっていごる寵妾(ちょうしょう)にも、それは通せますか。党幹部の政治局員と雖(いえど)も、奥方や寵妾には、その傲慢、通せますまい」と厳しく指弾した。

 ソビエト共産党幹部の一雄多雌の群れの禁所は有名だった。後宮を指す。多雌の群れの中から、成分のいい人間を作り出すと自称する。やがてこの悪しき伝統が、中国共産党にも伝染する。
 一党独裁の頂点に君臨する一握りのエリートを自負する輩は、底辺を酷使していた。名も無い下級兵士を芥
(あく)の如く軽視し、その一方で妻妾の媚言(びげん)には耳を傾け、他愛無く動かされていたからである。だが哀れなのは、芥の如く軽んじられている下級の兵士だった。日本では召集令状を“一銭五厘の赤紙”と蔑称したが、最下層階級を蔑む優越意識は無産階級(プロレタリア)を標榜するソビエトも無縁ではなかった。その意味では、ナチス独逸以上であったかも知れない。そのため下級兵士は、この状況下では、自分達はエリートのために犬死にする他あるまいと言う懸念を常に描いていた。
 孫齢姫はその仕組みをよく知っていた。
 権力は、如何なる体制に変わろうと、下級層を蔑視する姿勢は変わらないのである。

 「なに!」朴少佐は語気を強めた。
 「わたしたち軍の底辺の兵士は、あなたたちソ同盟党幹部からは、いつもきついお叱りを受け、またわたしの部下も百鞭の罰や過酷な労働、そして監禁や洗脳、更には肉体的束縛はお受け致しましたが、少佐の愛する婦女子のように、恩遇を頂戴したことは一度も御座いません。八路軍は既にソ連軍の傘の下から抜けて自立しております。自力更生を旨とします。あなた達の指図には従いません」
 「うム!何と不敵な……。では不本意ながら中佐、あなたを軍規に照らし合わせ、命令違反で射殺しなければならない」
 「出来ますでしょうか!」孫齢姫は不敵な嗤
(わら)いを口許に漂わせた。易々とは殺されないと言う余裕である。
 朴中佐は拳銃を彼女に向けた。引金に指を掛け、いつでも発射出来る容易を完了している。
 これを見ていた津村は、朴少佐の手頸目掛けて、逆手
(さかて)撃ちで“羽飛礫(はね‐つぶて)”と飛ばした。
 羽飛礫とは、飛礫の小石に孔
(あな)を明け、鳥の羽を縛ったものである。この飛礫を撃たれると、一見小鳥が飛んで来たように眼には映り、一瞬怯(ひる)む。無意識の防禦で構えてしまう。その隙を衝いて術を企てるのである。しかし朴少佐には、その必要はなかったようだ。
 驚いて、天井に銃弾を発射してしまったからだ。驚きの余りに、一発目は天井、そして二発目と三発目は壁に向かって引金を引き、撃ち損じた。四発目は慎重に狙いを定めて、鈴江に向けた。今度こそ、撃ち損じはしないぞという気構えであった。

 「津村さん、マカロフMPは八連発の自動拳銃。残り四発」吉田が告げた。
 意図は無駄弾を撃たせよということであった。
 津村は朴少佐の前に躍り出た。誘いである。《どうだ若僧、わしが撃てるか。撃てるなら撃ってみろ》と言わんばかりであった。左右に、猿回しの猿のように攪乱する。狙いが定め難い。津村としては、彼奴を抑え込むつもりであった。
 だが、異変が起こっていた。
 アジトの入口で、ソ連の工作員と八路軍の兵士が小競り合いをはじめていたのである。その小競り合いで、手榴弾が遣われたのである。それが双方の死闘に発展し、外壁と天井が大きく揺らぎ、洞窟内で戦闘状態になったのである。人工的な落盤を企てたのである。その直前、朴少佐は早々と退却していた。わが身の安全を図った上で、部下に命じ、洞窟の穴埋めを命じたようだ。生きた人間を、ここで丸ごと封じ込めて、総ての証拠を消し、生き埋めにしようとする魂胆だった。冷酷無比で、如何にも羆的であった。
 入口に手榴弾数発が投げ込まれた。
 それをどうした分けか、津村は素早く拾って、敵側に投げ返したのである。一、二秒差の間一髪で、敵側で爆発した。
 入口付近が烈しい爆発を起こした。天井の崩落である。その巻き添えで、何人か吹き飛ばされた者もいた。ソ連工作員だったかも知れないし、八路軍兵士だったかも知れない。天井が崩れ落ち、入口付近は大きな落盤で完全に塞がれてしまった。生き埋めである。
 これで、一気に入口が塞がってしまったのである。地下壕内の薄暗い電燈が総て消えてしまった。真っ暗である。しかしその直後に、孫齢姫がカンテラ
(ブリキの油壺で綿芯に火を灯す)に火を灯した。周りが穏やかに明るくなった。しかし明るいだけに死が連想された。とうとう此処で生き埋めか?……。一瞬全員はそう思ったに違いない。
 だが津村は風を読んでいた。その流れを感じていた。
 「出口は他にもあろう、何処だ?」
 「こちらの通路から出られます。此処はかつて、長春城内にあった地下の抜け路
(みち)です。今は遣われていませんが、新京飛行場近くまで、水路化して繋がっています。路の下に流れている水の流れを辿れば、その先に合流点があって、そこから飛行場内の食堂街の下水路となっています」


