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続々 壺中天・瓢箪仙人 3

己に迷って物を遂(お)う。『碧巌録』に出て来る言葉である。
 釈
尊は、あるとき森の中で静かに坐禅を組んでいた。するとそこに一人の若者が血相を変えて何かを追い掛けている風だった。
 若者は釈尊に問う。
 「いま此処に女が逃げて来なかったか!」と、傲慢
(ごうまん)な訊き方をした。
 釈尊はそれを意に介さず「逃げた女を探すより、自分を探す方が大事なのではないか」と。
 そう問われて、若者は思わずハッとした。自分の心の中を覗き込まれたような気がしたからだ。そして、自らの愚かさに気付いたのである。

 現代人は「逃げた女を探すような愚行」ばかりを繰り替えしているのではないか。
 外ばかりの、何かを求めての探歩はするが、一向に自分の裡側の探歩には足を踏み入れない。金・物・色ばかりを追い求め、その挙げ句に、海外旅行じゃ、温泉巡りじゃと、何と愚かなことよ。
 「物を遂う」と、愚行に趨
(はし)るということを、現代の自称は雄弁に物語っている。現代は金・物・色に狂奔する時代である。

 現代人は外側に向かって奔走する。外の街歩きが流行している。それで大勢が海外旅行に出掛ける。
 つまり現代人は、旅行・旅行・旅行……とその連発を羅列し、外側を見て回るが、肝心な自分の裡側
(うちがわ)は一向に観ようとしないのである。外部ばかりを旅している。
 海外旅行だとか、温泉巡りだとかいって外側を探歩するより、自分の裡側を探歩してはどうか。自分を探し歩いてはどうか。
 自分の裡側
を旅してみては、どうか。こちらの方が大事なのではないのか。
 名所旧跡にカメラを向けるより、自分の裡側に注視して、自分自身を掘り下げて探求したらどうか。自己の裡に焦点を合わせてはどうか。

 ところが、こういう旅行者に限って、自分の裡側が等閑
(なおざり)にする。外側ばかりを気にする。だが見るべきものは、外より裡(うち)ではないのか。自らではないのか。自己である。
 裡を見詰め、内観し、生命の根源を考え、なぜ自分はこの世に生まれでたのか、それを探求するのが急務だろう。
 己に迷って物を遂う……。釈尊の言葉である。
 真摯に受け取って肝
(きも)に銘じたい言葉である。



●奇手

 「さて、“さんざし”も食べ終えたところで、そろそろ汽車が動きますかな……」予言めいたこと言った。
 津村陽平の土産の“さんざし”をお相伴になり、各自が一服入れて、一息ついたところである。
 「えッ?動くって……」《本当ですか?》というアンの訊き方だった。
 「待ちくたびれたから、もうそろそろ動きますよ」
 「どうして、それが分るのです?」
 津村は、これに笑って答えなかった。

 こう言ってから、汽車は間も無く動き始めた。この地の鬼神に訊いたのだろうか。
 哈爾濱発・新京行きの急行『はと號』は漸
(ようや)く動き出した。これまで曠野に止まったままの機関車の重い動輪が、ゆっくりと転がり始めた。一路新京に向かって、走りを再開した。
 時刻は既に午後に懸かり、陽が西に傾き始めた頃である。かなりの遅れで列車運行である。

 なぜ動くのが分ったか。不可視の世界に通ずる津村のことである。鬼神に訊いたと言う話は、満更、嘘でもないらしい。
 現に、孔門十哲に入る願回
(がんかい)は、この術が出来たと言う。また時代が下って、密教の行者もこの術を遣ったと言う。土地には土地の土地神がいる。遠くは土産神(うぶすなのかみ)であり、近くは鬼神(きじん)であり、また先祖霊である。
 隠行之術は真言の行者が、わが身を護るために呪を用いる護身法である。この呪
(真言)を唱えるとき、摩利支天(まりしてん)の印を結び、護身・隠身・遠行・得財・勝利などを祈る術である。そして鬼神を味方につける呪法でもある。術者は自らの足の裏を介して、大地と会話するのである。津村はこれを会得していると思われる。ゆえに道に迷えば、鬼神と会話する。往(い)き方や復(かえ)り方を教わるのである。

 「あッ!動いた」女性の誰彼となく聲
(こえ)を上げた。奇蹟が起こったような聲を上げた。
 不思議なこともあるものである。あるいは近未来の予兆を、津村は察したのか。
 「やはりこの人は、下駄を預けたい人だ。何か、常人には見えないものが見えているのだ……」と吉田がぽつりと吐露した。
 そして思うのである。
 もし最後の希
(のぞ)みが断たれたとき、跪(ひざまず)いて祈れる人間がいるとしたら、おそらく津村陽平のような漢かも知れないと思うのだった。
 この漢は特別なのだ。祈りたくなる漢なのである。そして、この漢、果たして誰かに似ていないか?……。
 はて、誰だっただろう?……。誰だったかなァ?。しかし、吉田はそれが誰であるか、直ぐには思い出せなかった。
 そして暫
(しばら)くして、はたと気付いた。
 《そうだ、福禄寿。福禄寿にそっくりだ!》短身、長頭……。吉田の感想である。

 吉田毅が観察した“津村陽平観”は、この人物を大胆かつ奇抜と観ている。
 その観相に間違いあるまい。一気に常識を突き崩して、奇策詭道
(きどう)に疾(はし)る。時機を知っているのである。迷いもなく、妄分別もない。ブレていない。北斗七星のように一点を示している。羅針盤のような人だ。この人に下駄を預ければ、道に迷うことはない。吉田の感想である。
 無分別智をもって驀地
(まっしぐら)である。尋常の一歩上を行く、奇抜な思考をする。奇なる行動をする。そのうえ常に正しい方を選択する。そこに奇手が生まれる。吉田はそう思った。

 一方、この負け戦を強いる軍隊官僚の実体は何か。この組織は何であろう。
 吉田毅は参謀本部員の頃から、この疑念を抱いていた。
 参謀本部の官僚どもは、自分では有能な官僚を演じているというふうに高
(たか)を括(くく)り、自ら百点満点を付け、エリート意識の酔い痴れている。自身を優秀なる選ばれた人間と思い込んでいる。しかしその意識だけで、負け戦に収拾をつけることは出来ない。挽回も無理である。吉田の懸念するところであった。

