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旅の衣・後編 8

吉田松陰は『留魂録(りゅうこんろく)』の冒頭に、次ぎなる一首を残している。また、此処に至る過程には「死生観の発見」があった。松陰は処刑される直前に、これを発見している。

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置(とどめおかま)し大和魂

 この歌は、死期を悟った人間の心の乱れなきさまを堂々と綴
(つづ)っている。この心構えこそ、「至誠にして動かざるものはない」といった信念の現れである。


●老人学

 無私、無我は、単に私心がないことばかりではなく、此処には同時に、公平と真なる平等意識が働くからである。だから、人は修行しなければならないのである。人生道を修行する、その努力を死ぬまで続けなければならないのである。
 黙々と、無私に徹して、無心に修行すればいい。
 大きくなろうとか、勝ち組に入りたいなどの欲は必要ないのである。結果は、その後に蹤
(つ)いて来る。
 例えば、金が必要なら、まず働けばいい。金は後から蹤いてくる。
 ただし多いか少ないかは自分の仕事量による。また、内容による。質による。力を出し惜しめば少なく、よく出せば多くである。
 無私に徹して努力すれば、欲を捨て去った時点で境地が開け、そのとき仏が顕われると、栄西禅師は言う。これは事実だろう。事実だからこそ、道元は栄西禅師の、この言葉を信じて、以降血道に修行を重ねた。
 同時に、『老子』もこの事を強調している。
 真理は一つであろう。
 だがこの真理は、仏教や道教の世界だけには止まらない。

  さて、近年、品位のある老人が極めて少なくなった。
 大抵の昨今の老人は、「老いて学べば、死して朽ちず」を殆ど実行していないからである。
 ただ死ぬまで時間をダラダラと引き延ばし、死から逃げ回り、目的のない、ただ動物的に生きていたい時間を無意味に過ごしているだけに映る。これこそ、命長くして恥多しである。
 つまり、長生きする目的がないのである。目的不在で生きている老人が多い。
 そして、死から逃げ回り、ダラダラと過ごす時間に、退屈紛れの一貫として、金の懸かる温泉旅行や海外旅行を企てるのである。この旅行が悪いとは言わないが、しかし老境期の、濃厚な時間の有意義な過ごし方は他にもあろう。

 私はいつも、心の止めるのは、陽朱陰王と称された佐藤一斎の『言志四録』に出て来る、かの一節の「老いて学べば、死して朽ちず」である。
 死に迫るには、まず生命の根元に迫らねばならぬと思っている。
 より善き死を得るためには、自己を掘り下げ、生命の根元を訪ね歩き、人間の根本哲理に回帰しなければならぬと思っている。
 生命を訪ねれば、「人間はどうあるべきか」ということが徐々に分って来る。まだ根本を突き止めていないが、これを探し求めるべきであると思っている。
 この世には、分らない物が多過ぎるからである。
 それを極めるには、やはり高度な教養を研鑽する以外あるまい。


 ─────舞台を『欅の会』の準備前に戻す。この会は、老人の智慧を借りようとする主旨を持ったシンポジュームであった。それぞれは長い経験から集積をした智慧を発表して、後進者の人生の参考にするという目的をもっていた。

昭和初期、小学校の教育映画などで遣われていた9.5mmの手回し映写機。教育映画は目から訴える映像刺戟が大きいからである。これと同じようにプロパガンダ工作にも映像が遣われた。

 単に長老の智慧を発表をするのでなく、その智慧を記録の残すために、一人ひとりの智慧を16mm映写機に録画して、それを全国の小・中学校に提供し、学校で行われる映画教室で公開してもらおうということだったのである。このシンポジュームには、専門のカメラマンや録音担当の映画専門家ら随行しているのである。単なる敬老会の親善事業でなかった。後進者への智慧の伝達という目的をもっていたのである。
 この発想を最初、言い出したのは姉であり、姉の考え方の同調したのが文香さんだった。この二人に加え、大学時代の恩師らの教授を引っ張り出し、更に地元の有志を募って、『欅の会』を主宰し、この活動は今年で三年目と言うことであった。三周年記念としての『欅の会』のでもあった。
 この会の名前である「欅」は、地下からエネルギーを吸い上げ、それを人間の還元するという古くからの言い伝えによる。江戸時代より、長らく信じられ、欅のエネルギーを社会に還元するというものであった。この還元こそ、智慧なのである。
 人間の持つ智慧は、単に知識だけでは智慧とならない。ただ知っているだけのことである。智慧にするには知識を実践に応用して、それを見識に変換してはじめて智慧としての価値が出る。
 そういう会の催しであった。

 「遅い!」姉から一喝された。
 「おれは帰り支度してたんだ。担保の松子は居るし、おれは用無しだろう。だから帰る」
 「なにいってるのよ。これも、融資に間接的に関係がある。帰るなら、手伝ってから帰りなさい」
 「なんでジジババに関係ある?……」
 「うちのメインバンクのS銀行武雄支店と関係のある大事な顧客。ここに居る人は間接的な顧客、少しは経営学の勉強をしたらどう」
 「間接的顧客?……ねえ。姉さん、その間接的顧客ってなに?」
 「利害関係や取引関係などに左右されない、また組織の属さぬ。更には、実力者でもない一介の草莽
(そうもう)と言われる人にも、老いると、これまでの人生で身に付けた徳を持っているの。その集まりが、一年に一回、うちで行う『欅の会』の主旨。つまり智慧の会なの。いわば、今日集まったお爺ちゃんやお婆ちゃんは、幕賓(ばくひん)と言うことかな。みな、重役に相当する幕賓的存在。それは、お智慧拝借のお爺ちゃんやお婆ちゃん。そして、ある意味で指南役。
 商売とは、ただ数字だけを追って、今月は幾ら儲かって、売り上げの数字はこうで、純利益がこうでというものでは、結局は大方針の舵取りを間違ってしまう。これ、わかる?」
 「姉さんも、変わったことを考えるというか、商魂逞しいというか、おそれいるよ」
 「いい、健太郎。一寸先は闇というでしょう。闇はね、暗いだけでなく、混沌
(こんとん)としているの。カオスなの。このカオスにあるとき、此処で大方針を定めるときは幕賓の力が大事なの」
 「そういうものかなァ」

