運気 八門人相 房中術 癒しの杜 菜根譚 小説 会報Back No. 合気 蜘蛛之巣伝 死の超剋 霊的食養 心法
柔術 1
柔術 2
柔術 3
柔術 4
柔術 5
home > 柔術 > 柔術 1
柔術 1

大東流柔術



柔術一本捕り・脇固







─────刀法を用いた補助鍛錬の大事─────

 柔術は無手で行う剣術である。則ち、剣術の裏技と解することが出来る。剣を極めると、剣を持たない剣術まで極まり、無手となって柔術へと変化する。
 柔術の基本は剣技であり、刀法を心得ておかねばならない。刀にはその構造上「斬る為の理
(ことわり)」が存在している。
 つまり、刀は「ふくら」があり、横研ぎの刃物は切り込めばその部分で、肉や脂肪分の抵抗を受けて止まってしまうが、刀は「ふくら」の為、引くと切り裂く構造を持っている。
 また、血は脂
(あぶら)であるという事も知っておかなければならない。この理を知っているか、否かで、その上手と下手が分かれる。抜刀の手練はそのような理を熟知して生まれてきたのである。

 先ず、刃物によって斬られた場合の事を説明しよう。
 刃物を持った相手と遭遇して、もしこちらが、これを素手で応戦しなければならなくなった場合、「白刃取り
【註】正確には大和柳生流の白刃取りであり、柳生新陰流ではない)」の心得がないと、いくら武道の経験者であると雖も、恐らく戦意は半減してしまう筈である。
 また、その隙
(すき)に斬られ易い。
 喩えば、刃物を受け損なって、腕や手首の動脈を斬られたとしよう。それが最悪の状態の場合、纔十四秒で意識は失われてしまうのである。
 この14秒間で止血を行い、戦う為の態勢を立て直す事は、柔道や空手、剣道や合気道の高段者と雖
(いえど)も、容易な事では無く、効果的な止血の処置を施すのは極めて困難である。
 これが訓練を受けていない素人の場合、精神的な悪条件が重なり、その気の動転で、呼吸は乱され、出血は更に酷くなる。この状態の中で、相手の刃物を奪い取り、「抑える」「叩く」「投げる」「固める」等の動きが課せられるのである。
 従って、刃物に対する防禦は一筋縄ではいかない。

 この事は柔剣道の高段位を取得する警察官が、武道や格闘技の経験のないド素人の容疑者を取り押さえる際に格闘して、簡単に刺し殺されて、殉職する事件が、度々起こっている事から考えれば頷ける筈である。これは現在の剣道にも柔道にも、「柳生流の無刀捕り」に匹敵する《白刃取り》の「柔」の術がない為である。
 今日の武道家は、社会の安定と秩序の上に胡座をかき、演武という約束上での《申し合わせ》に慣れ過ぎてしまっている為、『素人は手が速い』という事実を安易に見落としているようだ。
 素人と対戦した場合、「武は礼に始まり、礼に終わる」等と悠長な事はいっていられない。素人は礼儀もなく、ルールを弁えず、駆け引きがなく、無分別であり、時と場所を選ばず無差別に襲い掛かるものである。そしてこの凄まじさは道場での内輪稽古の比ではない。

 剣の操法は単に媒体に向けて叩き付けるだけではその媒体を袈裟斬りにしたり、真上から「真向枯竹割
(まっこう‐からたけわり)の術」で一刀両断にする事は出来ない。重要なのは「気を沈める」ことであり、これは心的なものではなく、動に対する静であり、静中に更に静を求めて気を任脈と督脈の正中線の上へ方向の動きに合わせ、それを沈める事を云う。

 「合気」における「気を沈める」という秘術は、自分の努力次第で可能とされている。術はその実体が、人間の編み出した「術」で構成されているからだ。
 しかし、単に努力と言っても、日夜、「一本捕り」
【註】諸派によって分類が異なるが、一応「大東流一箇条十一本」を指す)のような基礎技術を十年もかかって、これを会得すると言うのでは、まさに徒労であり、進歩を臨めないばかりか、愚の骨頂である。