 今の日本は正常どころか、異常な方向へと驀進しているのだ。それは周囲に智慧を用いる幕賓
(ばくひん)が居ないからである。そして周囲は、耳障りのいい、お追従連中が取り巻きとして侍(はべ)っている。邪の構図を作っている。如何なる人間も、自分が権力者になると、この構図の中に取り込まれてしまう。
 どんなに頭脳明晰
(めいせき)で、賢人の域にある有能な者でも、取り巻きにお追従陣を侍らしていては、耳障りのいいことばかりを聴くことになり、遂にはバカになる。愚に毒されるのである。耳障りの悪い、苦言を具申する者を追放してしまう。敢えて衷心(ちゅうしん)より具申すれば、権力者の怒りを買う。特に、この種は感情を主張する米国の人民党員(Populist)に見られる現象である。
 そして、お追従陣が精神主義を論
(あげつら)い、勇ましいことばかりを言い出すと、遂には暴虎馮河(ぼうこ‐ひょうが)の愚に墜(お)ちる。精神主義をもって素手で虎と闘い、大河を徒歩で渡るような愚行に奔る。狂奔は愚である。
 強気一点張りだけでは、「事に臨んで懼
(おそ)れ、謀を好んで成る」の境地には至らない。愚行に奔るだけである。だが、これでは奇手は生まれまい。これでは智慧は枯渇する。

 智慧の枯渇の背景には体系的軍事観があった。戦局を体系的に科学立てて考える思考である。その一方で精神主義が存在したことは大いに矛盾し、また残念なことであった。これにより、多くの名も無き人命が失われたからだ。
 作戦立案に携わる高級軍人は体系的に、科学立て手考える一方、現場で戦闘を実行する現場部隊は精神主義が罷
(まか)り通っていた。科学的根拠を優先するより、精神主義を優先してこれを戦闘に移すと言う遣り方である。これでは妙案が捻り出せても、実行に移すまでには至らない。奇人の戯言(たわごと)で終わる。奇手の枯渇する所以である。そして最後は、安全なる結末を夢想して科学的論理で割り出された正攻法に頼るようになる。

 『孫子』に出て来る「祥
(しょう)を禁じ、疑(ぎ)を去りて、死に至るまでいくところなし」(九地篇第十一節)の箇所を、かの魏(ぎ)の曹操は「幼祥(ようしょう)の言を禁じ、疑惑の計を去る」と略解した。
 つまり「祥
(吉凶)を禁じ、疑(吉凶)を去る」の件(くだり)で孫子が言わんことは、死地こそ、兵の一致団結が固まる。正攻法から考えれば、死地に陥ることは避けねばならぬが、死地があってこそ、兵は背水の陣の下(もと)に一致団結をする。だがよくよく考えれば、体系的兵士論とは矛盾している。
 しかしである。
 この矛盾こそ、人間の哀しい属性であり、一旦死んで生きると言っているのである。この戦法こそ、奇手であった。

 体系的軍事観……。
 科学的論理で割り出された体系的軍事観である。多くは正攻法に委ねられている。
 だが、実際には戦場では、雲が出たとか風が吹いたと言う現象が起こる。これは机上の空論では実感出来ない。その最たるものは、ミッドウェー海戦であろう。この海戦では、その日の天候状態は雲が掛っていた。そのため索敵機は敵空母を発見することが出来なかった。悲劇はここから始まった。そして、最終的な奇手を用意していなかった。状況によって変化する臨機応変性に欠けていたのである。陸用爆弾を魚雷に変更したり、また魚雷から陸用爆弾に変更して、索敵機が敵の空母らしきものを発見すると、陸用爆弾から魚雷へと変更しようとした。指揮官は参謀らの意見に振り回され、優柔不断に陥っていた。その間隙を縫って敵の急降下爆撃に奇襲にあったのである。最高の頭脳を寄せ集めても、この態
(ざま)であった。

 奇手は、堅固な防空壕に守られた、弾の飛んで来ない安全圏にいて、傲慢
(ごうまん)な机上の空論からの知識から生まれない。知識が寄せ集まり、経験を通して濾過(ろか)したものが智慧となり、智慧が郁恵にも集積されて見識となり、そこから「妙案」という奇手が生まれる。妙が「奇」に変ずる瞬間である。奇は「詭」に通ずるからである。これが「兵は詭道なり」の実体である。側面には異能者の勘による一寸先を読む智慧がなければならない。
 斯くして、『孫子』の「百戦百勝は善の善なる者に非
(あら)ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」(謀攻篇)に行き着くのである。

 だが先の大戦で、負け戦を演じている戦争指導者には、この「勘」が不在であった。陸軍参謀本部の戦争思想には、無分別智から起こる奇手が出て来なかった。海軍軍令部も分別知に囚われ、奇手を欠如させていた。遂に奇手は、最後の最後まで出て来なかったのである。
 せいぜい出てきたのが、若い命を散らす特攻隊の発想であった。人間の命を浪費した。この意表を衝
(つ)いた特攻隊の効果も最初のうちだけであり、後に米軍が近接発火信管【註】VT信管(Variable-Time fuze)で、マジックヒューズと呼称)を発明すると、それ以降、特攻隊攻撃は効果が薄れ、無闇に命を散らすだけであった。特攻機の激突率は格段に落ちたのである。

 陸海軍とも精神主義で、士気を鼓舞する勇ましいことは豪語したが、結局、物量戦における根本的な解決法に繋がる奇手は出て来なかった。
 思考的には奇計や謀略を奇手として用いず、在
(あ)り来たりの教科書通りの分別知(時代遅れのプロイセン風の科学的体系的軍事観の固執)に囚(とら)われ、妄分別に汚染されていた。妄分別は「共同幻想」の間違いから起こる。その幻想が周囲に同調を来たし、発言力の強い方、勇ましい方に幻想から偏ってしまうのである。これらに偏ると、自制が効かなくなるからだ。ただ妄分別の固執するだけである。