 「経営者は一人を雇傭すると言うことは、その一人だけを面倒みるのでなく、もうその人を含めて四人がいるの。つまり一人は、四人よ言うことなの。家族よ。そのひとまで面倒みると言うのが経営者の務め。それは長期展望のビジョンを立てて闇を見詰めることなの。経営者な常にカオスと睨んで、右か左かを検討しておかなければならないと言うこと」
 「そうなると、凄い博奕
(ばくち)だなァ」
 「同じ博奕でも、一匹狼の博奕を遣っては駄目。一人でなく、集団で智慧を絞って、あらゆる方向から幕賓の智慧を拝借しなければならないの。その地道な作業を怠ると、直ぐに銀行管理になってしまうわ」
 「銀行管理か……、あれだけは拙い。銀行の人間が入り込んでくる。実体経済が金融経済に支配されるということか……」

 「うちは、いまは茶屋だけでなく、観光旅館業もしているからね。それは文ちゃんのところも同じ……」
 「姉さんは、単に近代資本主義の経営学に準じた経営でなく、あたかも古代中国の漢文に学ぶような、そういう経営をしているんだね。つまり姉さんの遣っていることは、経営学などではなく、もう立派な『帝王学』だね。あたかも、『貞観政要
(じょうがんせいよう)』でみるような帝王学の世界。そして北条政子の世界。
 なんで霜龍寺の老師が、姉さんに政子という名前つけたか分かるような気がするよ。姉さんは大学に行ったか分かるような気がする。国文に行った甲斐がある。学問したことがちゃんと生きている。就職のために大学に行ったのでなく、学問をするためにいったんだね。そういう姿勢をみると、おれば襟を正したくなるよ」
 「だったら正しなさい。もう、お大尽遊びはやめて」
 「とおっしゃいますが、それは病気だから直ぐには治らない。現段階での100%完治は難しい。徐々に枯れて行くから、焦られないでよ」
 こう言っているとき、文香さんが遠くから怒鳴った。
 「こんな忙しいときに、なんで姉弟
(きょうだい)問答しているのよ。そんなのはあとで遣って。
 もう次のバスが来ちゃうわよ、急いでちょうだい」
 「ほら、健太郎。あんたも手伝って」
 「はいはい」


 ─────本来、生き方にテクニックなどないのである。単なる世渡りの処世術では、単なる二番煎じの愚行になってしまう。そして、生き方のトップは、また死に方のトップであり、「依って以て死ぬ何か」を極め尽くした者が、大往生出来る人間だと思うのである。

 大往生を決定するのは「臨終間際」である。いま死なんとする「刹那
(せつな)」である。
 これまでの生きた経過の中に、そのストーリーにあるのではない。そういうストーリーは、単に通過過程であり、これと臨終は無関係である。
 途中、善き行いをしたから、よき死が得られるとは、何ら関係がないのである。

 例えば、死に態
(ざま)を有利なものにしようと考えて、幾ら慈善事業に精を出し、多額の寄附をして、資産の一部を散財に充てようと、それが臨終に際してしくじるか、そうでないかは無関係である。問題は、臨終に成功してしくじらないか、あるいはしくじって断末魔の繰りしみを味あうかだけである。
 よき死を得るためには、まず『臨終学』を学び、臨終の作法を心得ていなければならない。
 死ぬにはそれ相当のエネルギーが要り、いま死に際しての刹那、何を致すか、その作法を生前に知り尽くしていなければならない。これは肉体力とは無関係な、霊的力の熟知である。
 また、この作法は表皮を飾る老齢期の「美しく歳を重ねる」とか、「素敵に老いる」などとは無関係で、この期間すら、やはり通過期なのである。この通過期は直接には臨終と結びつかない。
 長年・美形を保ったからと言って、それを臨終の成功・不成功、また成仏・不成仏とは無関係である。

 何故なら、私の見聞した限りで、私は時々講演や激励のために、末期病棟の人から招かれて出掛けることがあるが、この人達の中には、両脚を切断したり、顔の半分が壊れていたり、腕がなかったりの、とても美しくとか、素敵に……と言う形容が、全くその表現に当たらない人達である。
 それでいて、臨終に作法を自分なりに研究したとみえ、何か不具な状態にありながら、実にさっぱりとした清々しさを感じるのである。

 こうした中には、歳老いて不具になった末期病の畸形を背負った老婆もいた。
 話すことも儘ならず、しかし傍
(そば)で耳を傾けると、無声音で掠(かす)れたような声を出す、見た目には醜いその老婆の、話の内容を聴いてみると、実に瑞々(みずみず)しく、美しく、清々しく映ったりするのである。
 この老いた女性は、自分なりに死と対面し、真摯に向かい合い、逃げずに踏み止まって「努力する他力」を実践した人だと思うのである。
 人間は単に老齢期、素敵に歳を重ね、美しく老い、死から逃げ回るだけでは、こうした清々しさは宿せないのである。努力する他力を実践してこそ、「他力一乗」が働くのであって、やはり「老いて学べば、死して朽ちず」に帰着するのである。
 肉の眼に映る表面だけで、サプリメントのテレビCMに誘発され、汚染されたい老齢期の生き方では、臨終のしくじりは回避出来ないであろう。