 合気は、型の反復練習からでは得られないものであり、呼吸法も大事であるが、もっと根本的な養成法をあげると、「握力」の養成とともに、気を沈める「沈下の法」を会得する事である。要するに「会得する」ことにある。
 会得とは、意味をよく理解して、自分のものとする事を言う。
 そして認識せねばならぬ事は、大東流の古典の型
(例えば柔術百十八箇条のような)の中に合気は存在しないという事である。古典の型はあくまでその範囲のものであり、今日の時代からすれば、骨董品の域を出ないものなのである。

 さて、「気の沈め」は、単に繰り返し練習の鍛練によって会得できるものではない。
 「気を沈める」とは、明らかに西郷派大東流合気武術の儀法
(ぎほう)であるが、この儀法は技術的な鍛練を道場内で繰り返し稽古して、その結果得られると言うものではなく、これは経験する事によって得られる技術である。
 反復練習は基本技を記憶するには効果があるが、これを応用し、独自の自分にあった技術を掴むには、握力の養成法に加えて、気を沈める事を、経験を通じて会得することが大事である。



●「虚」の極意

 本来柔術は、「虚」の武術である。「実」を捨てるところに“虚の奥儀”がある。虚に至れば、“手”は無尽蔵(むじんぞう)に続き、“手”は無限に出てくるからだる。こちらが「虚」であれば、それに応じて無限に、“手”が変化出来るからである。先方に応じて、“変化する”のは、虚であるから出来ることである。

 一方、こちらが何か持っていると、持てるが故に、それに縛
(しば)られ、それが手枷足枷(てかせ‐あしかせ)となる。この為に自由自在を奪われる。自由自在は「虚」が確立されて、思うように運ぶ。追い込まれても行き詰まらないのは、「虚」の働きによるからだ。「虚」である以上、千変万化の“浴びせ技”として、それを連続して繰り出すことが出来る。
 そして「虚の哲学」は、則
(すなわ)「柔術の哲学」に結びつく。
 つまり、『小能
(よ)く代を制す』の境地である。虚を衝(つ)けば、小と雖(いえど)も大を倒すことが出来る。この“虚を衝く”ことを「影を打つ」などとも言う。柔術の極意である。

 柔術の「柔」は、虚の構築からなる道である。
 先方の出方の応じて、こちらは柔らかく、自由自在に動いて行く。こちらに何か持っていたのでは、柔らかく動けない。柔らかく動く為には、自分の腕力による力を用いても駄目である。先方が押してくれば、押されるままに、その押す力を利用して相手を倒す。先方が引けば、こちらは引かれるままに、その引く力を利用して相手を倒す。これは自分の力で倒すのではなく、相手の力を利用して、相手を倒すわけである。

 この“倒す技”において、自分の力を遣
(つか)ったら、それは柔術でない。剛術となる。猛々しい力技となる。
 力技は、また力むことにより疲れる。肉体を疲れさせる。疲れれば行き詰まる。行き詰まれば、わが力を敵に利用されて、敵から倒される。人間の肉体と言うのは、行き詰まれば「疲弊する」という欠点を以ているのである。これが、肉体と機械の違うところである。

 機械は、燃料さえ与えれば、“半永久機関”になることができる。
 しかし、肉体は幾らエネルギーを変換させる食糧を与えたとしても、ある限度を超えれば、受け付けなくなる。大喰いしたから、エネルギーが充満すると言うものではない。人体は機械でないから、食は燃料とは異なる。何も大食漢が勝とは限らない。