 その点、津村陽平はどうか。
 彼は自由だった。
 それは発想の自由性や柔軟性までに及んでいた。奇を選び、それは妙に及んだ。また信と同時に、疑の姿勢も崩さなかった。両方を巧く使い分けた。斯くして行き詰まらない。
 確かに彼は貧者である。また貧であることを何一つ気にしていない。まさに十六世紀の日本で、かのエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが言った清貧なる人間への評価に酷似する。
 そして、ザビエル神父は、当時の日本人の「清貧」さについて、驚きと感動の念を表している。
 「日本人にはキリスト教国民のもっていない特質がある。それは武士が如何に貧しくとも、その貧しい武士が、豪商と同等に人々から尊敬されていることだった。清貧なる貧しさを、少しも恥だと思っている武士はいなかった」と。
 この神父は、武士の清貧を高く評価した。これが当時の武士像の等身大の大きさだった。何の誇張もない。
 ザビエル自身、等身大の武士を見て、背景には毅然
(きぜん)さを失わない凛(りん)としたところを感じたのであろう。
 あたかもその光景を、吉田毅は津村陽平に重ねて見ていたのである。

 「八方塞がり、なんとかなりましたねェ」
 動き出した汽車の感想を吉田が吐露した。貌には安堵の気持ちが漂っていた。
 「安心するのは早計です。これは八方塞がりではありません。また『困』でもありません。『困』はこれから起こります」
 「なんですと?!」
 「禁地の『困』は、これから始まります」
 「妙なことを言われる」
 「妙ではない」これから起こる一寸先の闇を指摘したのである。好奇は降って湧
(わ)くようなものでないからだ。天はそれほど甘くない。

 「えッ?………」吉田にできることは、聲
(こえ)の呑む以外なかった。
 つまり、津村は『困」といった禁地は、紅白相乱れての陶頼昭
(とうらいしょう)駅付近のことを言っているのではないらしい。本当の難儀は、これからだと言っているのである。
 「内心では、此処に居る皆も薄々感じている筈。それは妙だと言うこと。おそらく最初はそう感じていた筈です。しかし人間と言うものは、時として怕
(こわ)いものや、悪いものを見たくなる。好奇心と言うものでしょうか。そして最初は怕てたまらないものが、慣れてしまえば、もう怕くなくなっている……」
 「それにしても現金なものですなァ、人間と言うものは……」
 「喜怒哀楽の中に生きる人間とは、そういうものですよ」
 津村は、自分の知る限りの人間を論じた。人生とは千変万化。いろいろな態
(さま)がある。
 つまり、如何に喜び、如何に悲しみ、如何に怒り、如何に楽しむかということ以外に、人間に出来ることはないのである。それは換言すれば、如何に生きて、如何に死ぬかと言うことであった。それを悔やむな、苦にするなというのである。つまり「なんとかなる」のである。

 確かに津村は貧しい。
 貧しいがそれを恥だとは思っていない。また本人は、自身を貧乏だと思っていない。
 何故なら、この漢、一円も借金がないからである。借金がないなら、それだけで自由である。分割払いなどの月賦を抱えていないから、経済的には不自由をしていない。自由だ。それを豊かだと思っている。まさに老荘的である。故に、この漢に智慧は枯渇しない。泉のように湧いて出る。

 アラブの言葉に「借金がなれれば、金持ちなのだ」というのがある。一方これに対峙して「貸し借りは、家政の貧しさを顕す」との箴言
(しんげん)がある。
 しかし津村陽平は、何れも無縁であった。
 縛られない。囚われない。こだわらない。津村の信条である。根っからの老荘的自由人であった。そこに一つの悟りを得ていた。
 悟った後は、愉しみは晴れの日ばかりではない。雨が降れば、雨が降ったでいい。雪が降れば、雪が降ったでいい。風が吹けば、風の日もいい。自我を離れ、拘泥
(こうでい)を捨て、こだわりを離れて見れば、毎日が日々是れ好日なのである。安らぎの中に在(あ)るのである。
 そこに何か惹
(ひ)かれるものを、津村に遭った時から感じているのである。吉田のとってはまさに邂逅(かいこう)であった。そしてこの漢に蹤(つ)いて行けば、「なんとかなる」と思うのであった。

 だが「なんとかなる」は、手を拱
(こまね)いて、何もしないことでない。それは「心配無用」と言っているだけである。先のことは思い悩んでも仕方がない。悩む前に「功夫(くふう)せよ」ということである。
 功夫する思考力があれば、それで何をすべきかの「肚が決まる」と言うことであり、何が起ころうと、心配は無用である。しかし功夫はしなければならないのである。
 これこそが栄枯盛衰を繰り返す現象界の掟
(おきて)だった。

 一方、易で占っても「こうだ!」という卦
(か)は出ない。占いで、神託(しんたく)は顕われない。
 占いは人間現象界で観測されたものであるが、神託は神界にあるもので、人間界の範疇
(はんちゅう)では観測できない。人智で測れるものでない。占って、神託に近付くことは出来るが、それは神界ほど精密・正確ではない。先駆者が感じただけのものに過ぎない。
 神託とは、一寸先の闇を検
(み)る未来予知である。
 だが、現象界に生きる人間は、その予知能力が自身に備わっていない。だから数値に頼る。過去のデータを参考にして数字を弾く。アルゴリズム的数値主義である。ただ数値の精度のみにこだわる。こだわれば「なんとかなる」からは逆行する。遠く離れる。

 かつて電卓の登場で、メーターがアナログ表示からデジタル表示に変わって以来、科学実験報告書から有効数字についての微妙な働きを感じさせる感性が後退した。それに替わって、小数点以下の桁数が多いものへと移行した。そして小数点以下の桁数の多い数値に頼るようになった。
 要するに、小数点以下の桁数は頼るべきは数値であり、人間の感性ではないとしたのである。勘が蔑ろにされたデジタル計測の始まりだった。正しい分別こそ、数値に頼るべきだとなった。
 だが、数値精度が如何に向上しようと、前途に複数の道が分かれているとして、その道をどちらに進んだらいいか、人間の感覚レベルである五官では確実に言い当てることが出来ない。また数値は、不可視世界の闇を読めない。分別で、無分別の闇の中は読めない。