 一方、歳老いた不具になった末期病の老婆は「老いて学んだ分」だけ、内面的には極めて大往生に近付き、果たして大往生するに違いないと思うのである。
 思えば、表面的な美しさとか、素敵に老いる……の、この濃厚な老齢期に表面だけを飾るのではなく、何を学ぶかが問題であろう。
 何人もの人に、死に際の話を聴いたが、往生する人は、最期の死の刹那、「この世とは、実に面白かった」と満足して死んで逝くようである。そしてこの人達は、決して最後は「生」にしがみつくような人達ではなかった。

 去り際に、この世で生きることは実に面白かったと思えるような境地に至には、やはり「老いて学べば、死して朽ちず」に回帰すると思うのである。これこそ「いい死に方だ」と思うのである。あるいは見事な死に方と言うべきか。 
 こうした死に方をした人を、これまで何人も見たが、これはその辺の、口先ばかりの禅坊主の死に方以上に見事だったと言える。
 臨終学は、また臨終道といえよう。立派な道である。その道を選択し、自分なりに一番手となって、「死して朽ちず」の境地を探求しなければなるまい。それこそ、まさに「大往生」ではないか。

 生きた学問。生きて実践する。こういう学問を実践学という。実学より、ひとつランクが上だ。行動を要するからである。なによりも「知行合一」がともなわないと口先の徒に終わる。
 だが近年は、この口先の徒が行動家のようなことをいって『陽明学』の権威にように宣伝するものがいる。学問の名を借りたタレント屋である。近年はこの種のタレント教授をテレビで見かけることがある。有名人・芸能人としてお茶の間の人気者になっている。野の草莽にあって実践者ではないのか。これでこそ行動家ではないのか。タレントになった時点でその人の研鑽した学問が墜落している。


 ─────『欅の会』のシンポジュームは、この日の山場に差し掛かっていた。
 私が聴衆のひとりとして参加した中で、一人の老人の話が大いに感動させた。白髪だが頭を短く刈り込み、きびきびと動きをする、かつては軍人だったのではないかと思わせるような人だった。長年の孤独と寂寥に耐えた跡が偲
(しの)ばれた。
 そして自身の人称を「自分」と呼ぶのである。
 姿勢は直立不動であった。
 「自分は炭坑争議のとき、理不尽な輩
(たから)と立ち向かいました。労働者を不当酷使して使役する会社側のお抱え暴力団を斬って、懲役15年の刑を受けました。日中戦争が始まった頃の昭和13年頃でしたでしょうか……」と語る、この老人の語り口は、なにか惹(ひ)き付けるものがあった。老いを恥ていなかったからなおさら惹き付けるものがあった。
 枯れたことを素直に認め、その枯れ方を自分の生きた年輪として自負しているようでもあった。近年の老人のように自分の老いを認めたがらぬ、その種の命長くして恥多しの老人ではなかった。頑固一徹に執念のようなものが漂っていた。

 更に老人は続けた。
 「自分は此処にお集まりした皆さん方とは違い、型に残す物を何一つ持ち合わせませんが、ひとつ自由なるものがどういうものか語らせて頂きましょう。戦後は自由とか平等が声を大にしていわれれおりますが、特に自由を上げた場合、果たしてその自由はどこにありましょう。
 自分は日中戦争以前は大陸にいて、所謂、大陸浪人を遣っておりました。アジアの解放を目指し、欧米列強からアジア民族の自由を勝ち取る運動家として日々奮闘しておりました。
 欧米はアジアに対して、巧妙な戦争を仕掛けてきました。そして戦争がこれまでの風景を一変させ、一つの国の文化や伝統を奪い去るのは周知の通りであります。そ
 また戦争は、しばしば宣伝用のプロパガンダに使われ、国民を加工する道具となります。恐ろしいところは戦争をしている時よりも、負けて敗戦国になったときからが本当の地獄が始まるのである。
 では、どういう地獄でありましょうか。
 その地獄は無辜
(むこ)の人々の人権を奪い、その人たちを隷属の型に嵌め、自由を奪うことにあります。
 一国がこのような事態に陥れば、それは連鎖を起こします。この連鎖は、あたかも将棋倒し現象を起こし、やがて人類総ての自由を剥奪して行くでしょう。
 その最悪の事態を招かないためにも、まず自他の垣根をなくし、自他同根で、同朋愛を持っては如何でしょうか。愛とは男女の恋愛遊戯に非
(あら)ず。欧米の持ち込んだ自由奔放なる肉愛に非ず。人間は動物に非ず。人は人なり……」

 老人はここまで一気に話し、少し休んだ。高齢のために息継ぎ時間を必要とした。
 そして聴衆は次の言葉を俟った。
 「人は己のみの個人主義という孤島に籠ってはならず。いま孤島と言う個人主義が横行し、その毒が日本中を闊歩し、人民はその毒に麻痺し、半身不随になっております。この麻痺、そして半身不随を恢復させるためにも、己ひとりの孤島に閉じ籠っていてはなりません。孤島に閉じ籠って、そこの人ひとりが死ぬ度に、われわれ同胞の一部も失うことになります。
 同胞は、すなわち人類であり、個々人はその欠片に過ぎず。孤島の個々人は、つまり欠片に過ぎません。早く恐怖症の催眠術から眼を醒ましましょう。捏造された曇りを取り払いましょう。その上で、戦争をしてはならぬことを堅く誓いましょう」

 この老人の言っていることは、単に反戦論をぶっているのではなかった。
 戦争をさせない根本を衝いているのである。非常に難しいテーマであったが、これは単に武器を遠ざけ、戦争反対、平和主義万歳と言っているのではなかった。則ち、人間とは何かと訴えているのである。それは歴史史観まで遡る指摘であった。
 個人主義。自分を他より、いい暮らしをする。優越感に浸る生活。果たして、いいのだろうか……。
 ゆえに同胞に回帰するのである。
 愛であり、この愛は男女が需め合う個人主義の愛ではない。全人類に及ぶ同朋愛であり人類愛だった。此処までの愛は男女の肉愛では解決することの出来ない愛であった。裏を返せば、惻隠
(そくいん)に通じる同胞愛であり、人類を慈しむ思い遣りである。また人間や生物に対する労りである。
 そのために日本人の精神性を訴えているのである。
 その訴えには恥の認識、勇気と誇りを前面に打ち出し弱者への親切や労り、そして長幼の関係からすれば、感謝とか敬意であり、人として相手を敬う気持ちであり、控えめにして相手に先を譲る気持ちである。
 そして危惧する警告として、金・物・色を主体におく個人主義は、儲けるチャンスが来たら、一気に吸い寄せる「集
(たか)り体質」になってしまった日本人への警告であった。
 それは学びの中にある。
 則ち、「老いて学べば、死して朽ちず」に回帰する。