 ─────人の運命は皮肉で溢れている。何事も人間側の思う通りには運ばない。
 時の流れによって起こる皮肉な結果は、舞台俳優と雖
(いえども)も知らず知らずのうちに、何事かを演じているのは人生舞台の実態である。
 かつてアンとキャサリンは、もと津村の女房の鈴江こと、孫齢姫を扶けたことがあった。今度は逆のことが起こっている。予期もしないことであった。彼女が扶ける側に廻った。
 思えば不思議である。
 活路に繋がる糸口は断ち切られているのにも関わらず、なのに守護らしきものから護られていた。理解の外に何かがいて、好機の機会やツキを与えようとしているのである。この機会やツキを目の当たりにしたのは煽り屋の猪口だった。映像で見る限り、ある筈の無い力が存在し、それがカメラのレンズを通して鮮明に写されているイメージの確信を得ていた。この漢は、“ある筈の無い力”とは何だろうと思う。人間に活路を開き、生きる力を与える。これは何だろう?と思う。

 この力は、いったい何者の残余から起こっているのか?……。そう穿鑿
(せんさく)する。
 では残余を宿している人間がこの中に誰がいるか。一体誰だろう?……。
 そう思うと、津村陽平が泛
(うか)び上がった。この漢が発信源ではないかと思った。そして残余の力が、この土地の磁場と反応し、場の力の威力を齎しているのである。場の力に作用するものは陽気だろうか。
 もし陽気としたら、そのバリアの中に、此処に居る全員はすっぽりと包まれているのではないかと思ったのである。
 ひんやりとして、少しばかり肌寒い洞窟の中でも、陽気の暖かさが籠
(こも)っていた。それに包まれているように錯覚を覚えるのである。そして、この場の力が不思議にも穏やかに、全員に反応しているのである。穏やかな暖かいものが作用し始めているのである。
 そのような不思議を、煽り屋は映画監督として体感していたのである。

 一行は孫齢姫の迷路案内で逃亡に成功していた。追跡者を完全に振り切っていた。
 しかし全員が疲労困憊であった。その極みに達していた。だが、隊列は崩れていない。団体行動での秩序が保たれていた。まず津村が殿
(しんがり)を務めた。
 一方、孫齢姫はカンテラ
を手に先鋒となって全員を先導し、続いて吉田と亀山がその後を固め、次に満洲映画社の監督とスタッフ一同八人の計九人、中央にエア・ガール五人、その後に兵頭、更に生き残りの八路軍の女兵士四人、そして最後尾が津村だった。
 全員は細いトンネルを通っている。捨身懸命、死一道の覚悟で路を急ぐ。全員は逆境の強靭さがあった。そういう環境が生まれた。絶体絶命を押し付けられると、死中自
(おの)ずから活路有りの境地に辿り着く。
 言うまでもなく、この洞窟の中からは一刻も早く抜け出さねばならない。先ほどの火器の炸裂で壁や天井が崩れ、崩壊し始めているからだ。やがて倒壊するだろう。移動する後から後から、連鎖反応を起こすように崩れ落ちているのである。足を止めれば直ちに押し潰されてしまう。
 先を急がねばならない。決死行が続いていた。


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