 易断はそれを占い、あとはそれを呪
(じゅ)した卜者の解釈による。それを「どう採(と)るか」は卜者の判断力に委ねられる。
 卜兆
(ぼくちょう)を、どう読み、どう検(み)るかは、卜者の観察眼と観測力による。易が「当たるも八卦当たらぬも八卦」と言われる所以(ゆえん)である。
 確率から言えば、半々と言うことだろうか。
 だが、この見解は正しくない。何故なら、偶然と必然は、それぞれが50%の確率で存在していないからである。
 そもそも偶然という、何の因果関係のない、全く予期しないことが果たして、“半々”の50%で起こるだろうか。むしろ、偶然すらも何かの意味があって起こることである。なぜなら人間の認識は不完全なものであるからだ。

 周易で、陰陽の爻
(こう)を組み合わせた八つの形象は、自然界ならびに人事百般のあらゆる事象を象徴するものである。
 則
(すなわ)ち、卦は『易経』に最初から記されているのである。その解釈による。それを「どう読むか」に懸かる。その読み方によって、それが真意であるか、あるいは読み間違いかが決まるのである。
 読み間違いは、ただの“愚読”である。易経が間違っているのでなく、卜者の読みが間違ったのである。あるいは卜者が未熟だったのである。
 易断するには、五官の総てを傾ける。風
(ふう)の違いを観じる。それには直観を研ぎ澄ます。
 全力で集中し、勘を働かせる。微風を感じる勘を養う。藕糸
(ぐうし)は「勘」のみによって、不可視世界で起こっていることを観ることが出来るからだ。
 藕糸の正体は人間の肉の眼で確認出来ない隠れた部分にある。
 それは言葉もそうであり、言葉を文字に変換したものもそうである。文字には必ず見えない藕糸の部分が伏せられている。通り一遍に字面だけを追っても、何も見えて来ない。字面を追って分ることは表皮であり、隠された深部は何も窺えない。況
(ま)して、藕糸は隠れて見えない。文字に伏せられた意図する真意は、難解で極めて分り辛いのである。

 戦時なら、風に血の匂いが幽
(かす)かに漂っている。異様に暖かい血腥(ち‐なまぐさ)い風が吹いている。
 これと同じ風は、満洲の黄土の戦闘状態でないところにも吹いている。刺客が獲物を求めて暗躍する幽かな風である。工作を企てる土竜
(もぐら)の暗躍する匂いも混じっている。
 衰亡の逆流に遭えば、そこには不利の風が吹いている。負け戦にも、そうした風が吹く。命運が去ろうとしている微風もある。その微風には、機がある。枢要
(すうよう)がある。物事が起こる切っ掛けがある。そこに細かい暗示がある。
 時の風は、人間に何かを伝えようとしている。風に混じって、微妙に働く事柄や反省材料がある。素早く敏を検
(み)て、それを読めば、再考の余地もあり、天地機運が覆った暗示まで含まれている。そしてその暗示を感知するのは人間である。人間以外のものでない。

 人間と言うものは、自身の裡側に計り難い力を持っている。これを意図的でなく、無意識に扱うのは時には害を及ぼすこともあるが、反対に確固たる自分の意志力をもって事に当たれば、しばしばこれが強大な力を発揮することがある。つまり、生理的かつ精神的障害から、わが身の及ぶ難を遠ざけることが出来るのである。
 行き詰まったと思い込めば、何処までも行き詰まって、八方塞がりに陥ってしまうが、「読み」を逆転の発想で行えば、「逆も真なり」という結果が顕われることもある。
 表が裏返って、行き詰まりが解消されることもある。あたかも将棋の“歩
(ふ)”が、裏返って“金将”に成るようにである。

 人生には、度々「これから先をどう読むか?」という局面に迫られることがある。しばしば前途多難の、そういう岐路に立たされる。
 例えば、自らの進む前途に断崖絶壁が在って、更に向こう側に行くには一本の丸太の上を渡らねばならぬ丸太橋が架っていたとしよう。ただの丸太が架かった橋である。その丸太橋が10mほど続いているとしよう。
 もし、この丸太橋が地上から10cmの高さで架かっていたのなら、簡単に10m程度は渡ってしまうことが出来る。
 だが、これが地上から50m上に架かっていたのなら、同じ丸太橋でも、地上から僅か10cmとは事情が違って来るだろう。曲芸師でもない以上、一般人ならば怕
(こわ)くて渡れない筈だ。足が竦(すく)み、また眼明きは地上をからの高さを見て圧倒されてしまうから、丸太を這(は)って渡っても、恐ろしくてたまらない筈である。
 では、何故そうなるのか。

 それは“一歩間違えば……”という強迫観念が働くからである。所謂
(いわゆる)先入観である。
 そのために、一歩間違えばが何処までも追い掛けて来る。一歩間違えば、脳天を砕いて即死である……。そのことがこびりついて離れないのである。その精神状態が不安定となって顕われ、それが肉体までもを萎縮させてしまうのである。
 地上から僅か10cm程度なら簡単に遣れることが、50mの高さとなれば、足が竦み、丸太の上を一歩も足を進めることが出来ないのである。
 さて一見、八方塞がりになったように映る構図を、「どう読むか」が、その先の明暗を分けることになる。慎重を極めたいところだ。