 現代の戦争は、攻防をする上でも領域を広げたと言える。幅を広げ可能性を格段と膨張させた。技術や可動性が向上すればするほど、何が起こるか分からない不確実性を高めたと言えよう。
 そのため多くの都市は要塞化を急いでいる。過去の歴史を辿れば、要塞化の概念から城壁や築城の概念、更に昔の歳と現代の都市の開発やその関係に対する対立点が浮上してくる。
 つまり現代に至っては、風景がどこまで不安定に変貌し、自然から離れ、あるいは収縮させ、あるいは膨張拡散という現象をもって、破壊するか、未だに気付かないようである。

 姉の主宰する『欅の会』は、単なる敬老の会ではなかった。老人を「ご老人」と形容するような、そういう取って付けた老人への親切を売物にする会ではなかった。もっと根本を衝いているのである。
 かつて老人と言えば智慧の集積した長老を指した。長老は智慧者であるため、何処の家でも長老は大切にされた。長老は家族のシンボルとして、敬愛の中に安心して死を迎えることが出来た。長老は最初から長老であった訳でない。幼少年期があり青少年期があり、青年期、壮年期、そして老いて老齢期に達した。
 かつて家を作るために懸命に働いた。家族のためにさまざまな苦労に耐え、粉骨砕身して奮闘した。そして老いて長老の坐に就いた。

 困ったこと、分からないことは、みな長老に相談した。長老の意見に従うかどうかは別として、老いた者へ礼儀をもって接することを知っていた。それが尊敬の証であった。老いて長老然として、老人はあるがままに枯れ、あとは安心して死ねばよかった。だが今はそうした環境がない。老人が安心して死ねる環境がない。病院で生まれ、病院で死んで逝く。
 これに疑問を抱いたのが姉であり、文香さんだった。この二人の女史の脳裡には、現代という時代は不要になったもの、即効性のないものを切り捨てていく世の在
(あ)り方に疑問を抱いたからであった。
 老人の価値は、若者より多く人生を経験していることであった。
 失敗した人生、恥多き人生、グウタラで怠け者の人生なども、それなりに長く生きて来たことに実績を積んでいるのである。その実績に目を付けない手はない。そこに注目した。

 老人を単なる子守りや留守番に遣ってはならないと感得した。今日、蔑視されて粗大ゴミ扱いされている老人の真価を再発掘し、人生の先輩として、老練な智慧者として、それを若者に貸し与える信頼のおける老人を探すことであった。そこで現在百人ほどの長老と言われる老人を至る所から発掘して来た。この智慧を社会に還元させる。金や物での還元でない。無形の智慧を世に還元するのである。
 そして経営で利潤が出たその何割りかを有形の物品だけでなく、無形の智慧として社会に還元するシステムを考え出したのである。かつての資本主義の中にはそういう還元方法があることに気付いたのである。そして資本主義の姿を、儲けの一部を社会に還元させる経済システムに戻そうとしたのである。その意味では、二人とも女傑であった。


 ─────努力する他力。これを「他力一乗」という。
 一方、努力しない他力を「他力本願」という。
 この両者はいったい何処が、どう違うのだろうか。
 それは努力する背景に無心があり、自身の欲を捨て去った無私があるからである。
 老子の言を借りれば、天は「自ら助くるものを助く」の法則があるから、この条件が満たされるのは、無心と言う必要条件に、無私と言う十分条件が加わらない限り、努力する他力はないのである。
 他力とは「天」である。
 この「天」は、甘えの構造に中に鎮座するものでない。甘えや特典や優遇を期待するような、その手の願望は我
(が)である。私心である。欲望の根源である。ゆえに「我」という。
 だが、「我」に努力は付随しない。遵
(したが)わない。
 黙々と、地道に努力の中に鎮座する。
 したがって、努力は時として、血みどろの修行が必要になることもある。血反吐
(ち‐へど)を吐くような、精神的窮地に追い込まれて、これを克服しなければならないこともある。あるいは苦悩し、迷いに迷って、絶望のドン底に叩き落とされるようなことも経験しなければならないだろう。

 それでいて、実るか実らないかは「天」が決める。決定権は人間にはない。総て「天」である。
 したがって、努力は実らないこともある。あるいは実らないだろう。
 それを覚悟して、実践する努力が必要なのである。
 人間のすることは、ただひたすらに努力するだけのことである。実るか実らないかは、人間の知ったことでない。他力に任せて、ひらすら無心に努力すればいい。努力しているとうい意識すら無用になる。結果がどうなるか、人間の知るところでない。
 この他力は、念仏宗の他力本願などと言う、そういう虫のいいものでない。
 念仏宗の他力は、「南無阿弥陀仏」と“南無”を省いた“阿弥陀仏”の四文字の偶数は「妙法蓮華経」
(五行説では五経の一つに数えられる)の五文字の奇数に負けている。
 これは臨終の刹那に関わっているようだ。