 したがって肉体には、機械と異なり、酷使すれば疲弊
(ひへい)し、故障すると言う無理の結果からの現象があらわれる。だから肉体は疲れさせてはならない。反復練習も、遣(や)り過ぎれば疲弊の原因となる。老化の原因となる。老化し、老朽化した肉体では役に立たない。
 肉体は苛
(いじ)め過ぎると、「故障」という名で反撃して来る。機能が失われて正しく稼動しなくなる。まず、総ての稼動する関節が極限まで正常に動かせるということだ。
 その際に腰痛や肩痛などの障害があってはならない。極限まで動かし、同時に内筋も稼動するということである。動かして悼みのない状態を言う。
 この事実は、プロ・スポーツ選手を見れば明らかだろう。食う為に、人より多く儲ける為に、より贅沢
(ぜいたく)な生活をする為に、高級車を乗り回し、プールつきの豪邸に棲(す)む為に、彼等は皆、無理なトレーニングに励んでいるのである。

 内筋が動く……。非常に大事である。
 筋力でない骨付近の内筋を鍛え、深部が稼動する状態を養う。
 特に腰を養えば揚力が付き、「二枚腰」が養える。また、肩の骨部の内筋を養えば、肩がスムーズに動くようになり、普段は横にしか動かなかった肩運動が、楯にも動かす上下円運動に変わる。方が縦に動かすことが出来れば、これに伴って腰の水平運動が可能になり、この水平運動はやがて連動して「うねり」を作り出す。躰動法である。

 さて、柔術は「虚の教訓」から起った武技である。
 「虚」は自分の力でない。相手の力であり、敵の力である。相手が、敵が、自らの力で葬
(ほうむ)られるのである。これが柔術の技である。この技の特徴は、自分の腕力を遣(つか)わず、力んで、無理に相手を倒さないことになる。力んで、相手の自分の等身大以上の背伸びをした、「見せ掛けの力」を押し付けても仕方あるまい。

 力は、「あるがまま」がよい。無理に力
(りき)んで見せたり、大きく見せることはないのだ。実力以上に大きく見せるとことから無理が起る。無理な力は、自分の意志通りに相手を動かそうとする力だから、こうした実力以上の力で対抗しようとすると、肩が凝(こ)るし、疲労が大きくなる。また、自分の意志通りに倒そうと力むのであるから、自分の持てる力以上に相手の力が強いと、こちらが崩れる。崩れれば、自分で自分を倒す愚行を招くことになる。

 自分で自分を破壊することは愚かなことだ。自分で破壊することを「自滅」という。自分の行為が原因となって、自分の身を滅ぼすことだ。
 最早
(もはや)こうなれば、肉体が崩れるばかりでなく、精神的にも崩壊する。悲観するとか、絶望するとか、精神衛生上もよくない。あるいは憤(いきどお)ったり、恨(うら)んだり、罵(ののし)ったり、呪(のろ)ったりする。更には、意地になる。負けたことを、意地になって張り合おうとする。
 そして、わが身に手を焼くのである。悶絶
(もんぜつ)させて悔しがるのである。仕舞いには、自棄食いをしたり、自棄酒を飲んで自分の非を誤魔化(ごまか)そうとする。これらは一貫して反芻(はんすう)すると、「虚」を知らないからである。

 「虚」を知らない人は、虚になる努力を怠り、逆にムダなものを仕入れて、それが邪魔していることを知らない。ムダな、自分で仕入れた様々な、一般に高級技法と言われるものが、「虚」を邪魔し、こうしたムダで満ち溢れているのである。混線しているのである。心に濁りがあるのである。
 したがって先方の出方の応じて、変化する余裕がないのである。ワンパターンに陥って、馬鹿の一つ覚えで、状況に応じて、変転する“やわら”がないのである。

 “やわら”は自然に柔らかなる「耶和良
(やわら)」のことである。この耶和良が、柔らかさを導き、硬さを外してしまうのである。これは「折れる」ことを防止すると倶(とも)に、硬さから起る愚を退(しりぞ)けるのである。
 だから「耶和良は自然に柔らかなり」という、「和する」ことを教えるのである。和することが、則ち、柔術の奥儀と言うことになる。
 腕力同士が闘う、剛と剛では、力のある方が勝つ。当たり前の事だ。プロ力士が、一般の競技武道経験者よりも強いのは、この為である。また、プロレスラーには、風説に鍛えた“自称・鉄拳”も何の威力も与えることが出来ない。