 満洲……。
 近現代史では一般的に、そう呼ばれた。
 だが、満洲は正しくは“満洲国”という。満洲は中国の東北一帯の俗称で、満洲の呼称は、もともとは民族名である。満洲族を指す。そして、行政上は東北三省
(遼寧・吉林・黒竜江)と内モンゴル自治区の一部に亘り、大陸では東北を満洲国と呼ぶ。
 満洲国……。
 近現代史では、傀儡
(かいらい)国家として悪名が高い。
 しかし、この国はここ数年の間に、実に目覚ましい奇蹟的な躍進を遂げた。この躍進は、戦後の日本復興の際のモデル都市として、未来のビジョンとしての都市計画にも参考になったとも言われている。日本は戦後、満洲国方式で、焦土と化した日本列島を再建したと言えよう。満洲事変を経て、満洲国建国は、焼け野原と化した戦後の日本の復興のモデルになったのである。
 満洲は気候的にも恵まれ、天産は豊饒
(ほうじょう)で、農作物がよく育ち、経済と流通システムは進取的であった。日本内地では、これまでに見たことのない隆々たる勢いであった。
 しかし、これを羨み、妬み、憎み、掠奪を企てる眼もあった。その眼が近辺から、虎視眈々
(こし‐たんたん)と狙っていた。怨念の眼である。羆(ひぐま)の眼である。日露戦争の遺恨に起因する。
 羆が、北から満洲を窺っていたのである。だが、これに気付く者は少なかった。

 満洲のこの地を警護していたのが関東軍である。
 だが、羆と噛
(か)み合う気はなかった。況(ま)して羆の仔(こ)も、そっとしておいて、羆とは啀(いが)み合いもしない。好戦的に噛み合うより、むしろ羆の仔に乳を与え、冠を与えるようなことをして、禍を極力回避して来たのである。日ソ中立条約によって、無益な小競り合いを止め、手懐(て‐なず)けることを上策と考えていたのである。この条約は、当時の日本の金科玉条(きんか‐ぎょくじょう)になっていた。
 その厳守は一方で、羆の恐ろしさをノモンハン事件で関東軍は痛感した。手痛い思いをして懲
(こ)りた。羆の恐ろしさを思い知らされたのである。そこで、日ソ中立条約となった。
 この条約は昭和16年に、日本とソ連との間に締結された中立条約であり、有効期間は五年であった。日本はこの中立に安堵感を覚え、警戒する一方、時とともに手痛さを忘れ、やがて胡座をかいた。
 しかし、この条約はほんの一時的な偽装平和を保ったに過ぎなかった。年月が経つと、次第に両国の間で、険悪な気流が漲
(みなぎ)り出した。羆の仔は成長とともに、徐々に牙を剥き出したのである。
 日本に、これまでとは違う逆風が吹き始めた。形成は日を追うごとに不利になった。満洲国にはその不利の翳りが見え始めた。これまでとは全く違う、逆風が吹き始めたのである。

 易理には卜者の熟練度によって、順風か、あるいは裏目に流れているかを読む。流れる風を読む。
 裏目が出ると分っていれば、その裏目が何であるかを読む。而
(しか)して、裏目が出て、その真意が読めなければ、裏目の暗示に掛かり、その暗示で命を落とすようなことになる。したがって、その卜者はその理(ことわり)を読めない馬鹿者と言うことになる。似非(えせ)卜者の正体は、実はこれだった。当たるも八卦当たらぬも八卦ではなかった。
 占って、当たり外れがあるのでなく、隠れた藕糸の部分が読めなかったのである。
 易経の出た卦
(か)は、それが如何に凶意を含んでいたとしても、必ず救いの方向を示唆している。卦は出たままでない。だが端的に言えば、凶意でも、裏に対峙(たいじ)して「救いの方向」があり、大半の卜者は裏目だけを検て、その反対側を読もうとしない。これにより真意を見逃す。
 しかし、此処には陰陽の両方が暗示されているのである。山高ければ谷深し。またその反対も言えることである。

 不測の事態が起こる前に、動いた方がいいという易断である。
 運命は、宿命と異なり、ダイナミックに流動する。うねる。生きているものの証
(あかし)である。この証の中に「変ずる」という現象が起こる。
 凶意・急場にあっても驚くことはない。動揺することはない。余裕と陽気で躱すことが出来る。
 しかし、「行き詰まった」「閉ざされた」と思えば、「それまで」である。それから先の道は拓けない。ますます閉ざされるだけである。そうなると先がない。未来は永遠に失われる。
 そのためには、しぶとさが要
(い)り、したたかさが要り、諦めないことを知っていなければならない。
 先ずは簡単に、安易に、軽率に、死なずに生き残ることである。仮にこの場が最悪の難所であっても、そこから抜け出す道は様々にあり、選択肢も無数にある筈だ。

 だが肝心なのは、危険を回避して、ただ遁走するだけでは意味がない。
 遁走するに当って、一泡
(ひとあわ)吹かせるという気概が大事で、この気概をもてば不思議と天が加勢してくれるようである。つまり、いま少し敵陣内を掻(か)き回し、心胆を寒からしめることも面白いのである。
 いやしくも山師を自負するなら、これくらいの豪胆さが欲しいものだと、易断卜者の津村陽平は考えるのである。
 遁走に当たり、門が閉ざされると言っても、総ての門が閉ざされる訳でない。必ず、手薄な門がある筈だ。油断している手薄を突けばいい。
 また組織網には、必ず“手蔓
(てづる)”が存在する。総てが塞がっている訳でない。
 孤立した人間は、したがって一泡吹かせる山師の才がないと言えよう。
 己を孤立させてはならない。ネットワークを持っていることだ。
 山師は至る所に手蔓を持っている。多くの抽斗
(ひきだし)を持っている。抽斗の中にはいろいろな奇手が詰まっている。これをカードに、上手い駆引きが期待できるのである。


 ─────津村陽平は聴衆が引き揚げたあと、星野周作から受け取った記録帳を読み始めた。
 この記録には日露戦争開戦前夜から、これまで、星野が見聞して来たことが克明に記されていた。支那・満洲国・露国・蒙古ならびに、遠く、東欧や西欧について、見て廻った見聞録である。
 星野はユーラシア大陸だけでなく、欧州大陸にまで足を伸ばして諜報活動をし、種々のことを見聞をしていたのである。その記録の中に、万一の場合の日本の悪夢まで予告した箇所があった。
 特にこの箇所を、津村は注目した。それはまさに悪夢の予告だった。