 四は偶数、五は奇数……。
 偶数は沈下する。奇数は浮上する。数字の陰陽に関係しているようである。
 妙法蓮華経で説かれている臨終学である。これには偶数の二拍子の違いと、奇数の三拍子の違いが説かれている。
 「阿弥陀仏」は、西方にある極楽世界を主宰するという仏で、西方浄土に生まれ変わることができる阿弥陀と名乗ったという。念仏を修する衆生は、極楽浄土に往生できると説いている。
 だが浄土思想の根底を成すが、帰依する「縋
(すが)り」は、二拍子ゆえ沈下する。それは木魚のリズムでも明白であろう。
 念仏宗は、“阿弥陀仏”を唱えただけで念仏往生でき、浄土に往生することが出来ると言うけれど、絵空事である。二拍子ゆえ沈下する。辿り着けない。
 念仏宗の坊主は彼岸坊主であり、盆稼ぎ坊主であり、葬式坊主である。この坊主どもに、無私など何処にもない。あるのは利権だけである。
 それは念仏宗でなくとも、どこの宗派も同じであろう。
 死に逝く者の、臨終の刹那、最期の「引導
(いんどう)」すら渡せないからである。

 今日、この「引導を渡す」という能力を持った僧侶は、如何なる宗派であろうとも、皆無に近くなった。
 引導とは、臨終に際して迷っている衆生を導いて、仏道に入らせる行為を言うのだが、今の坊主には殆ど出来ない。その徳もない。
 また、死者を済度するため、葬儀のとき導師が、棺前に立ち「転迷開悟」
【註】迷いを払い、転じて悟りを開くこと、あるいは刹那に死することの感得を促すこと)の法語を説くことなど、口先ばかりで、ホンモノの能力は失われている。葬式坊主に、こういう大業が遣える訳はない。そこまで説くの高い僧侶は激減した。葬式も、今は物質化され産業化されてしまったからである。
 ここに往生するための、努力する他力が必要であるからだ。
 だが念仏宗は、これが解っていない。
 したがって、奇数の三拍子で浮上しなければならない。浮上したまま魂は浄土へと運ばれて行く。
 この違いは大きいだろう。
 つまり、努力する他力である。
 飽くまで徹底努力を必要とし、その努力の結果、無心と無私の度合いに比例して、他力と言う「一乗」が働くのである。
 これが「他力一乗」である。


 ─────この日一日の総てのスケジュールが終わり、宿泊客が寝静まり一段落付いて、ほッとした時間である。
 私は、ここで一番気に入った部屋に滞在するのだが、その部屋から庭の樹齢二百年の欅が臨めるのである。好きな風景だった。
 「健太郎。今日はご苦労さまでした」
 姉が三つ指を付いて礼を言った。
 「なんのこれしき……、といいたいが、正直言って道路工事のアルバイトをしたときよりも疲れたよ。こういうの、気疲れと言うのかな。姉さんも大変だったね」
 「わたしより、文ちゃんや松子ちゃんの方が、よく頑張ったと思う。わたしは、ただお手伝いしただけ」
 「謙虚でいい……」
 「なにをいってるのよ」
 「お風呂でも行って来なさい」
 「亮燕と翔太は、どうなった?」
 「あの二人は、仲間を集めて、まだ盛り上がっているわ。これから朝までですって。なんで、あそこまで狂えるのかしら、まったく呆れるわ……」
 「文香さんと松子は?」
 「あの連中に付き合わされている」
 「文ちゃんは、あの連中の高三のときの国語担当の教師だったからね。人気があったわ。おまけの面倒見がよくって、あの器量だもの」
 「この部屋、いい部屋だね。特別に金が掛かっているとは思わないが、庭を鑑
(み)る風景が、まるでパノラマのようだ。庭が一枚の絵画を鑑賞するようになっている」
 「いいでしょ。この部屋、随分と古いのよ」
 「古いって?」
 「戦前からあるのよ」
 「戦災にも遭わすにということ?」
 「そう。この辺は北九州のように空襲されたことは殆どないの。出征兵士は出て行ったけど、この街は戦災に罹災するようなことはなかった。でもその頃、お父さんは対馬の砲兵隊にいたからね……」
 「姉さんは、その頃の親父みたことあるの?」
 「ええ、一度だけ。小さかったけど、対馬の聯隊に面会に行ったわ、母に連れ垂れて」
 「よく逢えたね」
 「お婆さまがね……。岩崎の親戚と言うことで手配してくれたと聴いているわ……。お婆さまが、わたしたち母子
(おやこ)に岩崎の姓を名乗ることを赦してくれたの」
 「姉さんは、そのとき何歳だったの?」
 「五歳か、それくらいだったかな。終戦の半年くらい前こと。あとで分かったんだけで、お父さんの聯隊は二ヵ月後に沖縄に出動するようになっていたの。それで、親族の面会が赦されたのかな。一種の特攻隊だったて支配人の滝口さんから聴いたわ。滝口さん、お父さんの中隊で副官していたから」
 「じゃあ、親父は沖縄特攻の尖兵に指名されていたんだ」
 「そうかも」
 「その前に、親父に逢ったことは?」
 「あのときが、はじめてだった」
 「お父さんは砲兵聯隊通信中隊の中隊長で、大尉さんと聞いていたから、怕
(こわ)い人だと思っていた。最初はね、母の後ろに隠れてばかりいて、前に出ていけなかったの。
 すると母がね、『お父さまですよ』と言って、わたしを前に立たせてくれた。そして、『おまえが政子か』と言って、抱きかかえてくれたことを覚えている……」
 「そのとき、どうだった?」
 「怕い人だと思っていたから、少しばかり宛が外れたというか、それに面会に来たことで喜んでくれたわ」
 「その当時、対馬まで、どういうふうにして行ったんだい?」
 「武雄から汽車で博多まで行くでしょ。汽車の中は込んでいたことを覚えている。大変な人で込み合っていたわ。博多港から壱岐対馬行きの船に乗って、約半日くらい掛かったと思うの。わたしは小さかったから、玄界灘の恐ろしさ、知らなかったけど、米軍の機雷が至る所に仕掛けられていて、米潜水艦もうようよいると、あとで聴いたことがある」
 「それで、よく、行って還ってこれたね」
 「そう。天命だと思っているわ」
 「天命ねェ。孔子の世界だね」
 「儒学からは教えられることが多かった。でも、『論語』の素晴らしさを、わたしに教えてくれたのは、お父さんなの。嬉野には、お父さんは一年に一回の人だったから」
 「一年に一回、定期便として通っていたの?」
 「定期便かどうか知らないけど、一年に一回の人だったわ。そのとき、私に一冊の本を出して、これ、読んでみろと本をくれたことがあるわ。高校のときだったかな。私が県立女子大に進んだのも、その『論語』の一冊のお陰」
 「親父は、意外にまめで、苦労人だったんだなァ」
 「お父さんは、この欅が見える、この部屋、好きだった……。よく、此処に据わって、何時間もじっと庭を見ているの。結跏趺坐
(けっかふ‐ざ)の仏像のように動かないで……。じっと欅を見ていた……」
 「親父が死んだのは、おれが中学三年の、もう夏休みも終わろうとする頃だった。このとき、平戸の正太郎叔父が死んで、その葬式から帰った三日後。おれが見た親父の最期は、葬式から帰って来た三日後に、なんで死んだか?ということ。姉さん、この事について何かしらないか?」
 「詳しくは知らないけど、叔父の葬儀に中野の勇という人が来てたんだった。その葬儀の席で、何かあったと言うことを、お婆さまから聴いたことがある」
 「中野の勇って誰だ?」
 「知らないけど、うちの遠い親戚だって」
 「叔父の葬儀から三日後に、兄弟揃って死ぬと言うことがあるか。一体何があったのだろう。勇と言う人、聞くところによると狡い人だって」
 わが岩崎家の先祖に遡れば、先祖は平戸中野村の代官だったと言う。わずか十五石の軽輩の武士だったが、村代官を勤めたり、何代かの後には馬廻役を勤めたという。しかし、経済的には比較的裕福であり、その裕福は明治の世なっても続いたという。
 現に、祖父は米の相場師で当時はかなりの大金持ちだったと聴いたことがある。洋行帰りとしても有名人であったという。それが米相場に失敗して、一夜にして極貧のドン底に叩き落とされた。破産だけは免れたが、一家は離散寸前だったという。