 これはプロ力士やプロレスラーの剛の力が、競技武道経験者とは比較にならないほど、それが「想像を絶する剛力」であると言うことだ。その剛力の秘密は、プロ力士やプロレスラーの毎日の驚異的なトレーニングにある。
 このトレーニングを、逆説的な言い方に換言すれば、人間の内臓や骨は、筋肉の保護されている為、筋力トレーニングをすれば、筋肉が鍛えられ、それが分厚い鎧
(よろい)となる。
 分厚い鎧を身に付けたプロ力士やプロレスラーは、、かなりの衝撃にも耐えられれように鍛え上げている。

 したがって、空手家の剛拳も、プロボクサーのパンチも、毎日驚異的なプログラムをこなして消化して行くプロ力士やプロレスラーの前には殆ど通用しない。
 ところが、どんな剛力の持主にも、鍛えることの出来ない急所を持っている。その急所は「軟らかい」という箇所である。此処は筋肉の鎧を分厚くさせようとしても、無理だからである。柔術は、こうした急所を利用する。急所を利用することも、「柔」であり、此処を叩くことこそ、「虚」である。

 剛に対するのは「柔」でなければならない。自分の硬さで折れてしまうことを防止するには、“風に柳”の「虚」でなければならない。流れることである。柔らかであることである。それだけに難しい術理だが、要するに重力に逆らわないことである。

 「虚」の恐るべきところは、外部から襲い掛かる外圧が、どんなに大きくても、こちらが虚であれば、そうした剛力は素通りしてしまうのである。これが“風に柳”とか“暖簾に腕押し”というものである。“風に柳”では、剛力で押し寄せたが威圧は、程よくあしらって、なお、こちらは逆らわない態
(さま)をいう。
 “暖簾に腕押し”では、相手に対するとき、力を入れても手応えがない。それだけに、剛力で力んだ者は、自ら顛倒
(てんとう)して、自滅する以外ない。これが「虚」の威力だ。

 しかしこの作用は、相反する形になっているので、その相対に於ては、もしこちらが硬い場合、自分の硬さに応じて、相手の力が大きく作用し、自分の方が大損害を受けると言うことになる。
 こうした、自分を砕
(くだ)くことをしない為には、相手の力を素通りさせる、「虚」が必要である。この場合の虚における「素通り」とは、素通りになるところで、相手に「術を掛ける」と言う作用を施さなければならない。「術」を掛けることにより、相手は顛倒する。

 この顛倒させる技術を端的に言えば「肩透かし」である。相手に肩透かしを喰わせるのである。この場合、相手が剛力で、この剛力が大きければ大きいだけ、こちらの虚は「柔」に作用するのだから、これが用いられた場合、相手を倒す為の大きな力となる。
 こうした状況を作り出せば、何も相手が剛力の持主と雖
(いえど)も、状況は、非力のこちらが不利ということにはならない。それは「虚」ならびに「柔」には、折れるとか、行き詰まるというのがないのである。
 柔は「虚」の働きである。この「虚」を以て、剛力に臨めばよいのである。



●柔術儀法の構成

 さて、大東流柔術と言うものは、近年に興った、非常に新しい武技である。
 一部の大東流を標榜する指導者で、大東流が「清和天皇に始まり……云々」と標榜
(ひょうぼう)する者がいるが、これは明らかに明治三十年代に捏造(ねつぞう)された後世の仮託(かたく)である。