 簡単に掻い摘
(つま)むと、戦火に灼(や)かれる灼熱地獄のこと。食糧不足から起こる闇市とそれに絡む食糧テロのこと。そして更に恐ろしきは、火の雨が降ることであった。これを独逸が開発していると言うことであった。ナチス独逸(ドイツ)の信管が「ペーパークリップ作戦」で、これが米国に移動して、ナチス独逸の技術者が加担したこと情報を入手していた。米国FRBがナチス独逸を支援して、貸付金を回収するというペーパークリップ作戦を知っていたのである。広島に投下されたリトルボーイは、ペーパークリップ作戦で完成された原子爆弾であった。
 火の雨については、赤城嶺山神社の神主で、異能者の林昭三郎が予告していた。だが林は、不運にも刺客に遭い、不慮の死を遂げている。その刺客が、元の妻であり、星野の娘であった。奇なる因果であった。何か別の因果系列が交錯するようにも思えた。何故だろう?……と思う。

 その箇所を読み終わって、ほんの僅かだが眠った。それは5分とか、10分と言う程度のものであった。
 その眠りの中で、夢を見た。その夢には、人間の様々な謀
(はかり‐ごと)が交錯していた。利権であり、また私益に絡んだ謀である。水面下では権益に絡んで、暗躍や工作が行われていた。そこに烈しい秘密戦が企てられるのである。

 津村は夢の中では格闘していた。
 それは夢幻であるか、正夢だったかは定かでない。ただ奇妙な夢を見た。不吉な夢である。
 あたかも『邯鄲
(かんたん)の夢』のように、束(つか)の間の夢だったかも知れない。
 短い夢だが、生涯を暗示する近未来の状況夢である。目が覚めると、過酷な現実に引き戻される。そういう夢である。そこに、人の世の栄枯盛衰を検
(み)た。栄えるものは、やがて亡ぶという盛衰の循環である。
 その夢は、不吉な夢だった。いい夢ではない。近未来の起こるべき暗示だと感得した。あるいは脳が、そのように反応したのかも知れない。それが夢になって、顕われたということも考えられる。何れにしても、いい夢でないことは確かだった。
 地獄絵である。この世に、生地獄が描かれた夢であった。

 その夢には、人間が生きながら灼
(や)かれる灼熱地獄が出現していた。
 人が灼かれて、のた打ち、もがき、苦しんで、なおも蠢
(うごめ)く悲惨な光景であった。生きながらに見る地獄絵である。その光景が、暫(しばら)く続いた。
 その後、生き残った者は、誰もが食を求めて夢遊病者のように徘徊
(はいかい)する。食べ物が悉(ことごと)くなかった。都会では、食べる物が殆ど無かった。多くの人は戦火で焼け出されていた。そこに「食糧テロ」が起こる。
 酷い欠乏状態になると、それを発生させ易い。これが食糧テロの怕さだ。
 一度
(ひとたび)発生すれば、食べ物を需(もと)めての人間同士の殺し合いである。弱肉強食の論理からの格闘である。強い者が多く取る。弱い者はそれを、指を銜(くわ)えて見送るしかない。呆然と見送る。だが空きっ腹は、見送っても癒せるものではない。

 弱者は宛ども無く、食べ物を求めて彷徨
(さまよ)う。需めても、叶えられることのないことを百も知りつつ彷徨う。夢遊病者のようにである。だが、それでも一応の秩序はあった。並んで順番に遵(したが)う。弱者は弱者なりに順守すべきモラルを持っていた。本能を理性で抑えるだけの道徳観念が残っていた。
 先の大戦当時は、僅かな配給にも整列して、自分の順番を待つ道徳観念はあり、世間にはまた秩序だけはあった。これが深刻な「食糧テロ」を招かずに済んだ。水面下では闇販売は横行したが、道義を守る意識だけは存在していた。闇世界にも陋規を厳守する掟が存在していた。清規と陋規の両方を上手く使い分けていたのである。法律一点張りではなかった。裏街道が在ることを知っていた。
 これが極端な、天下を覆す、食糧テロに奔らずに済んだのは、日本人に備わる礼儀の意識であった。礼儀はテロを招かずに済んだ。悲劇は回避された。
 これこそ当時の褒
(ほ)めた堪えるべき、日本人の美徳である。

 だが、今はどうだろう。
 食べ物などない……。それだけで、パニックになりはしないだろうか。
 規制緩和と言いながら、何処か法律一点張りの、役所的な社会主義的な堅苦しさと息苦しさを感じないだろうか。融通性は皆無である。お役所主義は平時では機能するだろうが、有事の際は果たしてどうか?……。
 そして側面に、逆に情報過多が仇をなすこともある、本来正しい情報は、たった一つなのに、多数が錯綜しては混乱によりパニックを招くことになる。その懸念が大だ。

 今日の日本人は、半世紀前の日本人に較べて「空腹トレーニング」が出来ていない。空腹を知らない。国民の多くは腹を干
(ほ)す鍛錬が出来ていない。金さえ出せば、何でも食べられると思い込んでいる。だが非常時では、金は何の役にも立たない。
 ならぬものはならぬが、無いものは無いのである。その無い時に、どう耐えるかが問題である。
 寒さを凌
(しの)げる着る物があり、空腹を凌げる食があれば問題ないが、時として非日常に変化すれば、衣食は失われることもある。特に戦時はそうだ。
 ここに「空腹トレーニング」の大事がある。寒空の下でも僅かな衣類で過ごし、口に入る物が一時的に失われても、それに堪え忍ぶ精神力が必要である。物がある時代に贅沢をすることは簡単だが、物がある時代だからこそ、辛抱して堪え忍ぶ精神力も必要である。これが欠如していれば、人間が「礼」を忘れる。
 礼儀は、衣食足りて知るところである。