 「おれはね、あのとき稽古に行っていて、帰ったら死んでいたんだ。稽古に出て行く前は元気だった。
 しかし帰ったら死んでいた。人間の死はいつ何処で、どのように形で襲ってくるか知らないけれど、いま考えても、何とも説明の付かない死に方をしたように思う。人は兄貴が弟を連れに来たというが、こういう死に方をするの、何だか変と思わないか?……」
 「お婆さまが言っていたわ。岩崎の家に残った男は、あんた一人だって。この意味、分かる?……
 うちの家は、みな男が死に絶えるようになっているの。気を付けなさい」
 「おれも、そのうち死ぬと言うことか。それはそれでいいなあ、さっぱりして」
 「バカを言うんじゃないわよ!」
 「おれね、実は最近もというか、二、三年前のことだが、死にかけたことがあるんだ」
 「いつなの?」
 「おれのお袋の兄に当る人の叔父は、平戸で網元しているんだ。そこで一週間ほど漁のバイトしたことがあった。
 烏賊釣船に乗っていて夜の海を航行中、対馬沖で大きな横波を受けて転覆して、二、三日潮流したんだ。
 あのときは、もう駄目だと諦めたことがある……。しかし、おれって、悪運強いから、また生き残ってしまった」
 「またって、なによ!前にもあるの?」
 「あったような、なかったような……」
 「あんたって、誰かが紐を付けておかないと、とんでもないことをするのね」
 「姉さん。松子と風呂でも入ったことがあるか?あいつ、姉さんと同じ緋縮緬なんだ」
 「昨晩、一緒に入って見せられたわ」
 「あいつ、可哀想なんだ。もし松子が嬉野に来ることがあったら、姉さんが面倒見てくれないか」
 「松子ちゃん、自分ですることがあるらしいわ」
 「どんな?」
 「あの子、将来お医者さんになってね。海外青年協力隊で、発展途上国に行きたいんだって」
 「そうか、松子らしい。しかし、嬉野にいる間、その、家族的な雰囲気の中で面倒見てやってくれないか。ひとりなんだ」
 「それは百も承知よ」
 「安心したよ」
 「まかしときなさい」
 「姉さんも、とうとう行かず後家だな」
 「わたし、文ちゃんと違って、美人じゃないし、引く手数多じゃないから」
 「それは謙遜だろう。姉さんも母親に、よく似てなかなか器量好しだよ」

 姉は左太腿から臀部を経由して、右肩まで『昇り竜観音』の彫物をしている。これは嫁に行かず、また旦那衆を持たないという無言の意志表示だった。これまでも縁談の口が幾つかあったと聞く。しかし断ってしまっている。なぜだろう。