 清和天皇は平安前期の天皇である。この事を歴史認識する必要がある。
 また、文徳天皇
(在位850〜858。827〜858)の第四皇子であった。母は藤原明子(ふじわら‐の‐あきこ)である。名は惟仁(これひと)と言った。そして水尾帝(みずのお‐てい)とも称された。在位した時、幼少であった為、外祖父・藤原良房(ふじわら‐の‐よしふさ)が摂政(せっしょう)となっている。その第六皇子・貞純親王からはじまるとは、如何なる理由からか。
 これを正しい歴史観で正視しただけでも、後世の仮託であると言う事は明白である。

 この時代、まだ武士団は興っていない。武士団が存在しないが故に、武技は存在しない。当時の武士とは、武技をもって、これを職能民
(しょくのうみん)とした集団であり、これが興るのは平安時代後期から鎌倉時代初期の事である。
 そして忘れてはならないのは、平安時代と言うのは、桓武天皇の平安遷都
(せんと)から鎌倉幕府の成立まで約四百年の間を指すのだ。
 繰り返すが、清和天皇は平安前期の天皇である。在位した時は幼帝であった。

 世が混沌とし、平家の擡頭
(たいとう)が起こり始めるのは、平安中期以降の事である。そしてこの時代は、戦闘思想の主体が遠くの敵を倒す、弓矢の術、馬術、槍術、薙刀術などが中心であり、素肌武術であった柔術など、存在する理由が全く無いのである。平素でも、甲冑を身に付けて暮らす時代に、何故、柔術が存在したのか。
 この歴史的な流れの中に、当時柔術は全く存在しなかった事が分かる。少なくとも、柔術なるものが、世に姿を顕わすのは、戦国時代に一段落がつき、世の中全体が甲冑
(かっちゅう)などを必要としない江戸期に入ってからである。

柔術儀法は近代になって技が洗練され、原始的な泥臭さが抜け、改良に改良されて、「柔術百十八箇条」なるものが、明治中期以降になって編纂された。しかし、これも「現代」という時代を考えれば、既に骨董品に成り下がっている。

 さて、西郷派大東流柔術の儀法構成は、「手解き」と「基本柔術」からなる。
 「手解き」とは、両手を塞
(ふさ)がれた場合の脱出方法であり、この脱出には「抜手」を用いる他に、敵に吾(わ)が手頸(てくび)を握らせたまま、儀法(ぎほう)を仕掛ける事を言う。

 また、術者の両手封じも、手頸を握らせたまま業
(わざ)を仕掛けるのである。つまり握られたり、掴まれたりした敵からの封じ手は、これを最初から無視したまま、業を掛け、次に手を解くという事である。握られた手頸や衣服の一部を、気に止め、それが気になるようでは、この状態からいつまで経っても脱出する事が出来ない。

北斎漫画(ほくさいまんが)の柔術図。北斎漫画では初歩的な肘詰の殺点を挙げ、「手解き」を紹介している。手根骨をせめ、手根伸筋を掴んで外す方法や、正対した状態で肘詰を行い、肘関節を極めて、制する方法を解説している。

 敵から、手頸
(てくび)、袖、肘等を取られたらどうするか。
 手解きでは、これらを次のように教える。まず、こうしたものは、気に止めず、また、こだわるものでもない。意に止めず、サラリと流せば良いのである。固執しない事が「柔術手解き」の原則である。
 しかし、悲しいかな、術
(すべ)を知らない者は、これから逃れようとして、七転八倒の足掻きを繰り返す。この足掻きが、敵の術中に嵌(は)るのである。

 さて、昔のインドでの猿の捕獲法に、金網籠
(かなあみ‐かご)の中に入れたバナナと、鳥黐(とりもち)を遣(つか)った方法があると言う。
 猟師は猿の通り道に、50cm四方の金網籠の中にバナナを入れて、獣道
(けもの‐みち)に仕掛けを置く。この籠(かご)には4〜5cm程の小さな穴が開いていて、猟師は此処からバナナを入れておくのである。金網籠なので、外から見ても籠(かご)の中にバナナのある事はよく分かるのである。それを、獣道に仕掛けるのである。