 だが戦時は違う。
 物質が極端に欠乏する。そして国民の我慢も限度がある。辛抱にも臨界点がある。
 二ヵ月、三ヵ月と続くとなると、物事の、これ以上はないというぎりぎりの境界を越える。
 戦時下、政府には飢えた人に、食べ物を供給する余裕も備蓄もなかった。公園や路上、地下街や防空洞窟に飢えた人が溢れていた。そこは空襲を免れると言う堅固な防空壕ではない。軟弱な場所である。敵機の来襲があって、空襲を受ければ一溜まりもないだろう。そういう場所に、弱い人々が一塊になっていた。精気も喪われつつあった。悲惨な光景である。
 みなボロを纏っている。
 その纏った物には、路傍に斃
(たお)れた死者から剥(は)ぎ取った物もあった。それでも夜気の寒さに絶えられるものではない。傷付き、患って、斃れるだけを待つ人もいた。長くはない生命の灯火(ともしび)を辛うじて点(と)している風前の命である。
 だがかつては、こういう人も日米開戦直後には駅頭で、出征兵士に歓呼の聲
(こえ)を送り、千切れんばかりに日の丸の小旗を振った人たちである。心情的には勝ち戦を信じ、出征兵士の同道者であった。兵士が赴く先に同道し、心は随行していた。

 だが深い読みもなく、軍から言われるままに駅頭の壮行会に参加して、歓呼の聲を送り、日の丸の小旗を千切れんばかりに振ったに過ぎなかった。民族主義的なポピュリズム
(populism)の嵐に煽られただけだった。
 神宮外苑での学徒出陣壮行会では、ポピュリストの熱弁に乗せられ、国防を侵略に置き換えて、外地へと勇ましく赴任して行った。
 だが結果は違った。これが負け戦になろうとは、誰も夢想だにしなかった。
 日中戦争以来の国家総動員法、一億火の玉……。

 当時の国民は、人的並びに物的資源の委任を、時の政府に預けた。国民の命も、食糧も、その他の物資も総て得の政府に委ねた。国家全体主義で強制的に何事も動員された。千切れんばかりに振った日の丸の小旗。駅頭での万歳の聲を張り上げた壮行会、あれは果たして間違いであったのか……。
 昭和19年に入ると各戦局で玉砕
(ぎょくさい)が続き、誰もが沈黙し、無言で通すことが多くなった。ラジオの放送からは『海ゆかば』の曲が流れることが多くなった。重い暗雲が垂れ込めていた。靖国の母、靖国の妻が多くなっていた。
 灼熱地獄に併せて、食糧テロ、更には火の雨の恐るべきべき予告……。悪夢も此処まで来れば、悪夢の度を超しているように思われた。

 ではこういう時代、どのように身を処すべきか……。
 戦時は、一つの嵐である。嵐の吹きすさぶ中を耐えねばならない。猛威が収まるのを待つ以外ない。
 それだけに、待つ間に種々の迷いが生じる。だが、迷っているばかりでは未来を喪
(うしな)う。迷いっぱなしでは生死を解決すること無く生涯を終えてしまう。そうなると、再び六道を輪廻して、終わりなき迷いを繰り返すことになる。これこそ、終わりなき生き方と言えよう。迷っていては何一つ解決出来ないのである。
 最大の元兇の中には、常に迷いが存在している。左右何れに就くべきか、それを迷っている間は、極めて中途半端であり、元兇災難は、ここに巣食うのである。その間隙
(かんげき)を縫(ぬ)って忍び込んで来る。迷いは駆逐しておかねばならない。
 人生において「決めかねる」ということが多々ある。それは迷っているからである。好機を逃がすから、この現象が起こる。その最たるものが優柔不断である。迷う者の特長とされる。

 日本は情報管理に疎
(うと)かった。また正しい情報を知り得ないから、意志決定が中途半端だった。
 諜報員が重大情報を手にしても、客観的には何の評価も与えられなかった。大本営や関東軍からは、紙屑同然であった。そして真の情報とは何であるか、これが理解できないままに、日本軍は無慙に崩壊していったのである。
 “敵を知らず、己が分らず”の愚から、日本は大東亜戦争に負けたのである。己すら分っていなかったのである。その結果、陸軍の中の日本、海軍の中の日本になってしまった。肝心な日本が不在であった。したがって戦争目的も不在であった。
 大東亜戦争では情報や機密漏洩に対し、これを重要視する感覚が鈍感であった。国内で暗躍するスパイの諜報活動を赦
(ゆる)し、また捕らえたスパイを逆利用する方法を知らなかった。
 スパイは検挙第一主義に血眼になり、捕らえ、痛めつけるが、その背景には無実な人間まで検挙されるという悲劇があった。秘密戦の何たるかを殆ど理解せぬまま、昭和20年
(1945)8月15日を迎えてしまったのである。

 昭和7年に発足した満州国協和会も同質の体制の中に在った。
 この組織は満州国の住民を組織し動員するための官製団体であり、満州国や関東軍の高官を幹部として結成されたものであり、当初は宣撫工作を主としたが、昭和11年
(1936)住民動員組織に改組した。
 宣撫工作とは、占領地区の住民に占領政策を理解させて人心を安定させることであるが、当時の憲兵隊や特高警察は、相手の諜報員を検挙し、弾圧することに余念が無かった。諜報者を逆利用する考えには及ばなかったのである。諜報を集めるだけに精一杯であり、諜報工作の面では完全に抜け落ちていた。これが当時の日本軍の秘密戦観であり、この欠陥は、大戦の敗北へと直結していることに、最後まで日本の陸海軍は気付かなかった。
 昨今でも、日本はスパイ天国という海外からの悪評は、此処に由来する。無防備であるばかりでなく、その研究すらもなされておらず、法律すら無いと言う有様である。

 それは今に始まったことでなく、島国日本の外国に対しての世界観の問題に起因しているようだ。海外からと言う、観光客を呼び込むような商売に繋がる感覚で、持て成し程度の外国人の接し方である。要するに根底の何処かに、金さえ払ってくれれば、あるいは人気の種での“お客さまは皆神様”というような持て成し観や接待観があるからである。金を払ってくれれば、みな神様なのである。
 当時の日本にもこうした気風はあったのだろう。国際意識の欠如であった。また外国を“邪神界”とみる霊的警戒感が皆無であった。
 体系学から言えば、「疑う」ところから始まる思考である。何事にも先ず疑って懸かる。鵜呑みは禁物である。特に権威筋や茶の間の人気者の言はその最たるものであろう。
 先ず疑う。これが欠如していれば、自他の関係において自らを“甘えの構造”の中に置き、最後は手痛い裏切りに遭うのである。そしてその時には切り返しも出来ず、顛沛
(てんぱい)のときの躱しの余裕すら残っていないのである。