 「あんたも、口ばかり上手になったわね。文ちゃんをまんまと手玉に取って、あしらうんだから」
 「おれは文香さんから手玉に取られて、掌に乗せられて躍らされる哀れな孫悟空を遣っているんだ」
 そのときである。
 文香さんと松子が入って来て、特に文香さんは、いい気持ちになっていた。
 「おい、健太郎!なんでそんところで、姉弟
(きょうだい)揃って、お通夜のように、しんみりとした話をしている!仲間に入って楽しく遣れ!」文香さんは、いつになく酔っていた。
 「そうおっしゃいますが、姉弟でこれから先の老後のことを話し合っていたのです。どこの養老院に入るかなどの老後計画を」
 「バカ言うな。だったら、八歳上の、このわたしはどうなる?!」
 「その場合は、三人一緒に養老院で楽しく過ごしましょう」
 「わたしはね、まだ32歳なの」
 「それは違いますよ。もう32歳なんです」
 「喧しい!黙れ!表に出れ!」
 文香さんは立て膝ついて迫った。
 「文香さん、そこまで、はしたなく、下品に遣られると、なんというか、お洋服の裾が乱れて、お御足の奥が丸見えですよ。それとも、おのおの方に、今日は特別、ご開陳しますか。破戒僧の亮燕なんか、手合わせて拝んだりなんかして大喜びしますよ」
 「わたしは、一休禅師のような高僧から拝まれたいと思うけど、なんで破戒僧なんぞに」
 文香さんは叱責するように言った。
 「しかし破戒僧は感激の涙をこぼして、今度こそ、久米仙人の二の舞で、もう立ち直れません。いいじゃないですか」
 「おい、ひとのどこを見ている。油断も隙もありゃしない!」文香さんが一喝した。
 奥の“まっくろけのけ”が見えたような見えないような……、定かでないところは、いまひとつ何とも惜しい限りであった。
 「文香さんにお願いがあります。松子を着せ替え人形のように、次から次へと化けさせないで下さい。破戒僧どもから狙われるじゃありませんか」
 「いいじゃないの、松子ちゃんが喜んでやっているのだから。それに、評判いいのよ」
 松子は、今度は芸妓のような恰好をしていた。
 「松子、何回目の着せ替え人形だ?」
 「四度目かな……」
 「四度目と言うのは、好きの世界か……」いいと思う。
 松子の芸妓姿は文香さんの趣味と言うか、独断と偏見で選んだ評価策なのだろう。よく考えたものだ。京都の茶屋に喧嘩を売って、嬉野芸者の意地を見せたのかも知れない。


 ─────不肖私も、かつて京都に遊んだことがある。その時のことを文香さんに話したことがある。
 京都四条のお茶屋で遊んだ時のことだ。学生の分際である。
 そのときは京都の芸妓に、コケにされ侮蔑されたことがあった。選挙のバイトで溜め込んだ泡銭(あぶく‐ぜに)50万円ほどの金を、ドブに捨てるつもりで、二、三日の遊びに、総
(すべ)て注ぎ込んだことがあった。
 宵越しの金は持たないというが、私の場合は泡銭の放出だった。

 毎回、嬉野の温泉芸者ばかりでは、つまらないと思ったからである。
 在金(ありがね)(は)いて、“日本一”へ挑戦してみたかったのである。だがこれが見事に裏切られた。失望した。
 しかし、少しはいいこともあった。
 その時、茶屋遊びの席で、私はある芸妓と意気投合したことがあった。それで翌日の昼下がり、この芸妓とデートの約束を取り付けたのだった。彼女が舞踊場からの稽古帰りの時だった。私は有頂天に舞い上がって、いそいそと出掛けたのであった。煩悩の徒と化していた。だが裏切られた。掌を返したように豹変した。

 彼女に誘われるまま木屋町(きや‐まち)の、ちょっと洒落た食事処で食事をしたが、金銭感覚の失われた態度で、高いものを注文させられた。
 この時は50万円を遣い切った後だけに、手痛い思いをしたことがあった。このお陰で、帰りの汽車賃をやっと残すだけとなり、特急列車の一等車席
【註】当時は、京都・博多間は新幹線は開通していなかった。それで長距離旅行は、今日のグリーン車席に匹敵する一等車に乗るのが常だった。勿論それ以下の二等車や三等車に乗る人も多かった)から一挙に転落して、各駅停車の鈍行で帰らなければならなくなった。
 こんな私の心の裡(うち)を見抜いたのか、その芸妓は、私の無理を見抜いて、「青二才の貧乏学生の分際で、もう二度と、こういう処には、足を踏み入れたらあきまへんえ。絶対にどすえ。貧乏人は貧乏人のようにせなあきまへん。見栄を張って、背伸びせんと、つつましゅう、分相応の生き方をしなはれ」と、軽蔑の笑いで釘を差したことがあった。
 これは諭されたというより、あきらかに侮蔑されたのだった。侮辱である。一矢報いたいと言う気持ちがあったが、何も出来ずに退き下がった。生涯、躰の中に消え難い烙印として残されたのである。

 つまり「貧乏人は祇園へは、二度と来るな。絶対に来るべきではない」と云うことだった。
 裏を返せば、祇園は京都人の“金持ちのもの”というのだった。ひどい言い草で詰
(なじ)られたが、言われてみれば尤(もっと)もだった。私自身が場違いなことをしているのだった。
 何も出来ずにおずおず退き下がる私を、喉の奥から出掛かる嗤いを噛み殺していたに違いない。

 多くの一般庶民は、野球の手堅い「送りバント」のような生き方で、節約と小刻みな財テクで、細々とした人生を生きている。幸運が訪れる筈(はず)もない明日に向かって、架空の希望を抱き、“明日こそ、きっと良い事がある”と信じながら、明日は今日より少しは増しだろうと信じて生きているのだ。訪れる明日の、一寸先が闇である事も知らずに……である。
 ところが、少しは増しと思った明日は、結局はやってこない。翌日になって思惑が外れる。昨日思い描いた希望は、実は妄想に過ぎなかったとを思い知らされる。そんなものは最初からなかったのだ。

 それは今でも忘れない。
 京都人の余所者を受け付けない排他的な、一種独特な奢りは、今でも忘れない。
 それは“特権階級”というものを知らなかったからだ。更には日本資本主義という、欧米には存在しないに本独特の「旦那集団」の存在である。
 俚諺
(りげん)では、「悪銭身に付かず」という。
 不正な所得は、無駄に使ってしまいがちで、結局は残らないという喩
(たと)えである。しかし、身に付かないのは、何も“悪銭”ばかりではない。
 実は、せっせと貯めた、「小金」も身に付かないのだ。
 老後のことを考え、若い時分からせっせと汗水
(あせみず)垂らして働き、コツコツと貯めた一千万円か二千万円の、退職金も含めた小金も、あるいは何とか払い切った住宅ローンも、還暦を迎える前の、人生の折り返し点を越えれば、肉体的には新たな病変が顕れる。晩年期特有の免疫力低下で、一度ガン発症などをすれば、この小金は治療費として完全に回収されてしまうのである。