 獣道
(けものみち)を遣って来た猿はまず、籠の中のバナナに気付く。バナナを見た猿は、どうしたらバナナが取れるか考え、やがて籠に小さな穴が開いている事に気付く。そしてバナナを取る為に、穴の中に手を突っ込み、バナナを掴むのであるが、バナナを掴めば自分の拳の太さとバナナそのものが邪魔して、籠から手を抜く事が出来ない。こうして猿は手を抜こうと七転八倒するのである。
 バナナを掴むのを止め、素手だけを籠の穴から抜き取ればいいのであるが、バナナを掴んだまま抜こうとするので、手は、どうしても籠の中から抜く事が出来ないのである。そして七転八倒している隙
(すき)に、猟師からまんまと生け捕られると言うのだ。

 また、鳥黐
(とり‐もち)で猿を捕獲する話もある。
 猿の通る獣道に鳥黐を仕掛ける。そこへ猿が通りかかって、それを見て「何だろう?」と思う。そして猿はそれを手で掴む。

 ところが鳥黐なので、手にくっつき、それを払い落とそうと、空いた片方の手で離そうとする。こうして益々、鳥黐は両手に粘着してしまう。更に、今度は足でこれを離そうとする。藻掻
(もが)けば藻掻く程、鳥黐は両手・両足にくっついて粘着し、猿はそれを離そうとして七転八倒する。そこへ、頃合い見計らって猟師が遣って来て、七転八倒している猿を難無く捕獲すると言うのである。

 以上の話が本当かどうかは分からないが、これを考えれば、生きとし生けるものの性
(さが)が存在し、性なる故に、持って生れた性格や宿命から逃れない一面があるようだ。
 ただ、このように生け捕られる態
(さま)を自分の「宿命」と皮相的に捕らえれば、それまでのことである。しかし、人間はこれを「宿命だ」と決定付けるには、余りにも智慧(ちえ)が無さ過ぎよう。
 智慧を用いるなら、「虚空」になる事である。

 虚空とは、「カラになる」ことを言う。だから「カラ」は「虚」
(から)であり、これに「空」(くう)が付けば、「何もない空間」ということになる。何もない空間とは、捕われる事もなく、また捕らえようとする事もないのである。解放された自由な事を言う。

 また、一切の事物を包容して、その存在を妨げないことを言うのだ。したがって、それにこだわり、そこから「何とかしなければ」という焦
(あせ)りは、七転八起を繰り返すだけで、徒労努力の最たるものとなる。

 西郷派大東流では、危険が吾
(わ)が身に迫った場合、実際に、何に頼ってそこから脱出するかを、まず第一に教える。吾が身に、命の存亡に関わるような危険に遭遇した場合、実際には、不正な暴力を前にして金が頼りになるとは思われない。「金を遣るから助けてくれ」と言えば、犯罪者はその金を受け取ろうとするが、暴力を加える事は中断しないだろう。益々弱いと見て、更に法外な要求を出して来るだろう。こうした時の結末は、「身包み剥がれる」ということだ。

 また物財もその限りではない。「○○を遣
(や)るから許してくれ」も通用しないだろう。では、何だろうか。心だろうか?!
 否、心など、頼りにならないと、昔から相場が決まっている。その証拠に、「女心と秋の空……」と言うではないか。
 したがって、心も頼りにならない存在になる。

 さて、心も頼りにならぬ、となれば、一体あなたは何を頼りにするだろうか。あるいは暴力を奮う相手に、この場に110番して、警察力の緊急出動を求めるであろうか。
 しかし、咄嗟
(とっさ)に襲われた場合、そのような暇はあるまい。即、反撃出来る術を遣うか、一方的に襲われて、暴行を受け、犯され、命を奪われれば、そこであなたの人生は焉(おわ)る。

 確かに法治国家である日本は、警察力によって人命や身柄が保護される事がある。しかし、その場にこうした警察力が、存在すると言う事が前提である。また、目撃者も大勢居ると言う事が警察力の要請の条件となる。