 また俚諺
(りげん)で言う、「親しき中にも礼儀あり」が抜け落ちていた落ちていたといえる。官僚主義的な日本陸海軍にとって、書類や文書が総てだとする融通の利かないお役所の流儀では、物事の根本を見逃すことになろう。また検挙第一主義では、単に自分にとって都合のいい人間と、そうでない人間を色分けしたに過ぎない。だが問題は奥である。表皮ではない。
 表皮には企みがなく、問題は奥にある。奥に意図する企みが横たわっている。その分析までして深部を洞察し、これを逆利用する技術は皆無だった。日本は民族性から言って、深部を読む解読術が欠如しているのであった。表皮だけに囚われては、結局、奥に隠れたものを見逃すのである。

 第一印象だけで好意を感じ、意気投合してしまえば、みな兄弟なのである。みな善人である。表皮に満足を覚え、鵜呑みにし、表面だけを検
(み)て深部の魂胆を見抜けないからである。人間の強いところは表皮にあるのでなく、深部こそ、その好悪を感得する隠れた藕糸が眠っているのである。これが大人しく眠っている時にはいいが、眼を醒(さ)まして本性を現せば、これまで見えなかった「底」の部分が表面化する。それは底が深いか、浅いかの問題ではない。隠れた部分の魂胆が問題になるのである。
 その「底」を見抜くのには、それ相当のこれまでの人生観と見識眼が物を言う。「見」に浅いと最後の土壇場に来て、うっちゃりを喰わされ、手痛い裏切りに遭うことになる。
 かつて松岡洋右は、スターリンを「西郷隆盛のような人だ」と形容したが、これなどは「見」の浅さを克明に物語った眼力のなさであろう。
 その意味では、日ソ中立条約は絵に描いた餅であった。

 では、「日本人の甘さ」は何処にあるのか。
 日本人は殆どが“得をすること”が好きである。得をしたか損をしたかを問題にする。
 特に今の損得である。その損得には長期展望がない。その場限りの目先の損得である。また死ぬ間際、有終の美を飾るための最後の安楽である。だが、こればかりを追い廻して生きていると、結局、最後の辻褄合わせで身を滅ぼすことがある。得をすることを好んだ結末と言えよう。
 人生の貸借対照表は結局、“プラス・マイナス=ゼロ”なのである。
 極端に得をし続けることもないし、極端に損をし続けることもない。損得の収支は何処かで“ゼロ”で帳尻が合っているのである。自分だけに、一方的に順風満帆の風が吹き、都合のいいようには吹いてくれないのである。この世に、現世ご利益はないのである。
 自然は、ただ無為自然であるだけである。最後は帰すべきところに還る。一切「空」である。躍動の青年期や壮年期の孔子的な坂道を駆け上がる人生とは対照的に、晩年はこれに対峙して減速し、老子的な坂道を下る人生が俟っている。これを読み違えれば道を踏み外すだろう。
 此処には策無くして、いらずらに利に奔れば、いずれ亡ぶという暗示がある。坂道にはブレーキ制御が必要であるからだ。


 ─────さて、第二次世界大戦は軍事において様々な発明品を作り出した。その中でも、ナチス独逸が発明した暗号機に『エニグマ』なるものがあった。独逸の海軍や空軍が使用していた暗号システムである。
 このシステムは司令部間の機密通信に使われ、ヒトラーまでもが個人的な連絡に使用していた。用いる暗号機は二台の電導タイプを使い、エニグマと言う複雑なる電気配線システムで連結した構造になっていた。
 これは予
(あらかじ)め選択された一連の鍵語(key)を使うものである。

 例えば特定の地点で、年月日と時刻を指定すれば、二台のタイプのうち、左側から通信文を打電すると通信文は暗号に直されて、もう一台の右側に打ち出されて、それがそのまま送信される。送信した暗号文が目的地に受信されると、無線操作員
(operator)は受信用に用意された鍵語を左側のタイプに打ち込む。すると右側のタイプから平文(ひらぶん)で打ち出される仕組みになっていた。また鍵語は毎日変更されるため、暗号を敵側が無線を傍受しても解読不能と称されたものであった。そして独逸は“解読不能”に自信を持った。それは自信過剰といってもよかった。

 ナチス独逸はエニグマを、難攻不落の難解な暗号機として高く評価していた。そして、これを日本陸海軍にも提供した。
 特に日本海軍は、エニグマを艦船や潜水艦に搭載した。もし自国の艦船などが連合国側に捕獲されても、解読は不可能で、難攻不落の暗号機と信じていたのである。
 だが1941年、ヒトラーがスターリンとの相互の不可侵条約を破棄すると、ソ連は西側連合国の同盟国となった。そこでソ連の暗号解読技術は高まった。
 そもそも欧州開戦前、ヒトラーは仏蘭西
(フランス)と波蘭(ポーランド)が協力してエニグマの模造機を入手したことに気付かなかった。英国情報部はエニグマ製造会社で技術者として働く、ポーランド系ユダヤ人を買収していた。このユダヤ人は、ユダヤ人であるということで独逸を追放された。それに目を付けたのが英国情報部であった。

 英国情報部はこのユダヤ人にエニグマの模造機を製作させた。試作機を造らせたのである。
 その後、鍵穴式暗号解読機が完成した。英国暗号分析家らはこの暗号機から、枢軸国の暗号解読に成功したのである。独逸側が毎日鍵語を変えたとしても、傍受した暗号文は簡単に解読出来たのである。この成功を、ヒトラーも日本軍も知らなかった。
 斯
(か)くして独逸の波蘭侵入、大東亜戦争となって戦域は世界規模に拡大され、やがて連合国軍が反撃に転じる。その後、スターリングラードの独逸軍の大敗、伊太利亜(イタリア)の降伏、独逸の降伏、そして日本の無条件降伏により枢軸国は敗北に至る。裏では、暗号解読機の働きが大であった。
 英国はこの鍵穴式暗号解読機を《爆弾》と名付けた。コードネームは《ウルトラ》である。そして連合国と枢軸国の諜略戦では、前者に圧倒されることになるのである。


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