 経済社会における資金の貸借は、既に、金融市場に徘徊
(はいかい)する特権階級のみが、その恩恵に預かるだけである。庶民には廻ってこない。金融経済にはそうした仕組みがある。金は天下の回り物ではなく、金持ちのゲームのための回り物なのだ。お人好しの日本人は、この辺も理解できない。

 私が京都に行って、コケにされた経緯を語ろう。
 此処は場違いの貧者を徹底的に侮蔑し、見下す世界だった。その時の私の偽わざる感想である。
 「京都人は、一見(いちげん)や余所者(よそもの)を馬鹿にして嫌になる……。奴らの眼には、お前らとは、人間の種類が違うのだぞという傲慢
(ごうまん)がある。どうも鼻持ちならん。京都人は、自分が日本人である前に、京都人であることを誇らしく思っている。実に怪しからん考え方だ」
 そのときに感じた直截的な感想である。狭量と指弾されればその通りだが、言葉の一つひとつに真実などはない。上滑りして、その一切が噛み合ないのだ。あたかも社交辞令のようなものであった。

 男と女の肚
(はら)の探り合いであり、一等上の狡猾(こうかつ)な女が、一等下の“お人好し男”を騙(だま)す。騙された男は、調子のいい事を云われ、煽てられ、その気になり、気前のいいところを無理してみせる。等身大以上に背伸びして、気付いた時には身包みを剥(は)がれれていたという、実に恐ろしき魔界なのだ。それを何の躊躇もなく出来る世界が、実はこの世界なのである。

 パンドラの函
Pandora/ぱんどら‐の‐はこ【註】ゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした「小箱」または「壺」のこと)の底から出て来た、「希望」というものに一縷(いちる)の望みを賭(か)けるのだが、その希望は空想に過ぎないことを思い知らされるのだ。現実には、災いの方が多く出現する。禍根(かこん)は何処までも憑(つ)き纏(まと)う。
 事実、現世と云う理不尽な世界は、文字通りの「苦界」である。希望と思った希望は、希望的観測であったことを思い知らされる。甘い妄想であったことが分かる。人間は幻想を追う生き物だ。

 しかし多くの人間は希望が極めて、気紛
(きまぐ)れで、嘘(うそ)付きであるという事を知らないのだ。
 希望を見ようとして、パンドラの函を開いたため、逆に多くの不幸が飛びだしたことを知らない。追いかけたものは幸福ではなく、幸福の名を借りた不幸だった。
 急いで蓋
(ふた)をしたため希望だけが残ったという、この物語の真意は、余りにも切ないものだ。このことを、果たしてどれだけの人が知っているだろうか。果たして、その後のパンドラの函の中には、希望が充満していたとでも云うのか。

 一般庶民はこうした訳の分からぬ、妄想に似た「世迷い言(よまよ‐い‐ごと)」に誑(たぶら)かされている。
 美しい、いい女を金持ちに独占され、遠くから遠望し、ただ涎(よだれ)を垂らすと云った、現実に甘んじるしかないのである。貧乏人に、いい女は殆ど廻ってこない。廻ってきても、その“おこぼれ”を、貧乏人同士が奪い合いをする。しかし、貧乏人がいい女を抱ける確率は極めて低い。皆無に近いだろう。
 そして祇園は、一般庶民から見た、庶民を寄せ付けない鬼門(きもん)であり、冷静な常識人から見た魔界都市である。普通、そんな魔界に貧乏人は足を踏み入れない。分相応の分別で、誰もが自制する。
 この魔界都市は、今では全国津々浦々(つつ‐うらうら)にまで、広範囲に分散してしまったが……。

 こうした魔界は、今では日本中に転がっている。
 カモが寄って来るのを虎視眈々
(こし‐たんたん)と狙っている。間抜けな貧乏人は、自分をカモにするだけでなく、御丁寧にネギまで背負う。いい恰好しいを気取る。
 これはパンドラの函から飛び出した偶像の為
(な)せる技だった。人々は偶像を追い掛け、それを明日の希望にする。しかしそれは希望などでなく、偶像なのである。希望という名の偶像を、誰もが夢見ているのだ。そうした意味で、私も例外ではなかった。
 私は単純だった。無防備だった。実に単純な人間だった。
 世の中の物事を額面通りに受け取っていたからだ。しかし世の中には、額面通りの人生など、どこにも転がっていない。いつも値札に書かれた額と、中身との値段のギャップが大き過ぎるのである。
 これまでを追憶すれば、そういう屈辱が、私の心の蟠
(わだかま)りとして巣食っていた。

 「取り返してやろうか、健太郎ちゃん」
 かつて文香さんは、こんなことを言ったことがある。嬉野芸者の意地だろうか。
 「また噛ませ犬、遣らせてしまいましたね」
 「わたしの先祖は佐賀藩士ではなかったけれど、名字帯刀を赦された郷士だったわ。この辺りの農村に住んだ郷土を防衛する地侍
(じ‐ざむらい)だった。土地の地侍は佐賀藩士でなかったけれど、主家龍造寺氏以来の肥前武士。鍋島家の『葉隠』の精神は失っていない。わたしの血の中にも、その精神が流れ、末裔にもその気骨をもっている。取られた分は、わたしが取り返してやるわ」
 文香さんは、こういう勇ましいことを言ってくれたことを憶えている。

 遠い日の追憶を巡らしたとこで、さて、風呂に出も行ってくるか……。午前零時を回っていたが、やっと今日一日が過ぎたという感じだった。務めを果たした、われはフクロウだった。


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