 しかし現実問題として、その場に頼りになる警察力がなければ、暴力者
(性格粗暴者、精神異常者、変質者、あるいは複数の暴行犯、テロリストなど)の意の儘(まま)にされる意外に道はなく、最悪の場合は殺害されるかも知れない。こうした不運で人生を閉じた場合、持って生まれた「身の不運」と、諦めが付くならそれもよかろう。

 しかし、人間の運命は、諦める前に、「人事を尽して天命を待つ」の心掛けは必要であろう。無抵抗の儘
(まま)、無慙(むざん)に殺される事はないのだ。
 最悪のピンチが遭遇した場合、自分自身で切り開くものである。こうした時に頼りになるのは、身分がこれまでに精進して身に付けた「術」である。九死に一生の、その一生に、一縷
(いちる)の望みを託して、やはりこれから抜け出す脱出法の「術」を会得しておかねばならない。



●他力一乗の妙技

 天命はこうした物に働くのである。これをわが流では「他力一乗
(たりき‐いちじょう)」と言う。
 則
(すなわ)ち、精進努力して「術」を身に付けるのは人間であるが、その術の効果がどうでるかは、人間の識(し)る処ではない。天が決める事である。運命が決める事なのだ。

尾骨を砕く術

 精進努力が充分に足りていれば、自分に有利に働くし、怪我する事もなかろう。しかし努力が不充分で、実戦に戦えるようなレベルでない場合、断然、犯罪者側が有利になろう。九死に一生を分ける明暗は、普段の、危険への心構えがものを言うという事が分かるであろう。怠れば、単に頭で理解しているだけでは、実際には役には立たないのである。

 不慮の事故にいつ遭遇しても対処出来るように、隙
(すき)を作らず、「転ばぬ先の杖」を、心の中に持っていなければならないのである。

 殺人事件や傷害事件などの凶悪事件が起れば、確かに警察は捜査網を張り巡らし、犯人を捕まえるであろうが、それで殺されたあなたの命が取り戻せる事はない。また生き返る事もない。
 また、殺される事はなくとも、それが致命傷となって残れば、それ以降のあなたの人生は不具者として生きる道しか無くなり、心にも大きな傷を追うであろう。これが許で、「杯中の蛇影」に怯
(おび)えるような生活が襲って来ないとも限らないのである。

 【註】「杯中の蛇影」について
 蛇の姿が見えた杯中の酒を飲んで重病になった人物が、その蛇が壁にかけた弓の絵が映ったものだと分ったとたんに治ったという故事に準
(なぞら)えて、わが国では、疑えば、何でもないことでも神経を悩ますもとになる事を喩(たと)えたもの。

 仮に、犯人が逮捕され、事件が解決を見ても、一件落着にはなるであろうが、何とも、被害者は納得出来ない結末である事には変わりがない。
 こうした事件は不幸な出来事として、テレビに放映され、新聞にも掲載されて、はじめのうちは、視聴者や読者が同情してくれて、見舞金や激励の便りも届くであろう。しかし三ヵ月もすれば、忘れ去られ、最後は、あなたの家族は一家離散
(いっか‐りさん)の運命を辿ることになる。

 そんな悲劇に見舞われない為にも、襲われたら、即、反撃出来るような必要最小限度の「手解き」の儀法を身に着けておかねばならないのである。
 手解きとは、一種の脱出法である。そして、不慮の事件や事故に遭遇した場合、本当に頼りになるのは金銭でも物財でも、また純真な心でもない。心は揺れ動くものである。そんなものは頼りにならないのである。
 本当に頼りになるのは、自分自身が身に付けた、儀法であり、これこそが最大の命を護
(まも)る拠(よ)り所となるのである。

 拠り所を得る為には、第一の手段として、反撃としての「手解き」を学び、反撃と共に脱出法を心得ておくという事である。
 そして特記すべき事は、心と言う存在は、自分の意志や力によって動いているものではない。その場その場の、環境や条件によって常に揺れ動き、つまり、「必然
(いんねん)という、目に見えない力で動いているのである。

 この必然は、「因縁
(いんねん)であり、先に述べた、猿の捕獲は、生きとし生けるものの必然を利用したものであり、これから抜け出そうと思えば、「こだわり」という必然から脱出する方法を心得ていなければならないのである。

 人は、柵
(しがらみ)から解き放たれて、はじめて自由になる。しかし現実には、固執や執着や「こだわり」を生み、やがてそれが固い殻(から)を作って、柵化する。したがって柵から解き放たれる、これまでの固定観念や先入観を捨て、ありもしない不安や不信から解放されなければならない。その解放される自由が、わが流の説く「手解き」なのである。
 この「手解き」の儀法を基礎に置いて修得し、次に「基本柔術」に入るのである。



●次段階の基本柔術

 基本柔術は、単なる型の反復動作ではない。あるいは意識によって、力によって、これを動かすと言うものでもない。虚空を旨としなければならない。
 つまり「虚
(から)」になることである。
 「虚」とは、肚
(はら)の中が空っぽであると言う事であり、肚の中に作為(さくい)を含む、何かの肚構え【註】肚に某かの意図があり、心中に策があること)というものがあってはならない。それを頼りにしていると、肚構えと異なった攻撃方法で敵が襲い掛かった場合、即座に対応する事は不可能となる。

 初めからそうしたものは、必要無く、虚空
(こくう)であると言う事が大事である。しかし、この事を本当に理解出来るまでには、かなりの時間を要するものである。それは、基本柔術のそれぞれの業を、一種の「型」と捉えるからだ。

 これを「型」と捉えた場合、動きが伴わず、「虚の妙技」が疎かになってしまうのである。「虚の妙技」とは、肚
(はら)構えを作らず、素手・素直になって、虚で立ち対(むか)事を言うのである。腹積もりがないのである。虚である。無である。虚無の域である。
 何故ならば、自由自在は「虚の妙技」から発動する儀法であるからだ。
 虚無となって、動きが生ずる。
 雑念なしの、「倒す一心」である。

初伝 中伝 奥伝 秘伝
表手解き 表柔術 表中合気 表上合気
裏手解き 裏柔術 裏中合気 裏上合気
奥手解き 奥柔術 奥中合気 奥上合気

 一般に知られている大東流は、柔術百十八箇条からなると言われているが、正確には「五箇条百拾八本の組技」であり、五箇条百拾八本の組技を体得した段階では、単なる型踊りであり、合気を施す段階の奥伝以上には辿り着けない。ここに、五箇条
(ご‐か‐じょう)百拾八本を単なる「型」と検(み)るか、あるいは「動き」と検るかで、その後の上達の指針が自ずから見えて来る。

足鋏 腕固
腕縛り 腕帆掛け

 さて、「型」は型の範疇
(はんちゅう)から抜け出すものではない。固定化されたものであり、変化自在の応用性が乏しい。応用力に欠ければ、巧みな変化に蹤(つ)いて行くことができない。動きが早くなれば、息切れもしよう。また、息切れは、実戦では「焦り」を生む。敗北の方程式は、こうして「敗北の答」を導き出すのである。

 こうした愚に陥らない為には、基本柔術を「型」としてではなく、「動き」として捕らえる必要がある。
 動きは、単に「動いている」ことを指すのではない。変動や変化に応じる体制を作る事であり、ここには「静動」が同じように起勢の態勢を作るのである。基本柔術を会得するには起勢の態勢を学ぶ事であり、一方で「動くこと」、もう一方で「封ずること」なのである。


これより先をご覧になりたい方は入会案内をご覧下さい。


入会案内はこちら
daitouryu.net会員の入会はこちら



トップへ戻る 次へ>>

  運気     八門人相     房中術     癒しの杜     菜根譚     小説     会報Back No.     合気     蜘蛛之巣伝     死の超剋     霊的食養     心法